月: 2020年2月

2019年12月 テーマ:仲間とともに立ち向かう

日付 2019年12月18日
参加者 まめじか、ネズミ、ハル、マリンゴ、コアラ、西山、ハリネズミ、すあま、ルパン、カピバラ、彬夜、(しじみ71個分、アンヌ)
テーマ 仲間とともに立ち向かう

読んだ本:

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アラン・グラッツ『貸出禁止の本をすくえ』表紙

貸出禁止の本をすくえ!

西山:ほんっとにおもしろかったです! 架空の作品も混ぜているのかと思っていたので、最後に驚きました。アメリカの図書館で「異議申し立て申請」という制度が日常的に活用されていること、貸し出し禁止措置が取られることがあるということへの新鮮な驚きがあります。日本の図書館のことも、私は知らないことだらけだと思うので、いろいろうかがいたいです。図書館の蔵書に対して「異議申し立て」という発想自体が私には無かったので、ギョッとするような申し立てもできるシステムがあって、それに反論なりしながら、図書館の自由を守るというのは、鍛え続けられる人権意識だなと思いました。あいトリ「表現の不自由展」への、見もしないで行われた攻撃、『はじめてのはたらくくるま』(講談社ビーシー)への異議申し立てを出版社相手に行ったこと、堂々と売られ続け棚に並び続ける『かわいそうなぞう』(土家由岐雄作 金の星社)、『ママがおばけになっちゃった』(のぶみ作 講談社)批判、少し前の『はだしのゲン』(中沢啓治作 汐文社)閉架措置問題など、いろいろ思い出しながら読みました。「異議申し立て」が「貸し出し禁止」(ひいては発行禁止)に及ぶのではなく、中身への論理的批判が無いところに、「配慮」や「忖度」による、議論抜きの決定事項としての「禁止」が来るのではないかと思いつきましたが、どうでしょう。作品から離れた事ばかり考えさせられたというのではなく、もちろん、どきどきひやひやワクワクしながら読みました。エイミー・アンの家の騒々しさには、読んでいてこっちまで「わーっ」となりそうでしたし、多分、ものすごく表情を変えながらのめり込んで読んでいたと思います。『クローディアの秘密』(E.L.カニグズバーグ作 岩波書店)を「今は、冒険みたいにわくわくするところが気に入っている」(p321)と、同じ作品でも読み手の経験やその時々で変わってくるという、読書とはどういう行為なのかということを語っているところ、共感しながら読みました。一つだけひっかかるのは、この本を読んでいいとかいけないとか言う権利が保護者にはあるのかということです。それで行くとマービンは『スーパーヒーロー・パンツマン』(デイブ・ピルキー作 徳間書店)その他を読めないことになります。「子どもの権利」という観点からどうなのだろう。「憲法修正第一条」は成人の成人のみを対象にするということになるのでしょうか。あと「行儀のいい女に、歴史はつくれない」(p298)という名文句が、オリジナルのフレーズなのか、そういう慣用句があるのか、ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。

ハル:おもしろかったです。私は子どもの頃、両親に漫画を禁止されていましたし、私の家だけでなく、大人が下品だと思う本やテレビ番組が禁止されるというのはよくあったことで、また禁止されると余計に興味がわくものです。隠れてこっそり読んだり見たりしていました。なので、もしかしたら日本の子には、ある本が学校の図書館で貸出禁止になったところで、ここまで大問題に思うかどうか、新鮮に感じるかもしれないなぁと思いました。p39で司書のジョーンズさんが「教育者としてのわたしたちのつとめは、子どもたちにできるかぎり多様な本、多様な視点にふれさせることです。~~」と、語ってしまうのですが、これは読者の子どもがあとから知ればいいことで、先に明かさなくてもいいんじゃないかと思いました。でも、今回この本を読んで、私もついつい「こんなことを子供が読んで真似したら危ないんじゃないか」と臆病になってしまうところがあるなぁと反省しました。もっと子どもを信頼しないといけませんよね。

マリンゴ:とても読み応えのある本で、ほぼ突っ込みどころがなかったです。子どもにこんなことを伝えたいと、与える側は思うけれど、子どもがどう受け止めるかは全くの自由で、それこそが読書の醍醐味なのだと改めて感じさせられる作品でした。主人公は家で、やっかいな妹たちのこととかで大変なんですけど、それが絶妙な匙加減で、「ユーモラス」と「かわいそう」の境目にあるため、深刻になりすぎないのがよかったと思います。それと、『スーパーヒーロー・パンツマン』の作者のデイブ・ビルキーさんが実名で登場する、その仕掛けが興味深かったです。実際に作者同士、知り合いなのでしょうか? 主人公が、この作者を別に好きじゃないというスタンスなのがおもしろかったです。普通、こうやって作品に登場してもらうからには、もう少し配慮して、主人公が大ファンという設定でもおかしくないと思うので。

カピバラ:主人公は、たくさんの本を読んでいるだけじゃなくて、気に入った本は何度も読みます。こんな子がいるって、なんてうれしいんでしょう! しかも実在の書名がたくさんでてくるので、その本を読んだことのある読者はうれしくなりますよね。例えばp197「本の山は、宝の山。わたしはきゅうに、自分が『ホビットの冒険』(J.R.R.トールキン作 岩波書店)に出てくる竜のスマウグになって、金や宝石の山の上にすわりこみ、ホビットやドワーフたちに宝をとりかえされないよう、必死にまもっているような気がしてきた」という引用など、感じがよくわかるし、同じ本を読んでいればこその楽しみがあります。読書好きの子にとってはたまらない1冊でしょうね。逆に読んだことのない本ならば、これをきっかけに手にとってくれればいいですね。『クローディアの秘密』なんて、おもしろそうだな、って思うんじゃないでしょうか。主人公はとても感受性が豊かで、いろんなことを考えているけれど、それを口には出さないんですね。頭の中でいろいろ妄想するところは子どもらしい発想でおもしろかったです。読者の共感をよぶと思います。また、大人が子どもから遠ざけたいと思う理由のくだらなさも皮肉です。西山さんがおっしゃった「貸出禁止の権利があるのは保護者だけ」というのは、ジョーンズさんが言っていることなのでは?

ハリネズミ:私はおもしろくずんずん読んだんですが、メール参加のアンヌさんの意見をさっきちらっと見たら、「これは設定が変だ」って書いてあったんですね。それで、ああなるほど、と思ったりはしました。最初からちゃんとした手続きをしてもらえばよかったのに、となると、子どもの活躍はなくなってしまうんですよね。多作の作家は、あまり緻密じゃない部分もあるのかもしれません。それと、エイミー・アンが、いろいろなことが言えるように変化するのはすてきだけど、最後は「理不尽なことには抗議するけど、親の言うことは聞く」というふうになるので、だとすると道徳の教科書みたいで、予定調和的。そこはちょっと物足りなく思いました。それから、アメリカは学校図書館や公共図書館に「こんな本を置いておいていいのか」と抗議ができるようになっていて、抗議が多かった本については、書棚から引っこめるというのを州単位で決めるんですね。そのリストは毎年発表されるんですが、それを見るとみなさんびっくりすると思います。マヤ・アンジェロウもだめだし、ハック・フィンもだめになっていたりする。信心深い人は、「ハリー・ポッター」は子どもが魔法を信じるようになるのでダメとか、性的な言葉が出てきたり、汚い言葉が出て来たりするのもダメになったりします。でも、逆に、そういう本を読みましょうという運動もあったりするのがおもしろいところですね。

コアラ:タイトルで、おもしろそう!と期待して読みました。期待に違わず、おもしろく読んだのですが、途中で、教育的なニオイがするなあとも思いました。p57で、作者はレベッカに「(貸出禁止になった本は)おもしろいに決まってるじゃない」「だから大人が、貸出禁止なんかにするんだよ」と言わせていますが、“本はおもしろいから読め読め”という作者の意図を感じるというか、作者が子どもに本を読ませたいから、そう書いているんでしょ、と思えてしまいました。権利章典について調べる学習も、それで権利や自由を学ばせるのね、子どもにその視点を持たせたいのね、と思えてしまって、押し付けがましさを感じました。それでも、クライマックスの教育委員会の会議での、レベッカやエイミー・アンの発言は、痛快でした。自由を侵されたら、異議を申し立てる、自由を守るために戦う、というアメリカ精神が前面に出ている本だと思います。後ろに本のリストがありますが、この本から別の本に手を伸ばしていけるといいと思いました。日本では、貸出禁止問題はどうなっているのでしょうか。

すあま:久々におもしろい本を読んだという感想です。最初からいきなり衝撃的な事件が起こり、大人に対抗して子どもが団結するという話で、おもしろく読めました。この物語の中で貸出禁止になる本は、長く読み継がれてきたもので、禁止した大人も子ども時代に読んだ本。実際の本が登場するので、この本をきっかけに読んでくれるといいと思います。禁止になった本を子どもたちがこっそり読んでいるのは、禁止されると読みたくなる、ということで、本を読んでもらうために禁止したのでは、とすら思えてしまいました。解決策に図書カードの貸出記録を使ったところは気になりましたが、学校司書がフォローしていたのでちょっと安心しました。この本は、大人が子どもの読む本を制限するということだけでなく、言いたいことが言えなかった子が、言いたいことをちゃんと言えるようになる様子を描いているのがよいと思いました。

ルパン:p275で、エイミー・アンが家族への不満をぶちまけるところで、泣けて泣けて。ちょうど電車の中で読んでいたのですが、「これはまずい」と思えるほど涙があふれてしまいました。ただ、荷物をまとめて家を出て行くところまでは拍手喝采だったのだけど、ママが追いかけてきたとたんにすぐにあやまってしまうところで、ものわかりよすぎるなあ、と、ちょっと拍子抜けでした。この両親にはもうちょっとわからせてやらなければならない、と。しかも、結局エイミーは自分の部屋をもらうんですが、もともと客間だのトレーニングルームだのがあったことに驚きです。妹のひとりは個室をもっていたのだから、この子ももっと早く自分の部屋をもらえてもよかったのに。貸出し禁止をやめさせるアイデアはスカッとしました。大人の論理を逆手にとって、たいした逆転劇でした。スペンサーさんの読書記録を晒さずに、これだけで勝ちにもっていったらもっとよかった。たとえば、ネットや本で簡単に調べられるような、有名人や偉人の読書経験などを引き合いに出すだけでも、この論理で行けたはずなので。

彬夜:これは、今回の3冊の中でいちばんおもしろかったです。大人に対峙して、子どもたちだけで工夫をしながら抗うのが痛快です。エンタメ作品で子どもが活躍するというのはいくらでもあるでしょうが、暴力的な反抗などでなく、子どもたちだけで大人に一泡吹かせるというか、刃向かっていく、という物語は、あまり日本で見ないような気がします。それをリードするのが、言いたいことが言えないエイミー・アンという子であるのが、またいいですね。家族の中での立ち位置についても、特に読み手が長女だったら、共感できる子が多いのではないでしょうか。物語の方向はある程度見えてしまって、まあ、予想通りのハッピーエンドと成長が語られるわけですが、それでも、読後がよかったです。保護者が子どもの読む本を禁止できるというのは、私もちょっとひっかかりました。あと、校長のリアクションが書いてなかったので、そこもちょっと知りたかったです。

まめじか:「本は宝の山」と言う主人公が、本を大切に思う気持ちが伝わってきました。主人公は最後に、「本でおそわったからやったんじゃない。本を貸出禁止にされたから、うそをついたり、ぬすんだり、大人にさからったりしたんだ」と言っています。ブラジルの画家のホジェル・メロさんは国際アンデルセン賞を受賞したとき、かつて軍事政権が本を禁じるのを見て、「彼らが恐れるほどの力が本にあるのを知った」と語っていました。自分が好きではない本も守るのが、多様な意見や表現の自由につながりますし、図書館は知る権利を守る場ですよね。アメリカには毎年、禁書週間があって、撤去要望の多かった本を展示するキャンペーンを書店や図書館が行っています。あと物語について言えば、あたたかな家庭なのに居場所のない感じがリアルでした。p229「だれも、わたしのことを、いわれたとおりにするいい子だって、思ってくれない」という文を読んだときは心配になりましたが、そのあとp246「なにも意見をいわず、問題もおこさないエイミー・アンがいい子? それとも教育委員会のまちがいをだまって受けいれず、それを正すために行動をおこすのがいい子なの?」とちゃんと言わせているのもいいですね。

ネズミ:すごくおもしろかったです。主人公が、人に言えないけれど、心の中でああでもない、こうでもないと考えているところ、大人がすることに対しても、それでいいのかと、いろんな方向から考え、立ち向かっていくところがとてもよかったです。ロッカー図書館がだめになったり、大事な紙をシュレッダーにかけられてしまったり、困難にぶつかりながらも、それでくじけないところは、子どもに勇気を与えてくれそう。「三つ編みをしゃぶる」など、深刻にならず、ユーモラスに感情が表現されているのもいい。長いけれど、読んでほしい本だと思いました。

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しじみ71個分(メール参加):以前、中野怜奈さんが子どもの読書の制限に関するニュースを国際子ども図書館のサイトで紹介してくださったのですが、「差別的表現」「暴力的な場面」「薬物・飲酒・喫煙」「同性愛」「性描写」「対象とする読者の年齢に合わない」「宗教上ふさわしくない」等が理由で、学校等で利用制限が要望された本のトップ10をALA(米国図書館協会)が4月に発表しているとか、子どもたちの読んだ本を保護者に公開している、というような事例が実際に米国であるということを情報として得、子どもの読書の権利について以前から問題意識があったので、とても興味深く読みました。
話の筋としては、思ったことを口に出して言えない女の子が貸出禁止の本を貸すロッカー図書館を始めたことで、大事なことを言えるように成長すること、本や読書への愛情、本の中で子どもがさまざまな事柄を体験し、時には閉ざした心を揺らし、動かすといった、本が子どもに与える影響などが描かれていて、おもしろく読みましたが、図書館員としてどうしてもこれはダメだと思うのは、スペンサーさんの読書歴をエイミー・アンが暴露することです。図書館の自由に関する宣言では、図書館活動に従事するすべての人は、利用者の読書の事実を守らなければならないと述べています。なので、多くの図書館では、貸出記録が利用者の目に触れる方式はもう採用していないと思います。読んでいる最中で、エイミー・アンが重要証拠としてスペンサーさんの貸出記録のあるカードを見つけて、それを逆転劇の場面で使うことは容易に想像できてしまいました。この利用者の読書の秘密を保持する件については、教育委員会での演説のあと、司書のジョーンズさんがエイミー・アンに読書の秘密を守ることについて一言述べるだけに留まっているのにはどうしても大きな違和を感じます。また、ジョーンズさんが繰り返し、子どもの読書について制限していいのは保護者だけ、と言い、エイミー・アンもそれについて納得しており、最後の場面では親から子の本は早すぎる、と言われて抵抗しないのもちょっと納得がいきません。国際子ども図書館の同僚間でも、子どもは未熟な存在だから大人が導き、優れた本を紹介するのだ、という議論が定着していて、そのような発言を聞いて、子どもの読書の権利をどう考えるべきか、ずっと疑問に感じていました。子どもたちは大人の薦める良書のみを読まねばならないのだとしたら、それはどうなのか、と今でも悩んでいます。大人からしたら悪書でも読みたいときがあるのではないかと思います。
展開もスピーディーでハラハラ、ドキドキもあり、お姉ちゃんの我慢とか家族の問題もあり、主人公の成長もありで、物語自体はおもしろく読めたのですが、図書館の自由と子どもの読む権利の2点において、とても大きな引っ掛かりを覚えた本でした。

アンヌ(メール参加)本好きにはたまらなくおもしろい本だと思うのだが、少々疑問点がある。まず大前提である、「本を貸出禁止にする仕組み」を、なぜ教育委員会が無視したかということだ。スペンサーさんが独走することを、校長を含め、なぜ教師たちが許したのかがわからないまま話が進む。結局、もともとの規則に従おうということで終わるのだから、教育委員会という名のPTAの暴走への戦いの物語なのだろうか。まあ、それはそれとしてとてもおもしろかった。本以外に行き場のない主人公、クラスでも家庭でも言いたいことを胸にためたまま、人の言うなりに過ごしてきた少女が、唯一の居場所である図書館と、心のよりどころである本を取り上げられたら、それは変身するしかないだろうと納得がいく。それにしても主人公は注意深いというか、一概に人を決めつけるところがないのがいい。私は特に、偽の表紙と題名をつける場面が好きだ。聞いたことがあるようなでたらめな題名がおもしろいし、p204の『17番目のお姫様』の表紙にあったお話を作る場面を読みながら、 私なら『おれの指をかげ』をどんな話にするかと考えて楽しんだ。 そうしていたら、耳は聞こえず目も見えない愛犬の起こし方というネットの動画が流れてきて、そっと鼻先に指を出して、匂いをかがせて起こすというのがあって、 これで感動的な物語ができるなと思った。
二度目の教育委員会の会議で、「禁止本を読んでいた」と、スペンサーさんを指摘するところで終わらず、 でもいい人に育ったというところは、
いいような悪いような落ちつきのない気分にさせられた。うまく丸くまとめたという感じがする。でも、そこで終わらず、主人公の家庭内での関係も変わったのだから、いいことにしようというめでたしめでたしの物語で終わったので、まあよかったと言えるかもしれない。

(2019年12月の「子どもの本で言いたい放題」)

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ジェイソン・レノルズ『ゴースト』表紙

ゴースト

コアラ:タイトルを見て、幽霊が出てくる話だと思って期待して読み始めたのですが、主人公の男の子が自分につけたあだ名ということで、がっかりしました。タイトルで期待させて、ずるいと思いました。私はアラン・グラッツの『貸出禁止の本をすくえ!』の後でこれを読んだのですが、家族に向かって発砲するというショッキングなことが書かれているし、主人公が靴を盗んだりするので、これこそ「貸出禁止」になりそうな本だと思いました。アメリカの、銃の問題や暴力や家庭の問題は、今に始まったことではないと思いますが、アメリカの社会の現実を表している本なのかなと思います。「訳者あとがき」には「ノリのよさ」とありますが、全体的にちょっと荒っぽいなあという感想です。でも、p251の最終行、「自分という人間からは逃れられない。だが、なりたい自分に向かって走っていくことはできる」という言葉は、すごくストレートで、好感を持ちました。それから、アメリカの、学校の部活でない、地域のクラブチームとはどのようなものなのか知りたくなって、少しネットで調べたりしました。原題に「Book1」とありますが、シリーズものだったら、続きが読みたいと思いました。

ハリネズミ:私はとてもおもしろく読みました。今日11時に図書館で借りてきて、引きこまれてずっと読み、電車の中でも読んで読み終わったんです。こういう境遇の子どもはいっぱいいると思うんですが、まわりに手を差し伸べる大人がいるのがいいですね。お母さんもいっしょけんめいだし、おばさんとか、応援を派手にやるサニーのお母さんとかも。それぞれに背景があることも読んでいるうちにわかってきて、うまく作られているなあと感心しました。中華料理店で注文するものも庶民的だし、リアリティがうまく出ています。耳の遠いチャールズさんもいい味を出しているし、主人公のまわりに盛り上げ役の人たちがいっぱい登場するのも、おもしろかったです。シリーズだとすると楽しみです。

カピバラ:私もとてもおもしろかったです。主人公はものすごくシビアな状況を抱えているのに、明るくユーモアをもって語っているところがよかったです。ひとつひとつの描写が具体的で、例えばひまわりの種の食べ方でも、よくわかるように描かれているので、主人公が感じることを一緒に体感できると思います。また、母ちゃん、監督、チャールズさんなど、まわりの大人がよく描きわけられているし、主人公が口ではいろいろ言っていても、大人に対して意外に素直なところも好感をもちました。アメリカの児童文学では以前は白人は白人だけの社会、カラードはカラードだけの社会で別々に描かれていたけれど、今は普通の暮らしの中で自然に混ざり合っているんですね。この主人公はアフリカ系ですが、登場人物には白人もいて、そのような状態が日本の読者には、ちょっとわかりにくいかな、と思いました。本を読むときは姿かたちを想像しながら読むけれど、よくわからない場合もあるのではないかと思います。肌や髪の色がヒントにはなるけれど、すぐにわからないことも多いので。ジェームズ・ブラウンが白人だったらこんな顔、というような表現はわかりやすかったけど、ジェームズ・ブラウンってどんな顔かわからない読者もいますよね。

ハリネズミ:今、ジェームズ・ブラウンがわからなければYouTubeですぐ見られるので、わかると思います。

カピバラ:調べれば、ね。

ハリネズミ:興味があれば、とくに映像はすぐ検索する人が多いんじゃないですか。あと白人か黒人かというのは、どっちでもいいというふうに、この界隈ではなっているんじゃないでしょうか。だから、そこを書かなくてもいいんじゃないかな。

マリンゴ: 私も、選書しようかと、以前候補に入れていたことがありました。なので、読んだのが少し前で記憶が遠いのですが、よかったと思ったのは覚えています。ただ、本の帯やあらすじ紹介が、ちょっとミスリードしている気がしました。帯は、「銃声が聞こえたら走れ!」。あらすじの説明は、「あの銃声をきいた瞬間、逃げ足がいっそう速くなったってことだ。」。それを先に見た私は、足がとてつもなく速くなるファンタジーなのかと思ってしまい、当初戸惑いました。あと、監督が地元出身の五輪メダリストであることが後々わかるんですけど、こういう人って地元ではみんなが知る有名人なのではないかしら? 物語の都合上、知られていないことになっているのか、あるいはアメリカという国はメダリストも多くて、日本ほどメダルの価値が高くないから知らないのか、そのあたりがわからなかったです。

ハル:読み始めてすぐに、この主人公のことが好きになりました。ゴム製のアヒルを世界一たくさん集めるなんてブキミだと言ってみたり、いちいち口は悪いし、くすぶってるし、ひやひやさせられますが、とっても魅力的で、応援したくなります。他の登場人物たちもイキイキしていて、いろいろと映像を思い浮かべながら楽しく読めました。靴を万引きしたあと、なかなか発覚しないので逆にハラハラしました。でも、この決着のつけ方は、読者である子どもたちにとってはきっとうれしいでしょうし、味方になってくれる大人がいるんだと心強く思うかもしれませんが、お母さんからしたら、黙っていてほしくはなかったでしょうね。余談ですが、「歌手のジェームズ・ブラウンが白人だったらこんなだろうって顔をした人」(p9)というような表現は、白人の作家、あるいは白人の主人公のセリフとして書かれてあったら、読者の反応はどうなんだろうと思いました。

西山:どうなるのだろうという興味で読み進めましたが、全体としてはあまり賛成できなかったです。ディフェンダーズの新人食事会、それぞれの「不幸話」(敢えて言います)を打ち明け合うことで、一体感ができてしまう。監督も含めて。その展開はぺらぺらすぎる気がします。修学旅行の告白大会か?と言いたい。

ハリネズミ:私はそこはぺらぺらだと思わなくて、たとえばアン・ファインの『それぞれのかいだん』(灰島かり訳 評論社)だって、自分だけが特殊だと思っていた子どもたちが偶然集まった時、少しずつ話していくうちに、自分ひとりじゃない、ということがわかってくる。こういう界隈だと「自分ひとりがまわりと違う」と思っている子も多いと思うんですよね。それに告白大会ではなくて、ただ現実を話してるんですよ。

西山:だいたい、料理が来てから、あれを始めてしまう監督のやり方がとても嫌でした。温かいうちに食べようよ!

ハリネズミ:でも、料理が出てきて、うれしい気持ちにならないと、緊張はほぐれないし、言ったとしても表面的なことだけになってしまうのでは?

まめじか:監督も同じような過去を抱えているし、この子は、これまで心を開くということをやってこなかったんですよね。で、これがきっかけで初めて相手を信頼して自分の過去を出すことができる。たしかに軽いタッチでは書かれているけれど、シリアスにならずにどんどん読ませて、でもやっぱりとても考えてそこは出しているんだと思います。

ハリネズミ:ごちそうが出ているから、あったかいゆとりのある気持ちになっているんだと思うのね。教室で、ひとりずつ何か言いなさいというのとは違う。

西山:ところで、北京ダックって、どうやって食べればいいのかわからない料理の一つだと思うのですが、アメリカではそうではないのでしょうか。お高くて難しいメニューというイメージをもってしまっているので、それをするっと注文し、とまどいも無く食べるゴーストって?とひっかかりました。万引きも、解決としてあれで良いのか?と思います。盗んだ靴を履き続けることに抵抗はないのか。こちらも扱いの軽さに釈然としませんでした。現実問題として自分だけじゃないという共感はとても大事だと思いますが、作品を読みながら思ったのは、重い過去をもっていない子がいたら、どうなるのか、ということです。

ハリネズミ:そこは監督がわかってるんだと思いました。詳しいことはわからないでしょうが、監督も同じような育ちなので、バイブレーションのようなものは感じてるんだと思います。だから、最初は嫌がっていたゴーストも、p185「みんな、自分の家族についてすごく個人的な話をした。だからひょっとしたら、うちの話もだいじょうぶかも」となり、話した後はp186「おれは・・・・・・気分がよかった。さっぱりした気持ち。みんな、ぎょっとしたみたいだけど、おれのことをわかってくれたような気がした。やっとみんなと同じレースで、同じスピードで走ってるって気持ちになった」となる。それに、子どもたちから責められて、監督も自分の過去を話さざるを得ないという展開に、作者はもっていっています。

西山:監督も、負けず劣らずハードな過去を持っていることを明かすことで、ゴーストの反発が消える展開から、つまるところ、同じ境遇の存在同士しか本当にはわかり合えないのだという認識を突きつけられたようで、私は反発したのだと思います。

ネズミ:おもしろく読みました。『貸出禁止の本をすくえ!』もそうですが、はっきりとした声が伝わってくる文章がよかったです。貧困地区に住んでいるというだけで嫌な思いをさせられ、しかもこの子は怒りをコントロールできず、すぐに爆発してしまう性格。一度かかわった子どもを見放さない監督に出会えてよかった。ドキドキしながら、一気に読んでしまいました。靴を盗んだことがわかったp210からp211にかけての「罰をくらったり、母ちゃんともめたりするのがこわいわけじゃない」から始まるパラグラフは、口には出せない主人公の複雑な思いが言葉にしてあってとてもよかったです。外に出せずとも、いろいろなことを考えていること、人間の感情の複雑さが集約されていて、こういうことを文字で読めるのはすごくいいなあと。

まめじか:「体のなかに悲鳴がうずまいている」主人公は、怒りやフラストレーションをコントロールできず、自分をもてあましています。そんなゴーストが、過去と向きあうなかで自分と向きあいます。それまでは発砲する父親や、靴を盗んだ店から逃げるために走っていたのに、最後は未来に向かって走りだすのがいいですね。訳は読みやすかったのですが、p98「完全無欠の人間」はちょっと固いかなと思いました。またp30「かけっこの得意なミルク色のぼうや」、p85「かんべんしてよう」とか、p135で靴を「シルバーのかわいいやつ」と呼ぶのは、中学生っぽくないと感じました。バカにしたり、ふざけて言っていたりするのでしょうが、日本の中学生がそんなふうに言うのはあまり聞かないので。

彬夜:まず、タイトルだけ見みたら、まったく違う物語と誤解されないかな、と思いました。おもしろくなかったわけではないですが、いかにも若い作者が書いたのかな、という荒削りな印象がありました。それは、けっして言葉使い云々ということではありません。登場人物の中では、チャールズさんがよかったです。監督は良い人物なのですが、明かされる過去のことばかりでなく車の中が汚いことなども、いかにも「感」があって、あんまりおもしろい人物造型とは思えなかったです。ハリネズミさんがおっしゃるように、個々の子どもたちの裏までわかっているのだとしたら、りっぱすぎて却って興が削がれる。それに比べるとチャールズさんの人物造型は好感度が高くて、その差が何かと考えたら、言葉の量の差かも。語りすぎないほうがいいんですね。自戒を込めて。こうしたクラブがどの程度の水準なのかはわかりませんが、それにしても陸上競技の描き方が適当すぎるのでは?大会の位置づけもよくわからないし、スニーカーで走るの?とか、当日に出場種目の発表?とか。ブランドンの走力もわからないまま、いきなりラストで出てきて、そういうところが、読んでいてストレスでした。読後の自分のメモに「軽妙が持ち味だが、深刻な問題を軽妙に書けばいいというものでもないのでは?」と書いてあり、そう思ったのは、なんとなく大味な感じがしてしまい、ストンと腑に落ちる感がちょっと足りなかったのかもしれません。

ルパン:おもしろく読みました。靴を盗むシーンでは、読書会で「人のものを盗んではいけません」って発言するのを期待されるだろうなあと思いながら読んでました。確かに「いけないわ」とは思ったんですけど、だんだん本人が、後ろめたさを感じはじめる、罪悪感が芽生えてくるプロセスが読み取れて、好感がもてました。一番いいなと思ったのは、物語中でずっと「監督」と呼ばれている監督が、最後の最後に「オーティス」という名前だ、というのがわかったところです。主人公が急に監督に親近感をもったであろうことが感じられました。父親から銃を向けられるというのは、ありえないような体験ですが、実の父親に発砲されたことで足が(逃げ足が)速くなった、というこのストーリー仕立てはすごい、と感服しました。リアリティとお話の力を同時に感じながら読みました。

すあま:お父さんに銃を向けられその結果お父さんは牢屋に入っている、という日本の子どもでは体験することのない設定だけど、主人公の気持ちは共感して読めるだろうなと思いました。お父さんはいないけど、チャールズさんや監督という親ではない大人が見守ってくれる。ゴーストが、けんかをしたり万引きをしたりと陸上を始めてすぐに変わってしまうわけではないところも、よかったです。万引きの解決方法はちょっと甘い感じもしましたが、読後感がよく、おもしろく読めました。ただ、ラストの方でけんか相手の男の子が選手としてでてくるのは、ちょっとできすぎだったように思います。

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しじみ71個分(メール参加):読後感のさわやかな、気持ちいい本でした。ゴーストがどのように走って成果を出すかの直前のわくわく、ドキドキするところで終わっているのも心憎いなと思いました。父親と貧困の問題を抱えた少年が、理解のあるコーチとチームのメンバーとともに陸上に喜びを見出していくさまは読む人に希望を与えます。存分に走りたい気持ちから靴を盗んでしまう場面では胸が痛みますし、そのことから生まれる気持ちの悪さ、罪悪感を一緒に背負って読みました。監督に盗みの件が露見して、謝罪しに行き、許されて、監督に靴を買ってもらうというのはとてもでき過ぎのような気もしますが、読みながら自分の気持ちをゴーストの気持ちに重ねて、罪を犯してしまった苦悩とその昇華を疑似体験できたように思います。翻訳の面でいうと、他の作品を読んでも、どうしてもリズミカルなアフリカ系アメリカンの英語のポップさ、リズムを再現するのは難しいと感じる点はありますが、引っ掛かるところなくすいすいと読みました。人物として魅力的なのはチャールズさんでした。ジェームズ・ブラウンを白人にしたら、という表現は言い得て妙というか、人物像が浮かんできてとてもいいなぁ、と思ったところです。チームのメンバーもアルビノ、養子、片親等々さまざまな背景を抱えているだけでなく、個性的で魅力的だと思います。苦しい練習を仲間と乗り越えていく中で、心中に渦巻く嵐を抑制できるようになり成長するストーリーに重点があるのかもしれませんが、欲を言えば、せっかくスポーツを題材にした物語なので、走ることのすばらしさをゴーストの感覚を通じてもっと描写してくれたら、もっと表現が胸に迫ってきたのではないかなとも思います。

アンヌ(メール参加):これは痛快で、今回の3冊の中で一番好きだし、歌のような作品だと思った。アルコール依存症とはいえ、実の父親に拳銃で撃たれて、その時自分が足が速いと気づくなんて、ラップが聞こえてきそうな感じだ。でも、彼はPTSDで自分の部屋で眠ることができず、毛布を敷いてい寝ている。食堂で働く母親との生活も貧しい。あっという間に監督を信頼するところとか、監督もお金持ちの道楽ではないところがいい。母に心配をかけまいとする監督を叔父に仕立てるところとか、クラスメートを殴った理由をきちんと説明できるところとか、自分を開いていくことができる主人公に信頼感を持って読んでいけて楽しい。万引きのところもドキドキしたが、きちんと解決がついたところでホッとしたし、監督の出自も語られて同じ痛みを知っている人なのがわかるところもすごい。最後も勝ち負けを書かずにいるところで、未来が開けていく感じがしてよかった。

(2019年12月の「子どもの本で言いたい放題の会)

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西田俊也『12歳で死んだあの子は』表紙

12歳で死んだあの子は

まめじか: 亡くなった子への思いも距離感も様々なクラスメイトが、その死をあらためて考える話です。主人公は受験に失敗したこととか、友だちをつくらなかったこととか、自分の過去に向きあうのですが、言葉にしがたい部分を丁寧にすくいとっています。p202「自分の手でつかんだものは裏切らない」「受験や学校のことなんて、自分の手でつかんだうちに入らない」というせりふからは、主人公たちは自分で考え、鈴元君の死を悼んだ経験をとおして、そう思い至ったのだなぁと思いました。鈴元君が亡くなったときに、クラスメイトに迷惑をかけたとわびた母親に、迷惑なんかじゃなかったと言う場面はいいですね。弱い立場にある人を排除したり、あるいはその人たちが、自分は足並みを乱しているのではないかと遠慮してしまったりする風潮を感じるので。

ネズミ:友だちが死んでしまったという状況を書くのは、おもしろいなと思いました。でも、ちょっと息苦しくて、課題本でなければ途中でやめてたかも。主人公は付属小学校から付属中に上がれなかった中学生で、付属中に行けないと「島流し」と呼ばれているという設定。そういうエリートの世界を書かれてもな、と思ってしまったところもありました。それまであまり関係してこなかった子どもたちが集まって、こういう空間を共有するというのは、現実にはありえなく思えるけれど、つくってみたいという作者の願いのようなものがあったのか。最後のほうは、結末が知りたくて一気に読みました。

ハル:ごめんなさい。ちょっと・・・私は人にはすすめられないです。主人公含め、ここに登場している人たちがどういう人物なのか、全然見えてこなくて、どれが誰のセリフかわかりにくい場面もありました。ところどころで、このセリフは本当に必要なのかなというのもありましたし、どこか座談会のテープ起こしを読んでいるような。人物像があやふやなところも、同級生の死に何かしらの意味を見出そうとやっきになってしまうところも、その同級生とは特別親しかったわけでもないところも、とてもリアルだとも言えますし、きっと著者にとっても思い入れの強い題材だったのだと思いますが、もっと、小説として読ませてほしいと思いました。受験の真っ最中に息子が死んだことで同級生に動揺を与えたことを「迷惑をかけた」という母親に対して、(同級生の死により)「学校では教えてくれない、大事なことを学びました」「感謝してるんです」(p195)って、これもちょっとないなと思います。

マリンゴ: 私は非常にいい物語だと思いました。主人公が、死んだ同級生とそれほど親しくなかったところがよかったです。同窓会で、その同級生の話題が出ないで終わるところも、リアルだと思いました。前向きな姿勢があちこちに見えて、死のことを描いてるのに希望がありますね。たとえば「告白しなかったから、始まる未来もあるんだ」(p148)とか。相手が生きていた頃にもっとああすればよかった、こうすればよかったと考えがちですけど、今からでもできることがあるんだ、という提案が伝わってきます。また、鈴元くんの父が登場するシーンですが、クライマックスなのに会話が静かなのが、押しつけがましくなくてよかったです。1つ気になるのは、修学旅行の場面。単身赴任している父に会いに行きたい場合、普通は学校に相談しませんかね? 学校もそういう事情なら許可を出すだろうし、親が堂々とホテルのロビーに面会に来るなり迎えに来るなりするのではないか、と。小学生がこっそり会いに行くのは、不自然な気がしました。

ハリネズミ:私は、小学校の頃ひたすら死というものが怖かったんですね。祖母が亡くなったからかもしれませんが。なので、こういう計画を立ててちゃんと送ってあげるということが子どもに可能なのかと、まずびっくりしました。ずいぶん大人っぽい行為のように感じたし、登場人物が老成していて、みんなきちんと考えているんだなあ、と。いいところは随所にあるけれど、私にはリアルに感じられなかったし、物語全体は少し長いかもしれません。表紙は、ちょっと不気味という印象を受けました。

コアラ:作者と物語の距離が取れていないように感じました。あとがきで、実際の体験をもとに書いた、とありましたので、やっぱりそうなんだ、と思いました。死の受け入れ方、向き合い方は人それぞれ、というようなことを、中学の先生が言っています。でも、この物語からは、同調圧力を感じるところもありました。「みんな」とか「友だち」などの言葉の使い方から、そう感じたのかもしれません。誰が話しているのかわかりにくい会話もあったし、◯◯がいった、という表現が続いたりして、たどたどしさを感じる作品でもありました。それでも、言いにくいことをきちんと言葉にしている場面もあって、特に、p158の7行目、「ぼくのことを怒ってませんか? 友だちがいのないやつだって」という発言は、胸にささりました。同じクラスの子の死、というものを真正面から描いたという意味で、こういう本もあってもいいとは思いました。

彬夜:静かな物語だなと思いました。読み手の感性によって、印象が分かれそうですね。ただ、私には合わなかったかな、という感じです。正直なところ、けっこう読むのがきつかったです。そもそも、2年後に、親しくもない子の墓参りにみんなで行くとか、あんなふうに、あちこちたずね歩くといった行動に、ついていけませんでした。親しくはなかったけれど、若死にした元同級生について、何かの折にしんみりと考えるとか、一人ひっそりお墓をたずねてみる、というのならわかるんですが。終盤、p249の「おーい、鈴元!」という箇所では、あ、だめ!と思って、思わず本をパタッと閉じてしまいました。会話と独白だけで進むのですが、なかなか物語に没頭できなずに、ちょっと油断すると迷子になってページを前に戻ったりしました。それから、だれの会話かわかりづらい箇所もあります。どの子も老成していて考え深そうに見える。けれど、感情の折り合いの付け方がとても整理され(仕分けされ?)ていて、そんなもんじゃないでしょう、と思ってしまいました。もっともやもやしたものがあるはずだし。作者自身の体験を踏まえた物語のようですが、なんでこの年代の子として書いたのでしょう。

西山:何を読まされているのだろうという思いで、とにかく読み終えはしました。まず、中学2年の秋に、小6の時の「同窓会」をやるという設定自体で、どうしても乗れませんでした。中2が、2年前を懐かしみ集まりたがるというのがどうしても腑に落ちない。それも、「参加者の多くは、そのまま同じ大学の附属中学に通っていた」(p6)のに、です。ぴんとこないまま読み進めると「ピンクのワンピースのえりからのぞく白いうなじを見て、どきっとした。」(p12)、で、また出たよ、何を読まされるんだよと、鼻白み、あとは「女子だけなのかと思ってた。男子もそうだったなんて」(p46)に始まり、やたらと、女子だ男子だという(p37,66)のに、古くさい印象を受けて、14歳の男子が世慣れた大人のように、初対面の自転車屋のおじさんに「めずらしいですね、これ」と話しかけたり(p131)、花屋さんに死んだ友人云々をきちんと話したり、鈴元くんの家族とも結構話せて、もう、今まで読み馴染んできた児童文学やYAの中ではお目にかかれない14歳男子で、かちんと来ることが多すぎました。生きていたら友だちになっていたかも知れないという思い方はいいと思ったのですけれど、その何倍もなんだこれ?が多すぎて、なかなか苦しい読書となりました。

ネズミ:昔自分が感じたやり場のなさや中途半端な思いを作者が完結させたくて、14歳にしたんでしょうか。

すあま:小学6年のときのクラスメイトが2年後に同窓会で再会する話ですが、内容としては高校生や大人でもよかったのではないかと思いました。クラスメイトがそれぞれ違う思い出を持っていて、次第に亡くなった同級生がどんな子だったのかがわかってくるところはおもしろいと思いましたが、物語自体は全体的にセンチメンタルな感じでおもしろいと思えませんでした。スマホとかメールを使っているのに、水着のアイドルのテレカとかバナナシェイクとか、どうも古くさい感じで、いつの時代の話なのかと考えてしまいました。作者の思い出が元になっているので、作者が中学生のころの話を今の時代に持ってきたのかな、と勝手に解釈してしまいました。

ルパン:私は、まったく受けつけませんでした。なんでこんな本が出ているんだろう、と首をかしげたくなるくらい。読書会の本でなかったら絶対すぐに読むのをやめていたと思います。この主人公、いったい何なんでしょう。読みながらもう腹が立って腹が立って。最後に、作者が自分の経験を書いた、とあって、「ああ、やっぱりな」という感じでした。おとなが少年の口を借りてしゃべっているようで、どのせりふも気持ち悪い。そもそも、仲良くなかった子のお墓参りにどうしてそんなにこだわるんでしょう? 要は、「夏野」っていう女の子が好きで、「島流し」にあっているのに同窓会に行ったのもその子に会いたいからで、死んだ子のことを思い出したのも、その子が卒業文集に彼への追悼文を書いたことが気になっていたからですよね。お墓参りなんてひとりですればいいのに、みんなで行くことにこだわったのも、企画すればその子と話す機会がふえるからじゃないですか。それに、夏野と亡くなった鈴元との関係も気になっているから、そこも知りたかった、というところでしょう。ともかく、卒業して2年たって、同窓会で夏野と再会して「白いうなじを見てどきっと」してから急に死んだ同級生のことで動き始めるんですが、そのプロセスのなかで何度も「彼とは、生きていたときには仲が良かったわけじゃない」ということを繰り返し言ってるんですよね。何が言いたいのかと思ってしまいます。仲良くなかった子のことを思い出している自分がえらい、っていうアピールをしたがっているとしか思えない。物語が、タイトルの『12歳で死んだあの子は』の続きにも答えにもなっていないんですよ。主人公だってまだ14歳なんだから、たった12歳で死に向き合わなければならなかった同級生がどんなに怖かったか、悔しかったか、悲しかったか、想像して寄り添うところがあってもいいはずなんですが、そこがまったく出てこない。この子の「お墓参りしよう」という発案を大人たちがほめるところも気に入らない。私がこの子の親だったら止めると思うし、死んだ子の親だったら「イベントにしないで」と言いたくなると思います。亡くなった子を知らない友達まで来て墓参りするところもなんだかいやでした。

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しじみ71個分(メール参加):あまり仲が良かったとは言えない同級生が6年生の3学期に亡くなり、その子の亡くなった2年後にみんなでお墓参りに行くことを企画する中で生や死、友情とは何かを改めて見つめなおし、新たに友情が育まれていくという物語と受け止めました。ただ、私は、今回、この本を読んでもおもしろさを感じることができず、読み進めるのに珍しく困難を感じました。すべてぼんやりしている印象を受けます。
物語でも再三書かれているのですが、特に親友でもなかったクラスメートの死を彼の不在によって同窓会で改めて再確認したというだけで、みんなでお墓参りに行こうといいうモチベーションになるかなという疑問と、行きたきゃ一人で行けばいいじゃん、という腹立たしさを拭えず、共感が湧いてこなかったということがあります。須藤という主人公に魅力を感じることができませんでした。
また、文体がどこかもったいぶっているように感じられ、結果的に全体的にどの子もキャラクターの輪郭がぼやけてしまっている気がします。また、中学2年生の台詞としては練れすぎた印象もあります。附属中学に行くか行かないかという子たちなので、賢いのかもしれませんが。
みんなが故人に対する思いを寄せあうことで、故人の違った側面や魅力が改めて見えてくるという仕組みはあって、それは一つサブストーリーとしてあるように見えますが、小野田を除いて誰一人として深い関係を持っていなかったために、喪失の思いが深く掘り下げられることがないのが残念です。小野田が主人公ならもっと苦悩が深まり、お墓参りで苦悩が昇華されるという物語にもできたのではないかと思ってしまいます。なので、読むと須藤がお墓参りで何か得ようとする自己満足にしか見えず、それが主人公の心情の発露としてなされるというよりは作者の想い先行のような居心地の悪さを感じます。合田里美さんの表紙の絵とタイトルから想起させられるイメージよりだいぶ小さな物語になってしまったように思います。

アンヌ(メール参加):死者を悼むということは思い出すということ。そういう大前提はわかっているのだが、苦手な物語だった。主人公の少年は、行動力がないようでふらっといろいろなところへ行ったりする。その人間像が最後までうまくつかめないままだった。まあ、それはともかく書き方で気になった点は、p147で主人公をあざ笑う渡辺が、p240でいきなり現れるところ。そうとう悪役で、家まで上がり込むんであきれるとか、「腹を抱えて笑う」という、変な表現で主人公と小野田をあざ笑っていたのに、唐突に現れるところがまあ、居心地が悪い。公園での望遠鏡とお父さんのやり取りとか、主人公のお父さんとのやり取りとかもなんか居心地悪い。だいたい、p60のかなりの高熱が一日で治るところも、奇妙だ。普通はこの時点で、親も気付くというか、気にしださないか? 高見順の詩の引用も、スタンダールの『恋愛論』も、かなり高度の読み解きがなされていてすごい。全体に、ひこ田中の『ぼくは本を読んでいる』(講談社)の
作者の変容でしかない主人公を思い出す。とにかく、何をいおうとこれは事実なんだと言われると、批評できないようでつらい物語だった。

(2019年12月の「子どもの本で言いたい放題」)

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アラン・グラッツ『明日をさがす旅』(さくまゆみこ訳 福音館書店)表紙

明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち

この本の主人公は3人。ヨーゼフと、イサベルと、マフムード。ドイツのベルリンに住んでいたユダヤ系のヨーゼフは、ナチの迫害を受けて、1939年にハンブルク港からキューバ行きのセントルイス号に乗り込む。キューバのハバナ郊外に住んでいたイサベルは、政権に反抗する父親が逮捕されそうになり、1994年にボートでアメリカを目指す。シリアのアレッポに住んでいたマフムードは、2015年に空爆で家が破壊され、難民を受け入れてくれるはずのヨーロッパに向かう。

時代も場所も異なる3人の難民の子どもたちの物語ですが、やがて彼らの運命の糸が思いがけなくも結びついていきます。私たちの想像を超えた危険や迫害にさらされ、恐怖に脅えながらも、子どもたちは、明日への希望を失わず、居場所をさがし、成長していきます。歴史的事実を踏まえたフィクションです。

時間・空間が交錯するのですが、グラッツのストーリーテラーとしての腕がすばらしい。読ませます。

(編集:水越里香さん 装画:平澤朋子さん 装丁:森枝雄司さん)

 

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<紹介記事>

・「朝日新聞」(子どもの本棚)2019年12月28日掲載

今、地球上にはふるさとを追われ命の危険も覚悟で国外へ移り住まなくてはならない人たちが大勢いる。この物語には、そういう状況にありながらも希望を失わずに生きていく子どもたちの姿が描かれている。ナチスの迫害からのがれるユダヤ人の少年。カストロ政権下のキューバからアメリカに向かう少女。内戦中のシリアからヨーロッパを目指す少年。同時進行でつづられる三つの物語が最後のほうでつながるところが圧巻である。難民問題を考えるきっかけにしたい1冊。(アラン・グラッツ作、さくまゆみこ訳、福音館書店、税抜き2200円、小学校高学年から)【ちいさいおうち書店店長 越高一夫さん】

 

日本にも続く「難民の道」

(ふくふく本棚:福音館書店)

安田菜津紀さんエッセイ「難民』

 

 

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リード&フェラン『たったひとりのあなたへ』(さくまゆみこ訳 光村教育図書)表紙

たったひとりのあなたへ〜フレッド・ロジャーズからこどもたちへのメッセージ

フレッド・ロジャーズというのは、アメリカで半世紀以上親しまれた子ども番組の制作者でありメインキャストでもあった人。子どもの言うことに耳を傾け、子どもをどこまでも尊重しようとし、ゆっくりとしたペースで番組を進めていきました。自分が小さいときにいじめられたり、孤独だったりした時のことを忘れず、子どもたちには「あなたはあなたのままでいい。あなたらしく生きればいい」と語りかけていました。また社会の偏見を打ち破ろうとした人でもありました。

彼の番組はYoutubeでもいくつか見られるようですので、のぞいてみてください。

たしかに古い感じはしますし、のんびりとした趣ですが、今アメリカでは、フレッド・ロジャーズが見直されているようです。トム・ハンクスが主演する映画もできています。それは今の刺激の多すぎる社会や、トランプ的な存在にノーと言いたい人も増えているからかもしれません。

(編集:吉崎麻有子さん 装丁:森枝雄司さん)

 

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ゴラブ&マルティネス『おまつりをたのしんだおつきさま』(さくまゆみこ訳 のら書店)表紙

おまつりをたのしんだおつきさま〜メキシコのおはなし

メキシコ南部のオアハカに伝わる、月と太陽についてのお話。私たちは、なんとなく太陽が沈むと月が出て、月が沈むと太陽が出ると思っていますが、じつは一つの空に太陽と月が一緒に出ていることもありますよね。そんなときオアハカの人たちは、「ゆうべは、お月様がお祭りをしてたんだね」と言うそうです。文章を書いたマシューさんは、何度もオアハカを訪ねて、昔話を聞き、自分でも読み聞かせのワークショップや、ストーリーテリングをしている方。マシューさんは、日本に住んでいたこともあって日本語がわかり、私の訳を送って相談しました。絵を描いたレオビヒルドさんは、オアハカに住んでいるメキシコ人画家で、彼ならではのユニークな絵に仕上げています。巻末には、メキシコの文化を知るための豆知識もついています。

(編集:佐藤友紀子さん 装丁:タカハシデザイン室 天文監修:縣秀彦さん)

 

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<作者あとがき>

メキシコの南部にあるオアハカ州にくらす先住民族の多くは、伝統的に宇宙を注意ぶかく観察してきました。オアハカの南でくらしていたマヤの人たちは、現代のカレンダーより正確ともいえるふくざつなカレンダーを考案していました。サポテカやミシュテカの人たちも、ピラミッドや都市を作ったり、宗教儀式を改革したりするときに、おなじように宇宙を意識していました。

いまでもオアハカの人たちは、月をじっくり観察して、天候を予知しようとしたり、作物の植えつけにふさわしい時期を知ろうとしたりしています。また、月は、美と命の源としてあがめられる一方で、人間らしい一面ももった存在として親しまれています。

こうして月を観察してきたオアハカの人たちにとって、太陽がのぼったあと、まだ空に月が見えるのは、想像力をかきたてるイメージだったにちがいありません。

ひと月をかけて月が地球のまわりをまわるなかで、月がのぼる時間は毎晩、変わっていきます。満月をすぎたあとの下弦の月(月の東側が光っている月)のころは、月は、真夜中に東の空にのぼってきて、朝には南の空を通り、お昼に西の空にしずみます。このため下弦の月のころには、午前中に西の空にかたむきかけた月を見ることができるのです。オアハカの人たちは、こうした現象をユーモラスに表現して「ゆうべは おつきさまが おまつりを してたんだね」というのです。

オアハカの人たちのお祭りは有名で、この絵本の絵を描いたマルティネスさんは、好んでお祭りを描いています。オアハカ州には、17の民族が8つの地域にすんでいるので、さまざまなお祭りが伝わっています。死者の日、ラディッシュの夜、ゲラゲッツァ祭などは有名ですが、そのほかにも、歴史的な出来事や、聖人や、英雄や、通過儀礼などを記念した何百ものお祭りが村々で行われています。この絵本の物語は、「蝶の川」を意味するリオ・パパロアパン川のほとりにある亜熱帯のパパロアパン地域が舞台です。

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ジョン・キラカ『なかよしの水』(さくまゆみこ訳 西村書店)表紙

なかよしの水〜タンザニアのおはなし

スイスのバオバブブックスの編集長が来日なさったとき、表参道のビーガンレストラでお昼を一緒に食べながら話をしました。その時「今はキラカさんにこんな本を描いてもらってるのよ」と聞いて、西村書店につないで出版してもらいました。

前作の『ごちそうの木』は、食べ物がなくなって動物たちが困るというお話でしたが、こちらは、日照りが続いて水がなくなり、動物たちが困っています。ようやく水が流れる川を見つけましたが、そこにはワニがいて、いえにえを差し出さないと水をくれません。この絵本でも、小さくて弱そうなノウサギの女の子が知恵を使って活躍します。キラカさんの絵は、ユーモラス。クスッと笑えるところがいくつもあります。

(編集:植村志保理さん 描き文字デザイン:ほんまちひろさん)

 

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<訳者あとがき>

ジョン・キラカさんは、タンザニアに生まれて今もタンザニアでくらし、村の人たちからいろいろなお話を聞いて書きとめ、それをもとに絵本をつくっています。本書は、そのキラカさんの新作ですが、前作『ごちそうの木』と同じように、日照りがつづいたせいで困っている動物たちが登場します。天候と結びついたくらしをしているアフリカの人々にとっては、水が手に入るかどうかは生死にかかわる大問題です。それで昔話にも、水をさがすとか、水を手に入れるために井戸をほる、というモチーフがよく出てくるのです。

また前作でも、かしこいノウサギが登場していましたが、この絵本でも、ノウサギが大活躍します。ノウサギは、アフリカ各地の昔話によく顔を出すキャラクターです。体が小さく、たたかうための牙も角も、するどい爪も持っていないので、生きのびるためには知恵を使うしかないのが、ノウサギです。力の強い、大きな動物たちに負けることなく、生きる方法を考え出すノウサギは、アフリカの昔話の中では、英雄ともみなされています。昔話をもとに再構成されたこの絵本では、かわいいスカートをはいた姿で登場していますが、そこには、女性や子どもを応援しようと思っているキラカさんの考えがあらわれているように思います。

キラカさんは、2017年夏に来日され、ストーリーテリングや、講演や、子ども向けのワークショップをしてくださいました。末っ子のおじょうさんヴィヴィアンちゃんのことが自慢で、何度も写真を見せてくださったり、何をおみやげにしたらいいかと迷ったりする姿からは、子煩悩なパパぶりを垣間見ることができましたし、講演からは、アフリカに伝わる口承文芸を絵本にして次の世代につなげていこうとする決意がうかがわれました。

さくまゆみこ

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フィリス・レイノルズ・ネイラー著『シャイローと歩く秋』(さくまゆみこ訳 あすなろ書房)表紙

シャイローと歩く秋

ニューベリー賞を受賞した『シャイローがきた夏』の続編です。ビーグル犬のシャイローは、前編に書かれていた様々な出来事をのりこえて、マーティの家にやってきました。でも、シャイローの元の飼い主ジャドは、いろいろな嫌がらせをしてきます。ジャドはまた酔っぱらってはケンカをしたり、トラックを暴走させたりするので、村の人たちも眉をひそめるようになります。

本書では、ジャドがどうしてそんな性格になってしまったのかも明かされています。獣医さんの役目もしてくれるお医者さんのマーフィ先生、施設でいろいろな事件を起こすおばあちゃん、何があっても絶対に目を覚まさない下の妹のベッキー、などサブキャラも存在感を発揮しています。主人公の少年マーティが、なんとしてもシャイローを守ろうとする気持ちが本書でも痛いほど伝わってきます。

(編集:山浦真一さん 挿絵:岡本順さん)

 

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<訳者あとがき>

本書は、アメリカの女性作家フィリス・レイノルズ・ネイラーの作品SHILOH SEASONの翻訳です。

ビーグル犬のシャイローをめぐるネイラーの作品は、アメリカでは4冊出ており、これはその2番目にあたります。アメリカではどの巻もよく読まれ続けていて、2015年には4巻目のSHILOH CHRISTMASも新たに出版されました。また3 巻目までは映画やDVDにもなって人気を博しています。

作者のフィリス・レイノルズ・ネイラーは、1933年にアメリカのインディアナ州に生まれた作家で、小学校4年生の頃から物語を書いていたといいます。日本でも他にアリスのシリーズ(講談社/青い鳥文庫)や、ミステリーホテルのシリーズ(偕成社)などの翻訳が出ています。

シャイローのシリーズの1巻目『シャイローがきた夏』(原題SHILOH 1991)は、アメリカで最もすぐれた児童文学作品に与えられるニューベリー賞を受賞した作品で、2014年にあすなろ書房から翻訳が出て、幸い版を重ねています。この作品は、1993年に別の出版社から『さびしい犬』という題で翻訳出版されたことがあったのですが、その後絶版になって日本語では読めなくなっていました。私は、自分でもビーグル犬を飼っていることもあって、もう一度日本の子どもたちにも読んでほしいと思い新たに訳し直したのでした。

このシリーズでは、全体を通して、動物と人間との関係や、人間としての誠実な生き方や、事実とゴシップの違いや、虐待された子どもなどについて考えさせてくれますが、お説教臭いところはなく、時にユーモアも交えて物語そのものの力で引っ張っていきます。登場人物にもそれぞれ特徴があり、構成もみごとで、物語の伏線もきちんと張られています。よくできた物語として楽しんでいただければ幸いです。

2019年8月 さくまゆみこ

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