月: 2004年10月

2004年10月 テーマ:ひと夏の思い出

日付 2004年10月26日
参加者 アカシア、ハマグリ、ケロ、トチ、ブラックペッパー、むう
テーマ ひと夏の思い出

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藤巻吏絵『美乃里の夏』

美乃里の夏

ブラックペッパー:こんなにお風呂掃除が好きなんだったら、うちのお風呂も掃除してほしい……。読んで嫌な気持ちにはならなかったけれど、よくわからなかった。このおじいさんは恐い人なのかと思ったら、すぐやさしくなってるし。最後のお手紙のせいか、美乃里ちゃんのナルシス的なものを感じた。須賀君が好きって言ってたけど、「須賀君を好きな自分」が好き、「三角関係に悩む」自分が好きって、結局自分がいちばん好きだったのでは……と思っちゃった。

トチ:「ミノリ」という名前が同じだということに何か意味があるのかと思ってずっと読んでいたけれど、けっきょく何もないのね。それから「実」のほうは、あの世から来た子だと思っていたけれど、最後のところでそうではないと知ってショックだった。だって、あまりにもリアリティがない、幽霊みたいな子なんですもの。

ブラックペッパー:小学校5年生の男の子が、知り合いでもない女の子にハンカチをさっと差し出したりするかしら?

ケロ:私は最初、実は銭湯の精なのかと思ってた。

トチ:もうひとつリアリティがないのは、片腕の不自由な老人がひとりで銭湯をやっているということ。お風呂屋さんってとてもひとりではできないでしょ。番台だけじゃなくって、火をたく係りとか人手がいる仕事なのに。それから、最後の「実」が施設の子どもだと分かったというところ、本当に腹が立った。施設の子どもだと分かったら、主人公は実に会いにもいかないでしょ?かわいそうな施設の子どもは、自分とは違う世界の人間だと思っているのかしら。施設についても、老人ホームについても、あまりにもセンチメンタルで薄っぺらい書き方をしているので、不愉快になったわ。

ブラックペッパー:なぜ木島さんが厳格だったのか知りたかったのに、それが最後までわからなかったのが不満。

ケロ:長新太さんの絵、いいですよね。なんか、新鮮な感じがしました。ぜんぜん関係ないんですけど、家の近くにすごい銭湯があるんです。とても古くからある銭湯のようで、常連さんなんでしょうね、みんなマイロッカー、マイグッズキープ状態に、まずびっくり。お風呂場はきれいなのだけど、外側の壁にびっしり生えているツタが内側の壁にまで入り込んできていて、ジャングル風呂状態なんですよー。なかなか、ファンタジックな世界です。銭湯というのは、シチュエーションとしておもしろいと思うので、もっとそのおもしろさがいかせればいいなと思いました。掃除をおもしろがるのが変、というのも、描き方なのでは? それに、昼に揚げ出し豆腐、ってアリですか? よくわかりませんが、ちゃっちゃと作れる、でもとてもおいしい、というメニューの気がしません。仕事中なんだから、そういうメニューのほうがしっくりくるでしょう? いきなり、お手伝いの子たちにまかせて、80のおじいさんが、まめにいそいそと揚げ出し豆腐作るってのもねー。
それから、これだけ男の子と仲よくなっておいて会えなくなっちゃうことってあるのかな。突然12年後の手紙ってのがねえ。その前に、捜せばいいのに、という感じ。いろんな意味で、よくわからない本でしたね。

ハマグリ:文章は下手ではないのでさらさらと読めるけれど、何か現実感がないというか、銭湯のような日本独特の場所や、揚げだし豆腐とか、旬のみょうがを薬味に、なんていう日本的なものを使っている割に、匂いや空気感が伝わってこなくて、単にこぎれいになってしまっているわね。面白いシチュエーションを作ろうとしているのに、伝わってこない。銭湯の絵の、見えない半分を見るというのは確かにわくわくするけど、ただつながっているというだけだし、それに銭湯に妖精というのもそぐわない。発想はいいけれど、不消化に終わっています。この男の子のあまりの現実味のなさに、私もてっきりこの世の者でないと思っていたから、え、なんだと思いましたね。最後の手紙の部分は、いらなかったと思う。唯一よかったのは、美乃里とお父さんが仲がいいこと。今どきこういう無邪気に仲が良くて、口うるさい母親に対してタッグを組むような父娘の関係を書いているのは珍しい。

アカシア:長さんの絵はいいですね。例えば13ページの絵の美乃里も、いかにも背が高いのを気にしている少女の感じがよく出てる。いっぽう文章となると、とにかくリアリティがなさすぎ。スポーツ少年の須賀君が女の子二人とと交換日記なんかします? それに、まだ夏休みに入ってないのに、この学校の生徒ではない実君がなんで校庭にい合わせるわけ? ここで、だれもがファンタジーだと思っちゃいますよね。銭湯の掃除だって、最初は面白いかもしれないけれど、夏中してたら、よっぽど惹きつけるものがないかぎり飽きるでしょ? だって小学校5年生なのよ! 木島さんが千代子さんと突然一緒になる、という運びにもびっくり! 私は木島さんが銭湯を休むところで、実君を引き取ろうとしてるのかな、と思ったの。それに、そもそも千代子さんは体の具合が悪いんだし、孫の実君は掃除でもなんでも一所懸命やる子なんだから、実君を施設から引き取って一緒に暮らすほうがリアリティがある。
192ページの実君の手紙も、この年齢の男の子が書いた手紙とは思えない。しかも「とつぜん、さよならしてごめんね、美乃里ちゃん。美乃里ちゃんにいうと心配すると思ったんだ。ただ、ぼくはすごく楽しかったんだ……」なんて、施設の子だから楽しかった、と作者が言わせてるみたいで、嫌な感じ。感傷的な憐れみのようなものが感じられて、すごく不愉快です。こんなものがリアリスティックフィクションとして、伝統ある出版社から出されているなんて! 最後の手紙もナルシズムの固まりだし、ディテールもちゃんと立ち上がるように書いてほしい!

トチ:多分、銭湯なんかも調べてないと思うよね。

アカシア:美乃里と実が手伝いにくるまでは、老齢の木島さんが銭湯の仕事も毎日の暮らしも何もかも一人で切り盛りしてたなんて、ファンタジーよね。この本のどこがおもしろいのかなあ。

むう:ほとんど、みなさんのおっしゃったことで尽きている気がします。私も、はじめからずっと、この少年はこの世の存在ではないように感じていました。『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス著 岩波書店)じゃないけれど、この少年がおじいさんの少年時代で、時間がぐちゃぐちゃになるファンタジーでもおもしろいかなって思ったけれど、結局は実在の子だったので、なんだあと思ってしまいました。

ハマグリ・アカシア:そういう設定だったら、おもしろい作品になったのにねえ。

むう:全体にふわふわした作品で、最後にこの手紙が来ることで、さらにべたべたに甘い印象を残して終わっていますね。全体として思わせぶりな本でした。

ハマグリ:せっかく新人が出てきたのに残念よね。

むう:木島さんの戦争で受けた傷の話とか、老いの問題とか、いろいろなことを盛り込んでいる意図はわかるんですけどね。たとえば、田舎の盆踊りで少しぼけたおばあさんが主人公の浴衣を自分のだというエピソードは、老いを取り上げたつもりなのだろうけれど、しっかり書けていなくて、ちょっと出してみましたレベルで終わっている。だから、それぞれのエピソード立体的にきちんと組み合わさってこない。ところで、この本の帯には「成長と純愛」とあるんですね。

ハマグリ:げーっ。

アカシア:オヤジ編集者のコピーですかね?

むう:強いていえば、花火をふたりで観るところがそういう感じなのだろうけれど、これは純愛じゃなくて,憧れですよね。

ハマグリ:自分の発想に酔ってるだけ。

トチ:お風呂屋さんならお風呂屋さんで徹底的に調査して書けば、おもしろかったのに。これでは単なる飾りになってしまっている。

ハマグリ:頭の中だけで書いているのね、きっと。日本の作家になかなかいい人が出なくて,困ったわねえ。福音館は、どこがいいと思って出したのかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


パトリシア・ライリー・ギフ『ホリス・ウッズの絵』

ホリス・ウッズの絵

アカシア:絵を一枚ずつ見ながら物語が進んでいく構成は、おもしろいと思いました。ただ、リーガン家の人々が、拒み続けているように見えるホリスに飽くまでも執着する理由がわからないんですね。ホリスの魅力がじゅうぶんに伝わらないから、なるほどと思えないんだと思うの。それにスティーブンが冬の山荘にいろいろなものを運んでくるところなんか、リアリティがなくて、ご都合主義的な『小公女』みたいに思えてしまう。ホリスが里親をたらいまわしにされていたという設定は、キャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(偕成社)とも共通してますね。でも『ガラスの家族』には突っ張り具合が具体的に書かれていてリアルだったけど、この作品はあまり具体的な記述がないので、その後ホリスが人間を受け入れる存在に変わっていく部分が、逆にうまく伝わらない。とにかくリアリティが希薄でしたね。

ハマグリ:現在の進行と過去の回想が立体的に構成されているけれど、凝っているわりには内容が薄いですね。リーガン家との出来事の回想が間に挟まっていて、過去に一体何が起ったんだろうと思わせるけど、それが少しずつ小出しに延々と続くので、いい加減に言えよ!と思ってしまう。そこまで引っ張っておいて、ラストは何だ!と拍子抜けしてしまう。絵を一枚一枚出してくるのも洒落ているけれど、あまり効果がないように思いました。リーガン家の人たちがなぜホリスをそこまで受け入れようとしているのかも今ひとつ理解できないし、なぜホリスが彼らだけにそこまで心を開いたのかも分からなかった。ジョージーに対してこれほど優しくできるというのも、納得がいくようには描かれていません。心の動きが伝わってこないのね。もっとホリスのことが知りたいのに、回想シーンに邪魔されてしまう感じもあるし。

ケロ:そうですね、私も、引っ張りすぎだよ、とつっこみを入れながら読んでしまいました。でも、リーガン家との出会いのシーンは、なかなかいいと思いましたよ。24ページ。ゲームをしてわざと負けてあげるあたりの優しさがうまく描かれているので、斜に構えるホリスが、この家族を「かけがえのない家族」と思えることに説得力があります。また、ホリスに帽子をかぶせて鏡にうつすシーンで、ホリスがとても美しい、というところなど、あっ、そうなんだー、とホリスのイメージを少しずつ軌道修正しながら読むところがありました。

ブラックペッパー:そこは、愛情を持っている人から見ると可愛いということかな、って思ったけど。顔立ちが整っているわけではないのだろうと。

ケロ:そうか、そうですよね。だいたい、全体に「ホリスってどんな子なんだろう」と思いながら読んでいた感じがします。それだけつかみにくかったのかな、ホリス像が。読み進めていると、あっさり読んでしまうのだけれど、あとで「何で?」とひっかかってしまったり、浅い感じがしたりするところも、『ノリー・ライアンの歌』と似ている印象を受けました。あと、わざとそういう印象をあたえる設定にしてるのかもしれないけど、スティーブンは死んだんだ、と思って読んでしまいました。

トチ:『マイのいた夏』のマイが死ななくて、スティーブンが死ねばよかったってわけ? というのは冗談だけど。私も、主人公がこれだけスティーブン一家に対してしでかしたことで悩んでいるのだから、死んでるにきまっていると思って読んでいたので、最後まで読んで拍子抜けしてしまったわ。それに、ホリスという子がどうしても好きになれなくって・・・・・・スティーブン一家や彫刻家のおばあさんが気に入るような娘には、とても思えなかった。訳文のせいかしら。ホリスのモノローグでストーリーが語られていくわけだけれど、12歳の女の子が語っているようにはとても思えない。「おやじさんはスティーヴンを愛している。当然ではないか」なんて、12歳の女の子が言うと思う? 原書では、もっとみずみずしい、いかにもこの子らしい語り方をしているんじゃないかしら。それから田舎の少年であるスティーブンが自分のことを「オレ」といっているのに、なんでホリスのことを「きみ」なんて気取って呼んでるのかしら?

アカシア:原文では、セリフにもっと繊細さがあるのかもしれないわね。

トチ:自分の絵について話しているところも、原文ではもっと繊細なのかもしれない。それから彫刻家のおばあさんに「〜してあげた」ではなく「〜してやった」とずっと言っているのも気になった。尊敬している目上の人に対する言葉としては、乱暴よね。それから、これは原文のほうもそうだと思うのだけれど、ケースワーカーをこれでもかとばかり嫌らしく描写しているのが、嫌な感じ。彫刻家のおばあさんは映画スターのように美しいので、初対面のときから気に入ったけれど、ケースワーカーはいつも同じ服装で、サイズもXLだから嫌だ・・・・・・なんてねえ。
それから、里親制度も日本とアメリカでは違うと思うんだけれど。日本は里親になる人たちは本当に奇特な人だけれど、アメリカでは自分の利益のためになる人もいると聞いています。そこのところを知らないと、「せっかくうちで育ててあげるといってくれているのに、なぜいろいろな文句をいっているのか」と、日本の読者は不思議に思うんじゃないかしら。

アカシア:ホリスはこの作品の最後では、里子ではなくてリーガン家と養子縁組をするのよね。里子は一時的に預かってもらうということだけど、養子は親子という恒久的な関係を法的にも結ぶということですよね。そのあたりも、訳文の中なり後書きなりではっきりさせておかないと、最後のホリスの安心感が日本の読者には伝わりにくい。それと、さっきトチさんから「きみ」が変だという話が出ましたけど、私はスティーブンが父親を呼ぶときの「とっつぁん」にもひっかかりました。スティーブンのほかの部分の口調と合ってない。

ブラックペッパー:やっぱり不思議なのは、リーガン家の人々がなぜホリス・ウッズをこんなに好きになって、ホリス・ウッズもまたなぜリーガン家の人々をすぐに受け入れたのか、ということ。だって、ホリス・ウッズって、こんなに「悪い、悪い」って言われてて態度も悪かったのに、すぐにうち解けて相思相愛になるなんて、ちょっと変じゃない? そういうところが全体に雑な感じ。作者の中では、世界が緻密にできあがっていたのだと思うけれど、描かれていない部分が多いから読者には伝わりにくい。そして構成が凝っていることで、よけいにその描かれていない部分、すかすかしたところが目立っちゃう。骨太なストーリー展開で大きなうねりに引き込まれるような作品だったら、描かれていないところがあっても気にならなかったり、想像をふくらませて自分で補うことができたりするけど、この作品はぶつぶつと途切れながら進んでいくという構成だから、どうしても「すかすか」が気になる。
訳も気になるところがいくつかあった。たとえば73ページに「アメリカ南西部へ行く」ってありますよね。日本語では、日本の中を移動するのに「日本の〜地方へ行く」とは言いませんよね。「アメリカ南西部」と言われると、えっ、今いるのはアメリカではなかったの? と思っちゃう。こういうところ、もうちょっと工夫できるのではないかしら?

アカシア:リーガン家の人々は、何でも許してくれるやたらに優しいだけの非現実的な存在に思えてしまうわね。リーガン家の人も、ホリスも、立体的な存在として伝わってこない。

ハマグリ:ホリスが魅力的になっていないのは、この口調にもその一因があるよね。

むう:カレン・ヘスの『11の声』(理論社)やロイス・ローリーの『サイレント・ボーイ』(アンドリュース・プレス)のように何枚かの写真を使ってそこから物語を構成していくという作品もあることだし、目次を見て、この作品は絵をいくつか使って物語を構成しているらしいと思って読み始めました。話としてはけっこう波瀾万丈なのだけれど、読み終わったときには、軽いというか浅い本という印象しか残らなかった。私も途中はずっと、スティーブンが死んでしまったんだと思っていました。思わせぶりな感じがしますよね。ホリスは、自分が加わることでスティーブンの家族の平和を壊してしまったと思ったから家を出ていくわけなんでしょうけど、そのホリスにとっての重さをもっときちんと描かないと伝わらない気がする。読者にすると、「え? スティーブンが生きてたんだったらいいじゃない」みたいになる。それと、再会したスティーブンがホリスに、「きみは、まだ家族ってものを知らないんだよ」と言いますよね。ここでホリスは、実際の家族はいつも和気藹々としているわけではない、ということをはじめて知らされる。著者はこの瞬間を書きたかったのだろうけれど、一つ一つの人物や情景の書き込みが足りなくて、平板になってしまっているから、読者にすると、ただ「ああ、そうですか」となってしまう。

ハマグリ:この子がどんなに悪い子でも、よく描けていれば読者は応援したいという気持ちになるものだけど、これはそうならないのよね。

トチ:人間に対する見方も意地悪よね。ソーシャルワーカーは訳のわからない、鈍い人だときめつけている。ユーモアもないわね。ソーシャルワーカーの特大サイズトレーナーはもしかしたらユーモアを書いている部分なんでしょうか?

ブラックペッパー:私も、ここは面白いと思うべきところなのかな、と思ったけど、ユーモラスとは思えなかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


マッツ・ヴォール『マイがいた夏』

マイがいた夏

アカシア:舞台となっている時代の、この年齢の男の子が、とてもうまく書けてますよね。ハッセがわざと危険な位置でダイナマイト爆破を見る冒頭の場面、プレスリーのレコードを聞きながら子どもたちが踊る場面、犬に吠えられそうになりながらイチゴを盗む場面、おばあさんがロープを渡そうとする場面など、一つ一つのエピソードが生き生きとしていて、リアルに浮かびあがってきました。訳もとても読みやすい。ただ設定からして、大人が少年時代を回想して書いているということなので、客観的にこの年齢の少年を分析する文章が随所に出てきます。それに、たとえば5ページの「片手で女の子の髪をつかもうとしながら、もう片方の手で地面の深い穴をさぐっている12、3歳の少年たち。どこにでもいる少年たち。彼らは、どちらの手がつかもうとしているものにも気づかないふりをし、無邪気に生きているように見える。だが本当は夜明けがくるたびに、自分の中にひそむあこがれを感じ、子ども時代の終わりのにおいをかぎつけている」などという文章には、ノスタルジーも感じます。そういう部分は、同年齢の子どもが読んだら、どうなんでしょうね?

ハマグリ:たしかに、突然30年経った今の自分の見方が出てきますね。子どもの気持ちに沿って読んでいける物語だけに、そこは物語世界から引き戻されてしまう感じはあったけど、とても描写が生き生きとしていて、おもしろく読めました。語り手の少年は、ちょっとおとなし目で、それに対して親友は魅力的でハチャメチャで、という設定は、少年たちの出てくる物語にはよくあると思いました。『スタンド・バイ・ミー』(スティーブン・キング著)のゴーディーとクリスもそうだし。脇役の人物描写も上手で、特にママがうまく書けていると思う。シチュエーションを目に見えるように書ける人で、冒頭の爆発を見物するところの黄色いジープの描写が、今度は黄色い蝶に転換していくあたり、うまいし、マイが手首に結んでくれた水色のリボンの色も印象的に使っています。結末は悲しいのだけれど、二人のやることはいつもどことなくユーモラスなので、楽しく読めました。子どもの世界をとてもよく知っている人だと思いました。

ケロ:単館上映の映画館で上映される映画を見ているような感じで読みました。今回のテーマが、「何かが始まって何かが終わるという、ひと夏の物語」なので、どの本も、どういう結末になるのかに引っ張られるような気持ちで読み進めました。特にこの話は、結末をにおわせる部分が多いので、非常に気になりながら読みました。でも、それだけでなく、結末までの一つ一つのエピソードの重ね方が上手で,確実に厚みになっているという気がします。主人公の劣等感や悲しみ、恋心など……。たとえば、父親が牝牛に絞め殺されてしまったということを主人公が知るところなどは、悲しいのに、ユーモラスで切ないですね。ただ、「13歳の男の子ってこうだったよね」というように、昔の自分を達観して、さらに今の読者に「そういうもんだよね」と同意を求めているように感じるところがあります。読者が大人ならまだしも、まさしく13歳くらいだったら、素直に読めるもんなのかしら?と、私も思ってしまいました。

トチ:たしかに子どもの読者にとっては遠い昔の、遠い国の物語なので、ついていけるかなあとは思いますが、ひとつの文学作品としてみると大変な傑作だと思いました。なによりも登場人物のひとりひとりを、多面的な人間としてしっかり書いてある。貧しくて、心身の発達がおくれているトッケンという男の子にしても、ただの可哀想な子どもではなく、なかなかしたたかな面も書かれていておもしろいと思いました。物語の導入部は、まるで映画を見ているように、小さな島のいろいろなできごとを語っていますが、しだいに読者の不安をそそる3つの爆弾がそのなかに埋め込まれていく。1)ダイナマイト 2)マイの心臓が悪いこと 3)主人公がそのマイに水泳を教えてやると言い出すこと。それが最後には雪崩のように悲劇に結びつく展開になっていく。悲劇が起きてからの説明を、それまでの書き方と違う主人公と警官の対話にしたあたりも、とてもうまい書き方だと感心しました。一つ一つの情景描写もすばらしく、特に教室で主人公の前の席にすわったマイの髪の毛が主人公の机にさっと広がり、通り雨のようにまたさっと消えていくという描写が、情景だけでなくそのときのかすかな音まで聞こえるようで印象に残りました。菱木さんの翻訳も、いつもながら美しくて見事な訳文だと感心しました。

ブラックペッパー:今月のテーマは「ひと夏の思い出」ということで、選ばれた本3冊のうち2冊が書名に「〜の夏」と、夏がついていますね。書名としては、いちばんキマりやすい季節なんですね。春夏秋冬のなかで、本でも映画でもタイトルの登場回数ナンバーワンなのではないかしら。そして、みんな、はかない恋をしちゃったりするのよね。これも夏という季節のなせるワザか……? と、まあそんなことはいいんですけど、私はこの本、とっても好きでした。最初、手にとったとき、400ページもあってけっこうなボリュームだわと、ちょっと敬遠したい気持ちだったのですが、私の好きなスウェーデン、それもゴットランド島が舞台だとわかって、急に興味がわいてきて、ぐんぐん読み進みました。もー、なんという乙女ゴコロあふれる、愛らしい少年たち! 初恋のとまどいといいますか、心の揺れが細やかに、とってもよく描かれてると思います。いいですねえ。大好き。ひとつ不満をあげるとすれば、マイが死んでしまったこと。死なないでほしかった……。マイがいなくなるってことは、書名からも見えるから最初からわかっていたとはいえ、〈死〉ではなくて転校してしまうとか、仲良しではなくなって遠い存在になるとか、そういうのがよかった。だって最後が〈死〉だと、おさまりはいいけど衝撃が大きすぎる。それまでの繊細さが薄らいでしまう感じ。

アカシア:乙女ゴコロって、繊細っていうこと? ある時期のことを切り取った形で書くとすると、「死」を出して区切りをつける設定になるのかも。

ケロ:髪を切ったところを読んだとき、一瞬、マイは死ぬのではなく、「憧れのマイ」という対象が消え、恋が終わるのかなと思いました。髪を切るという行為は、マイが今までの自分でない、新しい自分に脱皮したいという思いのあらわれですよね。このあたりから、マイが2人の男の子とは、違う道を行ってしまうのかしらなんて思ってしまった。

アカシア:男の子たちは、マイが髪の毛を切ったのを見て実はがっかりするのだけど、わざと知らない気づかなかったふりをする。その辺のやさしさも、うまく描けてますね。

むう:正統派文学だなと思いました。厚さがあるだけでなく、読み応えのある本でした。スウェーデン人の知人がいてそのイメージが重なるからかもしれないけれど、作者の目線がとても誠実でていねい。先日、読書週間にあわせて重松清さんのインタビューが新聞に出ているのを見たんです。重松清さんは、「若い人たちが本を読むというのは、その本の中に、読者自身にもよくわからない自分の気持ちを体現する人物や出来事があって、本を読むことでそういう自分の内面が見えてきたりわかってきたりするという意味があるのだろう。あるいは本を読むことによって、自分とは違う人生を体験できたりもするのだろう。それは大事なことだと思う」といったことを述べてたと思います。これはそういう、思春期現在進行形の人が同世代の人間の行動を見て共感するタイプの本とは違うような気がしました。どちらかというと大人の回想文学で、ノスタルジックだし、同世代の若者には理解できないような細かい分析まで入っている。その意味で、大人が読む本なのかなと思いました。古いフランス映画に、やはり2人の男の子と1人の女の子が出てくる「さすらいの青春」(アラン・フルニエ原作)という青春映画の名作があったけれど、それに似た感じですね。きらきらした青春映画。チェンバーズもこの世代を主人公にして描いていて、誠実さという点ではヴォールと似ているけれど、あちらは主人公と同世代の読者にもっと直接的にがりがりと迫ってくる点が対照的だと思いました。

ハマグリ:子どもは、大人の観点で書いているところは読み飛ばすんじゃないかしら。ストーリーがおもしろいので、子どもの読者でも引っ張っていけると思います。やっぱり中学生くらいが読むんでしょうね。

むう:この時期の男の子の危うさや、初々しさがよく書けているのには感心しました。とにかく他人の目が気になって、自信がなくて、妙に突っ張って。大人の目から見れば些細なことに右往左往しているあの時期がみごとに描写されていて、読み終わったとき、「初々しい」っていうのはこういうことだったんだなあ!と思わされました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


2004年10月 テーマ:小学生の日常と非日常

日付 2004年10月1日
参加者 ハマグリ、むう、羊、すあま、アカシア、流、愁童、トチ、カーコ、紙魚
テーマ 小学生の日常と非日常

読んだ本:

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ウルフ・スタルク『ぼくたち、ロンリーハート・クラブ』

ぼくたち、ロンリーハート・クラブ

カーコ:ユーモアがあっておもしろかったです。ロンリーハート・クラブの集まりのときは、必ず何かを食べるという決まりと作るところとか。4人の計画がこんなにうまくいくわけはないんでしょうけれど、人を疑うなどではない、プラスのメッセージがあって気持ちよく読めました。

トチ:明るくて、気持ちのいい話だったけれど、いつものスタルクの作品にくらべると、少し味がうすいんじゃない? あとがきに、教科書の副読本と書かれていたので、だからか、と納得したけれど。主人公や女の子のキャラクターも、いまひとつはっきりしない感じ。

愁童:スタルクは好きなんだけど、この作品は、あまりユーモアのきれがよくない。『おじいちゃんの口笛』(ほるぷ出版)なんかのほうが、美談ではないけど感動させる。登場人物に寄せる作者の愛着みたいなものが素直に受け取れる。この作品は、その辺がぼやけている感じがして物足りなかったです。

:ちょっとわざとらしい感じがしました。このくらいの文量ではまとまってると思うけど、あんまり感動しなかったです。

アカシア:私は選書係だったので、『パーシーの魔法の運動ぐつ』(小峰書店)にしようかとも思ったんですが、シリアスではないほうにしたの。トール意外の子どものキャラはぼやけちゃってますけど、これはシリーズものだということなので、ほかの本にその辺は書かれているんだと思います。短い描写でその人らしさを的確に表現するスタルクのうまさは、この作品にもあらわれてますよね。ハリネズミをさがしたり、アルミホイルを細く切ってプラムの木を飾るスベンソンさん。「ロンリーなんとか、って、どうせ、おかしな人のあつまりでしょ。おそろいで変なぼうしをかぶってる人とかの」と言うビーストリュームさん。二人とも、自分の暮らしを大事にしながら生きていることが、短い文章の中から伝わってきます。ママにお礼を言われてほっぺたをちょっと赤らめたり、ダイエットをしているのにデザートのクリームパイをたくさん食べたりする郵便局長のルーネさんもいいですね。「こどくっていうのも、たまにはいいものよ。いすにすわって、考えごとをしたり、夢をえがいたりするの。そう、人生でいろいろあったことも、みんな思い出すわ」と語るトールのおばあちゃんもいい。挿絵も、雰囲気をうまく伝えてます。まあ、子どもが書いたラブレターで年配の大人二人が結ばれるという筋書きはできすぎだと思いますけど。私は好きな作品。

すあま:あとがきを読んで、シリーズだとわかりました。トール以外の子があまり見分けがつかないのは、シリーズのそれぞれの物語で、スポットをあてる子どもがそれぞれ違うからなのでは? 物事がすべてうまくいくけど、それはそれでおもしろく読めました。それから、お金がかかるので寄付を募る、というところに、日本との違いを感じました。

むう:スタルクの作品は、不勉強であまり読んでいないのですが、『おばかさんに乾杯』(小峰書店)を読んで、すっとぼけた感じのあたたかい作品だなあと思った覚えがあります。この作品にも、あたたかさを感じました。あと、子どもが完結した子どもの世界を持っている点は、リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』(岩波書店)などと共通していると思いました。主人公が、手紙を書きたくなったときにまず自分に宛てて書くとか、クラブのモットーの3番目に大まじめに、毎回なにかを食べることと入れるといった子どもの行動を、大人のフィルターを通さずにうまく捕らえていますね。出てくる大人が、こどもに媚びはしないけれど、かといって子どもを無視しているわけでもなく、まともに子どもと向き合っていて、子どもも子どもで自分たち独自の世界をちゃんと持っている。そのまともさがあるから、読んでいてほっとできるんだなあと思いました。あと、最後を「ちょっと休もうよ」という言葉で終わらせていることで、美談が美談で終わらずにユーモアの漂う幕切れとなっているのもいいですね。

ハマグリ:スタルクは、大人とは全く別のところにある子どもならではの物の考え方、感じ方をストンと納得できるように書く人で、大好きな作家です。リンドグレーンほど無邪気ではなくて、けなげさの中にほろ苦いペーソスがある。たしかにスタルクのほかの作品ほどは切れ味がよくないけど、3、4年生にすすめたい本が少ない今、お話としてよくまとまっているし、楽しく読めるし、読後感も良い。表紙やさし絵も感じがいい。3、4年生が繰り返し読む好きな本として残っていくものかな、と思います。

愁童:子どもが選ぶコドクな人の人物像を、何やら突飛な行動や変わった帽子みたいな味付けで、子供の好奇心を刺激する大人として描いているあたりは、スタルクらしいうまさだなって思いました。

ハマグリ:この会で取り上げる作品はどうしてもYAが多くなるけど、このあたりの本を読むのはいいと思ったし、この年代にすすめたい本をもっと見つけていかなければと思ったわ。

カーコ:今回の課題本は、どの本も地元の図書館によく入っていました。子どもの日常を描いた作品は、図書館に受け入れられやすいんですね。

アカシア:図書館にあるだけじゃなくて、もっと読まれるといいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


富安陽子『菜の子先生がやってきた!』

菜の子先生がやってきた!

カーコ:困ったことを抱えている子のところに菜の子先生が現れて、思いがけないことをするんですよね。今の子って、「これはこうしなければいけない」というような正統派志向が強くて、人の目を気にしがちなんだけど、菜の子先生がふっと違う価値観で日常を見せてくれるところがよかったです。各章とも、開かれた終わり方をしているのも、期待感が残って、うまいなと思いました。スタルクもそうですが、他人を否定しないあたたかさがある。ただ、菜の子先生の絵は、もう少し魅力的にならないものかと思いました。

トチ:菜の子先生って、メアリー・ポピンズみたいね。でも、欧米のファンタジーの亜流という感じはまったくしない。欧米のファンタジーのすてきなところと日本的なものがうまく溶け合ってとてもいい作品になっていると思いました。学校へ忘れ物を取りにいく話なんかも、ちょっと学校の怪談みたいな怖さもあるし、菜の子先生もなにか得体の知れないところがあって、子どもたちはどきどきしながら読むんじゃないかしら。

愁童:私もうまいとは思いました。ただ、この子どもたちにとって菜の子先生はどういう存在なのか、もうちょっと書き込んでくれると厚みが出たんじゃないかな。桜の木が1本いなくなっちゃうみたいなところはイメージとしてちょっとついて行きにくかった。逢魔が時に職員室に明かりがついているのと、街灯が一つついているのを、どちらも灯るって書かれていたり、バタ足で水を「ひっかぶせる」というような表現には違和感がありました。

アカシア:愁童さんご指摘の部分ですけど、桜の木はプールに満開の自分の姿を映して見てみたいと思ったんですよね。その気持ちは、読者にもちゃんと伝わると私は思います。職員室のところも、先生がいるんじゃなくて化け物がいるのかもしれないわけだから、ぼんやり灯っているというのは違和感がなかった。ただ「ひっかぶせる」はおかしいですね。日本の童話が、どのくらい翻訳されているか調べたら、湯本さんとか角野さんのしか訳されていないんですね。イメージがくっきりしているこういう作品など、もっと翻訳されて外国にも紹介されればいいのに。たしかに、まじめくさっているけど子どもたちに楽しい経験をさせてくれるというのは、メアリー・ポピンズをうまく借りてますね。ただ表紙にあんまり魅力が感じられないし、最後に口絵がついているのもわからない。中の挿絵はあまり違和感がなかったんだけど、この口絵は、はっきりいってよくないですね。

:おもしろかった。ひょっとしたら起こるんじゃないかなという気になりました。菜の子先生のきっぱりした感じも好きでしたね。忘れ物をとりにいく話がいちばん好き。

むう:私も、読んでいて最初に連想したのがメアリー・ポピンズです。第二話に登場するうさぎの穴はちょっと『不思議の国のアリス』を思わせるし、あれこれ洋もののファンタジーに重なるところがあるけれど、それが取って付けたみたいでなく、ちゃんとこなれてひとつの世界になっているところがいいと思いました。おもしろかったです。まじめくさっていて子どもにこびず、どちらかというと威張っているような、それでいて子どもがおもしろがる経験をさせてくれる菜の子先生がとても魅力的でした。子どもって、こういう人に妙になつくんですよね。突飛なことが次々に起こるので意外性があって、どうなるのかなと思いながら楽しく読めました。突飛なのだけれど、子どもの想像力に沿った突飛さなのがいい。暗くなったときの学校というのは、なんだかいかにも不気味だという子どもの感じをうまく取り入れていると思いました。夜になって忘れものをとりにいくというのは、わたしにも経験がありますけれど、ああいうときのどきどきする感じをうまくとらえていますね。

紙魚:この作家って、その気にさせてくれるのがうまいなと思います。『学校の怪談』(常光徹著 講談社)系で、そういうこともあるかもと、その気にさせられて、この本おもしろいよと、友だちどうしで借り貸しできる本。ただ、本のつくりがかしこまっているのと、絵がとっつきにくいのが残念です。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


アンドリュー・クレメンツ『ナタリーはひみつの作家』

ナタリーはひみつの作家

むう:軽くてうまい運びで、とんとんと事が運んでハッピーエンドで、同じ著者の『合い言葉はフリンドル』(講談社)を前に読んだときの印象を再確認した感じでした。でも、いい大人ばかり出てくるし、できすぎだじゃないかな。たとえば『ぼくたち、ロンリーハート・クラブ』なんかだと、子ども固有の世界があるんだなあと思わせられるけれど、これは大人の世界に子どもが従属している気がして、そのあたりもどうなんだろうと思いました。子どもが作家に憧れたり、いろいろな夢を持つ年頃というのはあって、その年頃の子は面白く読むかもしれないけれど、ぐっと引きつけられる作品とは思わなかった。それに、マンハッタンに住んでいて、タクシーで学校に通うような子という設定も苦手でした。

アカシア:これは、ほかの3冊とは趣が違う作品よね。社会についての実地の参考書みたいな位置にある作品といってもいい。クレメンツは、こういうのを書かせると、とてもうまいですね。教科書や普通の参考書だと味気ないですが、本が出版されるまでのさまざまな過程をきちんと捉えて、子どもを主人公にした具体的な物語に仕立て上げている。ペンネームについて説明するにしても、セオドア・ガイゼルをまず出して「なんだろう?」と主人公にも読者にも謎を提供する。その後で、アメリカの子どもなら誰でも知っているドクター・スースのペンネームだと種明かしをする。読者の興味をうまく引き出しながら物語を進めていってる。『こちら「ランドリー新聞編集部」』(講談社)でもそうなんですが、クレメンツの作品の中には大人へのメッセージもこめられているのね。この作品でも、子どもの思いつきにのせられて行動していいのかどうか迷うローラ・クレイトン先生に対して、「子どもを管理するだけでなく、子どもの側に立って一歩踏みだして」と励ましている。一箇所だけ気になったのは、84ページ「はね橋の上に投げ出された、グローブ」っていうところ。決闘するんだから「手袋」を投げるんじゃないですか?

:私は編集の仕事をしているんですけど、わかっているようなことでも、勉強した気になった。大人の立場もしっかり描かれていると思った。

愁童:アカシアさんみたいな読み方としては、なるほどなと思いましたが、文学作品としてはイマイチおもしろくなかった。ナタリーがどういう作品を書いたのかわからないのが残念。

トチ:これは読んでないんですけど、私は同じ作者の『こちら「ランドリー編集部」』が大好き。「新聞の精神」みたいなものをしっかり書いてあって、子どものころ新聞記者に憧れていた私は、胸を躍らせながら読みました。

アカシア:子どもが本を出そうと思うと、次から次へと障害が立ちふさがる。それを一つずつクリアしながら目標に向かって進んでいくわけですけど、それが具体的に書かれているので、読んでいてもおもしろい。

カーコ:私もアカシアさんの感想をきいて、そうだったのかと思いました。読んでいるうちに知らず知らずに知識を得ている、スポーツ漫画みたいな感じですね。だから、エージェントのように日本には馴染みがないものも、子どもは自然と読んで理解してしまえるのかも。ただ、ナタリーが、何もしなくてもうまい作品が書けたという前提のもとに、物語すべてが成り立っているのが気になりました。

愁童:編集者が修正を要求して、この子がどう対応したかが書かれているとおもしろいと思うんだけどな。

アカシア:作家魂について書いているのではなくて、出版の過程をを書いているから、それはないものねだりなんじゃない? ただ、作品の中にナタリーが書いた本『うそつき』の一部が出てきますが、これがもっと面白いと、出版しようとするエネルギーにもリアリティが出てよかったのに。

紙魚:大人を悪く書くことで成りたっている物語もあるけれど、クレメンツの場合、大人もこんなにすてきなのよという姿を見せてくれるところが好き。社会のしくみをわかりやすく見せてくれるし、大人と子どものすてきな関係も見せてくれる。こんなふうに大人と付き合うのも悪くないよと、関係性の雛型になって、読んだ子どもたちに希望をもたせてくれるのでは。

ハマグリ:12歳くらいの子どもたちは、自分の父親や母親の職業が気になる年頃なので、そういう子どもたちにはとてもおもしろいと思います。実際に会社まで行って様子を見るので興味深いと思うし、とても具体的に書いてあるんですね。たとえばエージェントの事務所を借りるところなんかも、どういう用紙に、どんなことが書いてあるか、「希望サービス」としてどの項目にチェックをつけるか、など詳しく書いてあるでしょ。こういう細かいところを子どもはとても興味をもつと思う。挿絵はこんなにマンガチックじゃなくてもいいかな。せっかくのすてきな出版社の部屋などは、もっとリアルに書いてほしかった。また文章の書き方も、子どもにわかりやすい工夫がされている。57ページ、本についての記事を読んで、出版の世界を垣間見たゾーイの頭がぐるぐるまわってしまったところ、去年農場で大きな岩をどけてみたらアリがうじゃうじゃ走り回るミクロの世界に驚いたことをひきあいにだしてきたり、87ページ、「ゾーイになにかを途中でやめてとたのむのは、バナナを食べているチンパンジーに、途中でやめろというようなものなのです」など、この作者が、つねに子どものことを念頭に置いて書いている人だなということがわかる。もっといろいろな職業ものを書いてほしい。

すあま:今、学校では職業について考える授業があるので、そこで紹介できるといい。作家になるナタリーだけじゃなくて、ゾーイみたいに「起業する」ことに興味をもつ子もいると思う。私は『こちら「ランドリー編集部」』よりも、こっちのほうがおもしろかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


花形みつる『ぎりぎりトライアングル』

ぎりぎりトライアングル

愁童:今回の課題本では一番おもしろく読みました。子どもの「今」が書かれてるって思う。教室から疎外されているような子どもをうまく書いている。現実には、こういう関係って、たじろぐ子が多いと思うけど、主人公に感情移入することで、いろんな人間関係に子どもらしく素朴に踏みこんでいくきっかけになるといいなって思いました。

トチ:イマドキの子どもがこの作品をどれくらい身近に感じるかはわからないけれど、私はとてもおもしろく読みました。シノちゃんとアリサがが漫画的だけど生き生きと描けているし、それぞれの背景も深刻にならない程度にさらっと書いてある。人生の奥深さを感じさせる作品とまではいかないけれど軽い読み物として気持ちよく読めるんじゃないかしら。ただ、「〜なの」「〜なの」という文章が続くところ、語り手のちょっとうじうじしている性格をあらわしているのかもしれないけれど、ちょっとうるさかった。

カーコ:私は、入りこめませんでした。普段見ている小4と小6の子と比べると、この子たちは、確かに今の子が使うような言葉づかいをしているんだけど、想像しづらかったんです。暴力に訴えてくるような子って、家庭的なこととか、何かがあって乱暴するようなことがあるんだけど、この二人は素直でハチャメチャなんですよね。家では安定していて、教室に入るとむちゃくちゃなことを通しているというところに、リアリティを感じられなかった。実際に子どもが読んだら、どのくらい身近に感じられるだろうと思いました。

紙魚:子どものときって、言葉がうまく使えないから、取っ組み合いしたり、体でぶつかってコミュニケーションすることが多いんだけど、だんだん言葉を使えるようになると、言葉でなんとかしようとするじゃないですか。その中間にいる年齢の子どもたちの、体と言葉のギャップをうまく書いていると思いました。シノちゃんやアリサには、体や勢いで人とぶつかっていく力がある。それに影響されて、コタニは、自分が本来持っている力に気づくという過程が、しぜんに伝わってきました。

ハマグリ:今の子どもたちの友だちづくりの難しさ、今の子どものかかえる問題を書きたい人なんだな、ということはわかるんだけど、今の子どもたちを描いている物語って、居場所がなくて浮いている主人公という設定が多すぎて、またかという感じがしましたね。この作家は、文を書くのが好きで、思った通りに手が動いちゃう人なんでしょうけど、この文体はいかがなものかと思いましたね。26ページ「あたしってつまんないやつなの。動きはトロいしギャグもつうじないし、知らない相手だとアセッちゃってなにをしゃべっていいのか、よくわかんないし。云々」っていうけど、自分でそういう割には、この一人称の饒舌なしゃべり方は、「つまんない、トロい」子だという感じがしなくて、違和感がある。この子はこういう子なんですって書くんじゃなくて、どういう子なのかは、行動を通して読者が自然に理解していくものだと思う。

トチ:具体的なところは万引きのところだけね。

ハマグリ:会話文だけでなく、地の文にも今の子のしゃべりことばを多用して、「こーゆー」「トートツ」などと音引きで入るのは気になりますね。しゃべっている言葉と、文章として読む言葉はちがうんじゃないかな。

紙魚:この作品だけでなくて、最近、大人の文芸でも、地の文に、自分でボケて自分でツッコミを入れるという文体が目出つように思います。あと、今の子どもたちって、ふだんの会話でもしぜんとそういうことをやってる。

ハマグリ:一人称の小説って、読者が主人公に心を寄せやすいものだと思うけど、自分ひとりでどんどんしゃべっていく感じと、実際のこの子というものにギャップを感じてあまりくっついていけなかったの。

アカシア:私は、コタニノリコみたいな子っているだろうなと思ってリアルに感じましたね。実際には力を持っているのに、まわりとのつき合い方がわからなくて自分ではトロいと思ってる子って、この年頃にはたくさんいると思う。だから違和感なく入っていけて、とってもおもしろく読めました。子ども同士の会話が、テンポよく進んでいくのがいい。「こーゆー」とか「トートツ」は漫画なんかだとしょっちゅう使われているし古くなるとは思わないけど、「鈴木その子」なんていう固有名詞は古くなりそう。何年かたつともう知らない子が出てきますよね。最後、いなくなったコタニを、シノちゃんとアリサは捜しに捜しているんだろうと思ったら、実際は授業サボって遊んでただけだったというのも、この二人の特徴がくっきり浮かび上がるし、リアリティがあっていいですね。それに対してコタニが「もー、シノちゃんもアリサも、自分勝手でメチャクチャなんだからー」と、最後の最後に大声でどなります。これまでは言いたくても言えなかったのが、最後にふっきれて言えた。三人のこれからを予感させる終わり方で、すごくうまいと思いました。

:それぞれの人物がありがちではありながら、結局ふつうの子どもはありがちなわけだから、テンポよく読めました。そんなにわざとらしくなくて、しぜんに読めました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)