投稿者: sakuma

金鉱町のルーシー

カレン・クシュマン『金鉱町のルーシー』
『金鉱町のルーシー』
カレン・クシュマン/著 柳井薫/訳
あすなろ書房
2000.06

モモンガ:カレン・クシュマンの前作『アリスの見習い物語』(柳井薫訳 あすなろ書房)も、好感のもてる作品だったけど、今回もまたよかったわ。前作は時代設定がとても古かったけど、この作品はゴールドラッシュで、もうちょっと新しいから、時代背景も理解しやすかった。母と娘の関係がユニークね。なんていっても、お母さんの個性が強烈! ルーシー本人は、静かに本を読んでいるのが好きっていうおとなしいタイプの子でしょ。だから、お母さんのほうが前面に出てて、印象深かった。少女の成長を描いた物語って、今いるところから出ていくっていうのが多いでしょ。でも、これは逆パターン。あんなに東部に帰るためにがんばっていたけど、最後はカリフォルニアにとどまることを選択する。この選択がたのもしい! 結末が図書館をつくるというのは、ちょっとハマリすぎの感もあるけど……。

すあま:図書館員にとってはうれしいところ。評価のポイントがピピピッとあがっちゃう。

アサギ:私もおもしろかったわ。ノンフィクション的なおもしろさ。ルーシーの生活ぶりが興味深かった。切り傷にクモの巣と黒砂糖の混ぜたものをあてるとか、食べすぎのときは、砂糖を入れたトウヒの煎じ薬を飲ませるとか、料理の仕方、ほら、あの干しリンゴのパイとかね。ゴールドラッシュのころって、こんな感じだったのかな、と思った。でもね、最後まですーっと読んだし、いい作品だと思うけど、ものすごーくおもしろいというわけではなかったの。「おもしろい」というより、「興味深い」と言うべきなのかしら。惜しいと思ったのは、ユーモアが活きてないこと。さらっとした訳だからかな、とも思うんだけど。たとえばね、買ったスイカがとても重くて、運ぶのがたいへんという場面で「すいかに取っ手をつけなかったのは神様の失敗だと思った」とか、森の中で暮らしてる野性児のようなリジーのことを「首の垢にジャガイモが植えられるほど汚い」とか、おもしろい言い回しはそこここにあるの。でも、それが「気がきいてるぅ!」っていう、しゃれた表現には感じられなかったのよね。せっかくの、ユーモラスなところが、目立たなくなっちゃってる。それがちょっと残念ね。あと、クーガンさんは、ほんとにガラガラヘビのジェイクだったの?

オカリナ:どうかな? ほんとのところどうだったのかは、書いてないんじゃない?

アサギ:それと、ルーシーとリジーが、泥だらけでふらついてるインディアンの女の子に遭遇する場面で、生理の話をするでしょ。リジーは「生理中の女がさわるとミルクがだめになる」って言うんだけど、それって、魔女に対して言われてることと同じじゃない? 生理中の女と魔女って、リンクしてるんじゃないかと思うんだけど。穢れてるってことかしらね。近づいてはいけない存在っていうか・・・。私は、いずれにしても、こういう生活ぶりはおもしろいと思ったけど、強烈にひきつけられるというものは、なかったな。

オカリナ:淡々としてるからね。

アサギ:ねえ、いつ気づいた? ルーシーがラッキーディギンズに残ることに。

モモンガ:私、最後まで気づかなかった。

アサギ:あ、よかった。仲間がいたわ。私も最後まで気づかなかったの! だから、ラストは意外性があって、とってもよかったのよ。途中はあんまりインパクトがなかったから、なおさらね。私は映画でもなんでも、いつも最後まで気がつかなくて、作者の思惑どおりにびっくりしちゃうタチなもので、みなさんはどうだったのかなと思ってたのよ。

モモンガ:最後が印象的よね。途中こまかいことは、あんまりよくおぼえてなくても、この結末だけは、心に強く残っているもの。

アサギ:だけど、すごいわね。15歳の女の子がこういう状況で母と離れ、自分の道を選び、ひとりで歩いていこうというんだから。現代の日本の15歳とは、ぜんぜん違うのよね。

ウォンバット:ルーシーをはじめ、登場人物がみんなたくましい! バイタリティにあふれてて、悲惨な状況にもメゲないんだな。弟の死とか、悲しい出来事もあるけれど、悲しいときにはさめざめと泣いて気持ちを落ち着けて、明日はまた新たな気持ちで立ち向かおう! という姿勢が、なんてったって好き。やっぱり、いつも前向きでいなくちゃねという気持ちにさせられた。あと、忘れられないのは、助け合いの精神と荒くれ男の人情味あふれるやさしさ。お母さんたちがサンドイッチ諸島に渡るお金が足りないっていうとき、ひげのジミーがこっそり自分の金歯をさしだすところと、火事で本をなくして悲しんでるルーシーに、ミズーリから『アイヴァンホー』が届く場面ではうるうるしちゃったな。

モモンガ:あ、そうそう! 思い出した! このあいだ、この本の原書を見る機会があったの。クシュマンの第1作Catherine, Called Birdy(未邦訳)とTheMidwife’s Apprentice(『アリスの見習い物語』)、そしてThe Balladof Lucy Whipple(『金鉱町のルーシー』)、3冊一緒に。どれも表紙は女の子の絵なんだけど、とても印象的だった。3冊とも、強い意志が感じられる表情をしてるのよ。ちょっと鬼気せまる感じで、こわいくらい。笑ったりしてなくて。The Ballad of Lucy Whippleは、スッと正面を見すえてる女の子の絵なんだけどね。3冊並べてみるととっても迫力があって、「歴史モノ!」って感じなの。原書とくらべると、日本版は同じ本とは思えない雰囲気。印象がぜんぜん違う。

アサギ:そういえば、翻訳もので、原書の絵をそのまま使うことってあまりないわね。どうしてかしら。テイストが違うから?

オカリナ:うーん。そうはいっても、半分くらいは使ってるんじゃないかしら。ドイツものは特にテイストが違う場合が多くて、あんまり使ってないかもしれないけどね。

アサギ:そう言われてみれば、そうかも。中学生以上とか、読者の対象年齢が高いものは、けっこう使ってるかもしれないわね。もっと小さい子向け、小学校低学年向けのものなんかは、あんまり使ってないと思うけど。

オカリナ:それに、原書の絵を使うとなると、テキストとはまた別に、版権料を払わなくちゃいけなくなるでしょ。だったら、日本人に合ったものを、あらたに描きおこしてもらったほうがいいって考え方なのかもね。

アサギ:この本、読者対象は、どのくらいに設定してるのかしら?

ウォンバット:中学生以上って感じかな。

すあま:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、人にすすめられて読んだのね。すすめられなければ、たぶん読まなかったと思うんだけど、読んでよかった。おもしろかったから! お母さん、ほんと強烈。日々の暮らしはたいへんだし、弟の死とか、シビアな面もきちんと描かれているんだけど、ユーモアがあるから楽しく読めた。母娘のやりとりも笑える感じ。ルーシーは東部にもどるためにお金をためてるんだけど、貧乏くさくなくて、よかった。そんなの、まじめに書いてあったら「おしん」みたいで、つまんないとこなんだけど。でも、おもしろく書いてあるからね、これは。終わり方も、ヨシッ! 主人公に素直に共感できた。本の好きなひとりの女の子として、ついていける。図書館関係者としては、数少ない本をみんなで大事に読むところ、1冊の本が、いろいろな人をめぐりめぐって、またちゃんとルーシーのもとに返ってくるところが、とりわけうれしい。ほらね、アメリカでは、もうこの時代から図書館がちゃんと機能してたんだからねって、いばりたい気持ち。でも、そういうこと言いはじめると、日本と比べちゃってねぇ・・・。ちょっと気持ちにダーク入ってきちゃうんだけど。それにしても、このお母さん、めちゃくちゃだよね。ルーシーは、親のエゴでこんなところまで連れてこられちゃってるわけでしょ。ほんとは静かに本を読んでいたい娘に向かって、「はい、ライフル」って狩りを強要する母だもんねぇ。第一、子どもの名前に「カリフォルニア」なんてつけるかね、普通? そして、それが気にいらないからって、自分で勝手に名前を変えちゃう娘のキャラクターもいい。そういうところも共感できるのが、いいよね。ストーリーはとってもいいと思うんだけど、難をあげれば、見た目とタイトルが、ちょっとね・・・。

モモンガ:このタイトル、「金鉱町」っていう文字が、なんとも硬い感じなのよね。

すあま:この本がポンッと図書館の棚においてあっても、中学生は手にとらないと思う。だから、こういう本こそ、書評なんかで紹介されるべきなのよ! 内容がわかれば、おもしろそうと思って手をのばす子もいるでしょ。ほっといても売れる本は、何もしなくたって売れるんだから、書評で紹介する必要なんてないの。ほんとは。ゴールドラッシュの雰囲気もよくわかるし、それこそ「大草原の小さな家」シリーズとあわせて紹介するのもいいかも。『アリスの見習い物語』は、もうちょっとおとなしい感じだったよね。あれはあれで、また違った雰囲気でおもしろかった。ま、それはおいといて、私が主張したいのは、この本、装丁と内容が合ってないってこと。タイトルもイマイチ。読んでみたら、この表紙から受けた印象とはまったく違ってて、いい意味で裏切られたかって感じでよかったけど、本としては損だよね。

モモンガ:「この女の子、だれ?」って感じよね。ルーシーにしては、幼すぎるでしょ。

オカリナ:「意志をもって生きていこうとする女の子」っていうのが、この作品のいいところであり、読者を獲得しやすいところだと思うんだけど、この表紙では、それが伝わってこない。

すあま:この絵だと、東部に帰るために自力でなんとかしようと奮闘する女の子っていうより、「帰りたーい」とかいって、めそめそしそうな女の子に見えちゃう。

アサギ:可憐な感じ。きれいな絵だと思うだけど、内容を考えるとちょっとね・・・。

すあま:いい絵だけど、この話には合ってない。

ウンポコ:タイトルの「金鉱町」というのも、ちょっとイメージがうかびにくいんだよな。

すあま:こういう「もったいない」っていうか「惜しい」本って、いっぱいあるよね。そういう本を前にすると、つくった人間は、ほんとに売る気があるのかぁ?! ってききたくなっちゃう。こんなんで、子どもにアピールするつもりがあるのだろーか。

モモンガ:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、自分のなかでは「女の子が、自分にあった仕事をさがしていく物語」と位置づけているの。ゴールドラッシュだから「金鉱町」にしたんだろうけど、「金鉱町」なんて、今の日本の子どもたちには、なじみがないと思うんだけど。

アサギ:ちょっと遠すぎる世界。

オカリナ:今の児童書をめぐる状況って厳しくて、せっかくのいい作品も初版4000部作って、それが売りきれなかったら、 すぐに絶版になっちゃったりするじゃない。それじゃ、もったいないと思うのよね。この本も「今年のよい本2000年版」なんかには、きっと選ばれると思うけど、息長く読みつがれていくかどうかは、ちょっと疑問。あとね、逃亡奴隷が出てくるでしょ。私は「カラード」っていう言葉に、ひっかかったの。アメリカでは、黒人の呼び方に歴史的な変遷があって、ニグロ→カラード→ブラック→アフロ・アメリカン→アフリカン・アメリカンって変わってきてるんだけど、「カラード」というと、奴隷だったということが、うまく伝わらないんじゃないかと思う。南アフリカでは、黒人と白人のハーフやインド・パキスタン系の人のことを「カラード」というんだけど、アメリカでは混血じゃなくてもカラードって言ってたからね。

モモンガ:今、アメリカでは、「カラード」って言葉は使わないの?

オカリナ:あんまり聞かない。皮膚の色だけを、具体的に示す場合には使うこともあるだろうけど、それ以外では、使うことないんじゃないかな。

モモンガ:アジア系の人もふくめて、白人じゃない人はみんなカラードなのかと思ってた、私。

オカリナ:今は、とにかくアメリカ人は全員「アメリカン」でしょ。皮膚の色などにこだわるな、っていう気持ちもこめられてると思うけど。それにしても、「カラード」っていう言葉、子どもには、わかりにくいよね。

アサギ:「ニグロ」っていうと、差別的なひびきがあるでしょ。ドイツでは「ネーガー」っていうけど、そこに差別的な意味があるとは思えない。

オカリナ:ニグロにしてもネーガーにしても、元の意味は「黒」だから、それ自体は差別じゃないんだけど、歴史的にその言葉がどう使われてきたかで、いろいろな意味が付け加えられてしまうのよね。黒人が身近にいる国と、そうじゃない国の違いもあると思うし。

アサギ:日本も身近ではない国だけど、なんて呼んでるかしらね、最近は。

ウォンバット:アフリカ系にしても、アジア系にしても、必要がないときはわざわざ書かないようにしてるんじゃない? 新聞なんかでは。中国系だったら名前でわかることもあるけど、そうでもなければ、顔写真をみてはじめて人種を知るっていうこともあるよね。山田詠美は、たしか「アフリカ系アメリカ人」を使ってたと思うけど。

アサギ:でも、文学辞典なんかで、人種をテーマにして書いている作家なんかの場合には、その人の肌の色とか人種の情報も重要なんじゃない?

オカリナ:そういう場合は、解説のなかで、わかるようにしてるんじゃないかな。名前のすぐあとに「黒人作家」なんていうふうには、書かないようになってきてるということだと思うんだけど。
私は、この作品、最初はてれてれしてるなぁと思ったのね。それが、火事が起きるあたりからぐぅっと引きこまれていって、最後は「こうくるかっ?!」と思った。歴史小説だから、アメリカの子どもだったら、きっとおもしろがるだろうね。日本の子どもには、あんまり身近に感じられないだろうけど。日本の作家も書いてほしいな、こういう歴史ものを。日本では、古い時代のものだと、女の人って一歩うしろにさがった存在として描かれることが多いでしょ。そうじゃない女の人って、大人の小説には出てくるけど、子どもの本にはまだあんまり登場してない。それとも、私が知らないだけかな。おもしろいと思うんだけどな、日本版のこういう話。だれか書いてくれないかしら。

モモンガ:私、NHKの朝の連ドラって、けっこう好きなの。とくに、大正から昭和初期の少女の自立もの。時代的に女の人にとっていろいろ障害が多いから、ドラマチックになりやすいのね。それをはねのけて生きぬいていくっていう話、とってもおもしろいと思うんだけど。そのあたり、子ども向けの本で、だれか描いてくれる人、いないかしらね。

ウンポコ:そうだなぁ、いそうだけどね、だれか。今、思いうかばないな。ところで、魅力的なタイトルをつけるっていうのも、大事なことだよね。ぼくは、「タイトラー」っていう職業があってもいいと思ってるの。だって、表紙まわりだって、昔は編集者がやってたのに、今はデザイナーにたのむでしょ。コピーライターっていう職業もあるしさ。編集者は作品に近づきすぎちゃって、客観的にみられなくなりがちなんだ。タイトルを決めるときって、著者、編集、営業もいれて会議をして、さんざん考えて決定する社もあるそうだ。10年くらいまえ、読者である中学生に選んでもらったこともあったけれど、採用しなかった。英語をそのままカタカナにした題が中学生にはウケがよかったんだけど、当時はまだ、原題そのまんまっていうのに抵抗があって、ふみきれなかったんだよね。タイトルとか、オビにいれる言葉とか考えるの、上手な人がいたら、お金払ってもいい。だれかやらない? すあまさん、どうかな?

すあま:そうですねぇ・・・。(気乗りしない様子)

オカリナ:この読書会でも、タイトルつけなおしっていうの、やったら? 「今月のリタイトル本」とか、「今月の売る気があるのか本」とか・・・。せっかく内容がいいのに、タイトルや装丁で損してる本って、たくさんあるから。

モモンガ:書名にカタカナの人名が入ってると売れないとか、いうよね。

ウンポコ:そうかい?

モモンガ:あれ? 図書館員だけ? そういってるのは。

ウンポコ:「ん」が入ってると売れるって、いうのもあるよ。ほら、「アンパンマン」なんて、「ん」が3つも入ってる。

オカリナ:カタカナの書名はだめっていうのも、ない?

アサギ:一時期、長いタイトルが流行ったこと、あったわね。そういえば、この本の章タイトルも、ひとつひとつが長くておもしろいわね。ドイツに多いパターン。ドイツ人って、好きよね、こういうの。

ウンポコ:あ、そうなんだ! ドイツに多いの? 斉藤洋がよくやってるのは、だからだったのか。

オカリナ:装丁のことで言えば、目次の次のページ、人物紹介なんだけど、なんだかここだけ浮いてない?

モモンガ:ゴシックで太い書体だから、黒々してるのよね。

オカリナ:ほかはいいのに、なんだかここだけ妙に素人っぽい作り方。どうしちゃったんだろう? ハリ・ポタに負けないくらいここは素人っぽいな。

(2000年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ひとつ、アフリカにのぼるたいよう

ウェンディ・ハートマン文 ニコラース・マリッツ絵『ひとつ、アフリカにのぼるたいよう』さくまゆみこ訳
『ひとつ、アフリカにのぼるたいよう』
ウェンディ・ハートマン文 ニコラース・マリッツ絵 さくまゆみこ訳
文化出版局
2000.10

南アフリカのユニークな数え歌の絵本。1は太陽、2から10まではサバンナの動物、そして太陽が沈んで月が出ます。それからまた10、9、8……と数が下がっていき、最後にまたアフリカの太陽が登場します。
(編集:飯田静さん)

エネルギーのかたまりみたいなマリッツの作品はほかに、『ぼくのアフリカ』という絵本があります。そちらは冨山房の編集者だったとき、渡辺茂夫さんに訳していただいて、私が編集した本です。


おばあちゃんにおみやげを〜アフリカの数のお話

イフェオマ・オニェフル『おばあちゃんにおみやげを:アフリカの数のお話』さくまゆみこ訳
『おばあちゃんにおみやげを〜アフリカの数のお話』
オニェフル作・写真 さくまゆみこ訳
偕成社
2000.10

ナイジェリアの文化を伝える写真絵本。数の絵本にもなっています。著者はナイジェリアで生まれ育った女性フォトグラファー。アフリカというと「動物がたくさんいる」とか「貧しい」とか「内戦でたいへん」というイメージばかりが伝わっていますが、広いアフリカ大陸には元気な子どももたくさんいます。これは、そんな元気な男の子がおばあちゃんの家に遊びにいきます。西アフリカ・ナイジェリアの人々の日常生活を生き生きと伝える数の絵本です。
(編集:西野谷敬子さん)


2000年10月 テーマ:ふしぎなお話

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『2000年10月 テーマ:ふしぎなお話』
日付 2000年10月26日
参加者 ウンポコ、愁童、ウォンバット、ひるね、オカリナ、
ねむりねずみ、モモンガ
テーマ ふしぎなお話

読んだ本:

フィリップ・プルマン『神秘の短剣』
『神秘の短剣』 (ライラの冒険シリーズ2)

原題:THE SUBTLE KNIFE by Philip Pullman, 1997(イギリス)
フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳
新潮社
2000.04

<版元語録>オーロラの中に現われた「もうひとつの世界」に渡ったライラは、“スペクター”と呼ばれる化け物に襲われ、大人のいなくなった街で、別の世界からやって来た少年ウィルと出会う。父親を探しているウィルはこの街で、不思議な力を持つ“短剣”の守り手となる。空間を切りさき別世界への扉を開くことのできるこの短剣を手に入れた少年と、羅針盤を持つライラに課せられた使命とは…。気球乗りのリーや魔女たち、そして天使までも巻き込んで、物語はさらに大きく広がっていく―。世界中で大ベストセラー、カーネギー賞受賞の壮大で胸躍る冒険ファンタジーの傑作。
エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』さくまゆみこ訳
『ローワンと魔法の地図』 (リンの谷のローワン1)

原題:ROWAN OF RIN by Emily Rodda, 1993(オーストラリア)
エミリー・ロッダ/著 さくまゆみこ/訳 佐竹美保/絵
あすなろ書房
2000.08

<版元語録>リンの村を流れる川が、かれてしまった。このままでは家畜のバクシャーもみんなも、生きてはいけない。水をとりもどすために、竜が住むといわれる山の頂きめざして、腕じまんの者たちが旅立った。たよりになるのは、魔法をかけられた地図だけ。クモの扉、底なし沼、そして恐ろしい竜との対決…。謎めいた6行の詞を解きあかさなければ、みんなの命が危ない。 *オーストラリア児童文学賞
富安陽子『空へつづく神話』
『空へつづく神話』
富安陽子/作 広瀬弦/絵
偕成社
2000.06

<版元語録>理子にとって神様は、いつも気まぐれで不公平で、えこひいきばかりする、ろくでもないやつです。でも、ふとしたことから記憶を無くしたへんてこな神様と知り合うことになって…。神様を助ける女の子の楽しい物語。
坂東真砂子『クリーニング屋のお月さま』
『クリーニング屋のお月さま』
坂東真砂子/作 大沢幸子/絵
理論社
1987.10

<版元語録>「あれえ!」みちのまんなかで、お月さまにであっちゃった。お月さま、なんでこんなところにいるのかなあ。

(さらに…)

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クリーニング屋のお月さま

坂東真砂子『クリーニング屋のお月さま』
『クリーニング屋のお月さま』
坂東真砂子/作 大沢幸子/絵
理論社
1987.10

愁童:短い作品だけど、おもしろかった。坂東さんは、非常識を自信をもって書いてる。読者を惹きこむよね。とんちんかんなイメージに読者をひきずりこむ力がすごい。お話としてはナンセンスで、まぁ、どってことないんだよ。でもそれが、逡巡なしにぽーんと出てくるから、なんなんだ?! と思うけど、これだけ自信をもって書かれちゃうと、読んでるほうが「スイマセン!」っていっちゃうね。有無をいわさない迫力がある。ものすごい力強さ。

ウンポコ:坂東さんは、寺村輝夫さんの弟子なんだけど、それを背景に感じてしまった。寺村さんの幼年童話のおもしろさを、ぴたっと受け継いでるね。それは、木にたとえれば、枝も葉もなく、幹だけで進んでいくっていう感じ。この作品も、寺村さんがいちばん喜びそうなパターン。本づくりも、うまくいってるね。ぼくも、32Qの文字の本ずいぶん作ったから、思い入れのある分野なんだよ。こういうタイプの本がではじめた1968〜1969年頃には、非難ゴウゴウだったんだ。サイコロ本なんていわれてさ。

ひるね:えっ? サイコロ?

ウンポコ:ほら、文字が大きくて、サイコロみたいだって。文字が少なくても、話が通じるようなすばやい話の展開が必要なんだ。その点この作品は、この造本にぴったりの、スピーディな展開になってる。でも、タイトルは、あれっ? と思った。だって、お月さまはクリーニング屋に行くわけだろ。ちょっと合わないんじゃない? このタイトルは。

ねむりねずみ:おもしろくて、けらけら笑っちゃった。迫力あるナンセンス。絵もあってるよね。このヘンテコな感じに。こういうもの、あんまり読んだことがなかったから、もっと読んでみたいと思ったわ。

モモンガ:今回は時間がなくて、とてもこの本までは読めないわと思ってたけど、思いがけず、幼年童話でよかった。すぐ読めた。こういう話、好き。おもしろかった。「なんで?」とか、言っちゃいけない世界なのよね。そこがおもしろい。こういうことって、タツオくらいの年齢の子どもが、いちばんよくわかるんじゃないかしら。とくにおもしろかったのは、「お月さまは、ごろりとカウンターに体をくっつけていった。『夜までに、いそいでおねがいしたいの』」っていうとこ。 このクリーニング屋、カネダ・ドライっていう、おかしな名前のお店なんだけど、この名前のおかしさが活きてないと思った。月にもどったお月さまに「カネダ・ドライ」って文字がすけてみえるとか、そういうオチを期待していたんだけど。それとか、自動販売機を食べちゃったお月さまは、空の上で煙草吸ってるとかね。

一同:わっはっは(笑)

モモンガ:でも、全体としては、とても楽しく読みました。

オカリナ:さーっと読んで、ああおもしろい、はいっOK! って感じだった。ナンセンスでこれだけおもしろいものを書けるんだから、重厚なおどろおどろしい大人ものばかりじゃなくて、こういう作品も、もっと書いてほしいな。

ウンポコ:でも、今、幼年童話って、売れないんだよな。ひところにくらべて、売り上げは、がっくりなの。

ウォンバット:おもしろかったけど、言うことがみつからないなあ。読んで「あ、そう」って感じ。ナンセンスって、うまくいってない作品だと、「あ、そう」とはならないのよ。つっこみどころばっかりみたいになっちゃって。その点、この作品はそうはなってないから、とてもうまくいってるんだと思う。絵も、いいよね。お話にあってる。私がとくに好きだったのはp21の絵。

ひるね:私も、気にいったわ。子どもが読んだら、コワイと思うところも、あるんじゃないかしら。子どもにすりよってないところがイイ。モモンガさんとは反対の感想なんだけど、サービス精神のなさが気にいったの! これは、1987年の作品だから、ちょっと前のものだけど、今もとても人気があるのよ。家の近所の図書館でもよく読まれてる。その図書館は旧式だから、スタンプをみれば、何人読んでるかわかっちゃうの。幼年童話って、他のものとは全然違うジャンルなのよね。そして、絵本と物語の橋渡しとなる、とても大事な分野だと思う。基本的にアイディアの勝負なの。SFとか、ショートショートみたいな部分がある。書くほうにとっても、おもしろい分野だと思うわ。幼年童話って外国にもあるの?

オカリナ:あるんじゃない。I Can Read Booksとか、あるものね。

ウンポコ:擬音語・擬態語って作者のセンスがあらわれるとこだよね。とくに擬態語は造語できるしね。クリーニングがすんだお月さまが出てくるところ、「なかから、へにょり」ってなってるんだけど、うまい! と思った。オリジナリティがあるし、よく感じも出てる。手垢のついたような擬態語を平気で使うような作家もいるけどさ、困るんだよね。そういうの。寺村さんは、そのへん、ものすごく神経を使って、よく考える作家だから、その教えをしっかり受けついでるなーと思った。

モモンガ:ちょっとブラック入ってるよね。子どもってくそまじめだから、このブラックはわからないかも。最後、1000円返してもらえなかったことを、気に病んじゃう子もいそう。これ、そうとう自信もって書いてるでしょ。だから、惹きこまれちゃうのよね。これが、もし陳腐だったら、破綻してるね。

愁童:読むほうは、さらさらっと読んじゃうけど、作者はとてもよく考えてると思うんだよ。クリーニング屋のおやじも、いい味出してるよなあ。ふつう、お月さまが来店したら、うろたえそうなもんだけど、平然と「いらっしゃい」なんていってる。子どもにすりよらず、自信をもって書いてると思うね、ぼくも。作品としては、1000円返さないとこがいい。

ひるね:そこは、議論になるところよね。1000円って、子どもにとっては、たいへんなお金だし。ファンタジーって、どこか不思議な場所に行って、もどってきたらマツボックリを手にもってたとか、おみやげをもって帰ることが多いけど、これは、その逆パターンかもね。もって帰るんじゃなくて、もってかれちゃうの。

ウンポコ:お月さまが、「おまえを食べちゃうぞ」っていうのもおもしろいよな。

ひるね:シュールよねぇ。でも、子どもの中には、「これは嘘だよね。お話なんだよね」っていう子もいるでしょ。そういう子には、なんて説明するの?

ウンポコ:ナンセンスは、企画を通すのがたいへんなんだよ。えらい人のなかには、ナンセンスを解さない人もいるからね。こういうのって、感想文が書きにくい本だしね。

ひるね:1000円返してほしかったでーす、とか?

ウンポコ:お月さまが、悪いと思いまーす、とかさ。だから、読書感想文の課題図書には、入りにくいんだよなぁ。こういう作品は。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


空へつづく神話

富安陽子『空へつづく神話』
『空へつづく神話』
富安陽子/作 広瀬弦/絵
偕成社
2000.06

オカリナ:この本、ここに到着する1時間まえに読み終わったんだけど、なんか、ジグソーパズルのピースがぴったりはまらないって感じなのよね。その土地その土地に伝わる神話を、子どもたちに身近なものにしたいという意図はとてもいいと思ったんだけど・・・。ヒゲさんって神様なのに、神様らしいことをするのって、お姉さんをカエルに変えるのと、空を飛ぶことくらいでしょ。ま、それは記憶喪失だから、しょうがないとして。でも、最後も不満だった。とってつけたみたいなんだもの。理子とヒゲさんの関係の変化も、はじめはけんかしてたのが、だんだん仲良くなって、最後は「行かないで!」ってなるんだけど、その過程がちゃんと描けてないから、「行かないで」が、しっくりこないんだなぁ。全体に、リアリティが感じられなかった。たとえば、最初のほうで、理子が連絡帳で男の子のお尻をたたいたら、女の子たちが「乱暴ねえ」とか「けがさせたんじゃないの」とか、ひそひそ陰口をたたいたり、先生におこられたりっていう場面があるんだけど、ちょっとノートでお尻をたたいたくらいで、そんな展開にならないでしょ、ふつう。このくらいの年の子が、学校でどんなふうにしてるか、具体的に見てから書いたほうがいいんじゃない? 図書館でヘビになったヒゲさんを、後ろのおばさんが見て騒いで、他の人たちに追いかけられる……っていう場面も、現実にはこんなふうにはならないでしょ。ひまわりの花が強風で頭だけ落ちるってことも、ないと思うんだけどな。ひまわりは花がポタッと落ちるんじゃなくて、茎がくたっと折れるんじゃないかな。こまごましたことだけど、そういうことがしっかりしてないと、リアリティはわいてこないな。とびとびの時間で読んだせいかもしれないけど、そんなことがいろいろ気になっちゃった。

ウォンバット:んー、オカリナさんの意見に同感だな。紙の上の世界でしかないって感じ。理子がどういう子なのか、伝わってこない。キャラクターも不明だし、神様がやってくるのもトートツ。最初の場面で、理子が不機嫌だっていうのは、わかるんだけど、前の日に服を買ってもらえなかったくらいで、これほど神をうらんだりするかしら。

ひるね:くだらないと思っちゃう。

ウォンバット:おさがりって、たしかに兄弟姉妹の間で波紋を巻き起こすものだから、ぱっと使ったんだろうけど、思いつきの枠を出てないと思う。

ひるね:使いふるされてるエピソード。

ウォンバット:おさがりが嫌でさわぐのって、もっと小さい頃じゃない? だいたい小学校6年生にもなれば、12年近くも次女をやってるわけだから、次女としての自分の運命を受け入れてるはずだと、次女の私は力説したい。次女ならではのおトクなことだって、いっぱいあるでしょ。おさがりだって、すてきな洋服のときはうれしいし、おさがりがあるぶん、服をたくさんもってるってことだってあるし。6年生だったら、もうそういうことがわかってる年だと思うなぁ。だいたいおさがりなんて、しょっちゅうあることのはずなのに、こんなに、神をうらむほど思いつめるなんてねぇ。「おさがりの服=がっくり」ってたしかに黄金の定理だけど、こんなふうに使うのは感心しない。短絡的だと思う。

モモンガ:着想はおもしろいと思うのよ。会話もうまい。「ツルだってカメだって、恩返しするんだから、神様にも恩返しくらいできるはずよ」とか、くだらない会話がおもしろくて笑っちゃった。でもね、私は、最後、ふたりが飛ぶのが不満なの! 子どもって、自分と同じふつうの子が、不思議を体験するっていうのが好きなのね。こういう物語は、そこが醍醐味なのよ。読んでる子は、理子にも、自分と同じ能力のままで不思議を体験してほしいの。だからヒゲさんは飛んでもいいんだけど、理子は飛んじゃだめなの。ヒゲさんも、こんなりっぱな風体なのに、大したことしないのよね。たぶん作者も、イメージがちゃんとかたまってなかったんじゃないかしら。思いつきっていわれても、しかたないかも。

ねむりねずみ:絵のタッチが似てるせいかな、宮崎駿を連想しちゃった。意図は全部いいんだけど、意図が見えちゃう場合は、物語として成功してないよ。最後も、とつぜん二面性が出てきちゃうのは、いかんぞっ! あと、ちょっと気になってるのは、ヒゲさんの口調なんだけど、昔の人なんだから、もっと古いしゃべり方のはずじゃない? 現代の子どもと、意思の疎通がすっとできるっていうのは・・・。

モモンガ:いきなり現代っ子と、こんなおもしろい会話をしちゃうのは不自然だよね。話がかみ合わなくて困ったりすれば、ストーリーとしても説得力があったのに。

ウンポコ:好きな作家なんだけど、この作品はなんだかチャチになっちゃってる。ほんとは、もっと神秘的なものを描く力のある作家だと思うんだよ。ちょっと、この作品はうまくいってない。宮沢賢治の世界をとりこむことのできる、数少ない作家のひとりなんだけどね。編集者としては、クスサンのもようを、見返しあたりにぜひ入れたいとこだな。道具立てはかなりいいのに、ほんと残念。

ひるね:道具立ては、いいのよ!

オカリナ:アイディアをいかして、ちゃんと世界を構築すれば、いいものが書ける人なのにね。編集の人がもっと作家に迫ってやりとりすれば、もっとおもしろくなったんじゃないかな。

愁童:この作品、最初に読んだどきはおもしろいと思ったんだよ。でも、この会のために、どんなストーリーか思い出そうとしたら、ぜんぜん思い出せなかったんだ。まえに、ねねこさんが「みなさん、日本のものに厳しすぎる」っていってたのが頭に残ってて、一生懸命好意的に、前向きに読んだつもりなんだけど。この作品には、郷土史を発掘するという知的なおもしろさがある。でも、その線を押すなら、たかがおさがりの洋服ぐらいで神に見放されたなんてところから始めてほしくなかったな。神様に出会うのは、学校の図書室なんだけど、描写を読むと図書室ではなくて、図書館のイメージなんだよな。どうも、ぴったりこない。どこかツメがあまい。表現も「とげとげした顔」なんて個性的でおもしろいかなと思う反面、ひょっとしたら誤植かな、なんて思わせるようなワキのあまさを感じちゃう。いい素材を使ってるのに、もったいないな。もっと発酵させる必要があったんじゃないかな。

ひるね:日本の創作に対しては、あまりある愛があるために、ついついけなしてしまうのよ、私。褒めた記憶ってないから、これからは気をつけよっと。でも、これも愛するがゆえなのよ。よろしくね、みなさん。さて、この作品は、郷土に根ざしてるというところは、いいと思うのよ。疑似英国ファンタジーとは、ひと味違う。しかしね・・・。唯一おもしろいと思ったのは、カエルになったお姉ちゃんのエピソードくらいだったの。そもそも、なぜ神様が、理子のまえにあらわれたのか、わからない。風土記の著者の桐山好久の曾孫、中央図書館の館長、桐山克久が登場したときもこいつが悪者か?! と思ったけど、ただの好好爺だったでしょ。拍子抜け。神様もボケてるときはいいけど、たまにまともになったときに、とつぜん破壊する心と、育む心をもってるなんて、自分で言うけど、そういうことが伝わってこないの。こないだも、たいへんな水害があったでしょ。なのに、こういう展開って、ちょっとノーテンキすぎるわよね。こんなこというと生真面目すぎると言われるかもしれないけど、大人より子どものほうが、こういうことって敏感だと思う。この作品のように、日本の風土に根ざしたものが、もっと出てきてほしいから、がんばってほしい。応援してるわよ。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ローワンと魔法の地図

エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』さくまゆみこ訳
『ローワンと魔法の地図』 (リンの谷のローワン1)

エミリー・ロッダ/著 さくまゆみこ/訳 佐竹美保/絵
あすなろ書房
2000.08

愁童:これはすごい。発売たちまち4刷! 売れてるんだねー。シンプル・イズ・ベストって感じ。安心して読めた。古典的ファンタジーの定石なんだけど、ゲーム的な要素も入ってる。あとがきを読むと、ジェンダーのこととか、ちょっと難しいことが書いてあるから混乱してしまうけど、強いといわれていた者たちがつぎつぎに脱落して、最後には弱者が使命をやりとげるというのは、おもしろかった。「ハリ・ポタ」やプルマンの理屈っぽい世界に比べると、この作品は、読みながら心の中で遊べる楽しさがある。ファンタジーのよさを再認識したね。

ウンポコ:ぼくも、おもしろかった。すらすら読めて、うれしかったよ。難をあげるなら、登場人物の姿がくっきり浮かんでこないってことくらいかな。ローワン、ストロング・ジョン、アランはOKだけど、その他の人は、男か女かもわかりにくい。ちょっとぼやっとしたところがあった。最初に登場人物の紹介でもついていたら、読書力のないぼくでも、わかったかもしれないけどさ。ちょっと難しいよ。と思っていたら、訳者あとがきに「男女差のない世界を描いている」とあった。ぼくは、そこまでは気づかなかったな。

ねむりねずみ:この本、装丁がいいわよねー。でも、私は基本的に理屈っぽいほうが好きなのかな。ローワンは臆病なんだけど、いい子でしょ。ちゃんと最後までやりとげるし。どこか、悪い子の部分もほしかったと思っちゃうのよね。憎らしくったって、私にはライラのほうが魅力的に見える。ローワンも、もうちょっと悪い子すればいいのに。2巻3巻では、やってくれるのかな? ジェンダーに関しては、ふたごのヴァルとエリスの性別がわからなかったから、気になった。

モモンガ:同感! 私も男か女かわかりにくいと思った。名前も、日本人の名前だったら、性別も、なんとなくわかるけど、ここに出てくるのは、ちょっとわからないものね。日本語は、英語みたいにheとかsheとか出てくるわけじゃないし。実際、双子はヴァルが女でエリスが男なんだけど、エリスのほうが、女の子の名前のような感じもするでしょ。

ねむりねずみ:最後のところ、p211の「ローワンの胸の中にあった古いしこり」って、ちょっとピンとこなかったんだけど……。

オカリナ:父が死んだのは自分のせいだっていう負い目と、母に臆病でひよわだと思われてるってということを言ってるんじゃない?

ねむりねずみ:そっか。あと、p188のローワンがジョンを気づかう場面。ローワンは、旅のはじめのほうでジョンが声をかけてくれたときのことを思い出してるんだけど、私はそこの場面とうまくジョイントしなかった。

モモンガ:謎ときに夢中になっちゃうわよね。ドラクエの世界。謎の詞にあてはめながら、最後まで読める。あの詞のページを、何度もぱらぱらめくったりして。この物語のおもしろさは、弱い子が主人公ってことだと思う。ローワンは弱虫だし、腕じまんの厳選メンバーの中に、ひとりだけ紛れこんだ子どもだけど、子どもならではの動物との交流とか、子どもにしか見つけられないこととか、ローワンだからこそできるっていうことが、ストーリーにうまくいかされてる。この子が最後に残るってことは、はじめからわかっちゃうのはいいんだけど、そこにもうひとつ、インパクトがほしかったな。ローワンは、妙に大人っぽくなっちゃうでしょ。みんなが眠っているところを見て、いとおしく思うところとか、やるのは自分しかいない! って決意したりするところなんか。そうじゃなくて、子どもっぽいままで、大人だったらできないけど、子どもだからこそできたってなったら、子ども読者はもっと喜ぶと思うのよ。

愁童:竜ののどにささったとげをとるところなんて、うまいと思ったけどな。

モモンガ:うーん。でも、いくらバクシャーのとげをとったことがあるにしても、おんなじようにはいかないんじゃない? だって、この絵(p196〜197)見て! すごい迫力! こんな、ものすごい竜のとげを、よくとったわね。

ひるね:けんかの弱い子とか、いじめられっ子って、犬とかウサギとかを愛でたりするでしょ。だからローワンも、痛がっている竜をかわいそうと思ったんじゃない?

ウォンバット:私は、それよりも使命感だと思ったな。ローワンはバクシャーを大切に思っていて、その心の交流には胸が熱くなるものがあるんだけど、その愛するバクシャーや村の人を救えるのは、今や自分しかいないんだ、やらねばっ!! ていう使命感。

ひるね:無意識でも、読者には期待があるのよね。登場する子どもに対して。あんまり優等生なのはイヤとか、やんちゃであってほしいとか、よくある子ども像からはずれると、物語に添っていけないようなところってあると思う。前に手がけた本で、風邪をひいた動物の子が悪夢をみるっていう本があってね。それに対して「子どもは、風邪をひいたくらいで悪夢なんてみません。子どもはもっと強いものです」って書いた書評があってびっくりしたことがあったわ。私は、弱者が主人公というのは、おもしろいと思ったけど。

モモンガ:私も、弱者が主人公というのは、おもしろいと思ったわ。

オカリナ:これは、ファンタジーとしての価値を論じるような作品ではなくて、エンタテイメントの楽しさがウリの本だと思うのよね。物語世界の厚みとかプロットの独自性を期待するんじゃなくて・・・。どこかで見たり聞いたりするようなプロットが使ってあるんだけど、それを組み合わせて、これだけ短くてこれだけおもしろい物語をつくりあげたっていうのが、すごいことじゃない? ファンタジーの名作とは比べられないけど、日本では「ハリー・ポッター」がああいう残念な形で世に出てしまったこともあるし、こういう本にがんばってもらいたい。本が嫌いな子でも楽しく読める要素があると思うの。

ねむりねずみ:ロールプレイニングっぽいよね。これだったら、ゲーム感覚で楽しめて、ふだんあんまり本を読まない人でも、親近感をもてるんじゃないかな。

ウンポコ:逆に、つぎつぎ襲いかかる苦難もクリアするだろうって、わかっちゃうから、大人は、物足りなさを感じたりもするんだがね。でも、子どもはわくわくするだろうね。爽快な感じで。文学へのとっかかりとしてはイイと思うな。

オカリナ:ジェンダーの問題だけど、まず私は、ランが男だと思っちゃったのね。「昔は偉大な戦士だった」というからには、男かな? と。でも、リンの村では「戦士=男」ではないの。ランも、実は老女。職業にしても、男だから女だからということに関係なく、それぞれの適性にあったことを仕事にしている。ふつうのエンターテイメントって、既成の男性像、女性像によりかかってるのが多いでしょ。その点、この作品は新しいと思うのよ。ひと味ちがう。

ひるね:私は、M駅前の児童書に力を入れてる書店でこの本を見て、涙が出るほど感激したのね。この、本づくりのすばらしさに。表紙、別丁の扉、紙の色、書体の選び方……すべてに神経がいきとどいてる。「ハリー・ポッター」とは、なんたる違い!

ウンポコ&モモンガ:感じのいい本だよねー!

愁童:ファンタジーって感じだよな。

モモンガ:表4なんかも、とってもいい雰囲気。佐竹さんの絵がいいのよ。

ウンポコ:このごろ、佐竹さん、大活躍だな。『魔女の宅急便3 キキともうひとりの魔女』(角野栄子著 福音館書店)の絵も、そうだよね。

オカリナ:えっ、3って、もう出たの?

ウンポコ:出たばかりだよ、今月(10月)かな。「魔女の宅急便」は、3作すべて絵描きさんが違うから、(『魔女の宅急便』林明子絵、1985、『魔女の宅急便2 キキと新しい魔法』広野多珂子絵、1993、すべて文は角野栄子、福音館書店)本としては不幸だけど、それぞれイメージは変わってないし、なかなかいいよね。

ひるね:今、大人の本の会社が子どもの本も手がけるようになってきてるでしょ。「ハリー・ポッター」にしても、プルマンにしても。あと、9月に、東京創元社から出版された『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 山田順子訳)も、原書は児童書でしょ。それはそれで、よいものができあがれば何も問題ないけれど、残念なことに粗悪品も出回ってる。日本の翻訳児童書の装丁って、世界を見回してもとてもレベルが高いと思うの。外国の原作者に日本語版をみせると、いろんな国で翻訳出版されているけど、日本語版がいちばんいいって、みんな言うのよ。本の作り方が、日本ほどすばらしいところはないって。それは、児童書の編集者たちが、長い時間かけてつくりあげてきた文化だと思う。センダックも子ども時代をふりかえって、「本をもらったら、なでて、においをかいで、少しかじってみた」って言ってるけど、やっぱり子どもにとって、本って、特別なものだと思うのね。大人向けの本のノウハウしかない会社が児童書をつくるのは、ちょっと難しいんじゃないかしら。『神秘の短剣』と『ローワン』を比べてみても、違いは明らか。「ライラの冒険シリーズ」も『ローワン』と同じように、大人向けのコーナーと子ども向けコーナーと、両方に並ぶようになるといいのにね。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


神秘の短剣

フィリップ・プルマン『神秘の短剣』
『神秘の短剣』 (ライラの冒険シリーズ2)

フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳
新潮社
2000.04

ウォンバット:今回、私はたいへん苦しい闘いでして。毎晩、おふとんの中で読もうとしたんだけど、もう眠れて眠れて……。結局p170で時間切れとなってしまいました。このシリーズの1巻目『黄金の羅針盤』(新潮社)も、以前この会でとりあげたけど、私はどうも好きになれなかったのね。寒々しくて。今回も、最初にウィルが人を殺してしまうでしょ。それで彼は、罪の意識にさいなまれるわけだけど、こんなに簡単に人が死ぬっていうのも、どうもなじめないのよねぇ。なんだか、全体におぞましい雰囲気だし。

オカリナ:私は、読むには読んだけど、ぐんぐん引き込まれたというより読書会のために最後まで読んだって感じ。読んでて、気持ちが引っぱられるということはなかった。『黄金の羅針盤』のときも思ったことだけど、頭には響くけど、心には響かないのかな。それで、どうもすわりが悪いというか、おちつきが悪いの。このシリーズは2冊読んでも、全体の構造がまだよくわからない。だから頭ではいろいろ考えるんだけどね。こんな、とてつもない話、この先どういうふうにまとめるつもりなんだろうね、なんていう興味はすごくある。

ひるね:アマゾン・コムに、Margot Liveseyという人が「プルマンをいいという友だちは、しつこくて雄弁だった」って、書いていたんだけど、なるほどと思ったわ。

一同:ふーん、なるほど!

モモンガ:私は、p98までしか読めなかった。『黄金の羅針盤』がとても気に入っていたから、これも楽しみにしてたんだけど、今回は時間がなかったの。ここはun poco読みか?! とも思ったんだけど、この作品はちゃんと味わいたかったから、いいかげんには読めなかった。今回は、世界が3つになるのよね。

ひるね:そうそう。現実世界、ライラたちの世界、ダイモンのいる世界の3つね。

ねむりねずみ:私は、1巻も2巻も原書で読んだのね。まず1巻を読んで、大きなショックをうけたの。うっわー、これはすごい!! って。それで、2巻が出版されたとき、うれしくって、大事に読もうと思ったのに、読みはじめたらおもしろくて、一晩で一気に読んじゃった。今回、翻訳を読んでみたけど、原書どおりのおもしろさだった。プルマンは、すごい世界を作ったわね! やっぱり「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 松岡祐子訳 静山社)とは、根本的に違う。この本は「ライラの冒険シリーズ」の2なんだけど、1巻めに完全におんぶにだっこというんじゃなくて、これはこれで、またすばらしい世界になってる。こうなってくると、3巻目は、もっとすばらしくなるか、おもいっきり破綻するか、のどっちかしかないでしょ。どうなっちゃうんだろうね。私は、1か所、泣けるところがあったの。それは、気球乗りのリー・スコーズビーが死ぬ
ところなんだけど。この物語の登場人物って、基本的にみんな強いでしょ。ライラもウィルも、ものすごく強い。それで唯一、弱いというか、ふつうの人であるリーさんは死んでしまう、と。登場人物があんまりにも強くて、日本人がふだんなじんでいる心象風景とは、ずいぶん違うでしょ。だから、日本の読者の中には、そういうところでなじめないというか、ついていけないって思っちゃう人もいるかもしれないね。登場する子どもたち、ライラにしてもウィルにしても、従来の子ども像とは全然違うのよ。1巻目で、ライラは、父にも母にも裏切られる。2巻目では、ウィルは子どもなのに、保護されるのではなく、逆に母を守らなくてはいけない保護者のような立場に立たされてる。ふたりとも“今”を反映した存在。それから、天使が善悪を越えた存在として登場するのも、オリジナリティがあるよね。

ウンポコ:ぼくは、p47まで。

ウォンバット:さすが、元祖ウンポコ!

ウンポコ:1巻目は読んでなくて、だいじょうぶかなと思いながら読みはじめたんだけど、やっぱりわかんないところがあってね。『黄金の羅針盤』を読んでないとだめなのか・・・と、ちょっと疎外された感じがして、落ちこんじゃったね。物語世界に惹きこまれていけば、すいすい読めるんだろうなーとは思うけどさ。1章は、おもしろかったんだよね。でも2章以降は、もうロッククライミング状態。

愁童:今回のテーマは、ぼくとひるねさんが決めたの。どうしてこれを選んだかというと、裕さんに言われたことが気になっててね。ぼくは、『黄金の羅針盤』を読んだとき「ハリー・ポッター」と同工異曲のご都合主義だと思っちゃったんだよね。ライラが窮地に陥ると、すぐだれかが助けてくれるだろ、というようなことを発言したら、裕さんに「プルマンの世界は、英国では非常に高く評価されてる。これが理解できないのはオカシイ!」というようなことを言われたんだな。そのときは、そんなこと言われてもという感じだったんだけど、どうも、その言葉がひっかかっててね。2巻目を読めば、プルマンの世界のすばらしさが理解できるかなと思ったんだ。そして、読んでみたわけだけど、おもしろかったな。「ハリ・ポタ」と違って独創性もあるし。天使にしても、キューピーみたいな顔をしていて羽がついててっていう既成のイメージとは全然違う、プルマン独自の新しいものになっていて、読み手の中にはっきりしたイメージを残してくれる。力のある頭のいい作家だよね。とてもよく練られていて、よくできてる。だけど、できすぎというのかな、スキがなくて、物語世界に没入できるような作家の体温みたいなものが、あまり感じられない。

モモンガ&ひるね:クールよねー。

ひるね:私は、おもしろくて好きでしたね、この作品。オリジナリティの魅力ね。天使にしても、剣にしても。だけど、こんなものすごい大風呂敷をひろげて、これから先、ストーリーテラーとして、どうまとめるのかしらね。登場人物にしてもなんにしても、ひとことでいえば「おもしろくて、わかりにくい」のよ。おもしろいのは原作のおかげ、わかりにくいのは翻訳のせいかな、と思った。だって、えーっと、ほらここ、p296の「塔の灰色の、胸壁の上には、死肉を食うハシボソガラスが旋回していた。ウィルは、なにが自分たちをそこへひきよせたのかを知って、吐き気をもよおした」っていうところ。読んでて、私は、何が自分たちをそこへ引き寄せたのか、全然わからなかったのね。雑な読み方をして、読み飛ばしてしまったかなと思ったの。これはウィルが指を切断したあとの場面なんだけど、よくよく考えてみたら、指から流れおちる血が、カラスを引き寄せたのかなと、思い当たってね。もしかしたら、これは3人称で書かれているから、themをカラスなのに自分たちと誤訳してこういうわかりにくいことになっちゃったのかもしれないと気づいた。これって編集者が気づかないとね。

オカリナ:これ、もったりした文章だけど、原文は、短く、切り付けるような、すぱすぱっとした文章なんじゃないの?

ひるね:アメリカの友人たちに聞いたら、この作品の文体を好きとか嫌いとかいった人はいたけど、難解だといった人はひとりもいなかった。だから、難解なのは、日本語の問題だと思うわ。

オカリナ:今までの冒険物って、仲間と力をあわせて進んでいくっていうパターンが多かったでしょ。その点、この作品は新しいと思うのね。ライラもウィルも孤独。ひとりでがんばってる。ふたりが協力するところも出てくるけど、一心同体の仲間というふうにはならなくて、お互いに完全に心を許しはいない。こういう世界を描くには、もっと簡潔な、きびきびした文章でないと、雰囲気があわないんじゃない? なんだか人物像がはっきりしなくて、感情移入しにくいのよね。

ひるね:私は、とくに会話が気になったわ。魔女の話し方もピンとこないし、リー・スコーズビーもグラマン博士もまったく同じ口調になってる。原書はどうなのかしら。

オカリナ:それにしても、いったい、どういうふうに終わらせるつもりなんだろうね。まるで見当がつかないわね。3巻目を読んでみないことには、わからない。

愁童:『黄金の羅針盤』で残された謎が、『神秘の短剣』でずいぶん解明された。そこんとこは評価したいね。それはいいんだけど、今回解明されたのと同じくらい2巻目自体の謎があるからなあ。

ねむりねずみ:明らかになった分を埋め合わせるように、また新たな謎が・・・。次の巻へもちこされる謎の数は、結局減ってない。私にとって、ライラはとても魅力的なキャラクターだった。この巻では、彼女の成長もみられるでしょ。わがまま者で、他人を思いやることなんて、『黄金の羅針盤』では皆無だったけど、『神秘の短剣』の途中から、ライラはウィルのことを思いやることができるようになる。それにしても、この話、弱い人はみんな死んじゃうんだよね。リー・スコーズビーも、恋をした魔女も。

ウンポコ:冷徹なのかな。

オカリナ:ウェットではないよ。

ウンポコ:この顔は、絶対ウェットではないね。(後袖のプルマンの顔写真をみて、うなずく)

ひるね:プルマンは、お父さんが軍人だったから、小さい頃から引っ越しが多くて、いろんな国での生活を体験しながら大きくなったのよ。そんな体験が、彼を「ひとりで生きる」ってタイプの人にしたんじゃない?

ウンポコ:この本、子ども向けではないよね。

ひるね:読者として子どもを意識してるのなら、子ども向けの翻訳者を選ぶはず。だから、子ども向けには作ってないわね。子ども向けと限定しないで、大人にも読めるような本にするのはいいことのように思うかもしれないけれど、外国で子ども向けに出版された本を出すのなら、まず第一に子どもが読めるような本作りをして、子どもの手に渡してもらいたいと私は思うの。エミリー・ロッダの『ローワンと魔法の地図』や、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー著 掛川恭子訳 講談社)が大人の本棚に並んでいるのはとてもうれしいことだけれど、もともと子どもに向けて書かれた本が書店の子どもの本の本棚にないのは悲しい。本というのはお金を出して版権を買った出版社だけのものではなくて、ある意味でみんなの財産なんじゃないかな

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年09月 テーマ:民族と戦争について考える

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『2000年09月 テーマ:民族と戦争について考える』
日付 2000年9月21日
参加者 ウンポコ、愁童、ウォンバット、ひるね、オカリナ、
ねむりねずみ、裕、モモンガ
テーマ 民族と戦争について考える

読んだ本:

エルス・ペルフロム『第八森の子どもたち』
『第八森の子どもたち』
原題:DE KINDEREN VAN HET ACHTSTE WOUD by Els Pelgrom(オランダ)
エルス・ペルフロム/作 ペーター・ファン・ストラーテン/絵 野坂悦子/訳
福音館書店(福音館文庫も)
2000.04

<版元語録>第二次大戦末期のオランダ。ドイツ軍に町を追われた十一歳の少女ノーチェは父親とともに、人里離れた農家にたどり着く。はじめて体験する農家での暮らしに喜びを見いだすノーチェだったが、その平穏な日常を戦争の影が静かに覆っていく。農家のおかみさん、その息子エバート、脱走兵、森に隠れるユダヤ人一家。戦争の冬を懸命に生きる人々の喜びや悲しみが、少女の目を通して細やかにつづられる。オランダの「金の石筆賞」を受賞。
ガリラ・ロンフェデル・アミット『心の国境をこえて』
『心の国境をこえて〜アラブの少女ナディア』
原題:NADIA by Galilah Ron-Feder-Amit (イスラエル)
ガリラ・ロンフェデル・アミット/作 母袋夏生/訳 高田勲/絵
さ・え・ら書房
1999.04

<版元語録>医者になって、地域医療につくしたい。それが、ナディアの夢だった。そのためにナディアはのどかなアラブ村を出て、ユダヤ人の寄宿学校に入学する。「自分がアラブ人だってことを恥に思っちゃいかんぞ」という、父さんのことばを胸に。民族による考え方のちがいにとまどい、よそ者意識とたたかいながら、一歩一歩、ナディアは夢の実現にむかっていく。だが、その夢がくずれそうな瞬間がおとずれる…。
八百板洋子『ソフィアの白いばら』
『ソフィアの白いばら』
八百板洋子/著
福音館書店
1999.06

<版元語録>1970年、ソフィアの留学生宿舎に集まった世界各国の若者たちの出会いと別れ。激動する時代の波に翻弄され、傷つきながらも精一杯生きる青春群像をみずみずしく描く。愛と涙のブルガリア留学記。 *産経児童出版文化賞 エッセイストクラブ賞
野添憲治『花岡一九四五年・夏』
『花岡1945年夏〜強制連行された耿諄の記録』
野添賢治/著 貝原浩/絵
パロル舎
2000.06

<版元語録>太平洋戦争も終わろうとする1944年、耿諄は三百人近い中国人たちと日本へ強制連行され、花岡鉱山で過酷な労働を強いられた。虐待と暴行ににたまりかね蜂起した花岡事件の指導者・耿諄の生の軌跡。

(さらに…)

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花岡1945年夏〜強制連行された耿諄の記録

野添憲治『花岡一九四五年・夏』
『花岡1945年夏〜強制連行された耿諄の記録』
野添賢治/著 貝原浩/絵
パロル舎
2000.06

オカリナ:「テーマをもって書く」というのは、大事なことだよね。YAの作家にありがちな、心の揺れを描くのも大事だけど。この本は、メッセージははっきりしすぎるくらいはっきりしてるけど、もっと工夫してほしかったな。工夫したと思えるところは、刷り色がページによって違ってるのと、全部のページに絵が入ってるということくらい。だいたい、この表紙で、子どもが読むかな。主人公は中国人で1944年に日本に連行されてきた耿諄という人なんだけど、日本の鉱山で働かされて、どんなにつらい目にあわされたかということばかり、めんめんと綴られている。そういう話をちゃんと聞くのは大事なんだけど、重要だから聞けって子どもに押しつけても、おもしろくなかったら子どもは敬遠しちゃうでしょ。編集の人が、もっと手を入れればよかったのにね。誤植もあるし。矛盾というか、誤解を招きかねない表現がいっぱいある。「日本人だって、米が4合にメリケン粉が1ぱいです」ときいて、同じくらいだから「しかたないと思った」って書いてあるんだけど、それですんじゃうのなら、たいして踏みつけにされてるわけじゃないじゃんって思っちゃう。「○○があった。○○があった」ってただ羅列してるだけだから、主人公に感情移入もできないし。読んだ子が、自分と主人公を重ねあわせるのが、とても難しい書き方。伝えたいもののあるこういう本こそ、ちゃんと子どもの手に届くように工夫してほしいものです。

ねむりねずみ:あとがきに「才能がないのを知った上で書きました」って書いてあるんだけど、まず文章が読みにくくて、つまずいた。中身に興味のある人間だったら読めるけどねぇ・・・。うわーすごかったんだ、ユダヤ収容所みたいなことを日本人もやってたのね、っていう事実の重さはたしかに伝わるけど、文学というより資料の積み重ねみたいなものだから。社会科学的な読み方のできる人でないと楽しめないかも。これは、物語になってない。学校の先生の資料用にはいいかもしれませんがね。

愁童:ぼくも、つまんなかったな。子ども向けの配慮がされてない。当時、日本のあちこちにこういうことはあったわけだから、ここだけ書いても、しょうがないよな。意味レス。ただ単なる残酷物語になっちゃってる。

オカリナ:ペルフロムの『第八森の子どもたち』ではドイツ兵、『花岡1945年夏』では日本人を悪者として描いてるけど、今書くのなら、それだけでは意味がないよね。なぜ普通の人がこれだけ酷くなれるかってところが検証されないとね。

愁童:そうそう! これじゃ、新聞読んでるのと一緒なんだよ。

オカリナ:子どもに伝わるように書かなくちゃね。

愁童:自虐意識は、子どもには理解できない。普遍的なものに結びつけないとね。

モモンガ:戦争のこと、民族のこと・・・子どもに伝えなきゃいけないことだからこそ、工夫しないとね。

オカリナ:パロル舎と、さ・え・ら書房には、もうちょっと子ども向けの本の工夫をしてほしいわね。

モモンガ:さ・え・ら書房は、心根がいいってことによりかかりすぎてるって感じ、ない?

ウンポコ:せっかくいい本が多いんだからさ、さ・え・ら書房は。もうちょっとがんばってもらいたいね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ソフィアの白いばら

八百板洋子『ソフィアの白いばら』
『ソフィアの白いばら』
八百板洋子/著
福音館書店
1999.06

:読んでて、途中で嫌になっちゃった。がんばって、一応最後まで読んだけど。おばさんのヤなところを、いっぱい見ちゃったみたいで。おばさんっていっても、えーと、作者は1946年生まれ・・・ということは、今54歳か。だったら無理ないわね。世代の違いを感じてしまうのも。なんだか、全編自分をほめてるんだもん。だんだん「もう勝手にして!」って気分になっちゃった。だいたい、どうして副大統領に会いにいったのかしら。別に行かなくたってよかったのに。ベトナムのこととか、惹きつけられていったのに、最後は結局、「古きよき時代のお嬢さまの私小説」になっちゃってて残念。

モモンガ:私も、途中でちょっと。最初は、けなげなのよね。主人公が新鮮なものを見聞きするのを、おもしろく読めていたんだけど、途中で「もういいわ」って思っちゃった。素朴な疑問なんだけど、この本、どうして子ども向けにしたのかしら。留学体験記を読みたい人って、たくさんいるでしょ。そういう人向けに、留学関連書のコーナーにブルガリアの本としておいたら、もっとよかったんじゃない?

ウンポコ:ほんとだよ。どうして子ども向けにしたのかなあ。

ねむりねずみ:家の近所の図書館では、大人の本のコーナーにおいてありましたよ。

:私の家のほうでは、子どもの本の棚にあったわよ。

ウンポコ:あとがきに「心ひかれるタイトルがあったら、そこだけでものぞいてみてください」って書いてあったから、ぼくは安心してウンポコ読みしたね。それで、実はね、おもしろかったの。うわあ、当時の留学生はしんどかったんだなーと思った。民族の歴史を抱えこんだ人たちのるつぼで、もまれてさ。民族の習慣のちがい、とくいアセンカのキスなんて、もし自分の身にそんなことが起こったら、ツライだろうなーと思った。災難だよな。アセンカのジコチューにおしつぶされそうになってるけど、かくいうYOKOも、相当のジコチュー。ぼくも大学生のとき、寮生活をしていたんだけど、そのときのことを思い出した。でさ、その百倍くらいいろんなところから、いろんな人が来てるわけじゃない? そう考えるとオドロキだよな。この本は、ウンポコ読みにしては、だいぶ読んだね。文庫本にして、大学生くらいの子に読んでもらったらいいと思うな。

ウォンバット:私は、「世界ウルルン滞在記」(日曜夜10:00〜 TBSテレビ)が大好きなんだけど、そこに通 じるおもしろさを感じた。未知の国の、未知の暮らしを知る喜びって、大きい。そういう意味ではとてもおもしろかったんだけど、いろいろとハナにつくところはあったのよね。たとえば、YOKOとグェンの出会いの場面。グェンを評して、黒豹みたいな体つきで「身長 185センチ、体重79キロ」と聞いたYOKOは「わたしの倍以上も体重があると聞いて、なんだかこわくなりました」って言ってるんだけど、私はここでつまずいてしまった。185センチ体重79キロって、まあ、大きいことは大きいけど、そんなに特別さわぐほどのことじゃないと思うんだけど。当時はたいへんなことだったのかな。それに、79という数字が、変にリアルじゃない?

ひるね:でも、八百板さんって、とっても小柄でかわいらしい人よ。

ウォンバット:あと、 YOKOの台詞が妙にぶっきらぼうなのも、ちょっと気になった。YOKOが「〜だよ」「〜だよ」というの、違和感なかった? 全体の雰囲気に、合ってないような感じがするんだけど。実際はYOKOがブルガリア語でしゃべったことばを日本語にしてるわけだから、「〜だよ」というニュアンスで話していたといいたいのかもしれないけど、グェンとか、男性との会話の場面で、男の人のほうがずっとやさしいしゃべり方をしてるように見えるところもあったりして・・・。

オカリナ:実際、八百板さんて、きびきびした感じの人らしいけど。

愁童:ぼくは、裕さんに同感。ま、ウンポコ読みだけど。副大統領に会いにいったとか、本の表紙の絵をだれが描いてくれたとか、もう勝手にしてって感じ。ベトナム人青年医師にしても、通念によりかかってる。ずるっこいよ。そのあたりペルフロムの『第八森の子どもたち』と似てる。なんか、いろいろなことが起こるんだけど、自分はいっさい傷つかないんだ。なんとなーくセンチメンタルで流しちゃってる。なあんだ、その程度のモンだったのかと思っちゃうよ。アセンカの亡命にしてもさ・・・。寮生活の様子も、終わりのほうは、なんだかこんがらがっちゃうし。

ウンポコ:ぼくも、この作者を好きか嫌いかといったら、ちょっと「ごめんなさい」だな。この時代の、この国の人の暮らしはおもしろいと思うけどさ。

愁童:恵まれた人だったんだね。最後も、耳が悪くなって、よりよい治療を受けるために日本に帰ってくるわけだし。幸せな人さね。

ねむりねずみ:ウンポコさんが言ったの、まさにその通り! 私も、あの時代、ブルガリアでこんな暮らしをしてた人がいたっていうのは、おもしろかった。やっぱりたいへんだよね。でも、この作者はちょっと・・・。

ひるね:『イギリスはおいしい』(林望著 平凡社)も、そうだった! ずっとおもしろいと思って読んでたんだけど、最後にお墓まいりにいくところがあるのね。そこで、林家が学者の一族であることをひけらかしてるような一節があって、さーっと冷めちゃった。なーんだと思って、一気に嫌になったの。

ウンポコ:なんだか、他人の日記を読ませてもらったみたいな感じだよ。疑似体験できたのは、よかったけど。

ねむりねずみ:自分を語るっていうのは、難しいことよね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


心の国境をこえて〜アラブの少女ナディア

ガリラ・ロンフェデル・アミット『心の国境をこえて』
『心の国境をこえて〜アラブの少女ナディア』
ガリラ・ロンフェデル・アミット/作 母袋夏生/訳 高田勲/絵
さ・え・ら書房
1999.04

ひるね:題材が新鮮だったわ。イスラエルに住むアラブ人の少女の物語なんだけど、こういう現実があるということを、はじめて知った。その土地で生まれて、ちゃんと国籍ももってるのに、マイノリティなんて、こういうこともあるのね。全体としては、少女小説の手法だけど、中身も濃いと思う。終わり方も、薄っぺらでないいところがいい。ルームメイトの女の子たち、タミーとヌリットにしても、心を開いてくれていると思っていたタミーに最後に裏切られ、逆に、軽薄だと思っていたヌリットと、最後にはなかよくなってしまうのも、おもしろい。訳者あとがきによると、イスラエルでは「自己批判の書として若い人たちに熱狂的に受け入れられた」ということなんだけど、うらやましいわね。こういう本、日本でももっと出版されればいいのに。だけど、こんなふうにナマの議論が出てくるのは、日本ではどうかしら? 受け入れられるかしらね。イスラエルでは、情緒でぼかさずに、身近な問題が直接出てくるところが、若い世代にウケたんでしょうけど・・・。あと、訳についてなんだけど、「やぶさかでない」とか、古めかしいことばが出てくるところが、ちょっと気になったわ。

:これはペルフロムの『第八森の子どもたち』と違って、日々の営みが、ちゃんと大きなものにつながってる物語ね。こういう本を読まなければ、イスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人の対立なんて、日本の子どもたちは知る由もないでしょう。この本を日本で出版する意義は、大きいと思うわ。ナディアは慎み深くて、男の子をわざと遠ざけたりするでしょ。日本の女の子たちとはずいぶん違っていて、人物造形には日本の現実とかけ離れたものを感じたけど、感覚的に描かれているところを糸口に、日本の読者も物語世界に入っていけるんじゃないかしら。体験としてとらえられていることを接点に、日本の読者も入っていける。そして、表面的なことだけじゃなくて、大きな物語まで感じることができると思うのね。大人の小説だったら、もっと観念的になってしまいそうなところだけど、子ども向けだから救われてるっていう部分もあると思う。でも、この本、表紙がイマイチね。ナディアが憧れてる女医さんナジュラーも、リアリティが薄くて観念的に片づけられちゃってるのが、残念。でも、ま、細かいことはおいときましょう。こういう本、日本でもどんどん紹介してほしいわね。

ウンポコ:ぼくもこの作品、感心したね。ウンポコも、最後まで読めたよ。作者の姿勢がいいんだな。主人公の心の内を、つぶさに描いてるでしょ。だから、ナディアの気持ちが読者の心にも残って、なんかこう、応援したくなるんだよ。「ナディア、がんばって!」って。もう、ぐいぐい読まされちゃった。ナディアがさんざん悩んでるところも、ぼくなんかからみたら、そんなにふさぎこまなくてもいいのにって思っちゃうところはあるんだけど、また、そういう彼女の葛藤が、いじらしゅうてね。民族のるつぼにある国と、そうでない国日本との、ものすごいギャップも感じたね。ナディアをとりまく日常と比べたら、日本はまさにぬるま湯! 今回の4冊のなかでは、この作品と八百板さんの『ソフィアの白いばら』に大きなショックを受けたな。だけど、それにしても、ちょっと本づくりが古いよね。

オカリナ&モモンガ:古い! 古い! さ・え・ら書房らしいといえば、らしいけど。

ウンポコ:ぼくもそうなんだけど、どうしても感覚が古くなってきちゃってるんだよ。だからそれを自覚して、思い切って外の若い編集者に依頼するとかしたほうがいいときもあると思うんだけど。

オカリナ:タイトルも古いよ。

モモンガ:「心の」とか言われると、それだけで読みたくなくなっちゃう。

ひるね:原題は Nadiaなのよね。

ウンポコ:理論社がつくったら、もっとよかったかも。もっとこう、すてきな表紙にしてさ。こういう作品、日本だったらだれが書けるだろう? やっぱり後藤竜二かな。でも、日本とは比べものにならないほど、イスラエルは深刻だからなあ。ぼく自身、今回読んでみて、はじめてこういう問題を知ることができて、たいへんよかったと思うね。よくぞ、この本を出版してくれましたね。さ・え・ら書房よ、アリガトウ!

ウォンバット:私も、この本読んでよかったな。イスラエルのアラブ人のことって全然知らなかったから、いい勉強になった。そういう知識を得るためにはとてもよかったと思うけど、文学作品としては、ちょっとねー、つまんなかった。なんだかストレートすぎちゃって。メッセージを伝えるために、書きましたって感じがアリアリで。物語を楽しむところまではいけなかった。

ねむりねずみ:私は、さっき読みおわったばかり。どうなるんだろうと思ってる間に、読めちゃった。私はもともと、パレスチナとか、問題のあるところに興味があるのね。こないだも、イスラエル人の夫をもつアラブ人女性が、夫をアラブ人に殺されて、民族間の板ばさみで、苦しい立場に立たされてるっていう新聞記事を読んだんだけど、難しい問題だと思った。日本人から見たらまるっきり他人ごとだから、仲よくすればいいのにって思うけど・・・。日本の中にも差別はある。在日とか、部落とか、人為的につくられた差別が。なんで? って思うけど、これもすぐに解決できる問題じゃないのよね。パレスチナは宗教の問題だから、もっともっと複雑。どうしても折り合うことのできない問題でしょう。個人のレベルで知り合うことと、集団として知り合うことの違いっていうのもあるよね。個人対個人だったらいいのに、それがグループになると、対立が起きてしまう。主人公ナディアは、そんなストレスフルな状況にある。なんでもないことでも「これでいいのか」「相手にヘンだと思われないか」っていちいち確認してからでないと、前に進めなくなってる。自分とは違う志向の集団にひとりで入れられたら、自分自身のバランスをとるのが難しいのね。こういうことがあるっていうのを教えてくれて、その世界にすっと入りこませてくれるのは、まさに児童文学の力だと思うな。

ウンポコ:物語性がないのにその世界にすっと入りこめるっていうのは、なぜなんだろう?

オカリナ:ウンポコさんは、大状況を考えながら読んでるからじゃないの? 私は、逆に主人公には共感をもちにくかった。ナディアは、あまりにもナーバスでしょ。だれに対しても、すぐ、相手
vs 自分というふうに、まず自分と対立するものとしてとらえてる。そういう姿勢に引っかかっちゃったのかな。

ひるね:ナディアって優等生すぎてヤなヤツとも言えるね。

オカリナ:他によって自分を規定していくという感じが強すぎるのね。自意識過剰な気がするの。

ひるね:『大草原の小さな家』で、ローラとメアリーがはじめて町の学校にいく場面でね、ふたりはとても緊張してるんだけど、いざ学校に着くと、ローラは「なによ、あんたたち。カケスみたいにぎゃーぎゃーうるさいわね」っていうの。子どもの本の好きな人って、こういう主人公のほうが好きなのよね。

:アラブ人だから・・・って一歩ひいちゃうようなところは、日本の子どもにはわかりにくいかもしれないけど、うちとけたいのに、うちとけられないっていうようなところは、感覚的に理解できるんじゃないかしら。そういうことって、日本にもあるでしょ。

オカリナ:育ってる文化が違うから、こんなふうに思ってしまうのかもしれないけど、日本の子どもにも共感して読んでもらいたいと思うのね。ナディアをヤなやつじゃなく描く工夫が、翻訳でもう少しあったらよかったのかな。

ウンポコ:ナディアは14歳っていう設定だけど、もっと大人びてる。19歳くらいの感じ。

愁童:意外性がないんだよな。作者の設計図が透けてみえちゃって、設計図通りに物語が進んでいくから、葛藤がない。何かコトが起きると、ナディアが過剰に反応してしまうっていうところはあるにしても。

ひるね:物語に、ふくらみがないのよね。

モモンガ:ふくらみがないのは、作者がこのテーマを語るために、人物を設定してるからじゃない? それが、わかりやすさの秘訣でもあると思う。

ひるね:主人公が、こんなにヤな子なのも、珍しいわね。

オカリナ:イスラエルの作家が、アラブの少女を描いてるっていうせいもあるんじゃない?

ひるね:へつらいを感じるのは、それでかしら。「メッセージがある」ということと、文学的なふくらみというのは、わけて考える必要があるわね。

モモンガ:1対1だったらだいじょうぶなのに、民族とか、単位が大きくなると問題が起きてしまうこともあるっていう事実を伝える本は、あっていいよね。レベルは違うにしろ、ひとつの集団の中に、少数派が入っていくときの摩擦のようなものは、日本にもあるでしょ。そういうときの心理状態というのは、日本の子どもにもわかると思うから、きっとみんな、共感できるんじゃないかしら。私は、最初のほうで、ナディアが、知りあったばかりのタミーとヌリットに自分がアラブ人だってことをいうべきか、いやそれとも……?! とすごく悩む場面で、物語にぐっとひきこまれたの。この本は、民族の問題を知る一端になると思うわ。子どもたちに薦めたい本。

愁童:だけどさ、矛盾もあるよね。ナディアのお父さんというのは、古いしきたりを大事にする村の中では革新派で、新しい機械なんかもどんどん採り入れて、成功した人だろ。いわば、もうふたつの文化の壁を乗り越えちゃってる人なわけだ。そういう父親のもとで育った子がこんなにナーバスだというのは、どうも腑におちないんだよな。

:ナディアは、アラブの世界のパイオニアなのよ! それはフェミニズムの視点からみてみれば、よくわかると思う。進歩的であろうとすることは、ものすごいエネルギーが必要なの。フェミニストもそう。矛盾を抱えてるこそから、悩むんじゃないの。

ウンポコ:この作者、女性? 男性?

オカリナ:「ガリラ」というと、女性のようね。

愁童:ナディアの家は一家総出で、フロンティア路線を歩んでるくせに、ナディアがひとりで古い村から出ていくということを、ドラマにしちゃってる。

ねむりねずみ:ナディアは、化石みたいな村に住んでるんだよね。

オカリナ:村は、ナディアにとってくつろげる場所として、描かれてるんだと思う。

:私は、お父さんがもってきてくれるブドウの使い方がうまいと思った。彼女の緊張をとかしてくれる小道具になってる。村も、彼女の一部なの。だから、村のことを頭から否定するのは不可能だし、新しい世界の価値を認めながらも、全身染まることもできない。板ばさみ状態。こうやって、自己矛盾を抱えながら、女は進歩してきたのよ。

オカリナ:ナディアは、ジーンズにチェックのブラウスといういでたちをしていても、まるっきりイスラエルの子と同じになれるわけではない。そういうところから、ナディアの人間像が浮き彫りになってる。

愁童:ナディアは、村の友だちアジーザがスカートの下にズボンをはいてることをはずかしく思ってる。そういう心って、人間的によくわかるけど、説得力がないよね。ナディアの生き方を考えてみるとさ……。

モモンガ:いったん外に出ていって、他の世界を知ってから、村にもどってきた彼女の感覚はよくわかるわ。新しい場所で新しい経験をした後って、ずっと住んでいた場所も、今までとは違って見えるものでしょ。

ウンポコ:ナディアの心の揺れ動きは、よくわかる。すごく悩んでる。でも、矛盾的構造の中でも、ナディアの未来は明るいぞと思ったね。ぼくは、あんまり悩まない子って不幸だと思ってるんだよ。ナディアは、たくさん悩んでるけど、そこに成長を感じる。いじらしいね。そういうことを手渡してくれる、人間の素敵さを感じるなあ。

愁童:フェミニズムを表に出すのであれば、最後の場面、オディに説得されて、学校にとどまることにするのではなく、自分で決断してほしかったな。

:主人公が女の子だからこそ、この物語は活きてると思う。そこからフェミニズムにも、つながっていくんだけど……。

ひるね:なにもかもフェミニズムでくくるのは、難しいんじゃない?

:でも、愁童さんの疑問は、フェミニズムでみんな解明できると思うわ。

愁童:うーん。でも、ローティーンが読んでも、わからないんじゃないかな。今、ガラス細工みたいな子っていっぱいいるけど、ナディアの葛藤を、そういう感覚で、自分の悩みと同じものとしてとらえられてもねぇ……。

ひるね:メッセージを伝えたいがために、オーバーになっちゃってる。橋田壽賀子のドラマみたい。強調しすぎの感アリかも。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


第八森の子どもたち

エルス・ペルフロム『第八森の子どもたち』
『第八森の子どもたち』
エルス・ペルフロム/作 ペーター・ファン・ストラーテン/絵 野坂悦子/訳
福音館書店(福音館文庫も)
2000.04

:私は、期待が大きかっただけに、ちょっと残念だった。厚さ2.8センチ、総ページ数 424ページものボリュームなんだけど、こんなにたくさんの文字が必要な内容かしら? というのは、私、アウシュビッツに行ったことがあるんだけど、そのときものすごいショックを受けたのね。もちろん、訪れる前から大虐殺のことは、知識として知ってた。人体から作ったせっけんとかね、残酷なことはいろいろ知ってたつもりだった。だけど、実際にその場所に立ってみて、ここで人間が3年間暮らしていたという営みを見せられたとき、それまで知っていると思ってた「ホロコースト」との間に、ものすごいギャップを感じて愕然としたのね。そして、この隔たりを埋められるものはなんだろうって考えたとき、「それができるのが、文学だ!」と思ったの。人間の営み、その瑣末な日常と、大きな歴史のうねりとを重ねあわせること。それこそが、戦争を題材とした文学に求められているものじゃないかと思うのね。その点、この作品はシチュエーションはきちんと設定されているんだけど、その先の、大きなところまで結びついてないでしょ。そこがちょっと不満。11歳の女の子ノーチェの視点で人間の営みを地道に追っていくという、作者の一貫した姿勢には好感をもったんだけど……。
ドイツ兵にしても、「ドイツ兵=下品で野蛮」というふうに描かれているけど、本当はそればかりじゃなかったと思うのね。ドイツ兵の中にもいい人、悪い人がいたはずだから。「これは自伝ではなくフィクションです」とペルフロムは言ってるって、訳者あとがきにも書いてあるけど、成長した大人が子ども時代を振り返って書いているわけだから、ドイツ兵をステレオタイプに片づけてしまうのは、まずいんじゃないかしら。あと、訳について、ひとこと。野坂さん、だいぶうまくなってると思うけど、ところどころひっかかるところがあった。たとえば「おねえちゃん」。「おねえちゃん」というからには、ノーチェより年上なのかと思わなかった? 本当は7歳だから、ノーチェより「おねえちゃん」のほうが年下なのよね。もともとクラップヘクの人間関係は、ちょっとややこしいんだけど、よけいに混乱しちゃった。それから私には、子どものいきいきとした感覚がいまひとつ感じられなかったな。オビによると、松岡享子さんは絶賛してるんだけど……。

愁童:ちょっと前に、自分の学童疎開体験を話してくれって、近所の中学校に頼まれて、しゃべったことがあるんだけど、その時、当時の小学校があった区役所編纂の「集団疎開児童だった区民の座談会」みたいな資料を読んだら、「集団疎開には林間学校みたいな、うきうきした感じもあった」なんて、なつかしがっている人も多くてさ。そういう感覚と同じようなものを、この作品に感じたね。ペルフロムもあとがきで、村をなつかしがってる。「疎開=悲惨」みたいな図式ってあるけど、確かに当時を生き延びた人にとっては悲惨=100%じゃない面はあって、だから生きてこられたんだと思うけど、作品として子どもたちに伝える場合、こういう視点からっていうのはヤバイんじゃないかな。この作品、いろんな出来事に対する作者の痛みが感じられない。例えば隠れていたユダヤ人一家がいなくなったときも、出来事としてさっと流れていくだけで、主人公の衝撃みたいなものは伝わってこないよね。

モモンガ:心の痛みは、ぜんぜん伝わってこないよね。「おねえちゃん」が死んだところも・・・。

ひるね:p404で、おばさんたちが「あの子は、死んでよかったのかもしれないよ」ってしゃべってるのを、ノーチェが立ち聞きしてしまう場面。なんだかのんきな感じになっちゃてる。もう少し配慮があるとよかったのに。

愁童:こんなことじゃ、「民族と戦争」について考えるのはちょっと難しいね。

ねむりねずみ:いろいろとおもしろい話は出てくるんだけど、さてそれから・・・って思ったところでぷちっと切られちゃう感じがして、私もちょっと物足りなかったな。まあ、子どもの視点で描いているからと言われれば、なるほどと思わなくもないけれど・・・。たとえば、掃除したばかりの廊下を汚されたくないウォルトハウス夫人が、ノーチェに「出ていっておくれ!」っていうのと、ユダヤ人のメイアー一家が連れ去られたことが、同じ重さで描かれちゃってるでしょ。これはちょっと問題だと思うなあ。たしかに子どもの感覚っていうのは、そういうところがあるかもしれない。子どもの頃って、台風が来てもイベントのひとつのように思って、わくわくしたりしなかった? 事態の全体像をつかんでないから、そのときどきの珍しいことを楽しめちゃう。そういう感覚はたしかにあるだろうけど、でも、それだけじゃね・・・。どーんと胸に迫るもののある作品とは、受けとれなかった。こういう状況の中、子どもがどう生きていたかということを描くには、成功していると思うけど、そのもう一歩先まで描いてほしかったな。

オカリナ:主人公ノーチェは11歳でしょ。大状況と日々の自分のことに対する感覚の間に差があるかもしれないけど、11歳だったらこんなもんじゃないかと思うな。「子どもの視点で描いた」というのなら、これはこれでいいんじゃない? 私が興味深いと思ったのは、オランダという場所。1944年のオランダでも、田舎にいけばこういう暮らしがあったのよね。そして戦禍の中でも、こういう遊びをする子どもたちがいた、と。それはいいんだけど、いかんせん長すぎる! 今の子どもたちに読んでもらうためには、もっと刈りこんでもよかったかもしれない。坦々と進む叙述は、読書力のない子だと、ただだらだらしてるっていうふうに思われちゃうんじゃないかな。あとタイトルなんだけど、「第八森」ってなんだろうと興味しんしんだったのに、ただ詩があって、ユダヤ人がかくれててっていうだけだったから、拍子ぬけしちゃった。

モモンガ:それに『(第八森の)子どもたち』っていうわりには、「たち」というほど子どももたくさん出てこない。

ひるね:イギリス版のタイトルは『時が凍りついた冬』。そのほうが、ストーリーにはあってるかも。

:たぶんこれは、さんざん悩んだ末、解釈を加えないほうがいいんじゃないかということで、原題をそのまま日本語にしたんじゃないかしら。

オカリナ:色とか匂いとか、五感をフルに活用して書いてるのは、おもしろいなと思ったけど、「民族」「戦争」という視点から見ると、ちょっと不満がある。なんだかいい人ばっかり出てくるでしょ。全体に明るく、太陽的。そして「そこに立ちはだかる悪」=「ドイツ兵」という図式。ドイツ兵は、「劣っているもの」として描かれてる。作者は、子どものときそう思っていたかもしれないけど、この作品は大人になってから書いたものなんだから、そのへん、もうちょっとなんとかすればよかったのに。そうしたら、陰影も生まれて、長所がもっと引き立ったんじゃない?

:人間洞察に、深みが足りない。もう少し工夫すれば、この裏に大きい歴史のうねりがあるということを知るための、大事な入り口になる可能性はあったのに。

モモンガ:歴史を知ってる大人が読めばわかるけど、子どもにはわからないものね。

ウォンバット:私は今回のテーマ「民族と戦争」というのは全然意識しないで読んだんだけど、おもしろかった。というか、意識しなかったから、おもしろかったのかも。ノーチェたちの暮らしぶりもおもしろかったし、「ああヨーロッパなんだなあ」と思ったの。オランダ語とドイツ語って似てるんでしょ?

オカリナ:んー、ドイツ語と英語の間みたいな感じかな。

ウォンバット:ノーチェのお父さんはドイツ語がよくわかるし、クラップヘクの人たちも、なんとなくだったらドイツ兵の言うことがわかる。やっぱり陸つづきだから、距離的に近いっていうだけじゃなく、言葉もよく似てるのね。そういう土台の上で起こった戦争だったってことが、よくわかった。

モモンガ:私はこの本、とっても読みにくくて。なかなか物語世界に入っていけなかった。なんでだろと思って考えてみたんだけど、これは小さい子向けの文体でしょ。私は、書評や表紙の雰囲気から、なんだか先入観があって、もっと大きい子向け、高学年向けの重いものなのかと思ってたのね。そうじゃなくて、小さい子の視点に徹してるんだということがわかってからは楽しめたけど、そこまでちょっと時間がかかっちゃった。小さい子って、大きいことにはこだわらず、小さな喜びをみつけていくのよね。でもねー、小学校低学年の子がこの本を読むかなと思うと、「おもしろそう」って自分から手をのばしてこの本を読む子は、少ないだろうと思うな。もうちょっと文章を少なくして、読者の対象年齢もあげて、中学年向けにしたほうがよかったんじゃないかしら。

ウンポコ:ウンポコは、いつものようにun pocoしか読めなかった。読みたいという気にならなかったんだよね。ペルフロム自身は「この作品は自伝ではなくフィクションだ」と言ってるって、訳者あとがきでわざわざことわってるけど、物語性がないでしょ。p100に到達する前にダウンしちゃったね。もう、苦労して読むのはやめようと思って、やめちゃった。訳文は読みやすかったんだけどね。ぼくは気にいった作品は、声に出して読んでみるの。そうするとまたよくわかるんだけど、この訳文は、ぼくと呼吸がぴったりあった。この訳者、いい人! と思ったね。

モモンガ:わかりやすい訳よね。

ウンポコ:時間があれば、もう少し読めたんだけど……。でも、ウンポコだから、un poco読みさ!

ひるね:私は、ひるね読みで 270ページ。ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』のシリーズのオランダ版と思って読んだら、おもしろかった。

オカリナ:たしかに似てる部分はあるけど、『大草原の小さな家』は、もっとストーリーに盛り上がりがある。この作品も、フィクションなんだから、もっと起伏をつければよかったのに。

ひるね:そうね。それに、はじめ、人間関係がわかりにくかったの。最初、ノーチェとエバートが橇遊びをするシーンではじまるんだけど、それがけっこう長いでしょ。こういう形で入ったら、小さい読者にはわからないんじゃないかしら。それと、翻訳によくあることなんだけど、ノーチェの視点で語られていたものが、突然別の人の視点に変わったりするでしょ。結核のテオとかね。視点が、大人の男の人のものに移ってるのに、口調がノーチェのまま、11歳の女の子のままになっているのは、違和感があった。「ですます調」も難しいわね。ノーチェが主人公だから、こういう語り口にしたのかな。読者対象も原書にあわせたんだと思うけど、日本向けには、オランダよりもう少し対象年齢をあげて、てきぱきと訳したほうが、おもしろかったんじゃないかしら。あと、自分の経験した戦争を描こうとするとき、「なつかしさ」というのも、曲者だと思う。最後の場面、クラップヘクを離れてアムステルダムにいったノーチェが、クラップヘクでのことを「すばらしい生活だった」というふうに、回顧してるんだけど、それもちょっと問題よねぇ・・・。たしかに、なつかしさというのはあるんだろうけど、こうはっきり言ってしまうのは、どうなんだろう。アミットの『心の国境をこえて』と比べてみると、実際ナディアよりノーチェのほうが、ずっと緊迫感のある暮らしをしてるはずなのに、全然そんな感じじゃない。書き方によって、こうも変わってくるものかというのが、よくわかった例。ノーチェは11歳ということなんだけど、もっと幼い子のような感じだし。

モモンガ:ノーチェの台詞、ちょっと子どもっぽすぎるよね。

ウンポコ:やさしく書いてあって、ぼくは好感がもてたけどな。

ひるね:訳者あとがきによると、翻訳期間約5年っていうことだけど、編集者がずいぶん手をいれて、時間がかかったのかしら。「ですます調」より、「〜だ調」だったら、もっとよかったかも。

モモンガ:もっとしまったかもね。

オカリナ:この半分のボリュームだったら、よかったんじゃないの?

ウンポコ:翻訳する人はさ、この作品は「ですます調」でいこうとか、これは「〜だ調」がいいとか、すぐ判断できるものなの?

オカリナ&ひるね:すぐ判断できるものと、そうじゃないものがあるよね。迷ったときは、両方やってみることもある。

ひるね:特別なものをのぞいて、小学校2〜3年までは「ですます調」、それ以上は「〜だ調」のほうが、しっくりくるんじゃないかしら。

:人間って頭の中で考えるとき、「ですます調」では考えていないのよ。

愁童:「ですます調」は、終わったことを言うときに使いたくなるんじゃないかな。作者の中で完結してしまった過去を語る文体。だから切実感や緊張感に欠けるんだよ。

ウンポコ:そう言われててみると、手紙は「ですます調」で書くね。

ひるね:あら、今の若い子のメールは、「ですます調」じゃないでしょ。

ウンポコ:ぼくは、メールも「ですます調」だなあ。「ですます調」でないと、乱暴な口調だと思われるような気がしちゃって。

ねむりねずみ:子どもの視点と、文体にもズレがあるよね。

モモンガ:ノーチェの視点で語られているのは、子どもには読みやすいと思う。でも、子どもの視点と大状況を両立させるのは、難しいことよね。といっても、本当にこの作品を楽しめるのは、大人じゃない?

オカリナ:この本、「売れるか売れないか」といったら、そんなに売れないと思うの。でも、オランダ政府は外国でのオランダの本の翻訳出版に助成金を出してるんだって。この本もそうだと思うんだけど、売れなくてもいい本なら出せるっていうのは、うらやましいわね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ローワンと魔法の地図

エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』さくまゆみこ訳
『ローワンと魔法の地図』 (リンの谷のローワン1)

エミリー・ロッダ著 さくまゆみこ訳 佐竹美保挿絵
あすなろ書房
2000.08

オーストラリアのバイロンベイに行ったときに何軒かの本屋さんを回って、今子どもが夢中で読んでいる本を教えてもらいました。その中から探し出した本です。本嫌いな子どもでも読書の楽しみを味わえるのではないかと思いました。
ローワンはバクシャーという家畜の世話をする少年。あるとき、村に水が流れてこなくなり、勇者をつのって水源である山に登って原因を確かめることになります。ローワンは勇者とはほど遠い臆病な少年なのですが、魔法の地図が読めるのがなぜかローワン一人だったため一緒に行くことになってしまいます。最後には竜も出て来て冒険とスリルに満ちています。
小学校高学年なら読めるように訳したつもりでしたが、課題図書の対象は中学生でした。全5巻のシリーズもので、どの巻でも弱虫のローワン君は、いつのまにか冒険にまきこまれてしまいます。個人的には、ハリー・ポッターよりこっちのシリーズの方がおもしろいのではないかと思っています。子どもたちから手紙がくるのが何よりうれしい。
(装丁:丸尾靖子さん 編集:山浦真一さん)

*オーストラリア児童図書賞・最優秀賞受賞
*毎日新聞青少年読書感想文全国コンクール課題図書

訳者あとがき

この作品に最初に出会ったのは、オーストラリアのバイロン・ベイという海辺の町でした。岬からイルカやクジラが泳いでいるのが見えるその町で、本屋さんに入っていった私は、店員さんに、今、子どもたちが夢中になって読んでいる本があったら教えてほしいとたのみました。その店員さんが出してきてくれたのが、このローワン少年の出てくるシリーズでした。店員さんは、「このシリーズは、仕入れてもすぐ売れてしまうんです」と言って、その時には、二巻目は店にありませんでした。とりあえず1巻目と3巻目を買って帰って読んでみると、これがおもしろいのです。日本に帰ってから2巻目も取り寄せて、一気に読みました。

その後、このシリーズについて調べてみると、1巻目の本書はオーストラリア児童図書協会が選ぶ年間最優秀児童図書賞を受賞していることがわかりました。そして3巻目も同じ賞の優秀賞に選ばれていました。

この本には、竜、洞窟、クモ、底なし沼、魔法をかけられた地図など、ファンタジーの読者におなじみのものが登場し、読者をどきどき、わくわくさせるストーリーが展開していきます。そればかりか、この作品は、これまでのファンタジーにはない新しい魅力ももっています。その魅力の一つは、主人公が、内気で臆病で、いかにも冒険には不向きな男の子だという点です。これまでのファンタジー作品の主人公のほとんどが、最初から勇気があったり、修業が好きだったり、好奇心や冒険心に富んでいる者だったことを考えると、この点は異色だと思います。ローワンは、運命のいたずらで仕方なく山にでかけていき、途中でも怖い怖いと思いながら、それでもとうとう最後には、村人も家畜も竜も救うことになるのです。

もう一つの新しさは、ジェンダーをこえた男女差のない社会が描かれているという点です。はじめのほうに、リンの谷の村の最長老で村長の役割をしているランという人物が出てきますが、すっと読んだだけではランが男性なのか女性なのかわかりません。よく読んでみると、原文ではshe(彼女)という代名詞が出てきて、ランが女性であったことがわかります。また魔の山に出かけていく勇者たちは、ローワンを除くと男性3人、女性3人です。体格はストロング・ジョンが一番大きいらしいということはわかりますが、力や勇気や知恵の点では、男性も女性も同じように描かれています。つまり、従来の「男の役割」「女の役割」「男らしさ」「女らしさ」にとらわれず、それぞれの個人がその人にふさわしい役割を果たしていく社会が、作者の一つの理想として描かれているのです。

作者のエミリー・ロッダは、本名をジェニファー・ロウと言い、1948年にシドニーに生まれました。シドニー大学で英文学の修士号を取ったのち、出版社に職を得て、編集者になります。子どもの本を書くきっかけは、娘のケイトに、自分で作ったお話を聞かせたことでした。ケイトがこのお話をとても気に入ったので、出版を思い立ち、きちんとタイプして自分が勤めていた出版社に売り込んだのですが、そのときにペンネームとして祖母の名エミリー・ロッダを使いました。この初めての作品『とくべつなお話』は、1985年にオーストラリア児童図書最優秀賞を獲得しました。2作目の『ふしぎの国のレイチェル』も1987年の同じ最優秀賞に選ばれます。エミリー・ロッダは、その後もオーストラリアで最高の児童図書にあたえられるこの賞を、合計5回も受賞しています。パトリシア・ライトソンやアイヴァン・サウスオールなど何回か受賞した作家はほかにもいますが、5回も受賞したのは、エミリー・ロッダだけです。昨年末には、ローワンシリーズの4巻目が出版されましたが、これも、オーストラリアの子どもたちにはすでに大人気を博し、今年の最優秀児童図書賞の有力な候補となっています。

2000年5月

さくまゆみこ


2000年07月 テーマ:文学を読もう

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『2000年07月 テーマ:文学を読もう』
日付 2000年7月18日
参加者 ウンポコ、愁童、カーコ、ねねこ、ウォンバット、
ひるね、オカリナ、流、裕、H、ウーテ、モモンガ
テーマ 文学を読もう

読んだ本:

ベルンハルト・シュリンク『朗読者』
『朗読者』
原題:DER VORLESER by Bernhard Schlink,1995(ドイツ)
ベルンハルト・シュリンク/著 松永美穂/訳
新潮社
2000.04

<版元語録>学校の帰りに気分が悪くなった15歳のミヒャエルは、母親のような年の女性ハンナに介抱してもらい、それがきっかけで恋に落ちる。そして彼女の求めに応じて本を朗読して聞かせるようになる。ところがある日、一言の説明もなしに彼女は突然、失踪してしまう。彼女が隠していたいまわしい秘密とは何だったのか…。数々の賛辞に迎えられて、ドイツでの刊行後5年間で、20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を超える大ベストセラーになった傑作。
ドナ・ジョー・ナポリ『逃れの森の魔女』
『逃れの森の魔女』
原題:THE MAGIC CIRCLE by Donna Jo Napoli, 1993(アメリカ)
ドナ・ジョー・ナポリ/著 金原瑞人・久慈美貴/訳
青山出版社
2000.02

<版元語録>なぜ魔女は、暗い森の中にお菓子の家を建て、いともたやすく、グレーテルに殺されてしまったのか。お菓子の家に隠された、美しくも哀しい秘密。グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」の魔女を主人公に、その生涯を描いた悲劇。
吉岡忍『月のナイフ』
『月のナイフ』
吉岡忍/著
理論社
1999.09

<版元語録>「ぼうず、今度は一人でこいよ。一人ずつだ」 少年と少女の夢想にしのびよる世の中の影。子どもたちの現実に響きわたる死者たちの声。世界への視線から生まれた九つの連環小説集。
フランチェスカ・リア・ブロック『“少女神”第9号』
『“少女神”第9号』
原題:GIRL GODDESS #9 by Francesca Lia Block, 1996(アメリカ)
フランチェスカ・リア・ブロック/著 金原瑞人/訳
理論社
2000.01

<版元語録>ポップで、リアルで、ファンタスティックなスタイルで、今の若者の姿を描き出す、アメリカ・ヤングアダルト小説の第一人者ブロックの短編集。すべての少女に捧げる、現代版「ナイン・ストーリーズ」。

(さらに…)

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“少女神”第9号

フランチェスカ・リア・ブロック『“少女神”第9号』
『“少女神”第9号』
フランチェスカ・リア・ブロック/著 金原瑞人/訳
理論社
2000.01

H:これ、初版限定プレミアム・バージョンは、刷色が7色に変化する特殊印刷。原書は、色刷じゃなくて、日本語版のみのサービスなんだよ。フランチェスカ・リア・ブロックは不思議な作家で、雰囲気で読ませるって感じだから、こういうのもいいかと思って……。でも、老人に、白内障の目にはきついと言われましたね。

ウォンバット:私は、好きな作品だった。今は亡き雑誌「オリーブ」の、創刊すぐのころの愛読者「オリーブ少女」たちが好きそうな感じ。「ノンノ」じゃなくて、80年代の「オリーブ」。ちょっと主流からずれたところのカッコよさというのかな。とくに印象的だったのは「マンハッタンのドラゴン」。

モモンガ:「全米ティーンに人気爆発」って書いてあるんだけど、音楽とか、今のアメリカの流行に詳しくないもので、味わいが薄れちゃったような気がして、その点ちょっと残念。女の子があっけらかんとしてるとこなんか、好きな感じだった。それにしても、まばゆい本ね。印刷もそうだけど、紙がすっごく光るの。

オカリナ:この本のつくり方は、おもしろかった。なんだかあっけらかんとしてて、熱がない感じ。今流行の踊りパラパラも、無表情で、のってないようでのってるっていうような、熱のない踊り方がいんでしょ。この本も、それにちょっと似た感じ。私はのれる話と、のれない話と、差があったんだけど、その差はどこから来るんだろ?

H:話のできの善し悪しにもよるからね。たしかに、ばらつきがあるかもしれない。今の若い子がかっこいいと思う文体って、あんまりきゃぴきゃぴじゃなくて、ちょっとおさえめな感じだと思うんだよね。だからそれを目指してるんだけど。あと、内容は実はちょっと古い。ややバブリーのり。

ひるね:花の名前とか、ハーブの名前とかたくさん出てくるところも、好き。名前の魅力、言葉の魅力というのかしら。刷色を変えてるのも、明るくてきらきらしてていいわね。マーブルチョコみたい。ストーリー性のあるものが、とくにおもしろかった。「マンハッタンのドラゴン」とかね。おとぎ話みたいで。

:とーっても好きな作品。カラーもお話も好き。私は著者と同い年だから、なおさらよくわかるんだと思う。好きなものに囲まれている女の子たちのことが、だんだん寂しく感じられちゃって……。まわりに好きなものをいっぱいおいて、好きなもので埋めつくしてるんだけど、そこにある寂しさっていうのかな。

H:ぼくも、最初の「トゥイーティー・スイートピー」は好きなんだけど、最後の「オルフェウス」は、つらくなっちゃうんだよな。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


月のナイフ

吉岡忍『月のナイフ』
『月のナイフ』
吉岡忍/著
理論社
1999.09

ねねこ:この短編集は、出来のいいのとそうでもないのがあるんだけど、あえて承知でこういう構成にしたのかなと思いました。吉岡忍の全体を見せたかったのかな。好きなものは好き、嫌なものは嫌で、それで結構! って姿勢なのかも。私が特によかったのは「鹿の男」と「子どもは敵だ」。東京国際ブックフェアのときに、オランダの生物学者が「子どもに学ぶことなんてない。動物を擬人化したり、子どもは純粋だなんて思い入れをもちすぎるのもおかしい」って言ったのが、とっても印象的で気持ちよかったんだけど、それを思い出した。「子ども=聖なるもの」というのは、幻想なんだっていうことを、あらためてつきつけられた感じ。子どもも、大人と同じようなずるさをもっていて、大人と同じようにこの世界で生きのびようとしてるのよね。吉岡忍の作品は、アジアや地球のレベルで考えようという、日本にとどまらないグローバルな視点をもとうとしているのが、日本の他の作家との違いかしら。でも、子どもはどうなのかな、こういう作品って。表題作の「月のナイフ」は、よくわからなかった。状況描写がわかりにくくて。あと、連環小説ということで、あえて最初に近未来小説の「旅の仲間」をもってきたのは、失敗だったかも。ここで挫折しちゃう読者もいるんじゃない?

カーコ:私は読むには読んだんだけど、考えてみる前に、流さんに貸しちゃったので・・・えーと、どうだったっけ。あ、そうそう、私は自分の子どものこともあって、10歳くらいから14〜15歳って、どんなふうに成長していくものなのか、興味をもってるところなんだけど、この作品は、現代の子どもの抱えてる問題がたくさん出てきて、キーワードが目にとびこんでくるような感じ。生々しすぎて、今ひとつのれなかったんだった。ノンフィクションの作家がフィクションを書くと、こういうふうになるのかな。

H:好き嫌いが別れる作品でしょう。試みとしては、おもしろいと思うけどね。作者の気持ちもわかる・・・が、もう一歩先まで行ってほしかったって気もする。「月のナイフ」で、きらきら光ってキレイな先生の産毛が、幻想とまじっていく場面とか、あと、どっちも意味がなくて、どっちだかわからないようなことを書いたりしてるところ、こういうところは評価したいね。子どもの文学にこういうことを書くって、これまでになかったと思うから。子どもからは「自由な感じがした」って、手紙が来たりするんだけど。とくに好きだったのは「鹿の男」かな。でもなー、やっぱりハナにつくとこはあるんだよな。学級委員的な臭さっていうか、リーダー臭さ。誠実なのは、わかるんだけどね。世代的なズレを感じる。この作品、不統一な短編集って話がさっきあったけど、作者個人のこだわりがあって、最後のところにすべてが重なるようにできてるんだよ。まあ、最初の作品としては、いいんじゃないかな。

ウォンバット:私は、この作品は、読んでいやーな気持ちになっちゃって。問題意識はわかるんだけど、困った事態をつきつけるだけつきつけといて知らんぷりされちゃうみたいで、感じ悪かった。あとに残されたのは、どうにもならない無力感だけ。唯一好きだったのは「子どもは敵だ」。

H:ぼくも。

ウォンバット:ここにでてくる「言葉」っていうものの定義と、言葉のもつ危うさは共感をおぼえた。この作品は、おもしろかったな。

モモンガ:私も、最初の「旅の仲間」を読んで、こんなのがずっと続くのはつらいなと思ったんだけど、他はまた違ってた。こんなふうに、違った雰囲気のものが1冊になった短編集って、珍しいわね。やっぱり大人と子どもは違う。子どもは、自分の居場所を選べないし、自分が選んだわけではない場所に、ずうっといなくちゃいけないでしょ。閉塞感があるよね。そういうことを考えさせられたんだけど、子どもの目で読んでおもしろいと思える作品ではないかな。なるほどなーと思うところは、あったけど。この装丁は好き。

愁童:ぼくも「旅の仲間」は、拒絶反応。読むのがつらかった。なんだか、作為が目立っちゃって。もっとシャイであってもいいんじゃないの?「その日の嘘」は、タイトルが断罪してる。こんなの書いてどーするんだ?! 何をねらったんだか、よくわからん。ぼくの不登校ムードをくつがえすほどのパワーはなかったね。

オカリナ:私は、半分までしかまだ読めてません。実は、ここにくるまでの電車の中で読もうと思ってたんだけど、疲れて爆睡してしまいましてね・・・。

一同:(笑い)

オカリナ:私は吉岡さんと同世代のせいか、言いたいことがわかりすぎちゃう気がしたの。書いていることは世間的に見れば直球のスローガンじゃないんだろうけど、それでも言いたいことがあってそれに引きずられて書いてるっていう意味ではスローガンみたいに見えてきちゃう。誠実なのはわかるんだけど、もうちょっとセーブしたほうがよかったんじゃないかな?

H:スローガンさえ気にしなければ、おもしろいところはあるんだけど、すけて見えちゃうんだよな。作為が消えきらないっていうかさ。吉岡さんには、問題意識そのものを疑えっていうところがあるんだよね。グロテスクなものの中にも美しいものがあるかもしれないっていうテーゼのたて方も、大人から見たらウザいよね。

オカリナ:酸性雨の影響を受けた湖の水は、その中で生きてる物がいないからとってもきれいに澄んでるっていうことなんかは、すでにあっちこっちで書かれてるわけだから、そんなに新しい視点とも思えなかったし。

愁童:「鹿の男」の描写力には、可能性を感じさせるものがあるけどね。

オカリナ:装丁とか、本の感じはいいよね。

ひるね:私も、だいたいみなさんと同じ。「旅の仲間」は別としても、他のはもう恥ずかしくて読めなかった。最初に意見ありきで、それを創作であらわそうとしてるみたい。それなら、ノンフィクションで書いたほうが、よかったんじゃないかしら。

H:吉岡さんは、「ノンフィクションとフィクションのあいだを書きたい」って言ってるんだよ。

ひるね:「月のナイフ」は表題作だし、書きたかった世界なのかなという感じはするけれど、残念ながら作品として熟していない。惜しい! ナイフに拒否反応をおこす大人を戯画化してるんだけど、突然男が川を流れてきたりして、ナンセンスっていうかシュールな方向にいっちゃって、ラストは、メルヘンの世界でセンチメンタル・・・。もっと書きこめば、おもしろい作品になったんじゃないかしら。これは子どものモノローグの形をとってるんだけど、どう見ても大人の語り口でしょ。違和感があるわね。これからも「ノンフィクションとフィクションのあいだ」をどんどん書いていってほしいけど。

カーコ:「あいだ」ねぇ・・・。

ねねこ:何か提示するものがなきゃ、書いちゃいけないの? 文学って、そういうものじゃないと思うけどな。

:私も、最初の「旅の仲間」は、息が苦しくなっちゃって、読むのがつらかった。自分が感じたことを書いたっていうのは、よーくわかったけど。

H:「旅の仲間」で、カマしてるんだよね。わかるか、わかんないか。メディアの臭みっていうのかさ、一般の人はこうなんじゃないかって設定した上で話してるって感じ。

:なんか、予定調和。私は、時事問題を書くってことに対するアレルギーもあってね。この作品、子どもはどう読むんだろ?

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


逃れの森の魔女

ドナ・ジョー・ナポリ『逃れの森の魔女』
『逃れの森の魔女』
ドナ・ジョー・ナポリ/著 金原瑞人・久慈美貴/訳
青山出版社
2000.02

愁童:発言すべきこと、すぐには出てこないな。パロディでこういうのをつくるっていうのは、おもしろいかと思うけど、いまひとつ、のりきれなかったんだよね。

H:ぼくも、パロディのおもしろさっていうのはわかるんだけど、とくにそれを追いかけたくはなかったっていうかさぁ・・・。

ウォンバット:私も好きな感じではなかったな。なんかこう、ひたひたと迫りくる恐ろしさは強烈に感じたけど。

モモンガ:私はおもしろかった。パロディを抜きにしても、すっごくおもしろかった。ひとりの人間の中に、邪悪な心と崇高な心が日々せめぎあっているという状況を、とてもうまく描いている。最初に善き行いをするんだけど、それでうぬぼれちゃいけなかったのよね。崇高なものが邪悪に変わっていく過程を克明に描いていて、スリルがあった。描写にリアリティがあるでしょ。

愁童:そうそう、それだ! ぼくもモモンガさんと同じことを感じたんだよ。この作品は魔女と人間を切り離さず、両者をつなぐものをちゃんと踏まえたうえで魔女を描いている。そこにリアリティがあるところが、日本人作家の描く魔女との大きな違いだと思う。つねづね思ってることなんだけど、どうも日本の作家が描く魔女って、そういうことが抜け落ちちゃってるような気がするんだ。なぜ彼女が魔女にならなくてはいけなかったのか、どうしてあんなことをしてしまったのか・・・。この作品は、彼女の心が変化していく過程に、リアリティがある。人間と魔女がまったくの別ものというのではなくて、両者をつなぐ根っこの部分を、きちんとおさえてるんだよね。

モモンガ:たとえば、グレーテルが料理をするシーンの鍋つかみのエピソードなんて、まさに女性の作家ならではのリアリティ。あと、文体もおもしろいわね。短い文の積み重ねのような文体。もしかして原文は、詩みたいな感じなのかな。

ウーテ:どうなのかしら。原文を読んでないからわからないけど・・・。でもこれ、散文は散文よね。

モモンガ:だけど、いわゆるふつうの文体とは、ちょっと違うでしょ。短い文で、たたみかけてくるような感じ。

:アンジェラ・カーターの『血染めの部屋』(富士川義之訳 筑摩書房)とか、マーガレット・アトウッドの『青ひげの卵』(小川芳範訳 筑摩書房)なんかもそうなんだけど、パロディって、もとの物語をフェミニズムで解体すると、よくわかるの。みんな法則的にぴったりあてはまる。AERAのムック「童話学がわかる」にも書いたけど、母性がネガティブなものに変えられていたって、歴史があるでしょ。産婆とか魔女とかね。この作品は地味だけど、母性の二面性がよく描けてると思う。子どもを慈しむ気持ちと、子どもを食べちゃうっていう面と。魔女は、グレーテルのかわいらしさに、このまま家族のように暮らしていきたいと思う反面、習性として、子どもたちを食べたいっていう欲求も、どうしようもない。そういう魔女の心のゆらぎが、とてもうまく描けてる。

ひるね:パロディとしてはうまくいってるし、よくできた作品。でも、予想された書き方ではあるのよね。私は、一読者として、この世界に入ってはいけなかった。ゲーム世代のファンタジーだからかな。今までのファンタジーは、現実の世界と空想の世界をつなぐ扉が、作家の工夫の見せどころで、空想の世界への入口をどうやって開くか、というのが問題だったでしょ。そして、そこがファンタジーの大きな魅力のひとつだったと思うのね。でも、ゲームは入口なんてなくて、キーを押すだけで、即その世界にワープしちゃってて、お約束のように悪魔とか、怪物が出てくるでしょ。旧世代に属する私には、どうもなじめない。アメリカは、こういうパロディが多いわよね。パロディのおもしろさって、読者にかかってると思うの。もとのお話が、どのくらい読者の血となり、肉となってるかというのが、おもしろさのポイントだから。翻訳本として出版するのは、キツイ面があるわね。

:おもしろくてさらっと読めたんだけど、愁童さんの裏返しパターンで、物語世界に入っていけなかった。うまくできてはいるんだけど……。世界観、自然観がはっきりしてるから、苦手。ひるねさんのいうように、日本でYAとして出版するにはキツイね。

ウーテ:ドイツでも、パロディってフェミニズム的傾向があるのよ。カール=ハインツ・マレの『
<子供>の発見〜グリム・メルヘンの世界』、『 <おとな>の発見〜続グリム・メルヘンの世界』(ともに小川真一訳みすず書房)も、フェミニズム的解釈解釈で、印象に残ってる。女の人の生命力のすごさっていうのかしら。子どもがふたりいる四人家族に、食べものがないって危機がおとずれたとき、母はどうするか? 両親が死んで、子どもだけが残されたら、子どもは生きていけないでしょ。でも、大人ふたりだったら、生きていけるからって、子どもを捨てるの。残酷なようだけど、それって理屈から言ったらちゃんと理にかなってるのよね。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


朗読者

ベルンハルト・シュリンク『朗読者』
『朗読者』
ベルンハルト・シュリンク/著 松永美穂/訳
新潮社
2000.04

ねねこ:これは、今とても話題になってる本よね。子どもの本ではないけど、少年が登場する物語ってことで、今回とりあげたわけだけど、しかけがうまくて、小説として実によくできてると思う。15歳の少年ミヒャエルと、36歳の女性ハンナの、ひとつの愛の形にとても感動しました。1度別れたふたりは思いもかけない場所、法廷で再会する。被告人と傍聴者のひとりとして。ミヒャエルは、ハンナを追いつめることなく、救うことができるのか、否か。そして、距離感を保ちながら、彼女を理解することができるのか、支えることができるのか……。難しい問題だよね。それと、文字の読み書きができないということは、ただ単に不便というだけではなく、人間としてたいへんな劣等感であり、屈辱であり、デメリットなんだっていうことを考えさせられた。同じテーマを扱った作品といえば『ロウフィールド館の惨劇』(ルース・レンデル著 小尾美佐訳 角川書店)もあったわね。これもまた、強烈な作品だった。

流&ひるね:そうそう。あれも強烈だったねー。

ねねこ:それにしても、刑務所に入ることを選ぶなんてね・・・。刑務所の中で文字をおぼえ、本を読みはじめてから、自分の犯した罪を含めて、自己の確認をしていくハンナの姿は、とても痛々しかった。最後のハンナの選択も、とてもよく理解できた。

カーコ:私はこの本、こんなに売れてるって知らなくて、図書館で予約しようとしたら88番目だったんで、びっくり! 結局、買って読んだんだけど、すごく好きな作品だった。全体の伏線の引き方、構成がすばらしい! 一息に読んじゃった。このふたりの関係は、いわゆる恋人同士というのとは少し違うと思うのね。ミヒャエルは、ハンナに恋愛感情を抱いていたけど、ハンナは恋愛という点ではどのくらいの感情をもっていたのか、ちょっとわからないから。ふたりの関係は、恋愛とはいえないかもしれない。でも、心の深い部分のつながりは、たしかに存在していて、人間と人間の関係の不思議を感じさせられた。こういう作品がベストセラーになるなんて、日本の読者も捨てたもんじゃないね。あと、戦後50年、戦争、ナチズム、ユダヤ迫害なんかが風化してきてる中で、こういう問題をつきつめようとするっていうのも、スゴイことだと思うな。

ウンポコ:ぼくは、今朝読み終わったところなんだけど、深く、重い感銘を受けたね。ここ数年で、いちばんショッキングな作品だった。ぼくはねー、いつでも主人公に自分を重ねあわせて読むタイプだから、最初の部分は、ちょっと受けつけないっていうか、好きじゃなかったの。ぼくが15歳の少年だったら、21歳も年上の女性なんて、どうしたって嫌だから。それで第1部はピンとこなくて、いやいやながら読んだんだよ。でも、第2部、第3部になると、謎だった部分、たとえばミヒャエルが学校に行きたくないっていったとき、どうしてハンナはあんなに怒ったのか・・・なんかが、だんだんわかってくる。おお、これはなんだ?! と激しく読書欲を刺激された。文学のすごさ、すばらしさを感じたね。ねえ、ナチスの側にいた人を描いた本って、ドイツにはたくさんあるの?

ウーテ:さあ、どうかしら。

ウンポコ:ここまで内面の深い部分をえぐりだしたものって、そうないんじゃない? こういう歴史の現実を、ぼくは重く受けとめた。ところでこの作品、訳がこなれてないね。何回読んでも、何をいっているのか理解できないところがあった。乱暴だし、逐語的訳文が多すぎるよ。もう1回くらい、訳し直す努力をしたら、よかったんじゃない?

ウォンバット:私も一息に読んじゃった。帰りの電車の中で読みはじめたんだけど、早く続きが知りたくて、家に着いても服も着替えず、お腹すいてたのに夕食も食べず、最後まで読んでしまいました。こんなに夢中になった本は、久しぶり。ハンナが文字が読めないっていうのは、ふたりが旅行にでかけたとき、ミヒャエルのメモがなくなってて、ハンナが激怒した……っていう場面で、すぐわかったの。これはテレビ「大草原の小さな家」のエドワーズおじさんだ! って。エドワーズおじさんって、とてもいい人で、インガルス一家の大切な友人なの。テレビでは、彼が主人公の回で、実は字が読めないんだということが露呈しちゃうって話があるのよ。あと、ハンナが出所目前に自殺してしまうっていうのも、やっぱりと思った。映画「ショーシャンクの空に」で、長いこと刑務所に入ってて、ようやく出所したのに自殺しちゃうおじいちゃんがいて、とても印象に残っていたから。でも、それ以外の部分は意外性があって、うーん読ませる! と、うなっちゃった。この、自分の内面をみつめて、どこまでも追いつめていく辛抱づよさ、ねばりづよさって、ドイツらしい感じ。それから、ミヒャエルは匂いにこだわっているでしょ。若いときの、身だしなみに気をくばり、いい匂いのするハンナと、年老いて、老人の匂いのするハンナとの違い。ドナ・ジョー・ナポリの『逃れの森の魔女』も、匂いに対するこだわりが感じられた。日本の作品には、匂いがこんなにはっきり出てくるものは少ないような気がして、日本とは違うなあと思った。

H:でも、日本人のほうが、匂いには敏感なんじゃないの? 今の若い子なんて、すごく匂いを気にするでしょ。

ウォンバット:それはそうだけど。でも「匂い」ってもののとらえ方が、日本と西洋は根本的に違うような気がする。何を「臭い」と思うかも違うしね。

モモンガ:私はこの作品、「こうなるだろう」と思ったようにはならなくて、予想を裏切る意外な展開の連続だった。はじめは、年の離れたふたりの関係に興味をもって読んでたのね。でも、それだけではなくて、謎解きの逆というのかしら。途中から、今までに書いてあった伏線を探りつつ読むっていうのかな。それが他にないおもしろさだと思った。意外な展開になるたびに、あそこが伏線だったの? っていうところを思い出しつつ考えるって感じ。こういう読ませ方は、新鮮だったな。この作品のテーマは、恋愛とはまた別に、ナチスの犯罪を若い人がどうとらえるかということだと思うんだけど、とても勉強になった。受け入れなくてはいけない部分と、許してはいけない部分との葛藤がよく描けている。それから恋愛については、ひとつの恋愛が一生に渡って影響を及ぼして、これほどまでに深く人生に関わっていくというのは、すごいことだと思うわ。でも、文章が難しいね。なんか難しげな言葉を使ってるから、3回くらい読んでも、わからないところがあった。そこが惜しい!

愁童:前回ちょっと孤独を感じ、今回は不登校ムードの愁童です。ひるねさんから電話をもらって、なんとか重い腰をあげてやってきました。さて、この作品、第1部は読みづらかった。バンホフ通りの描写なんて、さっぱりわからん。こんな日本語あるかよと思ったね。ハンナの心の揺れ動きは、胸に迫るね。こういう極端な状況設定って、うまいと思う反面、これでいいのかとも思う。前に、この会で『ナゲキバト』(ラリー・バークダル著 片岡しのぶ訳 あすなろ書房7)をとりあげたときのことを思い出した。ぼくはとてもいい作品だと思ったんだけど、あざとい設定にごまかされちゃいかん! と言われたコンプレックスが、未だに尾を引いているんでね。

:設定に無理があったり、あざとかったりする作品って、それがネックになっちゃうことが多いけど、テーマがしっかりしていれば、そういう障害やほころびなんて乗り越えちゃうっていうこと、あるよね。

ひるね:私は、我ながら頭がいいなと思ったんだけど、広告を見て、もうだいたいストーリーがわかっちゃったのね。この本、大々的に宣伝してるでしょ。「衝撃的な事実」っていうのも、ドイツの作品だから、きっとナチス関係だなと思ったし。文字が読めないっていうのも、気がついちゃった。広告を見ないで読んでたら、もっとおもしろかったんじゃないかと思う。あんまり内容がよくわかっちゃう宣伝も、罪よね。私は、前半のふたりがアパートで過ごすあたりなんか、古典を読んでるみたいな感じがして、好きだったな。後半で、雰囲気が一転するでしょ。その前半と後半のものすごいギャップが、また魅力的。古典的な描き方で、現代的なことを書いている。ダーっと惹きこまれて読んだというよりは、あーやっぱり……と思って読んだんだけどね。でもね、読み終わってから2〜3日たつうちに、なんだか感動が増してきたの。はっきり意味がわからなかったところは、皮膚の表面が風化して、古く汚い表面だけが、ぽろぽろとはがれ落ちるように消えていって、美しくなめらかな肌があらわれてくるように、感動的な部分だけがよみがえってきてね。こういう感覚、最近ではめずらしいことだったわ。あと、読み書きができないということに関して、日本人とヨーロッパ人は感覚が違うように思う。こうまでして、それを隠すなんて。

:ひねくれ者なので、売れてるものにはとりこまれないぞ! と思いながら読んだんだけど、やっぱり惹きこまれてしまいましたねー。私は、夫とともに、長いこと識字運動に関わってるので、こういう形で読み書きの問題を扱ったっていうことに、まず興味をもった。さっき「読み書きができないこと」に対する感覚が、日本とヨーロッパでは、違うんじゃないかって話があったけど、私は日本とヨーロッパの違いではないと思う。「文字が読めない」ということの深さというのかな。でも、文字が読めないということは、マイナスだけではないのよ。朗読を聴いているときの集中力なんかは、文字を読める人には真似できないものがある。だからプラスもマイナスも、両方もあると思うの。

オカリナ:この作品は子ども向けではなくて、はっきり大人向けの作品だと思う。私が13〜14歳のときに読んだとしても、深いところまではわからなかっただろうと思うから。子どもが出てくる大人のための本っておもしろいのが多いけど、この本もおもしろかったな。とくに惹きつけられたのは、ハンナの人物像。今、ノーブルに生きてる人って、少ないでしょ。ハンナは労働者階級で教養はなかったけど、生き方はたしかにノーブルだったと思うの。

ねねこ:15歳の少年が、36歳の女性に惹かれるというのは、どう?

ウンポコ:ぼくはさっきもいったけど、ダメだね。嫌悪感がある。

ウーテ:この本、友人からストーリーを聞かされて、読む前からどんな話か知ってたの。しかけもわかってたから、正当に評価できないんだけど・・・。この作品がドイツで出版されたとき、むこうでも大評判だったのよ。 ミステリーっぽい大衆的なしかけと、純文学の幸せなミックスって感じよね。どっちもいいバランスで、大衆的なところもマイナスに働いてないのが、成功の秘密だと思う。ただね、さっきも話に出たけれど、訳があまりよくないわね。意味不明のところがある。これだけ内容がすばらしいんだから、訳がよければもっとよかったのにと思うと、残念ね。私の友人は、最後にハンナが死ぬ必然性が、どうしても理解できないっていってたけど、みなさんはどうかしら?

ねねこ:ハンナは刑務所の中で変わりはじめるでしょ。字をおぼえて、それで世の中に出ていくことを拒否する……。

愁童:ぼくは、自殺に説得力があったと思う。うまいと思った。

オカリナ:私は、そういう彼女なりの「オトシマエのつけ方」もふくめて、ハンナの生き方はノーブルだと思う。ねえ、ミヒャエルはテープを送るばっかりで、どうして彼女に会いにいかなかったと思う? 私は、具体的な愛情が年月を経て抽象的な、いわばより高次の愛情に変化したからだと思うんだけど。

ねねこ:ミヒャエルが自分を許せないって部分があったんじゃない? 児童文学じゃないっていってたけど、青年時代の愛がその後の人生におよぼす影響の大きさって考えたら、YAっていってもいいと思う。ミヒャエルは、葛藤の中でずっと生きてる。愛こそが、この作品を貫いているのよね。深いね。

ウンポコ:ミヒャエルは、青年時代に熟女から与えられた性の呪縛に、一生とらわれてるっていうふうに思えるけどな。だって、他の女性とどんな交際をしても、だめだったんだろ。ハンナの呪縛から逃れられないんだ。ハンナに手紙を出さないことが、せめてもの抵抗だったんじゃない? ハンナも歴史の波に翻弄されたけど、ミヒャエルもたいへんだったなって思うよ。同情するね。

オカリナ:最初は性の呪縛があっても、年月を経てふたりの関係そのものの質が変わって行くんだと思うけどな。

愁童:この本は、トンボの目玉みたいに、うまくできてるんだよねー。「なぜ手紙を出さなかったのですか」って、ミヒャエルにいうのは、ハンナじゃなくて、刑務所の所長なんだよ。本人には、そういうことを言わせない。それと、読み書きのできない自分を利用した国家権力を、ハンナが間接的に告発してるっていう面もあるんじゃないかな。

ひるね:エンターティメント的要素も、ちゃんとあるわね。グレアム・グリーンの『情事の終わり』って、とても好きなんだけど、あれに通じるようなものがある。

ウーテ:読み書きについてなんだけど、日本人だったらどうっていうことではなくて、識字率の高い国で、文字が読めない存在として生きるというのは、ものすごい重荷だと思うのよ。はじめてローマに行ったとき、首からガバンをさげてうろうろしてる若い人がいっぱいいたのね。何してるのかと思ったら、申請する書類を代筆するアルバイトのために、文字の書けない人がくるのを待ってるの。まあ、昔の話だけど、そういう商売が成り立つくらい、当時のイタリアには読み書きのできない人がたくさんいたし、それを隠してもいなかったわけよね。読み書きができないことを恥と思って、それを命と引き換えにするかどうかってことは、その国の教育程度とか、国民性によって違うと思う。やっぱり識字率の高いドイツや日本で暮らすのは、たいへんでしょうね。

愁童:それと、ぼくは、ハンナの遺した貯金の使い方がとてもうまいと思った。あの収容所の生き残りの人に、ハンナのお金を届けるなんてさ。彼女は「お金はいらないけど、缶だけもらいます」って言うでしょ。「私も昔、こういう缶をもってて」なんて話してさ、説得力があるね。

ウーテ:性の呪縛も、リアリティがあって、うまいわね。だってミヒャエルにとって、ハンナは便利な存在でもあったわけでしょう。15歳なんて、性的欲求の強いときにそばにいてくれて、いつでも自分のエゴを満足させてくれる、都合のいい存在でもあったわけだから。

ウンポコ:匂いから逃れられない、男性の生理が描いてあるんだ。呪縛かどうかはわからないけど、男性の作家でなければ描けない世界だと思うね。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ゾウの王パパ・テンボ

エリック・キャンベル『ゾウの王パパ・テンボ』さくまゆみこ訳
『ゾウの王パパ・テンボ』
エリック・キャンベル著 さくまゆみこ訳
徳間書店
2000.06

イギリスで出たフィクション。舞台は東アフリカのタンザニア。儲けと復讐のために象牙狩りをする男と、パパ・テンボとよばれる大きなゾウの戦い。キャンベルの前作『ライオンと歩いた少年』と同じように、この作品でも人間の子ども(この本では少女アリソン)と野性の獣(この本ではゾウ)が心を通わせあう瞬間が描かれています。スリルとサスペンスがいっぱいの迫力ある物語です。
(挿絵:有明睦五朗さん 編集:米田佳代子さん)


2000年06月 テーマ:主人公は15歳

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『2000年06月 テーマ:主人公は15歳』
日付 2000年6月22日
参加者 愁童、ウォンバット、ねねこ、ひるね、オカリナ、
流、N、モモンガ、裕
テーマ 主人公は15歳

読んだ本:

バーバラ・ワースパ『クレージー・バニラ』
『クレージー・バニラ』
原題:CRAZY VANILLA by Barbara Wersba, 1986(アメリカ)
バーバラ・ワースバ/作 斉藤健一/訳
徳間書店
1994.11

<版元語録>家族とも心が通わず、友だちもいない、孤独な14歳の少年タイラー。野鳥の写真を撮ることだけを救いにする毎日だったが、恵まれない境遇にもめげずに大きな夢を着実に追う少女ミッツィに出会ってから、タイラーは変わっていった…。ロングアイランドの大自然を背景に、思春期の少年の揺れ動く心とそのきらめきを見事にすくい取った感動的な小説。
長崎夏海『トゥインクル』
『トゥインクル』
長崎夏海/著 杉田比呂美/画
小峰書店
1999.06

<版元語録>ひょんなことから知り合いになった、澄人と幼稚園児の美月。母子家庭に育った澄人は、同じ境遇の美月の心に自分と同じ心のすき間があることに気付く…。揺れ動く少年、少女の心を綴った6つの短編を収録。 *日本児童文学者協会協会賞
藤野千夜『少年と少女のポルカ』
『少年と少女のポルカ』
藤野千夜/著
ベネッセコーポレーション(講談社文庫も)
1999.03

<版元語録>オトコが好きな男、オンナになろうとする男、電車に乗れない女の子の物語。ナニカが過剰だとも欠乏しているともいえる20世紀末の高校生の心のうちを描く、トランスセクシュアルな作家のデビュー作。第14回「海燕」新人文学賞受賞作「午後の時間割」を併録。
陳丹燕『一人っ子たちのつぶやき』
『一人っ子たちのつぶやき』
原題:(中国)
陳丹燕/著 中由美子/訳
てらいんく
1999.05

<版元語録>2003年に中国は、なぜ一人っ子政策をやめるのか。孤独な小さな手が古い国をゆすぶったから? 日本とそっくりな少子化の道。「透明なわたし」と嘆く声。しかし、なお前向きに未来をつかもうとする一人っ子たち。中国、ドイツで異例のベストセラー。

(さらに…)

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一人っ子たちのつぶやき

陳丹燕『一人っ子たちのつぶやき』
『一人っ子たちのつぶやき』
陳丹燕/著 中由美子/訳
てらいんく
1999.05

愁童:まだ3分の1しか読めてないんだけど、中国のひとりっ子政策のことがよくわかった。でも、子どもに読ませる文学作品としては、おもしろくないね。「こういう体制にすれば、こうなるんですよ」っていう基本法則を見せられているみたい。

ひるね:私も途中で挫折。社会学的に読めば、おもしろいんでしょうけど。

オカリナ:私も2日前に入手したばかりで、全部は読めなかったんだけど、ショッキングだった。社会体制が変わると、人間ってこんなに変わっちゃうものなのね。中国って、あれだけの大勢の人がいるのにね。でも、この文章、ちょっと読みにくいね。この訳者は、もっと文章うまかったと思ったけど。

N:陳丹燕はラジオのDJをやってるんだけど、この本はリスナーの子どもたちが、番組あてに送った、親にも先生にも友人にもいえない悩みを綴った手紙をもとに、取材をしてまとめたものなの。実際の手紙そのものではなくて、それに手を加えてるから、正確にはノンフィクションではなくて、フィクションなんだけど。中国は外側からの報道しかされていない国だから、内側からの声がストレートに聞こえるこの本の登場は、とてもセンセーショナルだった。ここに出てくるのは、ものわかりがよすぎて、子どもらしくない、いい子たちばかり。彼らが、親の期待におしつぶされそうになってる姿が、浮かびあがってくる。

オカリナ:もう異星人かと思っちゃった。子どもと親との間には、絶対的な境界線があるんだよね。どうしてこんなふうになっちゃうのか、謎ですね。

:でも、今まで中国ではいじめってそんなに陰湿ではなかったのに、このごろでは陰湿になってきてるんですってよ。やっぱりストレスはものすごいんじゃない?

オカリナ:日本の子どもが、こんなに管理された環境におかれたら、すぐキレちゃうよね。ひと昔前にキレなかった人は、今アダルトチルドレンになってるって話だけど。

愁童:日本は戦争に負けたところでぷつっと切れてて、そこから50年でしょ。韓国や中国は、敗戦でとぎれることなく儒教の教えがずっと続いているから、子どもたちのストレスは、日本以上なんじゃないかな。

ひるね:あえてフィクションにしたというのは、社会的思惑かしら。

N:そういうわけではないと思う。作者がもともとルポライターだからじゃない?

:私は、これを出版した彼女に感動しました。中華民族のスケールの大きさが感じられる。今の時代に、こういう仕事をしようとするのがデカい。1冊の本として、子どもにどうのというのは、最初から度外視してるし、未完成だし、荒削りだけど、今の中国の真の姿を知りたいという人にはとても価値のある作品。読んでてつらくなっちゃうんだけど。

オカリナ:いろんな人の声を集めるというのは、ほかの国でもやってることだけど、やっぱり中国では、やりにくいのかな?

:それはあると思う。字の読めない人だっていっぱいいるわけだし。全中華民族が視野に入ってるって、スゴイことだよ。

ねねこ:やっぱりこれって、手紙100編くらいあったほうがいいのかな?

流&N:多すぎるよねー!

:文体が同じだから、飽きちゃう。

ねねこ:編集上のひと工夫が必要だったかもね。

:でも、中国って、一人きりの子どもをすごく大事にしてて親は肉も食べないっていうの、よくあるのよ、ほんとに。日本でも過保護にしてる親ってたくさんいるけど、それは個人が好きでやってるわけであって、中国は国家政策としてやってるんだからねえ。そういう事実を書いたってだけでも、やっぱりすごいことよね。

N:中国では日本に遅れること20年、今年はじめて金属バット事件がおきたの。1978年にはじまった「ひとりっ子政策」も、2003年にはやめるらしいし、これからどうなっちゃうんだろうね。高学歴の人ほど子どもが少ないしね。

愁童:ひとりっ子が親になったときがコワイよ。

ねねこ:そうだよね。ひとりっ子が大人になって、どういう親になれるかっていうのが、この国にとってこれからの問題でしょうね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


少年と少女のポルカ

藤野千夜『少年と少女のポルカ』
『少年と少女のポルカ』
藤野千夜/著
ベネッセコーポレーション(講談社文庫も)
1999.03

モモンガ:「なるほど」と思うところも、「ウソでしょ」と思うところもあったけど、どんなことでも、あたかもなんでもないことのように描くこの書き方には、ちょっとはまっていきそうな魅力がありました。もちろん現実にはこんなにあたり前のようにはいかないだろう、というギャップが感じられるけれど、それはそれとして、この小説世界にはまって楽しみたい、という気分になる。でも、女の子らしさの描き方に違和感があるな。女性の作家だったら、こんなふうには書かないんじゃないかしら。 たとえば女になりたいヤマダが、タータンチェックのパジャマとか、赤い薔薇の花でそろえたカーテンとベッドカバーとかね、どうしてそうなっちゃうの?

ねねこ:だって、それはヤマダがそういう人だからよ。そういうふうにしたいのよ。

オカリナ:ヤマダのタイプの人って、過剰に「女性的」になりがちなんじゃない?

モモンガ:あ、そっか。ヤマダはそういう女になりたいわけね。でもそうじゃない女もいるわけであって、オトコがなりたいオンナと本当のオンナは違うわけで・・・えーっと、わけわかんなくなっちゃった。

ウォンバット:私は、この作品とても好き。今日のイチオシ。藤野さんと私って、きっと同じようなものを読んだり聴いたりして大きくなったんじゃないかと思うな。年も近いし。まず思い出したのは、吉田秋生の漫画『河よりも長くゆるやかに』(小学館PF ビッグコミックス)。この漫画大好きなんだけど、ここに流れてる空気と共通のものを感じました。いろいろ悩みや問題があることはあるんだけど、全体としては、たらたらとした楽しい高校生活っていう感じでね。藤野さんが、この漫画を読んでるに違いない! と思ったのは、登場人物の名前なんだけど『少年と少女のポルカ』と『河よりも長くゆるやかに』では、クボタトシヒコと能代季邦(トシクニ、トシちゃん)、ヤマダアキオと神田秋男、タニガワミユキと久保田深雪というふうに、かぶってる。それが偶然とは思えなかったんですね。あと大島弓子も好きだと思うな。「漫画の猫みたいだな」っていうのは、『綿の国星』のことじゃない? ヤマダは『つるばらつるばら』を思い出させるし、『午後の時間割』は、『秋日子かく語りき』とか『あまのかぐやま』を連想して、久しぶりに大島弓子、読み返しちゃった。で、私がとりわけいいなあと思うのは、「トシヒコは13歳のときに、自分がホモだということで悩まないと決めた」というところ。このふっきれ方がいい。社会の中で、自分が少数派になる局面っていろいろあるでしょ。とくに学校では、他者と違っていてはいけないことが多いから、少数派になってしまうと暮らしにくくなる。でもそれは価値観の違いであって、絶対的なものではないんだよね。そういうことで悩んでる子には、彼らの対処の仕方がとっても参考になると思うな。

愁童:ぼくは、どうも肌があわなかった。小説としてはおもしろいけど、共感はもてないね。やっぱり生活感がないのはダメと言われて育った世代だからね。知識人の大人が、今の子どもの風俗をうまく料理したという感じがしちゃって。『トゥインクル』と同根異種だと思うな。まあ、生活感がないのが今の生活といわれれば、それまでなんだけど。

ひるね:私も、この作品が今日のイチオシ。ゲイがでてくる物語っていろいろあるけど、身近な人がゲイでっていうパターンが多いでしょ、クレージー・バニラ』みたいに。主人公がゲイというのは、珍しいわね。事実から出発して背筋をのばして、つっぱりもせず、卑下もせず、淡々としてるとこがいいと思う。出来事に対して一直線に怒ったり、悩んだりしてなくて、ちょっとズレてる。そのズレ幅が、余裕というかユーモアになってる。まあ、現実には、学校はこんなに寛大じゃないと思うけど。ヤマダのお父さんが、女っぽくなってきたヤマダに「グロテスクだな」っていうんだけど、どんなカッコしてたって息子は息子なんだから、お父さんのとるべき態度はそれでいいんだよって応援したくなる。でも、ヤマダとかトシヒコみたいな人って、少なくないのよ。表面化してないだけで。彼らより、電車に乗れないミカコの方が深刻だと思うな。未来も全然明るくないものね。ミカコとトシヒコのつきあい方も、自然でこういうのもあるんだろうなと思った。『午後の時間割』もおもしろかったわ。

オカリナ:私、作家について何も知らないで読んだから、最初女の人が書いてるのかと思って、きれいにまとめすぎてるなって思ったの。でも、実際にいろいろ体験してる人だったら、逆にどろどろしたところは書かないだろうなって、思い直した。生きにくい子って今たくさんいると思うけど、この作品の中の彼らはうまくかわしながら生きてるとこがおシャレで、心地よく読みました。悩むのをやめたってふっきれてるところからスタートしてるというか、どろどろ悩んでいるところを、わざと書いてないのよね。でも、『午後の時間割』の方は、同人誌に、載ってそうな作品ですね。

:私は、受け入れられないとこもある反面、すっごくわかるっていうとこもあった。でも、ある種反発があって、肯定的にはなれないな。『午後の時間割』の方が「わかるっ」という感じだったんだけど、高校生の頃の嫌だった自分を思い出してつらくなった。なんか葛藤があって。すごくかきまわされた感じ。わかりすぎる小道具が迫ってきちゃってね。

ねねこ:作りものといえば作りものなんだけど、私はなんだかとても励まされた。日本の文学って、正攻法で戦いすぎて、湿気るか、乾きすぎかのどちらかになりがちだけど、こういうやり方もあるんだなあと思った。おだやかなエールというのかな。あれっ作りすぎ? と思うことでも、許せちゃう潔さというか、性格の良さが感じられた。こまごましたことを具体的に書きこんでるんだけど、それで遊べる楽しさもあるし。小説が現実の乗り越え方を、提示している一つの例だと思った。

愁童:でも、べつに、これを小説でやる必要はなかったんじゃない?

ねねこ:これはこれで、漫画ではできない、小説ならではの空気感だと思うけどな。純文学の人が「これは風俗に流されてる」ってよくいうけど、この作品は、そんな風俗的なものでもないと思う。そもそも「風俗に流される」ってどういうことなのか、私はよくわからないんだけど。

モモンガ:ねね、みなさんおっしゃらなかったけど、「本校開闢以来の伝統」っていうところおかしくなかった? 私、げらげら笑っちゃった。

一同:私もー。

モモンガ:この作品、そういうユーモアもきいててとってもいいけど、タイトルはよくないわね。どうしてこんなタイトルにしたのかな。若い子は手にとりそうにないよね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


トゥインクル

長崎夏海『トゥインクル』
『トゥインクル』
長崎夏海/著 杉田比呂美/画
小峰書店
1999.06

モモンガ:今回の読書会は、これといったテーマはなかったのよね。主人公が15歳前後っていうだけで。私、最初てっきりゲイがテーマなんだと勘違いしちゃったの。『少年と少女のポルカ』も『クレージー・バニラ』も、ゲイが出てくるから。でも、この本には出てこないから、私ったら、どこかにゲイが出てきたのに、気づかなかったのかしらと思ってよくよく見たんだけど、やっぱりなかった。

一同:わはははっ。(笑い)

モモンガ:この作品、ちょっとした感覚をとらえるのはうまいと思うけど、とくに「心に残ったこと」というのは、なかったんです。ボリュームも足りないし。なんか軽くて、ふわふわっとどこかへいっちゃいそう。今の子がいいそうなセリフとか、しぐさはちりばめられているんだけど・・・。

ウォンバット:私も読んだことは読んだんだけど・・・。無味無臭だった。

ねねこ:バニラの味もしなかったの?

ウォンバット:うん、何の味も。感想は特にないので次の方どうぞ。

愁童:この作品、最初に読んだんだけど、この会に出ようとしたら、全然思い出せないんだよね。それで、あわててもう1度読み返したんだけど、2回読んだら、案外いいかなって思った。ここに出てくるような子たちって、たしかにいるしね。とくに印象に残っているのは「フォールディングナイフ」「電話BOX」「ノブ」。「フォールディングナイフ」の主人公タケルの家は、お父さんが別の女の人と暮らしていて、月に1度しか帰ってこないっていう、ほとんど崩壊した家庭なんだけど、お母さんはそういう現実を受けとめたくなくて、クリスマスにお父さんが買ってきたケーキを家族みんなで食べるってことに執着してる。タケルはそういう母にいたたまれないものを感じている。そしてそのつらい日をのりきろうと、自分のためのクリスマスプレゼントとしてナイフを買いにいったのに、ナイフは売り切れ。おまけに雨まで降ってくる。仕方なく雨宿りした公園で、3歳年上のリカコにばったり会うわけだけど、そこでの会話がいいんだな。リカコは、コンビニのおむすびを渡しながら、「悲しいときには飯を食え」っていうんだけど、それはタケルの母にいわれたことだっていうんだよ。1か月くらい前に、すごい迫力でそういってコロッケの包みをくれたって。あんな母がそんなことをいってたなんて、そしてリカコはその言葉に救われてたんだってことがわかって、タケルはハッとするんだよね。「電話BOX」も、最後に電話をかける少年の気持ちがとてもよく描けている。「ノブ」は芥川龍之介の『トロッコ』が出てくるんだけど、これなんか痛烈な国語教育批判だよね。この作品、日本児童文学者協会の賞をもらってるでしょ。昔、心象風景とか「そこはかとない感動」というものを徹底的に批判していた日本児童文学者協会が、こういう作品を賞に選ぶというのは、どういうことなんだろね? でも、こういうタイプの作品が児童文学に入ってくるのは、悪いことじゃないと思うんだけど、どうだろう? これはウンポコさんが好きそう。

ねねこ:そうでもない、みたいよ。

愁童:えっ、ダメなの? 意外だなあ。作者のあったかい視線が感じられていいと思うんだけど。まあ、でもちょっと迫力は足りないかもな。

ひるね:私はこの作品、ちょっと印象うすかったんだけど、今愁童さんの解説を聞いて、思い出したわ。

ウォンバット:私も愁童さんの解説聞いて、もう1度読みたくなった。

ひるね:スケッチで、全体をなんとなく示唆するというか、いろんなことの側面をスライスするような感じよね。それは伝統的な日本文学の手法だと思うんだけど。私、このところイギリスの短編をいろいろ読んでいるの。アン・ファイン、ジャクリーン・ウイルソン、メルヴィン・バージェス、ティム・ボーラーとかね。彼らの作品は何か決定的な出来事がおこるから、短編でも、読んだ後になにかしら強い印象が残る。日本の文学も、書きたいことをもう少しはっきり書いてもいいんじゃない? 心象風景ばっかりだと、こういうことを書いてなんになるのと思っちゃう。たとえば「電話BOX」で、老人が一人で食事をするのを見るのは悲しいっていう感覚なんかは、私もティーンエイジャーのとき、ほんとにそう思ったし、とてもよくわかるの。でもこの会話のカコの口調は、今の高校生のしゃべる言葉じゃないわね。「フォールディングナイフ」のリカコは、今の女の子の口調そのもので、とてもいいと思ったけど。やっぱり、2度読まないといけない作品なのよ。っていっても、10代の子は2回読まないと思うけどね。

愁童:中高生は、どうかなあ。でも、日本の小説はこういうのたくさんあるから、これが児童文学にあるっていうのは自然だと思うよ。

ねねこ:中高生が読むかしらねえ。特にこういうつくりでは。

ひるね:完成度にもよるでしょ。

ねねこ:こういうのって、教科書にはのりやすいと思うけど。

オカリナ:私も1か月くらい前にこの作品読んだんだけど、もう印象が薄くなってますね。最近そういうことも多いんだけど、『少年と少女のポルカ』のほうは、最初の方読んだら思い出したし、『クレージー・バニラ』は、ああ写真を撮る男の子の話だったなとよみがえってきたけど、この作品は表紙を見てもよく思い出せなかったの。でも、中学生のときだったら、私こういうの好きで読んだかもしれない。昔、清水眞砂子さんが、大江健三郎を引用して、文学には日常を異化するっていう意味もあるんだってこと言ってたの、思い出したな。この作品は、きわめて日本文学的な作り方をしてると思うんだけど、日本文学の構成って、私は俳句と同じだと思ってるの。心象風景を切り取ってつなげていくやり方だと思うのね。西洋の作品は、まず背骨を作って、そこに肉づけしていく方法で構成されてる。だから、日本の作品の独自性を無視して単純に批判することはできないと思ってるし、こういう日本的な作品もあっていいと思ってるんだけど、この本はどういう読者を想定してるのかな? 子どもの手の届くところにあるのかしら。

モモンガ:日本文学のよさっていうのはわかるけど、子どもにはおもしろくないかも。

ひるね:やっぱり完成度の問題じゃないかしら。こういうタイプの作品でも、おもしろいものはおもしろいのよ。乙骨淑子さんの『13歳の夏』なんて、すばらしかったわ。特に1章が。それから庄野潤三も、日常のこまごましたことばかり書いてるけど、私は、好きよ。おもしろいもの。完成度が高ければ、読めるのよ。この作品は、何が書きたかったのか、見えなさすぎなんじゃない?

:私はこの作品、最初、短編集だと思わなかったの。終わりがはっきりしないから、次に続いてるんだと思っちゃった。ま、それはいいとして、この挿絵でいいのかな? 特に75ページの絵。

オカリナ:雰囲気を出したかったんじゃないの? 人気のある絵描きさんだけど、この本にはあってなかったのかな。

:あと、内容と本の体裁があってないでしょ。ストーリーは中学生向けだけど、本のつくりは小学校高学年くらいの感じ。

ねねこ:推薦がとりやすいのよね、小学校高学年にしたほうが。販売的戦略かな?

:でも、だれが読むのかな? なんか私、そんなことばっかり気になっちゃって味わうところまでいかなかった。

:なんだかみなさん否定的だから、私がサポートしなきゃっていう気持ちになってるんだけど・・・。この作品は、意味もない現実を拾おうとしているんだと思うのね。となると、ひとつの大きな物語ではなくて、短編にする、寄せ集めるしかなかったんじゃないかな。言葉にならないことを、あえて言葉にしようとしてるのよ。つまんないことなんだけど、これが現実なわけでしょ。そして、若者は無感動だとか言われてるけど、本当はちょっとしたところで心が動いているのよね。そういう瞬間を集積して1冊にしたんだと思うの。特に「電話BOX」は、それがうまくいってるかな。忘れちゃうような作品かもしれないけど、こういうのもあっていいと思う。

モモンガ:意味のないことをすくいあげようとしたんじゃなくて、意味のない毎日だけど、そこに意味を見つけようとしてるんじゃない?

ねねこ:長崎夏海さんの作品って、これまではけっこう熱かったよね。常に、今の子どもたちを励ましたいと思ってる作家だから、クールに書いていても、思いにあふれていた。この作品は、そうしたプロセスを経た後、少しさめて、距離をおいたところで、今の子どもたちに共感を得られそうなシーンをスケッチしたっていう印象。今までの長編がクサくなりがちだったから、ワビサビの世界を描いたのかなあ。

愁童:子どもたちの「ぼくはここにいるよ」っていうのを代弁してる感じはあるよね。でも、日本児童文学者協会賞っていわれると、うん? という思いはあるな。

ねねこ:んー、いいんだけど、華がない。華がないから、1回読んだだけでは、よさがわかりにくいし、印象に残らない。

ひるね:やっぱり意味のないことを書くにしても、書き方があると思う。バージェスの短編でも、主人公がものすごく変わるわけでもないし、すごい事件がおこるわけでもないのに、とても魅力的っていう作品あるもの。それは、お父さんとお母さんが離婚することになって、いざお母さんが家を出ていくっていって、荷物を運び出したりしているときに、お父さんがもくもくと巨大な穴を掘りつづけるっていう話なんだけど(“Family Tree”という短編集の中の‘Coming Home’)。視覚的なことなのかしら。小川未明の作品なんかも、まさにその瞬間が目に浮かんでくるものね。

オカリナ:完成度の問題じゃない?「Little Star」でも、小さなほころびが気になるものね。だって幼稚園の子にむかって「おまえ」ってよびかけるのは、ヘンでしょ。なんか年齢不詳なしゃべり方してる。ラストも、これで終わっちゃうと思わなかったし。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)



クレージー・バニラ

バーバラ・ワースパ『クレージー・バニラ』
『クレージー・バニラ』
バーバラ・ワースバ/作 斉藤健一/訳
徳間書店
1994.11

モモンガ:とっても好きな本だった。子どもの気持ちがよく描けていると思う。どういうふうにいったらいいのかな・・・主人公タイラーは、友達がいなくて、家族に対しても、思ってることと違うようなことを、ついいってしまって、それがストレスになっちゃうような子なんだけど、そういう子の描き方がうまいよね。タイラーはミッツィと出会って、彼女のことが好きになっちゃうんだけど、人が突然だれかを好きになるっていう気持ちも、うまく表現してると思った。タイラーとミッツィだけでなく、ミッツィのお母さんとか登場人物はみんな、どこか破綻したところのある人たちなんだけど、どの人にも愛情をもった描き方がされてて、それぞれの人間性がよくわかる。だから、どの人にも人間的な興味がもてるのよね。あと、詩の使い方がうまい! ミッツィの好きなスティービー・スミスの詩。「ぼくはあなたたちが思っていたよりはるか沖まで流されていたのです。あれは手を振っていたのではなく、溺れて助けを求めていたのです」っていうの。この詩が、タイラーの気持ちをよく表していると思う。タイラーは、今の自分の状況はこの詩みたいだっていうんだけど、ミッツィに「きみは溺れてなんかいないよ。手を振っているのかもしれないけど、溺れているんじゃないわ」って励まされるのよね。お兄さんがゲイだって知ったときの家族の反応も、よくわかる感じ。『少年と少女のポルカ』のヤマダの家は、ちょっと嘘っぽいと思ったけど。ねえ、『クレージー・バニラ』って、タイラーにとってどういう意味をもっていると思う? とっても存在感があるタイトルだけど、タイラーって、こういうおもしろい名前がひらめくタイプじゃなさそう・・・。どうしてこのエピソードをもってきたのかしら?

ねねこ:「クレージー・バニラ」って、英語で何か特別な意味があるの?

オカリナ:別にないんじゃない? ただクレージーなバニラってだけで。

ウォンバット:私、いいタイトルだと思う。『クレージー・バニラ』。内容を知る前からいいなあと思ってたけど、アイスクリームの名前だって知ってからはもっと好きになった。とってもおいしそう。高校生のとき、サーティワンアイスをきわめた(毎月変わるアイスクリームの味と名前を常におさえてました)私には、わかるこのすばらしさが。バニラは地味だけど、なくてはならない基本の味。それにクレージーって過激な言葉がくっついて、ユニークな名前になってる。タイラーのいうとおり、ネーミングって、シンプルでインパクトがないといけないと思うんだけど、その両方をちゃんと満たしてる。コンテスト優勝まちがいなし!と思ってたのに、残念ね。さっき、登場人物がそれぞれよく描けてるって言ってたけど、私も賛成。とくにお兄さんの恋人のビンセント・ミラニーズがおもしろかった。3〜4年前かな、日本でもさかんに「ミニマム」っていいだしたの。ビンセントはインテリア・デザイナーでミニマリズムの旗手。倉庫をすばらしい住居につくりかえたって、ベタボメの雑誌記事をお兄さんが送ってくるんだけど、それってタイラーからしたら、がらんとした殺風景な部屋を、おおげさにほめたたえてるように見える。それで、タイラーは「ビンセントってのは、なんてヤなやつなんだ。世界一のいかさま師だ」って、怒って雑誌を捨てちゃうんだけど、たしかにミニマリズムって、いかさまと紙一重ってとこ、あるでしょ。だから、すっごくおかしかった。タイラーは、はじめからビンセントのことをよく思っていなくて嫌いになりたいんだけど、いざ会ってみたら、スキのないちゃんとした人だったもんだから、フクザツな心境・・・。とんでもないやつだったら、あきらめもつくのに。わかるわぁ、その気持ち。という感じで、細部も全体も好きな作品だった。でも、翻訳で1ヵ所気になるところがあったの。ミッツィがタイラーに向かって「きみ」っていうでしょ。二人が池で再会する場面で、「こんなところで何してるんだ」ってタイラーにいわれたミッツィが「きみの池なの?」って聞き返すんだけど、ヘンな感じ。そもそも今あんまり「きみ」っていわないでしょ。しかも「そっちこそ、なんなのよ!」っていうシチュエーションで、「きみ」は、使わないんじゃない?

ひるね:そうかしら。私、ちっともおかしいと思わなかった。女の子が、年下の男の子に対していう言葉だし、ミッツィはクルーカットで男みたいな格好をした子だから、ボーイッシュな雰囲気を醸し出す、うまい訳だなと思ったけど。

ウォンバット:そうかな。やっぱりここは「きみ」より「あんた」って気がするけどな。ここだけではないのよね、「きみ」っていうの。

ひるね:二人が仲よくなってからも、ミッツィは「きみ」っていってるわね。「ウッドラフ」ともいうけど。

ねねこ:「きみ」って、都会っぽい感じ。私、東京に出てきて、はじめて男の子に「きみ」って言われたとき、うっとりしちゃった。うわっ、おしゃれーと思って。うちの地元のほうでは、だれも言わないからね。でも、今の若い女の子が男の子に対しては、あんまり「きみ」って言わないかも。

愁童:ぼくたちの若いときには、女の子に「きみ」っていうの、普通だったけどねえ。

ねねこ:今でも、男の人が年下の男の人に対しては使うけどね。上司が部下に対して「きみ、きみ」とかさ。

ウォンバット:私たちは、茶化すときくらいしか使わないなあ。

ひるね:世代の違いかしら。

愁童:そうかもしれないね。ぼくは、この作品、青春のみずみずしさが感じられて、いい作品だと思うけど、ひっかかりというか、こういう場で話題にする切り口が見つからなくて。ちょっとクラシックすぎちゃうんだな・・・。でも、殺伐とした時代に、こういうお話はいいと思う。一貫して流れているのは「動物の写真を撮ること」。それが、二人をつないでいる。ミッツィがタイラーに「写真にあまりセンチメンタルな感情をもちこんじゃ、だめよ。動物のかわいらしい瞬間だけを選んで撮影しても、その本当の姿を撮影したことには、ならないんだから」って言うんだけど、なるほどと思ったな。とてもいい勉強になった。「クレージー・バニラ」は、すべてのきっかけであり、キーワードなんだよね。二人が出会ったのは、「クレージー・バニラ」がコンテストで落選したからだし、ミッツィは、はじめ「ひどい名前ね」なんていってたんだけど、彼女がこの街を出ていくことになって、さよならをいう場面では「『クレージー・バニラ』ってほんとはすごくいい名前だったよ」って言う。これは、ただ単にアイスクリームの名前のことを言ってるわけではなくて、暗に写真のことを言ってるんじゃない? 同じ動物写真を志す同志として、一緒にがんばろうよっていうエールがこめられた言葉だと思った。

ひるね:私も最後までおもしろく読めた。さわやかな物語。いろいろと問題はあっても、こんな楽しい夏休みを過ごせるなんて、若い人はいいわね。私にとって、この作品の魅力の99%は、野鳥の撮影に対する興味だったんだけど、とてもおもしろかったわ。ちょっと気にくわなかったのは、主人公タイラーがお金持ちのお坊ちゃまだっていう設定。自分は渦中にふみこんでいかないで、ただ外から眺めていて、「ぼくちゃんのことは、どうしてくれるんだよ!?」って言ってるだけみたいな感じがした。タイラー自身、成長はしてるけど、ダメージは受けてないわけだから。あとさっき、ゲイに対する家族の反応がよくわかるっていう話があったけど、私は反対に『少年と少女のポルカ』のヤマダ一家のほうがリアリティがあると思う。この作品のほうが嘘っぽい感じ。

オカリナ:これは、真実を知ったばかりの時期の話だから、『ポルカ』と一概には比べられないんじゃない? ヤマダは、もうずっと前からスカートはいちゃってたわけだから。でも、この作品では、ゲイのお兄さんの影が薄いね。それにしても、この兄とタイラーの会話の部分の訳は、不自然だと思わない? 映画の字幕みたい。「兄さんのこと、大好きだよ」「ぼくもだ。おまえみたいにいいやつはいないよ」なんて訳してる。内容は、よくも悪くもクラシックな作品だよね。

:私は動物が好きすぎて、深入りしすぎるというか、深い関係になりすぎちゃうようなところがあって……それは、ひとつの悩みなんだけど、この作品の「動物との距離のとりかた」は、そんな私に、とても参考になった。タイラーとゼッポの関係とかね。野鳥の撮影も、興味深かった。全体的にはおもしろいけど、まあクラシックな作品だと思う。形式もノーマルだし、先が読めちゃう。結末も「こうなるだろうなあ」と思ったら、やっぱり! だったし。あっさり味。1回読んで、「さわやかで、気持ちいい」作品ってことで、いいんじゃない?

ねねこ:私は、動物を撮る姿勢の違いに、ミッツィとタイラーの性格や生活の違いも感じられておもしろかった。動物をありのままに撮ろうとするミッツィと、できるだけ美しく撮ろうとするタイラーとの対比に、それまでの生き方や生い立ちまでをも連想させられた。

:青春文学の古典、サリンジャーや、ジョン・アーヴィングの流れをくんだ作品だと思う。大人になりきれない子どもが、客体ではなくて、主体となって登場して、自分のアイデンティティを探し求めるっていうタイプ。家族が、自分のアイデンティティを保証してくれなくなっちゃってるのよね。若者の孤独が色濃くあるところも、共通点。でもこの作品は、サリンジャーみたいに「出口がない」ところまでいってない。孤独をポジティブな方向にもっていっているから。孤独を野鳥の撮影に投影していて、それが、「出口」になってる。そこから「さわやか感」が、生まれているんだと思うんだけど。家族といえば、兄弟関係がリアルじゃないわね。感心しなかった。お兄さんは、いかにもプロットのために登場させられたって感じ。ミッツィのお母さんは、アン・ファインを彷彿させた。ほら、エコロジー推進運動をやってたりして、がんばる女性、自立する女性がたくさん登場するでしょ。自立した女の子の影響で、男の子も自立に向かうっていうのは、『青い図書カード』(ジェリー・スピネッリ著 菊島伊久子訳 偕成社)にもあったわね。ここに出てくるアイスクリームの名前って、ヘンなのばっかり。読者のだれもが「クレージー・バニラ」のほうがカッコいいってわかってるのに、「穴ぼこパイナップル」が当選しちゃうのが、現実なのよね。「クレージー・バニラ」が、ぴりっときいてると思ったわ。

ねねこ:「バニラ」は、家庭の象徴としての言葉なのかもしれないね。甘くておいしいけど次第に溶けていくアイスクリームのように、表面的にはうまくやっていたけど、どこかはかない家庭のイメージ。その家庭に内在するクレージーさを表しているのかなって思ったけど、考えすぎかな。こういうふうに家庭を扱うのは、アメリカ映画やアメリカ文学の典型っていう感じがする。安心して読めるんだけど、感動的というには、ちょっと足りないっていうか、またかっていうか・・・。

ひるね:バーバラ・ワースバって、日本ではこれしか翻訳されてないでしょ。他の作品はつまんないのかも。この本は一人称の視野が端正で、ほどよく整ってていいけれど、他はおもしろくなさそう。うますぎるもの。

愁童:『超・ハーモニー』(魚住直子著 講談社)と似てるよね、設定も。

モモンガ:私は「スタンドバイミー」を思い出した。ほら、語り手のお兄ちゃんが死んじゃうでしょ。大好きなお兄ちゃんがいなくなるっていうところなんかが、似てると思わない?

オカリナ:どうして、こういろいろ心配しちゃったりするのかなあ。英語圏の児童文学では、親がだらしないと、子どもが親みたいになっちゃって親子の関係が逆転するっていうとこ、あるよね。タイラーは、経済的に安定した家庭で育てられたからかな。

ひるね:自分は、問題から離れた安全なとこにいるのよね、タイラーは。

ねねこ:そういうタチというか、そういう性格にしたかったんじゃないの?

ひるね:タチもあると思うけど、そこが、主人公が泥沼にずぶずぶはまっていかないっていうところが、安心して読める秘訣なんじゃないかしら。

モモンガ:タイラーには居場所があるからね。それにしても、お金持ちの子が主人公っていうのは、新鮮だった。悩みを抱えた少年少女は、家庭が貧しかったりして、家庭に問題があることが多いでしょ。タイラーの家庭にも問題はあるけど、経済的にはリッチで恵まれてる。いじめっ子とか、敵役でお金持ちの子が登場することはあっても、主人公っていうのは、今まであんまりなかったよね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


スチュアートの大ぼうけん

E.B.ホワイト『スチュアートの大ぼうけん』さくまゆみこ訳
『スチュアートの大ぼうけん』
E.B.ホワイト著 ガース・ウィリアムズ絵 さくまゆみこ訳
あすなろ書房
2000.05

アメリカのフィクション。映画「スチュアート・リトル」の原作です。人間の一家にネズミの子が生まれるという不思議な設定ですが、映画ではあまりにも奇妙だと思ったのか、スチュアートは最初からペットという設定になっています。2000年夏に映画が日本にもやってきて私も見ました。
(編集:山浦真一さん)


2000年05月 テーマ:家出

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『2000年05月 テーマ:家出』
日付 2000年5月18日
参加者 ウンポコ、愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、
オカリナ、ウーテ、モモンガ
テーマ 家出

読んだ本:

メルヴィン・バージェス『ダンデライオン』
『ダンデライオン』
原題:JUNK by Melvin Burgess, 1996(イギリス)
メルヴィン・バージェス/著 池田真紀子/訳
東京創元社
2000.02

<版元語録>見知らぬ都会へ家出してきた十四歳の少年と少女はアナーキストを名乗る青年たちに拾われストリートの知恵を学びながら、占拠された空家で暮らすことに。時あたかもパンク時代。見るものすべてが新しい―だがドラッグの陥穽が二人を待っていた。繊細な筆致と冷静な人間観察が描き出す、悲しい青春のかたち。全英の話題をさらった、衝撃の物語。カーネギー賞・ガーディアン賞受賞作。
カニグズバーグ『クローディアの秘密』
『クローディアの秘密』
原題:FROM THE MIXED-UP FILES OF MRS.BASIL E.FRANKWEILER by E.L.Konigsburg 1967(アメリカ)
E.L.カニグズバーグ/作 松永ふみ子/訳 
岩波書店(岩波少年文庫2077)
1969.10

<版元語録>少女クローディアは,弟をさそって家出をします.ゆくさきはニューヨークのメトロポリタン美術館.2人は,ミケランジェロ作とされる天使の像にひきつけられ,その謎を解こうとします.
ヘルトリング『テオの家出』
『テオの家出』
原題:THEO HAUT AB by Peter Hartling 1977(ドイツ)
ペーター・ヘルトリング/作 平野卿子/訳 浜田洋子/絵
文研出版
1990.09

<版元語録>「どうしたんです、テオ?どこかぐあいでも悪いんですか?」「別に。」テオの声はすこしふるえた。先生は、ぼくのようすがおかしいのに気がついたんだ。なのに、お父さんたちときたら…。終業のベルがなった。さあ! 行くぞ!校庭でひと息ついてから、テオは表通りへでていった。すべてはこれからはじまる!
柏葉幸子『ざしきわらし一郎太の修学旅行』
『ざしきわらし一郎太の修学旅行』
柏葉幸子/作 岡本順/絵
あかね書房
1999.06

*課題図書 <版元語録>「オラ、ざしきわらしだ。」その子は、まじめな顔でうなずきます。「ほんとかよ?」。家出をしてきた資と、修学旅行に出されたざしきわらしの一郎太に、ふしぎな友情が生まれます…。空想のつばさで、たのしい読み物の世界へ。

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ざしきわらし一郎太の修学旅行

柏葉幸子『ざしきわらし一郎太の修学旅行』
『ざしきわらし一郎太の修学旅行』
柏葉幸子/作 岡本順/絵
あかね書房
1999.06

ねねこ:これは、柏葉さんの作品としては、できがあんまりよくない。この作品が、今年の青少年読書感想文全国コンクールの課題図書になってしまうっていうのは残念。憂えるべき、日本児童文学の現状。

オカリナ:ざしきわらしを現代にいかそうとしているのはいいと思うけど、いかんせん作品としての完成度が高くない。

ねねこ:柏葉さんって、読者対象が高い方が文章が上手だと思う。

オカリナ:これはリアリティがなさすぎ。お母さんがすぐにあたふたするとか、ざしきわらしを誘拐するところとか・・・。

ねねこ:自分の世界に、自分ひとりだけワーッて入っていっちゃって、説明不足になってるんじゃないかな。それじゃ読者はついていけなくなるから、筆を足したり、少し客観的に描写しないといけないんだけどね。男性像、女性像も、ちょっと古いとこあるのよねえ。それに、単身赴任中のお父さんの住んでるとこへ行くのは「家出」じゃなくて、「家移り」。だって、どっちも自分の家じゃん。

ウンポコ:ぼくも滅入っちゃったな。ざしきわらしに、ちっとも魅力がないんだもん。柏葉さんって、いい作品がいっぱいあると思ってたけどな。今、忘れられかけてるざしきわらしを、現代にいかそうというのは、とてもいいことだと思うんだけど・・・。

ねねこ:柏葉さんの永遠のテーマなんだよね、ざしきわらしって。ざしきわらしの話、たくさん書いているもの。柏葉さん、最近ちょっとマンネリぎみかもしれない。日本の作家って、ともすると起承転結にこだわりすぎるように思うんだけど、それが物語をつまらなくさせてるんじゃない? 『霧のむこうのふしぎな町』(講談社 青い鳥文庫にも)には、日本ばなれしたのびやかなおもしろさがあったのに、残念。

オカリナ:なんていっても、これが課題図書っていうのは、どうなの?「いじめに立ち向かう」っていう点で評価されたのかもしれないけど、それは、この作品の中ではただの図式でしかないのに。

ウンポコ:登場するざしきわらしが、ざしきわらしとしての魅力をちゃんと備えていれば、ちょっとくらいストーリーが破綻してたって、問題ないんだよ。この作品は、ざしきわらしがもってるはずのミステリアスな魅力が失われちゃってる! なんだか今日は、さえない終わり方になっちゃったなあ。

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


テオの家出

ヘルトリング『テオの家出』
『テオの家出』
ペーター・ヘルトリング/作 平野卿子/訳 浜田洋子/絵
文研出版
1990.09

モモンガ:これは『クローディアの秘密』と『ダンデライオン』の、ちょうど中間に位置する作品かしら。全体に暗い感じはするけど、味方になってくれる大人がいてくれて、そのパパフンフンとテオの心の結びつきが、とってもいい。これからテオが何かを見つけるっていう安心感、将来の希望が感じられた。

ひるね:私も、おもしろかった。テオの心情の移り変わりが、とても自然に描かれてるわね。パパフンフンだけではなく、途中で出会う人びとが印象的。ケマルとか、店番をしている女の子とかね。深刻になりすぎないで、ユーモアをまじえて描いているところがいいと思う。読んでくうちに、パパフンフンに惹かれていくのよね。テオの成長の過程も、きちんと見えるし。先代の三遊亭金馬の「藪入り」ってあるじゃない? 私、大好きなんだけど、家族から離れることで子どもが目覚ましく成長していくところなんか、あれみたいだと思った。メルヴィン・バージェスの『ダンデライオン』のジェンマより、テオの方がよっぽど自分で選択してると思うし、これから先しっかり生きていけそう。明るさを感じるわ。でも、これはテオが10歳だったからであって、もしもっと年齢が上だったとしたら、こんなふうにはいかなかったんじゃないかしらね。テオの両親が離婚しちゃったのにも、どきっとさせられたわ。あまく流されていないっていうのかな。
この作品も『ダンデライオン』も、作者の社会を見る目、子どもを見る目が、しっかりしてる。真実を誠実に伝えようという姿勢が伝わってくる。主人公だけでなく大人の描き方にしても、それを感じた。パパフンフンに家族のことをたずねたら、「いない」とすぐにきっぱり答えた、というところがあるでしょ。この1行だけで、パパフンフンのそれまでの人生が、よくわかる。それとか「学校ではヒョーキンもののテオが、家に帰ると変わってしまう」っていうところなんかも、作者はきちんと見てるんだなあと思った。今、ティーンエイジャーの犯罪が社会問題になってるけど、犯人の少年についてまわりの大人は「彼がこんなことをするなんて信じられない。ヒョーキンで明るい子だったのに」なんて、簡単に発言したりするでしょ。親も先生も、子どもに対して無関心で、表面的なことしか見てない大人が多いんじゃないかと思う。だって実際には「ヒョーキン=明るい」ということには、ならないのにね。ヒョーキンを「演じてる」ってことだってあるから・・・。誤解だよね。そういうところ、ヘルトリングはちゃんとわかってるんだなあと思ったな。

ねねこ:今回の4冊の中で、心情的にはこの作品がいちばん自分の家出に近いと思った。テオは自分が死んで、両親が嘆き悲しんでるときのことを想像したりするでしょ。これなんて私もよくやったし、その気持ちはよくわかる。子どもの無力感みたいなものが、よく描けていると思う。テオみたいな、苛酷な状況にあったとき、子どもに何ができるの? って考えてみると、どうしようもないのよね。結局、子どもには何もできないわけじゃない? 子どもは、どんな状況でも受け入れるしかない。そういう厳しさが、とてもよく描けていると思った。子どもの内面の深みとか、そのつきつめ方が『クローディアの秘密』とは全然違う。どんなに苛酷な状況だったとしても、がまんしなくちゃいけない期間ってあるでしょ。子どもは、その時代をなんとかやりすごす術というのを、身につけなくてはいけないのよね。

愁童:ぼくはこの本を読んで、「なんで本を読むのか」というか「本を読む原点」みたいなものを、思い出した。読んでよかったと思える本。やっぱりパパフンフンに会えるっていう体験・・・人生の先輩、尊敬できる先輩に会えるというのかな。疑似体験だけど、それが楽しめるから、本を読むんだと思うんだよ。今回の4冊の中では、いちばん安心して読めた。

ウォンバット:私も、おもしろかった。やっぱりパパフンフンが好き。風貌もふくめて、とっても魅力が感じられた。全体的なトーンは、グレーではじまりグレーでおわるって感じなんだけど、暗すぎないし、嘘っぽくないと思うな。

オカリナ:テオみたいな、こういう状況だからこそ、家出するのよね。閉塞状況がとてもよく描けていると思った。「ここじゃないどこか」に行きたくて、転々とするわけだけど、そこで起こる出会いのひとつひとつについて、もうあとひと筆でも、あったらもっとよかったのにと思った。そこが、ちょっと物足りなかった。残念。それに絵も・・・暗すぎると思うんだけど。

ウォンバット:同感。

愁童:ぼくは好きな絵じゃないけど、効果的な絵だと思ったよ。

ウンポコ:ぼくは、この絵、好きだな。とくにパパフンフンがテオを抱きしめるところ(p180)なんて、いいなあ。成功してると思うよ。他の絵描きさんでは、この雰囲気を出すの、難しいんじゃない? 物語もよかったよ。ぼく、ヘルトリング好きなの。『おばあちゃん』(上田真而子訳 偕成社)と『ヨーンじいちゃん』(上田真而子訳 偕成社)が、とくに好き。ヘルトリングは大人を描くのが、うまいと思うんだよね。子どもは残念ながら、自分で家族を選べないわけだけど、パパフンフンみたいな大人もいるんだよっていうのは、子どもを勇気づけると思う。テオみたいな子どもに対する応援歌になってるんじゃないかなあ。エレベーターで出くわす「安ものの香水の女」も、いかにもいそうな感じ。現実には、好き嫌いに関わらず、こういう人に会っちゃうことってあるだろ? いかにもありそうなことなんだけど、こういうことまで書く人、日本の作家にはいないよね。現実には、こういう人ともうまくやっていかなくちゃいけないのにね。

ねねこ:ねえ、親ってなんなんだろうね。

ウンポコ:どんな親であれ、子どもは親に対して満足できないもんだと思うよ。それにしても、ヘルトリングって「この人こそ、少年の物語を書く人」っていう気がする。健全な作家姿勢を感じるね。メッセージも、しっかり伝わってくるし。

オカリナ:私も、ヘルトリングって誠実な人だと思う。最近の彼の作品は、ちょっと暗いものが多いんだけど、社会状況が悪くなってるから、しかたないって部分はあるんじゃない? こんな世の中で、嘘っぽくなく、つくりものっぽくないものを書こうとしたら、どうしたって暗くなっちゃう。そらぞらしいことの書けない、まじめな人だから、現実を書こうとすれば、暗くなってあたりまえ。

ウーテ:これは1977年の作品だから、まだパパフンフンが存在してたんだけど、今はパパフンフンみたいな人って、いなくなっちゃったでしょ。このごろのヘルトリング作品に、温かさが感じられなくなったのは、ヘルトリングが変わったのではなく、社会が変わったんだと思う。ヘルトリングの生い立ちは、悲劇的なのよね。彼は1933年生まれで、お父さんは弁護士だったんだけど、ちょうどヒットラーの全盛のときでしょ。アンチ・ヒットラーだったお父さんは収容所に送られて亡くなり、お母さんは、その後やってきたソ連兵に子どもたちの目の前でレイプされて、自殺。結局、孤児になってしまったのね。そんなふうに小さいときに家族を失ってしまったから、「家族」というものに対する憧れとか思い入れが、人一倍強いんじゃないかしら。もともとは詩でデビューした、大人向けのものを書く作家だったのよ。それが、自分に子どもが生まれてみたら、子どもに読ませたい本がない、だったら自分で書こうって、子どもの本の世界に足を踏み入れた人なのよね。とっても良心的で、適当なことなんて書けない人。詩人だから、「行間で勝負!」という感じで、言葉が少ないのね。だから、翻訳はとても難しいと思う。詩人的な要素のある人の作品は、難しいものよね、翻訳するのが。反対に、ネストリンガーなんかはとっても饒舌だから、訳しやすいと思うけど。

ねねこ:「無口な男ほど理解しにくい」ってのと、一緒よぉ。

愁童:『ダンデライオン』に出てくる煙草屋さんって、ちょっとパパフンフンと似た存在なんだけど、ジェンマやタールに対してもっと冷たいし、まるっきり無責任だよね。彼のような存在に対する扱い方が、ヘルトリングとバージェスでは全然違う。作家の姿勢の違いを痛感するところだね。やっぱり子ども読者を意識してる作家だったら、作品のどこかに明るさがなくっちゃね。いろいろとつらいことはあるだろうけど、がんばって生きていけよっていうようなさ。

オカリナ:絵空ごとになっちゃいけないわけだから、良心的であろうとすればするほど、時代とともに作品は暗くなっちゃうんじゃないかな。

ウーテ:フィクションには普遍性が必要だから、難しいわよね。ノンフィクションだったら、ちょっとくらいヘンでも「事実です」ってことで、すんじゃうけど、フィクションは、そうはいかないから。ヘルトリングって、ほんとにまじめないい人なのよ。

愁童:テオが街の子に会って元気づけられるっていうところ、あったね。あそこもあったかい感じがして、よかったな。一方『ダンデライオン』は、街の子に会って落ち込んでいくんだよ。この違いも大きい。

ひるね:『ダンデライオン』と『テオの家出』では、主人公の年齢による差もあると思うわ。テオがタールの年だったら、またちがったでしょうね。

ウンポコ:翻訳者が苦労して訳してくれたおかげで、日本の子どももこのすばらしい作品を読むことができるんだ。ぼくは、日本の子どもを代表して、訳者にお礼をいいたい気持ちだよ。

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


クローディアの秘密

カニグズバーグ『クローディアの秘密』
『クローディアの秘密』
E.L.カニグズバーグ/作 松永ふみ子/訳 
岩波書店(岩波少年文庫2077)
1969.10

オカリナ:これは、もう評価の定まった作品だけど、「家出」をテーマにするなら、はずせない作品よね。でも、メルヴィン・バージェスの『ダンデライオン』とは、主人公の階層もちがうし……。まあ、ひとつの自分探しの物語だけど、私は何度読んでも、強い印象をあまり受けないの。どうしてかな?

ウーテ:私は、この作品は3回くらい読んだけど、なんといっても家出する先がメトロポリタン美術館だというのが斬新で、わくわくするわね。家出って、子どものとき、みんな憧れるものでしょう。どうしてこの作品が名作といわれてるのか、その秘密について今日は考えてみたいと思ってるんだけど。

ひるね:以前に読んだときも思ったんだけど、やっぱりキャラクターの作り方が、うまいのよね。フランクワイラー夫人もクローディアもジェイミーも、どのキャラクターも生き生きしてる。とってもよく描けていると思う。ただし、フランクワイラー夫人の弁護士が、実はクローディアのおじいさんだったというオチは、ちょっとやりすぎ、というか筆がすべっちゃったという感もあるけどね。だって、クローディアは大冒険をしたつもりだったけど、結局安全な範囲内で動いていたということになっちゃうわけでしょ。でも、名作といわれるだけのことはあるわね。アメリカでの出版が1967年だから、もう30年以上も前の作品だけど、今読んでも楽しめるもの。

ねねこ:この作品は「家出」というより「冒険」の物語よね。私には家出は一人でするものという思い込みがあるの。そこで味わう孤独感や浮遊感こそが、家出の醍醐味、大切な部分だと思うから。クローディアの場合、悲壮感はあまりないし、弟を連れていくってことで、どこか家のにおいをひきずり、安心感に包まれている感じがする。私も子どものころよく家出したんだけど、そうねえ、1年に2回はしてたかな。姉といっしょの時と一人の時では、緊張感がまったく違った。あのころは「ここじゃないどこかへ行きたい」という気持ちが、いつもどこかにあったのよねえ。

モモンガ:私は、この作品、初めて読んだときの印象が、ものすごく強烈だったの。今読んでも、やっぱりいいなと思う。今でも名作を紹介するブックリストなんかを作るときには、必ず入れる作品。新しい新しいと思ってたけど、もう30年も前の作品になっちゃったのねえ。『ダンデライオン』とちがって、クローディアには、何か大きな不幸があるわけじゃない。この作品は、一言でいえば「アイデンティティの確立」ってことになるんだけど、家出して自分の力で何かをやりとげる、内面的な何かを得るっていう物語。さっきの『ダンデライオン』と比較してみると、『ダンデライオン』には「何かを得る」って手応えが感じられないのよね。あと、最初に出てくるフランクワイラー夫人の手紙の意味が、あとになってわかるっていうからくりも、とても新鮮だった。クローディアの冒険がおもしろいものだから、最初の手紙のことはすっかり忘れて読み進んでしまうんだけど、最後になってはじめからすべて仕組まれていたことがわかり、やられたっていう驚きがあって。今はそういう凝った趣向の作品もいろいろあるけど、あのころはまだそんなになかったでしょ。

ねねこ:印象に残る場面、視覚的にぱっと目に蘇ってくる場面がたくさんあるわね。

愁童:とてもよくできてるよね。さすが名作といわれるだけのことはあるね。この作品の魅力は、知的なおもしろさだと思う。「知」の部分がとっても綿密。だけど、少しばかり「知」偏重かもしれない。というのは、「情」の部分に、ちょっと物足りなさを感じるんだよな。できすぎというか、作られすぎで、意外性が感じられないっていうか……。

ウンポコ:ぼくはこの作品、タイトルは知ってたけど、読んでなかったの。今回読む機会があって、本当によかった! とってもおもしろかった。もうねぇ、かなり好きな作品。クローディアもジェイミーも、とってもいい子なの。一所懸命でさ。アグレッシブなんだよね。そんな彼らがいじらしくて……。おじさんは、いとおしくなってしまったぞ。彼らといっしょにメトロポリタン美術館に潜んでるような気持ちになった。疑似体験できたね。ぼくもずっと、早く家を出たいと思ってた子どもだったんだよ。それで大学に受かったときに、やっと波風立てず、合法的に家を出られることになって、ひとりで東京に出てきたんだけど、そのときの喜びとか解放感というのを、なつかしく思い出した。それは家出ではなかったけど、でも家から離れる、ある種、家を捨てるということでは同じだからね。ぼくは、この本、多くの人に薦めたい! しかけもうまいし、ストーリーもとてもいいと思うから。

ウォンバット:私はこの本大好きで、小学校4年生のときに出会って以来、何十回もくりかえし読んでて、もうすっかり自分の血となり肉と・・・それも脳とか心臓とかのだいじな部分になっちゃってる本だから、論じるっていうのは難しいなあ。あんまり好きすぎて、分析できない。映画や音楽、恋人もだけど、あまりにも好きなものって、そうならない? この本を好きな理由でいちばんに思い浮かぶのは、クローディアのキャラクターかな。オール5でいちばん上の子で、しかも女の子だからって不公平が多すぎると思ってる・・・そのくらいはだれでも書きそうだけど、それだけではないの。遠足に行っても、虫がいっぱいいたり、カップケーキのお砂糖がとけたりするのが不愉快だとか、お母さんたちに「私たち家出するけど、FBIを呼ばないで」って手紙を送るときに、もう1通投函するんだけど、それがコーンフレークスメーカーの懸賞。こんなときに! 全然うわついてないのよね。細かいことなんだけど、こういうことで彼女の性格が、とてもよくわかる。おかげでクローディアの姿は、輪郭だけじゃなく頭のてっぺんからつまさきまで、つぶさに目に浮かぶようになってくる。とってもリアリティがあるのよね。この本に出会う前に読んでいた本の主人公は、「いかにも本の中の人」という感じで、身近に感じられることってなかったような気がする。クローディアは私が、近しく感じた最初の主人公かも。それでね、クローディアの家出の計画が、実に具体的で用意周到。もう、あったまいい! やっるぅーって感じ。あと、ジェイミーの台詞も好き。読み返すたびに、うれしくなっちゃう。「家出にいく」とか「ちぇっ、ぼろっちいの」とかね。「ぼろっちい」って、今だったら「さえねぇー」とか「超カッコわりぃ」っていうとこだろうけど。たしかにこの物語は「家出」というより「冒険」の物語だと思う。だからこそ「家出にいく」っていう台詞もあるわけで、全然悲壮感がない。「家から逃げる」んじゃなくて「私の価値を思い知らせてやる」ための行動だから。こういう威勢のよさ、プライドの高さも、私好み。今気づいたけど、この本とあとの3冊との大きな違いは、それかなあ。あとの3冊は「家から逃げる」ための行動なわけでしょ。それこそが、ほんとの家出なんだけど。

モモンガ:表面的には、クローディアって家出する必然性のなさそうな子に見えるけど、そういう子だって、実は心の中には、いろいろなものを抱えてるのよね。

ウォンバット:そうそう、そうなの! そういうことをわかってくれてるってのがウレシイ。優等生とか、何も問題がないとされてる、いわゆる普通の子だって、不満を表に出してないだけであって、何も感じてないってわけではないのよ。

ウンポコ:この物語には、ちゃんとわかってくれて、見守ってくれる大人がいるから、安心感があるね。

オカリナ:『テオの家出』に出てくるパパフンフンとかね。両親ではなくて他人なんだけど、支えてくれる大人がちゃんと存在していて、受け止めてくれるって、いいよね。

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ダンデライオン

メルヴィン・バージェス『ダンデライオン』
『ダンデライオン』
メルヴィン・バージェス/著 池田真紀子/訳
東京創元社
2000.02

愁童:これは、おもしろかった。すいすい読めたね。レベルの高い作品だと思う。でも、今回の「家出」というテーマでとりあげるのは違和感があるな。家出するシーンから始まるんだけど、「家出」そのものというよりは、そこに端を発したディープな世界を描いた物語だからね。だけど、この作品をフィクションとして世に問うっていうのは、どういうことなんだろう? とっても現実感があって、よく描けていると思うけど、これだったら、ルポを読んだ方がいいんじゃないかって気がするんだ。どうも読後感がよくなくて。おもしろくてレベルの高い作品だけど、「これをどう評価するか」ということになると、迷うよね。いいのか悪いのか、よくわからない。大人が文学として楽しむのはいいけど、あえて子どもに読ませたい内容ではないからね。何かストンと落ち着かないものがあってさ。最初の3分の1くらいで、もう結末も想像がついちゃうし。あと、文体なんだけど、一人称で章ごとに話者がころころ変わるから、こんがらがるね。原文は、どうなんだろう。もっと識別しやすくなってるのかな? それにしても、16歳から失業保険がもらえるなんて、イギリスはすごい国だねえ。

モモンガ:私はこの本、図書館で借りられなくて、昨日買ったの。だから、まだ途中なんだけど、おもしろく読める本ね。とくに女の子が生き生きと、よく描けていると思う。これは、書店では一般書、大人向けの文学の棚においてあったんだけど、作者は、だれに向けて、だれに読んでもらいたいと思って書いたのかなあ。

ねねこ:私も、やっと昨日借りられたの。まだ30ページしか読んでないから、ちょっとコメントは無理みたい。

ひるね:これは、ガーディアンとカーネギーのW受賞作品なのよね。そのころ、私ちょうどイギリスに滞在していたんだけど、普通の先生や図書館員たちは、この作品の受賞に眉をひそめてた。こんなに暗いものを、あえて子どもに勧めることはないのにって。そういうこともあって読みそびれてたんだけど、今回読んでみたら、おもしろかったわ。そして、痛ましかった・・・。バージェスの作品に出てくる子どもたちは、みんな普通の子なのね。そういう子が、泥沼にはまっていく様子が、よくわかった。キャラクターが、実にはっきりと描かれているし、登場する大人もステレオタイプじゃなくて、いいわあ。あと「家出」と「ドラッグ」って、全然関係ないように思ってたけど、実は、密接な関係にあったということに気がついたの。家出した子がドラッグと出会ってしまうのって、道ばたの石ころでつまずくようなアクシデントではないのね。当然のことだったんだって、はじめて気づいた。家出するのもドラッグにはまるのも、動機はいっしょなのよ。両方とも「ここから脱出したい、逃避したい」というところから始まるわけでしょ。この作品、若い人はどんなふうに読むのかしら。バージェスファンの子は、あまりのひどい状況に「もうやめてよ」と、思いながら読んだって言ってたたけど。たしかにひどい状況なんだけど、ラストのジェンマの選択には、希望が感じられて、よかった。
バージェスって、一見冷たくて、つきはなした描き方をするんだけど、最後まで読むと、何かあったかいものが感じられるのね。人間、まちがえちゃうこともあるけど、まちがえたら軌道修正しながら、生きていけばいいんだよっていうような。あとタイトルなんだけど、この本、原題は
Junk なのよね。私は、日本語のタイトルは『ダンデライオン』でよかったと思うけど、もしバージェスが知ったら、嫌だと思うかもね。あますぎるって言うと思う。全体に、訳がとてもよかった。この人の訳、『シズコズドーター』(キョウコ・モリ著、青山出版社、1995)は、いまひとつだったけど、今回はよかった。あれは作品としては、おもしろかったんだけどね。そういえば、『シズコズドーター』はアメリカではYAの棚に置かれてるのに、日本では、大人の外国文学の棚に置いてあるわね。あと、どうしてこの本、あとがきが訳者じゃないのかしら。そんなに特別なことが書いてあるわけでもないのに。

ウーテ:私はこの本読めなかったんだけど、なぜかタイトルだけはよくおぼえてたの。書評で見かけたのかしら。たくさんとりあげられてた? 今ここで見せてもらってたんだけど、ちょっとびっくりしちゃった。「〜なのよ」とか「〜だわ」という口調! 今の女の子って、こんなふうにしゃべらないでしょ。これは抵抗あるなあ。リアリティがないと思う。

オカリナ:でも、これは子どもの本ではなくて大人の本として出版されているから。大人の本では符牒になっちゃってるからね、こういう口調。子どもの本の方がそういうところ、神経を使ってるんじゃない?

ウーテ:翻訳専門語っていうの、あるわよね。それにしても、この会話はキレイすぎる。30年前の言葉じゃないの?

ねねこ:たしかに本の中にしかない言葉って、存在すると思う。今現実には、ほとんど使わない言い方。幼い女の子が一人称で「〜だわ」を多用するファンタジーなんか、時代は確実に変わっていると思う。

ひるね:先月もいったけど、キムタクのドラマ「ビューティフルライフ」の会話は、リアリティがあって、そのへん、とても上手だったわよ。

オカリナ:私、今日は資料をいろいろ用意してたのに、忘れてきちゃった。原本とかバージェスのインタビューとか、みんなに見せようと思ってたのにな。私も、この作品おもしろかった。救いがなくて、暗い気持ちになったけどね。ウチも上の子が裏街道系だから、こういう思考ってすごくよくわかるの。主人公の二人は、14歳の男の子と女の子なんだけど、男の子は性格的に弱いって設定なのよね。彼の明るい未来が感じられないまま、物語は終わってしまう。ヘロイン中毒は脱出したけど、メタドン中毒のままで、ジ・エンド。女の子の方はすっかり立ち直って、希望のもてるラストになってるんだけど。
私は、タイトルは『ジャンク』のままの方がよかったと思うんだ。日本には今、ヘロインってそんなに入ってきてないけど、安心していられる状況ではないでしょ。日本の子どもたちにとっても、そのうち麻薬は人ごとじゃなくなると思うのね。不安や不満をいっぱい抱えてるティーンエイジャーにとって、ヘロインとかLSDって大きな誘惑になると思うから。それでね、この本の登場人物タールやジェンマに共感できるような子たちにぜひ読んでもらいたい本なのに、『ダンデライオン』っていうタイトルでは、そういう子は、手にとらないと思うの。裏街道系の10代には、アピールしないタイトルじゃない? だから、ちょっと残念。アメリカ版はJunk ではなくて、Smackというタイトルだった。あと、最初に登場人物紹介があるけど、これが中途半端でよくなかった。だって、たとえば「リチャード=アナーキスト」って書いてあるんだけど、読んでいくと必ずしもそうじゃないのよね。

ひるね:登場人物の紹介が最初にあるのって、大人のミステリー本の作り方よね。

オカリナ:図書館の人なんかに、人物紹介があった方が子どもにはわかりやすくていいって言われたんだけど、紹介文を工夫してほしい。前もいったけど、私は今「現代児童文学における家族像の変遷」というテーマで考えてるの。「家族」っていう単位に、求心力がなくなってきて、バラバラになっちゃってるでしょ。何かで読んだけど、今、イギリスの家庭の3分の1は、血のつながってない子どもを育ててるんだってね。親が親として機能しない、というかちゃんと親の責任を果
たせない人が、親になっちゃってる時代よね。この物語では、ジェンマの家庭はまあ普通だけど、しいていえば親が過干渉。タールのところは、典型的な暴力父とアル中母。それで家を出て、自分の居場所を探しにいくわけだけど・・・。今の家庭に希望がもてなくて、外に出て新たな自分の家族を探すっていう物語は、たくさんあるよね。『ジュニア・ブラウンの惑星』(ヴァジニア・ハミルトン著 掛川恭子訳 岩波書店)とか、スピネッリの『クレージー・マギーの伝説』(菊島伊久栄訳 偕成社)とかね。もう、これって文学の中だけの問題じゃなくなってきてる。今の子どもたちにとって、身近な、切実な問題になってきてるんだよね。

ウーテ:だからといって、この作品、若い子が共感できるかしら?

オカリナ:表面的ではない、ひとつの体験ができると思うな。まあ、疑似体験だけどね。

ウォンバット:私はリアルに疑似体験しすぎて、読んでるうちに身体に変調をきたしちゃった。なんだか気持ち悪くなっちゃって。ヤクの禁断症状がいっぱい出てくるからじゃないかと思うんだけど。具合悪くなりながらも、早く続きが知りたくてばーっと読んじゃった。おもしろかったな。イギリスのダークな部分を強く感じた。やっぱりパンクの本場イギリスはちがうなあと思ったね。音楽でも、日本やアメリカのパンクロックって、形だけっていうか、あまっちょろい雰囲気があるけど、イギリスのパンクは「魂の叫び」って感じ。やっぱり歴史のある国は、抑圧に反発するパワーがたくさん必要なのかなあ。「スクワッター」っていえばね、4〜5年前、姉と自由ヶ丘かどこかを散歩してて、ここしばらくだれも使ってませんって感じのビルの前を通りかかったことがあったの。それで私が「こんなに栄えている場所に、突然荒れ果てたビルがあるのって不気味だね」っていったら、姉が「イギリスだったら、こういうビルなんて、占拠されちゃうんだから」って言いだして、私はそのときスクワッターって知らなかったから、「えっなにそれ。こわーい」とかなんとかいったんだけど、そのときの会話を思い出した。これのことだったのねえ。だけど、ここに出てくるスクワッターってよくわかんないな。ポリシーがありそうで、なさそう。
あと、さっき登場人物紹介の話があったけど、私は人物紹介はなくてよかったと思うな。こういうところにパンクって書いてあるのも、ヘンな感じ。あんまり有効な情報とは思えないし。ま、それはいいとして、彼らがずぶずぶ泥沼にはまっていく様子が、とってもよく描けてると思った。14歳とか15歳って、いちばん危険な年頃よね。なんだかわけもなく、不満があるというか、なんでもないことなのに、無性に腹が立ったりして。そういうイライラ感を、なつかしく思い出しましたね。

ウンポコ:ぼくはねえ・・・こういう本って苦手なんだなあ。なんとか半分くらい読んだけどさ。登場人物のだれにも共感できないんだよ。ドキュメンタリーを読むような興味だけで、なんとかここまできたけど、全部読むのは苦痛だね、たいへん。こういう「単なるスケッチ」みたいな作品は、好きじゃないの。角田光代の『学校の青空』(河出書房新社)にも、同じことを感じたんだけど、切り取り方の問題だと思うんだよ。ぼくは作者のメッセージを、しっかり感じたいタイプなんだよね。だから、作者の姿勢が見えてこないのは、どうもだめだ。

愁童:この本のメッセージって、なんなんだろう?

ひるね:「麻薬は怖い」というだけではないと思うのよ。何かを大々的にばーんと掲げているわけではないんだけど・・・。さっき「救いがない」っていう話があったけど、最後の方に出てくる、タールのお父さんとジェンマとのふれあいが、唯一、救いといえば救いよね。

ウーテ:話は変わるけど、ティーンエイジャーが自分たちのことを書くっていう作品もあるでしょ。この作品はそうではなくて、大人がティーンエイジャーを描いているわけだけど。今まさに渦中にある若者が執筆するのと、大人になった作者が10代のころを振り返って執筆するのって、何か違いがあるのかしら? やっぱり大人になってから書くと、そこに評価や追憶が加わるのかなあ。私の目下の関心は、それだわ。ねえ、みなさんはどう思う?

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年04月 テーマ:小学校中学年向きの本を読む

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『2000年04月 テーマ:小学校中学年向きの本を読む』

 

日付 2000年4月20日
参加者 ウンポコ、愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、
オカリナ、モモンガ
テーマ 小学校中学年向きの本を読む

読んだ本:

ジェニー・ニモ『魔女からの贈り物』
『魔女からの贈り物』
原題:THE WITCHE'S TEARS by Jenny Nimmo, 1996(イギリス)
ジェニー・ニモ/作 ポール・ハワード/絵 佐藤見果夢/訳
評論社
2000.02

<版元語録>吹雪のあれくるう夜、貧しいテオの家に黒ずくめの不気味なおばあさんがやってきた。その時から、なんだか妙なことばかりおこるような気がして…。魔女が流した涙は水晶に変わる―?!魔女と幸運の黒ネコとテオ一家の吹雪の夜のすてきなファンタジー。
松居スーザン『冬のおはなし』
『冬のおはなし』
松居スーザン/作 山内ふじ江/絵
ポプラ社
2000.01

<版元語録>光と影のもよう、風と雪と赤い木の芽、それからたくさんの小さな足あとが、みんな、冬のお話をそっと語ってくれます。ゆかいなお話や、ちょっと悲しいお話や、胸をときめかせるようなお話。松居スーザンが歌いかなでる森の童話集10作。
ジャクリーン・ウィルソン『バイバイわたしのおうち』
『バイバイわたしのおうち』
原題:THE SUITCASE KID by Jacqueline Wilson, 1992(イギリス)
ジャクリーン・ウィルソン/著 小竹由美子/訳 ニック・シャラット/絵 
偕成社
2000.03

<版元語録>お母さんとお父さんが別れることになったとき、二人は、わたしをどうしたらいいかわからなかった。わたしは、お母さんの家とお父さんの家を一週間ごとにいったりきたりすることになった。もういちど、お母さんとお父さんの三人でくらせる日を夢みながら―。親の離婚と再婚で失った“自分の家”を求めつづける少女の物語。イギリスの子どもたちが審査員になって選ぶ「チルドレンズ・ブック賞」受賞作。
はやみねかおる『徳利長屋の怪』
『徳利長屋の怪〜名探偵夢水清志郎事件ノート外伝』
はやみねかおる/著 村田四郎/絵 
講談社青い鳥文庫
1999.11

<版元語録>花見客の見守るなかで予告どおりに盗みを成功させた怪盗九印の正体をつきとめ、れーちの話の謎をあっさり解いた清志郎左右衛門が、幕府軍と新政府軍の戦から江戸を守るために、すごいことを考えた。江戸城を消す…。そんなことができるのだろうか。勝海舟や西郷隆盛を相手に名探偵の頭脳がさえる。名探偵夢水清志郎事件ノート外伝・大江戸編下巻、はじまりはじまり。面白すぎる。
土橋悦子作 長新太絵『ぬい針だんなとまち針おくさん』
『ぬい針だんなとまち針おくさん』
土橋悦子/作 長新太/絵
福音館書店
1999.06

版元語録:小さな針箱に住む針の夫婦の物語。テーブルから落ちたぬい針だんなを探しに,まち針おくさんは果敢に家をでます。愉快な絵童話。

(さらに…)

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ぬい針だんなとまち針おくさん

土橋悦子作 長新太絵『ぬい針だんなとまち針おくさん』
『ぬい針だんなとまち針おくさん』
土橋悦子/作 長新太/絵
福音館書店
1999.06

ウンポコ:ぼくは、福音館書店のこのシリーズ(創作童話シリーズ)、とってもいいと思ってるの。高楼方子さんの『みどりいろのたね』も、このシリーズでしょ。ページをめくるおもしろさをねらった本づくりが、いつもうまくいってるんだよ。だけど、この作品はよくなかった。おもしろくない。何がおもしろいのか、わからん。発想が古いよ。「奇想天外なおもしろさ」方面にいってほしいと思うんだけど、いってくれない。絵も全然ダメ。「困った」「弱った」としか、いいようがない。

ウォンバット:えー?! そう? 私は、すごくおもしろかったけど。私、今日のラインナップの中では『バイバイわたしのおうち』と、この作品がよかったんだけど、ウンポコさんにそんなに言われるんじゃ、この本をイチオシにしちゃおう。まず、もう見返しから笑っちゃった。これ、おもしろくない? あといちばんおかしかったのは、ぬい針だんなが無事にもどってきた場面。「ぬい針だんなとまち針おくさんがもどると、針ばこの中はよろこびで大さわぎになりました。ふたりがいなかったので、しごとにならなかったのです」っていうところ。まわりの人たち、心配してるようで、実は妙にさめてるの。笑った笑った。ぬい針とまち針の表情もおもしろいし、さすが長新太!

愁童:そうかなあ。ぼくは、いいとは思えない。たとえばここに出てくるハサミ、ふつうのハサミじゃなくて、にぎりバサミでなくちゃいけないんじゃない? ヘンだよ、糸を切るハサミなのに。それにさあ、まず題材が古いよ。今の子どもには無理じゃない? このストーリー。まち針を見たことのある子なんて、そういないでしょ。今はなんだってミシンだから、「縫い目がきれい」なんてわからないだろうし。フェミニズムの人から見たら、女性の生き方としてまち針おくさんの描き方について、いろいろ言いたい人、いるんじゃない? 主体性がないでしょ。「あんなに、ぬい目のきれいな人は、めったにいないよ」と思っては、ほれぼれとながめるのでしたとは、なんと古くさい。旧態依然としたまち針とぬい針なんて。作家にも、その時代をヴィヴィッドに生きている感性が必要だと思う。書くのなら時代を意識した上で書くべき。土橋さんは持論として、「幼年童話に思想はいらない。簡潔な文章でリズミカルであればいい」っていってるけど、「今」を意識する必要はあると思うよ。たしかにうまいし、手慣れた作品だいうことは認めるけどさ。

ひるね:気持ちよく読めるけど、すぐ忘れちゃいそうな本。やっぱり「文は人なり」「作品は人なり」だから、幼年童話でも、その人の時代とのかかわり方が明確にあらわれるのよね。

愁童:「生きた感性」で書かれるべきだよ。

モモンガ:土橋さんの作品だからこそ、欲を言いたくなってしまうってところはあるわね。ストーリーテリングの名手が物語の執筆を手がけるって、外国でもよくあるじゃない? だから土橋さんもついにここまできたかって、すごく楽しみにしてたのね。期待してた分、実は私もちょっとがっかりした。ぬい針とまち針自体に古さは感じなかったけどね。今でもどこの家庭にも針箱はあるし、子どもにも身近なものだと思うから。それをこういうふうに描くというのは、おもしろいわね。うっかり足をすべらせたぬい針だんなが次の日になっても帰ってこなくて、「まち針おくさんは、しんぱいのあまり、ますますほそくなりました」とか、ドアと床のすきまを通り抜けようとして、じまんのピンクの真珠でできた頭がじゃまになるところなんかは、とてもおもしろかったから、そういうエピソードがもっとたくさんあればよかったと思う。まち針おくさんをもっともっと活躍させてほしかった。ネコや掃除機にだんなのいそうな場所を教えてもらったり、バッタの葉っぱに便乗させてもらったりというのではなくて、人の手を借りずに、一人でもっとがんばってほしかった。その辺は残念。

オカリナ:ここに向かう電車のなかで読み返したんだけど・・・。たしかに古いタイプの夫婦の在り方よね。作者は、ちゃんとこういうお母さんをやってるんだな、と感心したの。

ひるね:あっ! 今、たいへんなことに気づいちゃった!

一同:なになに?

ひるね:あのね、針山っていうのは一夫多妻制なのよ。だって縫い針は1本でいいけど、まち針1本じゃ、縫えっこないもの。

ほぼ全員:ほんとだ!

ウォンバット:そうよお。私、最初からそう思って読んだ。だからナンセンスとしておもしろいんじゃないの?

ひるね:どうせなら、役割を入れ替えて「一妻多夫制」にしちゃったら、もっとおもしろかったかも。

モモンガ:それは新しいかもね。絵もねえ、いいんだけど・・・。でも長さんの絵はもう見なれてるから、新鮮味がなかった。「またこの絵か」って感じは否めない。はじめてこの絵を見る子どもはいいかもしれないけど。

ウンポコ:長さん、ノッてなかったんじゃないの? これはあんまりよくないね。猫の絵なんか、親切に教えてくれるというところなのに、とっても意地悪そうな顔に描いてある。

ひるね:破天荒なナンセンスだったら、長さんももっと力を発揮できたのに。残念ね。夫婦を描いたものでも、イギリス昔話の「お酢だんな」なんてとてもおもしろいナンセンスなんだけど、そこまでいかなくても、翔んでるところがあったらおもしろかったのに。『冬のおはなし』もそうだけど、いい人ばっかり出てきちゃうでしょ。『ふらいぱんじいさん』(神沢利子作 堀内誠一絵 あかね書房)のようなインパクトの強さが必要だと思う。お話を聞かせるときの効果やテクニックをよく心得てる人だから、うまいなと思うところは多々あるけど、登場人物に、もう少し個性がある人、思いを託せる人が一人でも、というか「ひと品」でもあれば、もっと違ったと思うのよ。ところで、読み聞かせって、難しいわよね。

ウンポコ:音読してみると、いろんな発見があるんだよ。この作品も音読してみたけど、どうもイメージがわきにくかった。とくに、どうしても許せないと思ったのは、床とドアのすきまを通
り抜けようとするところかな。「足からはいってみたり」「右をむいたり」「左にうごいたり」と3ページもめくらせておいて、「さんざんくろうして、やっと、戸だなの中に入ることができました」ですませてしまってるところ。これでは、子ども読者は納得しないよ。「どうなるんだろう?」と思って読んでるのに「さんざんくろうして」だけじゃ、この3場面はなんだったんだあ! っていいたくなるでしょ。

モモンガ:さんざん苦労したから、頭がちょこっと欠けてしまいましたっていうなら、おもしろいのにね。ストーリーテリングのときにはとてもいい作品でも、本にするときには、構成を考え直さないとまずかったんじゃないかな。

ウンポコ:まち針おくさんが、掃除機のゴミの袋を「ふみやぶる」っていう表現があるんだけど、針は細い一本足なんだから、踏み破れないよね。

愁童:頭がまだ外にあるのに、だんなのゴミの袋の中で光っているのが、なぜ見えるんだろう……とか。

モモンガ:絵本と物語の橋渡し的存在のこういう本こそ大切なのに、ちょっと残念ね。対象年齢がこのくらいのもので、何かいいものが出てきてほしいわ。

ひるね:私たちでつくっちゃおうか?「一妻多夫制」の『まち針だんなとぬい針おくさん』。たくさんの「まち針男」を従えた「ぬい針おくさん」の話。すきまを通り抜けたあと、「まち針男」の自慢の頭がちょこっと欠けちゃう……。

一同:いいかもね!

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


徳利長屋の怪〜名探偵夢水清志郎事件ノート外伝

はやみねかおる『徳利長屋の怪』
『徳利長屋の怪〜名探偵夢水清志郎事件ノート外伝』
はやみねかおる/著 村田四郎/絵 
講談社青い鳥文庫
1999.11

オカリナ:私はこの本、読みはじめたはいいけど、途中で放棄しちゃった。で、これじゃイカン! ともう一度チャレンジするために買ったのよ。なのに、時間ぎれになってしまった。これ、オビによると55万部だって! すごいわね。そんなに売れているとは知らなかった。登場人物はステレオタイプだし、言葉づかいがヘンだと思う人もいるかもしれないけど、文章のリズムはいいと思う。翻訳の人って自分もふくめてだけど、なかなかここまでできないから、文体について、とてもいい勉強になった。でも、やっぱりご都合主義だし、どうしてもついていけないとこはあるな。だけど、そんなに子どもに読まれてるっていうのなら、こういうのもアリでいいと思う。

ウンポコ:どうしてここまで売れてるんだろって考えてみたんだけど、ぼくは、文体の勝利だと思うな。ところどころ作者のモノローグがはさみこまれてるんだけど、これがイイ。テレビの「ちびまる子ちゃん」といっしょでさ、ポッポッと別の視点からのおしゃべりみたいなものが出てくると、親しみやすいし。これが子どもにウケているんじゃない? 著者紹介によるとこの人、現役の学校の先生でしょ。だから、今の子どもが何をおもしろがるか、ちゃんと知ってるんだな。推理に破綻があるのなんか知っちゃいねえ、これがオモシロイんだってなもんで。まあウォンバットさんの言葉を借りれば「毒にも薬にもならない」かもしれないけど、でも、おもしろければ、こういうのもいいんじゃない? エンタテイメントとして楽しむ気軽さってのも、またいいもんだと思うよ。

ウォンバット:私は、いいもんだとは思えなかった。「これが今、人気のある本だよ」と言われれば、なるほどという感じ。だけど、時代考証がめちゃくちゃなのを、はじめに豪語しちゃってるのが、どうもねえ・・・。「たまに、あれ? と思うようなことが書いてあるかもしれませんが、『まっ、いいか!』と、大きな心でみのがしてください」と、この本の「まえがき」にあたる「なかがきの続き」でいってるんだけど、こういうのって許されるものなの? 私、以前に某歴史雑誌の編集部でアルバイトしていたことがあって、そこでキョーレツな歴史オタクをいっぱい見てしまったから、感覚がちとヘンになってるとこがあるんだけど、これで通ってしまう世界があることに、まず驚いた。歴史を専門にしてる人が読んだら、怒ると思うよ。だって「時代考証のにがてな作者より」となっているのよ。だったら、わざわざ時代モノに手を出さなくてもいいのに。この人、別
に江戸時代を書きたかったわけではないのね、きっと。現代ではないどこかの場所を舞台にしたい、でも1から自分で世界を創造するのはカッタルイから、江戸時代にしとこってだけみたい。カップラーメンのCMで、永瀬正敏が歴史的名場面に登場してラーメン食べるっていうのあるけど、あれを思い出した。時代は雰囲気だけって感じ。歴史を知っててくずして描くのならいいけど、きちんと知らないのに、知ってることだけを適当に使うのは無責任だし、ルーズすぎると思う。まあこういう作品に誠意を求めるのが、おかしいのかもしれないけど。文体も、子どもには魅力的なのかもしれないけど、私は嫌だな。俗っぽいんだもん。「どうも、亜衣(あい)です」っていわれてもねえ・・・困る。エヘヘっとなっちゃう。それに語り手の亜衣は三つ子の設定で、妹の名前は「真衣(まい)」と「美衣(みい)」、お母さんは「羽衣(うい)」ということなんだけど、こういうセンス、私はおもしろいと思えない。

ウンポコ:えっ? なになに?

ウォンバット:だから、お母さんがwe で子どもたちが、I my me なの。

ウンポコ:えっ? そういうことだったの?! はじめて知った。

ウォンバット:だけど、これ三つ子の必然性って全然ないのよ。だって、真衣と美衣はたいして働いてない。シリーズだから、前の巻では活躍したのかな? あとね、絵も好きじゃない。名探偵夢水清志郎がキタナすぎる。黒眼鏡っておかしくない? 容姿が汚くてぐうたらだけど、実は頭がキレるっていうヒーロー像も古くさいよ。格好がよくないけどいい仕事をするというのは、男の憧れの一種なんだろうけど。ほら「美味しんぼ」の山岡士郎みたいなヤツ。今、これがウケてる理由というのは、文体ではなくて、「子どもは謎ときが好きだから」じゃないかと思うな。「名探偵コナン」なんて、ものすごい人気じゃない? あれは、あなどれないよ。ロシア語が出てきたりなんかして、すごく高度な内容でびっくりしちゃった。

愁童:いやあ「名探偵コナン」は、なかなかやるんだよ。この本の謎解きと比べたら、かなり本格的だもの。ぼくは、この本の魅力は謎解きではないと思う。

ウンポコ:うんうん。

愁童:「江戸城を消す」なんていうから、どんなすごいことをするのかと思ったら、ただ絵を書いて回転させるだけなんて、あまりにお粗末な子どもだましの方法じゃねぇか。謎解きに魅力はないよ。昔の講談本なんかと比べて、ほんとにお粗末だよね。この程度のものしかないなんて、今の子どもは不幸だと思う。せっかく活字を読むのなら、「名探偵コナン」以上のものを読んでほしいと思う。やっぱり文体じゃないの? この本の魅力はさ。なんていうかなあ、オタクっぽくないというのかな。エンタティメントを幅広く考えれば、こういうのもアリかなと思うよ。『冬のおはなし』を読むのなら、だんぜんこっちを読むほうがいいと思う。

モモンガ:この本の位置づけの問題よね。漫画を読むのと同じ感覚で、軽いノリで読める楽しい本として、それはそれでいいと思う。私はNHKの「お江戸でござる」を思い出した。江戸のシチュエーションを使ったコメディだけど、あれの子ども版という感じ。あの番組、すごく人気があるのよ。

ウンポコ:あれって、まったく無責任なんだよ。

モモンガ:でも、それはそれでいいんじゃない? 深い感動はないんだけど、ちょっとこう気軽に読めておもしろいじゃんって感じのもので。今の子どものテンポにあってると思う。だから私、否定はしない。今の読まれ方というのは、きっと友達同士で「もう読んだ?」とか、「これ、おもしろいよ」なんていいながら、貸し借りしたりしてるんだと思うけど、そういうところから入っていって、これをとっかかりに文学の道に進んでいく子が出てくるといいなと思うから。それはそれで、いいことだと思わない?

ひるね:私もそう思う。個人的には好きよ、この本。内容はともかく、こういう読まれ方をするって現象はうれしい。前に氷室冴子の『なんて素敵にジャパネスク』(集英社)にハマったことがあるんだけど、これもなかなかおもしろかった。王朝ものなんだけどね。あと赤川次郎とかね、そういうのと同じだと思う。でもその反面、違う本でこのくらい読まれるのがあればいいとも思う。だってね、日本の子どもが赤川次郎を読んでるあいだに、イギリスの子たちが読んでるのは、ロアルド・ダールよ。そう考えると、日本の子どもたちはかわいそうだと思うわ。

ウンポコ:本にはそれぞれ、いろいろな役割があっていい。今の子どもたちってさ、実は楽しくないんだと思うんだよ。明るい未来なんて感じないでしょ。この本は無責任に軽く読めて、楽しい気持ちになれるんじゃないの? きっと心を通わせられるんだと思う。

ひるね:勝海舟なんかを笑いとばしちゃうのは、小気味いいと思うわ。

モモンガ:教科書に出てくるような人を、おちょくっておもしろがるのって子どもは好きよね。前にダウンタウンの番組で時代劇の格好してギャグをやるのがあったけど、うちの子、大好きだったもの。

ひるね:青い鳥文庫だからね、これでいいのよ。『ハリー・ポッターと賢者の石』も青い鳥で出すべきだったんじゃないの? もっといい訳で。

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


バイバイわたしのおうち

ジャクリーン・ウィルソン『バイバイわたしのおうち』
『バイバイわたしのおうち』
ジャクリーン・ウィルソン/著 小竹由美子/訳 ニック・シャラット/絵 
偕成社
2000.03

モモンガ:今日の5冊の中で、子どもがいちばん楽しんで読むのは、この本だと思う。主人公はかわいそうな状況なんだけど、どこかしらいいところに目を向けようという姿勢が、とてもいいと思った。作者が、主人公アンディーに温かい目を向けていて、どこかいいところがあると信じて、描いてる。登場人物が、大人も子どももみんなリアル。それで、アンディーにとって嫌な人も、根っから悪い人ではなくて、いやいやながらも認めずにはいられない、いいところがあるんだよってことを、ちゃんと描いているのよね。この先アンディーは、それぞれの人と接点を見つけて、うまくやっていけそう。「せつない」だけで終わらず、これからうまくやっていけると思えるところが、前向きでよかった。

愁童:ほんと、アンディーはだいじょうぶそうだね。明るさを感じるよ。ぼくの今回のイチオシは、これだな。「離婚もの」はたくさんあるけど、大人の論理が背景にあって、そこに子どもを引き寄せていくというパターンが、多いと思うんだよね。その点、この本は完全に子どもの視点から描いている。難しいテーマだけど、小学校3〜4年生が読みやすい文章だね。訳文も、こなれてる。すごい事件があるわけじゃないんだけど、人間像がさらりと上手に描けてる。とくにお父さん方の新しい家族になったふたごのゼンとクリスタルなんて、いい味出してると思った。子どもは被害者だけど、離婚については「いい」とも「悪い」ともいってない。「与えられた運命をいかに乗り越えていくか」というのが大事だってことをきちんとおさえている。だけどこの本、訳はいいんだけど、あとがきがねぇ・・・。作品を解説しちゃってるんだけど、ちょっとズレてるんじゃないの? タイトルも『バイバイわたしのおうち』じゃなくて、原題The Suitcase Kid をいかしたほうがよかったと思う。というより、全然意味がちがうでしょう。この訳者はストーリーを理解してないのかな。わかっていたら、このタイトルはなかったと思うなあ。

オカリナ:たしかに。意味がまるっきり変わっちゃってますね。バイバイするのは最初の設定であって、これはそこからの物語なんだから。ちょっと皮肉っぽいおもしろさもなくなっちゃってるし。

ウォンバット:私もそう思う。でもまあ、タイトルはおいとくとして、全体としては、とてもおもしろかったよ。章タイトルが、ABCになってて、AはAndy アンディーとかDは Dadお父さんとか、うまくハマってるのもいい。そして、最後の章はZZoeゾウイで「ABCみたいにかんたんなことです。ほんとですよ」ときれいにしめくくられる。うまいよね。お父さんとお母さんが離婚して、それぞれ新しいパートナーをみつけてて、そこを主人公アンディーが1週間交代でいったりきたりするわけだけど、お父さんとお母さんが、それぞれの新しいパートナーについて、お互いケチョンケチョンにいうのが、おっかしい! ひどい悪口なんだけど、明るくからっとしてて憎めない。アンディーは気の毒な状況だけど、でも全体に陰湿な感じがないから、かわいそうという気持ちにならないし、読んでて楽しくてイイ。

ウンポコ:時間ぎれで途中までしか読めなかった。

ひるね:読むの、やめたの?

ウンポコ:時間が足りなかっただけ。ぼくは電車の中で読むことが多いんだけど、この本、表紙がちょっと恥ずかしくてさ。

ウォンバット:ピンク色で目立つし、カワイイもんね。

ウンポコ:なんかまわりの人に「ヘンなおじさんっ」と思われたら嫌だなと思ってさ、パッと開いて、なるべく表紙が他の人に見えないように気を使って読んだの。途中までだったけど、主人公に寄り添って読めるね。くわの実の登場の仕方も、とてもうまいと思った。ちょっと気になったのは、目次。野暮ったくて損してると思うな。

ウォンバット:そうかなあ。私はこの目次、いいと思うけど。

オカリナ:私は、ジャクリーン・ウィルソン好きなの。彼女の描く子どもはたいてい、貧乏とか離婚とか、何か問題を抱えてることが多いんだけど、どの作品も明るいのよね。主人公が問題を乗り越えて生きていけるということを感じさせてくれる。本好きな子はもちろん、本を読まない子もドタバタっぽいところがエンタテイメントとして楽しめそうじゃない? 本を読む子も読まない子も、どっちもおもしろく読める。だから私、とても好きな作家なんです! このところ児童文学に見られる家族像を考えながら本読んでるんだけど、子どもには安心できる場所が必要だと思うのね。何か問題があったとしても「だいじょうぶ」と思える場所が。だけど、それを家庭に求めるのは無理になってきてる。今は「大草原の小さな家」みたいには、いかなくなってるわけじゃない? 両親の離婚とか再婚とかがすごく増えていて、昔ながらの「古きよき家庭」は崩壊しちゃってるからね。そうなって、「子どもが安心できる場所をどこに求めるか」ということを現代の作家は描いているんだと思うの。ジャクリーン・ウィルソンもそのひとり。この作品でも、親は悪い人ではないんだけど、役に立たないわけでしょ。親が子どもを包みこむ存在ではなくなってる。で、どうするかというと、まわりのいろんな人から少しずつそういうものをもらって、安心をとりもどすわけ。アンディーが遊びにいく、くわの木のある家の老夫婦とかね。それとか、最初は義母・義父とうまくいかないんだけど、義理の兄弟とはだんだんうまくいくようになって、とくにグレアムとは仲よくなって、大切な存在になる。それも一方通行ではなくて、子ども同士が少しずつそういうことを提供しあっている。この作品では、結局のところ助けになるのは義理のきょうだい。そんなふうに説明はしていないんだけど、この作品はそういう新しい関係、子ども同士が「安心」を提供しあえる新しい関係を描いているんじゃないかな。

モモンガ:そうね。くどくど説明はしてないんだけどね。挿絵もまんがっぽい絵なのに、ひとりひとりがどんな人なのか、そして、それぞれの関係が変化していく様子が、よくわかる。人間が、実によく描けているのよね。

オカリナ:「いろんなことがあるけど、この先だってなんとかやっていけるよ。だいじょうぶだよ」っていうまなざしが、あったかいよね。松居さんとの作品とはちがう温かさがある。この作品、今日の私のイチオシ!

ひるね:私も、これイチオシ。この作品は、何年か前にイギリスで買って読んで、すごくよかったの。なかなか翻訳が出版されないなと思ってたんだけど。いうなれば、「子どもへの応援歌」よね。気の毒な状況なんだけど、「かわいそう」という言葉は出てこない。彼女の短編で「お父さんとうりふたつ」というのがあるんだけど、それもすごくいい話だった。イギリスでとても人気のある作家だし、これからも注目していきたいわね。

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


冬のおはなし

松居スーザン『冬のおはなし』
『冬のおはなし』
松居スーザン/作 山内ふじ江/絵
ポプラ社
2000.01

オカリナ:この作品、私はいいと思えませんでした。自分で創りあげた雰囲気に、一緒になって酔っちゃってるみたい。とくに気になったのは、いちばんはじめのお話「カシワの葉」。どうしても日本語でひっかかる。たとえば「雪ひら」っていう言葉が出てきますけど、今の日本語では、落ちてくる雪のことを、「雪ひら」とはいわないでしょ。現代日本語で「ゆきひら」といったら鍋のこと。確かに雰囲気はなんとなくわかって、使いたくなる言葉なのかもしれないけど、日本人だったら使いたくても使えない。作者が外国人だから使ってもいいと思われてるとしたら、あんまりいいことじゃないと思う。それからp20ページに「ありがとう、こころやさしい友よ」ってあるんだけど、昔の子どもの本でこういう翻訳ってあったけど、今はないよね、こういう言い方。それから「お話なら、いくらでも語ってあげようとも」とかオオハクチョウのお話が終わったところで、キツネが、「(お話)まだ、とまらないで」っていうのとか、ヘンじゃない? 「お話がとまる」って日本語。まあ、作者は外国人だから仕方ないとしても、本づくりにかかわる人たちはその辺気をつけて、アドバイスしないといけないよね。前に、松居さんの本にかかわった人から、彼女はイメージで文章を書いているから「どういうシチュエーションですか?」って具体的にきかれると困ってしまうっていう話を聞いたことがあるの。あんまりリアリティを考えずに、なんとなくのイメージを文章にしてるのかな? 私は、もう途中で読めなくなった。だって、キツネとウサギが仲よくすりゃいいってもんじゃないでしょ。松居さん、せっかく北海道に住んでるんだから、自然をきちんと見つめて描いてほしかったなあ。

ウンポコ:松居さんは善意の人なのね。善意の人が観念で書いてるって感じ。カシワの葉っぱが最後まで落ちないっていうところなんかは、よく観察してるなと思うけど、キツネとウサギの同席は不自然。読者は、やさしいあまい世界にだまされちゃいかんと思う。救いは絵だね。山内ふじ江さんの絵は好き。うまいね。絵を見て、この本を好きになろうなろうと努力したけど、やっぱり好きになれなかった。

ウォンバット:私もおもしろく読めなかった。どうも松居スーザンさんの作品ってよさがわからないの。日本語を母国語としない人がこれだけの文章を書くのはすごいと思うけど、毒にも薬にもならない感じ。ただただ平和な世界でさ。登場する動物は、キツネもウサギもただ名前だけで、どんな生態の動物なのかとか、どんな性格のキツネなのかとか、いっさい物語には関係ないみたいで。

ひるね:みんな同じで、ただ名札が違うだけなのよね。

ウォンバット:そうそう。中に出てくるお話も、おもしろい? なんだかいつも同じような話だけど。詩もすばらしいの? どうも、よさがわからない。

愁童:今江祥智さんが、昔よくいってたよ。「歌入り観音経なんてヤメロ」って。物語の中に気楽に詩なんて入れるもんじゃないって、すっごい馬鹿にしてた。ぼくも読むのに苦労して、結局半分でヤメた。若い女の人がはじめて書く作品に、こういうのが多いんだよな。そこらへんを読者ターゲットにして、こういう本が出るのかな? 編集者の間に、こういう作品を敬遠する雰囲気があったように思うけど、最近は違うのかな? 日本児童文学の戦後50年はどこへいってしまったのかと、さみしい気持ちになった。さっきも言ったけど、『魔女からの贈り物』と比べると、書き手の姿勢がまるっきり違うよね。何が言いたいのか、さっぱりわからない。ムードばかりで、とらえどころがなくて。自然描写が乏しいし、白鳥が飛ぶときの描写なんかも、ちょっとねえ……。

モモンガ:私は、なんとも、たらんたらんとしたところが、嫌だった。松居さんは、たしかに善意の人だと思うのね。自然を愛し、動物を愛し、お話を愛し、ご自分の世界をていねいにていねいに創っていらっしゃるのはわかるんだけど、こっちに迫ってこないから「どうぞご勝手に」って感じなの。松居さんの本って、他のもみんな似たような感じだし。3つめのお話「キツネの色ガラス」に、赤いガラスのかけらを目にあてて、「赤ちゃんのとき、まるくなって、おかあさんに体をぴったりくっつけて、目をとじると、こころの中が、こういう色になっていたような気がするな」っていうところがあるんだけど、そんな感覚、子どもにわかるかしら。見た目は子ども向けにつくってるけど、子どもにはわからない感覚じゃないかな。動物たちのセリフがどれもおもしろくない。「カシワの葉」でオオハクチョウに「ありがとう、こころやさしい友よ」っていわれて、キツネが「こおりついた白い国から、はるばるとんできた、けなげな友よ」と思わず言ってしまいましたってところ、ここはおもしろいと思ったけど。

ひるね:でも実際には、「けなげ」なんて言葉が言えるわけないわ。だって、このキツネは子どもって設定でしょ。

モモンガ:登場人物が動物だからカムフラージュされて、まだ許せるけど、これが人間だったら、おかしくて耐えられないと思わない?

ひるね:『十一月の扉』(高楼方子著、リブリオ出版)の中の童話みたい。

愁童:これだったら、ビデオやゲームのほうがいいんじゃない? もっとおもしろいもの、いっぱいあるでしょ。

ねねこ:いったい何を書きたかったのかしら。「童話もどき」って感じがするけど。

オカリナ:読み通した人は少ないのね。

ウォンバット:あら、今日は私、貴重な存在。

ひるね:キツネとはどういうものか、ウサギとはどういうものかということをちゃんとおさえていないと、だめよね。食うか食われるかの生存競争をしなければ生きていけない動物たちを、血の通う存在と思って書いてはいないみたいね。動物たちをこんなふうに描くのは失礼だと思う。

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


魔女からの贈り物

ジェニー・ニモ『魔女からの贈り物』
『魔女からの贈り物』
ジェニー・ニモ/作 ポール・ハワード/絵 佐藤見果夢/訳
評論社
2000.02

モモンガ:対象年齢ということを考えると、今回の5冊の中では、この本がいちばん3〜4年生にぴったり。怖い話好きの子によさそうな本。でも、こういう場で言うべきことがあんまりないな。結末に期待を持たせてるわりには、思ったほど盛り上がらなかったし。でも、現実的な妹と、魔女の存在を信じている男の子のやりとりは、とてもおもしろかったし、時計がカチコチいう音を効果的に使っていて、うまいなと思う。雰囲気を楽しむ、軽く読めるお話っていうことでいいんじゃない? では次、推薦者の愁童さんどうぞ。

愁童:そういわれると、ちょっと照れるな。『ハリーポッターと賢者の石』(J.K.ローリング著 松岡佑子訳 静山社)を読んで、魔法の世界が、あまりにアニメチックというか、おもしろいけど軽っぽいので、最近の他のイギリス人の書くものはどうかなということがあったのと、日本人の書くものとの違いは何かな、と思ったんだよね。それは、生活感覚に根ざしてるかどうかってことじゃないかと思うんだけど。まあそんなわけで、ちょっと考えてみたくなったわけだ。魔女について。この本を読んで、やっぱりnative の子どもの心の根っこには、今でも生きた魔女が、ちゃんと存在してるんだなと思ったね。この本が、作品として特別優れているというわけじゃないんだけどさ。でも、今回読んでよかったなと思うのは、たとえば、始まりをちょっと読んでみると、「たまらなく寒い日でした。息がこおるほど風が冷たく、空をまっ黒な雲が、野生の馬の形にちぎれて、流れていきます。」となってるんだけど、もうこの3行だけで醸し出されるものがあるでしょ。磨きぬかれた、とてもいい文章だと思う。『冬のおはなし』とくらべたら、それはもう全然違う。書き手の姿勢、skill、執念……そういったものをひっくるめた作家修行の結実の高さを感じるね。強烈な印象はないけど、でも上質な物語だと思う。

ウォンバット:同感。うまいと思う。その場面場面の雰囲気がとてもよく伝わってくる。でも、私も、とくに言いたいことはないなあ。おもしろいけど、どうってことない。魔女とか、そういう恐ろしくて不思議なものの涙が水晶に変わるというのも、どこかでそういうお話を見たような気がして、新鮮味はないし。

ウンポコ:そう? この本が5冊の中でとびぬけてよかったよ。登場人物の形象化が、とてもよくできている。ちょっとずつしか書いてないけど、人物像がとてもよくわかる。物語性も、一級品だね。あえて難点をあげるとしたら、本づくり。イラストの製版にバラつきがあるのが、どうも気になって。きれいに出ているところもあるけど、線がとんじゃってるところがある。ほら(と、ぱらぱら本をめくる)31ページとかさ、50ページ。

ウォンバット:ほんと。章の最初のページのイラストが、とくにひどいみたい。

ウンポコ:それから、改行が少なくて、息苦しいね。原文がそうなのかもしれないけど、3〜4年生向けだし、ちょっと考えたほうがよかったと思う。もうひとついいたいのは、タイトル。これ、原題はThe Witch’s Tears でしょ。『魔女の贈り物』とするより、原題どおり『魔女の涙』のほうがよかった。

モモンガ:そういえば『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイ作  小川仁央訳 評論社)っていうのも、あったわね。

オカリナ:私も、タイトルは原題をいかしたほうがよかったと思う。「贈り物」だと、それだけで魔女が「いい人」って最初からわかっちゃうから。あと「オークじいさん」が出てくるんだけど、日本語で「オークじいさん」といってしまうと、ニュアンスが伝わらないでしょ。「オークじいさん」も「魔女」も、伝統的な妖怪のたぐいで、super natural な存在。そして、お互い疎ましく思ってて・・・ということが前提としてあるんだと思うけどね。でも、全体的には、ちゃんとできてるいいお話だと思う。

ひるね:うまい作者よね。好感のもてる作品が多いけど、ちょっとパンチが足りないって印象。『おおかみウルフは名コック』(安藤紀子訳 デイヴィド・ウィン・ミルフォード絵 偕成社)も、そんな感じだった。だけど、この本はよかった! まず、土に根ざした魔女の存在がよく描けているでしょ。現実と幻想のはざまにある魔女を、とてもうまく表現してると思う。子どものすぐ近くにいる、あやしい存在というのかしら。日本の作家が魔女を描くと、日常とかけはなれたハイカラなものとして描くことが多いでしょ。だから、あやしさ、こわさが感じられない。山婆でさえハイカラな魔女みたいに書いちゃうことがあるわけだから。坂東真砂子の『死国』(マガジンハウス)などは、土に根ざした世界だと思うけど、児童文学でもそういう世界を書いてもらいたい。それから、この作品はスリルがあるでしょ。やっぱり3〜4年生には、スリリングな話か、げらげら笑える話のどっちかでないと、ウケないと思うのね。ずいぶん前に、小さい子たちに読み聞かせしたことがあって、そのとき思ったことなんだけど、やっぱり大人と子どものうけとめ方はちがうでしょ。『たろうのおでかけ』(村山桂子作 堀内誠一絵 福音館書店)みたいな大人には単純な話でも、子どもは、「どうなっちゃうんだろう」って、すっごくハラハラしながら聞いているのね。

ウンポコ:五感を使って描いてるよね、この作者は。時計の「チクタクチクタク」という音とか、8章に出てくる「におい」。「洗濯して干してあるおばあさんの洋服から不思議なかおりがたちのぼってきて、台所のにおいを変えてしまいました。ほのかにオレンジマーマレードのかおりがしていた部屋の中は今、松林とせんじぐすりのようなにおいでいっぱいです」っていうところとかね。

モモンガ:私もその場面、うまいなーと思った! 描写が具体的で、イメージがくっきりと浮かんでくるよね。

ウンポコ:説明文と描写文の違いなんだよ。上手な人が書くと、描写文になるんだ。それから、魔女が泣くシーン。ネコのハラムとスカラムばあさんが再会するシーンで、「涙を流す」とは書いていなくて、「チリンチリンと音をたて、床の上にころがっていきます」となっているんだけどさ、本当にうまいよね。大体ぼくは、書き出しがつまんないと、読みたくないタチなの。この作品は、書き出しもイイね! 何か起こりそうだぞって予兆を感じさせる。非常に高く評価をしたい。パチパチパチ(拍手)。

オカリナ:なんだか今日は冴えてるわね。

ウンポコ:2か月休んじゃったから、リキはいってる。今日の俺は、ひとあじちがうぜ。

(2000年4月の「子どもの本で言いたい放題」記録)


おつきさまはきっと

ケイト・バンクス文 ゲオルク・ハレンスレーベン絵『おつきさまはきっと』さくまゆみこ訳
『おつきさまはきっと』
ゲオルク・ハレンスレーベン絵 ケイト・バンクス文 さくまゆみこ訳
講談社
2000.03

おやすみなさいの絵本。ホーンブックの書評でピンときて取り寄せてもらいました。その後ホーンブックで最優秀絵本に選ばれたので、わたしの目も節穴ではなかったと自慢してます。窓→お月様→世界という広がりがあります。力強い絵を描くこの画家には注目!
(編集:鳴瀬奈美子さん)

*「ニューヨークタイムズ」最優秀絵本選定、ホーンブック賞受賞


2000年03月 テーマ:このごろ気になる本

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『2000年03月 テーマ:このごろ気になる本』
日付 2000年3月23日
参加者 愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、オカリナ
テーマ このごろ気になる本

読んだ本:

シンシア・ライラント『人魚の島で』
『人魚の島で』
原題:THE ISLANDER by Cynthia Reliant, 1999(アメリカ)
シンシア・ライラント/作 竹下文子/訳 ささめやゆき/絵
偕成社
1999.07

<版元語録>ぼくが人魚に会ったのは子どものときだ。浜べでひろった人魚のくしを手に待っていると、人魚はすぐそこまで近づいてきて、ぼくの名を呼んだ。「ダニエル。」島に暮らす孤独な少年は、人魚からもらった古い小さな鍵に守られて、大人になっていく。ニューベリー賞作家がおくる海の物語。
高楼方子『十一月の扉』
『十一月の扉』
高楼方子/作 
リブリオ出版
1999.09

<版元語録>北の街。季節は十一月。「十一月荘」で暮らし始めた爽子の二か月間を、「十一月荘」を取り巻く人々とのふれあいと、淡い恋を通して丹念に描くビルドゥングスロマン。一冊の魅力的なノートを手に入れた爽子は、その日々のなかで、「十一月荘」の人々に想を得た、『ドードー森の物語』を書き上げる。物語のなかのもう一つの物語―。それらの響きあいのなかで展開する、豊かな日常の世界。高楼方子長編読み物第三弾。小学校高学年から大人まで。 *産経児童出版文化賞フジテレビ賞
ロジャー・J・グリーン『スロットルペニー殺人事件』
『スロットルペニー殺人事件』
原題:THE THROTTLEPENNY MURDER by Roger J. Green, 1989(イギリス)
ロジャー・J.グリーン/著 宮下嶺夫/訳
評論社
1998.03

<版元語録>1885年のイギリス、雇主を殺した罪で13歳の少女ジェニーは死刑を宣告される。同級生の少年への愛だけを支えにした彼女は、有罪なのか。死刑の恐怖、罪の意味とは何かを問いかける、力強い物語。
阿川佐和子『ウメ子』
『ウメ子』
阿川佐和子/著
小学館
1999.01

*坪田譲治賞 <版元語録>彼女は変わっている、普通の子とちょっと違う。初めて会った日からそう思っていた。そんなウメ子の強烈な個性に惹かれていく、わたし…。少女のさわやかな友情と冒険をノスタルジックに描く。著者が自らの幼年時代の想いを重ねて綴る、初の小説。

(さらに…)

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ウメ子

阿川佐和子『ウメ子』
『ウメ子』
阿川佐和子/著
小学館
1999.01

ねねこ:のどかな幼年時代を回顧的に描くってジャンル、あるよねえ。今村葦子の『かがりちゃん』(講談社)とかさ。そういうものをだれに向けて書き、そしてだれに読ませるべきか悩むなあ。これもその一種だと思うけど、後半がおもしろくない。予定調和的で。今年の坪田譲治賞がこの作品かと思うとね……大人と子どもとが共有できる、という選考基準の坪田賞も苦しんでるんだなと思う。

ウォンバット:おもしろい話だけど、大人向けだね。ちょっとうすっぺらで非現実的。だって幼稚園児が、こんな手紙書ける? ひとりで1時間も読書できる?

ひるね:たしかに幼稚園の子どもでは、ありえないわね。手紙や本もそうだけど、なんといっても、意識の持続が小学校3〜4年生のものでしょう、これは。不自然さを感じる。

ウォンバット:そうね。能力は大人のまま回顧して、幼稚園児を演じてるって感じ。物足りなさは否めない。でも阿川佐和子って2世だし、タレントみたいな人かと思ってたんだけど、案外ちゃんとしてるから、見直しちゃった。「ちびまる子ちゃん」みたいなおもしろさがある。きょうだいの関係なんて、とてもよく描けていると思う。手を引っ張ってもらったあとは、お返しに水くんであげたり、背中をさすってあげたり、やさしくしてあげないといけない、とかね。こういうきょうだいの機微ってあるよね。でも、ちょっと変わった転入生であるウメ子が、サーカスの家の子だったって設定は古い。昔「悪いことすると、サーカスに売られちゃうよ」っていわれてた世代の人らしい設定。

ひるね:ノスタルジーを描きたいっていうのは、わかるんだけど。同世代の人のノスタルジーをそそる本なんだろうね。

ねねこ:でも、時代がちょっとよくわからない。テレビはあんまり出てこないでしょ。紙芝居がもう珍しくなってる時代なのに。わざとぼかしてるのかしら。ノスタルジー本はノスタルジー本として、成立する意味はあるのかな?

ひるね:読みたいって人がいて売れるから、いいんじゃないの?

ねねこ:これは、やっぱり阿川佐和子で成立してる本なんだろうね。無名の人がこれを書いても、本にはならないでしょ。

ひるね:まあ、いい気持ちで読めるけど。群ようこの『膝小僧の神様』(新潮社)なんかは、もっとぴりっとしてたわね。『ウメ子』は、書きたいものがあって書いたって感じがしない。「これを書きたいのよ!」ってものが、感じられないのよ。ウメ子のお父さんが家を出た理由なんかも、うそっぽい。大人の体臭が感じられない。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


スロットルペニー殺人事件

ロジャー・J・グリーン『スロットルペニー殺人事件』
『スロットルペニー殺人事件』
ロジャー・J.グリーン/著 宮下嶺夫/訳
評論社
1998.03

ウォンバット:私はものすごく怖かった。前半は表現がくどくどしてて、盛り上げようとしすぎの観アリだけど、でもひたひたと迫りくる恐怖を感じた。ジェシーがスロットルペニーの罪をノートに書きつけているところ、彼女はそうしなくては耐えられないくらい苛酷な毎日を送ってたんだと思うんだけど、私も同じような秘密のノートを書いているから、どうも他人とは思えなくて、もうジェシーの気持ちになりきって読んだのね。「罪の本」は、私にとっては、このうえなく恐ろしい小道具。ふとんの中で本を読むのが私の至福の時間なんだけど、この本を眠る前に読んでたら、怖い夢を見てしまった。それからは、電車の中で読むようにしたの。

ひるね:私も、読んだあと怖い夢をみた! 自分が殺人を犯す夢、昔からよくみるんだけど……。

ウォンバット:犯人は、エマ・ブリッドンが手を洗うところですぐわかったから、あとはもうジョンが助けに来るのか来ないのかだけが心配で……。ジェシーへの愛というより「良心が勝つのか」「自分かわいさが勝つのか」ということだと思うんだけど、もうどきどきしちゃった。

愁童:重苦しい雰囲気がよく描けている。重苦しい時代の雰囲気というのかな。登場人物も、くどいくらいにしっかり描きこんでいるし。謎ときは、途中でわかっちゃうんだけど、犯人を推理することに主眼をおいてるわけではないんだよね。

オカリナ:この話は犯人捜しではなくて、サスペンスなのね。

愁童:今のイギリスにも残ってる労働者階級と上流階級の差を単純化して、わかりやすくしてる。よく考えられていると思うね。でもさ、これハンサム・ジャックも冤罪だったわけでしょ。走っていった牧師も刑の執行には間に合わなくて、結局証拠の手紙を破るんだけど、読者はこれをどう解釈するか、問われてると思う。まあジェシーが助かったからいいような気もして、破って捨てられちゃっても、ぼくはそんなにくやしくなかったんだけどさ。読者に対する挑戦かな。死刑廃止を訴えているとも、とれるよね。

オカリナ:この作家は死刑反対を訴えてるかどうかは定かでないけど、死刑に疑いをもってることは、たしかだよね。

愁童:それとも、人が人を裁くのは、簡単なことではないという暗喩なのか。

オカリナ:現世で人が一人もう死んでるわけだから、それで十分だっていうことじゃない? 牧師だからさ。

ウォンバット:死刑になったのは一人だけど、みんな罪の意識に苛まれて苦しむでしょ。ジェシーもジョンもエマ・ブリッドンも。ハンサム・ジャックだって酔って暴れたりしてて、もし死刑にならなかったとしても、この先以前のように戻れるとは思えない。だからみんな責めは負ってるんじゃない?

ひるね:みんな気の毒よね、たいへんな思いして。スロットルペニーは、最初に死んじゃって一番楽だったかも。

愁童:考えはじめると、アタマが痛くなるよ。でもさ、真犯人がわかるようにちゃんと計算されてるところがすごいよね。

ひるね:少年少女も容赦なく死刑にされる19世紀ならではの物語。とてもおもしろかった! 設定も登場人物もしっかりできてる。私は、死刑廃止を訴えたのではなくて、純粋にエンターテイメントとして書いたんだと思うな。でも、これだけのものを読めるなんて、イギリスの子はいいわね。でもどうして訳文を「ですます調」にしたのかしら。読んでて、かったるかった。原文は19世紀調の迫力あるものだったでしょうに。基本的に小学校高学年以上のものは、「ですます調」でないほうが、いいと思う。途中から自分で「だ調」に翻訳しながら読むようにしたら、すごくよくなった。The Times Educational Supplementには「時代の雰囲気をよく伝えている。働いて働いて、それでも貧しさや苦しみから逃れられないという当時の子どもたちの暮らしを、今の子どもたちも知ることができる。この本の教訓は『大人は頼りにならない』ということ。11〜15歳くらいの子どもたちの共感を得ることができるだろう」と書いてある。それにしても、冤罪で死刑になるジャックは気の毒ね。後味が悪い。最後は子どもが助かるっていうところが、やっぱり児童文学。

オカリナ:この本、表紙がこわい。この表紙では自分から手にとることはなかったと思う。こういう機会でもなければ読まなかった本だけど、読んで本当によかった。なんといっても、人物像がしっかり描けている。私は、上流階級と労働者階級という区別とは思わなかったんだけど。上流階級の中にもいろんな人がいて、たとえば自分の名誉のために裁判を利用しようとする人なんかも出てくるでしょ。そういう個々をきちんと描いていると思うから。「良心がささやく」というのは、宗教がある国だからこそよね。日本では成立しにくいテーマ。ジャックの死も、逆にリアル。あの看守のミセス・サッグも、すごいよね。「たぶん、いまから百年後、1985年には、少女たちは、少年たちの言うことを、いまほどは信用しなくなっているだろう・・・」って、ジョンをにらみつけたりしてるの。『十一月の扉』とは、なんたる違い! 百年後の物語であるはずの『十一月の扉』の女の子は、いまだに夢のような疑似恋愛なんてしてるんだもん。人物の描き方の対比という意味で、『十一月の扉』と一緒に読む価値あったね。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


十一月の扉

高楼方子『十一月の扉』
『十一月の扉』
高楼方子/作 
リブリオ出版
1999.09

ひるね:これは、読むのに苦労した。後半は、もうとばしとばし。英国ファンタジー好きというか・・・。そういう人向けなのかしらね。需要があって供給があるわけだから、読む人がいるんだったらいいとも思うけど、ときどき文章がわからなくなるところがあるの。土曜日に始まったのに、知らないあいだに日曜日になっちゃってたり。文章を、もっと磨いてほしい。やさしい言葉とむずかしい言葉が無造作に出てくるんだもの。絵本や幼年童話はいいものを書いている作家なのに、長編となると、またちがうんだなと思ったわ。それに、登場人物がどうも好きになれなかったの。女の人ばかりなんだけど、みんな似てるし。描きわけようとしてるのは、わかるんだけどね。とくに嫌だったのは、主人公のお母さん。働きもせず、近所づきあいもせず、ビデオ三昧していたくせに、引っ越して、ちょっとインテリの女性と知り合ったとたんに豹変したりして、ヤな女! インターネットで、誰かが「10代の女の子が、大人の女の人もいろいろ考えているのを知って成長していく話」って書いているのを見たけど、「どこが?」と思っちゃった。

ねねこ:登場人物に、温度が感じられないのよね。女たちにリアリティがないの。頭の中で状況だけつくってて、生きている人たちの体温が伝わってこない。読んでいくうちに、だんだん嫌な気分になってきちゃった。主人公の爽子も気持ち悪い。15歳なのに、おばさんたちの自己肯定的な井戸端会議も嫌にならないなんてヘンじゃない? 気色わるいよ。どうしてみんなこの作品を褒めちぎるんだろ? 力作とかいって。

ひるね:力作っていうのは、厚さのことじゃないの?

ねねこ:たしかにボリュームはあるけど……(厚さ2.5センチ、336ページ)。爽子って、すごーく作りあげたいい子、数十年前の少女って感じ。

愁童:困りますね、こういう作品は。日本の児童文学の衰退の象徴! 「11月の扉をあけると、そこには荒涼たる児童文学の冬の世界がひろがっていた」ってなところかな。どうして、文章がうまいとは思えないのに、評判いいのかねえ。「何ということもない素振りで、電話のお礼を閑さんにのべて部屋に戻った爽子は」なんて出てくるんだけど、お礼をのべるって、何ということもない素振りでできるの?なんて、毒舌吐きたくなる。それに、爽子は中学生なのに「お礼をのべる」なんて表現されちゃっていいの?「こうべをたれる」とかさ、古い言葉が突然出てきたりして、新しい言葉と古い言葉が混在していて、バランスがとれていない。どうもこの作者、さわやかな人じゃなさそうな感じ。「学校をさぼったら、いい点をとっても、いい成績はもらえない」なんて発言、うちの近所のヤなおばさん連中みたいな物言い。日本語の問題点も多々あるよ。「ちょっと憮然とせずにはいられない」なんて出てくるんだけど、「憮然とする」って言葉、おわかりいただいてないんじゃない? それに「解放されてるなあ」なんて言うか? 「なにものかがやってくる」って「なにもの」って見てんじゃねーか? とか。耿介がノートを見つけてくれたいきさつだって、妙だよ。お母さんに自転車の乗り方を教えるなんて、健全な中学生男子のやることかあ? まったくシュークリームみたいな、つくりものなんだよ。もう気持ち悪い。じんましんが出るほど、気持ち悪い。

ひるね:地に足がついていないとか、体温が感じられないと批判されるのを予想しているのか、言い訳してるところもいっぱい出てくるわね。朝ごはんの場面とか。「今日は洋風だけど、和風のときもあるのよ」、なんて。「十一月の扉の向こうでは、みんな品よくみごとにふるまいました」となってるけど、私、実は登場人物がみんな死人でしたっていうオチかと思いながら読んでいたわ。

ウォンバット:「月刊こどもの本」(2000年4月号、児童図書出版協会)の「私の新刊」のコーナーで、高楼さんがこの本について語っているんだけど、なんだか言い訳と開き直りに思えちゃって。「結局、これは三十年前の中学生の物語だ。だが、マスコミがどんなに中学生の変貌ぶりを叫ぼうとも、こういう少女は常にいるものなのさとうそぶきながら、今の物語として書いてみた」なんて。

ねねこ:『時計坂の家』(リブリオ出版)のほうが、作家としての一所懸命さが感じられた。こういう作品が評判になるって、よくないよね。ちゃんと批評もしないと、作家のためにもならないんじゃないかな。

愁童:幸せですよね。文章にはひっかかるけど、お話はつまずくところが全然なくて、すいすい進んじゃって。

ウォンバット:私は乙女チック好きから抜け出せない質だから、すてきな洋館とかね、設定はいいなと思うところが、あったの。しかーし! 中に出てくるお話は許せん! ないほうがよかったと思う。だってまるっきり真似でしょう。『たのしい川べ』(ケネス・グレーアム著、岩波書店)や『クマのプーさん』(A.A.ミルン著、岩波書店)の影響を受けているというのはいいけれど、そこで自分を瀘過して、新しい世界を構築しなくちゃだめだと思う。真似だったら、オリジナルを読んだほうがいいでしょ。とくにロビンソンの手紙は、ひどい。「ち」と「さ」をまちがえてる手紙なんだけど、これ「ぼくてす。こぷたてす」のパロディでしょ。これは「プーさん」に対する冒涜だわ。このあたりで、もう心底嫌になって「ドードー森の話」は飛ばして読んでしまった。

オカリナ:高楼さんの作品は好きなのも結構あるし、この作品も世の評判はとてもいいんですけど、私は楽しめませんでした。不幸なというか、作者にとって不本意な形で出版されちゃった本なのかな。改行の処理もばらばらだったりするから、編集の人がちゃんと見たりしてないのかも。「週刊新刊全点案内」(1998.1.6日号〜1999.3.30日号、図書館流通センター)に連載していたのをまとめたものなんでしょ。毎回締切に追われて書いていて、手を入れるひまもなく1冊にされちゃったとか。この「ドードー森の話」は自分が小さい頃に書いた話なのかしら? もしそうなら、高楼さんのファンの人には、ああ、この作家は、こういうところからスタートしたのかっていう興味はわくと思うんだけど、肝腎の物語自体はあまりおもしろくない。もう一つ気になったのは、恋愛の部分なんだけど、耿介との疑似恋愛はまったく外側のかっこよさを問題にしてるだけ。『スロットルペニー殺人事件』の舞台になっている100年前の時代ならいざ知らず、こんなんでいいのかな。

ねねこ:この作品自体が、高楼さんにとっての「ドードー森ノート」なんじゃないの?

オカリナ:作家が「人間」と向き合ってないように思います。耿介にかぎらず、登場人物みんなに言えることだけど、おたがいのつき合い方が表面的なのね。「共生」を描くというのなら『レモネードを作ろう』(バージニア・ユウワー・ウルフ著 こだまともこ訳 徳間書店)みたいに、ちゃんと衝突して、それからつき合い方を探っていったりするところを書いてほしかった。

ひるね:ファンのためだけに書いてるって感じ。

ねねこ:「品がいい」をやたら強調してるのがハナにつく。

オカリナ&ひるね:登場人物が生きている人として感じられない。死んだ人はみんないい人っていうけど、死人じゃないかぎり、こんなのありえないな!

愁童:大人が、いかにこの世代、中学生に無関心かってことだよ。

オカリナ:現実は、もっともっとキビシイものなのに。

愁童:『ビート・キッズ』(風野潮著、講談社)のほうがずっと健康的。

ねねこ:『ことしの秋』(伊沢由美子著、講談社)の対極かも。

ひるね:でも、『十一月の扉』のほうが好きっていう子もきっといるわよ。大人の本なら葛藤がありそうな設定なのに、なあんにもないのよね。

ねねこ:理想の世界を描いたんじゃないの? 葛藤の部分は何ひとつ描かれてないんだけど、葛藤がなければ成長もないよ。

ひるね:キロコちゃんの話もどうかと思ったけど。どっちもリアリティがない。絵本には、けっこういいものがあるのにね。

オカリナ:やっぱり、ぶつかりあいを描いてこそ、作家だと思うけどな。

ねねこ:『ココの詩』(リブリオ出版)のときも思ったことだけど、形でいく人なのかな。

愁童:このごろの児童文学作家は、趣味的な世界に走る人が多いね。梨木香歩とかさ。

ねねこ:しかも、ちょっとかたよってる。柏葉幸子は「プーさん」や「マザーグース」や宮沢賢治や、いろんなものを読んでいて、それが自分の土着のものとうまくミックスされて、独自の雰囲気をかもし出していると思うけど。

愁童:そんな中で、森絵都は今の時代を意識してて、そこでチャレンジしていこうという心意気が感じられる。ちょっと違うよ。

ひるね:この作品を読んで「児童文学とはこういうものか」と思われたら、嫌だな。

愁童:登場人物をもっときちんと描いてほしい。

オカリナ:おままごとの世界みたい。でも、そこがいいんでしょうか。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


人魚の島で

シンシア・ライラント『人魚の島で』
『人魚の島で』
シンシア・ライラント/作 竹下文子/訳 ささめやゆき/絵
偕成社
1999.07

ひるね:美しい本ね。さびしい感じがするけど、読みおわったあとに幸福感がある。同じ著者の『ヴァン・ゴッホ・カフェ』(中村妙子訳 偕成社)も、お天気雨のような明るいさびしさが感じられて、幻想と現実のはざまにあるようなところが好きだった。この作品は訳も、すばらしいわね。竹下文子さんを訳者に選んだのは、大成功だと思う。「ライラントは、このごろ神の世界に近づいている」とか。最近の絵本も、天国にいく前にみんなが暮らす村を描いた話らしいけど、信仰が一種の明るさになってるのかしら。でも、私としてはあんまり神さまに近づいてほしくない。ただ明るいだけになっちゃったら、心配。

ねねこ:静かな時の流れを感じるいい文章よね。小品という感じで・・・ううん、悪くはないんだけど、すごーく惹かれるということもなくって。あんまり深読みしなくていい物語なのかな。ね、この話はつまるところ、アンナがダニエルを守ったってことなのかしら?

ひるね:考え方によっては、ダニエルが島から出ていかないようにしたっていうことにもなるわね。

ねねこ:新人賞の応募作品なんかに、こういう話ってよくあるよね。おじいさんと孫息子の二人暮らしで島に住んでて・・・とかね。大学生とか20代の女性が書くものに多いパターン。

ひるね:小道具に鍵が出てくるのとか、ひとつまちがえば陳腐になりそうだけど、そうなってないところが、いいわね。

オカリナ:全体がありそうなお話になってて、最後のところ、箱づめの犬が出てくるところだけ現実にはありえない出来事になってるのよね。いろいろ象徴的・寓意的に解釈できるんだろうけど、分析しはじめるとなんだかつまんないね。そのままにしといたほうがいい。

ねねこ:分析しないで、ただ味わっておけばいいんじゃない。安房直子の世界ではなくて、あまんきみこ的世界だと思う。感想が言いにくい。

愁童:好みの物語のはずなんだけど、あんまり心に残らなかった。なんでだろ? 文章が悪いわけじゃないけど、文脈から訴えるパワーが不足してるんじゃないかと考えたんだけど。翻訳がいまいちしっくりいってないんじゃないだろうか。だって、日本語がちょっとわかりにくいよね。「人魚の名前は知っているけれど、その謎は謎のままだろう」というとことか、意味がよくわかんない。雰囲気はいいんだけど、きれいなだけっていうかさ。アタマでは俺向きの話だぞ、それにウンポコさんも喜んだだろうななんて思ったんだけどさ……。

ひるね:愁童さんが求める水準まで到達してなかったということかしら?

ウォンバット:私は、こういうの好き。淡々としててロマンチックで、不思議な出来事がおこる物語。あんまり強烈な印象はないんだけど、ぽわっとあったかい感じ。『自分にあてた手紙』(フローレンス・セイヴォス著 末松氷海子訳 偕成社)みたい。小道具が素敵。人魚のくしとか、おでこに白いダイヤのもようがついたラッコとか俗っぽくなりそうだけど、そうならないようにうまくできてる。絵も好き。「人魚の名前は知ってるけど、謎は謎のまま」というあたりも、別に気にならなかった。たしかに日本語として、わからないといえば、わからないんだけど。この物語全体が、ダニエル自身本当にあったことなのかなと思うような夢みたいな出来事だし、どうして人魚が自分の前にあらわれたのかは、本当のところわからないわけだから、「謎のまま」でいいんじゃない? それから、嵐のあとたくさんの死を目撃して、その3年前の自分の両親の死をうけいれられるようになるというのも、納得できる。

オカリナ:おじいさんも死んじゃったあと、ふだんつきあいのない村人たちが、いざとなったら助けてくれるところとか、あったかいよね。

ねねこ:そういえば、神の世界に近づいてるって言ってたけど、海も空も動物たちもみんな生命の循環を感じさせるものだね。

オカリナ:ところで、この本は、一体だれが読むんだろうね。読者対象は、何歳くらいなんだろう? だって小学生から読めるようにつくってるけど、小学生や中学生が対象ではないように思う。若い女の人や、おじさんたちが読むのかしら。ひとつの雰囲気を提出することを目的としてるのなら、それはうまくいってると思う。寓話みたいなことだと思うんだけど、淡々とロマンチックな世界そのものを描いているのよね。普通なら、まるっきり孤独な人生を送るはずだった少年の人生の扉が、広い世界にひらかれていくというところは、とてもおもしろいと思ったんだけど。

愁童:一つの雰囲気をとらえるのが目的というのであれば、これでいいと思うよ。

ねねこ:新人は、おおむね多弁すぎるのね。これだけささっと書けば、ボロはでない。

オカリナ:甘いだけじゃなくて、その先に何かあるんじゃないかと思うんだけど、書いてないからね。

ねねこ:立原えりかの世界を思い出した。彼女の世界にも、ちょっとわからないところがあるから。

ひるね:うまいといえば、うまい。

オカリナ:だけど、愁童さんが「もどかしい」というのも、わかる。

愁童:イメージが、いまひとつわいてこないんだよ。

ねねこ:挿絵はなくてもよかったんじゃない? ささめやさんの良さがあまり出てなかった。全体に軽すぎて。

オカリナ:愁童さんを「大人」としたら、大人にとってはこの絵はじゃまになるよね。

愁童:この作品を読んで、「童話とはこういうものだ」と思われたら、困るなあ。

 

(2000年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


サリーとライオン

クレア・ターレー・ニューベリー『サリーとライオン』さくまゆみこ訳
『サリーとライオン』
クレア・ターレー・ニューベリー作 さくまゆみこ訳
光村教育図書
2000.02

アメリカの絵本。小さな女の子のサリーの親友は、なんと本物のライオンのハーバート! でも、ハーバートはやがて大きくなってみんなが怖がるようになり、山の牧場に連れて行かれてしまいます。ハーバートとサリーの友情の深さを思い知った両親の決心がすてきです。ニューベリーのデビュー作。90年近くも前の作品とは思えない斬新なデザインの絵が魅力です。よけいな情報かもしれませんが、ニューベリー賞のジョン・ニューベリーはイギリス人で18世紀の人。こっちのニューベリーは20世紀のアメリカ女性で「猫の画家」として有名になった人です。
(装丁:桂川潤さん 編集:轟雅彦さん 鈴木真紀さん)


おおきなのはら

ジョン・ラングスタッフ文 ロジャンコフスキー絵『おおきなのはら』さくまゆみこ訳
『おおきなのはら』
ラングスタッフ文 ロジャンコフスキー絵 さくまゆみこ訳
光村教育図書
2000.02

アメリカの絵本。野原にいるいろいろな動物たちが登場してきます。数の絵本にもなっています。光村さんで絵本を出し始めるというので、いろいろ相談した中から生まれてきた絵本です。オリジナル版は1957年。2色刷の見開きと4色刷の見開きが交互にあらわれます。ロジャンコフスキーの絵がすばらしい! 動物や鳥のお母さんと子どものやりとりが楽しいし、見返しがまたとってもいいですよ。
(装丁:桂川潤さん 編集:轟雅彦さん 鈴木真紀さん)


2000年02月 テーマ:話題の超大作ファンタジー2作+α

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『2000年02月 テーマ:話題の超大作ファンタジー2作+α』
日付 2000年2月24日
参加者 愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、オカリナ、裕、
モモンガ、パブロ
テーマ 話題の超大作ファンタジー2作+α

読んだ本:

ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』
『ハリー・ポッターと賢者の石』
原題:HARRY POTTER AND THE PHILOSOPHER'S STONE by J.K. Rowling, 1997(イギリス)
J.K.ローリング/著 松岡佑子/訳 ダン・シュレンジャー/絵
静山社
1999.12

<版元語録>9と3/4番線から魔法学校行きの汽車がでる。ハリーをまちうけていたのは夢と冒険,友情,そして生い立ちをめぐるミステリー。
フィリップ・プルマン『黄金の羅針盤』
『黄金の羅針盤』 ライラの冒険シリーズ1

原題:GOLDEN COMPASS by Philip Pullman, 1996(イギリス)
フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳 エリック・ローマン/絵
新潮社
1999.11

<版元語録>両親を事故で亡くし、オックスフォード大学寮に暮らすライラは、明るく活発な少女。連れ去られた友だちと、監禁されてしまった北極探検家のおじを救うべく、ライラは黄金の羅針盤をもって北極に旅立つ…。カーネギー賞受賞作。 *ガーディアン賞も受賞
ジョアン・マニュエル・ジズベルト『イスカンダルと伝説の庭園』
『イスカンダルと伝説の庭園』
原題:El arquitecto y el emperador de Arabia by Joan Manuel Gisbert(スペイン)
ジョアン・マヌエル・ジズベルト/著 アルベルト・ウルディアレス/挿絵 宇野和美/訳
徳間書店
1999.12

<版元語録>「贅の限りを尽くし、この世の美の粋を集めた庭をつくってほしい」という王の依頼を受けた、天才建築師イスカンダル。しかし、力のすべてをそそぎこんだ庭園が完成したとき、王とイスカンダルの間に起こったことは…? 権力では縛ることのできない魂の自由と想像力の素晴らしさを描いた、スペイン生まれの美しいファンタジー。
風野潮『ビート・キッズ2』
『ビート・キッズII』
風野潮/著
講談社
1999.10

<版元語録>野間児童文芸新人賞,椋鳩十児童文学賞に輝く「ビート・キッズ」続編。高校2年生になった横山英二を描く「青春ロック編」です。 *講談社児童文学新人賞も受賞

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ビート・キッズII

風野潮『ビート・キッズ2』
『ビート・キッズII』
風野潮/著
講談社
1999.10

ひるね:達者な大阪弁の作品よね。登場人物のキャラクターがステレオタイプで「じゃりんこチエ」と同じ世界。とくに、お母さんは美しくてか弱くて、すぐ病気になっちゃうんだけど、女性の作家がどうしてこういう母親を描くのかしら? 七生は、養子だからっていうことで悩むんだけど、これって一種の差別だと思う。「養子である」という事実を必要以上に深刻に描くのは、どうも気にいらないのよ。それから、音楽をテーマにしてるんだけど、音楽の楽しさが伝わってこなかった。彼らが一所懸命になっている、ビートの追求のおもしろさが伝わってこないの。この作品がもしも大阪弁じゃなくて東京弁で描かれていたら、つまらなくてとても読めなかったと思うな。

オカリナ:私、前回欠席だったからバツとして、日本の作品を決めなさいっていうことになって、この本は議論を呼ぶ本だからおもしろいかなと思って選びました。『ビート・キッズⅡ』ではいろんな賞をとってて(第38回講談社児童文学新人賞、第36回野間児童文芸新人賞、第9回椋鳩十児童文学賞を受賞)賛否両論ある本だから。今回図書館で借りようとしたら、区の全館で貸出中だったの。そんなに人気があるのかとびっくりしちゃった。大阪弁がおもしろくて、ノリでわーっと読めた。『ハリー・ポッター』と同じで、登場人物はステレオタイプ。七生って、絶対いるはずないキャラクターなんだけど、そういうことを深く考えないで、決まりごとのなかにどっぷりつかって進んでいけばついていける。でもさ、この年齢の男の子がジャズバンドとブラバンとを両方好きでやるなんて、私のまわりを見てるかぎりではありっこないと思う。そこはリアリティがないような気がしたな。

ねねこ:本を読まない子に本を読ませるための1冊としては、いいと思うんだけど・・・。今、評価が、混乱をきわめる代表的な本。この本を「新しい」とか「おもしろい」っていう人は、かなり古い人だとは思う。おもしろさのかなりの部分が大阪弁に頼ってる。べつに、それが悪いことではないし、それも一つの芸だとは思うけど。ただ、生活苦のために高校をやめるなんて、今どきピンとこないし、CDも知らない中学生がいるのかなとか、ちょっと不自然な設定はあった。だけど、本を読んだことのない中学生からファンレターがびしびし届くらしいよ。

オカリナ:中学生が手にとりやすいように、装丁とか本づくりに工夫があって、定価も安いし(1100円)、『ハリー・ポッター』よりずっと良心的ね。

ねねこ:たしかに、そういう努力はしてるけど、それだけでいいのかって気持ちもある。それだけじゃなく、漫画にはできないことをやってやろうじゃないか、ぐらいの意気込みはほしいよね。こういう本が売れると、自分がおもしろいと思うものをつくっても売れないんじゃないかって、少し心配になってきちゃった。

ウォンバット:ツッコミどころが多すぎる作品! あとがきによると作者は漫画も描いてたそうで、『ビート・キッズⅡ』の扉の絵もみずから描いてるんだけど、この顔まるっきり吉田秋生のマネ。それで、主人公の名前が英二ときたら、もう『バナナフィッシュ』でしょ。とすると、七生はアッシュそのものやん。天才で美形で、冷酷なところがあって、家庭環境が複雑で、人に言いたくないダークな出生で……。初めにそう思っちゃったもんだから、もう意地悪な気持ちから挽回できなかった。この作品は、漫画のセリフからト書きから絵まで、全部を本の体裁で文章化して、物語のような形にしてるだけなんだよね。だから物語の楽しみである、「心を働かせる」スキってもんが、全然ないの。全部が全部この語り口で埋めつくされてて、空白がない。漫画だったら、きっとこの作品も嫌じゃないと思うんだけどな。文学に夢をもちすぎてるのかなあ、私。この文体だから、関東人にはなじみにくいってこともあるんだろうけど。こーゆーイントネーションで読まないと、ついていくのがたいへんだし、それがスムーズにできない私は、疎外感を感じてしまった。

モモンガ:私も、大阪弁って一字一句一所懸命読まないと入ってこないから、すごく疲れた。でも、日本の創作って最近はヒネこびたものが多い中で、明るくて元気の出る作品だと思った。変なうっとうしさがないのが、この本の特徴。でも、やっぱり登場人物はステレオタイプだし、中学生に薦めたときに、「おもしろかった!」とは言われるだろうけど、それ以上の感想は聞けないと思う。英二が語るという形式にしたことで、必要なこともむだなことも、べらべらべらべらしゃべってるって感じなんだけど、英二が憎めないキャラクターだから、「マ、いっか」と思わせられちゃうところが、成功のカギだと思う。ストーリーも、いきなり浪速節になったりするんだけど、それもすべてキャラで許せちゃう。

愁童:ケチをつけはじめればいろいろあるけど、最終的に今の子どもたちにはいい作品。標準語だったら、許せないと思うけど。ブラバンとかクラブ活動で癒されるってこともあるだろうし、一つの完結した楽しい世界を楽しめばいいんじゃない? 本好きになるためにはこういうプロセスも必要だと思って、まあ、こまかいこといわずに、楽しんでよ。

(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


イスカンダルと伝説の庭園

ジョアン・マニュエル・ジズベルト『イスカンダルと伝説の庭園』
『イスカンダルと伝説の庭園』
ジョアン・マヌエル・ジズベルト/著 アルベルト・ウルディアレス/挿絵 宇野和美/訳
徳間書店
1999.12

モモンガ:さっと読めておもしろかった。コメントするような要素はあんまりないんだけど。アラビア風の設定とか、異国情緒たっぷりのところが魅力的。すばらしいものをつくっても、上には上があったっていうのがいいよね。同じように芸術の世界を描いたロベルト・ピウミーニの『光草(ストラリスコ)』(長野徹訳 小峰書店)を思い出した。権力に対する飽くなき欲望もよく描かれている。大人があとから意味をくっつける必要はない作品。

ウォンバット:私は、絢爛豪華な庭のようすに、宝箱をみせられたような、美しいものを見せてもらったっていう喜びが感じられて、好きな作品でした。今回の4冊は、私にとって読むこと自体が修行のような苦しい本が多かったから、この本で、久しぶりにわくわくする読書の楽しみを思い出したわ。

:日本語版は、読者の対象年齢を低く設定してるでしょ。本のつくりが。この本のテーマは、飽くなき芸術への探求心が最後には勝つっていう美学だと思うんだけど、そういことを小学生に理解できるかっていうことに疑問を感じました。作者自身はどういうことを意図したんだろう? 美か権力か、どちらをとることが人間にとって幸せなんだろうね。ジズベルトの作品は『アドリア海の奇跡』(宇野和美訳 徳間書店)も読んだけど、おもしろかった。ちょっと難をあげれば、私にはこの庭の良さがわからなかった。絢爛豪華すぎて、すばらしいものがごちゃごちゃとありすぎちゃって。秘密の画策にしても、種明かしされたら、ガクッと拍子ぬけしちゃう。それから翻訳の問題だけど、希代の詩人が自分のことを「ぼく」っていうのもそぐわない感じ。

ウォンバット:私は、古風な表現もおごそかな感じを加えるスパイスで、わざと使ってるのかと思ったから、別に嫌じゃなかったな。

:まあ、徳間書店らしい本よね。あとフェミニストの立場から言わせてもらえば、女をとっかえひっかえ慰みものにするなんて、「それはないでしょう」と言いたい。

ねねこ:私は、寓話的な意味で、おもしろかった。美味しい一品料理をいただいたような、美しい手工芸品のようなうれしさがある。でも、この世界が理解できるのは、やっぱり中学生以上かなあ。小学生を読者対象とするのは、ちょっと無理があるように思う。それと、すばらしいといわれている詩が、私にはいいとは思えなくて、がっかりした。予言者のお伴の男の子ハシブが活きてないのは残念だったし、結末もちょっと肩すかしというか、もうひとつ工夫が足りない感じがした。庭園そのものを一つの罠にしてしまうとか、いろいろおもしろくできそうなのに惜しいね。全体としては、アラビアの雰囲気を楽しむ、よくできたファンタジーという感じ。

オカリナ:よかったんだけど、私も特別言うことないなあ。期待はずれの超大作2作と比べると、この作品は「佳作」って感じ。こうなるだろうなと思ったことが、その通りちゃんとおさまる安心感がある。あと、西洋の庭は日本の庭とは空間を生かすか、埋めるかという点で根本的にちがうのね。

ウォンバット:やっぱりガウディの国スペインの作品だから、庭のイメージがまた独特なのかも。

ひるね:私も庭の描写には、わくわくした。あれもある、これもあるって贅をつくした庭を想像したりするのって好きなの。お人形遊びのような喜びってあるじゃない。

ウォンバット:そうそう!

ひるね:この作品は、たしかに「佳作」だと思うな。一番おもしろいなと思ったのは、スペインではこういう作品を児童文学として、子どもに手渡すんだなあということ。芸術を中心にすえた作品て、児童文学にはあんまりないでしょ。芸術至上主義の国民性なのかしら。この本『光草』みたいな装丁にしたら、もっとよかったかも。

愁童:『光草』のほうが、こういう場所で話題にするにはおもしろいよね。『イスカンダルと伝説の庭園』は、定石にはまったおもしろさで、ひっかかりがないから、なにを話題にしていいか、困っちゃうな。一休さんみたいな、ひとつの知恵比べの話でしょう。おもしろいけど、とりたててわーわー議論できる本ではないと思うな。

(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


黄金の羅針盤

フィリップ・プルマン『黄金の羅針盤』
『黄金の羅針盤』 ライラの冒険シリーズ1

フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳 エリック・ローマン/絵
新潮社
1999.11

注:時々勘違いをなさって怒りのメールを下さる方があるので、バオバブより一言申し上げます。『ハリー・ポッターと賢者の石』については、「つまらなくて最後まで読めなかった」一人を除き、ほかの参加者は最後までこの本を読み通したうえで感想や意見を述べています。「続きが読みたくない」と言っている「続き」は続編のことです。

 

:この2冊(『ハリー・ポッター』と『黄金の羅針盤』)は同時期に日本で発売されたファンタジーで、どちらもいろいろな意味で話題になってる本だけど、とても対照的な作品だと思うの。だから、2冊を比較しながら話を進めることにしない?

一同:賛成!

モモンガ:私は『ハリー・ポッターと賢者の石』は、期待ほどじゃなかったな。あちこちで、絶賛する記事を見ていたから、とても楽しみにしてたんだけど。日常生活の中に魔法があるってやっぱりおもしろいことだし、ハリーが魔法学校に入学するまでのあたり、導入部分はとても魅力的だと思ったの。でも、学校生活のドタバタで、ダレちゃって。なんだか主人公に魅力がないのよね。ハリーは欲のない純粋な子で、そんな性格が鼻につくこともあって、いじめられちゃうわけだけど、そういうのって大昔からあるパターンでしょ。ハリー自身には成長もないし、深みを感じられるキャラクターじゃないし。いうなれば、アニメの世界よね。ハグリットの存在も陳腐な感じ。体が大きくてちょっと怖そうなんだけど、実は心やさしい愛すべき人物っていかにもディズニーが好きそうなキャラクター。そのままディズニー映画に出てきそう。『ハリー・ポッター』がアニメとしたら、『黄金の羅針盤』は実写 ね。物語世界に奥行きがあるの。人物の描き方にしても全然違うでしょう。主人公ライラは欠点もあるんだけど、子どもらしくて生き生きしてる。ダイモンの存在も、とてもおもしろい。ダイモンは、守護天使のような存在なんだけど、それが動物の姿をしていて子どものうちは変身できるのに、大人になると姿が定まってしまうとか、人間の性格と動物の性格は密接な関係にあって、動物の姿はその人の性格を表すことにもなるんだけど、みんなが自分の望む姿のダイモンを手にいれられるわけではないとか、とてもよくできてておもしろかった。ひとつの状況を説明する場合の文章の表現がうまいので、出来事だけを追っていくのではなく、文章の表現を楽しむ喜びがある。『黄金の羅針盤』は3部作だということだけど、ぜひ続編が読みたい作品。『ハリー・ポッター』は、もう続編を読まなくてもいいかな。

ウォンバット:私は、どっちもイマイチだった。『黄金の羅針盤』はスケールが大きくて壮大なファンタジーだなあと思うけど、物語には最後まで入りこめなかった。なんだか、ダイモンの大切さが伝わってこなくて。動物の姿をしていて変身するなんて、たしかにおもしろいんだけどねえ。全体的におどろおどろしくて、暗い雰囲気なのもあんまり好きになれなかった理由かな。寒々しいんだもん。あと、ライラは大学の寮で本当の両親を知らずに育ってて、物語が進んでいくにつれて、自分の両親が誰なのか、そして彼らがいろいろな意味で対立していることを知るわけだけど、そういうことに対する葛藤がまるっきりないのも不自然な感じ。父母とか家族から解き放たれた存在なのかもしれないけど、でも、少しは何か感じそうなもんじゃない? 『ハリー・ポッター』は、つまらなくて最後まで読めなかった。誤植も多いし、ルビの不統一とかそんなことばかり気になっちゃって。

パブロ:誤植、ホント多いよねー。読みながらイライラした。23刷なのに、全然直してないんだね。書体をいろいろ変えてるのも、うるさくて嫌だな。

ウォンバット:そうそう! なんだか、おしつけがましいの!

ひるね:編集者は、そういうことが気になるのね。ねえ、ところでどこまで読んだの?

ウォンバット:魔法学校に入学するあたりかな。それまではなんとか我慢して読んでたんだけど、やっぱり学校生活に入ったら、おもしろくなくて、力つきたって感じ。総括してみると、「久しぶりに厚い本を読んだなあ」っていう印象。だって『黄金の羅針盤』は528ページ、厚さ 3.5センチ。『ハリー・ポッター』は 464ページ、厚さ3センチよ!

:この2冊は、系統も読者層もまるっきりちがう作品よね。『ハリー・ポッター』は、さっきも話が出たけれど、アニメ的。主人公や、それをとりまく人のキャラクターの描写が弱くて、みんな、まさにディズニーキャラクター・タイプ。派手な小道具を使ってチャンバラをしてるだけで、「スターウォーズ・エピソード1」みたい。ファンタジーのおもしろさに徹しているだけ。作者が物語にふみこんでなくて、ファンタジーがアイディアの一部でしかないの。だから結果的にドタバタで終わっちゃってるんじゃない? アイディアはいいのに、残念だわ。なにか伝えたいこと・・・たとえば主人公の成長とかね、そういうことを伝えるためにファンタジーという形式を選んだというのがイギリスの伝統的なファンタジーだと思うんだけど、そういうのとは根本的に違うと思う。
いっぽう『黄金の羅針盤』は、イギリスの伝統的ファンタジーの流れをくんだ作品。伝統的なもののなかに、現代的なものをうまく織り込んでて、イギリスファンタジーの良さを感じる。プルマンは、イギリスの伝統的ファンタジーをよく理解していて、あえてそれを壊そうとしてるんだと思う。そうそう、彼は「壊す」ことを意識してるポストモダンの作家。最新情報では、この作品は3部作じゃなくて4部作にする予定らしいんだけど4作目で「壊す」ために、3作目まではしっかりした世界を構築したいって言ってた。彼の意識は児童文学作家というより、大人向けの作品を書いている作家と同じ。描写力もたしかで、ていねいに描き込んでいるから、作品が長くなるわけだわーと思うけど、オックスフォードのハイテーブルのおごそかな感じとか、とてもよく伝わってくる。そこにミステリーもうまく使っているから、読者はぐいぐいひきこまれるよね。ところで、この本の帯、強烈じゃない?

ひるね:表1側は「『指輪物語』『ナルニア国物語』『はてしない物語』に熱中したすべての人に」ってコピーが入ってて、背は「今世紀最大の冒険ファンタジー」となってるんだけど、これ、プルマンが知ったら怒っちゃうと思うわ。だって、彼ははっきり『ナルニア』を批判しているのに、その『ナルニア』といっしょにされてるなんてねえ。日本語が読めなくてよかったね。

ねねこ:私は『ハリー・ポッターと賢者の石』しか読めなかったけど、楽しめなかった。緊張感が持続していかなくて。作者が何を目的に、というか、何を解決しようとしているのか、わからなかった。思索、哲学の深みがないし、人間造形にも魅力が感じられない。この作品を楽しめる人が確実にいるらしいというのは、どういうこと? って考えこんじゃった。深いものを表現するための装置としてのファンタジーではないという気がするのよね。どこかに重いメッセージを求めてしまう、自分の読書姿勢がまちがっているのかな、なんて悩んじゃいました。柏葉幸子さんの世界と近いけど、彼女のほうが、もうちょっとこだわりのあるテーマが見え隠れしてると思う。エンターテイメントと思って割り切れれば、いいんだろうけど。それにしても、朝日新聞はどうしてあんなにほめるのかしら。何回もとりあげたりして、ちょっと異常よね。あの「天声人語」(2000.2.13)は、ひどかったね。

一同:ほんとほんと!

オカリナ:でもさ、そろそろ批判が出てくるころなんじゃないの? 『ハリー・ポッターと賢者の石』も『黄金の羅針盤』も同時期にイギリスで出版されて、どこの出版社もねらってたんだけど、版権がすごーく高くて、結局2冊とも子どもの本専門ではない出版社から、一般向けに出版されたわけでしょ。それで『ハリー・ポッター』は宣伝も上手で、メディアも利用してブームになったのね。マスコミの功罪は、大きいよね。私は『ハリー・ポッター』は、「本嫌いの子にも本好きになってもらう」ところに出版の意義があると思うの。英語圏でもドイツでも、そういう読まれ方して、それで大きな話題になったのよね。ドタバタだっていいじゃない!? おもしろければ。その本その本で、果たすべき役割が違ってていいと思うから。でもねえ、この本づくりでは、その魅力も伝わらないよ。本嫌いが本好きになるような本づくりをしてほしかった。このブームも裏を返せば、ファンタジー慣れしていないおじさんたちが、喜んでるってことじゃないの? だって、物語は、伝統的イギリスファンタジーからしたら「なにこれ?」って感じでしょ。これだったら『ズッコケ三人組』(那須正幹著、ポプラ社)のほうがおもしろいと思うもの。要素があれば、ひっぱっていけるのに、もったいないよね。ほんと残念。
『黄金の羅針盤』は、表紙を見て期待しました。そして、読みました。でも、私はちょっとがっかり・・・。理知的な作家だから、実に緻密に世界が構築されてて、こことここがこうつながってなんて、整合性はすばらしいけれど、作品してはおもしろいと思えなかった。プルマンがオックスフォードや教会に敵対してて、C.S.ルイスを批判してるのは、作品からもよくわかるけど、これなら「ナルニア国物語」(岩波書店)のほうが、おもしろいと思う。頭は惹きつけられるけど、心は惹きつけられないっていうのかな。ポストモダンの作家だっていうことだけど、なんかていねいに訳しすぎてて、それにも惹きつけられなかったのよね。ポストモダンも、作者の意識としてはいいけど、子どもには魅力ないんじゃない? 父母の人物像も人間としての造形が感じられなくて「どうして?」って感じ。これじゃ、ゲームのキャラじゃない? ダイモンとか白熊はおもしろかったけど。白熊のイメージは、スーザン・プライスの『ゴースト・ドラム』(ベネッセ)あたりからきてるのかな。

:そういえば、イギリスでは教育制度の改革があって、エリート向けじゃない小説が必要とされてるって、何かで読んだわ。『ハリー・ポッター』は、そういう意味でも出現を待たれていた作品なのかも。

モモンガ:さっき、ハリーが魔法学校に入るまではおもしろいけど、その後はおもしろくないって言ったけど、イギリスの子にとってはおもしろいらしいわよ。学校の寮の雰囲気とか、懐かしいんだって。でも、大人が必要以上にもてはやすのは、おかしいよね。

パブロ:そうだよ。どうして大人が『ハリー・ポッター』をもてはやすんだろう。ぼくは、続きはもう全然読みたくないな。俗悪なもので何かを乗り越えるってこともあるから、それもまたいいし、それに、誤植とかあれだけの読みづらさを「仕掛けてる」のに、読み終える人がいるってのは、読書力の回復といえるかもしれない。キャラクターの造形が弱いのも、読むほうにしてみれば気楽だし、小道具には駄菓子屋っぽい楽しみもある。ドタバタだってちょっとずつ仕掛けてるから、小刻みな刺激が心地よいってこともあるだろうし、そんな欠点がそのまま受け入れられて、ポピュラリティーにつながっているのかもしれんけど。こんなにもてはやすに値するもんかねえ。寮でのできごとも、みみっちいよね。なんだか不思議なことが起こりそうな感じがしないんだよ。ハリーもヤなやつだし。あと、重箱のスミになっちゃうけど、小道具にも責任をもってほしい。だいたいクィディッチってゲーム、納得いかないよな。見てておもしろいワケ? と、きいてみたい。9と4分の3番線にしても、見かけ倒し。あちらの世界とこちらの世界をつなぐ大切なところなのに、あれはないよねー。
『黄金の羅針盤』はおもしろかったな。続きが読みたい。でも、実は父母だったとかさ、屈折が多くて気持ちがくしゃくしゃとなるよね。ダイモンは、変化していたのがいつしか一つの姿に定まるってことだけど、「成長」と「大人になること」の両面を描いてるのかなと思った。ちょっと露骨な感じがするけど、それもまた快く読める。「幼さに自覚的になることが成長だ」って谷川俊太郎が言ってたのが、印象的だったんだけど、でもそれは、おもしろさとはまた別の問題。それにしても、「寒い」物語だね。しんしんと身体が冷えてる感じがよく描けてる。

ひるね:ほんと、この冷たさはなんなんでしょうね。まさにプルマン・ワールドというべき作品。翻訳はたいへんだったと思うわ。彼は劇画、漫画好きなのよね。そういうものから影響を受けてるでしょう。この前の作品Ruby in the Smokeとか Clockwork(『時計はとまらない』偕成社)もよかった。ロジャーはいい子なのに、死んじゃって気の毒。もうちょっとなんとかできなかったのかって気もするけど。プルマン自身、『ハリー・ポッター』ほど売れないのを残念に思ってると思うな。『ハリー・ポッター』も、そろそろ反論が出はじめたみたいよ。フェミニストの中には、男の子ばかり活躍するって怒ってる人もいる。女の子の描き方がステレオタイプだって。ハーマイオニーも魅力がないし、他の女の子は、たとえばトロルが出てきたときも、かくれて涙をこぼしてるだけとかね。その点プルマンは『黄金の羅針盤』の主人公の女の子ライラも魅力的だし、前の3作もみんな女の子が主人公で気持ちがいい。『ハリー・ポッター』がなんで売れてるのか考えてみたんだけど、理由6つほど思いあたったの。ジェットコースターのようなストーリー展開、ステレオタイプで、わかりやすいキャラクター、トロルとか、おなじみのものが登場する、作者ローリングが劇的に現れたこと、言葉遊びのおもしろさ(日本語版では、それは生かされてないけど)、静山社ストーリー(夫の死で意気消沈してたところ、この作品に出会って感動。ローリングに直接アタックして、小さな出版社なのに版権を獲得したという美談)という6つ。
私は、原書を98年の夏の終わりか、秋のはじめごろに読んだのね。訳者の松岡佑子さんより早かったと思う。3冊3ポンドかなにかで、セールだったのよ。それで買ったんだけど、おもしろくて一気に読んじゃったの。で、もう一度読まなきゃなと思ったんだけど、2度読む気にはならなかった。トールキンの『ホビットの冒険』(岩波書店)とか、ル・グウィンの『ゲド戦記』(岩波書店)は、いいなあと思うところがあって、また読みたいなっていう気持ちになるんだけど、『ハリー・ポッター』には、そういう気持ちはわいてこなかった。たとえば『ゲド戦記』には、いくつも印象的な文章が出てきて、それぞれの1行こそが『ゲド戦記』の生命というか、とても大切な部分でしょ。この1行が読みたくて、もう1度読みたいなって気持ちになる。でもね、『ハリー・ポッター』には、「この1行」がないの。「おもしろさの質」について考えさせられた。「おもしろければ、それでいいの?」と思うのよね。『ハリー・ポッター』を出版する意味って、私もオカリナさんと同じで、「本嫌いの子を本好きにする」だと思うんだけど、それが現実にはうまくいっているのかどうかというところに、今、興味があるな。日本のマスコミは、こぞってたいへんな持ち上げようだったけど、そろそろ目をさましてほしいな。だって『ハリー・ポッター』よりおもしろいファンタジーって、たくさんあると思わない? この本のファンタジーは、借りものなのよ。絶賛はもういいから、「日本の児童文学にどんなインパクトを与えたのか」「子どもに確実に手渡されているかどうか」を、追及してほしい。この本、日本では大人向けに出版されたわけだけど、私はそのことに憤りを感じているの。もともとは子ども向けの本なんだから。こないだの「天声人語」(2000.2.13)だって、「名訳である」なんてやたらに持ち上げて宣伝に一役買うようなことはしないで、もっとちがう面をとりあげてほしかった。

愁童:さっきも出たけど、天声人語はほんとひどかったね。全然読まないで書いてるんじゃないの?

ひるね:『ハリー・ポッター』の翻訳は、いろんな人がつつきまわしてるのがよくないと思う。明らかに一人の人が一貫して訳してないから、ふつう翻訳って後半のほうがよくなるものなのに、この本は後半がいいかげん。『黄金の羅針盤』の訳も、子どもの会話に「彼」「彼女」なんて出てきて、子どもがそんなふうに話すかしらなんて初めのうち思ったけど、聞きづらくても味わいがある方言といっしょで、物語世界に入りこんでいくうちに、ごつごつした訳がだんだん気にならなくなったもの。

愁童:ぼくは『黄金の羅針盤』は読んでないんだけど、『ハリー・ポッター』の翻訳はたしかにいいとは思えなかった。『ハリー・ポッター』は、猫が地図を見てるとか導入はよかったから、これはおもしろそうだぞと思ったんだけど、読んでみたら詐欺みたいなもんだったね。これはさ、「創作」というより「構成・編集」。今まで読んできたファンタジーの集大成って感じ。イメージをつくる喜びが全然ない。こういうのが今の若い人には喜ばれるのかな。インターネットなんか見てても、小学校の先生で30代の女の人が、こないだここで読んだ『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)について書いてて「うまい。とってもおもしろかった」って推薦してたんだけど、その同じ人が「『ハリー・ポッター』はスゴイ!ここ10年で一番おもしろい作品だった」って大絶賛なんだよ。今の30代にはウケるのかなあ。

ウォンバット:私、30代だけど、ウケませんでしたよ。

愁童:まあ、人によるってことだろうけどさ。この作品はきれいなCGみたいなもので、油絵のような奥行きはないけど、CGのほうが好きって人もいるってことじゃない?

(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ハリー・ポッターと賢者の石

ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』
『ハリー・ポッターと賢者の石』
J.K.ローリング/著 松岡佑子/訳 ダン・シュレンジャー/絵
静山社
1999.12

(『黄金の羅針盤』を参照)