月: 2022年12月

『わたしは反対!』表紙

わたしは反対〜社会をかえたアメリカ最高裁判事RBG(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)

アメリカの絵本。かなり強いタイトルですが、長いものに巻かれたり、上の方々の言いなりになるのではなく、考えが違う場合は、はっきりそう言いましょう、という思いでつけています。

幼いころ、「犬とユダヤ人はおことわり」という立て札を見て、そのときの嫌な気持ちを忘れずにいました。そして、時代遅れの考え方や、不公平や、不平等や、弱者が虐げられたのを見ると、反対したり、意義を唱えたりしました。それは、最高裁の判事になっても変わりませんでした。

「ルース・ベイダー・ギンズバーグをもっと知るために」という後書きには、その生涯がもう少し詳しく書かれています。また編集の方で用意してくださった「RGBの生きた時代とアメリカの女性に関する主なできごと」という年表もついています。

原書には書き文字がついていて、それが日本語でうまく表現できるかどうか心配だったのですが、デザインの方がうまく処理してくださいました。

(編集:二宮直子さん デザイン:藤本孝明さん、藤本有香さん)

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デミ作『マリー・キュリー』表紙

マリー・キュリー

アメリカの絵本。二度もノーベル賞を受賞した女性科学者の伝記です。ポーランドのワルシャワに生まれ、フランスのソルボンヌ大学に学び、フランス人科学者のピエールと結婚し、二人の娘を育てながら研究に邁進したマリーですが、最近のアメリカの伝記絵本は、人間を偉人というよりひとりの人間として描こうとしているように思います。夫のピエールは放射性物質への被曝のせいで体が弱っていたせいもあり、通りを渡ろうとして馬車にひかれて亡くなります。マリーも、被曝障害で亡くなります。

「ラジウムから出る放射線は、病気の治療に役立つこともあれば、人を殺すこともあるのです。科学者たちは放射性物質をつかうときは体を保護するようになりました。しかし、長年のあいだ被曝しつづけていたマリーは、すでに健康をそこなっていました」と本書は述べています。また時計の文字盤などにラジウム入りの夜光塗料を塗る仕事をして健康をそこねた「ラジウム・ガールズ」についても言及しています。

こういうのを訳すときは、一応テキストを訳してしまってから、一般書の伝記を何冊か読みます。そして疑問のある部分を書き出して、さらに調べるようにしています。異論がいくつかあるときは、原書の文章を活かしますが、原書が大きく間違っていることもあるので、要注意です。

彼女についての最近の伝記は「マリ・キュリー」と書いてあるのが多いかもしれません。フランス風の現地音主義をとればマリになります。でも、現地音主義にこだわると、「マリ・キュリ」になります。それはちょっとおかしいかも、と編集の方と相談して、このようなタイトルになりました。

(編集:鈴木真紀さん 装丁:森枝雄司さん)

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2022年07月 テーマ:アウトローと友だちになる

日付 2022年7月19日
参加者 ネズミ、ルパン、花散里、アカシア、エーデルワイス、コアラ、アンヌ、しじみ71個分、まめじか、西山、さららん、ミズタマリ
テーマ アウトローと友だちになる

読んだ本:

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『サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと』表紙

サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと

ルパン:全般的にはおもしろかったのですが、シャロンの描かれ方がどうも…リブは、ほかのだれからも仕事をもらえないのに、シャロンだけが雇ってくれるんですよね。信頼もされていた。なのに、シャロンがずいぶん悪者みたいに描かれているのが違和感ありました。それから、この夫婦が離婚してしまうほど決定的な事件が、ジョージの怪我だったというのも「え?」という感じです。この父親と母親、責任のなすりあいして離婚してしまうわけですよね。ジョージはそのことでいっそう傷ついているのではないでしょうか。

ミズタマリ:正直、前半は間延びしているように思いましたが、読後感はとてもよかったです。犬との友情をはじめ、いろんな形の友情、人間関係が描かれています。ギズモ、つまり犬の一人称だと思っていた章が、最後まで読むと、ジョージとリブが書いたお話を分散して載せていたということがわかります。その仕掛けがとてもおもしろかったし、犬の一人称としては人間に寄り過ぎではないかという疑問も解決しました。気になるところはいくつかありました。まず、犬の腎機能の衰えなのですが、こんな急激に悪化するでしょうか。あと、p.123で、ローザは犬の毛のアレルギーなのだと言います。でも、正確には犬アレルギーは、皮脂などに含まれるたんぱく質由来のはずです。なので、ローザがいい加減なことを言う大人なのだというイメージが焼き付き、後半で誠実な人柄とわかって驚きました。また、p.133で、リブが「約束通り、来てくれたか」と言うシーンがあるのですが、これが男っぽくて、リブは女子だと思っていたけれど本当は男子だっけ、と遡って確認してしまいました。あともう1つ、p.331にギズモが語ることとして「ある種類の肉を買い忘れてしまった」とあるのですが、ある種類、という言葉が不自然に思えました。

西山:最初私はなかなかのっていけなかったんですが、p.81でシャロンがギズモにキスされて声をあげて笑う場面で、ああ、この人は本当に犬が好きな人なのだと好感をもって、やっと作品に入れた気がしたのです。ところがどうもそうじゃなかったということが早々に分かって、好きになれるポイントがなくて戸惑ったままでした。いじめっ子側にべったりになってしまったマットにしてもシャロンにしても、日本の創作だったらこれほど切り捨てなかったのではないか、もっとこまやかに彼らのことも嫌いになれない背景がちらりと書き込まれていたのではないかと思うと、そもそも読み方を変えなきゃいけなかったのかなと、テイストの違いを感じます。安楽死の提案には驚いて、不当な感じがしました。後半がばたばた。そこまでの長さと、後半のエンタメ的なドタバタの連続が不釣り合いに感じて、もっと薄くて、勢い良く展開する本でもよかったのに、と思ってしまいました。1つ質問です。リブの人種って、言葉上では書かれていませんが、表紙の絵で有色人種とわかります。あとp.155に肌の黒いリブが登場しますし、あえて言う必要はないとは思うんですけど、どうしてこういうことになっているのでしょう。

ルパン:p.232ページの挿絵、リブですよね? ここだけリブの肌が白いんですが。

アカシア:そこは私も違和感がありました。そこだけ白い肌で、あとはそうじゃないんですよね。

アンヌ:私は、ギズモの話す章をジョージが書いているとしばらく気づかず、漱石の『吾輩は猫である』の犬版だなあと思いながら読んでいました。リブがシャロンをだましたりけなしたりする場面でも、シャロンは実はリブの母親だから平気なんだろうと思ってしまいました。シャロンは解雇するとき恩着せがましいことを言っているけれど、きっと、リブはかなり劣悪な条件で働かされていたんだろうと思います。ジョージのパニック発作の原因が両親のけんかというのはもう一つすっきりしない説明だと思いつつ、とにかく、老犬の割には大活躍のギズモが楽しくて、ジョージの腕の中で眠る最後でほっとしました。私は『ヘリオット先生奮戦記』(ジェイムズ・ヘリオット著 大橋義之訳 早川文庫)が大好きで、あのシリーズでは、獣医である主人公が動物に苦痛を与えないための決断だとして安楽死を行う場面がいくつかあるのですが、今回はあまり必然性がないようで、それを迫る親たちの態度に疑問を感じました。ジョージはきちんと別れの儀式を組んでいるのですものね。

花散里:いじめられっこのジョージと愛犬ギズモの物語はおもしろさが伝わり、子どもたちもとても読みやすいのではないかと思いました。作者はイギリスの学校をまわって文芸創作のワークショップをしているので、子どもたちを見て作品づくりに生かしているのが伝わってくるようでした。後半に向かって、どんどん読ませる構成がとても上手だなと思いました。犬との触れ合いがよく書かれていて、表紙画とともに子どもたちが手に取りやすいのではないかと感じました。この作者の新しい作品、『ぼくたちのスープ運動』(渋谷弘子訳 評論社)も読んでほしいと思います。

まめじか:タイトルは「ギズモにさせてあげたい」となっていますが、丘に登るとか、有名になるとかは、主人公がしたいことですよね。飼い主目線というか、飼い主の思い出づくりのように感じてしまって……。p.59に、「このころから、ジョージは文字を書くのがあまり得意じゃなかった」とあるのですが、ジョージはディスレクシアなのでしょうか? お話はずっと書いているようなのですが。

花散里:パニック障害はあるんですよね。そういうところとつながっているのかな。

アカシア:ディスレクシアではないんじゃない? スペリングが苦手なのかも。

まめじか:p.98で、マットに対して「きみ」という二人称を使っていたり、「こっけい」(p.248)という言葉で表現していたり、13歳らしからぬ言葉づかいなのは、この子が周囲から浮いてるから?

エーデルワイス:日本語の書名は原題とは違うので、翻訳はおもしろいですね。「死ぬまでにしたい10のこと」という映画 がありましが、それもどきでしょうか? 読んでいて想像する部分が多かったです。両親の離婚は、ジョージの事故がきっかけに過ぎず、前々より隙間風が吹いていたのかもしれないし、親友だったマットがこれでもかこれでもかといじめる理由が全くわかりませんでした。ジョージの何か言った一言が気に障ったのかな? それどもジョージが幼すぎたのでしょうか。p.339の12行目「この一瞬を生きるんだよ」はいいですね。雑種犬コンテストの賞金が400ポンド。1ポンドを164.35円に換算すると65,740円になります。確かにジョージにとって大金ですね。

ネズミ:非常にうまい構成の物語でさっと読めましたが、物足りなかったです。ゴールデンビーチに行くことで、めでたしめでたしのように見えるけれども、両親の離婚でパニック障害気味でひとりぼっちというジョージのかかえている問題も、ヤングケアラーとしてのリブの問題も、それで本質的に解決したわけではない気がして、後半は特に都合のよい展開が多く感じられました。エンタメと思いましたが、それにしては言葉が多く、よく読める読者じゃないと読みとおせそうにありませんし。でも、p.230の高い丘から町を見下ろすシーンは好きでした。視野を広げるのって大切だなと。ただ、気にかかったところがところどころにあって、たとえばp.48の「中華料理を注文した」。少し言葉を足さないと、バーベキューができなかったから出前を頼んだと、読者にわからないかもしれません。また、p.190の5行目など数箇所で「いつぶりだろう」は違和感がありました(参加者から「若者言葉だ」という発言あり)。あと、どうかなと思ったのは、ギズモの一人称の部分の文体。人間の年でいえば78歳の老犬なので、私はもっとおじいさんぽい口調になるかなと思ったのですが、書いているのは主にジョージなのでこれでいいのでしょうか。みなさんがどう思ったか、お聞きしたかったです。

アカシア:読む前にネットで梗概をを見たら、ドタバタって書いてあったで、ああ、ドタバタの話なんだなと思って読み始めました。ジャックは、中学生なのに昔のヒーローの衣装を着て犬にも着せて友達のパーティに行ったりするところを読むと、もしかすると発達がゆっくりなのかもしれません。そのジャックが、空気が読めなくて仲間はずれにされたり笑われたりするシリアスな場面と、老犬ギズモがやらかすドタバタな部分の落差はかなりあります。そこをどう評価するかは、人によって違うかと思うのですが、私は子どもの本として絶妙なミックス具合だと思いました。愛犬が高齢で体力もなくなったときに、死ぬまでに何をやりたいかを考えてリストを作り、一つ一つ実現していくというのも、いいですね。ギズモに何かをやらせてあげるというよりは、ギズモと自分で思い出をちゃんと作ろうということなんだと私は理解しました。医者も家族も安楽死を勧めたのに、それを拒否してもっとすばらしい最期を迎えさせてやれたところも好きでした。タイトルですけど、「9のこと」はすわりが悪いので「9つのこと」くらいでいいような。あと、ギズモがコンテストで優勝するとか、悪党を退治するなんていう部分は、ちょっとできすぎかもしれません。

しじみ71個分:前の選書当番のときに、なんとなくエンタメっぽいかと思ってやめた本でしたが、改めてちゃんと読んでみると案外おもしろかったです。犬の看取りの物語なのかと思えば、そこにちゃんと主人公の成長も重ねてあってよかったです。ジョージがみなさんのおっしゃるように、ちょっと発達に遅れのある子なのかなと思うほど、ちょっと幼くて、友だちのマットの心変わりに気付かず、いじめの対象になってしまいますが、ギズモと思い出作りをしながら過ごす中で、もう自分を大事にしない人は友だちでないと思えるようになり、たくましくなっていくのが心に残りました。リブもヤングケアラーで、貧困のせいでいじめられたりもしますが、ギズモの活躍のおかげで行政の支援が受けられるようになってホッとしました。物語の中では、子どもが大怪我をしたからといって離婚にまでなってしまうかなと思ったし、リブがギズモとコンテストに出ると言った時点で、本番にはリブは来ないなと読めてしまうのでありがちかなとも思いましたし、ギズモが強盗の急所にかみついて御用になるとかは、ちょっとご都合主義だなと思いましたが、最後にゴールデンビーチで夕陽を見ながら家族が和解する中ギズモが旅立つというシーンは、ちょっとぐっと来ました。痛快だったのは、ジョージとギズモが仮装してパーティーにいってみんなに笑われて帰るところ。マットの靴の中にギズモが糞をしてしまうのは最高に痛快でしたね。あと、タイトルが「ギズモにさせたい」というより、「ギズモとしたい」の方がしっくりきたんじゃないかなと後から思いました。

さららん:前半では、何度いじわるされてもまったくめげずに、かつては親友だったマットと仲直りできると信じて突き進むジョージに、どうしても共感できませんでした。現実に起きていることと、ジョージの認識の間に差がありすぎて……。「おいおい」と、つっこみを入れながら読んでいたのですが、ジョージには何か障害があって、人の感情を読み取るのが苦手な子なんだと思いなおすと、違う視野が開けてきますね。ともあれp.131で、ジョージがマットと決別する決心をしてくれて、ホッとしました。両親の離婚は自分のせいだと抱え込んでいる部分もあるジョージですが、一方で、なんとかなるさと前向きに行動するところが大きな長所です。リブに助けながら、ギズモが「死ぬまでにやっておきたいリスト」の項目を1つずつ実現させていく。そしてジョージはリブとの友情を深めるなかで、それまで知らなかったいろんなことに気づきはじめる。最後にギズモは死んでしまうけれど、全体として悲しくてたまらない物語にはなっていないところがいいな、と思いました。物語の終盤で、ギズモが泥棒に果敢に食らいついてやっつけるエピソードでは、瀕死のギズモにそんな体力が?と、つっこみを入れたくなりましたが、ともあれ死を迎える愛犬との暮らしをコミカルに明るく描いた、ユニークな物語です。細かい部分をあまり気にせずに読んでいければ、読者の子どもたちも「ギズモと知り合えたぼくは、よりよい人生を勇敢に送っていかなきゃ」(p.359)というジョージの言葉を素直に受け止められるでしょう。

アカシア:シャロンのキャラクター設定が揺れてるんじゃないか、という声がありましたが、最初は笑ってますけど、あとは「うすら笑い」となっているので、一応ちゃんと書いているかな、と思いました。今回のテーマは「アウトローと友だちになる」ですが、この作品でも『スネークダンス』でも、両方ともアウトローは女の子です。どちらも社会に反発を感じて、家族という点では大変なものを抱えていますが、この女の子のアウトローたちが男の子たちを成長させていき、それによって自分たちも少しずつ変わっていくという設定がおもしろいなと思いました。

まめじか:ジョージは「ウルトラボーイとワンダードッグ」のお話をずっと書いていて、そのことはギズモの章にも出てきます。最後にギズモの自伝をリブに見せる場面があるので、つまりそれは、ワンダードッグのお話とは別に、ギズモの自伝も書いていたということですよね?

アカシア:そういえば確かに、そこははっきりしませんね。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『スネークダンス』表紙

スネークダンス

アカシア:とてもおもしろく読みました。イタリアと日本の文化の違いに、人間の生き方を重ねているのがおもしろいですね。同じ建物に住むバスケ仲間には、日本人やイタリア人のほかにインド人、韓国人、スコットランド人などもいて多様なのもいいですね。個人的におもしろいな、と思う表現がいろいろありました。[数をかぞえる単位がヨーロッパは3桁ずつ、日本は4桁ずつ]というところは、そういえばそうだと再認識しましたし、[母語や母国語ではなく母校語がいちばんしっくりくる]とか[日本の男子中高生の一人称は「オレ」]、[大理石の国から、木とたたみの国に来たんだ][イギリスはイタリアより差別が厳しい]、[ローマでは美術館などは無料で入れる]などというところ、著者の視点で私も新たに文化を見直すことができました。著者がふだんイタリアに住んでいる方なので、編集のほうでもう少しアドバイスすればいいのにな、と思うところもありました。たとえばp.11の「もちろんさ。マッテオは日本のアニメ大好きだもんな」は、二人称ではなくマッテオと言っているところが日本的な会話になっていて、さすがと思ったのですが、p.7の「いらないってば。この悪魔め!」は翻訳調ですし、p.120の歩のセリフ「あんがと。あとであたしが取りに来る」は、日本語だと「取りに行く」になるんじゃないかな。それと、p.165の圭人の独白「まっぴらごめん」は、今の子は使わない言葉かもしれません。そうそう、圭人(けいと)という名前ですが、ヨーロッパだとKateが女性名なので男の子にはつけない名前かも。著者はあえてそうなさっているのかもしれませんが。今回のテーマで言うと、アウトローの歩を圭人が惹かれたり否定したりしてとても気がかりな存在になっていく、というのがおもしろいと思いました。

ネズミ:私もとてもおもしろかったです。まず、主人公に寄り添って読んでいけるのがうまいなと思いました。そして、タイトルと表紙を見てダンスの話かと思ったら、そうじゃなくて、ストーリーもどんどん思いがけない展開があって、思ってもみないところに連れていかれます。予想がついてしまう物語も多いなか、自然な形で予想を裏切ってくれて、楽しめました。同じ作者の『アドリブ』(あすなろ書房)は音楽でしたが、この本ではローマの建築や絵の蘊蓄が盛りこまれていて、多分作者が意識的にしているのだと思いますが、10代の読者に新しい世界を受け止めやすい形で差し出しているところも好感を持ちました。

エーデルワイス:表紙のイラストとカバーイラストが違っていてオシャレです。題名の『スネークダンス』とカバー絵で主人公の杏里圭人と山中歩が踊っているので、ダンスの話かと勘違いしました。法隆寺の話になるとは! 圭人が宮大工になろうと意思を固める展開に驚きました。作者が住んでいるイタリアならではの内容で、読みごたえがありました。かつてコロッセオでは公開処刑を行っていたものの、今は死刑を廃止しているイタリア。世界中のどこかで死刑が廃止されると、コロッセオでセレモニーが行われることを本文で初めて知り、感銘を受けました。杏里圭人(あんりけいと)の名前は西洋風ですが、日本に「杏里」という苗字があるのでしょうか? 作者がアンリ・マティスが好きなせい? 終盤、圭人の父親を引き逃げした犯人が逮捕され、圭人の心にやっと平穏をもたらしますが、歩の家庭問題は解決していません。歩を理解してくれるおばあちゃんと古き良き家屋に住んでいますが、愛情を全く感じられない父親、若い義母、母親。続編があるのでしょうか?

まめじか:最初のほうでローマの建築の話が続くのですが、それに十分なページを割いてていねいに描いているから、圭人が建築に興味をもち、やがて宮大工を目指すようになる過程にも説得力がありました。先ほど歩の家庭の問題が解決されないという話がありましたが、こういうふうに親が子どもを養育しようとしないことって、現実の世界にもたくさんありますよね。歩は父親とわかり合えず、圭人は父親をひき逃げ事故で亡くし、ままならない現実にそれぞれ直面している。そこでつぶれてしまうのでなく、人との出会いや、好きなことや夢を、前に進む力に変えていく。レジリエンスというか、逆境の中でもちこたえる力を、五重塔の耐震構造に重ね、スネークダンスという言葉で表現しているのが見事だなあと。日本の景観の問題や、イギリスの差別のことなど、長くイタリアに住んでいる作家の方ならではの視点ですね。視野の広さを感じました。

花散里:ローマの古代建築と東京・下町の建築などの対比の中で物語が展開していくので、とても関心を持って読みました。父親を交通事故で失い、日本に帰らざるをえないときの主人公の心の機微も伝わってきました。日本に帰国してからの歩との出会いも興味深く展開して行き、作品の構成も上手だと思いました。法隆寺や宮大工についてもよく調べられていて、法隆寺の心柱の考え方を「スネークダンス」に繋げているところなどが印象的で読後感がよく、日本の作品のなかでも読み応えがある1冊だと感じました。

コアラ:私もおもしろく読みました。前半にローマのことがたくさん書かれているのがよかったと思います。p.26の後ろから4行目、「数は何語で数える?」以降が特に興味深かったです。圭人が日本に来てからは、歩のしゃべり方に少し違和感がありましたが、アウトローだからこういうしゃべり方もアリかなと思えたら、圭人との会話がおもしろく感じられました。p.131からの「11 心柱ゆらゆらゆらり」の章は特におもしろくて、p.133の最後の歩の発言には、そうそう、とうなずいてしまいました。読んでいて、歩の考え方に染まってしまいそうな勢いがありました。p.216の8行目から10行目については、私も以前、揺れることによって揺れを吸収するという方法を知って衝撃を覚えたので、「背筋がゾゾッとした」というのはよくわかると思いました。この本を読んで初めてこういうことを知った子がいるとしたら、やっぱり驚きがあるのではないかと思います。最後もうまくまとめられていて、子どもにおすすめの本だと思いました。

ミズタマリ:冒頭にタバコを吸うシーンがあって、攻めている児童書だなと、いい意味で驚きました。イタリアの文化、日本との違いを知ることができ、異文化に触れられる作品です。イタリア以外に、イギリスや周辺国のことにも言及していて、興味深く読みました。ただ、説明的に感じられる部分もありました。建造物についての説明が続く場面では、興味を持てない子もいるのではないか、そういう子はページをめくる手が鈍らないか、と、ちょっと気になりました。2人の友情は魅力的だし、最終的に、主人公が希望を見つけて終わるので、読後感はとてもいいです。1箇所だけ気になったところがありました。p.93で、「外見の似た女の子同士がうなずきあう」という場面。主人公が「この二人の名前を覚えるのに苦労しそうだ。」となっています。でも、主人公は写真のような詳細なスケッチを得意にしているのですよね。一般の人が、似ている女子同士、区別がつかないと思っても、主人公はぱっと違いに気づく、というようなキャラクター設定に思えたので、ここは若干矛盾を感じました。

ルパン:いい本だとは思いますが、おもしろかったかどうかというと、ちょっと…。最初の部分に説明が多くて、おもしろくなるまでに時間がかかってしまいました。子どもの読者は最後まで読み通せるでしょうか。すてきだと思った言葉は、p.217の「名をのこさず匠をのこす」です。あと、歩が親元を離れているのに、制服を着なかったり悪いことをしたりして、遠くから親の気をひこうとしているところが何とも切ないと思いました。

アンヌ:前半がずっと美術館やイタリアの遺跡の話で長いけれど、私は言葉だけでここまで景色を表現できるのか、住んでいる人の視点からの案内は違うなとおもしろく読みました。イタリアで温かい人間関係を築いていて、イギリス社会の構造とかを友人を通して知っている圭人が、なぜ日本ではこんなに消極的な姿勢で目立つまいとしているのかは少し不思議でした。先ほど、まめじかさんおっしゃっていたように、この作品は今までの作品よりさらに人物の奥行きが深くなっていて、その点も素晴らしいと思います。例えば、死んだ父親像を生きていた時の思い出だけではなく、本当は絵を描きたかったのじゃないかと考えさせて、もう一つ掘り下げて描いているところとか、歩のおばあちゃんがケイトの嘘を見抜いていた場面で、あれ?と思っていたら、あとからこの人は実は塾の先生で、ただ者じゃない人だったとかわかるところとか、ですね。また、建物の構造も、授業で見学に行ったと聞いた形でうまく説明されていると思いました。それにしても、法隆寺の構造とスネークダンスがつながるとは意外でした。歩のペイントが、いたずら書きからシャッターペイントに変わり、町の人とつながりが出てくるところ、それによって圭人も変わっていって最後に大声で叫ぶところなど、読後感もよかったです。

アカシア:今、圭人がなぜそこまでびくびくして構えているのか、という疑問が出たのですが、日本の同調圧力はすごいし、日本人学校などでも「目立つとたたかれる」なんていうことを聞いてたからじゃないかな、と私は思いました。父親がいないし、帰国子女だしなど、マジョリティと違う部分を圭人は持っているので、たたかれることを警戒したんじゃないかな。それから、なんだかこの作品を弁護しているようですが、ミズタマリさんがおっしゃったp.93の2人の女の子違いがなんだかはっきりしない、という場面ですが、私は人物より建物に興味をひかれている圭人ならありかと思ったし、イタリアだと髪や目の色も、着てる服も、肌の色もみんなそれぞれ違うでしょうから、日本人が同じような外見で同じような意見を言うのを前にして圭人がそう思うのも当然のように思いました。

ミズタマリ:私もそれはそう思うんですけど、キャラクター設定としてどうかな、と思ったんです。

アカシア:歩が、好きなことは徹底的に追求するところとか、アウトローぶりを発揮するところがとてもおもしろかったです。圭人も最初は嫌がっていますが、影響を受けていきますよね。それに、たぶん歩は圭人が好きなんじゃないかと思いますが、圭人がそれに気づいてないところも、おもしろいな、と思いました。

ネズミ:親じゃなくても、わかってくれる人がいることを書いているのかなと思いました。おばあちゃんは後になって、面倒見のいい塾の先生だったことがわかって、わが子はエリート弁護士になったとしても、孫の成長を見守っている大人だというのが想像されますよね。

ネズミ:谷根千では古い建物を生かしながらやっていこうとしている建築家の人たちがいます。佐藤さんともその人たちとつながりがあるのかもしれないと思いました。

アカシア:建物も、観光地として売り出すところまでいかないと、どんどん壊されていきますね。もったいないです。古い建物をリフォームして住んでいる人が、耐震はどうなのかときいたら、昔の建物のほうがしっかりしているんじゃないか、と言っていました。

花散里:奈良の宮大工棟梁の西岡常一さんの本など読むと、日本の建築の良さがよくわかりますね。

さららん(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルなので、ダンスのお話かと思って読み始めたら、作品のモチーフは建築。しかも大地が揺れると心柱も動くという、法隆寺の心柱の仕組みから来ていることがわかりました。その意外性がおもしろく、またローマと東京の町の景色の違い、文化の保存に対する意識の違いやなど、蘊蓄もふくめて興味深く読めました。圭人は、日本の中学校では周囲と同化するために、一人称を「ぼく」から「おれ」に変えなくてはと考えます。イタリア語だけを使って生きていれば、存在しない気苦労ですよね。そんなふうに、イタリアから帰国したばかりの主人公のナマの感覚、違う視点を、読者が自然に共有できる作品だと思いました。日本への帰国後、できるだけ目立たないようにする圭人と、父親に反発してグラフィティを続ける歩は対照的な存在です。けれど、古い町並みへの愛情では共通していて、ふたりが友情をはぐくむ過程は王道の児童文学という感じ。歩の父親とその恋人の描き方は漫画的ですが、この作品のエンタテイメント性というか、軽快さを保証するためには、そのぐらいでちょうどよかったのかもしれません。最後に帯のことを少し。「芸術の都ローマで生まれ育ったアンリは」とありますが、主人公の名前は圭人(けいと)だったはず。確認したところ、p.88にフルネームの「杏里圭人」が初めて出てきました。「アンリ」は間違いではないけれど、読者にとってはやはり「ケイト」か「圭人」でしょう。

しじみ71個分(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルから、どういうところに話が落ちつくのか期待を持ちながら読み進めました。はじめはイタリアの観光案内みたいだなと思ったところもありましたが、日本とイタリアの間で主人公のアイデンティティの揺らぎを描くには必要だったんだろうなと後から思いました。最後まで読んでいって、やっと主人公の揺らぎを法隆寺の心柱の揺らぎに重ねて、揺らぎながらしっかりと立つという、柔軟な強さにつなげたんだなと腹落ちしました。主人公が将来の夢を見つけて希望を感じさせて終わり、読後感もさわやかです。圭人の将来を決めさせてしまう、宮大工さんがかっこいいですね。「わたしたちは名を残さず、匠を残す」(p.217)の言葉は胸に沁みました。p.218の「和」の解釈で、「つかず離れずの間合いの『離』を保つことが『和』の前提」というところなどは本当にそのとおりと思いました。おもしろかったのですが、ただ、歩の家族の問題は解消されないで途中で消えてしまったのがちょっと残念だったのと、圭人と歩の怒りはどこで消えてしまったのかという、なんとなく不完全燃焼感はありました。若者が怒りをもって立ちあがるということを伝えるのはとても大事だと思って読みましたが、それをどうやって自分たちで解消したり、解決したり、折り合いをつけていくのかという示唆がないままだったのが気になったのと、「抵抗と抗議のちがい」について掘り下げがもうちょっとあってもよかったのかなと思ったりもしました。

アカシア:この作品は13歳の少年の一人称なので、抵抗と抗議はどう違うかは書けないでしょうね。

しじみ71個分:なるほど。語り手の人称の視点は、読んだときには欠けていました。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年06月 テーマ:謎の研究

日付 2022年06月21日
参加者 ネズミ、ハル、シア、ルパン、花散里、すあま、アカシア、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、しじみ71個分、オカピ、西山、さららん、サークルK、マリナーズ、雪割草
テーマ 謎の研究

読んだ本:

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『博物館の少女』表紙

博物館の少女〜怪異研究事始め

すあま:とてもおもしろく読みました。古道具屋の娘のままでもよさそうだけど、博物館で働く、というところがユニークでした。実在の人と建物が出てくるところもよいと思います。シリーズ前提の1作目ということなのか、まだ明らかになっていないことがいろいろあります。タイトルはちょっと古くて、魅力のない感じがしましたが、あえて少女小説のタイトルに寄せたのでしょうか。サブタイトルと合わせれば興味をひかれるということなのかもしれません。主人公は13歳ですが、すでにかなりの知識をもっていて、ちゃんと目利きができる。古道具屋で仕事をおぼえるところも読みたかったです。付録があって、地図が載っているので、読む時の助けになると思いましたが、とじ込みではないので図書館の本だとなくなってしまうかもしれません。

しじみ71個分:最初にこの本を知ったのは新聞広告で、富安さんの10年越しの作品ということでとても興味を持ち、出てすぐに買いました。最初から最後まで、流れるようななめらかな文章で、ワクワクしたまま最後まで読み切りました。これは子ども向けの本なのかしら、と思うほどに枠を感じさせないおもしろさでした。個人的には、上野界隈で数年過ごした経験があるので、東京国立博物館の裏手の木々の鬱蒼とした感じなど、とてもリアルに感じることができ、怪異研究所はあの広い敷地のあの辺りなのかな?など想像も膨らみ、本当に、とてもおもしろく読みました。明治の上野界隈のノスタルジックで、少し怪しげな雰囲気は、『夢見る帝国図書館』(中島京子著、文藝春秋)にも共通するところがありますね。明治になって世の中が変わって、大阪から東京に出てきて、すべてにわくわくする感じがすごくよく伝わってきました。主人公の少女イカルがまた大変に魅力的で、大人を負かすほどの文物に関する知識や、鑑定のできる感性を持っていて、とてもお茶目な女の子で、主人公と一緒になって物語の中で冒険できました。どういう怪異がこのあとのシリーズで起こってくるのかがとても楽しみです。今回の物語も、黒手匣の紛失から隠れキリシタンと不老不死の島にまでぶっ飛んでしまうというのも、展開やスケールがとても大きくて、驚くやら楽しいやらで、物語のおもしろさを存分に堪能しました。この先は、まだ登場してきていない町田さんがどう物語の軸に関わって動いていくのかが楽しみでなりません。怪異研究でも、文物の鑑定でも、イカルちゃんがこれからどんな出来事に出会って、苦難を乗り越えて、どう成長していくのかが楽しみです!

コアラ:おもしろかったです。明治時代がよく作り込まれていて、今では使われなくなったものや事柄や言い回しも使われていて、その時代の物語として堪能できました。1回読んだだけですが、細かいところまで読み込んでいくと、もっとおもしろいかなと思いました。子どもには馴染みのない言葉も出てくるので、本をたくさん読んできた子どもで、子ども向けの本に飽き足らなくなったくらいの子にちょうどいいかなと感じました。

西山:すっごくおもしろかったです。この作品には大きな謎があるけれど、その興味にただひっぱられてページを繰るのではなくて、読んでいる間ずっと楽しかった。途中の景色、風物、主人公の発言や感性、ぜんぶおもしろかった。たとえばキリンの場面。初めて見るイカルの目を通したキリンの姿、それへの驚き、それだけでもおもしろいのですが、「イカルの知らない、どこか遠い国の草原で、この麒麟という動物たちが走ったり、歩いたり、草を食べたりしているのかと思うと、それだけで愉快になった」(p.34)と続くところで、なんてひろびろとした愉快な感性だろうとイカルのことがすっかり好きになりました。あと、女の子が働くことへのエールになっているところもうれしかったです。アキラが「男だからとか、女のくせにとか、つまらないことにこだわらず、どうすれば仕事がはかどるか考える頭」を持っている(p.96)というのもうれしかったし、「生まれて初めて、自分自身でかせいだ一円二十三銭だ。自分自身で働いて給金をもらったのだ。そう思うだけで胸がわくわくした」(p.340)というところから、これから広がる人生へのときめきで閉じるラストもよかったです。

ルパン:ごめんなさい、前評判もすごかったし、富安陽子さんだし、ということで期待しすぎたせいか、私は正直そこまでおもしろいという感じではなかったです。好みの問題だと思いますが。歴史的な背景と怪異現象とが中途半端にまざっている感じで、うまく波に乗れないまま終わっちゃいました。

マリナーズ: 非常にさわやかで、魅力的な本でした。大変な境遇にある女の子が、いきいきと前に向かって進んでいく、元気の出る作品です。特に前半3分の1は、新しい場所で冒険が始まり、いろいろな人たちとの出会いが続きます。楽しく読ませよう、という読者サービスが徹底していることに感嘆しました。もっとも、黒手匣が登場してからは、長く感じるところもありました。話の展開上、同じ場所に2度忍び込まなくてはいけないのはわかるのですが、何かを見つけるとすぐ足音が聞こえてくる、など、似たパターンの描写が多くて、若干ダレました。あと、文章で間取りを説明するのは難しいのだな、と感じます。どこかへ必死に逃げているのですが、建物全体の作りが把握できていないので、緊迫感を感じられないところもありました。読み終わってから別添の資料に気がつき、意外とシンプルな間取りだったのだなと思いました。最後まで来るとカタルシスがあるので、そのあたりの冗長な部分も必要なものだったのだ、と納得できます。おみつの存在が非常に印象深かったです。あと、細かいところですが、p.171の上野動物園の「ケンゴロウ」ってなんだろうと一瞬考えて、カンガルーか! と気づいたときは笑いました。

サークルK:とても楽しく読み進みました。登場人物がいきいきしているし、私も上野の博物館界隈はとっても好きなので。黒手匣の謎解きが、最後に凝縮されているので読む速度のピッチが上がりました。表紙の雰囲気も裏表紙とつながっていて、実は重要な登場人物もさりげなく書き込まれているところが、読後に「そうだったのか」と思わせてくれる粋な図らいに感じました。朝ドラのヒロインのように、主人公が周りの人の温かさに応援されて自分の境遇に負けずに成長していくというところが爽快でした。続編が待ち遠しいです!

花散里:私も『夢見る帝国図書館』を思い出させるようなおもしろさを感じました。上野の国立博物館から寛永寺辺りは好きな場所ですが、図書館で借りた本には付録の地図はなかったので、子どもたちには歴史的な設定など物語の雰囲気が想像しにくいのではないかと思いました。13歳で目利きの才があるというのも無理があるように感じました。アキラの存在などはもっと伏線があってもおもしろかったのではないかと思いました。物語の結末が分かってからの最後の章はなくても良いように思いましたが、富安さんの作品の中では個人的にはいちばん好きな作品だと感じました。

さららん:生まれ育った場所と作品舞台が近いせいで、タイトルを聞いたときから、この本を身近に感じていました。両親を失ったものの、よき人たちに囲まれ、父親から叩き込まれた審美眼で自分の力で人生を切り拓いていく主人公のイカル。トノサマ、アキラなど脇役の描写も巧みで、怪異研究所という設定や、事実を積み重ねながら黒手匣の謎を解明していく展開にもそそられます。親友となる川鍋暁斎の娘トヨも頼もしい存在で、続編では暁斎も活躍するのかなと、期待がふくらみます。実在の人物名(例えば博物館の初代館長の町田さんや、二代目館長田中さん)を物語に取り込んだうえで、架空の人物を存分に活躍させる構成はよくありますが、その人間関係やセリフに厚みがあり、引きこまれました。見事な日本語で紡がれた物語で、優れた書き手から十分なおもてなしを受けたという感じがします。

アカシア:黒手匣、明の正体、ロッシュやおみつの存在など、謎がたくさん用意してあって、それで引っ張るし、時代考証もちゃんとしてあるので、フィクションは苦手という子でもどんどん読めるんじゃないかと思いました。イカルは、西山さんもおっしゃっていたように、この時代にあっても積極的で勇気ある存在に描かれているのがいいですね。舞台が明治期の博物館というのも、「怪異」を研究する場所だというのも、おもしろい! ただp.247-248で、アキラが床の下で会話を聞いているだけなのに、「黒手匣があるとしたら、聖堂以外は考えられない」というのは、ちょっと無理があるかもしれません。1つ1一つの文章を味わいながら、極上の読書体験ができました。

アンヌ:とてもおもしろくて、続きが待ちきれないほどです。始まりの座敷の怪異現象のところなどは、よくある話なので少しがっかりしたのですが、そこに超能力者らしい前館長が絡んできて、おまじないをし、手を開かない工夫を母がしてくれたという記憶をたどるところが、新鮮でとても素敵でした。わたしも、しじみ71個分さんがおっしゃったように、前館長に早く会いたいです。黒手匣の怪異話もあまり意外性がなく、この事件に絡む神父は、1人にしておいた方がすっきり読める気もしました。でも、それよりなにより、この主人公が魅力的でした。道具屋の女も認めるほどの目利きで、独りで知らない江戸も歩く勇気がある。私の持論に「孤児はお屋敷の扉をたたく」というものがありまして、たった1人で知らない場所に行くから物語は始まると思うんです。そのお屋敷が博物館!これは最高の物語になるぞと思いました。イカルは沈黙を強いられる養家から古蔵に行き、様々なものの知識をペラペラしゃべりだします。このお喋りな女の子には見覚えがあるぞと思い出したのがモンゴメリの『赤毛のアン』でした。先ほど、すあまさんが「少女小説」のような題名と言われたのにも納得がいきます。そして、p.333で唐突に義姉妹の約束を交わすトヨはダイアナではないでしょうか?ダイアナのようにトヨもちょっと体の大きいふっくらした女の子でした。実は私はのちに河鍋暁翠になるこのトヨに興味があります。『がいなもん 松浦武四郎一代』(河治和香著、小学館)では松浦から話を聞かされる狂言回し役として登場しますし、去年の直木賞の『星落ちて、なお』(澤田瞳子著、文芸春秋)の主人公でもあります。この時代の女の子にしては父親の弟子として様々なところに出入りをし、自分1人でも仕事に出かけるトヨは、明治の東京をイカルに案内するのに最適な役なのだろうと思います。続編には、暁斎も出てくるのだろうかとか、稀代の収集家である松浦はどうだろうかとか、ワクワクしながらこの2人の活躍を楽しみにしています。

ネズミ:刊行されたすぐに手にとったのですが、まず登場人物が魅力的でした。たとえばイカルの人物像が、博物館に初めて入ったときの驚き、古道具屋に入ったシーンなどで、説明的な言葉を使わないでくっきり浮かびあがるといったふうに、随所の描き方がすばらしい。大人の存在感が希薄なことの多い日本の児童文学作品の中にあって、まわりを固めている大人の人物が立体的に描かれているのもすごいなあと思いました。フェミニズムとは書いていないけれど、物語全体が女の子を応援するものであり、男女や年齢、職業その他で人を差別しない意識が感じられます。富安さんは現代のお話も書いていますけれど、この物語は少し昔の時代に舞台を置くことで、登場人物を自由に遊ばせられたのかなと思います。もちろん時代考証のためにたくさんの資料にあたられたとは思いますが。イカルとアキラとトヨとトノサマなど、一部の名前にカタカナが使ってあるのは、ひらがなでも埋もれてしまうからでしょうか。音だけで響いてくる感じがよかったです。

雪割草:冒頭から物語の世界観に引き込まれました。道具屋だった父親の商いの様子を、主人公がよく見て自分なりの感性で受けとめていることがわかり、道具屋を知らない読者にも、空気感含めその場がよく伝わってくる描写でした。物語の時代への興味がかきたてられましたし、時代は違っても、不安やわくわくする気持ちなど主人公の心の動きに読者もよりそいながら味わうことができました。この年齢にしては能力がありすぎにも思いましたが、マニアックなところはよく、そういう好きなものがある子への応援のメッセージにもなると思いました。付録がついていたのを今の今まで気がつきませんでしたが、地図はいいものの、登場人物まで視覚化しなくてもいいかなと思いました。

オカピ:仕事ものであり、成長譚であり、ミステリーや怪奇小説の要素もあり、ほんとうにおもしろく読みました。作者がこの時代のことを詳細に調べて、自分のものにして書いているのもすごいのですが、なにより文体の美しさに魅了されました。所作をあらわす言葉ひとつとっても、香るような言葉が物語にぴったり。これはYAなので、難しめの言葉を使えたというのもあるかと思いますが。富安さんの渾身の作だと思いました。大阪弁がぽんぽんはいってくるのも、作品の勢いにつながっています。人の生と死について考えさせるラストもよかった。人知を超えた不思議もこの世にあるという、希望のある結末で、これは書き手の力だなあと。ちょっとわからなかったのは表紙の英語タイトル。”A Girl at the Museum” となっているのですが、これはイカルのことなのだから、”The Girl at the Museum ” のほうがしっくりくるように感じました。

アカシア:この時代のどこにでもいる少女、というニュアンスを出したかったのかもしれませんよ。

エーデルワイス:最初の構想では少年「アキラ」が主人公だったと聞いてびっくりしました。主人公が少女「イカル」でよかったと思います。表紙を見たとき一瞬、富安陽子さんは時代劇小説に移ったか?!と思いましたが、明治を舞台に実在の人物も盛り込み、本当におもしろく読みました。附属のリーフレットを見た時はわくわくしました。登場人物のイラストと紹介や上野界隈の地図など、この本を読む子どもたちにもよい導入と思います。続編が楽しみです。

シア:とってもおもしろかったです。人気が高いのもうなずけます。絵や装丁も凝っていて、偕成社さん力を入れているなと感じました。付録のおかげで裏表紙におみつがいることに気づきました。明治時代のレトロな感じがしゃれていて、関西とは違う異国情緒真っ盛りの上野の輝きをイカルの驚きで表現してくれています。イカルの目利き能力や好奇心旺盛な性格も楽しめました。目利き能力については、こういう環境で育っていたらそうなるんじゃないかなと思います。似たような時代物の『はなの街オペラ』(森川成美著、くもん出版)よりも想定年齢は高いので、幅広い年齢層が読めそうです。ただ、読書家にとって満足度の高い本なので、本にあまりなじみのない子で、とくに女の子だと、もしかしたら『紙の心』の方がおもしろいかもしれません。イカルの幼少期の体験などから見知った怪異が出てくるのかと思っていましたが、珍しい方面からの話だったので意外性が高かったですね。そのおかげで大人っぽい余韻の残る良い話になりました。日本書紀は知らなくとも、有名な玉手箱の話で子どもも納得できる展開になっていると思いました。中高生に人気のある漫画にも非時香果が出てくるので、知っている子はより親近感がわくのではないでしょうか。そして、実在している人物や場所が登場するので、そのことについて調べたり、その場所に行ってみたくなると思います。教養を得るきっかけになりますね。とくに上野博物館は社会科見学や地方だと修学旅行などで行くことが多いと思うので、児童文学として出してもらえてとても嬉しく思います。神田天主堂はカトリック教会だからレノーも神父と表記しているところも細かいですね。また、付録がよくできています。図書館側からするとこういう本から離れてしまう付録は面倒ですが、補足や博物館の敷地や地図などわかりやすく書いてあります。視覚的な図は文章だけでは追いつかない子どもの理解の助けになります。地方や上野を知らない子の支えにもなったと思います。カラーなのも良かったですね。話の内容だけではなく、文体がとにかく綺麗で、言葉遣いもそうですが立ち居振る舞いが古風で美しく、目をみはりました。奥ゆかしさを始めそういう表現が随所にあり、イカルの育ちの良さを思わせます。関西弁も滑らかでした。後半のアキラとの関係も慎ましくて、明治の女の子らしさが垣間見えて良かったです。そしてそういう表現ができる作家さんは貴重なので、ぜひ続編をと、期待しています。ただ、この時代考証がしっかりしているため、「新しくお仕えする者は、だれより早く仕事場におもむき、上役のお出ましをお待ちするのが筋ですからね。」(p.122)という部分に、日本の仕事に対する姿勢の歴史の古さを感じて、少し頭が痛くなりました。とはいえ、女性のイカルは低く見られているのでボランティアなのだろうかと思っていたので、お給料がもらえてほっとしました。ところで、ケンゴロウというのは、カンガルーの過去の和名かと思ったのですが、カンガルーの聞き間違いなのですね。

ハル:みなさんのご意見がうかがえてよかったなぁと、いつも以上に、今日はしみじみ思います。読みやすく、時代設定も好きで、わくわくしながら読みましたが、「おもしろかった」以上の感想を持てずにいましたし、一方では「児童書なのかな?」とも思っていましたが……『赤毛のアン』! そう言われてみると確かに、枠というのか、ある種の様式美的なものも感じますね。わぁ、すごく腑に落ちました。著者も意識していたのでしょうか。そんな観点で、もう1回読みたくなりました。ありがとうございました。

西山ところで、ちょっと気になったのは、p.262の「あったりまえのコンコンチキや!」というところ。「あったりまえのコンコンチキ」って、ちゃきちゃきの江戸っ子の口調のイメージがあるのですが……。

シア:確かに「こんこんちき」は関西では聞きませんね。そもそも、今の時代使っている人がいないのでなんとも言えませんが。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

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『紙の心』表紙

紙の心

ハル:顔を合わせない相手と、文字だけのやりとりでどんどん盛り上がっていって、口では言えないようなことも、文字でなら言葉にできて……そういう初々しさというか、瑞々しさというのは、わかるなーと思いながらも、ちょっともう見てらんないような気持ちにもなり、序盤で「えー、まだこんなにページ残ってるのに、どうするの?」と思ったのが正直なところです。もう少し早めに物語が動きだしてほしかったです。だけど、「訳者あとがき」の情報によると、イタリアの中学生の支持を集めているということなので、同年代の子たちにしたら、飽きるなんてこともないのかなぁ。そして、ここまで我慢して読んだんだから、これはきっと、とんでもないホラーが待っているのだと期待しすぎてしまったのもあって、結末にも驚きを感じませんでした。主人公以外の子どもたちは、どうなったんでしょうね。

シア:非常におもしろかったです。表紙に原題を大きく入れていておしゃれだと思いました。絵もさわやかな感じで良かったです。内容はさわやかではありませんでしたが。もっと近未来の話だと思っていたのに現代なので驚きましたし、ありえそうな話なので余計に考えさせられました。海外ではロボトミーを元にした話は結構多いので、わりとトラウマなのかなと思いました。半分以降からは一気に読みましたが、もどかしい恋愛ものは苦手なので、序盤はかなりイライラしながら読みました。ユーナがダンに会おうと言い出したので、これはページをめくったら急展開して、やっと研究所の謎についての話になるんだなと思ったのに、やっぱり会えないなんて尻込みするユーナがめんどくさすぎです。チラ見せは上手いのですが焦らされるので、惚気はいいから早く研究所の謎を! と別の意味でハラハラしてしまいました。「ウイルスのせいで全人類が滅亡して、ぼくたちだけが生き残った、そんな映画の一部みたいだ」(p.42)とあり、世界は平和なのかと肩透かしをくらいました。研究所内に鏡がないこととか白い制服や謎の薬など、いろいろと怪しい要素はあったのですが、蓋を開けてみればそこまで大仰な話ではなくて、少々やりすぎな感じもしました。シャワーが10分だけとか、職員が急に乱暴な口調になったりするところは管理される怖さが表れていると思います。この本は書簡体なので2人のタイムラグのようなものが出るところはおもしろかったです。メールなどで展開しそうですが、場所が場所なので手紙というのが研究所の異様さが出ていて好きですね。ただ、偶数時と奇数時でやり取りし合うというのがよくわからなくて、1時間いたら会ってしまうじゃないかと思ったんですが、2人は図書館あまり利用しないんですかね……。それにしても、最近はいわゆる毒親の話が増えてきたように感じます。親の影響力や圧力が注目され始めたのは、親子の関係性や教育を見つめ直す良い機会だと思います。「涙の壺」という表現もとてもロマンチックですが、涙が流れるような状態にしなければいいのではないかとユーナのお父さんに問いたいです。また、若者にはスポーツをさせておけば良いという今の学校教育の甘さも指摘されているように感じて、この辺はもっと主張したいですね。室内で読書をしている子がいたって良いと思います。「ぼくは、本を読めばいろんな場所に行けるんだ、って言い返したかった」(p.85)というダンの台詞がこの本の真のハイライトだと思います。この本には有名な児童文学がたくさん出てくるので、まさに『紙の心』だと思いました。あとがきで各作品について説明してくれているので、子どもたちが興味を持ってくれると良いと思います。でも、メインとなる『プークが丘の妖精パック』は日本人になじみのない本なので、子どもならさらに厳しいのではないでしょうか。題名を読めるのかどうかも心配。『プーク“が”丘の妖精パック』などと読みそうで不安です。気になったのは、「それから、トン川は食いしん坊に」(p.34)という訳がよくわかりませんでした。豚でしょうか。トンカツ? こういうときに訳者の苦労が窺えます。それから、「傷跡は、インディアンが戦いの前に描いて、誇らしげに見せつける、戦いのしるしみたいなものだ」(p.227)とあるのですが、“インディアン”という言葉は今は使わないと思います。

エーデルワイス:おもしろく読みました。主人公たちが暮らす施設を想像しました。清潔だけど、無機質で同じような部屋を移動するのですね。迷いそうです。「××をダンより」のように、形式的な手紙のやり取りをしていますが、顔が見えないほど想像力が働いて心が燃えていくのかもしれないと思いました。そして今どきの若い人のSNSの恋のやりとりも同じようなことかもしれないと思いました。終盤、研究所が火事(放火)で焼けて施設にいた子どもたちが助かるのですが、子どもたちはどうなっていくのでしょう? 元の家に戻るの? ちゃんと生きていけるのでしょうか? 心配です。親にとって都合の良い子ども、デザイナー・ベイビーなど問題提起のお話と思いました。主要なダン、ユーナたち5人は友人同士で、名作の登場人物からつけた仮の名前で、施設では番号とアルファベットで呼ばれ、本名は最後まで明かされませんでした。あえて必要なかったのでしょうか? 5人は元気に幸せに生きていけそうで安心しましたが。

オカピ:管理された場所にいる主人公たちが、人を愛することで、その生活に物足りなさを感じるようになる過程が描かれていて、おもしろく読みました。記憶すること、文字に残しておくことについて考えさせます。何を忘れて、何をおぼえておきたいかが人をつくるのだなと。「興味津々な人よ」(p.16)、「興味津々なこと」(p.107)という言い方は、話し言葉としてなじまないというか、ちょっとしっくりきませんでした。

雪割草:読んでいて最初の方でうんざりしてしまい、途中で休憩しました。イタリアだから情熱的なのかな、精神的に辛い経験をした子たちだから、心の拠りどころをもとめているからなのかなとは思ったものの、お互いを求めすぎていて、ついていけませんでした。近未来のテーマで人間がなんでもコントロールしようとするところから、『泥』(ルイス・サッカー著、小学館)を思い浮かべました。この研究所では、辛い経験を忘れさせるための治療をしていますが、それに対して主人公らが、忘れる以外の方法で生き抜く方法があることに、気がついていくところはいいなと思いました。あとがきにイタリアの中学生に支持されているとありましたが、日本語訳では訳はしっかりしているのはわかるのですが、若い人には受けない文体・言葉遣いだと思いました。それから、手紙でやりとりしている設定ですが、やりとりがすごく頻繁で手紙によっては長文で、ほんとに手紙なの?と思ってしまいました。

ネズミ:秘密をさぐりだそうとし始める後半からは、それがフックになってどんどん読めたのですが、2人のやりとりが中心の前半は、内容の問題なのか、文体のせいなのか、途中であきて、投げ出しそうになりました。後半はひきこまれたものの、都合のよい展開が気になりました。たとえば、骨形成不全症のポルトスが走るなど、ありえないだろうとか、どこかに潜入する計画が、たいがいうまくいくとか。体裁としては、ダンとユーナの手紙の書体を変えてあったらもっと読みやすかったかと思ったのですが、この本はキンドルでも出ているので、電子版を出すにあたって、書体が限られていたのだろうかと思いました。

しじみ71個分:書体に変化を持たせられるのが紙の本だけなのであれば、紙の本ならではの魅力になりますのにね。

シア:『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ著、岩波書店)では文字の色が変わっていましたね。

アカシア:紙の本ならではの工夫が、もう少しあってもよかったのにね。

アンヌ:書簡体小説は好きなので、それなりにおもしろく読み進んでいったのですが、いきなりp.14で「キスとハグを」と出てきたのでびっくりしました。これがただの挨拶なのが、外国小説という感じですよね。全体にSF的な設定が実に曖昧で、この研究所のセキュリティの甘さとか、最後に種明かしされた後も納得できないことが多いです。2人が実際に会わないところも、薬が効いているせいなのかと思ったりしたのですが、でも、それにしては男の子が3人いればやるような冒険に、あっさりダンは出かけたりしますよね。意志までが削られているわけではないらしいので、不思議です。最後まで行きついても、この5人がこれからどうなるのか、放火の罪に問われたりしないかとか、そのハッカーは大丈夫かとか、親との関係は何も解決してないままだとか、いろいろ後味が悪い思いが後を引いてしまい、読み返す意欲がわきませんでした。

アカシア:この本は時間的なリアリティがおかしいんじゃないですか? 手紙の交換で物語が進んで行きますが、1人が書いてから、休み時間にそれを図書館に持っていって本に挟む。それが偶数時だとすると、もう1人は、顔を合わせないために奇数時まで待ってから取りに行って、それから返事を書いて、次の奇数時の機会に図書館に行ってその返事をおく。そういうまだるっこしい方法でやりとりをしているので、たとえばp.115の最初の5つの文章はどれもユーナが書いたものですが、5つ目の文章を書くまでに、どんなに少なくとも9時間くらいはたっている計算になります。でもね、そういう計算だと成り立たないところがいっぱい出てきます。私は物語の構築を支えるリアリティにこだわる方なので、最初のときは途中で読む気がなくなって放り出してしまいました。それから、ダンたちは決死の覚悟で保管所に入ろうとするのですが、そこまでの展開では、保管所に何か重大な秘密があるというふうには読み取れなかったので、なぜそこまで?と思ってしまいました。全体としてすぐれた作品とは、残念ながら思えませんでした。

さららん:今回に関しては、訳者の文体と原文のスタイルが合わなかったのかな。私もみなさんと同じで、書簡体の形をとっているとはいえ、この世代の子たちの日常会話にリアリティがないように思えました。また研究所の中では、子どもたちの動きを阻止しようとする大きな敵は現れません。ダンたちに敵対心を燃やすカーという少年はいるけれど、それは体制側とは関係がない。戦う相手の顔が見えず、豆腐の中に手を埋めるような頼りなさを覚えました。でもひょっとすると、そこがおもしろさなのかも。色々な本の要素が出てくるところもいいし、あとがきも優れているけれど、ディストピアとしての物語に既視感があって、未知のものを解き明かす興奮がなかったのは残念です。

花散里:岩波のSTAMP BOOKSは出版されると期待して読むのですが、この作品が出版された2020年に読んだとき、書簡体で物語が進んで行き、今どきの中高生がどう読むのかなと思いながら読んだことを思い出しました。今回、読み直して、スマホに常に依存している日本の子どもたちが、図書室の本に挟んだ何通もの手紙のやり取りに対して、果たしてどう読むのかなと改めて感じました。前半の書簡体で続くストーリーは、今回も読みにくいと思いました。研究所の秘密が分かっていたということもありましたが、物語のおもしろさが感じられませんでした。巻末に本文に出てくる文学作品の紹介が入っていたり、図書室でのやり取りが舞台だったりしますが、読み返そうという作品ではないと思いました。

サークルK:手紙の部分のやり取りが長かったので、少しもどかしい思いをしながら物語を読み進めました。なぜこんなやり取りや状況に子どもたちが置かれているのだろう、という読み始めからの疑問が次第に解き明かされていくところは、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を思い起こしました。誰に恋しているのかも実際にはわからないのに、よくこんなに妄想をふくらませながら、手紙で情熱を傾けられるなあと苦笑する表現もありましたが、イタリアの中学生にとても人気があったというので、興味深く感じました。こうやって練習(!)して、愛情表現の達人になっていくのかしら、と。小さな世界に閉じ込められて、監視されたり、洗脳されたりするさまは残酷なディストピア小説のミニチュアのようで、『1984』(ジョージ・オーウェル著 早川書房他)をほうふつとさせましたし、39章で「ワールドニュースオンライン版」という記事を使って、状況が説明されている構成は、『侍女の物語』マーガレット・アトウッド著、早川書房)の掘り起こされたカセットテープをめぐる研究者のレポートを思い出しました。物語を読んだ子どもたちがやがて上に挙げた大人の小説に巡り合った時、こんなイタリアの児童文学があったっけ、と逆照射されて思い出してもらえるかもしれません。

マリナーズ:お国柄の違いを感じながら読みました。日本で、中学生くらいの男女が同じように文通し合う物語だったら、こんなふうに恋の駆け引きっぽい言葉をやりとりして楽しむ感じにはなかなかならない気がします。実は、以前、1度読みかけたのですが、p.111あたりからの、お互いの容姿についてあれこれ想像し合うところでうんざりしてしまって、いったんやめたのでした。今回、読み通せてよかったです。後半に行くにつれて、主人公2人の苦しみや、ここに入るまでの経緯が明かされて行きますが、その明かし方が説明的なせいか、切実さがどうも伝わりにくいように思いました。でも、性格を変えることについて、身内が了承している、ということのせつなさ、やるせなさは感じました。自分のアイデンティティを考える、というテーマ自体はとてもよかったです。

ルパン:しょっぱなでつまずいたのは、このやりとり、イタリア語なのにどうして相手が男か女かがわかるんだろう、ということです。見知らぬ相手なのに、はじめから男女の区別がついているのって不思議でした。しかもすぐに恋に落ちるし。そのうえ、やたらに容姿の話が出てきますよね。相手がその子がどうかもわからないのに「赤毛の女の子が好きなんだ」なんて言ったり、デブだったり青白かったりしたらどうするの、みたいな文面もあるし。ヨランダが実際のポルトスを見て思いっきりけなす場面では本当に気が滅入ってしまいました。容姿に自信のない子がこれを読んだらどう思うんだろう。

アカシア:イタリア語だと形容詞などに女性形と男性形があるので、相手が男か女かはすぐわかるんじゃないかな。

西山:ほとんど言い尽くされている感じです(笑)。この研究所にどういう秘密があるのかという興味で読み進めましたけれど、先が知りたいだけでその場その場の描写とか、感覚とかを楽しむという読書の快楽はありませんでした。イタリアのお国柄というのもあるのかもしれませんが、こんなにすぐ男の子と女の子が恋愛感情で盛り上がり、延々それを読まされるのにうんざりしたというのが正直なところです。若い読者なら誰もが恋バナ展開にのめり込むかというと、そうでもないんじゃないかなと思っています。というのは、ジェンダー関連の授業で、何かの問題を男の子と女の子が一緒に取り組んで解決してきた物語で、最後の最後に性的な視線を差し込んで、「恋の始まり」みたいな展開にするのに出会うたびにがっかりするんだよねということを、おそるおそる話した回があったのですが、思いの外共感のコメントが多くて、恋愛テーマじゃないのに恋バナにするドラマとか多すぎるとか、子どもの頃仲のいい男女がからかわれることで気まずくなったとか、嫌な思いをしたとかそういう体験が続々とあがってきたのです。「10代は恋バナ好きにきまってる」という思い込みもそろそろ相対化した方がよいと思っていたところでこの作品を読むことになったので、否定的な感想になっています。あと、ユーナがどんどん受け身になっていって、つまらなくなっていったのが不満でした。本に手紙をはさむというユーナの魅力的な行動から始まったのに、ただただ、「待つ女」になってしまって……。ヨランダといっしょに研究所の秘密に迫っていけばよかったのに……。図書室の本を介した手紙のやりとりとは思えない、ラインのようなやりとりになってしまうところも興ざめでした。

コアラ:以前、本屋さんでこの本を見かけたときに、はじめのほうをちょっと読んで、いまいちかなと思ってすぐに棚に戻してしまったんですけれども、今回最後まで読んで、悪くはない本だと思いました。書簡体小説だと、お互い相手を騙すこともできるし、作者と読者の関係としても、作者は読者を騙すこともできるけれど、ダンもユーナも騙すことなく、お互い誠実で、作者と読者という関係でも作者から騙されることがなかったので、その点ではすっきりしてよかったと思います。研究所の謎とされたことが、少年少女たちの人間的な欠点の除去で、親の望み通りの人間に作り変えられてしまう、ということだったんですが、読んでいてそこに大きな衝撃はあまりありませんでした。そもそも、記憶を無くす薬を飲んでいる研究所というのが不気味で、そこがそもそもディストピアだなと思いました。訳者あとがきに、この本に出てくる本の紹介が書かれてあるのは、よかったと思います。

しじみ71個分:私も、みなさんが既に言われたのと同じように、前半の2人の手紙のやりとりがちょっとかったるいなと思い、読んでいて休憩をはさんでしまいました。また、ユーナかダンか、どっちがしゃべっているかわからなくなっちゃうところがあり、見た感じでパッと分かりやすい工夫があったらよかったなと思います。手紙のやりとりが頻繁すぎて、時間の経過もわかりにくい点がありました。ただ、著者はこういう書簡のやりとりで、心をかわし合うという形を描きたかったんだろうなと思います。頻繁すぎて、チャットのようではありましたが。作品を通じていいなと思ったのは、2人の書簡体の形をとりながら、過去の児童文学作品の紹介をしているところです。また、人と人とのコミュニケーションのツールとして本を使うという設定にも共感しました。『紙の心』というタイトルには、手紙に乗せた自分の心というだけではなくて、本を通じて交流するという意味もあったのかなとも思います。大人にとって都合の悪い、「いらない子ども」を除去してしまうっていうのは恐ろしいことで、本のテーマとしてとても重いと思ったのですが、結果が意外にソフトで、もう少し、ドラマチックな、誰かが死んだり、廃人にさせられてしまったりとか、おどろおどろしい展開があった方が、テーマがもっと生きて、物語も生き生きとしたのではないかなと思います。『私を離さないで』くらいのディストピアがあってもよかったかなと。また、表紙の絵を見ると、ガラス張りのとても近代的な建築物として描かれているのに、火事で燃えちゃうんだ、木造なんだ、というところはちょっと拍子抜けしてしまいました。建物が燃えただけで逃げられちゃうんだなというところは、少しあっさりしすぎていたかもしれません。前半の書簡体の恋愛部分が重くて、後半のスリリングな展開とのバランスがあまり取れていないのかもしれないと思いました。

すあま:読みながら、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー著 講談社)を思い出しました。忘れたい記憶をなくすことができる薬があったなら、犯罪被害者や虐待にあった人など、飲みたいと思う人がいるかもしれない。この物語では、さらにエスカレートして親の望む子どもに変える、という恐ろしい話になっています。逆に子どもが望む親にすることができたら、と思う人もいるのでは、とも思いました。現代の子どもが抱えている問題を解決することができる近未来の世界を描いているようで、実は大人にとって都合がよい、純粋無垢な子どもに変えようとする、時代を逆行するような話になっていきます。近未来の世界のようなのに、紙に書いて本にはさむという、古典的な文通の形をとっているのがおもしろいと思いました。メールやラインでコミュニケーションをとっている今の子どもたちにはかえって新鮮なのかなと。ラストはあっさりしていて、結局は親から逃げ出した、ということで終わったようで、ちょっと物足りない感じがしました。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年05月 テーマ:闇と光の境

日付 2022年05月24日
参加者 ネズミ、ハル、シア、ルパン、すあま、アカシア、エーデルワイス、アンヌ、しじみ71個分、オカピ、西山、サークルK、マリナーラ、雪割草、ヒトデ
テーマ 闇と光の境

読んだ本:

(さらに…)

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『荒野にヒバリをさがして』表紙

荒野にヒバリを探して

サークルK:表紙の絵がソフトな感じだったので、2人の兄弟が雪の中で遭難しても最後は助かるのだろうな、と予想しながらも、本当に助かるのだろうか、どんな形で助けがくるのかとても気になって、ぐいぐい読みました。けれど、そのストーリーを追いかけ終わってしまうと、思った通りのお話だったと安心してしまい、強く印象に残ったことを時間をおいて思い出そうとしても、なかなか難しかったです。おそらく引っかかるところがあまりなく、とにかく救助を急げ!という気持ちでしか読めなかったからかもしれません。「40年後」という形での振り返りが書かれているのは親切だと思いました。ケニーが兄に看取られる場面では、その後のニッキーの結婚生活や子どもたちのことも垣間見られて、本編のたった1日の出来事が、「その後」のファミリーにとても重要な役割を果たしていたことがわかりました。

すあま:どんどん大変な状況になっていき、とにかく早く助かってくれ、という気持ちで読み進めました。1日の出来事を描いているんですが、回想の中で2人のことがどんどんわかってきます。読みながら2人に共感していき、最後何とか助かって、ほっとして終わったという感じです。

西山:前回読んだ『青いつばさ』(シェフ・アールツ著 長山さき訳 徳間書店)と構図が一緒なんですね。知的障害を持つ兄と兄を支えるという責任を負う弟2人の、冒険。途中からサバイブできるのかっていう興味で読ませますが、出だしからしばらくは、語り手である弟の「おれ」のものの感じ方、考え方をおもしろく読んでいました。例えば、p.29の最後、車の通る道路から遊歩道へ入ったときに「本を読みはじめたときに似ている」と言ったり、p.74のキジの描写の美しさ。つづく丸焼きはうって変わってひどい臭いが行間から漂い出すような惨状ではありますが、ともかく、キジの姿が目に浮かぶような描写でした。p.81の痛みに関する考察もとてもおもしろかった。崖から落ちて、2人の状況が危機的になってからは理不尽だという思いの方が強くなりました。p.27でティナに危機が訪れそうな、フラグは立っていましたが、ティナの死は人間の不用意でもたらされたものです。なんだか、いい話のようにまとめられた気がしますが、ティナを死なせてしまったことに「おれ」はもっと傷つくべき、悔やむべきでないのでしょうか。人間は死なせなくても動物は殺す。そのドラマ作りには私は違和感を持っています。ところで、「ジョージなんて古くさい名前のやつ、今どきいるか?」(p.109)にはっとしました。日本以外でも、時代によって名前の流行り廃りがあっても当然ですが、考えたことがなかったので。キラキラネームみたいなのあるんでしょうかね。

ルパン:ともかく、この2人の子どもがどうなってしまうのかが心配で一気に読んだのですが、そのためか、読み終わったあと何も残らず…はて、何の話だったかな?という感じでした。表紙の見返しに「家族やこの数年間のことを思い出す」とあるので、ああ、そういうことか、と思いましたが、お母さんが出て行ったことも、お兄さんに障害があることも、お父さんが依存症のことも、それぞれ大変なことなのでしょうが、この生きるか死ぬかの遭難の事実のほうがよっぽど重くて、逆に家族の問題が軽く思えてしまいます。ちょっと手法をまちがえたかと…。犬のティナのえらさだけは印象に残りましたが。最後に、数十年後のことが書いてあって、あれ、ふられたはずの女の子と結婚してる、とか思いましたが、こういう蛇足はそんなに嫌いじゃないです。

ヒトデ:はじめのうちは、ハードボイルドな語り口と、書籍のページ数と文字組から想像した内容とのギャップに驚かされましたが、物語のつかみのうまさに引き込まれ、この2人はどうなってしまうんだろうと思いながら、最後まで一気に読み進めました。なんとなく映画ギルバート・グレイブ」を思い出すような兄弟の物語が印象的でした。2人がはじめて空港にいくシーンが、とてもいいなと思いました。最後のエピローグで、一気に時間を飛ばしてしまったのには、少し驚かされましたけど、ティナやサラの伏線を回収していくためには、必要だったのかしら、とも思いました。読めてよかった作品でした。

雪割草:巧みな語りなのだろうと思いましたが、正直、心が入っていけない作品でした。その理由の1つが、主人公の「おれ」という主語で、古臭い感じがしました。最後の方で、主人公がおじさんになっていて、語り手はおじさんの設定だったのだろうか、であればと少し納得しました。「おれ」は、おじさんぽい言葉遣いが多々あり、たとえば、p.109の「『あの人、偉そうにしないのね。素敵』女の子が言う。おれは…」などです。一人称の語りなので、地の文でももっと「おれ」を省略してほしいと思いました。p.124には、点の打ち忘れか空白があり、p.120の「最悪のことはまだ、もっとあと…」とくどい感じの文、p.8の「灰色の空が、どこまでもどんより広がっているだけなんだ」とすわりが悪く感じられる文、それから全体的に文がばらばらに感じられて、原書を読んでみたいと思いました。それから、ティナは死なせなくてよかったと思います。

エーデルワイス:自然の厳しさがよく出ていました。私は以前よく山に登り自然に親しんでいましたが、方向音痴で誰かと一緒でないと道に迷うタイプで、一歩間違うとこのように遭難しそうです。しかし、ちょっとしたハイキングであっても、最低限の水、食料、防寒具など持参するもの。ニッキーとケニーは甘かったと思います。宮沢賢治の『虔十公園林』をストーリーテリングで覚えている最中で「ひばりは高く高くのぼってチーチクチーチクやりました。」の一節がこの物語とダブりました。死んでしまった犬のティナを、救助の人にニッキーが必死に埋めるように頼むところが納得できず、私だったら連れ帰るのに……と思いましたが、あくまで兄のケニーのことを思ってのことなのですね。

マリナーラ:短いお話なんですけれど、ずっと緊迫感がありました。もうさすがにそろそろ助かるだろうというあたりで、水かさが増してきてピンチが発生して、ページを早くめくりたい気持ちと、めくるのが怖い気持ちが両方ありました。主人公の大変な歩みが、回想の中に垣間見えて、でも、多くは語りすぎないところに余韻がありました。映画『127時間』を思い出しました。アメリカが舞台で、峡谷で岩に手が挟まれて抜けなくなって、だれも助けに来てくれない、という話です。ところで、ヨークシャーといえば、私のなかでは『嵐が丘』だったので、そのイメージも重ねながら読んでいたのですが、後で地図を見たら、この国定公園とブロンテ姉妹の故郷は100キロくらい離れていました。

ハル:心に余裕がないからか、私はちょっとうんざりしてしまいました。下品な笑いが苦手なのもあって、途中まで、私はいったい何を読まされているんだろうという思いでいっぱいでした。この人たち、何をしにきたんだっけ? って。読み終わってみると、心に残るものがないわけじゃないので、場面、場面で、映像的に訴えるものとか、心に迫るものはあったんだと思います。でも、この物語の場合、この結構なひどい状況には、弟がお兄さんを巻き込んだのであって、お兄さんに知的障害があろうがなかろうが、関係なかったんじゃないかという思いもぬぐいきれません。障害のある兄といつも一緒にいる弟=兄弟の深い絆、美しい、というのはどうなのかという思いもあります。でも、たぶん、いろいろ読み落としてたんだろうな、と、いま皆さんの意見を聞きながら思ってはいます。

シア:まず、イギリスはバスに普通に犬を乗せて良いところに衝撃を受けました。ガイトラッシュという魔物も初耳でした。こういう文化の違いなどを目の当たりにできるから海外文学はおもしろいですね。だから積極的に読みたいし、子どもたちにも読ませたいです。2階建てバスもイギリスらしくてテンションが上がりますし、2階建てバスに乗った子どもがどういうリアクションをするのかも表現されていて楽しかったです。この本も薄いですし文字の大きさもほどほどで、子どもたちにはちょうど良いのではないかと思います。特別支援学校に通う兄を持つ主人公の話なのでその辺りも理解に繋がるし、障がいを持つ人が身近にいる子の共感にも繋がるのではないかと思います。1つ違いなのに体は弟のニッキーより大きくて逞しい点が個性もありますが一般的に早熟な障がい者の大変さとか、ケニーを守らなきゃというニッキーの使命に近い気持ちなど、こういう子の世話のシビアさがよく出ていると思います。物語自体は1日の出来事でそこまで盛り上がるわけではないのですが、表現が1つ1つ丁寧で、冗談も下ネタが出るなど子どもらしさがあって微笑ましかったです。また、複雑な家庭の話と相まって内容は真に迫っており、犬のティナの魂がヒバリとなって飛んでいくところは涙を誘いました。先に読んだ『夜叉神川』(安東みきえ著 講談社)のゴンちゃんを思い出しました。やっぱり犬は裏切りません。ラストにケニーのことがヒバリの声として表現されるところでティナとの絆を感じて、良い読後感に繋がりました。でも、この本も田舎っぽさと都会っぽさが混在している気がしました。バス3本乗っただけでスマホが圏外になるイギリスの荒野に行くのに、軽装でヒバリを見に行こうという発想が不思議でした。まるで都会っ子の余裕です。それから、40年後の奥さんがサラなのが世界の狭い田舎のイメージ丸出しでウッときました。「ここから出ていきたい、新しいものを見たい」と言っていたのに、結局田舎から外に出てないじゃないかと。もしくは戻ってきてしまったのかと残念な気持ちになりました。ケニーを抱えているからなのか、田舎のせいなのかはわかりませんが。そして、p.30「去年、ハイタカに食べられそうになっていたところをおれたちが助けたミヤマガラスのことだ。」とありますが、生態系を考えたら動物を助けることにならないのではないかと思います。こういう場面に出会うことのある田舎住まいの動物好きならこういうことには配慮できるのではないかと感じます。

アカシア:山や森をけっこう歩いていた私としては、この2人がきちんと準備もせずに薄着で出発することや、遊歩道から離れてはだめだと言われたのに離れてしまうとか、水の上に身を乗り出してスマホを落とすとか、スマホを取ろうとして崖から落ちるなど、愚かな行動を積み重ねていくことにいら立ち、物語の中に入り込めませんでした。何も愚かなことをしていないのに困難な状況に突き落とされる子どもたちが世界にはたくさんいることを思うと、自らの愚行で困難な状況に入り込んでしまう子どもを主人公にした物語は、”先進国“だからこそ成立しているのかもしれません。物語が家族の中で完結していて、そこから外への広がりはあんまりないのも残念でした。

オカピ:この本は、“The Truth of Things” というシリーズの最終巻なんですよね。p.30にミヤマガラスのエピソードが出てきますが、その巻を読んだことがあります。原書は、ディスレクシアの若い人たちが読みやすいように、字体やレイアウトを工夫しています。たとえば日本の本で、梨屋アリエさんの『きみの存在を意識する』(ポプラ社)もフォントに配慮していましたね。この翻訳の『荒野にヒバリをさがして』は、ディスレクシアの人たちに向けたつくり方をしているわけではなく、だけど、そうだとすると、1冊の物語としては物足りなくて、なんか中途半端だなと思いました。また原書は読みやすいように、「飛ぶことも歌うことも、ヒバリにとっては労働なのだ。不屈の勇気なのだ。そして、それは美しい」(p.130)など、短文を重ねた文体なのかもしれませんが、それをそのまま日本語にすると、ちょっとぎこちないような。「おれ」という一人称の中学生が、「ポンポンのついた毛糸の帽子」(p.21)のようにかわいらしい言葉をときどき使うのも、あまりしっくりきませんでした。

アカシア:そのシリーズ、全部で何巻出てるんですか?

オカピ:全4巻だと思います。

アンヌ:一言で言って、とても痛い物語でした。表紙からして雪山で遭難することは最初からわかってしまっていて、初読の時は、とにかく無事に帰ってほしいの一言で上の空でいました。2度目はもう少し落ち着いて読めたのですが、p.81、82の痛みというものへの考察や、p.113の、折れていない方の足を添え木にするという技術を読みながら、素晴らしいけれど辛い知識だなあと思っていました。p.131のヒバリに身を変えて去っていった魂は、ティナだったんですね。ところどころ詩的で美しい場面があり、カラスやアナグマという動物についての思い出が出て来て興味をひかれたのですが、でも語られることがなくて奇妙だったのは、4巻目だからなんだと今納得がいきました。このハイキングについて行かなかった父親に、読みながら猛烈に怒っていました。自分は荒野に詳しい父に連れて行ってもらったのに、子どもだけで行かせてしまうなんて。2人を追い出したかったんだろうかと考えたりしました。読み終えてみれば、雪山の冒険と家族関係、父親のアル中や疾走した母親についても描かれていて、2人の冒険する少年が厚みを持った人間であることもわかります。「お話」の持つ力を感じさせ、この物語の成立を語るラストもいい話なんだろうけれど、常にケニーの面倒を見るという形で「お話」が出現することにも痛みを感じずにいられない物語でもありました。

ネズミ:先が気になってさっと読みました。ただ、カバー袖に、窮地の中で「家族やこの数年のできとごとに思いをめぐらす」とあるのと、読んだ印象はやや異なりました。今直面している困難が非常にリアルなのに対して、過去の困難については、キジをオーブンで焼いたエピソード以外は具体的な記述が少なくて印象がうすく、また、主人公が知識や思考力を持っている賢い子なのに、雲行きの怪しいなかこんな軽装で出てきてしまったことがちぐはぐに思えて、どこか納得できない気持ちが残りました。

しじみ71個分:わりとあっさり読んでしまって、大変に失礼ながら、「カーネギー賞ってこれくらいで取れちゃうの?」と思ったくらいでした。『青いつばさ』と同じように、お兄ちゃんに障害があり、弟がお兄ちゃんの世話をするという構成ですが、荒野にヒバリを見に行こうとピクニックに出かけたら遭難してしまい、弟は生死の境をさまよう羽目になり、犬のティナはニッキーに体温をあげて自分は死んでしまうという、1日の非常に短い時間の間に起こる出来事と、事件を通して兄弟のきずなや、家族の在り方が見えてきます。決して悪い話じゃないし、兄弟愛が伝わる話だけれど、なんだか言いようのない物足りなさを感じたのですが、それがなぜなのかは、オカピさんのお話を聞いて、やっと納得がいきました。どうして出版社はこの巻だけで出版してしまったんでしょうか…やっぱりちょっとわからないです。でも、この巻だけでもいいところもたくさんあって、私が特によかったと思ったのは、遭難したニッキーが死にかけて生死の境目をさまようところで、ヒバリについて「ヒバリは高く高くのぼっていき、地球の重力からもときはなたれ、そしてとつぜん、なんの努力もいらなくなったようにかるがると舞い上がる。」(p.130)のくだりあたりは、言葉と場面が非常に美しくて、とてもよかったと思いました。また、子ども時代には、ニッキーが遭難して死にかけますが、エピローグで病のために生死の境をさまようのは、兄のケニーになっていて、その立場が反転するうまさはさすがだなと思いました。一点、兄弟の関係性がもっと深く表現できたのではないかと残念に思ったのは、「お話」のことでした。兄のケニーが弟のニッキーに向かって「なにか話をして」とせがむのは兄弟のきずなや愛の深さを物語る、決め台詞だと思うのですが、物語の中で、ニッキーがケニーに語る物語がどのように功を奏しているのかがよく見えてこないので、決め台詞のインパクトが伝わってこないもどかしさがありました。全巻そろってまとめて読めたら、もっと違った感じに感じられたでしょうか。もう1つ魅力的だなと思ったのが、父親の恋人のジェニーの存在でした。妻に去られて、父親はアルコール浸りという辛い家庭の設定ですが、ジェニーのおかげで父親は更生しつつあり、兄弟もジェニーの優しい心遣いに見守られています。この存在がなかったらこの物語はもっともっと辛かっただろうなぁと思います。血がつながらないけれど大事な家族というのが、さりげなく普通に描かれているのは素敵だと思いました。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『夜叉神川』表紙

夜叉神川

ネズミ:とてもおもしろかったです。人によっていろんなふうに読める作品だと思いました。悪意とか無関心とか憎悪とか嫉妬とか、どの話も負の感情を扱っているんですね。普段しちゃいけない、言っちゃいけないと言われている感情をうまく顕在化させて、善悪ということではなく考えさせてくれます。オーディションとかカードゲームとか沖縄旅行とか、今の子どもたちも興味をもちそうなことをきっかけにして、不思議なことに広げていくのがうまいなと思いました。情景の描き方が美しく、p.230あたりからの「果ての浜」の文章は特に魅力的でした。いろんな人にすすめたい作品です。

アンヌ:読んでいて一番怖かったのが、最初の「川釣り」です。霧の中の女の人みたいな怪異や川の主みたいな魚の化け物が出てきててんこ盛りなんだけれど、それよりも前半の心臓を取り出すのに夢中になっている辻君に感じる恐怖心の方が上でした。そのせいか、辻君の横暴な物言いや異常性格的な描写はなくてもいいような気もします。川の怪異が懲罰みたいな役割なのも少し残念な点です。「青い金魚鉢」は特殊な能力を持つ「物」に魅入られる話として読みましたが、家に閉じ込められていた昔の人と金魚鉢の能力の関係に説明がないのが残念でした。「鬼が森神社」は、p.100のアイドルを目指すリョウの魅力をちょっと百合的な描写で感覚的に描いているところなどとてもうまいと思うし、宝塚ファンの人たちの暴走のニュースなど昔から聞いたことがあるので、苺の行動もまあ、あるんだろうなと思いました。最後には呪いも解いたし、未来に向かって進もうとしている主人公が橋のところで語り掛ける描写もよかったし、なんといっても、鬼が情けない顔をしているラストがよかったです。「スノードロップ」は少年の心の中にある、他者の死を願う気持ちの変遷の話だから、これにはあまり興味を感じませんでした。私は怪談好きですが、幽霊は苦手です。怪談というのはこの世の物語で、この世には人間などの測り知れない世界もあるというのが魅力だと思っていますが、幽霊は人間とその死後の世界のことなので……。うらみはらさでおくべきやと化けて出るような、目的を持ってこの世に帰る幽霊ならともかく、自分たちが死んだと気づいていないような子どもの幽霊は、とてもつらい。だから最後の「果ての浜」は、戦争の悲劇や理不尽さを伝えている点は素晴らしいと思うし、さらにそこから徹底的に目をそらそうとする主人公もリアルでおもしろいと思うのですが、子どもたちの幽霊から弟を守ろうと戦うような感じのところは、受け入れがたい気がしました。

オカピ:これまでに読んだ安東さんの本の中で、いちばん好きでした。鬼神である夜叉はけして、まったくの悪というわけではなく、そうした善とも悪ともいえないような、人間の複雑な部分をとらえた作品です。欲とか暴力とか戦争とか、人の業の深さを思いました。どの話の中でも生と死のドラマが展開するのですが、一話一話がおもしろい。水源から河口に向かい、やがて海に出るという全体の構成もみごとでした。

アカシア:私も、安東さんの作品の中でいちばんおもしろかったです。人が、ふとしたときに見せる怖いものが、どんどん肥大化していくことを、とてもうまいストーリーテリングで表現していますね。さらに怖くする工夫もあるし、はぐらかしもあります。文章表現がとてもじょうずだと思いました。「鬼ケ守神社」の最後の一行は、実は鬼より人間のほうが怖いということを言っているようです。「スノードロップ」のp.158から最後にかけての「自分の命を自分で決めて悪いか?」をめぐるぼくと松井さんとのやりとりは、表面的ではなく深いところからの知恵が湧いてきているように思えて、道徳の教科書とは違ってひきつけられました。「果ての浜」では、子どもの自然な発想として、受験後につらい話をしないでほしいという気持ちをもつ岳が、弟をさがしているうちにトウキビ畑で昔の子どもたちの声を聞いたのがきっかけで、変わっていくのですが、その気持の変化に無理なく寄り添うことができました。p.231の「くりかえし蹴っていた山下の靴。あの靴を自分も履いていたのかもしれない。/今もずっとくりかえし、あの少年を蹴っているような気さえした」という部分は、沖縄の歴史を知らない子どもたちにもすんなり伝わるでしょうか?

シア:おどろおどろしい雰囲気でおもしろかったです。生徒にも気に入られるのではないでしょうか。本の厚みはないし、表紙もダークメルヘンで好まれそうです。オムニバス形式で人の心に棲む鬼を描いているんですが、形式のせいでばらけた感じがしました。最後の「果ての浜」が秀逸だったので、この話だけで書いても良かったかなと思いました。というのも、夜叉神川で繋げるのはいいにしても、夜叉神川の由来など川自体の話が出てこないなと思いまして。「果ての浜」では山下だけでなく、主人公の無関心さを鬼にしたのは良かったと思います。実際、戦争の話は悲惨だし関係ないからと嫌う子も多いし、昔のことや酷い話は自分には関係なくて、もっとハッピーな気持ちでいたいという今の若い世代の気持ちをよく表現していると感じました。愚痴やら暗い話は嫌がられるんですよね。生徒たちの好きなSNSでもとくに嫌われる行為です。でも、暗い気持ちになるようなことをしでかすのも大体この年齢が多いので、その矛盾をこの本はうまくついていると思いました。また、さんぴん茶の名前や味でツボるのはわかりますし、そういう意味でもこの作者は10代っぽさの表現が上手ですね。出てくる子は現代っ子や都会っ子なイメージを受けるのですが、全体的な田舎っぽさもうかがえます。例えばp.184に「女にまるめこまれ、きげんよく鼻歌を歌っている弟が情けない。」とあるのですが、ここは「大人にまるめこまれ」で良かったのではないかと思いました。1話目の辻くんはそういうキャラクターということで主人公から指摘もされていましたが、この岳くんの言葉は田舎の男女差別を思わせます。また、2話目の引きこもりの子の表現なのですが、琴ちゃんは「こだわりが強い」「変わっている」などと発達の問題を疑わせる部分はちょっとどうなのだろうと思いました。引きこもってしまうのは基本的に繊細な子が多いので、そういうことで良かったのではないでしょうか。琴ちゃんのお母さんも食前に害虫の話をするなど変人すぎると思います。そのせいで発達障がいの遺伝について考えてしまいます。それに、敏感な子を大なり小なりこういう状況に追い込む加害者がいけないのに、愛奈ちゃんは「おとなしめになった」というだけで事態の責任に関して何も気づけていません。1話目の「川釣り」のような物事の繋がりを考えた上での罪悪感が生まれないのではないかと思いました。3話目の主人公も改心しているのに、連作の繋がりに違和感を覚えました。違和感といえば、この本は助詞など文章に気になるところも散見されたので、児童書ですし編集者もとくに注意して見てほしいと思いました。p.215「ヌギリヌパ教室が楽しかった」「ヌギリヌバと呼ばれる岩かげに」など、パとバがどっちなのかわかりませんでした。

ハル:1話目で、グッときました。2話目の「青い金魚鉢」は、ちょっと私がつかみきれていないのですが、「末代まで」の怖さが印象に残っています。もしかしたら、強者への無自覚なあこがれもあるのかなぁ。……などなど、ときどき面食らうようなところもありつつ、川さながらに緩急つけながら全体のうねりを高めていって、最後に「果ての浜」に到達する構成が、もう、すごいなぁと思いました。読者、つまり子どもに寄せた書き方ではないのに、非常にこの不安定で繊細な時期の、今の子どもたちに寄り添っているように思え、なんというか、ほんとにグッときました。すごみを感じます。

マリナーラ:タイトルから、本格的なファンタジーかと思っていましたが、日常からちょっとはみ出た別の世界を描く物語で、個人的にはとても好みでした。人が一瞬垣間見せる悪意が、どのお話にも書かれていました。映像的で、ガラスの金魚鉢がゆがんで見える、というのも想像つくし、サトウキビ畑で姿が見えなくなる、というのもイメージが容易だし、その空間に浸らせてくれる物語だと思います。序盤の2話と3話は、夜叉神川をめぐる連作であることがすぐ掴めるように、川の名前が早めに出てきてわかりやすかったです。最後の戦争の話は、工夫を随所に感じました。そういう話は聞きたくないのだ、という主人公の気持ちに寄り添いながらも、戦時中の出来事に少しずつ引き込んでいきます。当時の波照間島、西表島のことは知らなかったので、勉強になりました。

雪割草:主人公の負の感情を超自然的な現象と結びつけて書いていて、おもしろいなと思いました。割と年配の作家さんなのにヤングな設定を描けていて、すごいなとも思いました。なかでも私は「スノードロップ」と「果ての浜」がよかったです。「スノードロップ」は、なぜ松井さんは怒ってばかりいるのかを、子どもの視点で無理なくときほぐして描いていると思いました。「果ての浜」では、まず戦争中の波照間のことを私は知りませんでしたし、その出来事を主人公らが知る方法も、奇妙だけれどリアルでなるほどと思いました。

ヒトデ:1話目の『川釣り』からひきこまれて読みました。辻くんの純粋な悪意みたいなものが本当に怖くて、でもそれが自分の身に引きつけられないものではない、というか。絶妙なバランスで書かれていました。2話目の「青い金魚鉢」も最後のきつねの伏線で、う~ん、さすがだな、という感じでした。4話目の「スノードロップ」、5話目の「果ての浜」は、1話~3話から少しテイストを変えて、闇の中から光へ進んでいく話という印象でした。とくに5話目の「果ての浜」では、主人公の「どうして戦争の話をきかなければならないのか」という問いに、物語のなかでしっかり答えを出しているところが、とってもいいなと思いました。

しじみ71個分:映画でも本でも、私は本当に怖いものが苦手で、1話目を読んで、やっぱり怖くなって後悔したのですが、読み進めるうちに本当に文章がうまいなぁとつくづく思わされ、読み通してしまいました。この本は「子ども向け」に分かりやすく書いてないし、大人向けといってもいいほどです。1話ごとに、表現や構成が練られていて、短い連作集なのに大変に読みごたえがありました。夜叉神川の上流から物語がスタートし、中流、下流へと流れていき、最後に「果ての浜」をもってきて、海に流れ込んでいくという構成にはうなりました。テーマを「光と闇の境」としたのは、各話で日常生活に生じた、ちょっとした亀裂から、登場人物の悪意が溢れて出てきてしまうのですが、その日常の中の善悪の紙一重な感じが、光と闇の世界の薄い境目のように思われたからです。各話で、悪意が吹き出していく人物がいろんな形で描かれ、そのまま「あっち側」に行ってしまいそうなところを、視点になっている主人公が、「こっちに戻っておいで」というように境目で止めてくれて、それが児童文学としての救いの部分なのかなと思いました。1話目の「川釣り」がいちばん怖かったです。魚の命を奪うことを楽しみ、残虐性が発展して、「ぼく」をも脅して楽しんでいた辻くんが、さらに恐ろしい人間になってしまいかねないところを川の神か山女魚の妖怪かに襲われ苦しむ姿を見て、「ぼく」が「クツクツクツ」と笑い、「ぼく」も喜んで闇を発露させるのですが、ここがいちばん怖かったです!「ぼく」は我に返って辻くんを助け、「清らかな流れを見ていたら、なぜだか祈るような気持ちになった」(p.41)、「そしてこの先、ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうかまもってほしい」(p.42)、という場面で終わります。残虐性は誰もが持っていて、あちらに行ってしまうか、こちらにいるかは紙一重だという恐ろしさを突き付けるとともに、それに自分で気づいた「ぼく」が境目で踏みとどまり、闇に落ちないように祈って終わるという、この展開の鮮やかさは素晴らしいと思いました。あとはやはり最後の「果ての浜」にやられました。この話では、善悪の境を突き破るのは、島にやってきた山下という青年教師で、突然、豹変し、日本刀で島民を脅して、波照間島から西表島に強制疎開させたため、西表島で病や飢えで島民がたくさん亡くなるという惨劇が起きます。でも、境目に立つ主人公の「おれ」は、残虐さに落ちた山下ではなく、西表に追いやられ、亡くなった子どもたちの魂に、ヤギの人形をあげることで浄化させ、連れて行かれそうになった弟を助けますが、海へと川が流れ込み、浄化されるという大きな構成になっていて素晴らしいと思いました。戦争という大きな悪意に、目を向けないこと自体が大きな悪だという強いメッセージを感じますし、そこに主人公が気付くところで、人間性への期待を持たせる物語だなと思います。

ルパン:とてもおもしろく読みました。最初の「川釣り」に出てくる、川の神なのか化け物なのかが言うセリフ、「命をとったら食べてやらなくちゃねえ」というのが名文句だと思いました。ただ、この人(神?)がこのあとも出てくるのかと思ったらこれっきりで、いったい何者だったのかが気になりました。「青い金魚鉢」は、愛奈さんが何の気づきもなく終わるのが消化不良。ちほちゃんの善意で救われてそれで終わり、本人は何の反省も成長もないまま。何の話なのかな、と、ちょっと首をかしげました。「鬼が守神社」は、p.126の「リョウがいない時のわたしたちには、話すことがほとんどなかった」というのが、女子の関係をよくつかんでいると思いました。「スノードロップ」はいちばん好きな話で、「松井さんが死んだらゴンに悪いです!」とさけぶ男の子に好感がもてました。「果ての浜」は…またそういうことを言う、と言われそうですが、この塾の先生たち、こんな南の果ての病院もないところに子どもたち連れて行っちゃって、何かあったらどうするんだろう、とか、この夫婦にまかせてそんな遠くに子ども行かせちゃう親とかが気になっちゃって、お話にすっぽり入ることができず。でも、こういう歴史を知ることができてよかった、と思いました。ちょうど『アジアの虐殺・弾圧痕を歩く』(藤田賀久著 えにし書房)という本を読んだところだったので、それもあって、自国や近隣の国の歴史の闇についてあまりにも無知だったと考えさせられました。

サークルK:どのエピソードにも畏敬の念という気持ちを子どもが感じられるような不思議な存在が表現された、興味深い作品でした。神様と化け物は紙一重の存在であるとか、川そのものも、普段のあそび場と同じ感覚でいると全く違う表情を見せる怖い場にもなりうるとか、二項対立には収まらない「何だかわからないけれど確かに存在しているもの」への畏れ多さが良く伝わりました。またp.16、p.36の血にまつわる表現はとてもエロティックで大人が読んでもぞくぞくっとしました。古いところでは、映画「禁じられた遊び」に描かれた子どもにも残虐性があることを思い起こすならば、子どもだからと言ってエロス(という言葉は知らなくても)がわからないはずはないのですよね。残虐性とエロスの表裏一体なところをこのような形で表現しているところはすばらしいと思います。これらは最後のエピソード「果ての浜」に出てくる「血の島」につながるのでしょうから、伏線としてもとても心に残りました。

西山:まず「川釣り」で、すごいところをお書きになったなと、いろんな意味でどきどきしました。以前、高校の国語の教材で釣りに関するあるエッセイの一部「姫(ヒメマス)殺しの快感」だったか、そういう表現がカットされていたのを思い出しました。釣りは自然との交歓でありつつ、でも、殺生は殺生。幼児期にどれだけ虫を殺したかが命を尊ぶことにつながるといった発言を目にしたことがありますが、命への興味が「殺す」という行為になっているとして、それが命を尊ぶことにどうつながるのか……。とっとと道徳的に無難な出口を目指すのではなく、すごく危ういところのぎりぎりを見せつけられて、「ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうか守ってほしい」(p.42)という祈りが深く刺さります。そして、作品を重ねて最後にまさか『ハテルマシキナ』が出てくるとは! この構成全体で光を見せていっていると思いました。余談ですが、「青い金魚鉢」で、皿海達哉の短編集『EE’症候群』(小峰書店 1998年)を思い出しました。先生が落ちこぼれの子どもを金魚に変えてしまうんです。こちらも怖いですよ。

エーデルワイス:最近好きな何名かの作家の短篇を読みましたが、長編でおもしろく読んでいた作家も、短篇は?と、思いました。短篇ならではの難しさがあるようです。それに比べ、この作家さんは本当にうまい!と思いました。「川釣り」は怖かったです。個人的には「青い金魚鉢」が好きです。情景が美しいと思いました。

すあま:私はこのタイプの話が苦手で、最初の話から読むのがつらかったです。怖さというよりも、悪意がむきだしなところや、最後に救いがあるのかと思ったら、あるような、ないようなところも、読みづらかったんです。「果ての浜」まできて、これを描きたかったのかなと思いました。夜叉神川をモチーフにしているので、出てくる子どもたちの間に何かつながりがあったらおもしろかったかもしれません。読み手を選ぶ話だと思うので、うまく手渡すことができれば、合う子もいるのかなと思いました。

しじみ71個分:この物語の中ではすべての登場人物が、改心するどうかはわからないまま、オープンエンドになっていますよね。で、主人公の子たちは人間の善性に対して祈るだけなんですよね。実際に、祈っても悪意から帰ってこられない人はいっぱいいるわけで、そこがオープンになって結末まで書かれていないところがミソだし、リアリティなんじゃないかなと思います。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年04月 テーマ:おいしそうなタイトルの本

日付 2022年4月19日
参加者 アンヌ、エーデルワイス、オカピ、カタマリ、サークルK、さららん、シア、しじみ71個分、西山、ネズミ、ハリネズミ、ハル、ヒトデ、雪割草、ルパン
テーマ おいしそうなタイトルの本

読んだ本:

(さらに…)

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『タフィー』表紙

タフィー

カタマリ:詩の形態のYAを読むのは『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ著 青木千鶴 訳 早川書房)以来でしたが、やはりこちらもとても読みやすかったです。話があっちこっちに行ったり、時間が前後したりしても、詩だとわかりやすいですね。正直、文章のインパクトといい、詩の言葉の力といい、『エレベーター』のほうがより力強いかなと思いました。が、こちらの本も、読んでいくにつれ、彼女のやるせない想いが波のように次々と押し寄せてくるのが伝わってきて、せつなく感じました。最後、希望のある終わり方でよかったです。ただ、自分の年齢のせいか、アリソンだけでなくマーラの視点にも立って読んだのですが、そうすると後味の悪い物語なんですよね。認知症だからこそ感じる恐怖があると思うのですが、アリソンはそれを増幅させています。マーラが混乱していても「すぐ忘れちゃうから」とアリソンが軽く通り過ぎる場面がありました。アリソン自身いくら大変な状況にあるとはいっても、ちょっと若さゆえの残酷さだなあ、と。なので、アリソンがいたことでマーラも救われた、というニュアンスのエンディングが少しご都合主義だなと思いました。

ヒトデ:ラップのリリックのような文体に惹きつけられながら読みました。以前、『エレベーター』を読んだときにも感じたことですが、散文、詩の形式で語られる一人称の物語って、すごく「入ってくる(=自分のものとして読める)」気がします。そうしたわけで、アリソンの絶望的な状況とか、たくましさとか、そのなかでちょっと見えてくる希望とか、ユーモアとか、自然の描写とか……そんなアリソンを通して見えてくるあれこれが、胸に迫ってきました。父親の暴力の描写は、本当につらかったです。日本でも、この形式の物語があるといいのになと思います。「一瞬の出会い」という詩が、『サンドイッチクラブ』(長江優子著 岩波書店)っぽいなと思って読みました。

ネズミ:詩で綴られた形式というのが、新たな発見というか、こういう書き方があるのだとショックなほどおもしろかったです。横組みというのも、短い文章に合っていると思いました。散文で書くと論理性が必要で、整合性を持たせながら順序よく語っていかなければなりませんが、これは短い詩で、断片的だからこそ、時間も場所も自由に出たり入ったりできるんですね。ハードな内容もあるストーリーですが、読んで苦しい場面が続くのを避けられるという利点も。行ったり来たりしながら、だんだんと深く入りこんでいく感じがとてもよかったです。『詩人になりたいわたしX』(エリザベス・アセヴェド著 田中亜希子訳 小学館)や、『わたしは夢を見つづける』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 小学館)も、詩の形式でおもしろく読みました。

オカピ:アリソンは父親から虐待を受け、知り合ったルーシーには利用され、マーラの家も荒らされてしまいます。暴力にみちた世界で、砂の城とか、死んでしまうクロウタドリとか、喪失のイメージが重ねられていきます。アリソンもマーラも、手からこぼれ落ちていくものを必死でにぎりしめていますね。アリソンは父親の愛情をあきらめきれず、マーラは記憶を失いつつあって、娘のメアリーが死んでしまったことは忘れているのに、娘がいたことは忘れられない。アリソンの父親は、妻の死にとらわれたままでいる。物語は、アリソンは勇気をもってみずから手を放し、新たな人生を生きはじめるところで終わっています。それが、ヘレナの誕生に象徴されているように感じました。訳もよかったです。日本語の本にしたとき違和感がないように、改行や文字組が工夫されていると思いました。1か所、違うかなと思ったのは、あとがきの「~も詩人による詩形式の小説だ。今年(2021年)もその傾向は変わらず、カーネギー賞はジェイソン・レナルズのLook Both Ways が受賞」という箇所です。前に読んだことがありますが、これは詩で書かれてないので。

ハリネズミ:散文詩だけど、ストーリーがはっきりしていておもしろいと思いました。ただ時間軸が行ったり来たりするので、対象年齢は高校生くらいでしょうか。父親の暴力に怯えて家出をしたアリソンと認知症のマーラが出会うわけですが、ふだんの日常だとまず出会わないふたりが出会うというのが新鮮。その過程でアリソンはだんだん自分の仮面を取っていくし自分の話もするようになって、素の自分に戻っていきます。それも、読者にはよく伝わってくるな、と思いました。さっきマーラの目から見てどうなのかという話が出たんだけど、私もそこは引っかかりました。だれかがそばにいて自分のことを気にかけてくれているのはいいと思うんですが、マーラが最後に行くのは、たぶん孫が住んでいるところの近くにある施設ですよね。でも、この孫のルイーズはお話にほとんど登場しないし、会いに来てもいない。もし著者がルイーズにとってもハッピーエンドにしたいのであれば、このルイーズをもっと登場させておいたほうがよかったのに、と思いました。アリソンは非常に知的な女の子なんですが、16歳になっているのに、父親のことを客観的に見ることができていないのはちょっと不思議。父親については暴力をふるっている場面が多く、いいお父さんの部分は少ししか描かれていない。そうすると、なんでこの子はここまでガマンしてるんだ、というふうに読者は思うんじゃないかな。あとがきのp411「描いてみせた」は、当事者も読むことを考えると、私はひっかかりました。

エーデルワイス:表紙がいつもと反対で中身は横書き。縦書きではないのでドキリとしました。そのうち文章が『詩』の文体で、横書きであることの必然性が分かりました。あとは読みやすかったです。タフィーだと思い込んでいるマーラが切なくて、愛おしい。生きていくには生活が大切です。トフィーことアリーが食べ物を買うためにアルバイトを引き受けたり、家の中を整えたりと具体的に書かれていて好感を持ちました。「トチの実は落ちて・・・」(p.145)のところですが、盛岡市に中央通りというメインストリート(夏の『さんさ踊り』パレードがあるところ)があって、そこはトチの並木道になっています。6月頃マロニエの花が咲き、秋になるとトチの実がバラバラと落ちてきます。頭上に注意と立て看板がでます。私もよく拾いにゆきます。そんなことを思い出しました。

雪割草:いい作品だと思いました。詩の形で綴られた小説には、はじめは違和感があったけれど、だんだん慣れてきて、この形式自体が若者の声を象徴していて、若者は親近感が持てるのかなと思うこの頃です。この作品では、散文詩のぷつぷつと場面が切れる、内的独白の調子が、主人公の置かれた状況の厳しさに合っていると思いました。虐待を受け、守ってくれる大人がいない主人公の女の子と、認知症で家族にも厄介者扱いされている高齢の女性と、2人とも心のどこかで誰かの助けを必要としている気持ちがあって、心を通わせるのがよく描かれていると思いました。そして、主人公が父親から逃れて、携帯をなくし、現実から距離を置いていた時間と、認知症で心がどこかに行ってしまうマーラの時間と、ある意味、2人は特別な時間の中で出会い、一緒に過ごすという描き方も上手だと思いました。「自分の悪いところ、わかってる?そうやってくだらないことばっかり、言ってるところよ」(p.266)など、マーラの放つ鋭い一言もよかったです。エンディングは、大きくはないけれど、ささやかな希望が感じられて、こうしたささやかな温かいことの積み重ねが人生なのかな、と読者も受け取れるのではないかと思います。

アンヌ:横書きだからとためらっていたけれど、読み始めたら止まらず、一気読みでした。認知症の合間に蘇る若いマーラ、恋をしたりダンスをしたりした、一人の人間としてのマーラが見えてくる過程を、時間を行ったり来たりさせながら描いていくところは素晴らしいと思いました。詩ならではの短い言葉による暗示は読者の想像力を駆り立てるし、アリソンがこの家にいるのがいつばれるだろうというスリルもあって、ドキドキしながら読み進みました。それと同時に、アリソンのやけどの理由、父親のDVや、どう見ても悪だくみをしそうなルーシーとの関係は予想がつくから、ページをめくるのがつらいけれどやめられないという感じでもありました。透明人間みたいだったアリソンが、マーラの怪我の後に、きちんと他の大人にも対応できる場面を見ると、尊厳を取り戻したんだなとわかってホッとしました。最後の詩は、かけがえのない友人同士となった2人の別れの場面ですが、マーラが自分を忘れてしまう悲しさと、忘れる自由もある事を歌っているのようにも思えます。詩というのは読み返すとそのたびに違う顔を見せるものだから、もう少し年を取ってから又読みなおしてみたいなと思いました。

サークルK:横書きの体裁でも『エレベーター』を読んで慣れていたこともあり、すんなりお話に入っていくことが出来ました。空白の多い詩の形式ではあるけれど、中身が詰まっていて散文を読むような感覚でストーリーに引き込まれました。以前読書会で読んだ『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール著 河野万里子訳 ポプラ社)が散文であるにもかかわらず詩的だな、と思ったことを対照的に思い出しました。父親の暴力から逃れられないアリソンの様子は凄惨すぎて胸が詰まりましたが、実際日常的に暴力を受け続けてしまうと、気力がなえて抵抗できない状態に陥ることがある、と聞いたことがあるので、彼女の場合もそうなのではないかと推察します。それでも彼女は繊細で頭が良く、認知症のマーラが、時々ドキリとするようなことを直言し(「顔はどうしたの」)その一言を糸口にして、すべてを語ってしまいそうになるアリソンの心模様に共感できました。最後に父親にやられたことをアリソンが正直に言うことが出来て良かったです。認知症の当事者と虐待の当事者という全く違う世界を背負っている2人なのに、なぜかリンクしている世界が描かれていることが素晴らしかったです。

しじみ71個分:散文詩で全編が構成されている作品を読むのは初めてでした。ですが、非常に物語性が豊かなので、普通の物語と同じように筋を追ってすんなり読めました。言葉をギリギリまで絞り込んで、主人公から吐き出される気持ちのエッセンスを抽出して描いているように思います。なので、主人公の切迫した心情や痛みが、ダイレクトに響くので、読んで痛くて、つらいところはありました。アリソンは、父の暴力から逃げて、認知症のマーラの家に無理やり入り込み、彼女の世話をしながら生活しますが、介助の人や息子が家を訪れたときには見つからないかと読んでハラハラし、この秘密の生活がどうなるかというスリルもありました。アリソンは、マーラの昔の友人で、すてきな女の子だったタフィーの幻影を借りて、マーラの前で生きていきます。それは親から暴力を受け続け、存在を否定されたことによる自己の喪失を象徴しているのかなと思いますが、読んでいて本当に悲しくつらいと思ったことでした。マーラも認知症で自分が自分でなくなっていく恐怖やつらさを抱えているので、2人の間にはそこに共通点があるのですね。記憶が行ったり来たりする中で、マーラの元気だったときのエピソードが見え隠れしますが、認知症になる前は、おおらかで朗らかな女性だったことがだんだん見えてきて、マーラの温かさや包容力で、アリソンは救われていく様子が分かります。火傷の痕について、マーラに「顔をどうしたの」と聞かれて、1回目は答えなかったアリソンが、2回目に同じことを聞かれて父さんにやられた、と素直に答えたのに対し、マーラが「あなたは何も悪くない」というシーンは胸にしみました。マーラとの暮らしと、ルーシーから頼まれた裏バイトでお金を稼ぐことで、だんだんアリソンには自己肯定感が生まれてきます。アリソンの視点からだけで語られているので、マーラが何をどう考えているのかはつぶさには分からないのですが、アリソンが次第にマーラに対する愛情を深めていき、クリスマスツリーをつくってあげようと考えたところで、改行の工夫で、詩がクリスマスツリーの形になっている(p.317)のは、アリソンのうきうきした楽しい、やさしい気持ちを視覚的に表しているんだと思って、かわいいなと思いました。稼いだお金でマーラが好きなジャズシューズを買ってあげるのも素敵です。結末に向かっていくところですが、ケリーアンが病院で産気づき、それをマーラがさらりと受けてナースコールを押す場面や、パートナーや家族のいない出産におびえるケリーアンを、「みんなひとりきり」といって慰める場面もマーラの強さと魅力を存分に物語っています。そして、最後に、マーラがそれまでタフィーと混乱して認識していたアリソンを、アリソン自身とちゃんと認識して、名前を呼びかけたことで、アリソンが自己の存在を肯定し、自分を自分として認められるようになりますが、そのことを語る「わたしはアリソン」という詩は、物語のクライマックスとして大変に感銘を受けました。3人のこれからがどうなるかという結末ははっきりとしませんし、おそらく施設に入るマーラと、ケリーアンと赤ちゃんと3人で暮らすだろうアリソンたちのそれぞれの人生が本当にうまくいくのか、いかないのかは分からない微妙な感じで終わりますが、登場人物たちに希望を持って、がんばってほしいと思ってしまいました。

西山:いちばんびっくりしたのは、最後に訳者あとがきを読んで初めて、これが「詩」だということを知ったことです。自分にびっくりです。確かに見た目は詩形式ですが、いまどき、1文ごとに改行している作品もあるし、一人称でほぼ心の声でできているような作品にもなじんできたので、その類いかと……。つまり、「筋」と「意味」ばかり追う読み方をしてしまいました。(追記。読書会中は「散文詩」と言われていましたし、自分も使ったと思いますが、これは「散文詩」でしょうか。「散文詩」というのは、見た目は完全に、普通の小説のような感じで、でも、イメージの飛躍などで、明らかに言葉の質が一般的な散文とちがうものと認識していました。) その「筋」「意味」で特に新鮮だったのは、認知症の現れ方で、幼女のようになってしまうのではなく、性欲というのか、異性への意識が出てくる部分です。p.255ページからの「紅茶とカップケーキでおしゃべり」で若者のお尻に注目しているし、p.371からすると、付き合っていた「変わり者のじいさん」は妻子持ちだったんですよね。断片的に見えてくるマーラの人生が興味深かったです。

ハル:いま、海外小説ではこの散文詩の形態がトレンドだということで、1度みんなで読んでみたいな、というより、皆さんに読み方を教えていただきたいなと思っていました。私自身は、「詩」というものにあまりなじんでこなかったので、詩の定義ってなんだ? と思っていましたが、何冊か読んでみて、ようやく、こういう形態でこそ表現できるものがあるんだな、というのがわかりはじめてきたところです。「詩」というと、美しく包んで飾っているようなイメージがありましたが、タフィーの物語は、この形でこそ、むしろ飾らず、うそいつわりのない言葉で綴れるんだろうなぁと思います。なんというか、そのとき、そのときの気持ちに素直で、読者としても整合性を気にせずに受け止められるというか。ただ、私は頭がかたいので、やっぱり縦書きで読みたいなぁと思いながら読み始めましたが、最後のほうでクリスマスツリーが出てきたので、だから横書きだったのか、と納得しつつ、ちょっと笑ってしまいました。もっとも、途中からは縦書きか、横書きかなんて、気にならなくなっていましたが。

ルパン:内容はとてもおもしろかったのですが、正直、私は詩の形式でなくふつうの物語形式で読みたかったです。タフィーがどんな人物で、マーラとどういう関係だったのかとか、もっともっと具体的に知りたい、と思うところがたくさんあって。あと、p.38みたいな形式が何か所かあるんですが、先に左の列を縦に読んでしまい、それから右の列に行ったので、わけがわからなくなりました。これは各行を横に読むべきなんですね。それがわからなくて読みにくかったです。

ネズミ:どっちから読んでもいいように書いているんじゃないかな。

ハリネズミ:ここは、ホットクロスバンていうイースターに食べる、十字が入っているパンの形になっているんだと思うけど。

ルパン:あと、地の文と、だれかのせりふの部分で字体を変えているようですが、それも目立った変え方ではないので、ずいぶん読み進めてから初めて気がつきました。

ハリネズミ:原文はイタリックなんでしょうね。日本語の本ではイタリックは読みにくいしきれいでもないので、普通は使いませんよね。で、イタリックにしただけじゃわからないから太字にしてるのかも。日本で出すならカギカッコにしてもいいのかも。

ルパン:同じ行に2つの字体が入り交じっていたりしますよね。

ハリネズミ:原文どおりなんでしょうね、きっと。日本語版はもう少し工夫してもよかったのかも。

ルパン:ところどころ、せりふは字下げで始まる場合もあるんですけど、そうでないところもあり、まちまちですよね。たとえばp.81は、父さんのせりふは字下げがなく、ケリーアンのせりふは字下げがあり、その次の地の文もそのまま字下げに頭を合わせていて……そういうところが、ちょっと気になりました。

シア:散文詩形式の本は珍しいので、目新しさを感じました。でも読むと普通に読みやすくて、一気に読めました。とはいえ、かなり重い内容なため、こういう形式だと情緒的になるので、さらに苦しさが増すような気もしました。そこも狙いだと思いますが。短い文章が続くので、生徒など若い世代には更に読みやすいのではないかと思います。ただ、本の見た目が分厚いので、そこをどうクリアさせるかが問題ですが。貧困やDV、キャラクターの掘り下げは、さすが海外作品らしい切り込みの鋭さがありました。その辺りは長江優子さんの『サンドイッチクラブ』とは一線を画していますね。とにかく、子どもたちがポエムというものに触れるには良い本だと思います。表紙もオシャレで素敵な作品でした。表紙の女の子の顔に葉っぱついてるよ、と思ったらとんでもなかったって話ですが。

ハリネズミ:アメリカで賞をとる作品は、今、散文詩の形式の物が多いですね。時間軸でしばられず、パッチワークのように書いて全体像を浮かび上がらせることができるという特徴があるようです。あと認知症にもいろいろな段階があって、まだら認知症の人は、意識がはっきりしている時とそうでない時があるようです。昔に戻って若い頃の自分が出てしまったりする人、子どもに戻ってしまう人もいるらしいですね。マーラも、その状況なので、認知機能が戻ったときはきっとつらいのではないかしら。

ネズミ:私は、この本の中では、マーラがアリソンと最後、ダンスを披露するシーンが好きでした。

ルパン:私は、時計をルーシーに盗られてしまったあと、マーラが、それがあった場所をじっと見つめたまま何も言わない、というシーンは、せつなくて本当に泣きそうになりました。

西山:ちょっとうかがっていいですか? これが「詩」だと分かっていたら、改行ごとに間を置いたりして、もっと違う受け止め方ができたのにと反省していて思いついたのですが、こういう作品、欧米では朗読する機会など多いのでしょうか? これ、声に出して読み合ったらおもしろそうだと思いまして。

ハリネズミ:学校で詩を声に出して読むことはよくあると思うし、著者が学校を訪ねて自分の散文詩作品を読むこともしょっちゅうあるかと思います。

オカピ:『詩人になりたいわたしX』(田中亜希子訳 小学館)の著者のエリザベス・アセヴェドは、自身もポエトリースラムをしていますよね。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『サンドイッチクラブ』表紙

サンドイッチクラブ

アンヌ:表紙も題名もおいしそうだったのに、残念ながらサンドは砂でした。それでがっかりしたせいか、おもしろく読めませんでした。特に勝田家の兄弟が苦手で、弟のアイネとハイネたちは傍若無人で、葉真(ヨーマ)もヒカルに「一生負け犬だ」なんて言う。彼の言動を「すがすがしいほど自己中心的」なんていう風に肯定的に感じられませんでした。砂像作家のシラベさんは、ホッとする人格で、最後に「きれいなのは砂が砕かれた地球の一部だからじゃないかな。ひと粒一粒にこの星の誕生から今日までの記憶が宿ってるんだ」(p.236)なんて、心に残ることを語ってくれて、砂は悪くないと思えました。物語の舞台は高級住宅地でしょうか? 500円のクロワッサンが飛ぶように売れて、2つの塾に通わせて私立校を受験させる親がいる安全な場所。そこに、シラベさんの海外での体験や現実の隣国のミサイル実験から、ヒカルの祖母の「戦争はまだ続いている」という言葉が現実として入り込んでくる。けれど、その戦争に関する意識がヒカルや珠子のなかで、どうなって行くのかわからないまま終わっている気がしました。

雪割草:あまりおもしろいとは思えませんでした。さわやかで、砂像というアイディアはおもしろかったけれど、キャラクター設定が漫画っぽい感じがしました。葉真が好きなことがわかっていて、それをやるんだと決めている姿は気持ちよく映りました。でも、家族みんなアーティストで、だから自分もアーティストになるんだという決め方にはなぜ?と思いました。それから、ヒカルがおばあちゃん子なのはわかるけれど、戦争のかぶれ方が極端だと思いました。最後までお母さんも登場せず、ヒカルはどんな家庭の子なんだろうと気になったので、もっと早く家族関係を描いてほしかったです。そして、主人公の珠子の心の整理を受験や塾で表現するのに違和感を覚えました。実際、今の子はこうした環境に置かれているのかもしれないけれど、いいとは思えませんでした。

エーデルワイス:前に読んだきり内容を忘れて慌てました。主人公の珠子とヒカルの対比がおもしろかったです。ヒカルはおばあちゃんの影響が大きくて、おばあちゃんの言葉に囚われているようで心配になりました。現代は塾が大きく存在を発揮して、塾は当たり前のこととして書かれているので、改めてそうなのかと思いました。小学校6年生女子の会話がまるで中高生のような会話に聞こえ、ずいぶん大人びていると感じました。砂の彫刻について知らなかったので、そこが新鮮でした。

ハリネズミ:ずいぶん前に読んだので印象が薄れているのですが、この本は小学校高学年の感想文の課題図書なんですね。私がおもしろいと思ったのは、見えているものだけで判断しないほうがいい、という考え方がずっと一貫しているところです。それと、著者が今の子どもと、歴史とか外の世界を結びつけようとしているのもいいな、と思いました。砂の彫刻については私も知らなかったので、へえ、そうなんだと思ったし、時間をかけてていねいに作ったものでも崩れてしまうとか崩してしまう、というところもおもしろいですね。ヒカルが戦争にここまでこだわるのは、もちろんおばあちゃんの影響もあるのでしょうが、私も少し疑問に思いました。キャラクターは、あえて少しずつデフォルメしているのだと思ったので、リアリティに対する違和感はあまりありませんでした。

さららん:タイトルのつけ方が秀逸で、読むまでは、ずっとサンドイッチの話だと思っていました。目次の言葉選びにも意外性があって、読者を惹きつけます。作者は、少しずつずらしながらイメージの関連性をつくるのがうまくて、例えば珠子がタマゴと呼ばれ、そのタマゴの持ってきたのが「ポンデケージョ」という丸いパン。そのパンも小道具として効果的に使われていますね。ヒカルの家の「漂白剤」の匂いも、ヒカルや祖母の潔癖さの象徴のように感覚に残りました。そして砂像づくりという、まったく知らないアートの世界を通して、子どもたちの成長を伝える点がとにかくユニーク。違う時間軸の中に生きるシラベさんと出会えたことが、人生の岐路にある子どもたちにとって、大きな意味をもちますよね。お金はあるけど、やりたいことがわからない珠子と、貧乏だけれど、頭がよくて、「大統領になったら、戦争のない世界を作りたい…(中略)…世界があたしを置きざりにするつもりなら、ダッシュして先頭に立ってやる」というほど、つっぱったヒカル。2人の立場もキャラクターは対照的で、この2人にちゃんと共感できれば、勝田葉真との砂像づくり対決の物語に夢中になれるはずなんですが、2人の切実さに私はいまひとつ、ついていけなかった。作者には、社会にまず伝えたいメッセージがあり、それに合うキャラクターを持ってきてドラマを作ったのではないかと感じてしまったんです。最後の頁のタマゴの思い、「変わらない景色の中で、砂はたえず動いている。毎日は同じことのくりかえしのようで、そうではないはず。見えない変化が積みかさなって、新しい自分になっていくはず。明日のわたしは今日のわたしじゃない」(p.237)は、少しまとめすぎに感じられ、お話全体の中でこのことを感じさせてほしかったです。このセリフは、ややテレビドラマ寄りだと思いました。

オカピ:塾と学校という、狭い世界で生きていた珠子は、新たな友だちと砂像彫刻に出会い、視野を広げていきます。シラベさんが海外で、銃弾や赤ちゃんのおしゃぶりを砂の中に見つけたという話を聞く場面では、近所の公園から、戦争や難民の問題につなげているのがいいなあと思いました。ペンギンの骨格を調べ、それを砂像づくりに生かすのは、それまでやらされていた勉強が、知りたいことに結びつく瞬間ですね。ヒカルが「ケンペー」という言葉をよく口にするのは、少し違和感がありました。もし今の時代に戦争が起きて、憲兵のような人たちが出てきたとしても、それはべつの名前になるだろうから。p143にあるように、ヒカルは「心だけ別の世界に行ってしまう」ということなのでしょうが。

ネズミ:中学受験や塾に行くのが前提になっている日常というのが、今の小学生にはあたり前のものなのかなと思いながら読み始めました。地方でもそうなのでしょうか。

エーデルワイス:東京とは違い、私が住んでいる地方では、私立中学受験がないわけではありませんが、少ないです。小学生は『くもん』に通っていますね。

ネズミ:そうなんですね。小学6年生にして進路選択を迫られるとこうなるのかもしれませんが、ヒカルや珠子の心持ちや人物像を私は今ひとつはっきりととらえられず、物語に入り込めませんでした。だからか、作者がいろんな問題意識を読者に投げかけているのは好感を持ちますが、やや全体にごつごつした印象というか、取って付けたような感じがしてしまいました。たとえば、p133の、マルタ島の赤ちゃんのおしゃぶりに始まる難民の説明とか。思いがけないところで私たちのすることは世界につながっているというのを、作者は示したかったのかもしれませんが。

ヒトデ:「砂像」というテーマに、著者のセンスが光っていると思いました。タイトルの付け方も魅力的で、著者ならではのものだと感じました。「現代の子どもたちに、戦争のことをどう伝えるか、どう考えてもらうか」という難しい課題に、ハムと祖母とのやりとりや日常に影を落とすように出てくる「ミサイル」という装置を使いながら、この物語ならではの方法でアプローチしているところがいいなと思いました。現代が過去とつながっていること、戦争が決して、断絶した「過去」の話ではなく、現代そして未来にも起こり得るものであることを伝えているところが、とってもいいと思いながら読みました。

カタマリ:初めて読んだときは、砂像の話に引き込まれつつ、要素がいろいろ盛り込まれ過ぎているため、少し散漫かなと思いました。今回再読したときは、散漫には感じず、とてもおもしろく読みました。砂像のはかなく消えてしまう、という特質が物語全体にいい味をもたらしています。登場人物の女の子たちの書き分けもうまいなと思いました。塾で女の子たちがわちゃわちゃ会話していても、誰かと誰かがごっちゃになることもなく、スムーズに読めました。敢えて1つ言うとすれば、砂像バトルが盛り上がりに欠けるんですよね。それは、大会などではなく、私的な勝負だからということもあるのですが、いちばんの理由は、主人公とヒカルは成長しているのに、ライバルの葉真が成長していないからではないかと考えました。最初からすごくできる人で、ずっと似たものを作り続けているんですよね。彼が壁を突き抜けてさらに成長するシーンがあると、主人公たちの頑張りも際立つのかなと思いました。

シア:砂像アーティストというのを知らなかったので、おもしろく読みました。受験期の子どもがストレスから別のものにハマるという話は多くありますが、この本は保護者が適度な距離を持って接している理想的な形だと思いました。そのため、主人公はそれを理解したうえでゆとりを持って自分の進路を考えることができました。現実ではなかなかこうはいきまません。実際、中学説明会の教師ひとりの面談で決めるというのは微妙ですしね。だからそういった意味でもフィクションな面が強いし、戦争や貧困などいろいろな問題も盛り込まれていましたが、どれもふわっとさせていて、なんとも小綺麗なまとめ方をしたなと思いました。まあ、そういうのは嫌いじゃないので、それはそれでありかなとは感じました。まるでサンドイッチの断面のような、作られた美しさではありますが。「サンドイッチクラブ」という題名も“サンド”と“砂”とひっかけていて、ここも上手くまとめていますね。

ルパン:これは、申し訳ないけれどおもしろいと思えませんでした。いろいろ盛り込まれているんですが、何もかも中途半端な感じで。砂像、中学受験、経済格差、ミサイル問題、友人関係……。唯一筋が1本通っているのは葉真かな。「教室の中でじっとしていられないから外に出て砂像をつくる。そして世界的なアーティストになる」という。でも、それも、誰かに何かを伝えたいとか、何かを主張したい、という感じではなくて、ただ有名になりたいだけみたいだし。それでも、よくわからない方向転換を繰り返すヒカルや珠子よりはましかな、という気がしました。葉真の弟たちもなぜふたごの設定なのかよくわからない。このお洒落な名前を出したかっただけかも、と思っちゃいました。ただ、砂像というのはいいモチーフだと思いました。検索したら、すばらしい砂像がたくさん出てきて、感心しました。砂像の迫力とはかなさの魅力をもっと物語の中で活かせたらよかったんじゃないかな、と思いました。

ハル:いろいろな要素がからまっていて、とてもおもしろかったけれど、すごく上手かといったらそうでもないような。ところどころで「どうしてこういう表現になるのかな?」と浮いてしまうような部分もあり、それは私の読み込みが足りないだけじゃなくて、書き込みも足りないんじゃないか……という感じがしました。印象に残っているのは、「世界にはばたくリーダーとなれ」なんてスローガンをかかげている学校の先生が、とてもいい大人だったこと。ヒカルのような子がいる一方で、珠子のように、将来の夢なんてわからない、という読者のことも、それでいいんだと包んでくれて、とても心強く思いました。もうひとつは、ヒカルのおばあさんは、実は戦争を体験していなかったというところ。隔世の感がある、と言うと語弊があるかもしれませんが、ぞくっときました。呪いのように残り続ける憎しみこそが、次の戦争の種になるんだということでしょうか。

西山:どうも腑に落ちない……。長江さんは他の作品でも戦争をめぐる題材を持ち込んで書かれていて、それ自体は賛成だし、題材の選び方も珍しかったりするし、そういう問題意識には共感するのですが、作品というまとまったイメージとして、捕まえ切れません。なんでだろう……。たとえば、ヒカルは最初アニメ的なエキセントリックな設定と感じたのですが、おばあちゃんの呪いに囚われていて、ミサイルへの異様なまでの危機感(危機感を持っていない方が「異様」とも言えると思いますが)とか、その辺がアンバランスで、どう読めばよいのかよくわかりません。ヒカルにさんざん戦争体験を語り聞かせていた祖母が実は戦後生まれだと知った後の、「たぶん、昔話として孫に戦争を語っても、伝わらないって思ったんじゃないかな。自分が体験したように話したほうが迫力でるでしょ」(p55、1行目)は、相当強烈な皮肉と平和の語り方に対する問題提起になっているけれど、この件はこれで放り出されているまま。戦争に怯えているヒカルの状態は病的と言って良いほどだと思いますが、それもほったらかされている。ヒカルは自分に敵対する言動に対する反撃として「ケンペー」を口にしますし、「そうだね。あたしたち、シャベルの使い方がうまいから防空棒を掘るときに重宝されるよ。ケンペーだって、あたしたちに一目おくにきまってる」(p142-143)ともあって、憲兵が味方みたいな位置付けなのも腑に落ちません。おばあちゃんは「戦争体験」どんなふうに伝えたんだろうと。すごくアグレッシブに問題提起しているんだろうけれど、つかみあぐねる感じです。絶妙な表紙絵ですし、ハムとタマゴで「サンドイッチクラブ」なのも楽しい仕掛けではありますが、おいしそうなサンドイッチの話でないことにがっかりする子どももいると思います。小学生の頃、吉田としの『小説の書き方』(あかね書房)が、全然「小説の書き方」の本じゃなかったことにがっかりした経験を思い出しました。

しじみ71個分:この本は再読ですが、料理に関する本かなとタイトルで手に取りましたので、「やられたな(笑)」と思った記憶があります。1回目に読んだときは、砂像を作る話だという以外は、あまり印象に残っていなかったのですが、JBBYのイベントで、長江さんのお話を伺い、こういうことを考えておられる作家さんだったのかと思い、今回、興味を持って改めて読み返しました。はじめて読んだときは、メッセージを伝える素材である砂像から世界が見えるということや、戦争のイメージを刷り込まれた子どもが登場するなどということはあまり記憶に残らなかったのですが、読み直すと、少し作家の考えやメッセージがストーリーから飛び出している感じを受けました。なので、背景やら、物語の彩りの部分を除けば、珠子という主人公の朗らかな女の子が、ヒカルと出会ってサンドアートを体験し、自分で自分のことを考えるようになり、孤独だったヒカルも友だちを得て、日常とのバランスを取り戻していく、というシンプルな友情の物語だな、という印象です。サンドアートはおもしろい着眼点だと思いますが、世界や戦争などの要素が、2人の少女たちの関係や心持ち、成長といった物語の柱に対して、それほど効果を生んでいないのかなという気もしました。表現はところどころ、とてもいいなと思いました。たとえば、ヒカリがライオンの砂像にまわし蹴りをくらわすところで、「ふりあげた足からビーチサンダルがぬげて、雨の中をロケットみたいに飛んでいく。」(p.42)とか、「光の粒子がまぶたをすりぬけて、星のように暗闇の中でチカチカとまたたいている。」(p.128)とか、体感的ですてきな表現がありました。美しい表現をされる作家さんなので、これからの作品にも期待しています。

サークルK:受験を控えた6年生女子のモヤモヤが言語化されていて、受験することがつらくなって逃避していく展開なのかと思いましたが、砂像をめぐる新しい友人たちとの出会いによって自分を見つめなおす機会が生まれていくという物語になっていたのだとわかりました。(ただ、夏休みをここまで使ってもう1度受験勉強生活に戻っても、時間的に間に合うのだろうか、やる気だけでは乗り切れないのではないのかという現実的な心配がありますが。)p.57ページのヒカルの独白は、2022年4月の現在に起きているウクライナでの戦争を踏まえれば、より一層重いものと受け止めました。ヒカルが、だからアメリカに行きたい、と短絡的に発想する所には、世界を救うために飛び出していく行先がやっぱり欧米が主体になってしまうのだな、と少々苦笑してしまいました。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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