投稿者: sakuma

平和な世界を願って 子どもの本にできること

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『平和な世界を願って 子どもの本にできること』

「こどもの本」2023年3月号(日本児童図書出版協会)に「平和な世界を願って 子どもの本にできること」というエッセイを書きました。

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本さえ読めば平和が来るとは思わないが、平和につながる道を少しずつ作っていくことは、本にもできるのではないだろうか。私が訳した『子どもの本で平和をつくる』(キャシー・スティンソン文 マリー・ラフランス絵 小学館)には、イエラ・レップマンという女性が登場する。彼女はドイツ生まれのユダヤ人ジャーナリストで、ヒトラーが政権を握ると命の危険を感じて、子どもたちと一緒にイギリスに避難していた。

『子どもの本で平和をつくる〜イエラ・レップマンの目ざしたこと』(さくま訳)の表紙絵

戦後故郷に戻ったレップマンは、ドイツの子どもたちの窮状を目の当たりにして二〇の国に手紙を出した。それぞれの国のすぐれた子どもの本を送ってもらえないか、と依頼したのである。周囲からは、「戦争でドイツと戦った国々が本を送ってくれるはずがない」と批判されもしたが、幸い一九の国からは、すぐに児童書が送られてきた。でも、一か国からは、「私たちは二度もドイツに侵略されているので、残念ながらご希望にそうことはできません」という手紙が届いただけだった。

レップマンはそこであきらめずに、もう一度手紙を出した。「ドイツの子どもたちに新たな出発をさせてやりたいのです。他の国々から届いた本を見ることによって、子どもたちはお互いにつながっていると感じるでしょう。戦争がまた始まらないようにするには、それが一番ではないでしょうか」と書いて。

すると、その手紙を読んでレップマンの意図を理解したその国ベルギーからも、素晴らしい児童書のセットが届いたのだ。レップマンは、届いた本を国内巡回して子どもたちに見せ、ドイツ語に訳して読んでやり、それをもとにしてミュンヘンに国際児童図書館をつくった。そして、一九五三年には様々な国が子どもの本について話し合うための国際組織IBBY(国際児童図書評議会)も設立した。

現在の国際児童図書館

私が今会長を務めているJBBYも、一九七四年にIBBYの支部として発足し、「本、子ども、平和」をキーワードにし、ボランティアベースで多様な活動を行っている。詳しくはウェブサイトをご覧いただきたい。https://jbby.org

一九九八年に国際アンデルセン賞を受賞したアメリカの児童文学作家キャサリン・パターソンは、受賞スピーチの中で、「アメリカの図書館には自国で出版された本がすでにたくさん並んでいるせいか、外国からの翻訳作品も必要だということを忘れてしまいがちです。でも、私たちはアメリカの子どもたちに、イランや韓国・北朝鮮や南アフリカやセルビアやコロンビアやチリやイラクに暮らす友だちをあたえていかなければなりません。つまりどの国の子どもたちとも仲良くなってもらわなくてはなりません。人は、自分の友だちが暮らしている国に害をあたえようとは思わなくなるからです」と語っている。

こうした人たちの言葉は、子どもの本が平和につながりうることを示唆している。

子どもの本にかかわる人の中には、子どもがおもしろがればそれでいい、と考える人もいる。楽しい、おもしろいというのは、子どもの本にとって不可欠な要素だと私も思う。立派なテーマを掲げた本でもおもしろく読めなければ、子どもの本としては失格だ。でも、「おもしろい」というのは、表面的なおもしろさだけではないだろう。読んですぐは、ゲラゲラ笑ったりするようなおもしろさを感じなくても、子どもの心の中に種として残り、その種が芽を出し花を咲かせることもある。そういう種を持ったような本をつくっていければ、と私は思う。種には、平和の種もあれば、好奇心の種もあり、生きるエネルギーを生み出したり、ちょっと一休みするすべを学んだりするための種もあるだろう。

また平和を生み出すためには、偉い人に言われればそのまま従うような人ではなく、自分の頭で考え、自分の心で感じ、しかも客観的に判断できる人を育てていくことが必要だ。そのための種をまくには、本をつくる側の私たちも、これからはどんな社会が望ましいのかを、考えておく必要があるだろう。

本が売れるというのはうれしいことだし、出版を続けるためには重要な要素でもある。でも、それだけを考えていると、どんどん子どもの本は種なしの、中身も味も薄い消耗品になってしまう。つくり手の側が利益だけではなく、子どもの中で育つ種があるかどうかの質を見分けられる「目きき」になることも、とても大事なことだと思う。

それともう一つ。「理想的なことばかり言っていても始まらない。現実は違うのだよ」と言う人がいるが、子どもの本にたずさわる者としては、あえて理想を口にすることも必要だと私は思っている。(さくまゆみこ)

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ジャングルジム

『ジャングルジム』表紙
『ジャングルジム』
岩瀬成子/作 網中いづる/絵
ゴブリン書房
2022.12

『ジャングルジム』をおすすめします。

良太が風来坊のおじさんにだんだんひかれていく「黄色いひらひら」、すみれが姉をいじめた子に“ふくしゅう”しようとする「ジャングルジム」、一平が離婚した父との新たな暮らしと折り合いをつけようとする「リュック」、まみが病死した父のカバンの中にあった色鉛筆で父との思い出を描く「色えんぴつ」、春木がお試し同居にやってきたおじいちゃんを心配する「からあげ」の5編が入った短編集。
どの物語でも、その時々に子どもが感じたこと、考えたことがリアルに描写されている。それぞれの子どもの個性が浮かび上がるだけでなく、おとなについても、ちょっとした言葉でその人の生きてきた道を伝えている。上質の文学。小学校中学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2023年3月25日掲載)

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草原が大好き ダリアちゃん

『草原が大好きダリアちゃん』表紙
『草原が大好き ダリアちゃん』
長倉洋海/文・写真
アリス館
2023.01

『草原が大好き ダリアちゃん』をおすすめします。

世界のさまざまな地域の文化を、そこで生きる子どもを主人公にして紹介する写真絵本シリーズの一冊。今回の主人公は、味噌っ歯の5歳の少女ダリアちゃん。冬はマイナス40度にもなるロシアのシベリアで、家族とトナカイたちに囲まれて暮らす。自然の中にあってほとんどが手づくりという日常の衣食住を伝える写真からは、8か月も雪におおわれている厳しさも、広い草原を走り回ったりベリーやキノコを摘んだりする楽しさも、そしてダリアちゃんの「ここが大好き」という思いも、伝わってくる。小学校低学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2023年2月25日掲載)

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ガリバーのむすこ

『ガリバーのむすこ』表紙
『ガリバーのむすこ』
マイケル・モーパーゴ/作 杉田七重/訳
小学館
2022.12

『ガリバーのむすこ』をおすすめします。

戦場となったアフガニスタンを出て難民になった少年オマールは、嵐の海でボートから投げ出され、意識を失う。やがてオマールは、自分は砂浜に寝ていて、まわりを小人たちが取り囲んでいることに気づく。そこは、かつてガリバーが訪れたリリパット国だった。オマールは「ガリバーのむすこ」と呼ばれ、小人たちと友だちになってお互いの言葉や文化を学びあい、愚かな戦争をやめさせる。巧みな語り口に引っ張られて一気に読めるし、考えるきっかけも提供してくれる。小学校高学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2023年1月28日掲載)

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おやすみなさいフランシス

『おやすみなさいフランシス』表紙
『おやすみなさいフランシス』
ラッセル・ホーバン/文 ガース・ウィリアムズ/絵 まつおかきょうこ/訳
福音館書店
1966

『おやすみなさいフランシス』をおすすめします。

アナグマの子どもフランシスは、もう寝る時間と言われてベッドに入ってもちっとも眠くない。部屋の隅に何かいる? 天井のひびから何か出てくる? 窓の外で音がする? いちいち心配になって言いにいく娘に両親がていねいに対応してくれるのがいい。緑とグレーだけで描かれた、時代を超えるおやすみなさいの絵本。幼児から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年11月26日掲載)

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ぼくたちはまだ出逢っていない

『ぼくたちはまだ出逢っていない』表紙
『ぼくたちはまだ出逢っていない』
八束澄子/作
ポプラ社
2022.10

『ぼくたちはまだ出逢っていない』をおすすめします。

英国人の父と日本人の母をもつ陸は学校で暴力的ないじめにあっている。母の再婚相手と暮らすことになった美雨は居場所を探して町をさまよう。樹(いつき)は生まれたとき穴があいていた腸の不調に今でも怯えている。不安を抱えたこの三人の中学生が、割れた瀬戸物を修復する金継ぎを通して触れ合い、時間をかけて美しい物を作り出す伝統工芸を知ることで新たな視野を獲得していく。中学生から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年11月26日掲載)

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チャンス〜はてしない戦争をのがれて

『チャンス』表紙
『チャンス〜はてしない戦争をのがれて』
ユリ・シュルヴィッツ/作、原田勝/訳
小学館
2022.09

『チャンス〜はてしない戦争をのがれて』をおすすめします。

ポーランドに生まれアメリカで絵本作家になったシュルヴィッツは、幼い頃ワルシャワにあった家をドイツ軍の爆撃で失い、家族とともに旧ソ連国内、後にはヨーロッパを転々とさまよう。文章と絵からは、その旅が戦争、飢え、病、寒さ、迫害の連続で、死と隣り合わせだったことが伝わってくる。「おとうさんのちず」に描かれていた家族関係も詳細に語られているし、様々な困難を乗りこえてきたからこそ「よあけ」のようなさわやかで美しい絵本を描けるようになったことも、うかがい知れる。
思えば、ガアグ、センダック、レイ夫妻、八島太郎、そして彼のような海外にルーツをもつ画家が、アメリカの絵本の豊かな多様性を生み出してきたのだ。小学校高学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年10月29日掲載)

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長い長い夜

『長い長い夜』表紙
『長い長い夜』
ルリ/作・絵、カン・バンファ/訳
小学館
2022.07

『長い長い夜』をおすすめします。

「ぼく」は、雄カップルがあたためた卵からかえった子どものペンギン。一緒に旅をしているのは、角を狙う密猟者に家族も友だちも殺され、人間への復讐を決意している地球最後のシロサイ。シロサイは、子どもペンギンに父親たちの話をしてやり、守り、一緒に戦禍を生き延びていく。生命や愛について、さまざまなことを感じさせ、考えさせてくれる。最近の韓国の作品は本づくりも内容も面白いのが多いが、異種交流のこの寓話もその一つ。世界のサイ5種は、実際にどれも絶滅の危機に瀕している。小学校高学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年8月27日掲載)

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サリーのこけももつみ

『サリーのこけももつみ』表紙
『サリーのこけももつみ』
ロバート・マックロスキー/文・絵 石井桃子/訳
岩波書店
1976

『サリーのこけももつみ』をおすすめします。

ここでこけももと言っているのは、ブルーベリーのこと。夏になり、お母さんと山にブルーベリーを摘みに行ったサリーは、途中で間違えてクマのお母さんについていってしまう。一方子グマはサリーのお母さんについていく。やがて気づいたお母さんたちはびっくり! 本文は一色刷りだが、子どもたちが大きなドラマを感じられるロングセラー絵本。4歳から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚』2022年7月30日掲載)

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5番レーン

『5番レーン』表紙
『5番レーン』
ウン・ソホル/作 ノ・インギョン/絵 すんみ/訳
鈴木出版
2022.06

『5番レーン』をおすすめします。

小6の少女カン・ナルは、水泳部のエースと言われるもののライバルに負ける試合が続いて悔しくてたまらない。何か仕掛けがあるのかとライバルの水着を見ているうち盗んでしまったナルは、そこから自分の心の中の闇と向き合い、やり直そうとする。競泳をやめた姉のエピソードや、転校生テヤンとの初恋もからむ韓国の物語。夏向きのさわやかな挿絵もいい。小学校高学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年7月30日掲載)

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『た』表紙
『た』
田島征三/作
佼成出版社
2022.04

『た』をおすすめします。

表紙に大きな「た」の文字。開くと、最初が「たがやす」で、「たいへん」や「たわわにみのる」を経て、おしまいが「たべる」。出てくる言葉が全部「た」で始まるし、「た」は田にもつながっている。この絵本には、田畑を耕して世話をして取り入れて食べるまでの過程が凝縮されている。人々は、殺虫剤を使わないとやってくる虫や動物から作物を守るために「たたかう」し、収穫の祭りも大いに「たのしむ」。絵から生命のリズムが伝わり、エネルギーを感じとれる。3歳から(さくま)

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草のふえをならしたら

「草のふえをならしたら』表紙
『草のふえをならしたら』
林原玉枝/作 竹上妙/画
福音館書店
2022.04

『草のふえをならしたら』をおすすめします。

まこちゃんがブイブイッとネギのふえを鳴らしたら、ブタがひょっこり顔を出す。ともくんが笹の葉をビブーッと鳴らすと、タヌキがおしょうゆの注文をとりにくる。すみれ組の子どもたちは桜の花びらでぴーっぴーっ、たえちゃんはカラスノエンドウのさやでプピッ、あっちゃんはドングリのふえをほーっ……野原や森でつんだ草や実や葉っぱを鳴らすと何かが起こって、子どもたちはウサギやキツネやアオバズクやカエルたちと不思議な世界に入り込む。
草笛をじょうずに鳴らすには練習も必要。自然とうまく付き合うのも同じ。でも、こんなに楽しいことが起こるならやってみたいな、と思わせてくれる八つのお話に、ゆかいな絵もいっぱい入っているよ。小学校低学年から(さくまゆみこ)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年5月28日掲載)

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子どもの本で平和はつくれる?

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『子どもの本で平和はつくれる?』

童心社が出しておいでの「母のひろば」2022年5月15日号に「子どもの本で平和はつくれる?」という原稿を書きました。

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『子どもの本で平和をつくる〜イエラ・レップマンの目ざしたこと』(さくま訳)の表紙絵昨年『子どもの本で平和をつくる』(小学館)という訳書を出した。この絵本には、IBBY(国際児童図書評議会)やミュンヘン国際児童図書館を創設したイエラ・レップマンという女性が登場する。レップマンはドイツに生まれたユダヤ人で、第二次大戦中はナチスの毒牙から逃れるため2人の子どもを連れて国外に避難していたが、戦後ドイツに戻って、子どもの本を通して平和を築いていこうと考えた。具体的には、まず世界の子どもの本を集めて展示会を開いたのだが、荒廃したドイツの子どもたちに文化の香りを伝えるだけではなく、本を通してほかの国の子どもたちと友だちになってもらえば、2度と戦争を起こしたりしなくなるのではないかという考えも、そこにはあった。

アメリカのキャサリン・パターソンも1998年に国際アンデルセン賞を受賞したとき、レップマンのこの考えに呼応して、「私たちはアメリカの子どもに、イランや韓国・北朝鮮や南アフリカやセルビアやコロンビアやチリやイラクに暮らす友だちをあたえていかなければなりません。どの国の子どもとも仲良くなってもらわなくてはなりません。人は、友だちが暮らしている国に害をあたえようとは思わなくなるからです」とスピーチしている。

子どもの本にかかわる人の多くは、レップマンを知る知らないにかかわらず、子どもの本で儲ければそれでいいとは思っていないはずだ。本を通して子どもの居場所が少しでも心地よくなったり風通しがよくなったりすればいい、と思い、戦争ではなく平和を願っているはずだ。レップマンの意志を継承しているIBBYの支部は、ウクライナにもあるしロシアにもある。ロシアは、前回のIBBY大会(「子どもの本の世界大会」)の主催国でもあった。

それでもロシア軍のウクライナ侵攻のようなことが実際に起こって、多くの人々が犠牲になってしまう。常軌を逸した権力者の前では、人道主義など何の力ももたないように思える。「子どもの本で平和をつくる」など、夢のまた夢のファンタジーかもしれないという疑いも生じてくる。

でも、それでも……。そう、私たちは思い直す。地震国の海沿いに、外からの攻撃に対して無防備な原発をたくさん並べておいて、核共有とか敵基地攻撃とか言っている政治家のほうこそ、現実を見ずにエセファンタジーに酔っているのではないか、と。子どもの本をつくる立場にいる私たちに、絶望している暇はない。子どもにとってどういう社会が実現すればいいのかを、これからも考えながら本をつくっていきたい。(さくまゆみこ)

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2022年10月 テーマ:「記憶」を未来に伝えていくということ

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『2022年10月 テーマ:「記憶」を未来に伝えていくということ』
日付 2022年10月20日
参加者 ハル、イヌタデ、花散里、すあま、ハリネズミ、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、オカピ、西山、ニャニャンガ、雪割草
テーマ 「記憶」を未来に伝えていくということ

読んだ本:

『パンに書かれた言葉』表紙
『パンに書かれた言葉』
朽木祥/著
小学館
2022.06

〈版元語録〉2011年震災後、少女エリーは親戚のいるイタリアに少しの間避難する。おいしいものと温かい人たちに迎えられ人心地つくが、思いもよらない歴史に触れ、エリーの名前のSに込められた本当の意味を知ることになる。戦争を乗り越えて生きてきた人々の“希望”を描く、ヒロシマとイタリアをつなぐ物語。
『シリアからきたバレリーナ』表紙
『シリアからきたバレリーナ』
原題:NO BALLET SHOES IN SYRIA Catherine Bruton, 2019
キャサリン・ブルートン/著 尾崎愛子/訳 平澤朋子/絵
偕成社
2022.02

版元語録:シリア人の少女アーヤは、イギリスで難民認定を待っているところだ。内戦で住めなくなったシリアを脱出し、ようやくマンチェスターに辿り着いた。途中、小さなボートで海を渡る際に父と離れ離れになり、気力を失った母を支えながら赤ちゃんの弟をつれて、毎日、難民支援センターに通っている。ある日、同じ建物にバレエ教室があることに気づく。シリアでバレエを習っていたアーヤは、そこで明るい少女ドッティや先生ミス・ヘレナに出会い、踊ることで息を吹き返していく。希望とあたたかさと人間性に満ちた、2020年〈カーネギー賞〉ノミネート作品。

(さらに…)

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シリアからきたバレリーナ

『シリアからきたバレリーナ』表紙
『シリアからきたバレリーナ』
キャサリン・ブルートン/著 尾崎愛子/訳 平澤朋子/絵
偕成社
2022.02

コアラ:難民の少女が主人公ですが、明るさと美しさのある物語という印象でした。美しさがあるのは、やっぱりバレエを扱っているからだと思います。カバーのイラストがアラベスクのポーズだと思いますが、物語に出てくるバレエのポーズや踊りを想像しながら読みました。バレエのポーズなどの専門用語の注が、そのページか見開きの最後に書かれてあって、読みやすかったし、言葉で説明するのが難しい用語であっても簡潔に説明されていて、うまいなと思いました。明るさについては、特に後半から、住むところが提供されたり、オーディションにみんな受かったり、いじわるなキアラと最後に友達になれたり、家族でイギリスに住み続けられるようになったりと、何もかもうまくいくようになっていて、ありえない、という感じでしたが、私はこういう物語もあっていいと思いました。というのも、p 272の6行目にあるように、親切や寛大さというのがこの物語のテーマになっています。シリアの内戦や難民についてのひどい状況をそのまま伝えるノンフィクションも必要だけれど、一方で、親切が繰り返されることによって、世界がよりよくなっていく、希望のある未来につながっていく、というような本があってもいいと思いました。フィクションだからこそ、希望のある読書体験ができると思いました。あとがきやキーワードが最後に付いているのも、背景について理解を深められるようになっていていいと思います。あと、途中に挟まっている、ゴシック体の回想部分について。なんだか胸騒ぎのするような怖さがあって、内容的に、この後恐ろしい未来が待っているのが分かっているからかなと思いながら読んでいましたが、実はページの上に、グレーのグラデーションが入っています。それが胸騒ぎのする怖さを醸し出していたと気がつきました。

すあま:読んでよかったと思いました。現代の戦争と過去の戦争が入れ子のように語られるところが、『パンに書かれた言葉』(朽木祥著 小学館)と共通していました。厳しい状況の中で、子どもだけががんばるのではなく、大人たちが助け合っていくところがよかったです。アーヤと友達になるドッティが魅力的。恵まれた家庭環境でアーヤとは対照的だけど、彼女は彼女なりに悩んでいることがわかってくる。また、アーヤがイギリスにたどり着くまでに何があったのか、読み進むうちに徐々に明らかになってくるのも、謎が解けていくようで読むのがやめられなくなりました。大変なことがたくさん起こってハッピーエンドとなりますが、子どもの本なので読後感がいいのは大事だと思います。ウクライナの問題が起きている今、子どもたちがシリアで起きていること、過去に世界で起きたことに関心をもってくれるといいと思います。本を読みながら、登場人物と一緒に体験をして、いろんな知識が得られたり、興味が深まったりするような本が好きです。

雪割草:とてもいい作品でした。フィクションこそ、現実を伝える力があることをあらわしていると思います。エディンバラに留学していたときに、シリアから避難してきた難民の家族にインタビューして、証言の翻訳について研究していたことがあったので、シリア難民のことを伝える作品を紹介したいと探していましたが、なかなかいい作品が見つからないままでした。この作品は、難民になるというのはどういうことなのか、戦争の体験やその影響による心の傷など、それぞれがよく描かれています。そして、主人公がミス・ヘレナと出会い、前に進んでいくことができるように、人との出会いが大きいことも伝わってきました。p. 261にもあるように、心の痛みをダンスで表現することを通し、「心の痛みに価値をあたえる」、その過程が美しく、リアルに、等身大で描かれていると思いました。

西山:『明日をさがす旅』(アラン・グラッツ作 さくまゆみこ訳 福音館書店)を思い出しながら読みました。ミス・ヘレナと主人公の背景も、『明日をさがす旅』と重なっているということは、多くのシリア難民に共通する体験なのだろうと思います。以前、シリアの難民支援をしている方が、内戦がはじまる前のアレッポの写真を見せて下さったのを思い出しました。都内の通りかと思うような町並みなんですよね。そういう近代的な町が破壊される。最初からがれきの街なのではないということはとても大事な認識だと思います。p.69に「あたしは難民として生まれたわけじゃない」という言葉もあるように、この作品は、内戦の前の日常も回想されて、最初から戦場や難民が存在するわけではないというあたりまえの基本をきちんと腑に落としてくれる。それに、クラシックバレエという切り口も、「難民」を貧しくて、文化的に劣っているイメージで捉える偏見を砕くのにとても効果的だったと思います。そして何と言ってもドッティがいい! おしゃべりで、よく失敗すると自覚しながら、アーヤに対してはらはらするほど率直に話しかけていく。例えば、p.195でドッティの豪邸に招いたとき「アーヤの家って、どんなだった?」なんて聞いてしまうのは、「ここでそれ聞く? 難民の子に?」と思ってしまいますが、ドッティのこの率直さがアーヤと対等な関係を拓いています。これは、日本のティーンエイジャーにとって、とても素敵なお手本になると思います。出会えてよかったです!

ニャニャンガ:イギリスに来てからの話と、シリアから逃れてきたときの話が交互に書かれているので、読者をひきつけるいい形式だと思いました。また、シリアからイギリスにたどりつくまでのページでは上部が黒くなっているのは象徴的に感じました。難民申請についての説明がていねいで勉強になりました。読んでいるうちに、アーヤを応援する気持ちになりましたし、読後感がとてもよかったです。バレエ教室の先生のミス・ヘレナ自身が経験して受けた苦悩が、アーヤのものと重なり、力になったことで前に進むきっかけとなり、安心しました。ただ、表紙がかわいらしくて内容とかみあわず読者を逃している気がします。また、一文に読点が多すぎる箇所があり読みにくさを感じました。

オカピ:とても好きな作品でした。英語圏でも難民をテーマにした本はたくさん出ていますが、読んでいてつらくなるような本も多いです。でも、この本が現実の厳しさを描きつつも、暗くなりすぎないのは、アーヤにはバレエという、すごく好きなものがあって、それに救われているからだと思うし、またドッティや年少クラスのちびっこの描写など、ところどころにユーモアがあるからでは。あと、「わたしたちは、誇りをもって傷をまとう」(p. 87)というミス・ヘレナのせりふもありましたが、難民をけして、一方的に助けられるだけのかわいそうな人たちというふうに描いてないのがよかった。バレエで自分の物語を語るというのが、ストーリーの中ですごく効果的に使われていますね。アーヤはたくさんの喪失を越えて、悲しみや痛みを力に変えます。そして新たな出会いの中で、自分の居場所を見つけていきます。ミス・ヘレナが「この世を去った人たちや、いまだに苦しみつづけている人たちとの約束をやぶることなく、生きていく方法はある」「約束を守る方法は、最初に思ったよりもたくさんある」(p. 262)と語るところなど、読んでいて胸がつまるような場面がいくつもありました。

ハリネズミ:とてもおもしろかったし、難民のことを身近に感じられるいい本だと思います。回想部分と、現在の部分でページの作り方を変えてありますね。回想部分では、アレッポでの中流階級の楽しい暮らしとそれが変わってしまった困難な状況が描かれ、現在進行中の部分では、ボランティアに頼っての英国の難民対応の問題や、バレエに心を向けることによって困難を乗り越えようとするアーヤの心情が描かれています。その2つが交互に出て来ることによって、物語が立体的に感じられます。でも、ごちゃごちゃにならないように工夫してあるんですね。それと、かわいそうにという同情や憐れみが、どんなに人を傷つけるかも書かれているのもリアルで、この作品の骨格がしっかりしていることを物語っています。ほかに日本とは違うなあと思ったのは、有名なバレエスクールのオーディションを控えた子どもたちが結構くつろいでいたり、ほかの企画を立てたりしているところ。ちょっと惜しいと思ったのは、最後がうまくおさまりすぎだと思えた点です。いじめていたキアラと和解し、三人とも入学が許可され、しかもドッティは新設のミュージカルコースに行けることになった(コース設置が決まっているのに知らなかったなんてあり得る?)うえに、パパまで現れる(これは空想かもしれないのですが)? もう一つ、ジェンダー的にちょっとひっかかったのは、p.91の「やっぱり女の子たちの得意技は、ペナルティーキックではなくビルエットだった」という箇所で、「女の子たち」一般ではなく「この女の子たち」だったらよかったのに、と思いました。訳の問題かもしれませんが。

アンヌ:最初は読むのがつらく何度も本を置きました。果てしなく待たされる難民支援センターで、主人公の少女に課せられた弟の面倒や母の通訳と看病等々を見て行くのは、つらくて。けれども、バレエ教室にふと足を踏み入れ、ドッティという友人もできるあたりから、ルーマ・ゴッテンの『バレエダンサー』(渡辺南都子訳 偕成社)や『トウシューズ』(渡辺南都子訳、偕成社)を読んできた身としては、どんなことがあろうともこの子は踊り続けるだろうと思えて読んでいけました。園内にシカのいるバレエ学校ってところは、絶対、ルーマ・ゴッテンへのオマージュですよね? それにしても主人公のたどってきた過酷な道程の記憶が、バレエの道が切り開かれていくにつれ、よみがえって来るというこの物語の仕組みは見事ですが、きつい。読みながら、今、難民として日本に辿り着いた人々も様々な道程を経てきているということを肝に命じておかなくてはならないなと思いました。最後にあっさりパパに会えたとしなかった作者の思いを、読者はあれこれ考えていく終わり方で、それも心に残って忘れさせない仕組みだなと思いました。

ハル:特にラストで胸を打たれて、この本に出合えてよかったなぁと思いますが、この本を子どもたちがラストまで読むには、これだけいろいろ工夫がされていてもなお、ハードルが高いかもしれないなぁと思いました。物語としては、ずっと意地悪だったキアラの心を「不安だったんだ」と気づかせてくれたところもとても良かったです。やはり、文化の違うところから来た人たちとか、難民への偏見をなくすには、まずは知ること、知ろうとすることが大事だったんだと気づかせてくれます。ふと、もしもアーヤが、真剣は真剣でもバレエの才能はまったくなかったら、ここまで道は開かれなかったのだろうかとか、ブロンテ・ブキャナンもアーヤが娘と一緒にレッスンを受けることを認めただろうかと思ってしまいました。その場合は、芸術の道は同情では開けないというお話になったのかな……それは、それで、別のテーマになるか。

エーデルワイス:総合芸術と言われるバレエをテーマにしたのは、世界中の人が同時に共感感動できるからなのですね。作者自身バレエが好きでバレエを習ったことがあるので、バレエレッスンなどの描写がよく伝わってきました。表紙、イラストには好みがあると思いますが、この表紙に惹きつけられて手に取った子どもたちが最後まで読み進めてほしいと願います。シリアのアレッポからコンテナ列車、トルコのイズミル、地中海を渡りキオス島、難民キャンプ・・・ロンドンに辿り着くまでの気の遠くなる程の長い道のり。その間主人公のアーヤはバレエのレッスンをしていなかったのにも拘らずバレエの才能を発揮するのですね。
昨年東京はじめ日本各地でウクライナのキエフ(キーウ)バレエ団のガラコンサートが開催されました。私は盛岡で観劇しました。前の列にはウクライナ人と思われる若い女性が数人ウクライナの国旗を掲げて応援していました。このガラコンサートはリハーサルをバレエ教室に所属している子どもたちに無料で招待して交流を図っていました。最近のニュースで知りましたが、コロナ禍で3年ほど延期されていたロシアバレエ団の東京公演開催には賛否両論があったそうです。芸術には罪はありませんが、ウクライナに侵攻攻撃しているロシアに対してはバレエ公演でも複雑な気持ちになります。

花散里:ドイツ、キューバ、シリアの難民の子どもたちが、それぞれの故郷を追われ、旅立った姿を描いた『明日をさがす旅』でも、日本の子どもたちに読み易いように工夫され編集されたことをお聞きしましたが、本書も〈注〉の付け方や回想の部分のページを工夫しているので小学校高学年の子どもが読むときに読みやすいのではと感じました。挿絵が助けになるのではないかとも思います。表紙裏の地図も難民として主人公が辿った道のりが伝わってきて、とても良いと感じました。
フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが8月20日の朝日新聞・読書欄の「ひもとく」、「戦争と平和3」に『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦 みどり訳 岩波現代文庫)などとともに本書を取り上げていて、一般書を読む人たちにも知ってもらえたのが良いと思いました。病弱な母親や小さな弟の面倒を見るヤングケアラーのようなアーヤが、バレエをするときに弟を預かってもらって、ほっとする場面など、心の機微が伝わってくるところも心に残りました。

エーデルワイス:作中に出てくるシリア出身のバレエダンサー『アハマド・ジュデ』の動画を観たんですけど、瓦礫の中で踊ってました。彼は、お母さんがシリア人で、お父さんがパレスチナ人なんですね。お父さんにバレエを反対されながらも意思を貫いて踊り続け、現在はオランダ国籍を取得しているそうです。

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しじみ71個分(メール参加):とても胸を打つ物語でした。どうしても「難民」という言葉で、戦争などでひどい目にあって、故郷を追われた「かわいそうな」人々というイメージを想起してしまいがちですが、この物語を読んで、「難民」という一つの言葉で人々をくくってしまうことがいかに乱暴なことなのかに気付かされました。「難民」という言葉は、ただ置かれた環境を指すだけなんだなぁと。母国からの過酷な逃避行の前には、温かな家庭や友だちとの楽しい時間、充実した学校や職業生活などが普通の人生があったんだ、という当たり前で、とても大事なことを思い出させてくれましたし、穏やかな日常や生命を暴力で奪い去る戦争がどれほど非人道的なものなのかを改めて実感しました。バレエを愛するアーヤがイギリスでバレエと再び出会い、第二次世界大戦でナチスの迫害を逃れてプラハからイギリスにやってきたバレエの先生、ミス・ヘレナと出会ったことにより、住む家を得て、難民申請もかない、バレエ学校にも入学でき、そしてパパを失った悲しみとも向き合いながら、生きる希望を見つけていくという物語展開に、読む人も希望を感じられます。アーヤと友だちになるドッティの存在もとてもよかったです。ドッティは明るく、物おじせず、「難民」だからという型にはまった考え方をせずに、アーヤに向き合い、友だちになろうとする姿がとてもさわやかでした。過酷な環境にある人を、腫れ物に触るようにしてアンタッチャブルな存在にしてしまうより、ときどきコミュニケーションに失敗しても、率直に突っ込んでいく方がいいんじゃないかとも思わされました。アーヤのトラウマやパニックの苦しさや、ドッティのミュージカル俳優になりたい思いと、有名なバレエダンサーの母の期待との間での苦悩など、少女たちのそれぞれの苦悩もとてもていねいに描かれていて、共感できました。尾崎愛子さんの翻訳は華美ではないのに、やさしく、ナチュラルで、胸にすとんと落ちる感じでした。原文は分からないですが、ミス・ヘレナの「わたしたちは誇りをもって傷をまとうの」という言葉がぐっと胸に迫りました。美しい言葉だと思います。こういう物語を読むと、日本の難民認定の率の非常な低さや、入管での痛ましい事件なども思い出されて胸が痛みます。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

 

 

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パンに書かれた言葉

『パンに書かれた言葉』表紙
『パンに書かれた言葉』
朽木祥/著
小学館
2022.06

ハル:「あとがき」に、著者自身への問いとして「物語ることが先か、伝えることが先か」がある、と書かれていますが、ほんとに、そこだなぁと思いました。エリーと同じ中2、中3の子がこの本を読み切るのは、なかなか骨が折れるんじゃないかなと思いもし、でも、だからってこういう本がなくなってしまったら困りますし……。この本に限らず、伝えるための本を、売れる本に仕上げていくというのは、大きな課題だなと思いました。それは置いておいても、『シリアからきたバレリーナ』(キャサリン・ブルートン著 偕成社)もそうですが、今月の本は2冊とも、つらい体験を語ることや、伝えていくことは何のためなのかということを気づかせてくれる本でした。語ること、伝えることは、希望なのですね。

アンヌ:もしかすると、朽木さんの本で私はいちばん好きかもしれません。まず、震災の後の不安の日々の状況を、書いてくれたのがうれしい。水一杯でさえ、汚染されているのではないかと恐怖に震えながら飲んだ日々を忘れてはいけないと思うから。そして、その状況から離れてイタリアに行くところも、いったん恐怖と痛みから話がそれて、不安から過食に走った主人公が、おいしものを食べられるようになるところが好きです。さらに、イタリアで少しずつ物語られる形で話が続くのもいい。いっぺんにすべては重過ぎるし、推理したりする余地があって想像力が膨らみます。そして、イタリアの少年にしろ広島の少女にしろ、生きていた人たちの姿が今回は、生き生きと描かれているのも、読んでいて心が温まる原因かもしれません。おいしいこと楽しいこと、生きることのすばらしさをきちんと味わいながら、忘れないで生きていくことこそが死者への敬意になるのではないかと思うからです。呆然と頭を抱えこまず、詩や言葉を味わって生きていくこと。これこそ「希望」なんだなと主題を感じずにはいられませんでした。

イヌタデ:まず、被爆二世として、一貫してヒロシマのことを書いてきた作者に敬意を表したいと思います。私は柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』(新潮文庫)という作品が好きなのですが、その作品の主人公は第二次世界大戦の被害があった土地、自分の祖父がいた広島、テレビに映る世界の戦場といった「わたしがいなかった街」に思いをめぐらし、時間という縦軸、距離という横軸の同じグラフの上にいる自分の位置を確かめていきます。もちろん朽木さんとは伝えたいことが違っているとは思うのですが、通いあうものを感じました。小さい読者が、戦争を遠い過去のことと感じるのではなく、自分も位置こそ違え、同じグラフの上に立っていると感じることが大切だと思いますので。また、パオロのノートや真美子の日記をはさんでいるのも、巧みな手法だと思いました。モノローグで書かれたものを入れることによって、ナチスと原爆の犠牲者である二人の声と主人公の思いを結び、さらに読者との距離も近いものにしていると感じました。
ただ、作者もあとがきで、物語ることと記録することについて少しだけ触れているのですが、物語として、文学作品として読むと、もやもやしたものが残りました。偶然にも、昨夜読んでいた東山彰良さんの小説『怪物』(新潮社)のなかに、その「もやもや」をはっきり言葉で表した下りがありました。主人公の作家が「戦争は小説のテーマになりえますか?」と問われるのですが、「どうでしょう……個人的には結論がひとつしかないものは小説のテーマになりにくいのではないかと思います」と答え、さらに「結論がひとつだけなら、どのように書いても、解釈もひととおりしかないということになります。それはとても国語の教科書的なものです」といってから「ただし、戦争という題材はずっと書き継がれるべきだと思います」と述べます。「そこで作家は戦争を勇気や受難の物語にすり替えて書きます。そこでは戦争は人間性を試す極限の状況を提供するだけなので、ユーモアが生じることもある」とも。
それからもうひとつ、戦争は被害と加害の両面を持っていますが、当たり前のことですが子どもたちはいつも被害者です。ですから、児童文学でも、被害者である子どもたちの姿が描かれることが多いわけです。でも、それだけでいいのかなと、いつも思ってしまうのです。リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』(上田真而子訳 岩波少年文庫)、ウェストールの『弟の戦争』(原田勝訳 徳間書店)、モーパーゴの短編『カルロスへ、父からの手紙』、日本では三木卓『ほろびた国の旅』(講談社ほか)、乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』(理論社)など、戦争を多面的に捉えようとしている作品もあるのですが……。

ハリネズミ:緻密に構成された作品で、福島、広島、ヨーロッパをつなぎ、また過去と現在をつないでいます。子どもたちに戦争を身近なものとして感じてほしいという、著者の思いも伝わってきます。とてもよくできた物語で、おとなにも読んでもらいたいと思います。あえて斜めから見ると、登場人物たちの役割がはっきりしていて、意外なことをする人は出てこないので、安心して読めるのですが、読者も著者が設定した結論に向かって歩かされている感じが無きにしもあらずですね。それと、もう少しユーモアがあってもよかったかも。パルチザンとか白バラとか、おとなはわかりますが、子どもは息がつまるかもしれないですね。

オカピ:言葉の力をテーマに、イタリアのパルチザンやミュンヘンの白バラの活動をつなげ、福島の原発事故から広島の原爆までたどっていくという構成が、見事だなと思います。収容所で亡くなった子どもたちは、広島で亡くなった子どもたちの姿に重なり、心におぼえていくこと、伝えていくことについて書きたいという、作者の思いもよくわかりました。参考文献の量からも、長年の構想の集大成として書かれたのだな、と。ただ、読み手が引っかからないようにしたいという意図もわかるのですが、「ユーロ」や「牧童」にまで註がなくてもいいような……。これは、読書に慣れている子が手にとる本ではないかと思うので。また、目次の前のページのフランス語の引用は、参考文献を見ると、おそらくオリジナルがイタリア語だった本の英訳からで、下の英語の説明部分は訳されていません。フランス語の引用はこれでいいと思いますが、英語の説明部分はそのまま載せないで、日本語にしたほうがよかったのでは。

ニャニャンガ:巧みな構成で夢中になって読みました。主人公の光が日本からイタリアにわたり、現地の人から話を聞く設定なので、物語に入りやすかったです。ノンナから聞いたパオロの話とパオロが残したノート、祖父から聞いた真美子さんの話、そして真美子さん自身の日記が絡み合い、光の心にしっかり残ったことで読者もメッセージを受け取ったと思います。父親が日本人、母親がイタリア人の自分のことを「国際人」という表現が新鮮でよかったです。ひとつ疑問に思ったのは、主人公は春休みに行ったはずなのに、その年のバスクア(復活祭)は4月24日で終わっているという点でした。

ハリネズミ:そこは、私もおかしいと思いました。時系列が合わなくなりますよね。

西山:第二次世界大戦に関して、ドイツのことは児童文学でも映画でもたくさんの作品に触れてきましたが、イタリアについてはそれに比べて圧倒的に知識が不足していたので、まずは、その情報が新鮮でした。この作品からは離れますが、イタリアの児童文学が第二次世界大戦をどのように伝えているのか知りたいです。本作に関しては、朽木さん、思い切ったなと。『八月の光』(偕成社/小学館)など、とても小説的で文学性が高い作品の方ですよね。それが、あとがきからわかりますが、「物語ること」と「伝えること」の間で悩みながら、この作品では「伝えること」に軸足を置くことを選ばれた。「3.11」に関しても、登場人物と同年代の14歳の子たちは直接体験としての記憶はほぼ無いといっていいでしょう。だから、戦争だけでなく、東日本大震災直後の空気も、伝える素材に入っているのだと思います。「伝えること」として、日本が、ドイツ、イタリアと同盟したファシズム陣営だったことは、はっきり書いてもらった方がよかったかなと思います。第2部の広島のエピソードからは被害側の印象で終わってしまうので。イタリア語、日本語、広島弁、残された記録……と多声的ですが、それがカオスとなるイメージはありませんでした。それにしても、日本では抵抗運動なかったのか、出てくるのが与謝野晶子だけというのは、改めて考えさせられます。

ハリネズミ:イタリアのパルチザンのことは、『ジュリエッタ荘の幽霊』(ビアトリーチェ・ソリナス・ドンギ作 エマヌエーラ ブッソラーティ絵 長野徹訳 偕成社)にも出てきましたね。

雪割草:イタリア、広島、福島とすごく盛りだくさんの作品だと思いました。あとがきにもあるように、作者の「伝えなければいけない」という強い意思が伝わってきました。ただ、説明的にも感じました。中高生が読むかな? おもしろいかな?というのは疑問に感じていて、私が子どもだったら読まないと思います。当事者の語りの章は見事でした。全体を通し、「言葉の力」を強調していますが、その大切さがあまり心に刻まれませんでした。

すあま:1冊の本にしては、いろんなテーマ、トピックを詰め込みすぎている感じがしました。イタリア編、広島編として上下巻のようになっていれば、それぞれの物語をもう少しゆっくり味わえたのではないかと思います。p.109に父親から、「災害」という言葉には人為的なものも含まれる、という言葉が送られてきていますが、これがこの物語の柱にもなっているのかなと思いました。主人公は東日本大震災を経験した後すぐにイタリアに行って、そこでホロコーストやパルチザンの話を聞く。さらに夏には広島に行って被爆者の話を聞く、ということになっているけれども、そんなに次々と重い話を聞き続けるのは自分だったら耐えられないかもしれないと思いました。また、主人公は「聞き手」で終わっていて、もっと気持ちの動きとか、内面の成長を描いてほしかったです。父親が広島出身、母親がイタリア出身という設定も、両方の実家へ行って話を聞くための設定のようで、主人公のアイデンティティなど、せっかくの設定が生かされていないように思いました。興味深い話、大事な話がたくさん盛り込まれていますが、情報量が多すぎて、逆に登場人物の魅力や物語のおもしろさの面で物足りない感じがしました。

コアラ:内容が盛りだくさんで、テーマも重く、読むのにエネルギーがいる本でした。主人公のエリーについて、p.180の9行目に「自分のなかの、自分でもよくわからない部分にスイッチが入ったみたいになったのだ」という文章がありますが、今、ロシアのウクライナ侵攻があって、テレビで毎日戦争状態の映像が流れています。エリーみたいに、スイッチが入ったみたいな状態の子どもがいるかもしれません。そういうタイミングの子にとって、この作品は、それに応える本になると思いました。それから、この本のイタリアの舞台が、フリウリという地域で、前回読んだ本の舞台でもあったので、馴染みのある地名だなと思いながら読みました。地図があるとよかったかもしれません。あと、注について。章の最後に注がまとめられていて、読んでいてすぐに参照できないので、読みにくいなと思っていましたが、たとえば、p. 259の「ショア記念館」などは、きちんと読んだ方がいい項目ですし、文章の中で読み飛ばさず、注でいったん立ち止まって考えを巡らす、という意味では、章の最後に注をまとめる、という方法も案外効果的だなと思いました。

エーデルワイス:花散里さんが選書してくださり、感謝しています。選書担当だったのに楽をしてしまいました。表紙の絵も内容も美しいと思いました。作家は作品を仕上げるために資料を集め、読み解きますが、最後に掲載された膨大な資料参考を見ると、被爆二世の朽木祥さんの使命感、今ここで書かねばならないという強い意志を感じます。最近出た、こどものとも2022年10月号『おやどのこてんぐ』(朽木祥作 ささめやゆき絵)は昔話をモチーフにした楽しい絵本です。重厚な物語のあとは楽しいもの、このようにして作家の方は精神のバランスを保っているのかしらと想像しています。

花散里:朽木祥さんの作品はとても好きです。本作品も刊行されてすぐに読みました。 「イタリア」と「ヒロシマ」、二つの物語として、それぞれのストーリーをもっと深く、とも思いましたが、あまり長編になると子どもは読めないかなとも感じました。『八月の光』(小学館)もとても良い作品ですが、子どもたちにどのように手渡したら良いのかといつも思っています。本書は表紙が素敵な絵で良いですし、タイトルにも興味が湧くのではないでしょうか。子どもに手渡しやすい本だと思いました。確かに内容は盛り沢山ではありますが、これ以上、詳しくすると中高生が読むには大変なのではないかと思います。3.11、イタリア、ヒロシマを取り上げ、物語の構成、展開の仕方がとても良い作品だと思いました。イタリアの児童文学で手渡していけるものが少ないので、イタリアの作品をもっと読んでみたいという子どもが出てくると良いのではないか、とも感じました。広島の本町高校の高校生が、高齢の被爆者から話を聞き、絵を描いて原爆資料館に展示されていることも思い返しました。被害者、加害者の視点からも描かれていて、「あとがき」からも朽木さんのこの作品に対する思いが伝わりました。

オカピ:先ほど、子どもが加害者の視点で描くのは難しいという話がありましたが、パオロは、パルチザンの活動で亡くなった市民の数を書きのこしているので、この本ではそうした点にも目配りされているのかと。

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しじみ71個分(メール参加):戦争体験を語り継ぐという、難しくかつ大変に重要なテーマに取り組まれた力作だと思います。第二次世界大戦について、ドイツに近い北部イタリアの人の視点で語るというのも新鮮でした。ファシスト政権下でのユダヤ人迫害については知らないことが多く、学ぶところが多かったです。日本人の父とイタリア人の母を持ち、それぞれの国の戦争の記憶を祖父母から引き継ぐ主人公エリーのミドルネームが、「希望」という意味のイタリア語であり、レジスタンスとして17歳で処刑された大叔父のパオロが血でパンにしたためた言葉と同じであったという結末はとても見事だと思いました。同時に気になった点も少しありました。エリーが祖母エレナから戦争体験を聞くことになったきっかけが、東日本大震災からの逃避であったということです。エリーの心の持ちようの変化のきっかけとして震災体験が位置付けられているのですが、その後、震災について物語の中で深められることがなかったように感じました。震災とのつながりは、戦争が人によって起こされる災害、人災であるという点以外にあまり感じられず、震災の扱いが軽いように思われたところです。2つ目の点は、イタリアの戦争の記憶についてていねいに語られていますが、やはり広島の真美子の被爆体験の方がリアルで胸に迫ったということ、3点目は戦争体験は、生き残った人が語り継ぐしかないわけですが、サラとパオロ、真美子の、戦争で命を落とした当事者たちの描写が挿入されてはいるものの、それで戦争で亡くなった人たちの気持ちに寄り添えるほど深いところまでは読んで到達できなかったような気がします。そのため少し中途半端な印象が残ってしまい、傍観者的な感覚が物語に漂ってしまった気がします。4点目は、広島の方言にすべて注釈がついていたのが少し煩雑でした。全部わからなくてもいいのにな、もう少し流れるような雰囲気を味わいたかったなと思いました。5点目は、震災によって引き起こされた放射能被害を避けて海外に避難できてしまうという設定に、お金持ちなんだなぁと思わされてしまったこと、そして6点目が、エリーの存在が戦争体験を受けとめる媒体に特化してしまって、あまりエリー自身の人柄や思いが色濃く描かれなかったような気がした点です。とは言っても、戦争経験を次世代に語り継ぐという、とても難しい課題に取り組んだ意欲作ですし、広島の描写にはやはりうならされました。子どもたちと読んで語り合いたいと思う物語でした。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年09月 テーマ:反発と自立-親子って楽じゃない

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『2022年09月 テーマ:反発と自立-親子って楽じゃない』

 

日付 2022年09月20日
参加者 ハル、ルパン、アカシア、エーデルワイス、コアラ、アンヌ、しじみ71個分、まめじか、さららん、サークルK、雪割草、(末摘花)
テーマ 反発と自立-親子って楽じゃない

読んだ本:

『タブレット・チルドレン』表紙
『タブレット・チルドレン』
村上しいこ/作
さ・え・ら書房
2022.02

〈版元語録〉1人1台タブレットの時代。あたえられた課題はなんと子育て!? 生徒2人がペアになり、タブレットの中で人工知能の子どもを育てるという。心夏と温斗のペアがさずかったのは、超毒舌小学生マミだった…。
『13枚のピンぼけ写真』表紙
『13枚のピンボケ写真』
原題:FUORI FUOCO by Chiara Carminati,
キアラ・カルミナーティ/作 関口英子/訳
岩波書店
2022.03

〈版元語録〉第一次世界大戦時の北イタリア。父と兄たちが戦場へいったあと、13歳のイオランダと妹は、母親とも離ればなれになってしまう。戦争が激しくなるなか、家族の秘密を知った姉妹は、祖母を探す危険な旅を決意する……。もつれた家族の糸をほぐし、生きる力をつかみとっていく少女の感動の物語。ストレーガ賞児童書部門受賞作。

(さらに…)

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13枚のピンボケ写真

『13枚のピンぼけ写真』表紙
『13枚のピンボケ写真』
キアラ・カルミナーティ/作 関口英子/訳
岩波書店
2022.03

ルパン:これもおもしろかったです。『タブレット・チルドレン』(村上しいこ作 さ・え・ら書房)とはちがう、Interesting の方のおもしろさですね。ただ、この13枚のピンぼけ写真、実は実在する写真で、それが最後に出てくるんじゃないかと思いながら読んだのに、結局何も出てこなくて、肩すかしをくらった気分でした。このご時世なので、どうしても読みながらウクライナ侵攻を思わざるを得なくて、ふつうの生活がどんどん戦争に侵されていく恐ろしさを感じました。物語は、結局主人公もそのまわりの人々も誰一人犠牲になることなく終わるのですが、ほっとすると同時に、ハッピーエンドでよかったのかという、割り切れない気持ちも残りました。戦争で多くの人が命を落としたことは間違いないはずなのだけど、児童文学だから、ここに出てきた人はみな無事でした、で終わってよかったのか、それとも、子どもたちにも、現実はそう都合よくはいかないということに向き合わせて、戦争は絶対にしてはいけないと伝えるべきなのか……ここはみなさんのご意見も伺いたいところです。

さららん:1か月前に読んだ印象をお話しすると……。以前もこの会でイタリアの『紙の心』(エリーザ・プリチェッリ・グエッラ作、長野徹訳、岩波書店)を読みましたが、イタリアの作品では恋愛の要素が重要なんだ、とまず思いました。今回の作品でもサンドロがちょいちょい出てきて、主人公の少女イオランダにちょっかいを出します。(後半ではそのサンドロが主人公の心の支えになりましたね。)もうひとつ思ったのは、知らなかった歴史の側面を教えてもらえた、ということ。この作品はオーストリアで戦争が起きると、すぐにイタリアに帰らざるをえない貧しい家族を取り上げています。国境を行ったり来たりして暮らし、戦争になるとまっ先に被害を受けるヨーロッパの人たちの話をあまり読んだことがなくて、新しい歴史の見方がありました。家を追われたイオランダと妹が身を寄せるのは、目の見えないアデーレおばさん。おばさんは堅実に暮らしていて、障碍のある人が、社会で当たり前に受けいられてきたことに好感が持てました。イオランダたちの状況は悲惨で、母親は逮捕され、自宅にも住めなくなり、その後の旅も苦労の連続ですが、登場する人物の温かさに救われます。反発しあっていたお母さんとおばあちゃんが、戦争の中で再会して、和解していく。戦争は悪いことだけれど、悪いことばかりではない。絶望的な戦争のなかに人間の希望の物語があり、若い読者に自信をもってお薦めできる作品だと思いました。ただ、イラストで入っているピンぼけの写真の意味が読み取れなくて……。みなさんの意見を聞きたいです。

アカシア:私は出てすぐ読んだのですが、細部を忘れていて、もう1度読み直しました。戦時下にあっても、名前も知らなかったアデーレおばさんと会い、いないと思っていた祖母に出会い、出産に立ち会い、オーストリア兵に遭遇するなど、子どもはいろいろと見たり聞いたり吸収したりしていって、そう簡単には戦争につぶされないんだというところが描かれているのがとてもおもしろかったです。この挿絵ですが、まったくの抽象模様になっているので、意味があるのかと思って目をこらしているうちにフラストレーションがたまりました。訳文で気になったのは、p.66に「ホバリングというのは、飛んでいる鳥が翼をすばやく動かして、体をほとんど垂直に起こしながら、空の一点で位置を変えずに静止している状態」とありますが、これは違うと思います。ハチドリの場合は垂直ですけど、ワシ・タカ類などは水平なのでは?

まめじか:「戦争はわたしたちの首すじに息を吹きかけ、家々から男たちを吸いあげて連れ去ってしまう。そうして、かみくだいた骨だけを吐き出すつもりらしかった」(p.35)、「戦争という獰猛な鳥は、それからもしばらくわたしたちの頭上でホバリングを続け、一九一七年八月のある日、恐ろしい勢いで急降下してきた」(p.66)など、戦争の暴力性を詩的な言葉でとらえていますね。「兄さんの目にくっきりと映っているのは、戦闘や司令官、敵兵、それに勇気や名誉だけ。わたしたちはその背景に追いやられ、ピントがぼけ、ほとんど見えないくらいにかすんでいた」(p.116)とありますが、この本が描いているのは、戦争が壊す日常で、その1コマ、1コマが、ぼやけた写真に目を凝らすうちに見えてくる。戦争中に流れるデマや検閲など、ちょっとした描写にもリアリティがあります。気になったのは、9歳だったイオランダが人前でサンドロにキスされて、「わたしは、泥のなかでとけてしまうか、地面の割れ目にのみこまれるかして、いなくなりたかった。皮がむけるくらいにくちびるを何度もこすりながら、その場から走り去った。恥をかかされたことに対して、猛烈な怒りがこみあげた」(p.19)というふうに感じたと、書かれていることです。たとえばアメリカや、今は日本でも徐々に、子どもが小さいときから性的同意について教えようという流れがあって、そういう絵本もいろいろ出版されています。この作品の時代設定は昔ですが、読むのは現代の若い人たちなのだから、原書か翻訳で配慮するか、もしくはあとがきでフォローしたほうがよかったのでは。最終的に二人は結ばれたのだから、もしかしたらイオランダも実はまんざらではなかったのかもしれませんが、でも、この時点では、一人称の語りを読むかぎり、本当に嫌だったように読めるので。

コアラ:この本は第一次世界大戦の話だけれど、男の人たちが戦争にかりだされ、残った人たちも爆撃を受けて、街がめちゃめちゃに破壊される、というのは、まさに今も起こっていて、とても戦争を身近に感じながら読みました。人も動物も無残に死んでいく中で、お産婆さんの仕事という、命を取り上げる仕事が、とても尊いものに思えました。というか、生と死を対比させるように描いているのかなと思いました。主人公のイオランダは、この旅でいろいろなものを得たと思いますが、カバー袖の文章にもあるように、「もつれた家族の糸をほぐす」という旅だったと思います。その中で、出産に立ち会って、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いたという体験も大きかったと思います。それから、恋の話。嫌い嫌いも好きのうち、というか、最初は拒絶していたはずなのに、いつの間にか恋の相手として描かれている。気持ちの変化はていねいには描かれていなくて、手紙を読む場面とかで読み取れなくもないのですが、恋の描き方はちょっと違和感がありました。あと、妹のマファルダが私はすごく好きで、読んでいて、こういう子は大好き、と思いました。初めておばあちゃんを訪ねていって、何が望みなの、みたいに言われて気まずい空気になったときに、p.169の3行目、「あたしは、お水が一杯ほしいです」と言う場面。単なる無邪気な子ではない、というのも、それまでに描かれていて、こういう子はすごく好きだなと思いました。ただ、タイトルにもなっている「ピンぼけ写真」というのがあまりピンとこなくて、訳者あとがきを読んで考えないといけなかったのが、ちょっと残念でした。

サークルK:「戦争」という大きなものに対峙する、「命を取り上げるお産婆さん」という小さな存在の活躍が描かれているところや、イタリア北東部、オーストリアやハンガリーの小さな辺境のある地域に限定されて焦点が当てられているところが良かったです。顔の見えない歴史上の出来事に回収されない、ひとりひとりの人生が具体性を帯びて立ち上がってくるからです。母をたずねて、母の秘密を追いかける謎解きもあり、読者を引き込む力を感じました。ヒロインのイオレの妹マファルダが「男の人って、仕事がなくてぶらぶらしてると、くさっちゃうんだね」(p.22)と言った鋭い言葉に、子どもの目は侮れないと強く思いました。アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ作、三浦みどり訳、岩波書店)にも通じる「戦争というのはね、……男の人たちがはじめるものなのに、それによって多くを失うのは、女の人たちなの」(p.11)という言葉にも首肯しました。ピンぼけ写真をどう考えていいものかよくわからなかったので、みなさんの感想を伺うのが楽しみです。

雪割草:とてもおもしろく読みました。女性たちの目から見た戦争、ピンぼけの中にこそある、日常の生きた証、産婆を通して描く命の誕生といった、これまでも戦争を伝える文学で使われてきた手法ではあったけれど、作品として伝わってくるものがありました。主人公のイオランダは、おとなに近づいていく年齢で、母親、アデーレおばさん、祖母といったしっかり芯のある自立した女性たちと接し、その中で母親の過去とも出会い、一人の人間として見られるようになり、自分を構築し、成長していくのがよくわかりました。文章も詩的で、たとえばp.207の、おばあちゃんの言葉が出てくるさまを描いた箇所などとても素敵でした。それから、すごく子どもらしい妹のキャラクターも、クスッと笑ってしまう愛らしさがあって好きでした。ピンぼけ写真については、私も何かシルエットが浮かびあがってくるはず、と一所懸命目を凝らして見たりしましたが、わからず、疲れてきてあきらめました。

エーデルワイス:最初にある地図を見て場所を確認しながら読みました。美しい文章ですね。たとえばp.228「暮れていく夕日よ おまえはみんなのことが見えるのだから 愛する人のいる場所まで わたしの想いをとどけておくれ……」など。ロバのモデスティーネが好きなのですが、戦争のさなか人間さえ危ういのに動物は……と心配しました。最後まで生き残っているのでほっとしました。お母さんの名前が『アントニア』でお兄さんが『アントニオ』、似ているのですね。日本語の『春子』と『春男』のような感じでしょうか。物語の文章と別に、13枚のピンぼけ写真のイラストと説明文は新しい試みとは思いましたが、そのモアーとした絵にモヤモヤしました。(後日さくまゆみこさんを通じて、原書の挿絵はもっとわからないし、その絵は原作者の意向と知り仕方なく思いました。)

しじみ71個分:こちらの本は、大変におもしろく読んで、深く感じるところがありました。戦時下のイタリアでの子どもの姿が描かれていましたが、物語では戦禍を逃れて一家がバラバラになり、子どもたちは知らないおばあさんのところに身を寄せたり、血のつながった祖母を探したりで、とても苦労はするものの、一貫して、戦争に負けない命の輝きというか、生命力の強さが描かれていて、文章全体が明るく、そのたくましさに信頼感を持って読みつづけることができました。そこがとてもよかったです。戦禍を逃れて苦しむ中でも熱烈なキスを思い出してみたり、逃避行の中で新しい命が生まれたり、おばあさんたちがお産婆さんという命をこの世に送り出す仕事をする職業婦人だったり、戦後に本人も助産師の学校に行ったりと、それぞれのエピソードが物語の中で生命力を語っていました。まあ、ところどころ、オーストリア兵が空腹でチーズを食べただけで何もせずに出て行ったり、警察に捕まったお母さんに何事もなかったり、みんな死なずに男たちが戦争から帰ってきたり、というのはちょっとご都合主義というか、楽観主義かという気もしましたが、辛いことばかりの戦争児童文学だけでなくてもいいですし、こういう戦禍を切り抜けるたくましい話なら子どもたちも読んで希望を持てるのではないかなと思いました。ただ、私もピンぼけ写真には意味のある絵が描かれているんだろうと、最初は一所懸命に読み解こうとしてしまい、また、何か基づく資料写真があるのかなと思ったものの、いくら見ても見えず、解説もなく、あとでやっと、これは文を読んで想像するようになってるのかと気づいて、拍子抜けしてしまいました。

アンヌ:最初に地図を見たので、難民としてイタリア中をさまよう話なのかと思いましたが、家系を遡る話でしたね。子どもたち二人だけになった時も、司教さんとかアデーレおばさんとか頼れる人が次々現れるのには、ほっとしました。最初に猫のお産にお姉ちゃんの手が必要というセリフがあったのも、産婆という職業への伏線だったのかと、あとで気づいてニヤリとしました。ただp.131のキス場面については、最初はさすがイタリア文学、エロスの目覚めも書くのかと思いましたが、やはり主人公がもう少し自分の中にサンドロへの愛が芽生えている部分を書いておかないと誤解を招きかねないと思いました。

ハル:先ほどの原題のことは、「訳者あとがき」にありましたね。『(原題は、イタリア語で「ピンぼけ」を意味するFuori fuoco――フオリ フオーコ――)』ということです。さておき、私もやっぱり、この写真の意図が最初は全然わからなくて、出てくるたびに混乱してしまいました。だんだん慣れてくると、お話の中には盛り込めなかった当時の様子が、ちょっとカメラを横にふったような景色として補足されていて、おもしろくはなってきたのですが、でもこの写真の趣旨も後半にいくにしたがってずれてきているような気も……。最後なんて、エピローグ的な役目を果たしちゃっていますもんね。それに、この、ピントどころの問題じゃなくて現像できてない「もやもやの画面」を見ながら景色を頭に想像することと、挿絵がない本文を読みながら景色を想像することとの違いは、何かあるんだろうか……とも思えました。また、好きの裏返しとは言え、サンドロが同意を得ないキスをする場面は、読んでいてあまり気持ちがよくありませんでした。まあ、文学であって教科書ではないので、かたいことも言えないのかもしれませんが、児童書なので「これは文学だからありなのであって」というのは、ちょっと難しいようにも。やはり少し配慮があってもいいのかなと思いました。もうひとつ、男が起こした戦争に、女(と子ども)が苦労するという構図も、どこか文学のテーマとして捉えられているような気もしないでもなく。おとな向けの本だったらそれでいいですし、過去の時代を描いた作品に今の感覚を入れていくのは危険だとは思うけれど、これからは、女性だって、戦争を男性のせいにしていてはいけないわけで……過去の出来事を未来のために子どもたちに伝えていくときの難しさも、今回は感じました。

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末摘花(メール参加):この物語では何もかもを破壊しつくす戦争という極限状態にあっても人間は小さな命に希望の光を見出だし、災禍に見舞われた人々を励ましていくという様子が描かれています。戦争に踏みにじられた数多くの人々の姿、歴史の裏にかくれた戦禍の中で懸命に生きた人々の姿が13枚の写真に写っているように感じました。自分の運命を切り開いていく少女の成長を描いている希望の物語で、戦争の愚かさ、戦争を起こして弱い市民を顧みないことの非道を訴えているとも思いました。キャプションを読むと、ぼやけた輪郭線の向こうの人々の叫びが聞こえてくるようですが、戦禍の中で生きた人々の苦しみや痛みを伝えるということからも子どもたちに手渡したい作品だと思います。

*後に岩波書店の編集部から原書の挿絵を見せていただきました。原書にも、どれも同じ「ピンぼけ写真」が13枚入っているそうです。編集部からは日本語版の挿絵について別の提案をなさったそうですが、作者の意向でビジュアル戦略としてこうしているとのことだったそうです。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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タブレット・チルドレン

『タブレット・チルドレン』表紙
『タブレット・チルドレン』
村上しいこ/作
さ・え・ら書房
2022.02

ハル:初っ端からすみません! 少し前に読んで、どこがという具体的なことを忘れてしまったのですが、読み終わって、おもしろかった! と思ったことはよく覚えています。軽快でユーモアがあって、その中にふと、なるほどなぁと考えさせられるポイントがうまく仕込まれていて……ただ、著者のこれまでの作品を読んだときには感じなかったような、雑さも感じた記憶があります。テンポの良さにのって、私が読み落としてしまったのかもしれませんけれど。

アンヌ:このAIで子育ての仕組みがよくわからなくて、そこに引っかかっていました。現実の授業でもゲームを使ってパソコンの使い方を習っていると思うのですが、この子育てゲームは次元が違っていて、とても怖いなと思いました。主人公の個人情報が入力されているようだし、先生は命の大切さを学ばせようとしたと言っているけれど、これを作った近未来の教育委員会とかの本当の意図は何だったのでしょう。それぞれの子どもの適性とか攻撃性とかが記録され政府によって利用されるんじゃないかなどと思ってしまいました。でも特に説明がなくて、そこは拍子抜けしました。物語自体はとても楽しく後味がよい話でした。AIの子どものセリフと主人公自身の親子関係がダブっていて、主人公が自分を逆の立場から見ることができて、実際の親子関係も少し変わっていく。失恋しても、そこで実際の漫画家に会うという話になり、安易ではあるけれど、主人公が失恋に深刻にならないのも面白い。特に主人公のマンガ脳には親近感が湧きました。

しじみ71個分:テーマ設定が独特で、とてもおもしろいと思ってサクサクと読みました。なのですが、子育てをアプリでゲーム感覚で体験するというのは、やはり私も「たまごっち」を思い出して、どうなのかなとは思いました。私は妊娠中、小学校の総合学習に協力してくれと依頼されて、エコーでお腹の中の子どもが動く様子を見せたり、赤ん坊の心音を子どもたちに聞かせたりしました。中学校だと違うのかもしれませんが、そんな学習の感じかなと想像はしたのですが、その小学生たちは、赤ん坊の様子を見たり、妊婦のお腹に触ったりというところで、戸惑いとか気持ち悪そうな感じを見せていたのが印象的で、アプリだとそういう反応はないだろうなとは思いました。設定があまりリアルではない気がして、おもしろい、おもしろいだけで終わってしまった印象です。子育てをテーマにするなら、もっと命とか、親子の関係とかを深められて、どこかにリアリティがあればもっとよかったなとは思いました。主人公はかわいいですね。能力とか魅力とかに、でこぼこがある女の子で、とても魅力的でした。内省や親や妹との関係で悩んでいるところは、こまかい心情も描かれていて、ぐっとつかまれるところもありました。一方、AIがアプリで子どものキャラクターにしゃべらせて、人間の心夏の心情を読んで意地悪なことを言ったり、怖いことを言ったり、相当高度に描かれていますが、その割に背景の社会状況がそんなに今と変わらず、近未来でもなさそうで、AI技術の進歩度合と社会が合ってない気はしました。また、アプリでは子どもが子どもを育てていることにはなっていますが、遠慮のない家族のような、友だちのような対話相手になっていて、子育て体験をアプリでするというより、むしろ心夏の内省の道具だったのかもしれませんね。AIとの対話から自分や家族を振り返る点では、言葉に説得力がありました。なのですが、それが命の勉強になるとは思えず、いくらAIだとしても、ちょっと軽くて、入り込めないところはありました。また、自分が子どもを亡くしたという先生の告白が唐突でちょっと安易だったかなという感じが否めませんでした。また、白石君に失恋しても、漫画家の先生とつながることができたというのも、できすぎだったかなと思いました。

エーデルワイス:タブレットの世界と現実の中学生活、漫画の世界とおもしろく読みました。ペアを組んで仮想の子育ては斬新な発想と思いました。いろんなタイプの子が出てきて、ユーモアがあり、悪い子はいなかったと思います。主人公の心夏ちゃんが子育てペアの温斗君といい感じかと思えば、親友の美乃里ちゃんと付き合うことに。次に親身になってくれる白石君と仲良くなるのかな?と思えば白石君には彼女あり。結局心夏ちゃんは漫画に邁進する結末が楽しく感じました。

雪割草:私も、テーマが興味深く、おもしろく読みました。村上さんの他の作品に比べ会話が多く、テンポもよくて漫画を読んでいるようでした。タブレット・チルドレンはよいとは思えないけれど、タブチルをすることで、心夏は親の立場にたって、はじめて自分と母親や妹との関係を見つめたり、ペアになった相手との会話を通していろんな気づきがあったりする点は、読者にも一緒に考えさせるので上手だなと思いました。タブチルのようなバーチャルな体験ができる時代が来ていることを思うと、子どもたちの置かれた環境の複雑さを痛感しました。が、子育てや人間関係、人のいのちに関わることは、ゲームでなくリアルに体験していく必要があると思います。あと、温斗がなぜ施設と関係があるのか、なぜ父親が泣くからごはんの支度をする必要があるのかは、よくわからず、踏み込まないスタンスなのかもしれないけれど、意図も少し不明でした。

サークルK:テンポの良い進行だと思いましたが、その会話の速さや漫画的な展開についていくことができず、最後まであまり乗り切れませんでした。タブレット・チルドレンであるマミが「本当の人間になれますように」(p.162)と願う箇所はピノキオの願いを思い出しました。このタブレット・チルドレンたちの造形がもう少し深まるとおもしろかったように思います。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房)のなかのクローン人間が自分のルーツやオリジナルを求めてさまよう展開も想起させられました。読書会の後、「メタバース」についてのテレビ番組を視聴し、アバターがもうひとつの宇宙で動き回る世界がもう少しでやってくる、という話を聞いて、いつかこの作品が実際に起こる可能性もあるのかも、と少し怖くなりました。

コアラ:おもしろく読みました。タブレットで中学生が子育てをする、という設定がおもしろいと思ったし、テンポがよくて言葉のやりとりもおもしろかったです。p.26に「いいよ、もう。お母さんには無理」というマミの言葉があるけれど、同じようなことを心夏も自分の母親に言っていたと気がついて、母親の気持ちに思いを馳せられるようになる。そういう、心夏の成長について、わかりやすく、読者がついていきやすく書かれていると思いました。装丁も銀色でメタリックな雰囲気で、タブレット・チルドレンというのをうまく表しています。p.84の4行目で、カギカッコが2つ重ねてあって、2人が同時に発言しているというのを表現していますが、この方法は、私は初めて見たような気がします。全体として、さらっと読めて、子どもにもオススメだと思いました。

まめじか:「どちらかが、絶対にいやだとか、それは無理だとか言って拒否したら、家族ってどうしようもない。完全に機能しなくなる」(p.142)など、家族というものをずっとつきつめて考えてきた、作者の内から出てくる言葉だなあと思いました。AIの子どもを育てるというテーマは新鮮でしたが、ちょっと気になったのは、みんな男女のペアで育てているようなので、それは社会のステレオタイプを固定することにならないのかな、と。子育てはひとりでも、同性同士でしてもいいのだから。「異性でも同性でも」(p.206)という先生のせりふがありましたが、性も家族もいろんなあり方があるので。

アカシア:最初に読んだときには、あまりにもリアリティがないと思って、おもしろくなかったのですが、もう一度読んでみたら、会話やキャラクター設定はおもしろいと思いました。まあ、子育てについてのインサイトや考えるヒントがあるわけではないので、エンタテインメントですね。同じテーマならアン・ファインの『フラワー・ベイビー』(評論社)のほうが、訳はイマイチですがよく描けていると思います。小麦粉を入れた袋を新生児と同じ重さにしてそれを絶えず持ち歩かないといけないという設定ですが、タブレットよりはリアルに子育てを考えられます。子育てって、何よりもリアルな体験ですからね。先生の子どもが若くしてなくなったから生徒たちにも失敗しないでほしいとか、温斗が施設にいたことがあるなどは、話の大筋に関係ないので、とってつけたような感じだと思ってしまいました。タブチルそのものが、きちんとした教育プログラムにはなっていないですね。

さららん:私が感じていたことは、これまでにほぼ全部出てきたので、つけたす意見はあまりないんです。私もアン・ファインの作品のことを、思い出していました。今回の「反発と自立-親子って楽じゃない」というテーマから考えてみると、主人公の心夏は、母親に対しては反抗期ガンガンだけれど、美乃里ちゃんを始め、友だちとは仲よく普通につきあっています。タブレット・チルドレンのマミのトゲのある言葉にぶつかって、心夏は初めて自分を母親の立場において考えられるようになり、親子関係が少し変わっていく。その辺はまっとうな児童文学、という印象を持ちました。タブレット・チルドレンの存在は近未来なのか、SFなのかわかりませんが、こういうこともあるかもね、というぐらいのビミョーな設定です。ありえないー!ってことも起こるんですが、それも含めて、作家の掌で転がされている感じがします。書き方によっては暗くも重くもなりそうなテーマを、軽い笑い(マミが出てくるところはシニカルな笑い)に包んで、読ませます。物語の展開がいつも少しずつずれていくところは、心夏の頭の中と同じで、漫画的なのかな。心夏が、漫画のネタとして周囲の出来事を捉えているので、べたつかずに読み進められ、小学校高学年から楽しめる作品じゃないかと思いました。作家の村上さんは身近なタブレットを使って、一種の思考実験をやってみたかったのかもしれませんね。

ルパン:『タブレット・チルドレン』という題名を見て、タブレットに振り回される子どもたちの話なんだろうと思いきや、タブレットの中にチルドレンがいたというのには驚きました。ものすごく斬新で、ぐいぐい読めてしまったのですが、ところどころにちぐはぐ感もありました。主人公は「スクールカースト最下位」といいながら、友だちもいるし、男の子ともふつうに口をきいているし、キリエもこの子をいじめているんだけど、案外好きなんじゃないかと思えるくらいかまってくるし……そのちぐはぐ感が楽しかったんですけど、最後の最後に、急に先生の話で重くなっちゃって、一気に臨界を超えてしまった気がしました。そこまでは、ちぐはぐなところもまた心地よく読めていたのですが、さすがに自分の子どもを亡くして、中学生が将来そうならないためにバーチャルの子どもを育てさせる、というのは……いくらなんでも無理があります。あと、この主人公が最後にタブレット・チルドレンのマミちゃんを育てることにする、というのもちょっとなあ……と。私もたまごっちを育てたことがあるので、バーチャルなものに感情移入する気持ちはわかるんですけど、この子はまだ中学生で、これからリアルな友情とか恋とかを経験しないといけないのに、所詮はプログラミングされた映像に過ぎないマミちゃんのために時間を使い続けるなんて。「やめた方がいいよ」「電源切ったらいなくなるよ」って言ってあげなきゃ、と真剣に思ってしまいました。あ、本に感情移入してしまう自分もアブナイのかな……?

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末摘花(メール参加):GIGAスクール構想が始まり、子どもたちが1人1台端末を持って授業を受け、家に持ち帰って宿題をするという今、このような児童文学作品が登場してくるようになったのかと思いながら読みました。中学生が担任の提案でランダムにコンピューターが決めた男女ペアになってタブレットの中に設定されたタブレット・チルドレンを育てるということ、会話文が多用されて物語が進んでいくことに違和感を覚えながらも、中学生がタブチルを通して自分を問い直して成長していく姿に、子どもたちは共感して読んでいくのではないかと感じました。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年08月 テーマ:「親ガチャ」からのスタート

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『2022年08月 テーマ:「親ガチャ」からのスタート』
日付 2022年8月17日
参加者 ネズミ、エーデルワイス、アンヌ、つるぼ、ハル、雪割草、シマリス、しじみ71個分、ルパン、まめじか、西山、ハリネズミ
テーマ 「親ガチャ」からのスタート

読んだ本:

『ペイント』表紙
『ペイント』
原題:페인트(Par-Int)
イ・ヒヨン/著 小山内園子/訳
イースト・プレス
2021.11

〈版元語録〉少子化が限界を越え、「人口絶壁」状態となった近未来。国は少子化対策として、親に代わって国が子どもを養育するセンターを設立し…。“子どもが親を選べるとしたら”という人類の究極のIFに挑んだティーン小説。
『りぼんちゃん』表紙
『りぼんちゃん』
村上雅郁/著
フレーベル館
2021.07

〈版元語録〉第2回フレーベル館ものがたり新人賞大賞受賞作「ハロー・マイ・フレンド」改題『あの子の秘密』でデビューし、同作が第49回児童文芸新人賞受賞というラッキーな作家人生をスタートさせた村上雅郁。3作目の今作は、20代最後に贈る「祈り」の物語。

(さらに…)

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りぼんちゃん

『りぼんちゃん』表紙
『りぼんちゃん』
村上雅郁/著
フレーベル館
2021.07

しじみ71個分:この本もとてもおもしろかったです。暴力をふるわれる虐待ではなく、威嚇やどなるタイプの心理的虐待にあう友だちを助けたい主人公の視点から描かれた作品で、いろいろと考えさせられました。主人公の朱理は虐待にあう友だちの理緒を助けたいのに、普段から背が小さいために赤ちゃん扱いされ、まともに取り合ってくれない周囲を動かし、理緒を助け、自分も成長していくという構成になっていましたが、たくさんのテーマが含まれていて、いろいろ深く考えられた物語でした。とてもおもしろかったのですが、いくつか気になった点がありまして、まず、彼女の心の中の物語世界なのですが、自問自答、内省を良い形で表しているなとは思うのですが、前半の水の精の話が特に冗長で、ちょっと物語の本筋から読み手の気持ちが離れて行ってしまう感じがありました。また、例えばp9の「頭の中に国語辞典でもあるの? ナポレオンなの?」というところとか、作者が前面に出てきてしまう感じの不要な文がはさまっていたりして、ときどき物語の進行を作者が邪魔しているような部分があったのですが、なのに途中でドンと胸に迫る表現があったりして、この作者の世界観は独特だなと思いました。あるいは、若さゆえのコントロールの甘さか、アンバランスさかとも思ったり…。朱理が、理緒のお父さんに突然、バドミントンをさせないでくださいと言ってしまうのは、これはその後どうなるのかを思うと、本当に怖かったです。大人がちゃんと子どもの話を聞いてやらなくちゃいけなかったと思いました。最終的にはお父さんが気付いてくれて、お母さんもお姉ちゃんもみんな味方になってくれて、問題が解決されてよかったのですが、理緒のお父さんがわりと簡単に改心しているのは、そんな簡単な問題ではないと思うので、ご都合主義かなとも思いました。ですが、作者が虐待、友人関係、家族との信頼関係、自己肯定感と自己主張といった難しいテーマに果敢に取り組みつつ、その主人公を支えるのが言葉であり、物語であるという点まで、モリモリのてんこ盛りになった意欲作だと思いました。

西山父親のありようとか、解決の仕方とか注目すべき読みどころはいくつもありますが、私がいちばん新鮮に思ったのは、朱理ちゃんのありようです。難しい言葉を知っているところと知らないところ、あぶなっかしいところも、そのアンバランスさが、ああ、こういう年齢の子どもの姿としてあるかもと思えて、とてもおもしろく興味深く読みました。子どもあつかいされるのをいやがっているけれど、実のところ幼いところもある。そこが子ども像として新鮮に感じました。体の大きさの違いも、子どもにとって切実なのだということが、ちょっとした仕草、赤ちゃん扱いするクラスメイトとのやりとりなどからしっかり伝わってきました。そんな朱理が、自分の言葉を聞いてくれないおとなに絶望していくわけです。父親も母親も朱理をがっかりさせる。朱理がそれぞれを見限る瞬間は印象的です。がっかりの深さが痛みとして胸に響きます。でも、そこで終わるのではなく、もう一度おとなを信頼するほうに転じさせる展開に、大変共感しています。

シマリス: 文章も物語の構成もうまいなぁ、と新作が出るたびに気になっている作家さんで、この本も発売されて間もない頃に読みました。かわいがられつつ、小柄なことでからかわれる朱理のキャラクターが独特で魅力的でした。前作までは、クライマックスでも冗長な会話があって、せっかくの勢いが弱まっていたんですけど、今回は終盤に疾走感があってよかったです。後半に専門知識がまとまって出てくるのですが、その部分が押しつけがましくなくて適量だなと思いました。ただ、ラストの部分、皆まで言うな!!と止めたいくらい、作者の言いたいことを語り倒していて余韻のないのが残念でした。

ハリネズミ:朱理の一途な気もちはよく伝わってきました。おとなが頼りにならないときに子ども同士が助け合おうとするのは、現代的な設定ですね。ちょっとひっかかったのは以下の点です。p119におばあちゃんが朱理に目に見えないオオカミの話をするところがありますが、小学校に上がったばかりの子に、こんな理屈っぽいことを言うでしょうか? p180の後ろ5行はおとなの視点ですね。特におばあちゃんが出てくるところなど、ところどころに大人の視点が出てきて解説しているのが残念でした。

雪割草:おもしろく読みました。赤ずきんちゃんの物語と現実の経験が交錯しながらすすんでいくところやおばあちゃんの言葉がよかったです。ただ、朱理の言葉がときどき自分の言葉ではないみたいで、おばあちゃんの言葉もそうですし、物語が好きで、書くことで世界に関係したいというところなど、作者の姿が見える感じで、もう少し控えめにした方がよいとは思いました。エンディングも、りぼんちゃんのお父さんの態度の変わりようなど、こんなにうまくいくだろうかと疑問に感じました。それから、赤ずきんちゃんの物語をもとにして、狼=悪のイメージで用いていますが、狼は生きもので、狼の目線の世界もあるわけで、悪として描いてしまうのは問題があるように感じました。

ハル:「虐待」の設定がとてもリアルだなと思いました。身体的な暴力だけが虐待なのではなくて、もしかしたらいま読者自身やその友人が抱えているかもしれないその違和感、緊張感、心が重たくなるような感覚、これはひょっとして異常なことなんじゃないか、と気づくきっかけになりうる本だと思いますので、その点では子どもに寄り添った本だなと思いました。ただちょっと、登場人物が作者の思いを語りすぎな気もちょっと。全部がせりふとして書き起こされている感じがします。このくらいわかりやすいほうが、若い読者には読みやすいのかなぁ? でも、私は圧迫感を覚えました。

つるぼ:表紙の早川世詩男さんの絵が、とってもいいと思いました。子どもが手に取りやすいですよね。文章も生き生きしていて、引きこまれる(ちょっと余計な言葉が多すぎる感じはしたけれど!)。そうしていくうちに語り手の朱理が友だちの深刻な問題に気がつき、自分の悩みを考えるのと同時に成長していくという物語の作り方は、とてもよく考えられているし、しっかり調べて書いてあると好感を持ちました。自分の周囲にある輪を1歩乗りこえて、児童相談所という社会にコンタクトしているという点も好感が持てました。ただ、あかずきんちゃんや魔女の話は、作者にとっては物語に欠かせない要素なのかもしれないけれど、あまりおもしろくないし、生硬な感じがしました。それに、児童書としてはこれでいいのかもしれないけれど、大人の読者にとっては絶対にここでは終わらないと予想がつくだけに、ある意味とっても怖い話でした。それに、どうして理緒ちゃんを主人公にして語らせなかったんでしょうね? こういう「友だちにこういう子がいて……」と主人公が語る物語を読むと、わたしはいつも「その子に語らせたらどうなのよ?」と思ってしまうんですけどね。

アンヌ:前半の朱理についての記述と矛盾するような、物語を作る力のある朱理の描写が続くのでおもしろかったのですが、その物語には少々退屈しました。好きなシリーズ本の中の魔女の話と、朱理の物語の中の魔女とおばあちゃんの語りと、記憶の中のおばあちゃんの言葉があって、ここだけで少々へとへとになりました。でも、ここまで来てこの子は考える力を持っている子なんだとわかって、友達の家庭内問題まで立ち入れる人間なんだとわかってくるわけですよね。後半は、本当にこうなったらいいなあ、少なくとも現実に苦しんでいる子が、先生以外の大人にも助けを求めていいんだとわかればいいなと思いました。作者が描くイメージは時にとても美しく、p.26の図書館での「同じ本を読む意味」や、p.40の「おしゃべりに花を咲かせる」ところの描写はとても魅力的でした。

エーデルワイス:ほとんど皆様の感想と同じです。児童書ですから安心した結末になっていますが、理緒ちゃんのお父さんについては心配です。改心しているかもしれませんが、人はすぐには変われません。長い時間理緒ちゃんとお父さんは離れた方が良いと思いました。朱理ちゃんが書いた物語が度々登場し、それが深い意味を持っています。小川糸さんは、幼い時から実のお母さんとの確執があり、その苦しい胸の内を学校の先生にも打ち明けることもできず、作文や物語を書いたところ大変評価され、それで作家になったそうです。文章力を持っている子は困難を乗り越える力があるのですね。朱理ちゃんをよく理解していつも味方でいてくれたおばあちゃん。そのおばあちゃんを亡くし、温かい家庭で暮らしていても孤独感にさいなまれる朱理ちゃん。こんな子はたくさんいるのでしょうね。周囲で気が付いて話を聴いてあげたいです。表紙のイラストには驚きましたが、納得して感心してしまいました。
以前身近でこんなことがありました。複雑な家庭環境の知り合いの女性から、高校生の長男が、両親や祖母の誰にも相談することなく自ら児童相談所に行き、保護されたという電話を受けたことがあります。家族と長男はしばらく面会謝絶。その長男は生き延びることができたと思いました。その女性には「お子さんは頭の良い子ですね。まずは生きていることが大事。いつか会える日がきますよ」と、言いました。その後連絡はありません。

まめじか:一時保護所については、自由がなくて、子どもにとって非常にストレスのかかる場になっているという報道も聞きます。この本ではポジティブに描かれていて、きっといろんな施設があるのだろうとは思いますが、実際のところはどうなのでしょうね。

ネズミ:おもしろかったです。友だちとの会話など、これまで読んだことのない文体でした。今の子どもはこんなふうに話すのかなと思って読み進めました。慣れるまで入りにくく感じましたが、途中からはぐいぐいひきこまれました。理緒の問題は、心あるおとなが見れば、何か変だとすぐ気づくのかもしれませんが、朱理の理解ではそこまで至らないところに、6年生の限界があるのかと思いました。同年代の読者が共感すると先ほど出ましたが、それは子どもの目線で描かれているからでしょうか。朱理が最後、本気で求めたとき家族がそれぞれにこたえてくれるところは、できすぎ感もありますが、安心できました。理緒の父親が改心するというのは、実際はきっとすぐにはうまくいかないだろうという予感も感じられ、ある意味でリアルだと思いました。

ルパン:私は正直あんまりおもしろいと思いませんでした。物語の形式をとっているけれど、結局、朱理がぜんぶしゃべっていて、さいごまで作者の長ゼリフを聞かされている気がしました。劇中劇の中で語られるおとぎ話のアイデアのほうが楽しそうで、その話を書いたらおもしろいんじゃないかと思いました。

(2022年08月の「子どもの本で言いたい放題』の記録)

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ペイント

『ペイント』表紙
『ペイント』
イ・ヒヨン/著 小山内園子/訳
イースト・プレス
2021.11

ネズミ:ディストピア小説だなと思って、おもしろく読みました。管理されたなかで理想的な子どもを育て、理想的な親とマッチングさせていくという。ここで行われているやり方を見て、拒絶感を感じたり、なるほどと思ったり、いろいろと考えさせられる物語だと思いました。めんどうくささ、理論や効率だけでは片付けられない緩みのようなところに親子関係の機微があると思うのですが、それがハナの夫婦の箇所であぶり出されるのがおもしろいと思いました。

エーデルワイス:8月7日JBBY主催オンライン講座『非血縁の家族について考える~里親で育つ子どもたち』に参加して感銘を受けたばかりで、今回の課題図書はタイムリーと思いました。この物語では、養子縁組を結ぶ場合、親になる人が子どもを選ぶのではなく、子どもが親になる人を選ぶというところが新鮮でした。最近でも親の養育放棄で幼い子が亡くなるという痛ましいニュースが続いています。実の親に子どもを育てる能力がなかったら国が親に替わって子どもを大切に育てるこの近未来の内容が、いつか実現するかもしれないと思ったりもしました。終盤主人公の「ジェヌ301」が養子縁組をすると思いきや、自分で巣立つという選択をしたところが予想を裏切られて爽快でした。韓国でこの本が青少年に大いに支持されているそうですが、生の感想をぜひうかがいたいと思いました。

アンヌ:私は初読の時あまりにあっけなくて、上下巻の上だけで終わったような気分になりました。外界の様子がはっきりと描かれていないので、養子になれなかったら過酷な運命が待っていて、差別の待ち受けている一般社会に一人で立ち向かうことになるという設定がピンときませんでした。政府が子どもを養育しているなら、才能のある子を見出して英才教育をするだろうとか、19歳で外界に出て居場所がないならまず兵役じゃないかとか考えてしまい、設定に納得がいかなくて物語に入り込めなかったようです。主人公は4年近く様々な養父母候補と会っていて、養子制度のうさん臭さに冷めているようですが、お金や小説の種を目当てにペアリングを申し込んできたハナ夫婦とは友情を結びます。親子関係ではなく、彼らや施設長との友情を基に、主人公は外界に出て一人で生きていくのでしょうか? いずれにしろ続きの物語がないと、物足りない気がします。

つるぼ:ディストピアの物語ということで『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を真っ先に思い出し、なにか悲劇的な事件が起こるのではないかと、はらはらしながら読みましたが、満足のいく結末でほっとしました。わたしはアンヌさんと反対で、設定が非常に巧みで、よく考えられていると思いました。外の世界から切り離された、男子のみの施設に舞台を設定したことでYAには欠かせない恋愛とか、その他もろもろのことがすっぱりと削ぎおとされ、親とは、家庭とはという作者の問いかけが真っ直ぐに伝わってきていると思います。まるで一幕物の舞台を観ているようでした。ただ、主人公の年齢が、本来なら家庭を離れて自立していくころなのに、なぜ家庭を必要としなければいけないのかという点が、少々気にかかりました。韓国は家父長制が重んじられ、血筋を大切にすると聞いたことがありますが、その辺のところが日本の読者と受け止め方が違ってくるのかな? 親が決まらず施設を出た子どもが差別され、生きにくさを抱えるということも書いてありましたが……。

ハル:この本は韓国ではYAとして出版されているんだと思うんですけれども、日本ではおとな向けのカテゴリーですね。一読目は私もおとな目線で読んだと言いますか、里親制度は子どものための制度なんだけれど、本当に子どもに軸足を置けているのかな(施設で働く方々ということではなくて、社会が、という意味です)ということを考えさせられました。p21の「ココアはセンターを訪れるプレフォスターの笑顔に似ていた。適度に温かくて、過剰に甘い」といった一文にドキッとしたり。でも、二読目になると、これはやはりYA世代の人にこそ読んでほしい本だという思いが強くなりました。「ぼくの親は何点かな」とか「ペイントで自分の親と面談したら選ぶかな」とかいうことじゃなくて、将来、自分が親になるかもしれない、新しい家族をつくっていくかもしれないことに思いを馳せ、視野を広げる1冊になるんじゃないかと思います。だから、日本でも児童書として出してほしかったなあと思いました。とてもおもしろかったです。

雪割草:興味深く読みました。日本でも非血縁の家族など家族のあり方を考える機会がふえていますが、韓国は血筋を大事にする社会と聞いていたので、そのようななかでこういった作品を書くのは挑戦的だったのではないかと思いました。最後のジェヌの選択は、作者の社会における差別や偏見に対する姿勢があらわれているように思いました。プレフォスターの面接の場面が子ども目線で描かれることで、子どもも親に対して期待を抱くことや、ハナの母親のように子どもを自分の欲求を満たす手段にする親、パクの父親のように虐待する親などさまざまな家族の関係が描かれていて、家族のあやうさについて考えました。子どもだけでなくおとなにも広く読んでもらいたいです。

 

ハリネズミ:とてもおもしろかったです。施設に入っている子どもを養子にするという場合、たいていはおとなが子どもを選びますが、この作品では逆で、子どもが選ぶというのがおもしろいですね。少子化に歯止めをかけるため、産むだけは産んでもらって、育てるのが嫌なら国で育てるという政策になっている近未来ですね。ただ思春期になって複雑な心を抱える子どもを、これまでの積み重ねなしに突然引き取っても難しいと思うので、そこはちょっとリアリティに欠けるかと思いました。まあ、だからこそ思惑があって引き取ろうという人に対しては、センター長やガーディが目を光らせているのでしょうね。ジェヌが最後にペイントをした夫婦は、これまでと違う、飾り気なしで本音を言ってしまうところがあり、だからこそジェヌは気に入ったんですよね。ということは、たいていが美辞麗句を言う人たちだったんでしょうか。2回読んで、結末はどう考えればいいかと思案したんですが、センター長のようにしっかり子どもを見てくれている人がいて、その人の生き方も手本になるとすれば、親はなくてもしっかり歩んでいける、ということなのでしょうか?

シマリス: とてもおもしろく読みました。こういう謎の組織に隔離されている話って、組織に悪が潜んでいたり裏の目的があったりして、システムの目的を暴いていくのが焦点になりがちです。でも、この作品では、そこは最初にさらっと明かされていて、焦点は「親子とは何か」「家族とは何か」に絞り込まれていました。リアルな話でこのようにテーマが明確すぎると、説教臭かったり作者の言いたいことの押し付けになったりするかもしれませんが、近未来の架空の設定にすることによって、そういう生臭さが消えています。素直に、家族とは何か、親とは、血縁とは、そんなことを考えることができました。

西山:たいへんおもしろく読みました。ラストでこれは児童文学だと思いました。悲惨な展開になりはしないかとちょっとひやひやする部分もあったものですから。途中、主人公のジェヌはガーディのパクと親子になるのではないか、ペイント(面接)を進めたあの2人と縁組みするのではないか、そうなればよいのにとどこかで思いながら読んでいたことが、良い方向にひっくり返されました。私の甘い期待は結局親子関係を紡ぐことをハッピーエンドとしていたわけで、染みついた固定観念を突かれた感じです。そうではない着地点を見せてくれたことが、家族とは何かを問う作品として芯が通っていて大いに刺激されました。父母面接を13歳以上の子どものみに可能とした経緯は、p30からp31にかけて書かれていましたね。初読時は、単にこの世界の設定部分としてさらっと読み飛ばしていたのですが、「嫌なことや間違いを口で言える十三歳以上の子どもにだけ父母面接を可能にした」という部分は、もう1冊のテキスト『りぼんちゃん』(村上雅郁著 フレーベル館)とも通じる大事な観点だったなと思っています。読めてよかったです。

しじみ71個分:本当に、とてもおもしろく読みました! 親が産んだ子どもを育てることをしないで、国家に預けて育ててもらうという設定なので、ディストピア的な暗い話かと思ったのですが、ガーディが子どもたちを思い、愛情をもってしっかり育てているし、アキのような、愛らしいまっすぐな子が幸せになり、ジェヌのような冷静な大人っぽい子がちゃんと育って独り立ちしていくという、希望を持って終わる物語になっていて、これは作者が子どもに届けたくて書いているのだなと強く感じました。「親は選べない」と世の中では言われているけれど、それをひっくりかえして、親を子どもが選べる設定になっており、最後までどう物語が進んでいくのか、ずっと興味を引かれながら読み通しました。ジェヌが「ペイント」(=ペアレンツインタビュー)をしたり、ガーディたちのことを考えたり探ったりと、彼による大人の観察を通して、物語が進んでいきますが、その観察がとてもていねいに書かれており、読んで大人として痛いやら、身に沁みるやらでした。手当をもらうために子どもをもらおうとする夫婦や、夫が妻を支配する夫婦が来て、期待できない大人を見てしまいますが、それと一線を画し、親になる自信のなさも含めて正直に自分を見せてくれる大人、ハナとヘオルムが会いにきて、親子という関係をこえて、信頼できる大人としてジェヌの前に現れたのもとてもよかったです。ガーディのパクとチェの存在の描かれ方も、本当によかったなと思いました。血縁でなくても、自分を思ってくれる人がいるということは、どんなに心強いかというメッセージにもなっていると思います。結末も、親子関係の中に自分を置くことを選ばず、自立していこうと希望を持って終わったので、読後にとてもすがすがしい開放感がありました。親子や大人と自我との葛藤は、思春期だと必ずぶつかるテーマだと思うのですが、それに対する作者からの1つのヒントになっていると思います。最近の韓国ドラマを見ても、各所に過去まで遡った家系や学歴、貧富や家族関係など、出自に関する言及が本当に多くあって、韓国社会の中では個人のバックグラウンドはやはりとても気にされるんだと思います。そんな社会であれば、この物語は韓国の子どもたちにインパクトがあるだろうと思いました。細かい点ですが、アキの名前は一人だけ日本語の「秋」に翻訳されてしまっていて、ちょっと日本っぽさを思いだしてしまうので、韓国語の秋の音で「カウル」にした方がよかったんじゃないかとか、年下の人が年上の男性を呼ぶときに「ヒョン」と呼びかけますが、それも毎回、「兄さん」と訳さなくてもよかったんじゃないかなど、素人ながら翻訳はちょっと気になることがあったのですが、物語としてとてもとてもおもしろかったです!

ルパン:未来小説だと思いますが、近未来世界というか、本当にそうなるかも、って思わせる設定で、おもしろかったです。ヘオルムとハナを里親にしなかったのは正解だと思いました。友だちみたいな親はいらないし。この二人なら、お金をもらえなくても、ジェヌが卒業後に会いに行ったら喜んでくれると思います。ガーディのパクはこのあとどんな人生を送るのか気になりました。

(2022年8月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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パップという名の犬

ジル・ルイス『パップという名の犬』表紙
『パップという名の犬』
ジル・ルイス/著 さくまゆみこ/訳
評論社
2023.01

野良犬たちを主人公にしたイギリスのフィクションです。家庭の中に居場所がない少年にとって、唯一愛する存在だった雑種犬の子犬パップ。でも、少年が学校に行っている間に、捨てられてしまいます。そして、野良犬として生きていかなくてはならなくなったパップの試練が始まります。獣医として働いていた著者の観察眼や描写は、さすがと思わされます。野良犬それぞれの個性が立ち上がってくるように描かれていますし、犬たちの目を通して人間社会の歪みも見えてきます。パップのことだけではなく、無理矢理愛犬を奪われてしまった居場所のない少年の行く末も気になりますが、最後はハッピーエンドです。

(編集:岡本稚歩美さん 装丁:川島進さん)

◆2023年読書感想画中央コンクール指定図書

***

〈訳者あとがき〉

本書は、イギリスで二〇二一年に出版されたA Street Dog Named Pupの翻訳です。

著者のジル・ルイスさんは、環境や動物と人間との関係を書き続けているイギリスの作家です。日本でも、すでに『ミサゴのくる谷』『白いイルカの浜辺』『紅のトキの空』(以上評論社)、『風がはこんだ物語』(あすなろ書房)が出版されています。

ルイスさんは、小さいころから草ぼうぼうの庭で、虫や鳥に親しんでいたそうです。そのつながりで獣医になり、その仕事にはやりがいを感じていたものの、今の時点で職業を選ぶとすれば、環境科学を勉強して野生動物を保護する活動をめざしたかもしれないと言っています。

またルイスさんは小さいころから物語を作るのは大好きだったのですが、学校では物語を楽しむよりは、文章の分析、文法、正しいつづりなどを注意されるあまり、物語から遠ざかっていたそうです。それが自分の子どもに本を読んでやっているうちにまた物語が好きになり、その後、大学院で創作を学び、『ミサゴのくる谷』 でデビューしました。

『ミサゴのくる谷』は、鳥のミサゴがスコットランドの少年とアフリカ・ガンビアの少女を結ぶ物語です。『白いイルカの浜辺』は、行方不明の母親と働く意欲を失った父親をもつ少女が、脳性麻痺の気むずかしい少年フィリクスといっしょに、傷ついた子イルカを母イルカのもとへもどそうと奮闘する物語で、持続可能な漁業についても考えさせられます。『紅のトキの空』は、心のバランスをくずした母親と発達のおそい弟を抱えたヤングケアラーの少女が、居場所をさがす物語で、ショウジョウトキなどの動物が象徴的に登場してきます。『風がはこんだ物語』は、小舟に乗った難民たちが、舟の上でバイオリンをひきながら少年が語る、モンゴルの白い馬と馬頭琴の話に勇気をもらうという物語です。どの作品でも、人間の心理と動物たちがからみあって、読ませる物語になっています。

そしてこの作品は、人間と動物のかかわりをていねいに描いている点や、弱い立場の者たちに著者が心を寄せて書いている点はほかの作品と同じですが、野生生物ではなく都会に暮らす野良犬たちを主人公にしているところが、ほかとは違います。

その野良犬たちですが、レックスは、闘犬として相手を殺すよう訓練されていました。ルイスさんによると、強く見せるために耳も切られているそうです。「おれは、社会ののけ者なんだよ。怪物みたいに戦うための犬なんだ。だけどよ、おれが知ってる本当の怪物は、人間だけだぜ」という言葉が辛辣ですね。サフィは、愛してくれた家族から盗まれて繁殖犬をやらされ、病気になったので捨てられました。レディ・フィフィは、セレブ気取りで流行の犬を購入した飼い主があきて捨てられました。レイナードは、キツネ狩りに役立たないので頭に銃弾を撃ち込まれて殺されかけました。イギリスでは実際にキツネ狩りが行われていますが、このように殺されるフォックスハウンドは年間三千ひきもいるそうです。マールは、かしこい犬なのにこの犬種の習性を理解していない飼い主に、手に余るとして捨てられました。クラウンは元気が良すぎて捨てられたのでしょう。また、フレンチに関してもルイスさんには特別な思いがあるようです。人間の都合でマズルが短くされたパグ、フレンチブルドッグ、ボストンテリア、ブルドッグなどの短頭種(鼻ぺちゃの犬たち)は、健康上いろいろ問題があるのですが、イギリスではかわいいとして大いに宣伝されるので飼う人も多いそうです。イギリスでは多くの獣医さんや動物保護団体が、宣伝広告に短頭種を使わないように申し入れているとのこと。「利益よりも健康を」とルイスさんは言っています。

コロナ禍でイギリスでもリモートワークになり、家で子犬を飼う人もふえたので子犬の盗難も二・五倍にふえたそうです。また、安易に飼い始めた人がめんどうになったり、通勤が再開すると犬の世話ができなくなったりして、捨てる犬も多くなったとのことです。こんなところにもコロナ禍の影響が出ているのかと驚きましたが、日本ではどうでしょうか。

さて、本書の挿絵ですが、ちょっと素人っぽいとか、素朴だと思われた方もいらっしゃるかもしれません。絵を描いたのは、作者のルイスさんご自身です。ルイスさんはもともと絵が好きで、絵も描きながら物語の構想を深めていくそうです。必要なことをいろいろと調べたうえで書き始めるのだけれど、とちゅうでいろいろな場面や登場するキャラクターを線画で描いてみるとのこと。文字で書くときとちがう頭の領域を使うので、いろいろなことを思いついたり、もっと深く物語に入りこめたりする、とルイスさんは語っています。よく見ると、たしかにいろいろな犬種の特徴や表情をよくご存知の、獣医さんならではの味が出ていますね。

子どものころに、何をどう感じ、どう思っていたかを今でもよくおぼえているというルイスさん、これからもおもしろい子どもの本を書いてくださることを期待したいと思います。

さくまゆみこ

***

〈紹介記事〉

・「西日本新聞」(おすすめ読書館)2023.04.10

ジャーマンシェパードの雑種パップは生後数カ月の子犬。吠(ほ)え癖があるため人間に捨てられ、愛する少年と引き離されてしまう……。動物をテーマに物語をつむぎ続ける作家が、都会に暮らす野良犬たちの運命に思いをはせた児童書。「人間と犬との間には〈聖なる絆〉がある」という。それは本当なのだろうか。さくまゆみこ・訳。

・「朝日新聞」(子どもの本棚)

子犬のパップは、ある雨の夜、飼い主によって「しかばね横丁」に置き去りにされる。途方にくれるパップを助けてくれたのは野良犬のフレンチだった。フレンチは人間に捨てられた仲間たちと一緒にいて、パップもそこで暮らすことになる。群れで生きる犬たちを個性豊かに描いているところに、作者の動物たちへの深い愛を感じることができた。母犬が子犬に語りついできたという人間との「聖なる絆」はあるのか。またパップはどうなるのか、はらはらしながら読んだ。(ちいさいおうち書店店長 越高一夫さん)

・大阪国際児童文学振興財団(動画):やすこぼんさんのご紹介です。

パップという名の犬(動画)

 

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チケとニジェール川

『チケとニジェール川』表紙
『チケとニジェール川』 小学館世界J文学館

チヌア・アチェベ/作 さくまゆみこ/訳 中村俊貴/絵
小学館
2022.12

現代アフリカ文学の父とも言われるアチェベが書いた児童文学で、アフリカ諸国ばかりではなく英米でも読みつがれています。少年の憧れと、夢を実現するための行動、勇気がもつ意味、などをテーマにすえ、ことわざ、昔話、食べものなど、ナイジェリアの文化も織り交ぜて書いています。冒険譚としても楽しめるでしょう。文体には、イボ人のストーリーテリングの伝統が生かされています。

 

〈訳者あとがき〉

本書は、1966年に南アフリカのケンブリッジ大学出版局支部から出版された子どもに向けた物語の翻訳です。

著者のチヌア・アチェベは1930年にナイジェリアに生まれたイボ人の作家・詩人で、イバダン大学で学び、一時は放送の仕事につき、1967年から1970年まで続いた内戦(イボの人たちが独立国を作ろうとしたビアフラ戦争)のときには、ビアフラ共和国の大使も務めました。

ナイジェリアは、西アフリカにある多民族国家で、2億人以上が暮らしています。国内に500を超える民族がいて、使われている言語の500以上と言われています。その中には、男性と女性で話す言語が全く違うウバン語などもあります。ヨーロッパ諸国が地図上でアフリカ大陸に線引きをして国境を定めたせいで、一つの国の中に多くの民族がいて、一つの民族が多くの国に分かれて暮らすという状態が生まれたのです。

17世紀から19世紀にはヨーロッパの商人が奴隷をつかまえて南北アメリカ大陸に送るための港がアフリカにたくさんでき、ナイジェリアの海岸は「奴隷海岸」と呼ばれていました。19世紀には奴隷貿易がイギリスによって禁止されたものの、ナイジェリアにあったいくつかの王国がイギリスによって滅ぼされ、ナイジェリアはイギリスの植民地になります。イギリスから独立したのは1960年ですが、その後ビアフラ戦争と呼ばれる内戦が起こり、飢餓も問題になった長い戦いの後、ナイジェリアから独立してビアフラ共和国を作ろうとしたイボ人は敗北しました。

本書にも出てくるラゴスは海沿いにあるナイジェリア最大の都市で、1976年まではナイジェリアの首都でした。高層ビルや大きな銀行やスーパーマーケットなどが立ち並び、車の渋滞が起こるような近代都市です。今は首都が内陸部のアブジャに移りましたが、ラゴスはまだ経済・文化の中心地として知られています。

ニジェール川は、ギニアの高地に水源があり、マリ、ニジェール、ベナン、ナイジェリアと、いくつもの国を通ってギニア湾へと流れ込む全長4180キロメートルの大河です。また、チケが憧れたオニチャからアサバへニジェール川をわたるフェリーは、1965年には新しくできた橋にとってかわられています。

チヌア・アチェベは、口承文芸を下敷きにした小説を書いて、現代アフリカ文学の父とも呼ばれました。中でもおとな向けの傑作小説と言われる『崩れゆく絆』(1958)は、伝統的な文化や暮らしが、植民地支配によって壊されていく様子を描いた作品で、世界の50以上の言語に翻訳されて、有名になりました。日本でも、光文社古典新訳文庫で読むことができます。2007年にはアチェベの全業績に対して国際ブッカー賞が授与されています。

アチェベは、またハイネマン社が出していた「アフリカ作家シリーズ」で、独立後のアフリカで活躍しはじめたアフリカ人作家たちを世に送り出すことにも力を注ぎました。その後、アメリカ、イギリス、カナダ、南アフリカ、ナイジェリアなどの大学でアフリカ文学についても教えましたが、残念ながら2013年に死去しています。

アチェベは、子ども向けの物語をいくつか書いていますが、その中でもこの『チケとニジェール川』は、アフリカ各国ばかりでなくアメリカやイギリスでも出版され続けています。

主人公は、いなかの貧しい村に生まれた少年で、ニジェール川沿いにある大きな町で暮らすおじさんのところに寄宿することになり、まったく異なった環境でさまざまな体験をしながら成長していきます。アチェベは、自分の子どもたちが白人教師の多い学校でナイジェリアに根ざした文化や価値観を教わっていないのを心配して、この作品を書いたと言われています。

大きな川の向こうにわたって別の世界を見てみたいという子どもらしい憧れ、そのためにいろいろ工夫してはみるけれど、なかなかうまくいかないという焦り、ようやくフェリーに乗ることができた時の胸おどる気持ち、借りた自転車を壊してしまったときの当惑、どろぼうに遭遇したときの恐怖などが、生き生きとした筆で、とてもリアルに描かれています。

お話の筋立ては、少し昔ふうだし、書かれたのもずいぶん前のことですが、アチェベは、細かい描写でそれぞれの場面がうかびあがってくるように書いているので、日本の子どもたちにも主人公チケの気持ちがそのまま伝わるのではないでしょうか。また、ナイジェリアの屋台で売っている食べ物、お祭りのようす、学校のようす、家庭のようす、市場のようす、マネーダブラーや自転車修理工の存在なども目にうかぶように描かれています。ことわざが出てきたり、歌が出てきたり、サラおばさんの昔話が出てきたりするところには、ナイジェリアの口承文芸に大きな関心を寄せていたアチェベの作品の特徴が出ています。

私がアチェベの作品に出会ったのは、ナイジェリアを旅行しているときでした。ロンドンに住んでいたときに「アフリカ・ウーマン」という雑誌の編集長をしていたタイウォ・アジャイという女性に出会い、「ナイジェリアに行くならうちの親戚の家に泊まっていいよ」と言われて、出かけていったのです。飛行機を降りたナイジェリア北部のカノという町でキャンプをしているとき、WHOで働く日本人のお医者さまに会って、そのお家に何日か滞在させてもらいました。そのお医者さまの書斎に、アチェベの本が何冊か並んでいました。日本に帰ってから、アチェベの作品を何冊か取り寄せて読んだなかに、この『チケとニジェール川』もありました。

ちなみに、ナイジェリアでは、お話の舞台にもなっているオニチャにも行って、オニチャの大きな市場を歩いたり、ニジェール川を見たりしたこともあります。またラゴスにも行って大都市のにぎわいも体験しました。その時の楽しかったことなども思い出しながら、翻訳しました。

ナイジェリアの当時の暮らしは、日本の今の暮らしとはずいぶんかけ離れていますが、チケの気持ちは、日本の子どもたちにも「あ、同じだな」と思ってもらえるところがあるのではないかと思います。違うところ、同じところを楽しみながら読んでいただけたら幸いです。

編集を担当してくださった坂本久恵さんに感謝します。

さくまゆみこ

 

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1400個のコヤスガイ〜西アフリカ・ヨルバ人の昔話

『1400個のコヤスガイ』表紙
『1400個のコヤスガイ〜西アフリカ・ヨルバ人の昔話』 小学館世界J文学館

アバヨミ・フジャ/編 さくまゆみこ/訳 千海博美/絵
小学館
2022.12

西アフリカに暮らすヨルバ人の昔話を、ナイジェリアに生まれ育ったフジャが再話しています。おもしろいお話が多いので、いつか日本の読者にも届けたいと思っていました。その後、「ふたご」の話には、ほかの地域にも同じような昔話があるなど、おもしろいことがわかってきました。どこの地域の人間も共通に持っている要素から同時発生的に同じような話が生まれてくるのか、それともおもしろい話はどんどんほかの地域にも伝わっていくのか、そのあたりもとても興味深いです。

〈目次〉

1400個のコヤスガイ
ネコとカメのレスリング
ヒョウとハリネズミ
オタマジャクジの悲しいお話
魔法のヤムイモ
天まで運んだお供え
カタツムリとヒョウ
ふたご
めんどりとタカ
エガとひなたち
ゾウとおんどり
152本のしっぽをもつ動物
キンキンとネコ
鳴らないタイコ
みなしごアジャオと魔法の小枝
かしこい犬
働いてはいけないアランテレ
雄牛とハエ
〈よそ者〉と〈旅の者〉
狩人オジョと魔法の笛
カエルの骨

 

〈訳者あとがき〉

本書の原題はFourteen Hundred Cowries: Traditional stories of the Yoruba。私が持っている原書はペーパーバックで、1967年にオックスフォード大学出版局イバダン支局から出版されています。イバダンは、ナイジェリア南西部の大きな都市です。この本は、たぶん私がロンドンに暮らしていたときに、アフリカ・ブック・センターで手に入れたのだと思います。いろいろな情報にあたってみると、ハードカバーは、それより前の1962年に出ているようです。本書はアメリカでも1971年にアン・ペロウスキーの序文と別の人の挿絵がついたものがのが出ていますし、ポーランド語版も出ています。

イギリスに植民地にされていたナイジェリアが独立したのは、1960年。それまでは学校教育でも、イギリスの学校で使われているようなものがそのまま使われていたといいます。独立後、ナイジェリアの子どもにはナイジェリアの文化や伝承を教えようということで、ナイジェリアの人が収集した昔話の本なども出るようになるのですが、本書はその先駆けとなりました。

私が持っている原書には、著者の情報や序文などもついていないのですが、アメリカ版やポーランド版によれば、著者のアバヨミ・フジャは1900年に生まれて、ナイジェリア最大の都市ラゴスで学校教育を受け、1938年に自分の民族であるヨルバ人の民話の収集を始めたようです。「ヨルバの人たちの間には、夜になると──月の明るい夜だとなおさらですが──子どもたちを集めてこうしたお話を語ってやる習慣がありました」とあり、また著者が語りを職業をするソコトという人から、お話をたくさん聞いたということも書いてあります。

ともあれ、著者のアバヨミ・フジャは、国際的に出版されている本がこの1冊のみで情報が少なく、翻訳権の処理が非常に困難でした。この「世界J文学館」の責任者である塚原伸郎さんが東奔西走してくださった結果、なんとか出せるようになったのです。

ヨルバ人というのは、ナイジェリア南西部のほか、ベナン、トーゴにも暮らしていて、ヨルバ語を話しています。著者のフジャは、ナイジェリア人です。

ナイジェリアは、西アフリカにある国で、アフリカ大陸の中では最も人口が多く、2億人以上が暮らしています。多民族国家で、一つのナイジェリアという国の中に500を超える民族が共存しています。ヨーロッパに植民地にされる前は、いろいろな王国が栄えていて、独自のすぐれた文化を持っていました。

多くのみなさんは、サッカーが強い国としてご存知かもしれません。ナショナルチームはスーパーイーグルスという名前で、オリンピックでも何度かメダルを取っています。

映画産業もさかんで、ナイジェリアの映画産業はノリウッド(ナイジェリアのハリウッドとという意味)で年間約2000本の映画が制作されています。音楽の分野でもアフロビーツのフェラ・クティやジュジュミュージックのキング・サニー・アデといった国際的なスターを生み出しています。また土や銅やブロンズで作った彫刻には、ほんとうにすばらしいものがあります。

食べ物についていえば、本書にも出てくるフーフーはイモをつぶして作るもので、ナイジェリアの人たちの主食の一つです。お米ではよくジョロフライスというものを作りますが、これは肉、タマネギ、トマト、スパイスなどを入れてたいたお料理です。ヤムイモは、根を食べるヤマノイモ科のイモで、ナイジェリアは世界一の産地です。コーラナッツは、コーラの木の種子で、カフェインを含むので、ナイジェリアではドライバーがよくかじっています。また儀式のときにも必ず出されるものです。初期のコカ・コーラの原料にはコーラナッツが使われていたといいます。味は苦味があり、ナイジェリアを旅行したときに何度も食べてみましたが、私はそうおいしいとは思いませんでした。でもいつもかじっていると、やみつきになるのかもしれません。飲み物では、本書にはひんぱんにヤシ酒が出てきますが、これはヤシの樹液を発酵させて作るお酒です。

本書には、ジュジュという言葉もよく登場しますが、ジュジュとは魔力のことでもあり、魔力がこめられた物のことも指します。「ネコとカメのレスリング」では、強力なジュジュを持っている者が勝利をおさめるし、「めんどりとタカ」では、タカにジュジュをもらっためんどりが敵に襲われなくなります。「働いてはいけないアランテレ」では、子のない夫婦が祈祷師のジュジュのおかげで娘を授かるし、「カエルの骨」では強力なジュジュを持つカエルをだれもが恐れています。

また歌や踊りも、力を持っているものです。「オタマジャクシの悲しいお話」では、オタマジャクシが即位式の前に酔っ払っておどりまくります。「男の子と魔法のヤムイモ」では、男の子が歌をうたうと、動物たちはうっとりと聞きほれて繰り返すようたのみ、やがてはその歌に合わせておどりだします。また「キンキンとネコ」では、キンキンがうたうと、畑が一瞬にして草ぼうぼうになってしまいます。また、「鳴らないタイコ」からは、儀式でタイコが重要な役割を果たしていたことがうかがえます。

本書のタイトルにもなっている最初の「1400個のコヤスガイ」はいわゆる「積み重ね歌」あるいは「積み上げ歌」と言われるものです。イギリスのマザーグースにある「これはジャックが建てた家」などが有名ですが、ヨルバ人に伝わるこの話はまた少し趣が違うのがおもしろいところです。また最後の「カエルの骨」では、カエルが人形につけたゴムの樹液で身動きがとれなくなりますが、これを読んで、アフリカ系アメリカ人の昔話にある「タールベイビー」を思い出す方もおいでだと思います。「タールベイビー」では、ウサギが人形に塗ったタールのせいで身動きがとれなくなっていました。アフリカのほかの地域にもいたずら者がねばねばしたもののせいで人形に貼り付いてしまう昔話があり、それが奴隷といっしょに海をわたってアメリカまで伝わっていたことがわかります。

「ふたご」の話は、タイウォ、ケヒンデというふたごが主人公でした。ヨルバ人のふたごには、伝統的にタイウォ(もともとの意味は、世界を味わう者)とケヒンデ(もともとの意味は、あとから来た者)という名前がついています。私が個人的に知っているタイウォさんは女性でしたが、やはりケヒンデさんというふたごがいました。

ナイジェリアやヨルバの人たちの文化に思いをはせながら、本書の昔話を楽しんでいただけると幸いです。

編集の坂本久恵さんにはお世話になりました。ありがとうございました。

さくまゆみこ

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女たちの物語〜アフリカ系アメリカ人が語りつぐ民話と実話

『女たちの物語』表紙
『女たちの物語〜アフリカ系アメリカ人が語りつぐ民話と実話』 小学館世界J文学館

ヴァージニア・ハミルトン/編 さくまゆみこ/訳 レオ&ダイアン・ディロン/絵
小学館
2022.12

国際アンデルセン賞作家のヴァージニア・ハミルトンは、母、おばなど親族の女たちからたくさん話を聞いて育ちました。そして自分でも、アフリカ系の女たちが登場するそうした話をまとめたいと思っていました。そして出した本書に載っているのは、動物が登場する昔話、ちょっと怖い伝説、ファンタジー、実話と種類はさまざまですが、どれも強く印象に残ります。ディロン夫妻の絵もすばらしいですよ。ハミルトン自身による解説と、なぜこの本を出すにいたったかというもう一つの物語もついています。

〈目次〉

◯女たちの動物の話

小さな女の子とバーラビー
リーナと大きなトラ
マリーと赤い魚
仲間を手に入れたミズ・ハティ

◯女たちのおとぎ話──妖精や魔女の話

ネコ皮かぶり
よいブランシュと、悪いローズと、おしゃべりする卵
メアリベルと人魚
光りかがやく妖精を見たベットおっかあ

◯女たちの超自然の話

ほう、ほう、ほほう
メイシーとブー・ハグ
ローナとネコ女
マリンディと小さな悪魔

◯女たちの暮らしぶりと伝説

最初、女と男は対等だった
ルエラとオウム
閉じこめられた人魚
アニー・クリスマス

◯女たちの実話

ミリー・エヴァンズ:プランテーション時代(ノースカロライナ)
レティス・ボイヤー(ノースカロライナ)
メアリ・ルー・ソーントン:わたしの家族(オハイオ)

 

〈訳者あとがき〉

本書をまとめたのは、アメリカの女性作家ヴァージニア・ハミルトンです。

ハミルトンは、1934年に生まれ(1936年という情報も出回っていますが、オフィシャルなウェブサイトには34年と書いてあります)オハイオ州南西部にある祖母の一族が持っていた農場で育ちました。子どものころは、著者あとがきにもあるように、家族や親族からたくさんの物語を聞いて育ちました。両親もすばらしい語り手で、アフリカ系の人々の歴史や文化を誇りをもって伝えてくれたと言います。祖父のレヴィ・ペリーは、幼い頃母親と一緒に売られた奴隷でしたが、1857年に母親の助けを借りてヴァージニア州からオハイオまでやって来て、自由人になった人です。レヴィを助けたのは、「自由への地下鉄道」という南部の奴隷を北部に逃がすための人間のネットワークでした。

ヴァージニア・ハミルトンは、1953年にはニューヨークに出て、博物館の受付やナイトクラブの歌手などをして生計を立てながら、作家になろうと努力していました。1960年には詩人のアーノルド・エイドフと結婚し、その後作家活動に専念するようになります。

作家としては、1967年に『わたしは女王を見たのか』(邦訳:鶴見俊輔 岩波書店)を発表して以来、41点の作品を出版しました。ジャンルは絵本、昔話、ミステリー、YA小説、伝記と多岐にわたっています。『ジュニア・ブラウンの惑星』(1971/邦訳:掛川恭子 岩波書店)でアメリカで最も権威あるニューベリー賞のオナーを受賞し、『偉大なるM.C.』(1974/邦訳:橋本福夫 岩波書店)で、ニューベリー賞とボストン・グローブ・ホーンブック賞と全米図書賞を受賞しました。ニューベリー賞の本賞をアフリカ系の作家が受賞したのは初めてのことでした。その後も、『マイゴーストアンクル』(1982/邦訳:島式子 原生林)でニューベリー賞オナーとコレッタ・スコット・キング賞とボストン・グローブ・ホーンブック賞、『人間だって空を飛べる〜アメリカ黒人民話集』(1985/邦訳:金関寿夫訳 福音館書店)と、本書『女たちの物語〜アフリカ系アメリカ人が語りつぐ民話と実話』(1995)でコレッタ・スコット・キング賞と、数々の賞にかがやいています。

また1992年には、全業績が評価されて国際アンデルセン賞を受賞しています。これは世界で最も権威ある児童文学の作家・画家にあたえられる賞で、この賞をアフリカ系アメリカ人が受賞したのは初めてのことでした。さらに、1995年にはローラ・インガルス・ワイルダー賞を受賞しています。この賞はアメリカで作品を出版し、長年にわたって児童文学に多大な貢献をしてきた作家・画家にあたえられる賞ですが、ワイルダーの作品には人種差別的な表現が含まれていることから、名称が2018年に「児童文学遺産賞」へと変更されています。

ヴァージニア・ハミルトンは、アフリカ系アメリカ人の子どもたちを主人公にし、彼らが誇りをもって読めるようなフィクションを書くと同時に、アフリカ系の人たちの間に伝承されてきた昔話や伝説を、今の子どもたちに伝えることにも力を注ぎました。『人間だって空を飛べる』や本書は、その成果と言えるでしょう。

さらなる活躍を期待されていましたが、2002年に乳がんで死去しています。

アフリカ系アメリカ人の昔話といえば、ジョエル・チャンドラー・ハリスという白人のジャーナリストが南北戦争後に南部の黒人たちから話を聞き出して新聞に掲載し、後に本にまとめた『リーマスじいやの物語〜アメリカ黒人民話集』(1881)があります。当時ベストセラーになったこの民話集は、かつては奴隷だった「リーマスじいや」が、南部の黒人たちが使うだろうとハリスが考えた言葉遣いで、白人の子どもに語って聞かせるという体裁をとっていて、ブレアラビット(ウサギどん、ウサギ兄貴)など動物たちがいろいろ登場してきます。

私はイギリスの湖水地方で、ビアトリクス・ポターがこの本を読んで描いた絵というのを見たことがあります。ポターは、その影響もあってピーター・ラビットというちょっといたずらなウサギが登場する絵本を思いついたのかもしれません。ともあれ『リーマスじいやの物語』は、アメリカばかりでなくイギリスでも広く読まれていたようです。

本書にも、「バーラビー」と呼ばれるいたずら者のウサギが登場する話が載っています。ちなみにいたずら者のウサギは、アフリカの昔話とも深いかかわりがあります。アフリカではウサギ(ラビット)ではなくノウサギ(ヘア)として登場してきますが、アフリカ系アメリカ人の昔話とアフリカの昔話には、似たような話がたくさんあって、アフリカから連行された奴隷たちが、昔話もたずさえていき、それを文化として子どもたちに伝えていたことがよくわかります。

本書の挿絵をかいたレオ&ダイアン・ディロンは共同で絵を描き活躍していました。レオはブルックリンで、ダイアンはロサンジェルスで、ともに1933年に生まれ、1954年にニューヨーク市のデザイン学校で出会って結婚し、それ以来50年以上の間、一つのチームとして仕事をするようになりました。1976年と1977年に、『どうしてカは耳のそばでぶんぶんいうの?』(ヴェルナー・アールデマ文 邦訳:やぎたよしこ ほるぷ出版)と『絵本アフリカの人びと』(マスグローブ文 邦訳:西江雅之 偕成社)とで、アメリカで最もすぐれた絵本の画家にあたえられるコールデコット賞を受賞しています。本書の挿絵を見てもわかるように、アフリカ系の人たちを威厳と誇りをもった存在として描いているのが特徴の一つとして挙げられます。レオは、残念ながら2012年に死去しています。

本書には、アフリカ系アメリカ人の女性が登場する話が五つのジャンル別に全部で19編おさめられ、それに加え、著者自身の物語も入っています。シンデレラ物語もあれば、怪力の女性船頭についての伝説、バンパイアや魔女や人魚が登場する話や、神様やイエス・キリストが登場するものもあります。そして奴隷だった時代のことを語る実話も入っています。

原書では、一つ一つの話の最後に、ハミルトン自身による解説が入っていましたが、物語そのものとは対象になる読者も違うので、本書では後ろにまとめてあります。

アフリカの昔話と同様、一味ちがう趣をもった話が多いのですが、そこがおもしろいところだし、だからこそ印象に残る話も多いのではないかと私は思っています。ともあれ、ハミルトンが書いた「はじめに」にあるように、楽しく読んでいただければ幸いです。一つだけ言い添えておくと、本書は『女たちの物語』となっていますが、男性読者が読んでもおもしろいと私は思っています。

編集の坂本久恵さんに感謝いたします。

さくまゆみこ

 

 

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アフリカン・マジック〜ネルソン・マンデラが選んだ昔話と物語

『アフリカン・マジック』表紙
『アフリカン・マジック〜ネルソン・マンデラが選んだ昔話と物語』 小学館世界J文学館

ネルソン・マンデラ/編 さくまゆみこ/訳 末山りん/絵
小学館
2022.12

南アフリカの出版社が出した昔話と物語です。語り伝えられてきた昔話と、昔話をもとにした創作物語の両方が入っています。後ろの方にある「本書の物語について」というところには、一つ一つの物語の由来が書いてあります。

〈目次〉

1)怪鳥のふしぎな歌(タンザニア)
2)ネコはどうして家の中でくらすようになったのか(ジンバブウェ)
3)動物たちはどうやって草と水を手に入れたのか(南部アフリカ・サン人)
4)ライオン王のおくりもの(南部アフリカ・コイコイ人)
5)月のお使い(ナミビア)
6)ヘビの呪い(西アフリカ/ズールーランド)
7)怪物とフラカニャナの知恵くらべ(南部アフリカ・ングニ人)
8)サンカンビのあまい言葉(南部アフリカ・ヴェンダ人)
9)ノウサギとハイエナ(ボツワナ)
10)ライオンとノウサギとハイエナ(ケニア)
11)言うことを聞かなかったマディペツァネ(レソト)
12)川から来たカミヨ(トランスカイ)
13)クモとカラスとワニ(ナイジェリア)
14)ダンスに出かけたナティキ(南アフリカ・ナマクアランド)
15)ノウサギと木の精霊(南部アフリカ・コーサ人)
16)カマキリと月(南部アフリカ・サン人)
17)七つ頭のヘビ(南部アフリカ・コーサ人)
18)ノウサギの仕返し(ザンビア)向けと
19)オオカミの妃(南アフリカ・ケープのマレー人)
20)ファン・フンクスと悪魔(南アフリカ・ケープのオランダ人)
21)オオカミとジャッカルとバターのたる(南アフリカ・ケープのオランダ人)
22)雲の国のお姫様(エスワティニ)
23)水場を守るヘビ(中央アフリカ/ズールーランド)
24)アリとスルタンのむすめ(南アフリカ・ケープのマレー人)
25)王様の指輪
26)かしこいヘビ使い(モロッコ)
27)びんに閉じこめられたアスモデウス(南アフリカ・ケープのイギリス人)
28)美しい若者サクナカ(ジンバブウェ)
29)〈すべての子どもの母〉(マラウィ)
30)妹がほしかったピピディ(ボツワナ)
31)フェシト、市場へ行く(ウガンダ)
32)魔女と竜と異国の紳士(南アフリカ・ケープのイギリス人)

 

〈訳者あとがき〉

本書はもともと南アフリカの出版社が英語で出したもので、原著にはアフリカ人画家の挿絵が入っています。原書の書名は「マディバ・マジック」。マディバというのは、ネルソン・マンデラの氏族の名前だそうですが、南アフリカの人々がマンデラ元大統領を尊敬と親しみをこめて呼ぶ言葉です。私は2004年にケープタウンで子どもの本世界大会に参加したとき、ケープタウンの本屋さんで原書を見つけて購入し、いつか日本でも紹介したいと思っていました。

今回の『世界J文学館』についての企画を考える時、アフリカ地域から選ぶとしたら何がいいだろうと、いろいろ考えたました。アフリカといっても広い大陸で、教科書以外の子どもの本を出している国もいくつかあります。その中には日本と同じように、学校物語や家族の気持ちのすれ違いや初恋などを描いている作品もあります。でも、日本の今の子どもたちが読んでおもしろいと思えるかどうかが疑問でした。

アフリカ地域から日本の子どもたちへぜひ読んでほしいのは、やはり昔話が中心になるかもしれないと、私は思いました。そこで、まず候補に挙げたのが本書です。

長くヨーロッパの植民地にされていたアフリカ各国では、一九六〇年代に独立するまでは、学校でも、生徒たちはヨーロッパ人が書いた物語や詩を勉強していました。でも、それでは自分たちの文化がすたれてしまうし、アフリカで暮らす子どもたちのためにはならないと思って、作家たちは危機をいだきました。そして目を向けたのが、アフリカの伝統の中にある「声の文化」でした。アフリカには歴史的に文字の文化(読む・書くの文化)より声の文化(話す・聞く)のほうが豊かにありました。そこに自分たちの文化のルーツの一つがあると作家たちも考えたのです。なので、独立後にアフリカの人たちがまとめた子どもの本の中には昔話がたくさんあるし、昔話から発展した物語もあります。

本書は、マンデラさんが南アフリカで実現しようとした「虹の国」(人種差別をやめて、肌の色にかかわらず、みんなで協力してつくる国)の理想を、体現している本だとも言えます。南アフリカがアパルトヘイトという人種差別的な政治を行っていたとき、黒人たちの文化は無視されていました。でも、本書には、アフリカ大陸に最も古くから住んでいたサン、コイコイ、ナマ、今の南アフリカをになうズールー、ヴェンダ、コーサといった人たちの昔話ばかりでなく、オランダ系、イギリス系、アジア系の人たちに伝わる昔話も入っています。それに加え、タンザニア、ジンバブウェ、ナミビア、ボツワナ、ケニア、レソト、ナイジェリア、ザンビア、エスワティニ、モロッコ、マラウィ、ウガンダといった南アフリカ以外の国の昔話や創作物語も収められています。

再話・創作したのは、主に南アフリカに暮らす多様な人々ですが、そのうち私はチナ・ムショーペさんとジェイ・ヒールさんにはお目にかかって話したことがあります。チナさんは、コーサ人の母とズールー人の父の間に生まれ、女優、詩人、戯曲作家、ストーリーテラーとして世界で活躍しています。南アフリカが民主化するまでは、アパルトヘイトを廃止させようとする活動も行っていました。チナさんのストーリーテリングは日本でも、南アフリカでも聞きましたが、演劇の要素が入ったすばらしいものでした。ジェイさんは、ロンドンに生まれてオックスフォード大学で修士号まで取り、イギリスや南アフリカの学校で子どもたちを教え、その後子どもの本を書いたり、編集・出版したり、読書普及活動をしたりなさっていました。ケープタウンの子どもの本の世界大会のときにはIBBY南アフリカ支部の会長をしておいででした。今回この本を訳すにあたっていろいろと調べてみると、ジェイさんは昨年暮れに亡くなられていたことがわかりました。とてもまじめて→おもしろい方だったので残念です。

ここに集められたアフリカの昔話には、アフリカ全体の昔話の特徴もよくあらわれています。まず動物が登場する話が多いことにお気づきだと思います。アフリカの人は人間を主人公にして話すと、あとで角が立つので、擬人化した動物を登場されるといいます。アフリカの人たちは、知恵(時には悪知恵も)を使って、小さくて弱い動物が、大きくて強い動物を出しぬく話が大好きです。本書にもいたずら者のノウサギやカメが登場する話が、収められています。動物ではありませんが、怪物と知恵くらべをするフラカニャナや、サルたちをだますサンカンビも、知恵を使って生きのびたり、今ある秩序をひっくり返したりするいたずら者(トリックスター)の話です。ヘビが登場する話も三つ入っています。ほかに、動物と人間の両方が登場する話、魔力を持つ者や妖怪が登場する話などもあります。

また歌が入ってくるのも、アフリカの多くの昔話に見られる特徴です。チナさんのストーリーテリングも、最初は静かにお話を語ることから始まり、そのうちに歌や太鼓や踊りにつながっていきました。日本のストーリーテリングは声色も使わず、どちらかというと淡々と語っていきますが、アフリカのストーリーテリングはもっと演劇的な要素、ミュージカル的な要素が強いと言えるかもしれません。

グリム昔話や日本の昔話に親しんできた方たちの中には、意外な展開に驚かれたり、ちょっと残酷かと思われたり、いたずら者やだまし上手な存在が主人公になっていることに眉をひそめる方もおいでだと思います。しかし、昔話というのは、もともと暗い夜に燃える火を囲んで、日常とは切り離された別次元で起こる出来事が語られるのを聞いて楽しむものでした。欧米や日本では、語りの文化が弱くなり文字の文化が主流になったとき、子どもに聞かせるお話の中からトリックスターや残酷な要素は排除されてしまいました。でも、アフリカではまだその要素が残っているということかもしれません。そういう意味では、昔話の原型やダイナミズムを感じていただけるのではないかと思います。

本書を翻訳するにあたっては、編集の坂本久恵さんと塚原伸郎さん、ツワナ語の歌の意味を教えてくださった国際協力機構(JICA)ボツワナ支所と京都大学の高田明先生には特にお世話になりました。ありがとうございました。

アフリカの子どもたちが楽しんでいる昔話や創作物語を、日本の読者のみなさんも楽しんでいただけるとうれしいです。

さくまゆみこ

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小学館世界J文学館

『小学館世界J文学館』表紙
『小学館世界J文学館』
小学館
2022.12

世界のおもしろい作品125点が電子書籍として読める本です。私は最初の企画段階から相談を受け、こんな作品を載せたらおもしろいのではないか、とか、こんな方に翻訳をお願いしたらいいのではないか、という提案をさせていただきました。

私が訳した作品は、以下のものが入っています。

・『女たちの物語~アフリカ系アメリカ人が語りつぐ民話と実話』ヴァージニア・ハミルトン編 レオ&ダイアン・ディロン絵 (アメリカ)
・『シャーロットのおくりもの』E.B.ホワイト著 ガース・ウィリアムズ絵 (アメリカ)
・『はみだしインディアンのホントにホントの物語』シャーマン・アレクシー著 エレン・フォーニー絵 (アメリカ)
・『1400個のコヤスガイ ~西アフリカ・ヨルバ人の昔話』アバヨミ・フジャ編 (ナイジェリア)
・『アフリカン・マジック! ~ネルソン・マンデラが選んだ昔話と物語』ネルソン・マンデラ編 (南アフリカ、アフリカ各地)
・『チケとニジェール川』チヌア・アチェベ著(ナイジェリア)

(編集チーフ:塚原伸郎さん)

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わたしは反対〜社会をかえたアメリカ最高裁判事RBG(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)

『わたしは反対!』表紙
『わたしは反対〜社会をかえたアメリカ最高裁判事RBG(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)』
デビー・リヴィ/文 エリザベス・バドリー/絵 さくまゆみこ/訳
子どもの未来社
2022.11

アメリカの絵本。かなり強いタイトルですが、長いものに巻かれたり、上の方々の言いなりになるのではなく、考えが違う場合は、はっきりそう言いましょう、という思いでつけています。

幼いころ、「犬とユダヤ人はおことわり」という立て札を見て、そのときの嫌な気持ちを忘れずにいました。そして、時代遅れの考え方や、不公平や、不平等や、弱者が虐げられたのを見ると、反対したり、意義を唱えたりしました。それは、最高裁の判事になっても変わりませんでした。

「ルース・ベイダー・ギンズバーグをもっと知るために」という後書きには、その生涯がもう少し詳しく書かれています。また編集の方で用意してくださった「RGBの生きた時代とアメリカの女性に関する主なできごと」という年表もついています。

原書には書き文字がついていて、それが日本語でうまく表現できるかどうか心配だったのですが、デザインの方がうまく処理してくださいました。

(編集:二宮直子さん デザイン:藤本孝明さん、藤本有香さん)

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2022年07月 テーマ:アウトローと友だちになる

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『2022年07月 テーマ:アウトローと友だちになる』
日付 2022年7月19日
参加者 ネズミ、ルパン、花散里、アカシア、エーデルワイス、コアラ、アンヌ、しじみ71個分、まめじか、西山、さららん、ミズタマリ
テーマ アウトローと友だちになる

読んだ本:

『スネークダンス』表紙
『スネークダンス』
佐藤まどか/著
小学館
2022.03

〈版元語録〉芸術の町ローマで生まれた圭人は、父親が亡くなったことを機に母と日本に帰国する。東京の町をスケッチしていたある日、圭人はスプレー缶を持ちダイナミックに落書きをしている風変わりな少女と出会い…。
『サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと』表紙
『サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと』
原題:WHAT’S THAT IN DOG YEARS! by Ben Davis, 2019
ベン・デイヴィス/著 杉田七重/訳
小学館
2021.06

〈版元語録〉愛犬ギズモが老い先短いことを知ったジョージは、ギズモにさせてあげたいことリストを作り実行していく。さまざまな困難を解決していく物語の面白さと、深刻な背景を持ちながらも魅力的なキャラクター達の愛しさにぐいぐいとひっぱられる、笑えて泣けるドタバタ感動ストーリー。

(さらに…)

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サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと

『サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと』表紙
『サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと』
ベン・デイヴィス/著 杉田七重/訳
小学館
2021.06

ルパン:全般的にはおもしろかったのですが、シャロンの描かれ方がどうも…リブは、ほかのだれからも仕事をもらえないのに、シャロンだけが雇ってくれるんですよね。信頼もされていた。なのに、シャロンがずいぶん悪者みたいに描かれているのが違和感ありました。それから、この夫婦が離婚してしまうほど決定的な事件が、ジョージの怪我だったというのも「え?」という感じです。この父親と母親、責任のなすりあいして離婚してしまうわけですよね。ジョージはそのことでいっそう傷ついているのではないでしょうか。

ミズタマリ:正直、前半は間延びしているように思いましたが、読後感はとてもよかったです。犬との友情をはじめ、いろんな形の友情、人間関係が描かれています。ギズモ、つまり犬の一人称だと思っていた章が、最後まで読むと、ジョージとリブが書いたお話を分散して載せていたということがわかります。その仕掛けがとてもおもしろかったし、犬の一人称としては人間に寄り過ぎではないかという疑問も解決しました。気になるところはいくつかありました。まず、犬の腎機能の衰えなのですが、こんな急激に悪化するでしょうか。あと、p.123で、ローザは犬の毛のアレルギーなのだと言います。でも、正確には犬アレルギーは、皮脂などに含まれるたんぱく質由来のはずです。なので、ローザがいい加減なことを言う大人なのだというイメージが焼き付き、後半で誠実な人柄とわかって驚きました。また、p.133で、リブが「約束通り、来てくれたか」と言うシーンがあるのですが、これが男っぽくて、リブは女子だと思っていたけれど本当は男子だっけ、と遡って確認してしまいました。あともう1つ、p.331にギズモが語ることとして「ある種類の肉を買い忘れてしまった」とあるのですが、ある種類、という言葉が不自然に思えました。

西山:最初私はなかなかのっていけなかったんですが、p.81でシャロンがギズモにキスされて声をあげて笑う場面で、ああ、この人は本当に犬が好きな人なのだと好感をもって、やっと作品に入れた気がしたのです。ところがどうもそうじゃなかったということが早々に分かって、好きになれるポイントがなくて戸惑ったままでした。いじめっ子側にべったりになってしまったマットにしてもシャロンにしても、日本の創作だったらこれほど切り捨てなかったのではないか、もっとこまやかに彼らのことも嫌いになれない背景がちらりと書き込まれていたのではないかと思うと、そもそも読み方を変えなきゃいけなかったのかなと、テイストの違いを感じます。安楽死の提案には驚いて、不当な感じがしました。後半がばたばた。そこまでの長さと、後半のエンタメ的なドタバタの連続が不釣り合いに感じて、もっと薄くて、勢い良く展開する本でもよかったのに、と思ってしまいました。1つ質問です。リブの人種って、言葉上では書かれていませんが、表紙の絵で有色人種とわかります。あとp.155に肌の黒いリブが登場しますし、あえて言う必要はないとは思うんですけど、どうしてこういうことになっているのでしょう。

ルパン:p.232ページの挿絵、リブですよね? ここだけリブの肌が白いんですが。

アカシア:そこは私も違和感がありました。そこだけ白い肌で、あとはそうじゃないんですよね。

アンヌ:私は、ギズモの話す章をジョージが書いているとしばらく気づかず、漱石の『吾輩は猫である』の犬版だなあと思いながら読んでいました。リブがシャロンをだましたりけなしたりする場面でも、シャロンは実はリブの母親だから平気なんだろうと思ってしまいました。シャロンは解雇するとき恩着せがましいことを言っているけれど、きっと、リブはかなり劣悪な条件で働かされていたんだろうと思います。ジョージのパニック発作の原因が両親のけんかというのはもう一つすっきりしない説明だと思いつつ、とにかく、老犬の割には大活躍のギズモが楽しくて、ジョージの腕の中で眠る最後でほっとしました。私は『ヘリオット先生奮戦記』(ジェイムズ・ヘリオット著 大橋義之訳 早川文庫)が大好きで、あのシリーズでは、獣医である主人公が動物に苦痛を与えないための決断だとして安楽死を行う場面がいくつかあるのですが、今回はあまり必然性がないようで、それを迫る親たちの態度に疑問を感じました。ジョージはきちんと別れの儀式を組んでいるのですものね。

花散里:いじめられっこのジョージと愛犬ギズモの物語はおもしろさが伝わり、子どもたちもとても読みやすいのではないかと思いました。作者はイギリスの学校をまわって文芸創作のワークショップをしているので、子どもたちを見て作品づくりに生かしているのが伝わってくるようでした。後半に向かって、どんどん読ませる構成がとても上手だなと思いました。犬との触れ合いがよく書かれていて、表紙画とともに子どもたちが手に取りやすいのではないかと感じました。この作者の新しい作品、『ぼくたちのスープ運動』(渋谷弘子訳 評論社)も読んでほしいと思います。

まめじか:タイトルは「ギズモにさせてあげたい」となっていますが、丘に登るとか、有名になるとかは、主人公がしたいことですよね。飼い主目線というか、飼い主の思い出づくりのように感じてしまって……。p.59に、「このころから、ジョージは文字を書くのがあまり得意じゃなかった」とあるのですが、ジョージはディスレクシアなのでしょうか? お話はずっと書いているようなのですが。

花散里:パニック障害はあるんですよね。そういうところとつながっているのかな。

アカシア:ディスレクシアではないんじゃない? スペリングが苦手なのかも。

まめじか:p.98で、マットに対して「きみ」という二人称を使っていたり、「こっけい」(p.248)という言葉で表現していたり、13歳らしからぬ言葉づかいなのは、この子が周囲から浮いてるから?

エーデルワイス:日本語の書名は原題とは違うので、翻訳はおもしろいですね。「死ぬまでにしたい10のこと」という映画 がありましが、それもどきでしょうか? 読んでいて想像する部分が多かったです。両親の離婚は、ジョージの事故がきっかけに過ぎず、前々より隙間風が吹いていたのかもしれないし、親友だったマットがこれでもかこれでもかといじめる理由が全くわかりませんでした。ジョージの何か言った一言が気に障ったのかな? それどもジョージが幼すぎたのでしょうか。p.339の12行目「この一瞬を生きるんだよ」はいいですね。雑種犬コンテストの賞金が400ポンド。1ポンドを164.35円に換算すると65,740円になります。確かにジョージにとって大金ですね。

ネズミ:非常にうまい構成の物語でさっと読めましたが、物足りなかったです。ゴールデンビーチに行くことで、めでたしめでたしのように見えるけれども、両親の離婚でパニック障害気味でひとりぼっちというジョージのかかえている問題も、ヤングケアラーとしてのリブの問題も、それで本質的に解決したわけではない気がして、後半は特に都合のよい展開が多く感じられました。エンタメと思いましたが、それにしては言葉が多く、よく読める読者じゃないと読みとおせそうにありませんし。でも、p.230の高い丘から町を見下ろすシーンは好きでした。視野を広げるのって大切だなと。ただ、気にかかったところがところどころにあって、たとえばp.48の「中華料理を注文した」。少し言葉を足さないと、バーベキューができなかったから出前を頼んだと、読者にわからないかもしれません。また、p.190の5行目など数箇所で「いつぶりだろう」は違和感がありました(参加者から「若者言葉だ」という発言あり)。あと、どうかなと思ったのは、ギズモの一人称の部分の文体。人間の年でいえば78歳の老犬なので、私はもっとおじいさんぽい口調になるかなと思ったのですが、書いているのは主にジョージなのでこれでいいのでしょうか。みなさんがどう思ったか、お聞きしたかったです。

アカシア:読む前にネットで梗概をを見たら、ドタバタって書いてあったで、ああ、ドタバタの話なんだなと思って読み始めました。ジャックは、中学生なのに昔のヒーローの衣装を着て犬にも着せて友達のパーティに行ったりするところを読むと、もしかすると発達がゆっくりなのかもしれません。そのジャックが、空気が読めなくて仲間はずれにされたり笑われたりするシリアスな場面と、老犬ギズモがやらかすドタバタな部分の落差はかなりあります。そこをどう評価するかは、人によって違うかと思うのですが、私は子どもの本として絶妙なミックス具合だと思いました。愛犬が高齢で体力もなくなったときに、死ぬまでに何をやりたいかを考えてリストを作り、一つ一つ実現していくというのも、いいですね。ギズモに何かをやらせてあげるというよりは、ギズモと自分で思い出をちゃんと作ろうということなんだと私は理解しました。医者も家族も安楽死を勧めたのに、それを拒否してもっとすばらしい最期を迎えさせてやれたところも好きでした。タイトルですけど、「9のこと」はすわりが悪いので「9つのこと」くらいでいいような。あと、ギズモがコンテストで優勝するとか、悪党を退治するなんていう部分は、ちょっとできすぎかもしれません。

しじみ71個分:前の選書当番のときに、なんとなくエンタメっぽいかと思ってやめた本でしたが、改めてちゃんと読んでみると案外おもしろかったです。犬の看取りの物語なのかと思えば、そこにちゃんと主人公の成長も重ねてあってよかったです。ジョージがみなさんのおっしゃるように、ちょっと発達に遅れのある子なのかなと思うほど、ちょっと幼くて、友だちのマットの心変わりに気付かず、いじめの対象になってしまいますが、ギズモと思い出作りをしながら過ごす中で、もう自分を大事にしない人は友だちでないと思えるようになり、たくましくなっていくのが心に残りました。リブもヤングケアラーで、貧困のせいでいじめられたりもしますが、ギズモの活躍のおかげで行政の支援が受けられるようになってホッとしました。物語の中では、子どもが大怪我をしたからといって離婚にまでなってしまうかなと思ったし、リブがギズモとコンテストに出ると言った時点で、本番にはリブは来ないなと読めてしまうのでありがちかなとも思いましたし、ギズモが強盗の急所にかみついて御用になるとかは、ちょっとご都合主義だなと思いましたが、最後にゴールデンビーチで夕陽を見ながら家族が和解する中ギズモが旅立つというシーンは、ちょっとぐっと来ました。痛快だったのは、ジョージとギズモが仮装してパーティーにいってみんなに笑われて帰るところ。マットの靴の中にギズモが糞をしてしまうのは最高に痛快でしたね。あと、タイトルが「ギズモにさせたい」というより、「ギズモとしたい」の方がしっくりきたんじゃないかなと後から思いました。

さららん:前半では、何度いじわるされてもまったくめげずに、かつては親友だったマットと仲直りできると信じて突き進むジョージに、どうしても共感できませんでした。現実に起きていることと、ジョージの認識の間に差がありすぎて……。「おいおい」と、つっこみを入れながら読んでいたのですが、ジョージには何か障害があって、人の感情を読み取るのが苦手な子なんだと思いなおすと、違う視野が開けてきますね。ともあれp.131で、ジョージがマットと決別する決心をしてくれて、ホッとしました。両親の離婚は自分のせいだと抱え込んでいる部分もあるジョージですが、一方で、なんとかなるさと前向きに行動するところが大きな長所です。リブに助けながら、ギズモが「死ぬまでにやっておきたいリスト」の項目を1つずつ実現させていく。そしてジョージはリブとの友情を深めるなかで、それまで知らなかったいろんなことに気づきはじめる。最後にギズモは死んでしまうけれど、全体として悲しくてたまらない物語にはなっていないところがいいな、と思いました。物語の終盤で、ギズモが泥棒に果敢に食らいついてやっつけるエピソードでは、瀕死のギズモにそんな体力が?と、つっこみを入れたくなりましたが、ともあれ死を迎える愛犬との暮らしをコミカルに明るく描いた、ユニークな物語です。細かい部分をあまり気にせずに読んでいければ、読者の子どもたちも「ギズモと知り合えたぼくは、よりよい人生を勇敢に送っていかなきゃ」(p.359)というジョージの言葉を素直に受け止められるでしょう。

アカシア:シャロンのキャラクター設定が揺れてるんじゃないか、という声がありましたが、最初は笑ってますけど、あとは「うすら笑い」となっているので、一応ちゃんと書いているかな、と思いました。今回のテーマは「アウトローと友だちになる」ですが、この作品でも『スネークダンス』でも、両方ともアウトローは女の子です。どちらも社会に反発を感じて、家族という点では大変なものを抱えていますが、この女の子のアウトローたちが男の子たちを成長させていき、それによって自分たちも少しずつ変わっていくという設定がおもしろいなと思いました。

まめじか:ジョージは「ウルトラボーイとワンダードッグ」のお話をずっと書いていて、そのことはギズモの章にも出てきます。最後にギズモの自伝をリブに見せる場面があるので、つまりそれは、ワンダードッグのお話とは別に、ギズモの自伝も書いていたということですよね?

アカシア:そういえば確かに、そこははっきりしませんね。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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スネークダンス

『スネークダンス』表紙
『スネークダンス』
佐藤まどか/著
小学館
2022.03

アカシア:とてもおもしろく読みました。イタリアと日本の文化の違いに、人間の生き方を重ねているのがおもしろいですね。同じ建物に住むバスケ仲間には、日本人やイタリア人のほかにインド人、韓国人、スコットランド人などもいて多様なのもいいですね。個人的におもしろいな、と思う表現がいろいろありました。[数をかぞえる単位がヨーロッパは3桁ずつ、日本は4桁ずつ]というところは、そういえばそうだと再認識しましたし、[母語や母国語ではなく母校語がいちばんしっくりくる]とか[日本の男子中高生の一人称は「オレ」]、[大理石の国から、木とたたみの国に来たんだ][イギリスはイタリアより差別が厳しい]、[ローマでは美術館などは無料で入れる]などというところ、著者の視点で私も新たに文化を見直すことができました。著者がふだんイタリアに住んでいる方なので、編集のほうでもう少しアドバイスすればいいのにな、と思うところもありました。たとえばp.11の「もちろんさ。マッテオは日本のアニメ大好きだもんな」は、二人称ではなくマッテオと言っているところが日本的な会話になっていて、さすがと思ったのですが、p.7の「いらないってば。この悪魔め!」は翻訳調ですし、p.120の歩のセリフ「あんがと。あとであたしが取りに来る」は、日本語だと「取りに行く」になるんじゃないかな。それと、p.165の圭人の独白「まっぴらごめん」は、今の子は使わない言葉かもしれません。そうそう、圭人(けいと)という名前ですが、ヨーロッパだとKateが女性名なので男の子にはつけない名前かも。著者はあえてそうなさっているのかもしれませんが。今回のテーマで言うと、アウトローの歩を圭人が惹かれたり否定したりしてとても気がかりな存在になっていく、というのがおもしろいと思いました。

ネズミ:私もとてもおもしろかったです。まず、主人公に寄り添って読んでいけるのがうまいなと思いました。そして、タイトルと表紙を見てダンスの話かと思ったら、そうじゃなくて、ストーリーもどんどん思いがけない展開があって、思ってもみないところに連れていかれます。予想がついてしまう物語も多いなか、自然な形で予想を裏切ってくれて、楽しめました。同じ作者の『アドリブ』(あすなろ書房)は音楽でしたが、この本ではローマの建築や絵の蘊蓄が盛りこまれていて、多分作者が意識的にしているのだと思いますが、10代の読者に新しい世界を受け止めやすい形で差し出しているところも好感を持ちました。

エーデルワイス:表紙のイラストとカバーイラストが違っていてオシャレです。題名の『スネークダンス』とカバー絵で主人公の杏里圭人と山中歩が踊っているので、ダンスの話かと勘違いしました。法隆寺の話になるとは! 圭人が宮大工になろうと意思を固める展開に驚きました。作者が住んでいるイタリアならではの内容で、読みごたえがありました。かつてコロッセオでは公開処刑を行っていたものの、今は死刑を廃止しているイタリア。世界中のどこかで死刑が廃止されると、コロッセオでセレモニーが行われることを本文で初めて知り、感銘を受けました。杏里圭人(あんりけいと)の名前は西洋風ですが、日本に「杏里」という苗字があるのでしょうか? 作者がアンリ・マティスが好きなせい? 終盤、圭人の父親を引き逃げした犯人が逮捕され、圭人の心にやっと平穏をもたらしますが、歩の家庭問題は解決していません。歩を理解してくれるおばあちゃんと古き良き家屋に住んでいますが、愛情を全く感じられない父親、若い義母、母親。続編があるのでしょうか?

まめじか:最初のほうでローマの建築の話が続くのですが、それに十分なページを割いてていねいに描いているから、圭人が建築に興味をもち、やがて宮大工を目指すようになる過程にも説得力がありました。先ほど歩の家庭の問題が解決されないという話がありましたが、こういうふうに親が子どもを養育しようとしないことって、現実の世界にもたくさんありますよね。歩は父親とわかり合えず、圭人は父親をひき逃げ事故で亡くし、ままならない現実にそれぞれ直面している。そこでつぶれてしまうのでなく、人との出会いや、好きなことや夢を、前に進む力に変えていく。レジリエンスというか、逆境の中でもちこたえる力を、五重塔の耐震構造に重ね、スネークダンスという言葉で表現しているのが見事だなあと。日本の景観の問題や、イギリスの差別のことなど、長くイタリアに住んでいる作家の方ならではの視点ですね。視野の広さを感じました。

花散里:ローマの古代建築と東京・下町の建築などの対比の中で物語が展開していくので、とても関心を持って読みました。父親を交通事故で失い、日本に帰らざるをえないときの主人公の心の機微も伝わってきました。日本に帰国してからの歩との出会いも興味深く展開して行き、作品の構成も上手だと思いました。法隆寺や宮大工についてもよく調べられていて、法隆寺の心柱の考え方を「スネークダンス」に繋げているところなどが印象的で読後感がよく、日本の作品のなかでも読み応えがある1冊だと感じました。

コアラ:私もおもしろく読みました。前半にローマのことがたくさん書かれているのがよかったと思います。p.26の後ろから4行目、「数は何語で数える?」以降が特に興味深かったです。圭人が日本に来てからは、歩のしゃべり方に少し違和感がありましたが、アウトローだからこういうしゃべり方もアリかなと思えたら、圭人との会話がおもしろく感じられました。p.131からの「11 心柱ゆらゆらゆらり」の章は特におもしろくて、p.133の最後の歩の発言には、そうそう、とうなずいてしまいました。読んでいて、歩の考え方に染まってしまいそうな勢いがありました。p.216の8行目から10行目については、私も以前、揺れることによって揺れを吸収するという方法を知って衝撃を覚えたので、「背筋がゾゾッとした」というのはよくわかると思いました。この本を読んで初めてこういうことを知った子がいるとしたら、やっぱり驚きがあるのではないかと思います。最後もうまくまとめられていて、子どもにおすすめの本だと思いました。

ミズタマリ:冒頭にタバコを吸うシーンがあって、攻めている児童書だなと、いい意味で驚きました。イタリアの文化、日本との違いを知ることができ、異文化に触れられる作品です。イタリア以外に、イギリスや周辺国のことにも言及していて、興味深く読みました。ただ、説明的に感じられる部分もありました。建造物についての説明が続く場面では、興味を持てない子もいるのではないか、そういう子はページをめくる手が鈍らないか、と、ちょっと気になりました。2人の友情は魅力的だし、最終的に、主人公が希望を見つけて終わるので、読後感はとてもいいです。1箇所だけ気になったところがありました。p.93で、「外見の似た女の子同士がうなずきあう」という場面。主人公が「この二人の名前を覚えるのに苦労しそうだ。」となっています。でも、主人公は写真のような詳細なスケッチを得意にしているのですよね。一般の人が、似ている女子同士、区別がつかないと思っても、主人公はぱっと違いに気づく、というようなキャラクター設定に思えたので、ここは若干矛盾を感じました。

ルパン:いい本だとは思いますが、おもしろかったかどうかというと、ちょっと…。最初の部分に説明が多くて、おもしろくなるまでに時間がかかってしまいました。子どもの読者は最後まで読み通せるでしょうか。すてきだと思った言葉は、p.217の「名をのこさず匠をのこす」です。あと、歩が親元を離れているのに、制服を着なかったり悪いことをしたりして、遠くから親の気をひこうとしているところが何とも切ないと思いました。

アンヌ:前半がずっと美術館やイタリアの遺跡の話で長いけれど、私は言葉だけでここまで景色を表現できるのか、住んでいる人の視点からの案内は違うなとおもしろく読みました。イタリアで温かい人間関係を築いていて、イギリス社会の構造とかを友人を通して知っている圭人が、なぜ日本ではこんなに消極的な姿勢で目立つまいとしているのかは少し不思議でした。先ほど、まめじかさんおっしゃっていたように、この作品は今までの作品よりさらに人物の奥行きが深くなっていて、その点も素晴らしいと思います。例えば、死んだ父親像を生きていた時の思い出だけではなく、本当は絵を描きたかったのじゃないかと考えさせて、もう一つ掘り下げて描いているところとか、歩のおばあちゃんがケイトの嘘を見抜いていた場面で、あれ?と思っていたら、あとからこの人は実は塾の先生で、ただ者じゃない人だったとかわかるところとか、ですね。また、建物の構造も、授業で見学に行ったと聞いた形でうまく説明されていると思いました。それにしても、法隆寺の構造とスネークダンスがつながるとは意外でした。歩のペイントが、いたずら書きからシャッターペイントに変わり、町の人とつながりが出てくるところ、それによって圭人も変わっていって最後に大声で叫ぶところなど、読後感もよかったです。

アカシア:今、圭人がなぜそこまでびくびくして構えているのか、という疑問が出たのですが、日本の同調圧力はすごいし、日本人学校などでも「目立つとたたかれる」なんていうことを聞いてたからじゃないかな、と私は思いました。父親がいないし、帰国子女だしなど、マジョリティと違う部分を圭人は持っているので、たたかれることを警戒したんじゃないかな。それから、なんだかこの作品を弁護しているようですが、ミズタマリさんがおっしゃったp.93の2人の女の子違いがなんだかはっきりしない、という場面ですが、私は人物より建物に興味をひかれている圭人ならありかと思ったし、イタリアだと髪や目の色も、着てる服も、肌の色もみんなそれぞれ違うでしょうから、日本人が同じような外見で同じような意見を言うのを前にして圭人がそう思うのも当然のように思いました。

ミズタマリ:私もそれはそう思うんですけど、キャラクター設定としてどうかな、と思ったんです。

アカシア:歩が、好きなことは徹底的に追求するところとか、アウトローぶりを発揮するところがとてもおもしろかったです。圭人も最初は嫌がっていますが、影響を受けていきますよね。それに、たぶん歩は圭人が好きなんじゃないかと思いますが、圭人がそれに気づいてないところも、おもしろいな、と思いました。

ネズミ:親じゃなくても、わかってくれる人がいることを書いているのかなと思いました。おばあちゃんは後になって、面倒見のいい塾の先生だったことがわかって、わが子はエリート弁護士になったとしても、孫の成長を見守っている大人だというのが想像されますよね。

ネズミ:谷根千では古い建物を生かしながらやっていこうとしている建築家の人たちがいます。佐藤さんともその人たちとつながりがあるのかもしれないと思いました。

アカシア:建物も、観光地として売り出すところまでいかないと、どんどん壊されていきますね。もったいないです。古い建物をリフォームして住んでいる人が、耐震はどうなのかときいたら、昔の建物のほうがしっかりしているんじゃないか、と言っていました。

花散里:奈良の宮大工棟梁の西岡常一さんの本など読むと、日本の建築の良さがよくわかりますね。

さららん(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルなので、ダンスのお話かと思って読み始めたら、作品のモチーフは建築。しかも大地が揺れると心柱も動くという、法隆寺の心柱の仕組みから来ていることがわかりました。その意外性がおもしろく、またローマと東京の町の景色の違い、文化の保存に対する意識の違いやなど、蘊蓄もふくめて興味深く読めました。圭人は、日本の中学校では周囲と同化するために、一人称を「ぼく」から「おれ」に変えなくてはと考えます。イタリア語だけを使って生きていれば、存在しない気苦労ですよね。そんなふうに、イタリアから帰国したばかりの主人公のナマの感覚、違う視点を、読者が自然に共有できる作品だと思いました。日本への帰国後、できるだけ目立たないようにする圭人と、父親に反発してグラフィティを続ける歩は対照的な存在です。けれど、古い町並みへの愛情では共通していて、ふたりが友情をはぐくむ過程は王道の児童文学という感じ。歩の父親とその恋人の描き方は漫画的ですが、この作品のエンタテイメント性というか、軽快さを保証するためには、そのぐらいでちょうどよかったのかもしれません。最後に帯のことを少し。「芸術の都ローマで生まれ育ったアンリは」とありますが、主人公の名前は圭人(けいと)だったはず。確認したところ、p.88にフルネームの「杏里圭人」が初めて出てきました。「アンリ」は間違いではないけれど、読者にとってはやはり「ケイト」か「圭人」でしょう。

しじみ71個分(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルから、どういうところに話が落ちつくのか期待を持ちながら読み進めました。はじめはイタリアの観光案内みたいだなと思ったところもありましたが、日本とイタリアの間で主人公のアイデンティティの揺らぎを描くには必要だったんだろうなと後から思いました。最後まで読んでいって、やっと主人公の揺らぎを法隆寺の心柱の揺らぎに重ねて、揺らぎながらしっかりと立つという、柔軟な強さにつなげたんだなと腹落ちしました。主人公が将来の夢を見つけて希望を感じさせて終わり、読後感もさわやかです。圭人の将来を決めさせてしまう、宮大工さんがかっこいいですね。「わたしたちは名を残さず、匠を残す」(p.217)の言葉は胸に沁みました。p.218の「和」の解釈で、「つかず離れずの間合いの『離』を保つことが『和』の前提」というところなどは本当にそのとおりと思いました。おもしろかったのですが、ただ、歩の家族の問題は解消されないで途中で消えてしまったのがちょっと残念だったのと、圭人と歩の怒りはどこで消えてしまったのかという、なんとなく不完全燃焼感はありました。若者が怒りをもって立ちあがるということを伝えるのはとても大事だと思って読みましたが、それをどうやって自分たちで解消したり、解決したり、折り合いをつけていくのかという示唆がないままだったのが気になったのと、「抵抗と抗議のちがい」について掘り下げがもうちょっとあってもよかったのかなと思ったりもしました。

アカシア:この作品は13歳の少年の一人称なので、抵抗と抗議はどう違うかは書けないでしょうね。

しじみ71個分:なるほど。語り手の人称の視点は、読んだときには欠けていました。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年06月 テーマ:謎の研究

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『2022年06月 テーマ:謎の研究』
日付 2022年06月21日
参加者 ネズミ、ハル、シア、ルパン、花散里、すあま、アカシア、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、しじみ71個分、オカピ、西山、さららん、サークルK、マリナーズ、雪割草
テーマ 謎の研究

読んだ本:

『紙の心』表紙
『紙の心』
原題:CUORI DI CARTA by Elisa Puricelli Guerra, 2012
エリーザ・プリチェッリ・グエッラ/作 長野徹/訳
岩波書店
2020.08

〈版元語録〉「はじめまして、だれかさん! 」少年はある日、図書館でほこりをかぶる本の間にはさまれていた手紙を見つける。顔も名前も知らないまま文通を重ねるうちに、思いをつのらせるふたり。お互いの日常をつづるなか、ふたりが暮らす「研究所」の不穏な実体が暴かれていくが……。紙のようにもろく燃えやすい心を繊細にえがいた青春書簡小説。
『博物館の少女』表紙
『博物館の少女〜怪異研究事始め』
富安陽子/作
偕成社
2021.12

〈版元語録〉明治16年、文明開化の東京にやってきた、大阪の古物商の娘・花岡イカルは、上野の博物館の古蔵で怪異の研究をしている老人の手伝いをすることになる。博物館を舞台に、謎が謎を呼ぶ事件を描くミステリアスな長篇。

(さらに…)

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博物館の少女〜怪異研究事始め

『博物館の少女』表紙
『博物館の少女〜怪異研究事始め』
富安陽子/作
偕成社
2021.12

すあま:とてもおもしろく読みました。古道具屋の娘のままでもよさそうだけど、博物館で働く、というところがユニークでした。実在の人と建物が出てくるところもよいと思います。シリーズ前提の1作目ということなのか、まだ明らかになっていないことがいろいろあります。タイトルはちょっと古くて、魅力のない感じがしましたが、あえて少女小説のタイトルに寄せたのでしょうか。サブタイトルと合わせれば興味をひかれるということなのかもしれません。主人公は13歳ですが、すでにかなりの知識をもっていて、ちゃんと目利きができる。古道具屋で仕事をおぼえるところも読みたかったです。付録があって、地図が載っているので、読む時の助けになると思いましたが、とじ込みではないので図書館の本だとなくなってしまうかもしれません。

しじみ71個分:最初にこの本を知ったのは新聞広告で、富安さんの10年越しの作品ということでとても興味を持ち、出てすぐに買いました。最初から最後まで、流れるようななめらかな文章で、ワクワクしたまま最後まで読み切りました。これは子ども向けの本なのかしら、と思うほどに枠を感じさせないおもしろさでした。個人的には、上野界隈で数年過ごした経験があるので、東京国立博物館の裏手の木々の鬱蒼とした感じなど、とてもリアルに感じることができ、怪異研究所はあの広い敷地のあの辺りなのかな?など想像も膨らみ、本当に、とてもおもしろく読みました。明治の上野界隈のノスタルジックで、少し怪しげな雰囲気は、『夢見る帝国図書館』(中島京子著、文藝春秋)にも共通するところがありますね。明治になって世の中が変わって、大阪から東京に出てきて、すべてにわくわくする感じがすごくよく伝わってきました。主人公の少女イカルがまた大変に魅力的で、大人を負かすほどの文物に関する知識や、鑑定のできる感性を持っていて、とてもお茶目な女の子で、主人公と一緒になって物語の中で冒険できました。どういう怪異がこのあとのシリーズで起こってくるのかがとても楽しみです。今回の物語も、黒手匣の紛失から隠れキリシタンと不老不死の島にまでぶっ飛んでしまうというのも、展開やスケールがとても大きくて、驚くやら楽しいやらで、物語のおもしろさを存分に堪能しました。この先は、まだ登場してきていない町田さんがどう物語の軸に関わって動いていくのかが楽しみでなりません。怪異研究でも、文物の鑑定でも、イカルちゃんがこれからどんな出来事に出会って、苦難を乗り越えて、どう成長していくのかが楽しみです!

コアラ:おもしろかったです。明治時代がよく作り込まれていて、今では使われなくなったものや事柄や言い回しも使われていて、その時代の物語として堪能できました。1回読んだだけですが、細かいところまで読み込んでいくと、もっとおもしろいかなと思いました。子どもには馴染みのない言葉も出てくるので、本をたくさん読んできた子どもで、子ども向けの本に飽き足らなくなったくらいの子にちょうどいいかなと感じました。

西山:すっごくおもしろかったです。この作品には大きな謎があるけれど、その興味にただひっぱられてページを繰るのではなくて、読んでいる間ずっと楽しかった。途中の景色、風物、主人公の発言や感性、ぜんぶおもしろかった。たとえばキリンの場面。初めて見るイカルの目を通したキリンの姿、それへの驚き、それだけでもおもしろいのですが、「イカルの知らない、どこか遠い国の草原で、この麒麟という動物たちが走ったり、歩いたり、草を食べたりしているのかと思うと、それだけで愉快になった」(p.34)と続くところで、なんてひろびろとした愉快な感性だろうとイカルのことがすっかり好きになりました。あと、女の子が働くことへのエールになっているところもうれしかったです。アキラが「男だからとか、女のくせにとか、つまらないことにこだわらず、どうすれば仕事がはかどるか考える頭」を持っている(p.96)というのもうれしかったし、「生まれて初めて、自分自身でかせいだ一円二十三銭だ。自分自身で働いて給金をもらったのだ。そう思うだけで胸がわくわくした」(p.340)というところから、これから広がる人生へのときめきで閉じるラストもよかったです。

ルパン:ごめんなさい、前評判もすごかったし、富安陽子さんだし、ということで期待しすぎたせいか、私は正直そこまでおもしろいという感じではなかったです。好みの問題だと思いますが。歴史的な背景と怪異現象とが中途半端にまざっている感じで、うまく波に乗れないまま終わっちゃいました。

マリナーズ: 非常にさわやかで、魅力的な本でした。大変な境遇にある女の子が、いきいきと前に向かって進んでいく、元気の出る作品です。特に前半3分の1は、新しい場所で冒険が始まり、いろいろな人たちとの出会いが続きます。楽しく読ませよう、という読者サービスが徹底していることに感嘆しました。もっとも、黒手匣が登場してからは、長く感じるところもありました。話の展開上、同じ場所に2度忍び込まなくてはいけないのはわかるのですが、何かを見つけるとすぐ足音が聞こえてくる、など、似たパターンの描写が多くて、若干ダレました。あと、文章で間取りを説明するのは難しいのだな、と感じます。どこかへ必死に逃げているのですが、建物全体の作りが把握できていないので、緊迫感を感じられないところもありました。読み終わってから別添の資料に気がつき、意外とシンプルな間取りだったのだなと思いました。最後まで来るとカタルシスがあるので、そのあたりの冗長な部分も必要なものだったのだ、と納得できます。おみつの存在が非常に印象深かったです。あと、細かいところですが、p.171の上野動物園の「ケンゴロウ」ってなんだろうと一瞬考えて、カンガルーか! と気づいたときは笑いました。

サークルK:とても楽しく読み進みました。登場人物がいきいきしているし、私も上野の博物館界隈はとっても好きなので。黒手匣の謎解きが、最後に凝縮されているので読む速度のピッチが上がりました。表紙の雰囲気も裏表紙とつながっていて、実は重要な登場人物もさりげなく書き込まれているところが、読後に「そうだったのか」と思わせてくれる粋な図らいに感じました。朝ドラのヒロインのように、主人公が周りの人の温かさに応援されて自分の境遇に負けずに成長していくというところが爽快でした。続編が待ち遠しいです!

花散里:私も『夢見る帝国図書館』を思い出させるようなおもしろさを感じました。上野の国立博物館から寛永寺辺りは好きな場所ですが、図書館で借りた本には付録の地図はなかったので、子どもたちには歴史的な設定など物語の雰囲気が想像しにくいのではないかと思いました。13歳で目利きの才があるというのも無理があるように感じました。アキラの存在などはもっと伏線があってもおもしろかったのではないかと思いました。物語の結末が分かってからの最後の章はなくても良いように思いましたが、富安さんの作品の中では個人的にはいちばん好きな作品だと感じました。

さららん:生まれ育った場所と作品舞台が近いせいで、タイトルを聞いたときから、この本を身近に感じていました。両親を失ったものの、よき人たちに囲まれ、父親から叩き込まれた審美眼で自分の力で人生を切り拓いていく主人公のイカル。トノサマ、アキラなど脇役の描写も巧みで、怪異研究所という設定や、事実を積み重ねながら黒手匣の謎を解明していく展開にもそそられます。親友となる川鍋暁斎の娘トヨも頼もしい存在で、続編では暁斎も活躍するのかなと、期待がふくらみます。実在の人物名(例えば博物館の初代館長の町田さんや、二代目館長田中さん)を物語に取り込んだうえで、架空の人物を存分に活躍させる構成はよくありますが、その人間関係やセリフに厚みがあり、引きこまれました。見事な日本語で紡がれた物語で、優れた書き手から十分なおもてなしを受けたという感じがします。

アカシア:黒手匣、明の正体、ロッシュやおみつの存在など、謎がたくさん用意してあって、それで引っ張るし、時代考証もちゃんとしてあるので、フィクションは苦手という子でもどんどん読めるんじゃないかと思いました。イカルは、西山さんもおっしゃっていたように、この時代にあっても積極的で勇気ある存在に描かれているのがいいですね。舞台が明治期の博物館というのも、「怪異」を研究する場所だというのも、おもしろい! ただp.247-248で、アキラが床の下で会話を聞いているだけなのに、「黒手匣があるとしたら、聖堂以外は考えられない」というのは、ちょっと無理があるかもしれません。1つ1一つの文章を味わいながら、極上の読書体験ができました。

アンヌ:とてもおもしろくて、続きが待ちきれないほどです。始まりの座敷の怪異現象のところなどは、よくある話なので少しがっかりしたのですが、そこに超能力者らしい前館長が絡んできて、おまじないをし、手を開かない工夫を母がしてくれたという記憶をたどるところが、新鮮でとても素敵でした。わたしも、しじみ71個分さんがおっしゃったように、前館長に早く会いたいです。黒手匣の怪異話もあまり意外性がなく、この事件に絡む神父は、1人にしておいた方がすっきり読める気もしました。でも、それよりなにより、この主人公が魅力的でした。道具屋の女も認めるほどの目利きで、独りで知らない江戸も歩く勇気がある。私の持論に「孤児はお屋敷の扉をたたく」というものがありまして、たった1人で知らない場所に行くから物語は始まると思うんです。そのお屋敷が博物館!これは最高の物語になるぞと思いました。イカルは沈黙を強いられる養家から古蔵に行き、様々なものの知識をペラペラしゃべりだします。このお喋りな女の子には見覚えがあるぞと思い出したのがモンゴメリの『赤毛のアン』でした。先ほど、すあまさんが「少女小説」のような題名と言われたのにも納得がいきます。そして、p.333で唐突に義姉妹の約束を交わすトヨはダイアナではないでしょうか?ダイアナのようにトヨもちょっと体の大きいふっくらした女の子でした。実は私はのちに河鍋暁翠になるこのトヨに興味があります。『がいなもん 松浦武四郎一代』(河治和香著、小学館)では松浦から話を聞かされる狂言回し役として登場しますし、去年の直木賞の『星落ちて、なお』(澤田瞳子著、文芸春秋)の主人公でもあります。この時代の女の子にしては父親の弟子として様々なところに出入りをし、自分1人でも仕事に出かけるトヨは、明治の東京をイカルに案内するのに最適な役なのだろうと思います。続編には、暁斎も出てくるのだろうかとか、稀代の収集家である松浦はどうだろうかとか、ワクワクしながらこの2人の活躍を楽しみにしています。

ネズミ:刊行されたすぐに手にとったのですが、まず登場人物が魅力的でした。たとえばイカルの人物像が、博物館に初めて入ったときの驚き、古道具屋に入ったシーンなどで、説明的な言葉を使わないでくっきり浮かびあがるといったふうに、随所の描き方がすばらしい。大人の存在感が希薄なことの多い日本の児童文学作品の中にあって、まわりを固めている大人の人物が立体的に描かれているのもすごいなあと思いました。フェミニズムとは書いていないけれど、物語全体が女の子を応援するものであり、男女や年齢、職業その他で人を差別しない意識が感じられます。富安さんは現代のお話も書いていますけれど、この物語は少し昔の時代に舞台を置くことで、登場人物を自由に遊ばせられたのかなと思います。もちろん時代考証のためにたくさんの資料にあたられたとは思いますが。イカルとアキラとトヨとトノサマなど、一部の名前にカタカナが使ってあるのは、ひらがなでも埋もれてしまうからでしょうか。音だけで響いてくる感じがよかったです。

雪割草:冒頭から物語の世界観に引き込まれました。道具屋だった父親の商いの様子を、主人公がよく見て自分なりの感性で受けとめていることがわかり、道具屋を知らない読者にも、空気感含めその場がよく伝わってくる描写でした。物語の時代への興味がかきたてられましたし、時代は違っても、不安やわくわくする気持ちなど主人公の心の動きに読者もよりそいながら味わうことができました。この年齢にしては能力がありすぎにも思いましたが、マニアックなところはよく、そういう好きなものがある子への応援のメッセージにもなると思いました。付録がついていたのを今の今まで気がつきませんでしたが、地図はいいものの、登場人物まで視覚化しなくてもいいかなと思いました。

オカピ:仕事ものであり、成長譚であり、ミステリーや怪奇小説の要素もあり、ほんとうにおもしろく読みました。作者がこの時代のことを詳細に調べて、自分のものにして書いているのもすごいのですが、なにより文体の美しさに魅了されました。所作をあらわす言葉ひとつとっても、香るような言葉が物語にぴったり。これはYAなので、難しめの言葉を使えたというのもあるかと思いますが。富安さんの渾身の作だと思いました。大阪弁がぽんぽんはいってくるのも、作品の勢いにつながっています。人の生と死について考えさせるラストもよかった。人知を超えた不思議もこの世にあるという、希望のある結末で、これは書き手の力だなあと。ちょっとわからなかったのは表紙の英語タイトル。”A Girl at the Museum” となっているのですが、これはイカルのことなのだから、”The Girl at the Museum ” のほうがしっくりくるように感じました。

アカシア:この時代のどこにでもいる少女、というニュアンスを出したかったのかもしれませんよ。

エーデルワイス:最初の構想では少年「アキラ」が主人公だったと聞いてびっくりしました。主人公が少女「イカル」でよかったと思います。表紙を見たとき一瞬、富安陽子さんは時代劇小説に移ったか?!と思いましたが、明治を舞台に実在の人物も盛り込み、本当におもしろく読みました。附属のリーフレットを見た時はわくわくしました。登場人物のイラストと紹介や上野界隈の地図など、この本を読む子どもたちにもよい導入と思います。続編が楽しみです。

シア:とってもおもしろかったです。人気が高いのもうなずけます。絵や装丁も凝っていて、偕成社さん力を入れているなと感じました。付録のおかげで裏表紙におみつがいることに気づきました。明治時代のレトロな感じがしゃれていて、関西とは違う異国情緒真っ盛りの上野の輝きをイカルの驚きで表現してくれています。イカルの目利き能力や好奇心旺盛な性格も楽しめました。目利き能力については、こういう環境で育っていたらそうなるんじゃないかなと思います。似たような時代物の『はなの街オペラ』(森川成美著、くもん出版)よりも想定年齢は高いので、幅広い年齢層が読めそうです。ただ、読書家にとって満足度の高い本なので、本にあまりなじみのない子で、とくに女の子だと、もしかしたら『紙の心』の方がおもしろいかもしれません。イカルの幼少期の体験などから見知った怪異が出てくるのかと思っていましたが、珍しい方面からの話だったので意外性が高かったですね。そのおかげで大人っぽい余韻の残る良い話になりました。日本書紀は知らなくとも、有名な玉手箱の話で子どもも納得できる展開になっていると思いました。中高生に人気のある漫画にも非時香果が出てくるので、知っている子はより親近感がわくのではないでしょうか。そして、実在している人物や場所が登場するので、そのことについて調べたり、その場所に行ってみたくなると思います。教養を得るきっかけになりますね。とくに上野博物館は社会科見学や地方だと修学旅行などで行くことが多いと思うので、児童文学として出してもらえてとても嬉しく思います。神田天主堂はカトリック教会だからレノーも神父と表記しているところも細かいですね。また、付録がよくできています。図書館側からするとこういう本から離れてしまう付録は面倒ですが、補足や博物館の敷地や地図などわかりやすく書いてあります。視覚的な図は文章だけでは追いつかない子どもの理解の助けになります。地方や上野を知らない子の支えにもなったと思います。カラーなのも良かったですね。話の内容だけではなく、文体がとにかく綺麗で、言葉遣いもそうですが立ち居振る舞いが古風で美しく、目をみはりました。奥ゆかしさを始めそういう表現が随所にあり、イカルの育ちの良さを思わせます。関西弁も滑らかでした。後半のアキラとの関係も慎ましくて、明治の女の子らしさが垣間見えて良かったです。そしてそういう表現ができる作家さんは貴重なので、ぜひ続編をと、期待しています。ただ、この時代考証がしっかりしているため、「新しくお仕えする者は、だれより早く仕事場におもむき、上役のお出ましをお待ちするのが筋ですからね。」(p.122)という部分に、日本の仕事に対する姿勢の歴史の古さを感じて、少し頭が痛くなりました。とはいえ、女性のイカルは低く見られているのでボランティアなのだろうかと思っていたので、お給料がもらえてほっとしました。ところで、ケンゴロウというのは、カンガルーの過去の和名かと思ったのですが、カンガルーの聞き間違いなのですね。

ハル:みなさんのご意見がうかがえてよかったなぁと、いつも以上に、今日はしみじみ思います。読みやすく、時代設定も好きで、わくわくしながら読みましたが、「おもしろかった」以上の感想を持てずにいましたし、一方では「児童書なのかな?」とも思っていましたが……『赤毛のアン』! そう言われてみると確かに、枠というのか、ある種の様式美的なものも感じますね。わぁ、すごく腑に落ちました。著者も意識していたのでしょうか。そんな観点で、もう1回読みたくなりました。ありがとうございました。

西山ところで、ちょっと気になったのは、p.262の「あったりまえのコンコンチキや!」というところ。「あったりまえのコンコンチキ」って、ちゃきちゃきの江戸っ子の口調のイメージがあるのですが……。

シア:確かに「こんこんちき」は関西では聞きませんね。そもそも、今の時代使っている人がいないのでなんとも言えませんが。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

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紙の心

『紙の心』表紙
『紙の心』
エリーザ・プリチェッリ・グエッラ/作 長野徹/訳
岩波書店
2020.08

ハル:顔を合わせない相手と、文字だけのやりとりでどんどん盛り上がっていって、口では言えないようなことも、文字でなら言葉にできて……そういう初々しさというか、瑞々しさというのは、わかるなーと思いながらも、ちょっともう見てらんないような気持ちにもなり、序盤で「えー、まだこんなにページ残ってるのに、どうするの?」と思ったのが正直なところです。もう少し早めに物語が動きだしてほしかったです。だけど、「訳者あとがき」の情報によると、イタリアの中学生の支持を集めているということなので、同年代の子たちにしたら、飽きるなんてこともないのかなぁ。そして、ここまで我慢して読んだんだから、これはきっと、とんでもないホラーが待っているのだと期待しすぎてしまったのもあって、結末にも驚きを感じませんでした。主人公以外の子どもたちは、どうなったんでしょうね。

シア:非常におもしろかったです。表紙に原題を大きく入れていておしゃれだと思いました。絵もさわやかな感じで良かったです。内容はさわやかではありませんでしたが。もっと近未来の話だと思っていたのに現代なので驚きましたし、ありえそうな話なので余計に考えさせられました。海外ではロボトミーを元にした話は結構多いので、わりとトラウマなのかなと思いました。半分以降からは一気に読みましたが、もどかしい恋愛ものは苦手なので、序盤はかなりイライラしながら読みました。ユーナがダンに会おうと言い出したので、これはページをめくったら急展開して、やっと研究所の謎についての話になるんだなと思ったのに、やっぱり会えないなんて尻込みするユーナがめんどくさすぎです。チラ見せは上手いのですが焦らされるので、惚気はいいから早く研究所の謎を! と別の意味でハラハラしてしまいました。「ウイルスのせいで全人類が滅亡して、ぼくたちだけが生き残った、そんな映画の一部みたいだ」(p.42)とあり、世界は平和なのかと肩透かしをくらいました。研究所内に鏡がないこととか白い制服や謎の薬など、いろいろと怪しい要素はあったのですが、蓋を開けてみればそこまで大仰な話ではなくて、少々やりすぎな感じもしました。シャワーが10分だけとか、職員が急に乱暴な口調になったりするところは管理される怖さが表れていると思います。この本は書簡体なので2人のタイムラグのようなものが出るところはおもしろかったです。メールなどで展開しそうですが、場所が場所なので手紙というのが研究所の異様さが出ていて好きですね。ただ、偶数時と奇数時でやり取りし合うというのがよくわからなくて、1時間いたら会ってしまうじゃないかと思ったんですが、2人は図書館あまり利用しないんですかね……。それにしても、最近はいわゆる毒親の話が増えてきたように感じます。親の影響力や圧力が注目され始めたのは、親子の関係性や教育を見つめ直す良い機会だと思います。「涙の壺」という表現もとてもロマンチックですが、涙が流れるような状態にしなければいいのではないかとユーナのお父さんに問いたいです。また、若者にはスポーツをさせておけば良いという今の学校教育の甘さも指摘されているように感じて、この辺はもっと主張したいですね。室内で読書をしている子がいたって良いと思います。「ぼくは、本を読めばいろんな場所に行けるんだ、って言い返したかった」(p.85)というダンの台詞がこの本の真のハイライトだと思います。この本には有名な児童文学がたくさん出てくるので、まさに『紙の心』だと思いました。あとがきで各作品について説明してくれているので、子どもたちが興味を持ってくれると良いと思います。でも、メインとなる『プークが丘の妖精パック』は日本人になじみのない本なので、子どもならさらに厳しいのではないでしょうか。題名を読めるのかどうかも心配。『プーク“が”丘の妖精パック』などと読みそうで不安です。気になったのは、「それから、トン川は食いしん坊に」(p.34)という訳がよくわかりませんでした。豚でしょうか。トンカツ? こういうときに訳者の苦労が窺えます。それから、「傷跡は、インディアンが戦いの前に描いて、誇らしげに見せつける、戦いのしるしみたいなものだ」(p.227)とあるのですが、“インディアン”という言葉は今は使わないと思います。

エーデルワイス:おもしろく読みました。主人公たちが暮らす施設を想像しました。清潔だけど、無機質で同じような部屋を移動するのですね。迷いそうです。「××をダンより」のように、形式的な手紙のやり取りをしていますが、顔が見えないほど想像力が働いて心が燃えていくのかもしれないと思いました。そして今どきの若い人のSNSの恋のやりとりも同じようなことかもしれないと思いました。終盤、研究所が火事(放火)で焼けて施設にいた子どもたちが助かるのですが、子どもたちはどうなっていくのでしょう? 元の家に戻るの? ちゃんと生きていけるのでしょうか? 心配です。親にとって都合の良い子ども、デザイナー・ベイビーなど問題提起のお話と思いました。主要なダン、ユーナたち5人は友人同士で、名作の登場人物からつけた仮の名前で、施設では番号とアルファベットで呼ばれ、本名は最後まで明かされませんでした。あえて必要なかったのでしょうか? 5人は元気に幸せに生きていけそうで安心しましたが。

オカピ:管理された場所にいる主人公たちが、人を愛することで、その生活に物足りなさを感じるようになる過程が描かれていて、おもしろく読みました。記憶すること、文字に残しておくことについて考えさせます。何を忘れて、何をおぼえておきたいかが人をつくるのだなと。「興味津々な人よ」(p.16)、「興味津々なこと」(p.107)という言い方は、話し言葉としてなじまないというか、ちょっとしっくりきませんでした。

雪割草:読んでいて最初の方でうんざりしてしまい、途中で休憩しました。イタリアだから情熱的なのかな、精神的に辛い経験をした子たちだから、心の拠りどころをもとめているからなのかなとは思ったものの、お互いを求めすぎていて、ついていけませんでした。近未来のテーマで人間がなんでもコントロールしようとするところから、『泥』(ルイス・サッカー著、小学館)を思い浮かべました。この研究所では、辛い経験を忘れさせるための治療をしていますが、それに対して主人公らが、忘れる以外の方法で生き抜く方法があることに、気がついていくところはいいなと思いました。あとがきにイタリアの中学生に支持されているとありましたが、日本語訳では訳はしっかりしているのはわかるのですが、若い人には受けない文体・言葉遣いだと思いました。それから、手紙でやりとりしている設定ですが、やりとりがすごく頻繁で手紙によっては長文で、ほんとに手紙なの?と思ってしまいました。

ネズミ:秘密をさぐりだそうとし始める後半からは、それがフックになってどんどん読めたのですが、2人のやりとりが中心の前半は、内容の問題なのか、文体のせいなのか、途中であきて、投げ出しそうになりました。後半はひきこまれたものの、都合のよい展開が気になりました。たとえば、骨形成不全症のポルトスが走るなど、ありえないだろうとか、どこかに潜入する計画が、たいがいうまくいくとか。体裁としては、ダンとユーナの手紙の書体を変えてあったらもっと読みやすかったかと思ったのですが、この本はキンドルでも出ているので、電子版を出すにあたって、書体が限られていたのだろうかと思いました。

しじみ71個分:書体に変化を持たせられるのが紙の本だけなのであれば、紙の本ならではの魅力になりますのにね。

シア:『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ著、岩波書店)では文字の色が変わっていましたね。

アカシア:紙の本ならではの工夫が、もう少しあってもよかったのにね。

アンヌ:書簡体小説は好きなので、それなりにおもしろく読み進んでいったのですが、いきなりp.14で「キスとハグを」と出てきたのでびっくりしました。これがただの挨拶なのが、外国小説という感じですよね。全体にSF的な設定が実に曖昧で、この研究所のセキュリティの甘さとか、最後に種明かしされた後も納得できないことが多いです。2人が実際に会わないところも、薬が効いているせいなのかと思ったりしたのですが、でも、それにしては男の子が3人いればやるような冒険に、あっさりダンは出かけたりしますよね。意志までが削られているわけではないらしいので、不思議です。最後まで行きついても、この5人がこれからどうなるのか、放火の罪に問われたりしないかとか、そのハッカーは大丈夫かとか、親との関係は何も解決してないままだとか、いろいろ後味が悪い思いが後を引いてしまい、読み返す意欲がわきませんでした。

アカシア:この本は時間的なリアリティがおかしいんじゃないですか? 手紙の交換で物語が進んで行きますが、1人が書いてから、休み時間にそれを図書館に持っていって本に挟む。それが偶数時だとすると、もう1人は、顔を合わせないために奇数時まで待ってから取りに行って、それから返事を書いて、次の奇数時の機会に図書館に行ってその返事をおく。そういうまだるっこしい方法でやりとりをしているので、たとえばp.115の最初の5つの文章はどれもユーナが書いたものですが、5つ目の文章を書くまでに、どんなに少なくとも9時間くらいはたっている計算になります。でもね、そういう計算だと成り立たないところがいっぱい出てきます。私は物語の構築を支えるリアリティにこだわる方なので、最初のときは途中で読む気がなくなって放り出してしまいました。それから、ダンたちは決死の覚悟で保管所に入ろうとするのですが、そこまでの展開では、保管所に何か重大な秘密があるというふうには読み取れなかったので、なぜそこまで?と思ってしまいました。全体としてすぐれた作品とは、残念ながら思えませんでした。

さららん:今回に関しては、訳者の文体と原文のスタイルが合わなかったのかな。私もみなさんと同じで、書簡体の形をとっているとはいえ、この世代の子たちの日常会話にリアリティがないように思えました。また研究所の中では、子どもたちの動きを阻止しようとする大きな敵は現れません。ダンたちに敵対心を燃やすカーという少年はいるけれど、それは体制側とは関係がない。戦う相手の顔が見えず、豆腐の中に手を埋めるような頼りなさを覚えました。でもひょっとすると、そこがおもしろさなのかも。色々な本の要素が出てくるところもいいし、あとがきも優れているけれど、ディストピアとしての物語に既視感があって、未知のものを解き明かす興奮がなかったのは残念です。

花散里:岩波のSTAMP BOOKSは出版されると期待して読むのですが、この作品が出版された2020年に読んだとき、書簡体で物語が進んで行き、今どきの中高生がどう読むのかなと思いながら読んだことを思い出しました。今回、読み直して、スマホに常に依存している日本の子どもたちが、図書室の本に挟んだ何通もの手紙のやり取りに対して、果たしてどう読むのかなと改めて感じました。前半の書簡体で続くストーリーは、今回も読みにくいと思いました。研究所の秘密が分かっていたということもありましたが、物語のおもしろさが感じられませんでした。巻末に本文に出てくる文学作品の紹介が入っていたり、図書室でのやり取りが舞台だったりしますが、読み返そうという作品ではないと思いました。

サークルK:手紙の部分のやり取りが長かったので、少しもどかしい思いをしながら物語を読み進めました。なぜこんなやり取りや状況に子どもたちが置かれているのだろう、という読み始めからの疑問が次第に解き明かされていくところは、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を思い起こしました。誰に恋しているのかも実際にはわからないのに、よくこんなに妄想をふくらませながら、手紙で情熱を傾けられるなあと苦笑する表現もありましたが、イタリアの中学生にとても人気があったというので、興味深く感じました。こうやって練習(!)して、愛情表現の達人になっていくのかしら、と。小さな世界に閉じ込められて、監視されたり、洗脳されたりするさまは残酷なディストピア小説のミニチュアのようで、『1984』(ジョージ・オーウェル著 早川書房他)をほうふつとさせましたし、39章で「ワールドニュースオンライン版」という記事を使って、状況が説明されている構成は、『侍女の物語』マーガレット・アトウッド著、早川書房)の掘り起こされたカセットテープをめぐる研究者のレポートを思い出しました。物語を読んだ子どもたちがやがて上に挙げた大人の小説に巡り合った時、こんなイタリアの児童文学があったっけ、と逆照射されて思い出してもらえるかもしれません。

マリナーズ:お国柄の違いを感じながら読みました。日本で、中学生くらいの男女が同じように文通し合う物語だったら、こんなふうに恋の駆け引きっぽい言葉をやりとりして楽しむ感じにはなかなかならない気がします。実は、以前、1度読みかけたのですが、p.111あたりからの、お互いの容姿についてあれこれ想像し合うところでうんざりしてしまって、いったんやめたのでした。今回、読み通せてよかったです。後半に行くにつれて、主人公2人の苦しみや、ここに入るまでの経緯が明かされて行きますが、その明かし方が説明的なせいか、切実さがどうも伝わりにくいように思いました。でも、性格を変えることについて、身内が了承している、ということのせつなさ、やるせなさは感じました。自分のアイデンティティを考える、というテーマ自体はとてもよかったです。

ルパン:しょっぱなでつまずいたのは、このやりとり、イタリア語なのにどうして相手が男か女かがわかるんだろう、ということです。見知らぬ相手なのに、はじめから男女の区別がついているのって不思議でした。しかもすぐに恋に落ちるし。そのうえ、やたらに容姿の話が出てきますよね。相手がその子がどうかもわからないのに「赤毛の女の子が好きなんだ」なんて言ったり、デブだったり青白かったりしたらどうするの、みたいな文面もあるし。ヨランダが実際のポルトスを見て思いっきりけなす場面では本当に気が滅入ってしまいました。容姿に自信のない子がこれを読んだらどう思うんだろう。

アカシア:イタリア語だと形容詞などに女性形と男性形があるので、相手が男か女かはすぐわかるんじゃないかな。

西山:ほとんど言い尽くされている感じです(笑)。この研究所にどういう秘密があるのかという興味で読み進めましたけれど、先が知りたいだけでその場その場の描写とか、感覚とかを楽しむという読書の快楽はありませんでした。イタリアのお国柄というのもあるのかもしれませんが、こんなにすぐ男の子と女の子が恋愛感情で盛り上がり、延々それを読まされるのにうんざりしたというのが正直なところです。若い読者なら誰もが恋バナ展開にのめり込むかというと、そうでもないんじゃないかなと思っています。というのは、ジェンダー関連の授業で、何かの問題を男の子と女の子が一緒に取り組んで解決してきた物語で、最後の最後に性的な視線を差し込んで、「恋の始まり」みたいな展開にするのに出会うたびにがっかりするんだよねということを、おそるおそる話した回があったのですが、思いの外共感のコメントが多くて、恋愛テーマじゃないのに恋バナにするドラマとか多すぎるとか、子どもの頃仲のいい男女がからかわれることで気まずくなったとか、嫌な思いをしたとかそういう体験が続々とあがってきたのです。「10代は恋バナ好きにきまってる」という思い込みもそろそろ相対化した方がよいと思っていたところでこの作品を読むことになったので、否定的な感想になっています。あと、ユーナがどんどん受け身になっていって、つまらなくなっていったのが不満でした。本に手紙をはさむというユーナの魅力的な行動から始まったのに、ただただ、「待つ女」になってしまって……。ヨランダといっしょに研究所の秘密に迫っていけばよかったのに……。図書室の本を介した手紙のやりとりとは思えない、ラインのようなやりとりになってしまうところも興ざめでした。

コアラ:以前、本屋さんでこの本を見かけたときに、はじめのほうをちょっと読んで、いまいちかなと思ってすぐに棚に戻してしまったんですけれども、今回最後まで読んで、悪くはない本だと思いました。書簡体小説だと、お互い相手を騙すこともできるし、作者と読者の関係としても、作者は読者を騙すこともできるけれど、ダンもユーナも騙すことなく、お互い誠実で、作者と読者という関係でも作者から騙されることがなかったので、その点ではすっきりしてよかったと思います。研究所の謎とされたことが、少年少女たちの人間的な欠点の除去で、親の望み通りの人間に作り変えられてしまう、ということだったんですが、読んでいてそこに大きな衝撃はあまりありませんでした。そもそも、記憶を無くす薬を飲んでいる研究所というのが不気味で、そこがそもそもディストピアだなと思いました。訳者あとがきに、この本に出てくる本の紹介が書かれてあるのは、よかったと思います。

しじみ71個分:私も、みなさんが既に言われたのと同じように、前半の2人の手紙のやりとりがちょっとかったるいなと思い、読んでいて休憩をはさんでしまいました。また、ユーナかダンか、どっちがしゃべっているかわからなくなっちゃうところがあり、見た感じでパッと分かりやすい工夫があったらよかったなと思います。手紙のやりとりが頻繁すぎて、時間の経過もわかりにくい点がありました。ただ、著者はこういう書簡のやりとりで、心をかわし合うという形を描きたかったんだろうなと思います。頻繁すぎて、チャットのようではありましたが。作品を通じていいなと思ったのは、2人の書簡体の形をとりながら、過去の児童文学作品の紹介をしているところです。また、人と人とのコミュニケーションのツールとして本を使うという設定にも共感しました。『紙の心』というタイトルには、手紙に乗せた自分の心というだけではなくて、本を通じて交流するという意味もあったのかなとも思います。大人にとって都合の悪い、「いらない子ども」を除去してしまうっていうのは恐ろしいことで、本のテーマとしてとても重いと思ったのですが、結果が意外にソフトで、もう少し、ドラマチックな、誰かが死んだり、廃人にさせられてしまったりとか、おどろおどろしい展開があった方が、テーマがもっと生きて、物語も生き生きとしたのではないかなと思います。『私を離さないで』くらいのディストピアがあってもよかったかなと。また、表紙の絵を見ると、ガラス張りのとても近代的な建築物として描かれているのに、火事で燃えちゃうんだ、木造なんだ、というところはちょっと拍子抜けしてしまいました。建物が燃えただけで逃げられちゃうんだなというところは、少しあっさりしすぎていたかもしれません。前半の書簡体の恋愛部分が重くて、後半のスリリングな展開とのバランスがあまり取れていないのかもしれないと思いました。

すあま:読みながら、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー著 講談社)を思い出しました。忘れたい記憶をなくすことができる薬があったなら、犯罪被害者や虐待にあった人など、飲みたいと思う人がいるかもしれない。この物語では、さらにエスカレートして親の望む子どもに変える、という恐ろしい話になっています。逆に子どもが望む親にすることができたら、と思う人もいるのでは、とも思いました。現代の子どもが抱えている問題を解決することができる近未来の世界を描いているようで、実は大人にとって都合がよい、純粋無垢な子どもに変えようとする、時代を逆行するような話になっていきます。近未来の世界のようなのに、紙に書いて本にはさむという、古典的な文通の形をとっているのがおもしろいと思いました。メールやラインでコミュニケーションをとっている今の子どもたちにはかえって新鮮なのかなと。ラストはあっさりしていて、結局は親から逃げ出した、ということで終わったようで、ちょっと物足りない感じがしました。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年05月 テーマ:闇と光の境

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『2022年05月 テーマ:闇と光の境』
日付 2022年05月24日
参加者 ネズミ、ハル、シア、ルパン、すあま、アカシア、エーデルワイス、アンヌ、しじみ71個分、オカピ、西山、サークルK、マリナーラ、雪割草、ヒトデ
テーマ 闇と光の境

読んだ本:

『夜叉神川』表紙
『夜叉神川』
安東みきえ/著 田中千智/絵
講談社
2021.01

〈版元語録〉全ての人間の心の中にある恐ろしい夜叉と優しい神、その恐怖と祝福とを描く短編集。「川釣り」「青い金魚鉢」「鬼が守神社」「スノードロップ」「果ての浜」   夜叉神川の上流から下流へ、そして海へと続く全五話を収録。
『荒野にヒバリをさがして』表紙
『荒野にヒバリを探して』
原題:LARK by Anthony McGowan, 2019
アンソニー・マゴーワン/著  野口絵美/訳
徳間書店
2022.02

〈版元語録〉ヒバリを見るため、犬のティナを連れて、田舎へハイキングに出かけたニッキーと兄のケニー。ところが季節外れの雪で道に迷い…。ヨークシャーの荒野を舞台に、兄弟、家族の絆をドラマティックに描く。2020年カーネギー賞受賞作。

(さらに…)

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荒野にヒバリを探して

『荒野にヒバリをさがして』表紙
『荒野にヒバリを探して』
アンソニー・マゴーワン/著  野口絵美/訳
徳間書店
2022.02

サークルK:表紙の絵がソフトな感じだったので、2人の兄弟が雪の中で遭難しても最後は助かるのだろうな、と予想しながらも、本当に助かるのだろうか、どんな形で助けがくるのかとても気になって、ぐいぐい読みました。けれど、そのストーリーを追いかけ終わってしまうと、思った通りのお話だったと安心してしまい、強く印象に残ったことを時間をおいて思い出そうとしても、なかなか難しかったです。おそらく引っかかるところがあまりなく、とにかく救助を急げ!という気持ちでしか読めなかったからかもしれません。「40年後」という形での振り返りが書かれているのは親切だと思いました。ケニーが兄に看取られる場面では、その後のニッキーの結婚生活や子どもたちのことも垣間見られて、本編のたった1日の出来事が、「その後」のファミリーにとても重要な役割を果たしていたことがわかりました。

すあま:どんどん大変な状況になっていき、とにかく早く助かってくれ、という気持ちで読み進めました。1日の出来事を描いているんですが、回想の中で2人のことがどんどんわかってきます。読みながら2人に共感していき、最後何とか助かって、ほっとして終わったという感じです。

西山:前回読んだ『青いつばさ』(シェフ・アールツ著 長山さき訳 徳間書店)と構図が一緒なんですね。知的障害を持つ兄と兄を支えるという責任を負う弟2人の、冒険。途中からサバイブできるのかっていう興味で読ませますが、出だしからしばらくは、語り手である弟の「おれ」のものの感じ方、考え方をおもしろく読んでいました。例えば、p.29の最後、車の通る道路から遊歩道へ入ったときに「本を読みはじめたときに似ている」と言ったり、p.74のキジの描写の美しさ。つづく丸焼きはうって変わってひどい臭いが行間から漂い出すような惨状ではありますが、ともかく、キジの姿が目に浮かぶような描写でした。p.81の痛みに関する考察もとてもおもしろかった。崖から落ちて、2人の状況が危機的になってからは理不尽だという思いの方が強くなりました。p.27でティナに危機が訪れそうな、フラグは立っていましたが、ティナの死は人間の不用意でもたらされたものです。なんだか、いい話のようにまとめられた気がしますが、ティナを死なせてしまったことに「おれ」はもっと傷つくべき、悔やむべきでないのでしょうか。人間は死なせなくても動物は殺す。そのドラマ作りには私は違和感を持っています。ところで、「ジョージなんて古くさい名前のやつ、今どきいるか?」(p.109)にはっとしました。日本以外でも、時代によって名前の流行り廃りがあっても当然ですが、考えたことがなかったので。キラキラネームみたいなのあるんでしょうかね。

ルパン:ともかく、この2人の子どもがどうなってしまうのかが心配で一気に読んだのですが、そのためか、読み終わったあと何も残らず…はて、何の話だったかな?という感じでした。表紙の見返しに「家族やこの数年間のことを思い出す」とあるので、ああ、そういうことか、と思いましたが、お母さんが出て行ったことも、お兄さんに障害があることも、お父さんが依存症のことも、それぞれ大変なことなのでしょうが、この生きるか死ぬかの遭難の事実のほうがよっぽど重くて、逆に家族の問題が軽く思えてしまいます。ちょっと手法をまちがえたかと…。犬のティナのえらさだけは印象に残りましたが。最後に、数十年後のことが書いてあって、あれ、ふられたはずの女の子と結婚してる、とか思いましたが、こういう蛇足はそんなに嫌いじゃないです。

ヒトデ:はじめのうちは、ハードボイルドな語り口と、書籍のページ数と文字組から想像した内容とのギャップに驚かされましたが、物語のつかみのうまさに引き込まれ、この2人はどうなってしまうんだろうと思いながら、最後まで一気に読み進めました。なんとなく映画ギルバート・グレイブ」を思い出すような兄弟の物語が印象的でした。2人がはじめて空港にいくシーンが、とてもいいなと思いました。最後のエピローグで、一気に時間を飛ばしてしまったのには、少し驚かされましたけど、ティナやサラの伏線を回収していくためには、必要だったのかしら、とも思いました。読めてよかった作品でした。

雪割草:巧みな語りなのだろうと思いましたが、正直、心が入っていけない作品でした。その理由の1つが、主人公の「おれ」という主語で、古臭い感じがしました。最後の方で、主人公がおじさんになっていて、語り手はおじさんの設定だったのだろうか、であればと少し納得しました。「おれ」は、おじさんぽい言葉遣いが多々あり、たとえば、p.109の「『あの人、偉そうにしないのね。素敵』女の子が言う。おれは…」などです。一人称の語りなので、地の文でももっと「おれ」を省略してほしいと思いました。p.124には、点の打ち忘れか空白があり、p.120の「最悪のことはまだ、もっとあと…」とくどい感じの文、p.8の「灰色の空が、どこまでもどんより広がっているだけなんだ」とすわりが悪く感じられる文、それから全体的に文がばらばらに感じられて、原書を読んでみたいと思いました。それから、ティナは死なせなくてよかったと思います。

エーデルワイス:自然の厳しさがよく出ていました。私は以前よく山に登り自然に親しんでいましたが、方向音痴で誰かと一緒でないと道に迷うタイプで、一歩間違うとこのように遭難しそうです。しかし、ちょっとしたハイキングであっても、最低限の水、食料、防寒具など持参するもの。ニッキーとケニーは甘かったと思います。宮沢賢治の『虔十公園林』をストーリーテリングで覚えている最中で「ひばりは高く高くのぼってチーチクチーチクやりました。」の一節がこの物語とダブりました。死んでしまった犬のティナを、救助の人にニッキーが必死に埋めるように頼むところが納得できず、私だったら連れ帰るのに……と思いましたが、あくまで兄のケニーのことを思ってのことなのですね。

マリナーラ:短いお話なんですけれど、ずっと緊迫感がありました。もうさすがにそろそろ助かるだろうというあたりで、水かさが増してきてピンチが発生して、ページを早くめくりたい気持ちと、めくるのが怖い気持ちが両方ありました。主人公の大変な歩みが、回想の中に垣間見えて、でも、多くは語りすぎないところに余韻がありました。映画『127時間』を思い出しました。アメリカが舞台で、峡谷で岩に手が挟まれて抜けなくなって、だれも助けに来てくれない、という話です。ところで、ヨークシャーといえば、私のなかでは『嵐が丘』だったので、そのイメージも重ねながら読んでいたのですが、後で地図を見たら、この国定公園とブロンテ姉妹の故郷は100キロくらい離れていました。

ハル:心に余裕がないからか、私はちょっとうんざりしてしまいました。下品な笑いが苦手なのもあって、途中まで、私はいったい何を読まされているんだろうという思いでいっぱいでした。この人たち、何をしにきたんだっけ? って。読み終わってみると、心に残るものがないわけじゃないので、場面、場面で、映像的に訴えるものとか、心に迫るものはあったんだと思います。でも、この物語の場合、この結構なひどい状況には、弟がお兄さんを巻き込んだのであって、お兄さんに知的障害があろうがなかろうが、関係なかったんじゃないかという思いもぬぐいきれません。障害のある兄といつも一緒にいる弟=兄弟の深い絆、美しい、というのはどうなのかという思いもあります。でも、たぶん、いろいろ読み落としてたんだろうな、と、いま皆さんの意見を聞きながら思ってはいます。

シア:まず、イギリスはバスに普通に犬を乗せて良いところに衝撃を受けました。ガイトラッシュという魔物も初耳でした。こういう文化の違いなどを目の当たりにできるから海外文学はおもしろいですね。だから積極的に読みたいし、子どもたちにも読ませたいです。2階建てバスもイギリスらしくてテンションが上がりますし、2階建てバスに乗った子どもがどういうリアクションをするのかも表現されていて楽しかったです。この本も薄いですし文字の大きさもほどほどで、子どもたちにはちょうど良いのではないかと思います。特別支援学校に通う兄を持つ主人公の話なのでその辺りも理解に繋がるし、障がいを持つ人が身近にいる子の共感にも繋がるのではないかと思います。1つ違いなのに体は弟のニッキーより大きくて逞しい点が個性もありますが一般的に早熟な障がい者の大変さとか、ケニーを守らなきゃというニッキーの使命に近い気持ちなど、こういう子の世話のシビアさがよく出ていると思います。物語自体は1日の出来事でそこまで盛り上がるわけではないのですが、表現が1つ1つ丁寧で、冗談も下ネタが出るなど子どもらしさがあって微笑ましかったです。また、複雑な家庭の話と相まって内容は真に迫っており、犬のティナの魂がヒバリとなって飛んでいくところは涙を誘いました。先に読んだ『夜叉神川』(安東みきえ著 講談社)のゴンちゃんを思い出しました。やっぱり犬は裏切りません。ラストにケニーのことがヒバリの声として表現されるところでティナとの絆を感じて、良い読後感に繋がりました。でも、この本も田舎っぽさと都会っぽさが混在している気がしました。バス3本乗っただけでスマホが圏外になるイギリスの荒野に行くのに、軽装でヒバリを見に行こうという発想が不思議でした。まるで都会っ子の余裕です。それから、40年後の奥さんがサラなのが世界の狭い田舎のイメージ丸出しでウッときました。「ここから出ていきたい、新しいものを見たい」と言っていたのに、結局田舎から外に出てないじゃないかと。もしくは戻ってきてしまったのかと残念な気持ちになりました。ケニーを抱えているからなのか、田舎のせいなのかはわかりませんが。そして、p.30「去年、ハイタカに食べられそうになっていたところをおれたちが助けたミヤマガラスのことだ。」とありますが、生態系を考えたら動物を助けることにならないのではないかと思います。こういう場面に出会うことのある田舎住まいの動物好きならこういうことには配慮できるのではないかと感じます。

アカシア:山や森をけっこう歩いていた私としては、この2人がきちんと準備もせずに薄着で出発することや、遊歩道から離れてはだめだと言われたのに離れてしまうとか、水の上に身を乗り出してスマホを落とすとか、スマホを取ろうとして崖から落ちるなど、愚かな行動を積み重ねていくことにいら立ち、物語の中に入り込めませんでした。何も愚かなことをしていないのに困難な状況に突き落とされる子どもたちが世界にはたくさんいることを思うと、自らの愚行で困難な状況に入り込んでしまう子どもを主人公にした物語は、”先進国“だからこそ成立しているのかもしれません。物語が家族の中で完結していて、そこから外への広がりはあんまりないのも残念でした。

オカピ:この本は、“The Truth of Things” というシリーズの最終巻なんですよね。p.30にミヤマガラスのエピソードが出てきますが、その巻を読んだことがあります。原書は、ディスレクシアの若い人たちが読みやすいように、字体やレイアウトを工夫しています。たとえば日本の本で、梨屋アリエさんの『きみの存在を意識する』(ポプラ社)もフォントに配慮していましたね。この翻訳の『荒野にヒバリをさがして』は、ディスレクシアの人たちに向けたつくり方をしているわけではなく、だけど、そうだとすると、1冊の物語としては物足りなくて、なんか中途半端だなと思いました。また原書は読みやすいように、「飛ぶことも歌うことも、ヒバリにとっては労働なのだ。不屈の勇気なのだ。そして、それは美しい」(p.130)など、短文を重ねた文体なのかもしれませんが、それをそのまま日本語にすると、ちょっとぎこちないような。「おれ」という一人称の中学生が、「ポンポンのついた毛糸の帽子」(p.21)のようにかわいらしい言葉をときどき使うのも、あまりしっくりきませんでした。

アカシア:そのシリーズ、全部で何巻出てるんですか?

オカピ:全4巻だと思います。

アンヌ:一言で言って、とても痛い物語でした。表紙からして雪山で遭難することは最初からわかってしまっていて、初読の時は、とにかく無事に帰ってほしいの一言で上の空でいました。2度目はもう少し落ち着いて読めたのですが、p.81、82の痛みというものへの考察や、p.113の、折れていない方の足を添え木にするという技術を読みながら、素晴らしいけれど辛い知識だなあと思っていました。p.131のヒバリに身を変えて去っていった魂は、ティナだったんですね。ところどころ詩的で美しい場面があり、カラスやアナグマという動物についての思い出が出て来て興味をひかれたのですが、でも語られることがなくて奇妙だったのは、4巻目だからなんだと今納得がいきました。このハイキングについて行かなかった父親に、読みながら猛烈に怒っていました。自分は荒野に詳しい父に連れて行ってもらったのに、子どもだけで行かせてしまうなんて。2人を追い出したかったんだろうかと考えたりしました。読み終えてみれば、雪山の冒険と家族関係、父親のアル中や疾走した母親についても描かれていて、2人の冒険する少年が厚みを持った人間であることもわかります。「お話」の持つ力を感じさせ、この物語の成立を語るラストもいい話なんだろうけれど、常にケニーの面倒を見るという形で「お話」が出現することにも痛みを感じずにいられない物語でもありました。

ネズミ:先が気になってさっと読みました。ただ、カバー袖に、窮地の中で「家族やこの数年のできとごとに思いをめぐらす」とあるのと、読んだ印象はやや異なりました。今直面している困難が非常にリアルなのに対して、過去の困難については、キジをオーブンで焼いたエピソード以外は具体的な記述が少なくて印象がうすく、また、主人公が知識や思考力を持っている賢い子なのに、雲行きの怪しいなかこんな軽装で出てきてしまったことがちぐはぐに思えて、どこか納得できない気持ちが残りました。

しじみ71個分:わりとあっさり読んでしまって、大変に失礼ながら、「カーネギー賞ってこれくらいで取れちゃうの?」と思ったくらいでした。『青いつばさ』と同じように、お兄ちゃんに障害があり、弟がお兄ちゃんの世話をするという構成ですが、荒野にヒバリを見に行こうとピクニックに出かけたら遭難してしまい、弟は生死の境をさまよう羽目になり、犬のティナはニッキーに体温をあげて自分は死んでしまうという、1日の非常に短い時間の間に起こる出来事と、事件を通して兄弟のきずなや、家族の在り方が見えてきます。決して悪い話じゃないし、兄弟愛が伝わる話だけれど、なんだか言いようのない物足りなさを感じたのですが、それがなぜなのかは、オカピさんのお話を聞いて、やっと納得がいきました。どうして出版社はこの巻だけで出版してしまったんでしょうか…やっぱりちょっとわからないです。でも、この巻だけでもいいところもたくさんあって、私が特によかったと思ったのは、遭難したニッキーが死にかけて生死の境目をさまようところで、ヒバリについて「ヒバリは高く高くのぼっていき、地球の重力からもときはなたれ、そしてとつぜん、なんの努力もいらなくなったようにかるがると舞い上がる。」(p.130)のくだりあたりは、言葉と場面が非常に美しくて、とてもよかったと思いました。また、子ども時代には、ニッキーが遭難して死にかけますが、エピローグで病のために生死の境をさまようのは、兄のケニーになっていて、その立場が反転するうまさはさすがだなと思いました。一点、兄弟の関係性がもっと深く表現できたのではないかと残念に思ったのは、「お話」のことでした。兄のケニーが弟のニッキーに向かって「なにか話をして」とせがむのは兄弟のきずなや愛の深さを物語る、決め台詞だと思うのですが、物語の中で、ニッキーがケニーに語る物語がどのように功を奏しているのかがよく見えてこないので、決め台詞のインパクトが伝わってこないもどかしさがありました。全巻そろってまとめて読めたら、もっと違った感じに感じられたでしょうか。もう1つ魅力的だなと思ったのが、父親の恋人のジェニーの存在でした。妻に去られて、父親はアルコール浸りという辛い家庭の設定ですが、ジェニーのおかげで父親は更生しつつあり、兄弟もジェニーの優しい心遣いに見守られています。この存在がなかったらこの物語はもっともっと辛かっただろうなぁと思います。血がつながらないけれど大事な家族というのが、さりげなく普通に描かれているのは素敵だと思いました。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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夜叉神川

『夜叉神川』表紙
『夜叉神川』
安東みきえ/著 田中千智/絵
講談社
2021.01

ネズミ:とてもおもしろかったです。人によっていろんなふうに読める作品だと思いました。悪意とか無関心とか憎悪とか嫉妬とか、どの話も負の感情を扱っているんですね。普段しちゃいけない、言っちゃいけないと言われている感情をうまく顕在化させて、善悪ということではなく考えさせてくれます。オーディションとかカードゲームとか沖縄旅行とか、今の子どもたちも興味をもちそうなことをきっかけにして、不思議なことに広げていくのがうまいなと思いました。情景の描き方が美しく、p.230あたりからの「果ての浜」の文章は特に魅力的でした。いろんな人にすすめたい作品です。

アンヌ:読んでいて一番怖かったのが、最初の「川釣り」です。霧の中の女の人みたいな怪異や川の主みたいな魚の化け物が出てきててんこ盛りなんだけれど、それよりも前半の心臓を取り出すのに夢中になっている辻君に感じる恐怖心の方が上でした。そのせいか、辻君の横暴な物言いや異常性格的な描写はなくてもいいような気もします。川の怪異が懲罰みたいな役割なのも少し残念な点です。「青い金魚鉢」は特殊な能力を持つ「物」に魅入られる話として読みましたが、家に閉じ込められていた昔の人と金魚鉢の能力の関係に説明がないのが残念でした。「鬼が森神社」は、p.100のアイドルを目指すリョウの魅力をちょっと百合的な描写で感覚的に描いているところなどとてもうまいと思うし、宝塚ファンの人たちの暴走のニュースなど昔から聞いたことがあるので、苺の行動もまあ、あるんだろうなと思いました。最後には呪いも解いたし、未来に向かって進もうとしている主人公が橋のところで語り掛ける描写もよかったし、なんといっても、鬼が情けない顔をしているラストがよかったです。「スノードロップ」は少年の心の中にある、他者の死を願う気持ちの変遷の話だから、これにはあまり興味を感じませんでした。私は怪談好きですが、幽霊は苦手です。怪談というのはこの世の物語で、この世には人間などの測り知れない世界もあるというのが魅力だと思っていますが、幽霊は人間とその死後の世界のことなので……。うらみはらさでおくべきやと化けて出るような、目的を持ってこの世に帰る幽霊ならともかく、自分たちが死んだと気づいていないような子どもの幽霊は、とてもつらい。だから最後の「果ての浜」は、戦争の悲劇や理不尽さを伝えている点は素晴らしいと思うし、さらにそこから徹底的に目をそらそうとする主人公もリアルでおもしろいと思うのですが、子どもたちの幽霊から弟を守ろうと戦うような感じのところは、受け入れがたい気がしました。

オカピ:これまでに読んだ安東さんの本の中で、いちばん好きでした。鬼神である夜叉はけして、まったくの悪というわけではなく、そうした善とも悪ともいえないような、人間の複雑な部分をとらえた作品です。欲とか暴力とか戦争とか、人の業の深さを思いました。どの話の中でも生と死のドラマが展開するのですが、一話一話がおもしろい。水源から河口に向かい、やがて海に出るという全体の構成もみごとでした。

アカシア:私も、安東さんの作品の中でいちばんおもしろかったです。人が、ふとしたときに見せる怖いものが、どんどん肥大化していくことを、とてもうまいストーリーテリングで表現していますね。さらに怖くする工夫もあるし、はぐらかしもあります。文章表現がとてもじょうずだと思いました。「鬼ケ守神社」の最後の一行は、実は鬼より人間のほうが怖いということを言っているようです。「スノードロップ」のp.158から最後にかけての「自分の命を自分で決めて悪いか?」をめぐるぼくと松井さんとのやりとりは、表面的ではなく深いところからの知恵が湧いてきているように思えて、道徳の教科書とは違ってひきつけられました。「果ての浜」では、子どもの自然な発想として、受験後につらい話をしないでほしいという気持ちをもつ岳が、弟をさがしているうちにトウキビ畑で昔の子どもたちの声を聞いたのがきっかけで、変わっていくのですが、その気持の変化に無理なく寄り添うことができました。p.231の「くりかえし蹴っていた山下の靴。あの靴を自分も履いていたのかもしれない。/今もずっとくりかえし、あの少年を蹴っているような気さえした」という部分は、沖縄の歴史を知らない子どもたちにもすんなり伝わるでしょうか?

シア:おどろおどろしい雰囲気でおもしろかったです。生徒にも気に入られるのではないでしょうか。本の厚みはないし、表紙もダークメルヘンで好まれそうです。オムニバス形式で人の心に棲む鬼を描いているんですが、形式のせいでばらけた感じがしました。最後の「果ての浜」が秀逸だったので、この話だけで書いても良かったかなと思いました。というのも、夜叉神川で繋げるのはいいにしても、夜叉神川の由来など川自体の話が出てこないなと思いまして。「果ての浜」では山下だけでなく、主人公の無関心さを鬼にしたのは良かったと思います。実際、戦争の話は悲惨だし関係ないからと嫌う子も多いし、昔のことや酷い話は自分には関係なくて、もっとハッピーな気持ちでいたいという今の若い世代の気持ちをよく表現していると感じました。愚痴やら暗い話は嫌がられるんですよね。生徒たちの好きなSNSでもとくに嫌われる行為です。でも、暗い気持ちになるようなことをしでかすのも大体この年齢が多いので、その矛盾をこの本はうまくついていると思いました。また、さんぴん茶の名前や味でツボるのはわかりますし、そういう意味でもこの作者は10代っぽさの表現が上手ですね。出てくる子は現代っ子や都会っ子なイメージを受けるのですが、全体的な田舎っぽさもうかがえます。例えばp.184に「女にまるめこまれ、きげんよく鼻歌を歌っている弟が情けない。」とあるのですが、ここは「大人にまるめこまれ」で良かったのではないかと思いました。1話目の辻くんはそういうキャラクターということで主人公から指摘もされていましたが、この岳くんの言葉は田舎の男女差別を思わせます。また、2話目の引きこもりの子の表現なのですが、琴ちゃんは「こだわりが強い」「変わっている」などと発達の問題を疑わせる部分はちょっとどうなのだろうと思いました。引きこもってしまうのは基本的に繊細な子が多いので、そういうことで良かったのではないでしょうか。琴ちゃんのお母さんも食前に害虫の話をするなど変人すぎると思います。そのせいで発達障がいの遺伝について考えてしまいます。それに、敏感な子を大なり小なりこういう状況に追い込む加害者がいけないのに、愛奈ちゃんは「おとなしめになった」というだけで事態の責任に関して何も気づけていません。1話目の「川釣り」のような物事の繋がりを考えた上での罪悪感が生まれないのではないかと思いました。3話目の主人公も改心しているのに、連作の繋がりに違和感を覚えました。違和感といえば、この本は助詞など文章に気になるところも散見されたので、児童書ですし編集者もとくに注意して見てほしいと思いました。p.215「ヌギリヌパ教室が楽しかった」「ヌギリヌバと呼ばれる岩かげに」など、パとバがどっちなのかわかりませんでした。

ハル:1話目で、グッときました。2話目の「青い金魚鉢」は、ちょっと私がつかみきれていないのですが、「末代まで」の怖さが印象に残っています。もしかしたら、強者への無自覚なあこがれもあるのかなぁ。……などなど、ときどき面食らうようなところもありつつ、川さながらに緩急つけながら全体のうねりを高めていって、最後に「果ての浜」に到達する構成が、もう、すごいなぁと思いました。読者、つまり子どもに寄せた書き方ではないのに、非常にこの不安定で繊細な時期の、今の子どもたちに寄り添っているように思え、なんというか、ほんとにグッときました。すごみを感じます。

マリナーラ:タイトルから、本格的なファンタジーかと思っていましたが、日常からちょっとはみ出た別の世界を描く物語で、個人的にはとても好みでした。人が一瞬垣間見せる悪意が、どのお話にも書かれていました。映像的で、ガラスの金魚鉢がゆがんで見える、というのも想像つくし、サトウキビ畑で姿が見えなくなる、というのもイメージが容易だし、その空間に浸らせてくれる物語だと思います。序盤の2話と3話は、夜叉神川をめぐる連作であることがすぐ掴めるように、川の名前が早めに出てきてわかりやすかったです。最後の戦争の話は、工夫を随所に感じました。そういう話は聞きたくないのだ、という主人公の気持ちに寄り添いながらも、戦時中の出来事に少しずつ引き込んでいきます。当時の波照間島、西表島のことは知らなかったので、勉強になりました。

雪割草:主人公の負の感情を超自然的な現象と結びつけて書いていて、おもしろいなと思いました。割と年配の作家さんなのにヤングな設定を描けていて、すごいなとも思いました。なかでも私は「スノードロップ」と「果ての浜」がよかったです。「スノードロップ」は、なぜ松井さんは怒ってばかりいるのかを、子どもの視点で無理なくときほぐして描いていると思いました。「果ての浜」では、まず戦争中の波照間のことを私は知りませんでしたし、その出来事を主人公らが知る方法も、奇妙だけれどリアルでなるほどと思いました。

ヒトデ:1話目の『川釣り』からひきこまれて読みました。辻くんの純粋な悪意みたいなものが本当に怖くて、でもそれが自分の身に引きつけられないものではない、というか。絶妙なバランスで書かれていました。2話目の「青い金魚鉢」も最後のきつねの伏線で、う~ん、さすがだな、という感じでした。4話目の「スノードロップ」、5話目の「果ての浜」は、1話~3話から少しテイストを変えて、闇の中から光へ進んでいく話という印象でした。とくに5話目の「果ての浜」では、主人公の「どうして戦争の話をきかなければならないのか」という問いに、物語のなかでしっかり答えを出しているところが、とってもいいなと思いました。

しじみ71個分:映画でも本でも、私は本当に怖いものが苦手で、1話目を読んで、やっぱり怖くなって後悔したのですが、読み進めるうちに本当に文章がうまいなぁとつくづく思わされ、読み通してしまいました。この本は「子ども向け」に分かりやすく書いてないし、大人向けといってもいいほどです。1話ごとに、表現や構成が練られていて、短い連作集なのに大変に読みごたえがありました。夜叉神川の上流から物語がスタートし、中流、下流へと流れていき、最後に「果ての浜」をもってきて、海に流れ込んでいくという構成にはうなりました。テーマを「光と闇の境」としたのは、各話で日常生活に生じた、ちょっとした亀裂から、登場人物の悪意が溢れて出てきてしまうのですが、その日常の中の善悪の紙一重な感じが、光と闇の世界の薄い境目のように思われたからです。各話で、悪意が吹き出していく人物がいろんな形で描かれ、そのまま「あっち側」に行ってしまいそうなところを、視点になっている主人公が、「こっちに戻っておいで」というように境目で止めてくれて、それが児童文学としての救いの部分なのかなと思いました。1話目の「川釣り」がいちばん怖かったです。魚の命を奪うことを楽しみ、残虐性が発展して、「ぼく」をも脅して楽しんでいた辻くんが、さらに恐ろしい人間になってしまいかねないところを川の神か山女魚の妖怪かに襲われ苦しむ姿を見て、「ぼく」が「クツクツクツ」と笑い、「ぼく」も喜んで闇を発露させるのですが、ここがいちばん怖かったです!「ぼく」は我に返って辻くんを助け、「清らかな流れを見ていたら、なぜだか祈るような気持ちになった」(p.41)、「そしてこの先、ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうかまもってほしい」(p.42)、という場面で終わります。残虐性は誰もが持っていて、あちらに行ってしまうか、こちらにいるかは紙一重だという恐ろしさを突き付けるとともに、それに自分で気づいた「ぼく」が境目で踏みとどまり、闇に落ちないように祈って終わるという、この展開の鮮やかさは素晴らしいと思いました。あとはやはり最後の「果ての浜」にやられました。この話では、善悪の境を突き破るのは、島にやってきた山下という青年教師で、突然、豹変し、日本刀で島民を脅して、波照間島から西表島に強制疎開させたため、西表島で病や飢えで島民がたくさん亡くなるという惨劇が起きます。でも、境目に立つ主人公の「おれ」は、残虐さに落ちた山下ではなく、西表に追いやられ、亡くなった子どもたちの魂に、ヤギの人形をあげることで浄化させ、連れて行かれそうになった弟を助けますが、海へと川が流れ込み、浄化されるという大きな構成になっていて素晴らしいと思いました。戦争という大きな悪意に、目を向けないこと自体が大きな悪だという強いメッセージを感じますし、そこに主人公が気付くところで、人間性への期待を持たせる物語だなと思います。

ルパン:とてもおもしろく読みました。最初の「川釣り」に出てくる、川の神なのか化け物なのかが言うセリフ、「命をとったら食べてやらなくちゃねえ」というのが名文句だと思いました。ただ、この人(神?)がこのあとも出てくるのかと思ったらこれっきりで、いったい何者だったのかが気になりました。「青い金魚鉢」は、愛奈さんが何の気づきもなく終わるのが消化不良。ちほちゃんの善意で救われてそれで終わり、本人は何の反省も成長もないまま。何の話なのかな、と、ちょっと首をかしげました。「鬼が守神社」は、p.126の「リョウがいない時のわたしたちには、話すことがほとんどなかった」というのが、女子の関係をよくつかんでいると思いました。「スノードロップ」はいちばん好きな話で、「松井さんが死んだらゴンに悪いです!」とさけぶ男の子に好感がもてました。「果ての浜」は…またそういうことを言う、と言われそうですが、この塾の先生たち、こんな南の果ての病院もないところに子どもたち連れて行っちゃって、何かあったらどうするんだろう、とか、この夫婦にまかせてそんな遠くに子ども行かせちゃう親とかが気になっちゃって、お話にすっぽり入ることができず。でも、こういう歴史を知ることができてよかった、と思いました。ちょうど『アジアの虐殺・弾圧痕を歩く』(藤田賀久著 えにし書房)という本を読んだところだったので、それもあって、自国や近隣の国の歴史の闇についてあまりにも無知だったと考えさせられました。

サークルK:どのエピソードにも畏敬の念という気持ちを子どもが感じられるような不思議な存在が表現された、興味深い作品でした。神様と化け物は紙一重の存在であるとか、川そのものも、普段のあそび場と同じ感覚でいると全く違う表情を見せる怖い場にもなりうるとか、二項対立には収まらない「何だかわからないけれど確かに存在しているもの」への畏れ多さが良く伝わりました。またp.16、p.36の血にまつわる表現はとてもエロティックで大人が読んでもぞくぞくっとしました。古いところでは、映画「禁じられた遊び」に描かれた子どもにも残虐性があることを思い起こすならば、子どもだからと言ってエロス(という言葉は知らなくても)がわからないはずはないのですよね。残虐性とエロスの表裏一体なところをこのような形で表現しているところはすばらしいと思います。これらは最後のエピソード「果ての浜」に出てくる「血の島」につながるのでしょうから、伏線としてもとても心に残りました。

西山:まず「川釣り」で、すごいところをお書きになったなと、いろんな意味でどきどきしました。以前、高校の国語の教材で釣りに関するあるエッセイの一部「姫(ヒメマス)殺しの快感」だったか、そういう表現がカットされていたのを思い出しました。釣りは自然との交歓でありつつ、でも、殺生は殺生。幼児期にどれだけ虫を殺したかが命を尊ぶことにつながるといった発言を目にしたことがありますが、命への興味が「殺す」という行為になっているとして、それが命を尊ぶことにどうつながるのか……。とっとと道徳的に無難な出口を目指すのではなく、すごく危ういところのぎりぎりを見せつけられて、「ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうか守ってほしい」(p.42)という祈りが深く刺さります。そして、作品を重ねて最後にまさか『ハテルマシキナ』が出てくるとは! この構成全体で光を見せていっていると思いました。余談ですが、「青い金魚鉢」で、皿海達哉の短編集『EE’症候群』(小峰書店 1998年)を思い出しました。先生が落ちこぼれの子どもを金魚に変えてしまうんです。こちらも怖いですよ。

エーデルワイス:最近好きな何名かの作家の短篇を読みましたが、長編でおもしろく読んでいた作家も、短篇は?と、思いました。短篇ならではの難しさがあるようです。それに比べ、この作家さんは本当にうまい!と思いました。「川釣り」は怖かったです。個人的には「青い金魚鉢」が好きです。情景が美しいと思いました。

すあま:私はこのタイプの話が苦手で、最初の話から読むのがつらかったです。怖さというよりも、悪意がむきだしなところや、最後に救いがあるのかと思ったら、あるような、ないようなところも、読みづらかったんです。「果ての浜」まできて、これを描きたかったのかなと思いました。夜叉神川をモチーフにしているので、出てくる子どもたちの間に何かつながりがあったらおもしろかったかもしれません。読み手を選ぶ話だと思うので、うまく手渡すことができれば、合う子もいるのかなと思いました。

しじみ71個分:この物語の中ではすべての登場人物が、改心するどうかはわからないまま、オープンエンドになっていますよね。で、主人公の子たちは人間の善性に対して祈るだけなんですよね。実際に、祈っても悪意から帰ってこられない人はいっぱいいるわけで、そこがオープンになって結末まで書かれていないところがミソだし、リアリティなんじゃないかなと思います。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年04月 テーマ:おいしそうなタイトルの本

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『2022年04月 テーマ:おいしそうなタイトルの本』
日付 2022年4月19日
参加者 アンヌ、エーデルワイス、オカピ、カタマリ、サークルK、さららん、シア、しじみ71個分、西山、ネズミ、ハリネズミ、ハル、ヒトデ、雪割草、ルパン
テーマ おいしそうなタイトルの本

読んだ本:

『サンドイッチクラブ』表紙
『サンドイッチクラブ』
長江優子/作
岩波書店
2020.06

〈版元語録〉珠子はダブル塾通いをする小学6年生。ぼんやりむかえた夏休みに、無心に砂像を作るヒカルと出会う。強烈な個性をもち、成績もトップクラスのヒカルは「戦争をなくすためにアメリカの大統領になる」という。家庭環境も性格も異なるふたりの少女が、たがいを受け入れ、まっすぐに世界と向きあっていく姿をさわやかに描く。 *2021年度小学生高学年読書感想文課題図書 *第68回産経児童出版文化賞〔フジテレビ賞〕
『タフィー』表紙
『タフィー』
原題:TOFFEE by Sarah Crossan, 2019
サラ・クロッサン/作  三辺律子/訳
岩波書店
2021.10

〈版元語録〉父さんの暴力から逃れ、家を飛びだしたアリソン。古い家の納屋に身を隠すが、家主のマーラという老女に見つかってしまう。認知症のマーラは、彼女を昔の友人・タフィーと間違えているようで――。孤独を抱えたふたりが出会い、思いがけない同居生活がはじまる。カーネギー賞作家が詩でつむぐ、友情と再生の物語。

(さらに…)

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タフィー

『タフィー』表紙
『タフィー』
サラ・クロッサン/作  三辺律子/訳
岩波書店
2021.10

カタマリ:詩の形態のYAを読むのは『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ著 青木千鶴 訳 早川書房)以来でしたが、やはりこちらもとても読みやすかったです。話があっちこっちに行ったり、時間が前後したりしても、詩だとわかりやすいですね。正直、文章のインパクトといい、詩の言葉の力といい、『エレベーター』のほうがより力強いかなと思いました。が、こちらの本も、読んでいくにつれ、彼女のやるせない想いが波のように次々と押し寄せてくるのが伝わってきて、せつなく感じました。最後、希望のある終わり方でよかったです。ただ、自分の年齢のせいか、アリソンだけでなくマーラの視点にも立って読んだのですが、そうすると後味の悪い物語なんですよね。認知症だからこそ感じる恐怖があると思うのですが、アリソンはそれを増幅させています。マーラが混乱していても「すぐ忘れちゃうから」とアリソンが軽く通り過ぎる場面がありました。アリソン自身いくら大変な状況にあるとはいっても、ちょっと若さゆえの残酷さだなあ、と。なので、アリソンがいたことでマーラも救われた、というニュアンスのエンディングが少しご都合主義だなと思いました。

ヒトデ:ラップのリリックのような文体に惹きつけられながら読みました。以前、『エレベーター』を読んだときにも感じたことですが、散文、詩の形式で語られる一人称の物語って、すごく「入ってくる(=自分のものとして読める)」気がします。そうしたわけで、アリソンの絶望的な状況とか、たくましさとか、そのなかでちょっと見えてくる希望とか、ユーモアとか、自然の描写とか……そんなアリソンを通して見えてくるあれこれが、胸に迫ってきました。父親の暴力の描写は、本当につらかったです。日本でも、この形式の物語があるといいのになと思います。「一瞬の出会い」という詩が、『サンドイッチクラブ』(長江優子著 岩波書店)っぽいなと思って読みました。

ネズミ:詩で綴られた形式というのが、新たな発見というか、こういう書き方があるのだとショックなほどおもしろかったです。横組みというのも、短い文章に合っていると思いました。散文で書くと論理性が必要で、整合性を持たせながら順序よく語っていかなければなりませんが、これは短い詩で、断片的だからこそ、時間も場所も自由に出たり入ったりできるんですね。ハードな内容もあるストーリーですが、読んで苦しい場面が続くのを避けられるという利点も。行ったり来たりしながら、だんだんと深く入りこんでいく感じがとてもよかったです。『詩人になりたいわたしX』(エリザベス・アセヴェド著 田中亜希子訳 小学館)や、『わたしは夢を見つづける』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 小学館)も、詩の形式でおもしろく読みました。

オカピ:アリソンは父親から虐待を受け、知り合ったルーシーには利用され、マーラの家も荒らされてしまいます。暴力にみちた世界で、砂の城とか、死んでしまうクロウタドリとか、喪失のイメージが重ねられていきます。アリソンもマーラも、手からこぼれ落ちていくものを必死でにぎりしめていますね。アリソンは父親の愛情をあきらめきれず、マーラは記憶を失いつつあって、娘のメアリーが死んでしまったことは忘れているのに、娘がいたことは忘れられない。アリソンの父親は、妻の死にとらわれたままでいる。物語は、アリソンは勇気をもってみずから手を放し、新たな人生を生きはじめるところで終わっています。それが、ヘレナの誕生に象徴されているように感じました。訳もよかったです。日本語の本にしたとき違和感がないように、改行や文字組が工夫されていると思いました。1か所、違うかなと思ったのは、あとがきの「~も詩人による詩形式の小説だ。今年(2021年)もその傾向は変わらず、カーネギー賞はジェイソン・レナルズのLook Both Ways が受賞」という箇所です。前に読んだことがありますが、これは詩で書かれてないので。

ハリネズミ:散文詩だけど、ストーリーがはっきりしていておもしろいと思いました。ただ時間軸が行ったり来たりするので、対象年齢は高校生くらいでしょうか。父親の暴力に怯えて家出をしたアリソンと認知症のマーラが出会うわけですが、ふだんの日常だとまず出会わないふたりが出会うというのが新鮮。その過程でアリソンはだんだん自分の仮面を取っていくし自分の話もするようになって、素の自分に戻っていきます。それも、読者にはよく伝わってくるな、と思いました。さっきマーラの目から見てどうなのかという話が出たんだけど、私もそこは引っかかりました。だれかがそばにいて自分のことを気にかけてくれているのはいいと思うんですが、マーラが最後に行くのは、たぶん孫が住んでいるところの近くにある施設ですよね。でも、この孫のルイーズはお話にほとんど登場しないし、会いに来てもいない。もし著者がルイーズにとってもハッピーエンドにしたいのであれば、このルイーズをもっと登場させておいたほうがよかったのに、と思いました。アリソンは非常に知的な女の子なんですが、16歳になっているのに、父親のことを客観的に見ることができていないのはちょっと不思議。父親については暴力をふるっている場面が多く、いいお父さんの部分は少ししか描かれていない。そうすると、なんでこの子はここまでガマンしてるんだ、というふうに読者は思うんじゃないかな。あとがきのp411「描いてみせた」は、当事者も読むことを考えると、私はひっかかりました。

エーデルワイス:表紙がいつもと反対で中身は横書き。縦書きではないのでドキリとしました。そのうち文章が『詩』の文体で、横書きであることの必然性が分かりました。あとは読みやすかったです。タフィーだと思い込んでいるマーラが切なくて、愛おしい。生きていくには生活が大切です。トフィーことアリーが食べ物を買うためにアルバイトを引き受けたり、家の中を整えたりと具体的に書かれていて好感を持ちました。「トチの実は落ちて・・・」(p.145)のところですが、盛岡市に中央通りというメインストリート(夏の『さんさ踊り』パレードがあるところ)があって、そこはトチの並木道になっています。6月頃マロニエの花が咲き、秋になるとトチの実がバラバラと落ちてきます。頭上に注意と立て看板がでます。私もよく拾いにゆきます。そんなことを思い出しました。

雪割草:いい作品だと思いました。詩の形で綴られた小説には、はじめは違和感があったけれど、だんだん慣れてきて、この形式自体が若者の声を象徴していて、若者は親近感が持てるのかなと思うこの頃です。この作品では、散文詩のぷつぷつと場面が切れる、内的独白の調子が、主人公の置かれた状況の厳しさに合っていると思いました。虐待を受け、守ってくれる大人がいない主人公の女の子と、認知症で家族にも厄介者扱いされている高齢の女性と、2人とも心のどこかで誰かの助けを必要としている気持ちがあって、心を通わせるのがよく描かれていると思いました。そして、主人公が父親から逃れて、携帯をなくし、現実から距離を置いていた時間と、認知症で心がどこかに行ってしまうマーラの時間と、ある意味、2人は特別な時間の中で出会い、一緒に過ごすという描き方も上手だと思いました。「自分の悪いところ、わかってる?そうやってくだらないことばっかり、言ってるところよ」(p.266)など、マーラの放つ鋭い一言もよかったです。エンディングは、大きくはないけれど、ささやかな希望が感じられて、こうしたささやかな温かいことの積み重ねが人生なのかな、と読者も受け取れるのではないかと思います。

アンヌ:横書きだからとためらっていたけれど、読み始めたら止まらず、一気読みでした。認知症の合間に蘇る若いマーラ、恋をしたりダンスをしたりした、一人の人間としてのマーラが見えてくる過程を、時間を行ったり来たりさせながら描いていくところは素晴らしいと思いました。詩ならではの短い言葉による暗示は読者の想像力を駆り立てるし、アリソンがこの家にいるのがいつばれるだろうというスリルもあって、ドキドキしながら読み進みました。それと同時に、アリソンのやけどの理由、父親のDVや、どう見ても悪だくみをしそうなルーシーとの関係は予想がつくから、ページをめくるのがつらいけれどやめられないという感じでもありました。透明人間みたいだったアリソンが、マーラの怪我の後に、きちんと他の大人にも対応できる場面を見ると、尊厳を取り戻したんだなとわかってホッとしました。最後の詩は、かけがえのない友人同士となった2人の別れの場面ですが、マーラが自分を忘れてしまう悲しさと、忘れる自由もある事を歌っているのようにも思えます。詩というのは読み返すとそのたびに違う顔を見せるものだから、もう少し年を取ってから又読みなおしてみたいなと思いました。

サークルK:横書きの体裁でも『エレベーター』を読んで慣れていたこともあり、すんなりお話に入っていくことが出来ました。空白の多い詩の形式ではあるけれど、中身が詰まっていて散文を読むような感覚でストーリーに引き込まれました。以前読書会で読んだ『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール著 河野万里子訳 ポプラ社)が散文であるにもかかわらず詩的だな、と思ったことを対照的に思い出しました。父親の暴力から逃れられないアリソンの様子は凄惨すぎて胸が詰まりましたが、実際日常的に暴力を受け続けてしまうと、気力がなえて抵抗できない状態に陥ることがある、と聞いたことがあるので、彼女の場合もそうなのではないかと推察します。それでも彼女は繊細で頭が良く、認知症のマーラが、時々ドキリとするようなことを直言し(「顔はどうしたの」)その一言を糸口にして、すべてを語ってしまいそうになるアリソンの心模様に共感できました。最後に父親にやられたことをアリソンが正直に言うことが出来て良かったです。認知症の当事者と虐待の当事者という全く違う世界を背負っている2人なのに、なぜかリンクしている世界が描かれていることが素晴らしかったです。

しじみ71個分:散文詩で全編が構成されている作品を読むのは初めてでした。ですが、非常に物語性が豊かなので、普通の物語と同じように筋を追ってすんなり読めました。言葉をギリギリまで絞り込んで、主人公から吐き出される気持ちのエッセンスを抽出して描いているように思います。なので、主人公の切迫した心情や痛みが、ダイレクトに響くので、読んで痛くて、つらいところはありました。アリソンは、父の暴力から逃げて、認知症のマーラの家に無理やり入り込み、彼女の世話をしながら生活しますが、介助の人や息子が家を訪れたときには見つからないかと読んでハラハラし、この秘密の生活がどうなるかというスリルもありました。アリソンは、マーラの昔の友人で、すてきな女の子だったタフィーの幻影を借りて、マーラの前で生きていきます。それは親から暴力を受け続け、存在を否定されたことによる自己の喪失を象徴しているのかなと思いますが、読んでいて本当に悲しくつらいと思ったことでした。マーラも認知症で自分が自分でなくなっていく恐怖やつらさを抱えているので、2人の間にはそこに共通点があるのですね。記憶が行ったり来たりする中で、マーラの元気だったときのエピソードが見え隠れしますが、認知症になる前は、おおらかで朗らかな女性だったことがだんだん見えてきて、マーラの温かさや包容力で、アリソンは救われていく様子が分かります。火傷の痕について、マーラに「顔をどうしたの」と聞かれて、1回目は答えなかったアリソンが、2回目に同じことを聞かれて父さんにやられた、と素直に答えたのに対し、マーラが「あなたは何も悪くない」というシーンは胸にしみました。マーラとの暮らしと、ルーシーから頼まれた裏バイトでお金を稼ぐことで、だんだんアリソンには自己肯定感が生まれてきます。アリソンの視点からだけで語られているので、マーラが何をどう考えているのかはつぶさには分からないのですが、アリソンが次第にマーラに対する愛情を深めていき、クリスマスツリーをつくってあげようと考えたところで、改行の工夫で、詩がクリスマスツリーの形になっている(p.317)のは、アリソンのうきうきした楽しい、やさしい気持ちを視覚的に表しているんだと思って、かわいいなと思いました。稼いだお金でマーラが好きなジャズシューズを買ってあげるのも素敵です。結末に向かっていくところですが、ケリーアンが病院で産気づき、それをマーラがさらりと受けてナースコールを押す場面や、パートナーや家族のいない出産におびえるケリーアンを、「みんなひとりきり」といって慰める場面もマーラの強さと魅力を存分に物語っています。そして、最後に、マーラがそれまでタフィーと混乱して認識していたアリソンを、アリソン自身とちゃんと認識して、名前を呼びかけたことで、アリソンが自己の存在を肯定し、自分を自分として認められるようになりますが、そのことを語る「わたしはアリソン」という詩は、物語のクライマックスとして大変に感銘を受けました。3人のこれからがどうなるかという結末ははっきりとしませんし、おそらく施設に入るマーラと、ケリーアンと赤ちゃんと3人で暮らすだろうアリソンたちのそれぞれの人生が本当にうまくいくのか、いかないのかは分からない微妙な感じで終わりますが、登場人物たちに希望を持って、がんばってほしいと思ってしまいました。

西山:いちばんびっくりしたのは、最後に訳者あとがきを読んで初めて、これが「詩」だということを知ったことです。自分にびっくりです。確かに見た目は詩形式ですが、いまどき、1文ごとに改行している作品もあるし、一人称でほぼ心の声でできているような作品にもなじんできたので、その類いかと……。つまり、「筋」と「意味」ばかり追う読み方をしてしまいました。(追記。読書会中は「散文詩」と言われていましたし、自分も使ったと思いますが、これは「散文詩」でしょうか。「散文詩」というのは、見た目は完全に、普通の小説のような感じで、でも、イメージの飛躍などで、明らかに言葉の質が一般的な散文とちがうものと認識していました。) その「筋」「意味」で特に新鮮だったのは、認知症の現れ方で、幼女のようになってしまうのではなく、性欲というのか、異性への意識が出てくる部分です。p.255ページからの「紅茶とカップケーキでおしゃべり」で若者のお尻に注目しているし、p.371からすると、付き合っていた「変わり者のじいさん」は妻子持ちだったんですよね。断片的に見えてくるマーラの人生が興味深かったです。

ハル:いま、海外小説ではこの散文詩の形態がトレンドだということで、1度みんなで読んでみたいな、というより、皆さんに読み方を教えていただきたいなと思っていました。私自身は、「詩」というものにあまりなじんでこなかったので、詩の定義ってなんだ? と思っていましたが、何冊か読んでみて、ようやく、こういう形態でこそ表現できるものがあるんだな、というのがわかりはじめてきたところです。「詩」というと、美しく包んで飾っているようなイメージがありましたが、タフィーの物語は、この形でこそ、むしろ飾らず、うそいつわりのない言葉で綴れるんだろうなぁと思います。なんというか、そのとき、そのときの気持ちに素直で、読者としても整合性を気にせずに受け止められるというか。ただ、私は頭がかたいので、やっぱり縦書きで読みたいなぁと思いながら読み始めましたが、最後のほうでクリスマスツリーが出てきたので、だから横書きだったのか、と納得しつつ、ちょっと笑ってしまいました。もっとも、途中からは縦書きか、横書きかなんて、気にならなくなっていましたが。

ルパン:内容はとてもおもしろかったのですが、正直、私は詩の形式でなくふつうの物語形式で読みたかったです。タフィーがどんな人物で、マーラとどういう関係だったのかとか、もっともっと具体的に知りたい、と思うところがたくさんあって。あと、p.38みたいな形式が何か所かあるんですが、先に左の列を縦に読んでしまい、それから右の列に行ったので、わけがわからなくなりました。これは各行を横に読むべきなんですね。それがわからなくて読みにくかったです。

ネズミ:どっちから読んでもいいように書いているんじゃないかな。

ハリネズミ:ここは、ホットクロスバンていうイースターに食べる、十字が入っているパンの形になっているんだと思うけど。

ルパン:あと、地の文と、だれかのせりふの部分で字体を変えているようですが、それも目立った変え方ではないので、ずいぶん読み進めてから初めて気がつきました。

ハリネズミ:原文はイタリックなんでしょうね。日本語の本ではイタリックは読みにくいしきれいでもないので、普通は使いませんよね。で、イタリックにしただけじゃわからないから太字にしてるのかも。日本で出すならカギカッコにしてもいいのかも。

ルパン:同じ行に2つの字体が入り交じっていたりしますよね。

ハリネズミ:原文どおりなんでしょうね、きっと。日本語版はもう少し工夫してもよかったのかも。

ルパン:ところどころ、せりふは字下げで始まる場合もあるんですけど、そうでないところもあり、まちまちですよね。たとえばp.81は、父さんのせりふは字下げがなく、ケリーアンのせりふは字下げがあり、その次の地の文もそのまま字下げに頭を合わせていて……そういうところが、ちょっと気になりました。

シア:散文詩形式の本は珍しいので、目新しさを感じました。でも読むと普通に読みやすくて、一気に読めました。とはいえ、かなり重い内容なため、こういう形式だと情緒的になるので、さらに苦しさが増すような気もしました。そこも狙いだと思いますが。短い文章が続くので、生徒など若い世代には更に読みやすいのではないかと思います。ただ、本の見た目が分厚いので、そこをどうクリアさせるかが問題ですが。貧困やDV、キャラクターの掘り下げは、さすが海外作品らしい切り込みの鋭さがありました。その辺りは長江優子さんの『サンドイッチクラブ』とは一線を画していますね。とにかく、子どもたちがポエムというものに触れるには良い本だと思います。表紙もオシャレで素敵な作品でした。表紙の女の子の顔に葉っぱついてるよ、と思ったらとんでもなかったって話ですが。

ハリネズミ:アメリカで賞をとる作品は、今、散文詩の形式の物が多いですね。時間軸でしばられず、パッチワークのように書いて全体像を浮かび上がらせることができるという特徴があるようです。あと認知症にもいろいろな段階があって、まだら認知症の人は、意識がはっきりしている時とそうでない時があるようです。昔に戻って若い頃の自分が出てしまったりする人、子どもに戻ってしまう人もいるらしいですね。マーラも、その状況なので、認知機能が戻ったときはきっとつらいのではないかしら。

ネズミ:私は、この本の中では、マーラがアリソンと最後、ダンスを披露するシーンが好きでした。

ルパン:私は、時計をルーシーに盗られてしまったあと、マーラが、それがあった場所をじっと見つめたまま何も言わない、というシーンは、せつなくて本当に泣きそうになりました。

西山:ちょっとうかがっていいですか? これが「詩」だと分かっていたら、改行ごとに間を置いたりして、もっと違う受け止め方ができたのにと反省していて思いついたのですが、こういう作品、欧米では朗読する機会など多いのでしょうか? これ、声に出して読み合ったらおもしろそうだと思いまして。

ハリネズミ:学校で詩を声に出して読むことはよくあると思うし、著者が学校を訪ねて自分の散文詩作品を読むこともしょっちゅうあるかと思います。

オカピ:『詩人になりたいわたしX』(田中亜希子訳 小学館)の著者のエリザベス・アセヴェドは、自身もポエトリースラムをしていますよね。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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サンドイッチクラブ

『サンドイッチクラブ』表紙
『サンドイッチクラブ』
長江優子/作
岩波書店
2020.06

アンヌ:表紙も題名もおいしそうだったのに、残念ながらサンドは砂でした。それでがっかりしたせいか、おもしろく読めませんでした。特に勝田家の兄弟が苦手で、弟のアイネとハイネたちは傍若無人で、葉真(ヨーマ)もヒカルに「一生負け犬だ」なんて言う。彼の言動を「すがすがしいほど自己中心的」なんていう風に肯定的に感じられませんでした。砂像作家のシラベさんは、ホッとする人格で、最後に「きれいなのは砂が砕かれた地球の一部だからじゃないかな。ひと粒一粒にこの星の誕生から今日までの記憶が宿ってるんだ」(p.236)なんて、心に残ることを語ってくれて、砂は悪くないと思えました。物語の舞台は高級住宅地でしょうか? 500円のクロワッサンが飛ぶように売れて、2つの塾に通わせて私立校を受験させる親がいる安全な場所。そこに、シラベさんの海外での体験や現実の隣国のミサイル実験から、ヒカルの祖母の「戦争はまだ続いている」という言葉が現実として入り込んでくる。けれど、その戦争に関する意識がヒカルや珠子のなかで、どうなって行くのかわからないまま終わっている気がしました。

雪割草:あまりおもしろいとは思えませんでした。さわやかで、砂像というアイディアはおもしろかったけれど、キャラクター設定が漫画っぽい感じがしました。葉真が好きなことがわかっていて、それをやるんだと決めている姿は気持ちよく映りました。でも、家族みんなアーティストで、だから自分もアーティストになるんだという決め方にはなぜ?と思いました。それから、ヒカルがおばあちゃん子なのはわかるけれど、戦争のかぶれ方が極端だと思いました。最後までお母さんも登場せず、ヒカルはどんな家庭の子なんだろうと気になったので、もっと早く家族関係を描いてほしかったです。そして、主人公の珠子の心の整理を受験や塾で表現するのに違和感を覚えました。実際、今の子はこうした環境に置かれているのかもしれないけれど、いいとは思えませんでした。

エーデルワイス:前に読んだきり内容を忘れて慌てました。主人公の珠子とヒカルの対比がおもしろかったです。ヒカルはおばあちゃんの影響が大きくて、おばあちゃんの言葉に囚われているようで心配になりました。現代は塾が大きく存在を発揮して、塾は当たり前のこととして書かれているので、改めてそうなのかと思いました。小学校6年生女子の会話がまるで中高生のような会話に聞こえ、ずいぶん大人びていると感じました。砂の彫刻について知らなかったので、そこが新鮮でした。

ハリネズミ:ずいぶん前に読んだので印象が薄れているのですが、この本は小学校高学年の感想文の課題図書なんですね。私がおもしろいと思ったのは、見えているものだけで判断しないほうがいい、という考え方がずっと一貫しているところです。それと、著者が今の子どもと、歴史とか外の世界を結びつけようとしているのもいいな、と思いました。砂の彫刻については私も知らなかったので、へえ、そうなんだと思ったし、時間をかけてていねいに作ったものでも崩れてしまうとか崩してしまう、というところもおもしろいですね。ヒカルが戦争にここまでこだわるのは、もちろんおばあちゃんの影響もあるのでしょうが、私も少し疑問に思いました。キャラクターは、あえて少しずつデフォルメしているのだと思ったので、リアリティに対する違和感はあまりありませんでした。

さららん:タイトルのつけ方が秀逸で、読むまでは、ずっとサンドイッチの話だと思っていました。目次の言葉選びにも意外性があって、読者を惹きつけます。作者は、少しずつずらしながらイメージの関連性をつくるのがうまくて、例えば珠子がタマゴと呼ばれ、そのタマゴの持ってきたのが「ポンデケージョ」という丸いパン。そのパンも小道具として効果的に使われていますね。ヒカルの家の「漂白剤」の匂いも、ヒカルや祖母の潔癖さの象徴のように感覚に残りました。そして砂像づくりという、まったく知らないアートの世界を通して、子どもたちの成長を伝える点がとにかくユニーク。違う時間軸の中に生きるシラベさんと出会えたことが、人生の岐路にある子どもたちにとって、大きな意味をもちますよね。お金はあるけど、やりたいことがわからない珠子と、貧乏だけれど、頭がよくて、「大統領になったら、戦争のない世界を作りたい…(中略)…世界があたしを置きざりにするつもりなら、ダッシュして先頭に立ってやる」というほど、つっぱったヒカル。2人の立場もキャラクターは対照的で、この2人にちゃんと共感できれば、勝田葉真との砂像づくり対決の物語に夢中になれるはずなんですが、2人の切実さに私はいまひとつ、ついていけなかった。作者には、社会にまず伝えたいメッセージがあり、それに合うキャラクターを持ってきてドラマを作ったのではないかと感じてしまったんです。最後の頁のタマゴの思い、「変わらない景色の中で、砂はたえず動いている。毎日は同じことのくりかえしのようで、そうではないはず。見えない変化が積みかさなって、新しい自分になっていくはず。明日のわたしは今日のわたしじゃない」(p.237)は、少しまとめすぎに感じられ、お話全体の中でこのことを感じさせてほしかったです。このセリフは、ややテレビドラマ寄りだと思いました。

オカピ:塾と学校という、狭い世界で生きていた珠子は、新たな友だちと砂像彫刻に出会い、視野を広げていきます。シラベさんが海外で、銃弾や赤ちゃんのおしゃぶりを砂の中に見つけたという話を聞く場面では、近所の公園から、戦争や難民の問題につなげているのがいいなあと思いました。ペンギンの骨格を調べ、それを砂像づくりに生かすのは、それまでやらされていた勉強が、知りたいことに結びつく瞬間ですね。ヒカルが「ケンペー」という言葉をよく口にするのは、少し違和感がありました。もし今の時代に戦争が起きて、憲兵のような人たちが出てきたとしても、それはべつの名前になるだろうから。p143にあるように、ヒカルは「心だけ別の世界に行ってしまう」ということなのでしょうが。

ネズミ:中学受験や塾に行くのが前提になっている日常というのが、今の小学生にはあたり前のものなのかなと思いながら読み始めました。地方でもそうなのでしょうか。

エーデルワイス:東京とは違い、私が住んでいる地方では、私立中学受験がないわけではありませんが、少ないです。小学生は『くもん』に通っていますね。

ネズミ:そうなんですね。小学6年生にして進路選択を迫られるとこうなるのかもしれませんが、ヒカルや珠子の心持ちや人物像を私は今ひとつはっきりととらえられず、物語に入り込めませんでした。だからか、作者がいろんな問題意識を読者に投げかけているのは好感を持ちますが、やや全体にごつごつした印象というか、取って付けたような感じがしてしまいました。たとえば、p133の、マルタ島の赤ちゃんのおしゃぶりに始まる難民の説明とか。思いがけないところで私たちのすることは世界につながっているというのを、作者は示したかったのかもしれませんが。

ヒトデ:「砂像」というテーマに、著者のセンスが光っていると思いました。タイトルの付け方も魅力的で、著者ならではのものだと感じました。「現代の子どもたちに、戦争のことをどう伝えるか、どう考えてもらうか」という難しい課題に、ハムと祖母とのやりとりや日常に影を落とすように出てくる「ミサイル」という装置を使いながら、この物語ならではの方法でアプローチしているところがいいなと思いました。現代が過去とつながっていること、戦争が決して、断絶した「過去」の話ではなく、現代そして未来にも起こり得るものであることを伝えているところが、とってもいいと思いながら読みました。

カタマリ:初めて読んだときは、砂像の話に引き込まれつつ、要素がいろいろ盛り込まれ過ぎているため、少し散漫かなと思いました。今回再読したときは、散漫には感じず、とてもおもしろく読みました。砂像のはかなく消えてしまう、という特質が物語全体にいい味をもたらしています。登場人物の女の子たちの書き分けもうまいなと思いました。塾で女の子たちがわちゃわちゃ会話していても、誰かと誰かがごっちゃになることもなく、スムーズに読めました。敢えて1つ言うとすれば、砂像バトルが盛り上がりに欠けるんですよね。それは、大会などではなく、私的な勝負だからということもあるのですが、いちばんの理由は、主人公とヒカルは成長しているのに、ライバルの葉真が成長していないからではないかと考えました。最初からすごくできる人で、ずっと似たものを作り続けているんですよね。彼が壁を突き抜けてさらに成長するシーンがあると、主人公たちの頑張りも際立つのかなと思いました。

シア:砂像アーティストというのを知らなかったので、おもしろく読みました。受験期の子どもがストレスから別のものにハマるという話は多くありますが、この本は保護者が適度な距離を持って接している理想的な形だと思いました。そのため、主人公はそれを理解したうえでゆとりを持って自分の進路を考えることができました。現実ではなかなかこうはいきまません。実際、中学説明会の教師ひとりの面談で決めるというのは微妙ですしね。だからそういった意味でもフィクションな面が強いし、戦争や貧困などいろいろな問題も盛り込まれていましたが、どれもふわっとさせていて、なんとも小綺麗なまとめ方をしたなと思いました。まあ、そういうのは嫌いじゃないので、それはそれでありかなとは感じました。まるでサンドイッチの断面のような、作られた美しさではありますが。「サンドイッチクラブ」という題名も“サンド”と“砂”とひっかけていて、ここも上手くまとめていますね。

ルパン:これは、申し訳ないけれどおもしろいと思えませんでした。いろいろ盛り込まれているんですが、何もかも中途半端な感じで。砂像、中学受験、経済格差、ミサイル問題、友人関係……。唯一筋が1本通っているのは葉真かな。「教室の中でじっとしていられないから外に出て砂像をつくる。そして世界的なアーティストになる」という。でも、それも、誰かに何かを伝えたいとか、何かを主張したい、という感じではなくて、ただ有名になりたいだけみたいだし。それでも、よくわからない方向転換を繰り返すヒカルや珠子よりはましかな、という気がしました。葉真の弟たちもなぜふたごの設定なのかよくわからない。このお洒落な名前を出したかっただけかも、と思っちゃいました。ただ、砂像というのはいいモチーフだと思いました。検索したら、すばらしい砂像がたくさん出てきて、感心しました。砂像の迫力とはかなさの魅力をもっと物語の中で活かせたらよかったんじゃないかな、と思いました。

ハル:いろいろな要素がからまっていて、とてもおもしろかったけれど、すごく上手かといったらそうでもないような。ところどころで「どうしてこういう表現になるのかな?」と浮いてしまうような部分もあり、それは私の読み込みが足りないだけじゃなくて、書き込みも足りないんじゃないか……という感じがしました。印象に残っているのは、「世界にはばたくリーダーとなれ」なんてスローガンをかかげている学校の先生が、とてもいい大人だったこと。ヒカルのような子がいる一方で、珠子のように、将来の夢なんてわからない、という読者のことも、それでいいんだと包んでくれて、とても心強く思いました。もうひとつは、ヒカルのおばあさんは、実は戦争を体験していなかったというところ。隔世の感がある、と言うと語弊があるかもしれませんが、ぞくっときました。呪いのように残り続ける憎しみこそが、次の戦争の種になるんだということでしょうか。

西山:どうも腑に落ちない……。長江さんは他の作品でも戦争をめぐる題材を持ち込んで書かれていて、それ自体は賛成だし、題材の選び方も珍しかったりするし、そういう問題意識には共感するのですが、作品というまとまったイメージとして、捕まえ切れません。なんでだろう……。たとえば、ヒカルは最初アニメ的なエキセントリックな設定と感じたのですが、おばあちゃんの呪いに囚われていて、ミサイルへの異様なまでの危機感(危機感を持っていない方が「異様」とも言えると思いますが)とか、その辺がアンバランスで、どう読めばよいのかよくわかりません。ヒカルにさんざん戦争体験を語り聞かせていた祖母が実は戦後生まれだと知った後の、「たぶん、昔話として孫に戦争を語っても、伝わらないって思ったんじゃないかな。自分が体験したように話したほうが迫力でるでしょ」(p55、1行目)は、相当強烈な皮肉と平和の語り方に対する問題提起になっているけれど、この件はこれで放り出されているまま。戦争に怯えているヒカルの状態は病的と言って良いほどだと思いますが、それもほったらかされている。ヒカルは自分に敵対する言動に対する反撃として「ケンペー」を口にしますし、「そうだね。あたしたち、シャベルの使い方がうまいから防空棒を掘るときに重宝されるよ。ケンペーだって、あたしたちに一目おくにきまってる」(p142-143)ともあって、憲兵が味方みたいな位置付けなのも腑に落ちません。おばあちゃんは「戦争体験」どんなふうに伝えたんだろうと。すごくアグレッシブに問題提起しているんだろうけれど、つかみあぐねる感じです。絶妙な表紙絵ですし、ハムとタマゴで「サンドイッチクラブ」なのも楽しい仕掛けではありますが、おいしそうなサンドイッチの話でないことにがっかりする子どももいると思います。小学生の頃、吉田としの『小説の書き方』(あかね書房)が、全然「小説の書き方」の本じゃなかったことにがっかりした経験を思い出しました。

しじみ71個分:この本は再読ですが、料理に関する本かなとタイトルで手に取りましたので、「やられたな(笑)」と思った記憶があります。1回目に読んだときは、砂像を作る話だという以外は、あまり印象に残っていなかったのですが、JBBYのイベントで、長江さんのお話を伺い、こういうことを考えておられる作家さんだったのかと思い、今回、興味を持って改めて読み返しました。はじめて読んだときは、メッセージを伝える素材である砂像から世界が見えるということや、戦争のイメージを刷り込まれた子どもが登場するなどということはあまり記憶に残らなかったのですが、読み直すと、少し作家の考えやメッセージがストーリーから飛び出している感じを受けました。なので、背景やら、物語の彩りの部分を除けば、珠子という主人公の朗らかな女の子が、ヒカルと出会ってサンドアートを体験し、自分で自分のことを考えるようになり、孤独だったヒカルも友だちを得て、日常とのバランスを取り戻していく、というシンプルな友情の物語だな、という印象です。サンドアートはおもしろい着眼点だと思いますが、世界や戦争などの要素が、2人の少女たちの関係や心持ち、成長といった物語の柱に対して、それほど効果を生んでいないのかなという気もしました。表現はところどころ、とてもいいなと思いました。たとえば、ヒカリがライオンの砂像にまわし蹴りをくらわすところで、「ふりあげた足からビーチサンダルがぬげて、雨の中をロケットみたいに飛んでいく。」(p.42)とか、「光の粒子がまぶたをすりぬけて、星のように暗闇の中でチカチカとまたたいている。」(p.128)とか、体感的ですてきな表現がありました。美しい表現をされる作家さんなので、これからの作品にも期待しています。

サークルK:受験を控えた6年生女子のモヤモヤが言語化されていて、受験することがつらくなって逃避していく展開なのかと思いましたが、砂像をめぐる新しい友人たちとの出会いによって自分を見つめなおす機会が生まれていくという物語になっていたのだとわかりました。(ただ、夏休みをここまで使ってもう1度受験勉強生活に戻っても、時間的に間に合うのだろうか、やる気だけでは乗り切れないのではないのかという現実的な心配がありますが。)p.57ページのヒカルの独白は、2022年4月の現在に起きているウクライナでの戦争を踏まえれば、より一層重いものと受け止めました。ヒカルが、だからアメリカに行きたい、と短絡的に発想する所には、世界を救うために飛び出していく行先がやっぱり欧米が主体になってしまうのだな、と少々苦笑してしまいました。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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マリー・キュリー

デミ作『マリー・キュリー』表紙
『マリー・キュリー』
デミ/作 さくまゆみこ/訳
光村教育図書
2022.10

アメリカの絵本。二度もノーベル賞を受賞した女性科学者の伝記です。ポーランドのワルシャワに生まれ、フランスのソルボンヌ大学に学び、フランス人科学者のピエールと結婚し、二人の娘を育てながら研究に邁進したマリーですが、最近のアメリカの伝記絵本は、人間を偉人というよりひとりの人間として描こうとしているように思います。夫のピエールは放射性物質への被曝のせいで体が弱っていたせいもあり、通りを渡ろうとして馬車にひかれて亡くなります。マリーも、被曝障害で亡くなります。

「ラジウムから出る放射線は、病気の治療に役立つこともあれば、人を殺すこともあるのです。科学者たちは放射性物質をつかうときは体を保護するようになりました。しかし、長年のあいだ被曝しつづけていたマリーは、すでに健康をそこなっていました」と本書は述べています。また時計の文字盤などにラジウム入りの夜光塗料を塗る仕事をして健康をそこねた「ラジウム・ガールズ」についても言及しています。

こういうのを訳すときは、一応テキストを訳してしまってから、一般書の伝記を何冊か読みます。そして疑問のある部分を書き出して、さらに調べるようにしています。異論がいくつかあるときは、原書の文章を活かしますが、原書が大きく間違っていることもあるので、要注意です。

彼女についての最近の伝記は「マリ・キュリー」と書いてあるのが多いかもしれません。フランス風の現地音主義をとればマリになります。でも、現地音主義にこだわると、「マリ・キュリ」になります。それはちょっとおかしいかも、と編集の方と相談して、このようなタイトルになりました。

(編集:鈴木真紀さん 装丁:森枝雄司さん)

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2022年03月 テーマ:心に問いかけていくことは

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『2022年03月 テーマ:心に問いかけていくことは』
日付 20227年03月22日
参加者 ハル、コゲラ、花散里、ハリネズミ、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、しじみ71個分、オカピ、キビタキ、サークルK、みずたまり、雪割草、ヤドカリ、(ネズミ))
テーマ 心に問いかけていくことは

読んだ本:

『ラスト・フレンズ』表紙
『ラスト・フレンズ~わたしたちの最後の13日間』
原題:ALL THE THINGS WE NEVER SAID by Yasmin Rahman, 2019
ヤスミン・ラーマン/作 代田亜香子/訳
静山社
2021.06

〈版元語録〉16歳の3人の少女たちはあるマッチング・サイトで出会った。彼女たちの目的は……。衝撃の展開に、ラストまで目が離せない感動作!
『家族セッション』表紙
『家族セッション』
辻みゆき/作
講談社
2021.07

〈版元語録〉普通の家庭に育った千鈴、お嬢様育ちの姫乃、シングルファーザー家庭の菜種。中1に進学する春、3人はそれぞれの親から、「赤ちゃんのときにすり替えられていた。」という衝撃の事実を知らされる。それぞれの家へホームステイをしながら、3人はそれぞれの思いを抱え、悩み、葛藤する。ほんとうの家族とは何か、真の愛情とは――。運命に翻弄されながらも、3人は新しい一歩を踏み出していく。

(さらに…)

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家族セッション

『家族セッション』表紙
『家族セッション』
辻みゆき/作
講談社
2021.07

コアラ:自分はこの家の本当の子どもではないのでは? と私は子どものころ考えたりしていました。血縁の家族か、育ての家族か、というのは、今の子どもが読んでも考えされられる問題ではないかと思います。物語の3人の子どももそれぞれの親も、この問題にしっかり向き合うし、読んでいて引き込まれました。p140の後ろから6行目の千鈴の言葉は、この問題に向き合うことで成長していることがわかります。p167の6行目やp222の4行目など、蟬の声とか朝日とかを、その時の状況説明として効果的に使っているのが印象的で、技術がある書き手だなと思いました。好きな場面はp223の5行目から8行目で、愛されているというのは、心の支えになるし、親が子どもを愛しているということは、態度で示すと同時に言葉にすることも大事だと思いました。あと、タイトルにある「セッション」というのは、うまい言葉だと思いました。その意味は、p158の3行目で「周りの音をよく聞いて、全体の雰囲気に合わせながら、自分の個性を出す。そうすると、そのときの、そのメンバーにしか出せない、いい音楽になるんだよ」と説明されていて、3組の家族がこうなっていくんだというのがイメージできました。ただ、実際のセッションの場面がほんの数行で、あまり活かしきれなかったのかなと残念でした。全体的にはおもしろかったし、いろんな人に読んでほしいと思います。

ハリネズミ:おもしろく読みましたが、いくつかの点でひっかかりました。主人公たちはどの子も自分をしっかりもっているように思えるのに、親たちに向かって「今の家族がいい」とは一言もいわず、姑息な作戦で親たちにそれをわからせようとしています。それがなぜなのか、理解できませんでした。昔は、病院での新生児の取り違えが結構起きていたんですね。著者が参考にしたのは『ねじれた絆』とありますが、このテーマはテレビや映画ではいろいろと取り上げられていますね。私は是枝監督の「そして父になる」という映画がとてもおもしろかったんですね。あの映画の子どもは6歳くらいですから少し違うんですけど、それでも「血縁と一緒に過ごしてきた時間のどっちが大事か」という問いには、一緒に過ごしてきた時間のほうかも、という流れになっています。現代の欧米の作品でも、血縁より一緒に過ごした時間の質のほうが大事、というふうにおおむね描かれている。でもこの物語では、血縁を重んじるという流れになっていて、そこはとても日本的だと思いました。と同時に、これでいいのか、という疑問もわいてきました。

みずたまり: 設定に無理があって、そこを乗り越えないと物語に入れないという意味ではファンタジーだなと思いました。無理があるなと思ったのは、取り違えの部分です。実際にあった事件は、50年前、60年前のことで、現在だったら随所に防犯カメラがあるし、油性ペンで書かれた足の名前が消されてたら、あきらかにおかしいと確認するだろうし、もう少し犯罪が成立した要因をくわしく書いてもらえないと納得しづらいと思いました。でも、それはそれとして読み進めると、先が気になって、3人の反応や感情の揺れが興味深くて最後まで一気に読めました。あって当たり前の家族が揺らぐ、家族とは何か、という問題提起はとてもおもしろく、中学生の読者も考えさせられると思います。ただ、やっぱりツッコミどころもいろいろありました。反抗期の年齢の3人が3人とも、今のままがいいと心から思うだろうか? と気になります。またどの親も、今の子と本当の自分の子と両方大好き、という前提ですが、誰にも愛を注げないタイプの人がいたらどうだろう、とも考えました。

オカピ:お嬢様の姫乃、豊かな家庭ではないけど家族仲のいい菜種など、登場人物は漫画的な印象を受けました。去年『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ/著 土屋政雄/訳 早川書房)を読んだとき、その人をその人たらしめるというか、かけがえのない存在にするのは、その人の中にある何かじゃない、特別なものはまわりの人たちの心の中にある、というのに、真実だなあと思ったのですが、この本のラストの選択はその逆をいっているような。生まれという自分では選べないものを重視するのは、血統主義にもつながる危うさをおぼえました。姫乃のおばあさんは「理由のあるほうを選んだらいい」(p182)といいますよね。「理由のあるほう」という考え方は、日本の社会の同質性をますます強めることになるのでは。あと引っかかったのは、p183「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる。身近な人に、身体的、精神的に暴力をふるう人や、子どもを虐待する人。育児放棄をする人もいる。現に、十三年前、子どもたちをすり替えた犯人は、そういう類いの人間だったではないか。/でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」という箇所です。自分たちは愛情深い人間だけど、事件を起こしたのは「そういう類いの人間」だという、レッテルを張るような言葉に辟易しました。

アンヌ:最初から親は血縁家族に戻ると結論づけていて、その中で子どもたちが納得するのを待っているんだなと思い、自然描写の多さといい、いかにも日本的な小説だなと思いました。男親が血縁主義でそうなったんでしょうか? その割に男性たちの影が薄いですよね。「人生、思いどおりになると信じてきた人にはわからない」(p41)なんていうすごいセリフが出てきたりする割には、菜種が裕福な家庭に移ったことについての感慨や元の家庭についてどう思っているのかが描いてなくて不思議でした。13歳というのは、千鈴のように男性ばかりの家に移るには、きつい年頃じゃないでしょうか? 料理を教えにといえば聞こえはいいけれど、実際には2軒分の家事の掛け持ちになる母親も、看護師の仕事をしながらだなんて、たまらないだろうと思います。それなのに、この2人が中心になってこの取り換えっこを肯定するというのが奇妙な気がしました。題名にもある音楽のセッションも生かされていない気がします。いっそ全員で同じ、楽器OKのマンションにでも住んで、毎日セッションしながら、誰が誰の親か姉妹なのかわからないほどの混沌とした関係を作っていく、なんてほうが納得がいくような気がしました。

サークルK:3人のキラキラネームの女の子たちの性格の違いが明らかで読みやすかったです。p126「うらやましい」「ずるい」「ねたましい」という3つの感覚は思春期の女の子が抱えるモヤモヤした気持ちをうまく状況に即して言語化していると思いました。子どもと同じように大人も迷い悩むことがあるのだ、というところまで描いたことは、よかったです。読者の子どもたちに、大人だからって何でも知っているわけではない、何でも決めてよいわけではないということが伝わるのではないでしょうか。ただ、今回ほかの参加者の方の感想を聞くうちに意見が変わって、血統主義万歳的な結末は確かにおかしいし、『ラスト・フレンズ』と比較してみると3人の子どもたち、親たちが幼く薄っぺらなキャラクターに思えてきてしまいました。

キビタキ:赤ちゃん取り違え事件は一時期結構多かったので、ドラマ化されたりもしましたよね。実際の例を見ても、育ての親を選ぶか生みの親を選ぶか、どちらが本人にとって幸せかは本当にケースバイケースだと思います。どちらにしてもつらい選択であることは間違いありません。ここでは3組の親たちがすんなり同じ結論にまとまって、足並みそろえて同じ方向に向かうところに違和感がありました。夫と妻でも違うと思うし、決断はいろいろあるはずなのに、不自然だと思います。でもこの本は子どもたちが主人公なので、子どもの気持ちのほうに重点が置かれているのでしょう。子どもたちは、最初は全く拒否していたのに、いざホームステイしてみると、少しずつその家族なりのよさを感じ始めますよね。結局この本でいいたかったのは、どっちが幸せか、という選択よりも、家族はそれぞれに違うこと、それぞれの幸せがあることに気づくところにあるのではないかと思いました。この本を読んだ子どもたちは、もし自分がほかの家の子だったらどうなっていたか、と絶対思うでしょうね。自分の親兄弟や家庭のことをあらためて見直すきっかけになるだろうし、ひとの家庭にも、外からはわからない絆や感情があることを知ると思いますから、そういう意味ではおもしろいと思います。
余談ですが、私が小学生のころに読んでとても印象に残っている本に、吉屋信子の『あの道この道』(現在は文春文庫)という少女小説があって、それをどうしてももう一度読んでみたくてつい最近読み返したんですが、それが大金持ちのお嬢様と、貧しい漁師の娘が赤ちゃんのときに入れ替わってしまうという話なんです。お嬢様は高慢ちきで、漁師の娘は清く正しく美しいという、絵に描いたような単純な取り合わせの少女小説なんですが、結構おもしろいんですよ、これが。つまり、こっちの家庭に育っていたらどうなっていたか、というテーマは昔からあって、すごくドラマチックなんですよね。

エーデルワイス:今回の課題図書は2冊とも3人の少女が主人公で、さすがと思いました。赤ちゃん3人の取り違え事件は、難しいテーマと思いました。結末がそれぞれの血縁に戻ることに疑問を持ちます。もっと時間をかけたほうがよいのでは? 親が年をとって介護、財産分与など大人の問題が見え隠れしてきます。この3家族は心優しい人たちですが、もしも、よこしまな親だったり、虐待があったり、はたまたこの3人が男の子だったら……? どうなるのだろうと考えたりしました。千鈴が育ての母親に向かって、自分ではなく実の娘「姫乃を選んで!」と叫ぶシーン(p223)はありえない! と思いました。表紙の絵は3人のラストの場面で清々しいです。今後幸せな人生でありますようにと願いました。

雪割草:どう受け止めたらいいのか、とまどう作品でした。結局、親は血のつながった子を選ぶ。ひょっとして、読んで傷つく子はいないのだろうかと考えました。みんな右ならえで同じ選択をするのはいかにも日本的で、人それぞれという描き方ができなかったのは残念に思いました。わたしもp223で、千鈴が母親に向かって「姫乃を選んで!」という場面は、こんなこと言わせるの? とおどろきましたし、恋愛じゃないのだからと苛立たしくも感じてしまいました。それから、きょうだいの態度も割とあっさりしていて、実際、もし一緒に育ってきたきょうだいが、血がつながっていなかったからとほかの家に引っ越してしまったら、もっと悲しむしもっと複雑な気持ちだと思います。作者は、何をもってどんな子にこの作品を届けたいのか、私にはわかりませんでした。「あとがき」なり、作者のメッセージを入れたほうがよいのではないでしょうか。セッションという発想はいいと思いましたが、どのように家族に当てはめようとしているのか、この作品ではしっくりきませんでした。

コゲラ:『ラスト・フレンズ』とは違い、作者が何を書きたかったのか、さっぱりわからない本でした。単に、取り違え事件がおもしろい作品になると思っただけなのかな? 季節を擬人化した文章も陳腐というか、気取っているだけとしか思えませんでしたが、そういう細かいところよりも、とても気になったのは、つぎの2点です。
ひとつめは、ほかの方もおっしゃっているように、最終的には血縁が大事と作者が結論づけているようなところ。血のつながりは温かいものだけど、それによって傷つけられたり、悩んだりする子どももいます。以前、親から虐待されている小学生の子どもが、警察に訴えようとしたのだけれど「血のつながった親のことを警察に言うなんて、自分は悪いことをしようとしているのでは」と悩んで、何日も交番の前を行ったり来たりしたというニュースを見ました。成長すれば、自分は自分、親は親と割りきれるようになるけれど、小さい子どもほど、そういう罪の意識を持ちがちだとも聞きます。「血縁が大事」という考え方のために、救われない子どもや大人が大勢いるのでは? 今は、いろいろな形の家庭があっていいという認識が少しずつですが広まっていて、特別養子縁組制度で子どもを育てている家庭も増えているのに、なぜこういう結末になったのかと、残念な気持ちになりました。親も子も、それぞれの思いや考え方があるのに、文化祭の準備じゃあるまいし、全員一致で決めていいものかと……。
ふたつめは、「犯罪者」に対する作者の考え方です。文中では、取り替えられた子どもの母親、美和子さんにいわせているけれど、文脈からいって作者の言葉と同じと思って間違いないと思います。まず、p46で美和子さんが「犯罪者の中には、全知全能感を持っている人がいるらしい」といっている箇所を読んでショックを受けました。犯罪をおかせば犯人になり、刑を受ければ受刑者になりますが、刑期を終えればわたしたちと同じ市民です。「犯罪者」ではありません。もしかして作者は「世の中には、善良な市民と犯罪者のふたつのグループがある」と思っているのではという疑問がわいてきました。「犯罪者の家族」とか「犯罪者の血筋」といわれて苦しんでいる人たちのことも、頭に浮かびました。そして、p183を読んだときに、やっぱりそうなのかと思いました。ここで美和子さんは「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる……犯人は、そういう類いの人間だったのではないか」といい、「でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」と続け、それが「最初から、あまりにも自然なことだったので、気がつかなかった」といっています。「そういう類いの人間」と「愛情いっぱいの、信頼できるわたしたち」に、はっきり分けているわけですね。以上の2点からいって、いくら軽快におもしろく書かれているとしても、おもしろく書かれていればいるほど、子どもたちに読んでもらいたいとは、とても思えない本でした。

ハル:想像力を刺激される部分や、胸にせまる場面もあっただけに、結末が見えたときには思わず「ええー」と声が出てしまいました。これが大人向けのエンタメ小説だったら文句言いません。子どもの本として、何を読者に伝えたかったのでしょう。実のお母さん、お父さんと一緒に暮らせるのって、当たり前じゃないんだよ、あなたたちは気づいてないでしょうけど、とっても幸せなんだよってことでしょうか? ちょっと意地悪に読みすぎですか? でも、里子、養子、里親、養親、そのほかいろいろな家族や家庭があるじゃないですか。生まれはどうあろうと、さまざまなセッションで家族、家庭は作られていくんだと思いたいです。社会的養護の分野で日本はまだまだ遅れていると聞きますが、ここ最近みんなで読んだ海外作品と比べても、その通りだと思えてしまいました。

しじみ71個分:皆さん既にご指摘のとおり、最終的にあっさりとみんなが血縁関係におさまってしまうのは、納得がいきませんでしたし、何を意図してこの物語を書きたかったのかわかりませんでした。読んで新しいおどろきも発見もなくて……。『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス/作 千葉茂樹/訳 あすなろ書房)、『わたしが鳥になる日』(サンディスターク・マギニス/作 千葉茂樹/訳  小学館)や『海を見た日』(M・G・ヘネシー/作 杉田七重/訳 鈴木出版)など、血縁にもとづかない家族のあり方を翻訳の物語で読んだからかもしれないですが、それらと比べると、主人公たちの気持ちの掘り下げが浅いように思います。赤ちゃん取り違え事件なんて、本当に重大事なのに、子どもたちの葛藤が少ないと思ったんです。もし、そんなことがあったら、これまでの人生は何だったのかとか、自分とはいったい何なのかとか、もっと深刻に悩むんじゃないかなぁ……。反抗しているようで、なんか大人たちの考えたことというか、もっといえば弁護士の計画に、子どもが踊らされているようで気分がよくありませんでした。本当の家族のところにホームステイしている間、口を利かないとかいうのも幼稚だし、子どもたちの気持ちに寄り添えなかったです。大人の中では、看護師のお母さんだけ、心情や考えの描写がありますが、病院関係者という立場で事件の詳細を語らせ、病院に対しても一定の理解を示してしまっているので、とても説明っぽくなってしまいました。著者の考えを看護師のお母さんに語らせてしまっているように見えました。また、このお母さんの心情描写のせいで、物語の視点が親の側にも残ってしまっているので、大人の心情を語りたいのか、子どもの心情を語りたいのか、どっちつかずになってしまったと思います。また、p43の「空っぽの教室に満ちている春の空気は、見知らぬ人がふと気づかってくれる優しさに似ていた」というように、情景に意味づけしてしまうような表現があちこちに見られて、それは読む人が描写から読み取るか、必要であれば登場人物が語るべきであって、著者が説明してしまってはだめなんじゃないかと思い、最初から引っかかってしまいました。

花散里:赤ちゃんの時に取り違えられた3人の少女たちが一人称でそれぞれ語っていき、三人称で語られていく親たち。昨今の児童文学の中でタブー視されてきた家族のあり方として、親の離婚、児童虐待などを取り上げた作品が多い中、この本の救いは、3家族がそれぞれ愛情深く、血のつながりということよりは家族のあり方を描いた作品だとは感じました。それでも13歳のときに取り違えがわかり、血のつながりのために育った家族から離れて暮らすことを選ばされていくというこの作品を子どもたちがどう読むのかと思いました。

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ネズミ(メール参加):状況設定や、3つの家族の関係の語り方が説明的で入りにくかったです。自分がこの親の子どもでなかったなら、ということを、仮定であれ、子どもに問わせること自体、私は受けとめられませんでした。どんなふうに中学生の読者に届ければよいと思うか、他の方の考えを聞きたかったです。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」記録)

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ラスト・フレンズ~わたしたちの最後の13日間

『ラスト・フレンズ』表紙
『ラスト・フレンズ~わたしたちの最後の13日間』
ヤスミン・ラーマン/作 代田亜香子/訳
静山社
2021.06

しじみ71個分:ページを開いてみて、はじめからびっくりしました。作者の実体験にもとづくコメントや、「いのちの電話」の紹介などがあって、また、タイトルも「ラスト・フレンズ」なので、どんな展開になるのか、ちょっと不安を抱きながら読みました。ですが、物語を読み進めていくと、3人の女の子のキャラクターもきっちりと書き分けられ、それぞれの苦しみが、リアルに嫌というほど伝わってきて、3人にとても共感しました。自分が若い頃、非常に精神的に不安定だったことも思い出されてきました。最も共感してしまったのはミーリーンで、わたしはリストカットまではしませんでしたが、自己を否定するネガティブな言葉が頭を支配する感じや、大勢の中で非常に強い孤独を感じるあたりは、すりむけたところがヒリヒリするようで、読んでいていたたまれなかったです。でも、ティーンエイジャーだったら、実際に鬱だったり、性的虐待にあったり、障害があったりしなくても、3人のどこかに共感する点を見つけられるのではないでしょうか。
それから、編集の荻原さんに原文がどうだったか、おうかがいしたかったのですが、例えばオリヴィアの章では、段頭がわざわざずらしてあったり、ミーリーンについても現状の認識と頭の中のネガティブな言葉とでフォントが変えてあったり、見た目の行の配置でも心の状況が分かるようになっていますね。これも、緊迫感を醸し出してとてもよかったと思います。自殺幇助のサイト、メメントモリの存在も物語にじわじわと恐怖感を与えていて、インターネットの危険性も伝わりますね。途中までは3人が自殺してしまうのではないかとドキドキし、後半はメメントモリからの攻撃でスリリングな展開になり、結局最後までドキドキしながら読みました。大変におもしろかったです。

コゲラ:表紙を見て、ていねいな前書きやインフォメーションを読み、おっかなびっくり読みはじめました。3人の少女の性格や、置かれている状況がしっかり描かれていて、それだけにページをめくる手が、ともすれば止まりそうになりました。でも、3人そろって服を選ぶ場面から明るい兆しが見えてきて、ほっとしました。前半とうってかわって、後半は悪意のあるネットのサイトの所有者との闘いで、まさに手に汗にぎる展開。一気に読めました。
作者はもちろんのこと、編集者、訳者の細かい心遣いと熱意が感じられる、よい本だと思います。ただ、図書館や学校で子どもたちに手渡す立場にある方は、神経を使うだろうなと思いました。むしろ、読書会などグループで読むときの課題本としたら、とてもよいのではないでしょうか。先日のニュースで、自殺をしたい子をネットで誘って監禁した事件を報道していましたが、日本の10代にとっても他人事ではないので。p12で、主人公のひとりのカーラ言っていっていますが、「サマリア人協会=サマリタンズ」は日本の「いのちの電話」のことで、カーラがふざけていっているということが、日本の読者にはわかりづらいのでは?

雪割草:展開が気になり、引き込まれて読みました。作者のメッセージが冒頭にあることで、読者への配慮や届けたいという思いが伝わってきました。3人それぞれが、母親との関係によって前に進めるようになるのもよく描かれていて、思春期の読者には伝わるものがあると思いました。それからメメントモリというサイトですが、グループワークを通して自殺をやめさせるいいサイトなのかもしれない、と最初は思ったりしてしました。でも実際は違って、ネットの恐ろしさや世の中の悪意、その子どもたちへの影響を考えさせられました。長く、内容もセンシティブで、出版社にとっては挑戦だったのではと思いました。

エーデルワイス:表紙イラストの3人の少女たちの顔に目鼻口がありません。物語を読む前から少女たちの心情がすでに伝わってくるようです。本文の文字の配列が視覚的に変化して、ミーリーンの苦しい心の叫びが伝わり、つらくなりました。オリヴィアの性的虐待に母親が正面から向き合ってくれてほっとしました。こういう状況の子たちを大人がいち早く気づいて守ってほしいと願います。問題を抱えている子どもに即刻ソーシャルワーカーがつくところがすばらしいですね。最後にミーリーン、カーラ、オリヴィアの3人が、自殺サイトの罠にも負けず、生還できたことにほっとしました。

キビタキ:カバー前袖の文章と、物語の前に「いのちの電話」などのサイトの紹介があるので、ちょっと身がまえてしまいました。読者は高校生くらいだと思いますが、ここを見て読んでみようと思う子と、逆にちょっと引いてしまう子がいるのではないでしょうか。それぞれの少女の一人称で語られる章が入れ替わりで出てくるという構成が、最初は読みにくくて、3人のことを把握するのに少し時間がかかりました。それぞれの抱えている苦しみや心の叫びがうまく描かれていましたが、その分、読み進むのはとてもつらくて、途中でやめたくなりました。後半は、やっと気持ちをわかってくれる相手が見つかったことで3人が楽になっていくので、読んでいるほうも救われるのですが、そう思う間もなく急展開が待っていて、ハラハラし通しだったと思います。3人の主人公は16歳なので、同世代の読者には響く部分が多いのではないかと思いました。

アンヌ:最初に「いのちの電話」が提示されて自殺について書いてあるとわかるので、戦争が始まったという今の状況でこの物語を読み始めるのはきつく、その上事故による下半身まひ、鬱、性的虐待という状況が描かれるので、もうそこから進めなくなってしまいました。でも時間をおいて読み直し始めたら、それからは一気読みでした。3人はごく普通の仲よしのティーンエイジャーのような生活、チェア・ウォーカーになったカーラができるとは思っていなかったような生活を楽しみます。まず、ショッピングモールでお買い物をし、ランチをとる。ここで、普段はグッチを着ているというオリヴィアの言葉に階級を感じましたけれど、でも、彼女のように服を見立てるのが得意な友だちと買い物に行くとお互いが満足できて楽しいですよね。ランチではミーリーンに、ちゃんとしたハラルのお肉を食べさせる店を見つけてあげる。好奇心から宗教上の禁止事項は訊いてくるけれど、そこから先に踏み込んでくれない人たちとは違って、カーラは解決法を一緒に見つけてくれる。いつも遠慮しているミーリーンが気を使ってもらえて喜ぶところは、読んでいて楽しくなりました。それから、性的虐待を逃れてするジャンクフードだらけのパジャマパーティ。ここも楽しくて、このマイナスとプラスの場面構成は、とても動的でリズムがあるなと思いました。ミーリーンが母親に絵を描くことを認めてもらう場面では、現代のムスリム女性が子どもたちには自由に生きてほしいと思っていることも知ることができました。ただ、ここから先のサイトからの反撃などが出てくる場面はスリル満点ですが、少々つらく、まだ読み返す勇気が湧いていません。私の好きな場面は、カーラが救急車に乗せられるミーリーンにスカーフを巻いてあげ、その気持ちが救急隊員の女性にも伝わるところです。他者に想像力をもって接することの大切さを訴えかける見事な小説だと思いますが、実際に死の誘惑を感じている子どもに手渡すのには注意が必要だとも思います。

オカピ:今、日本で、子どもの自死はとても多いですよね。最近、『ぼく』(谷川俊太郎/作 合田里美/絵 岩崎書店)という絵本の特集番組を見たのですが、「子どもの自死をテーマに児童書を出す上で、伝えたいのは “死なないで” ということだけど、それをそのままぶつけても届かない」と、編集者の方がおっしゃっていました。それをどうやって絵本とか、この本の場合はYAという作品にするのか、ということですよね。その番組で、「人間社会内孤独と自然宇宙内孤独がある」という谷川さんの言葉も印象的でした。私は中学のとき、「とくに悩みがあったわけじゃないけど、死にたいと思ったことは何度もある」と友人に言われて、驚いた記憶があります。いじめとか虐待とか、そうした具体的な理由がなくても、ふっと死に引きよせられることがあるんだなって。この『ラスト・フレンズ』では、鬱、性的虐待、父親の死に対する罪の意識など、死に向かう理由が示されていて、もちろんそういうケースもあるのですが。詩の形で書かれた本が今たくさん出ていて、この本でもオリヴィアの章はそうなっています。p115「ミーリーンが床からパソコンを拾って/いう」、p317「ミーリーンはぱっと顔を上げて、ちょっとだけ/ふら/ふら/歩いてから、いう」など原書通りの改行なのでしょうが、そのまま日本語の作品にするのはなかなか難しいのかなと。訳はp6の「ムリやり」「大っキラい」、p8「フツー」、p11「キツい」、p13「アガる」など、カタカナが多いのが古く感じられて、私にはちょっとしっくりきませんでした。地の文なんかは心の中で思っていることなので、今の言葉をそんなに使わなくてもいいような……。シリアスなテーマの本というのもあって、訳が少し浮いているように感じました。

みずたまり:近く感じる死を回避して、生きることに向かっていく少女たち、という大きな流れはとてもよくて、3人のやりとりを興味深く読みました。それぞれの背負っているものはとても重いけれど、友情があれば乗り越えられる、という力強さを感じました。ただ、自殺サイトのハッキングについて詳細が語られていなくて、カメラがいつも都合よく見たいものを撮影しているような気がしました。そのあたり、もう少し仔細に書いて納得させてもらいたかったです。あと、わたしは、3人が中盤で生きる決意をして、自殺サイトの正体を協力して暴いていく展開なのかと想像してしまいました。死と生に対して、よりポジティブに向かう方向を勝手に期待しすぎたので、ああ、そっちではないのね、と途中で軌道修正しながら読みました。

ハリネズミ:苦しい場面がずっと続くので途中で休み休み読みました。もう少しユーモラスなところとかがあると、休まず読み続けられたと思うんですけど。育った環境も文化も違う3人が自殺幇助サイトで知り合って、しだいに友情を結んでいくというストーリーですけど、こういうサイトは実際にありそうで怖いですね。そういう意味では、とても現代的な作品だと思います。性的虐待に関してですけど、この作品では、虐待をしていた男はすぐに逮捕されます。被害者の証言が重視されているということですよね。日本は伊藤詩織さんの件を見ても、まだまだ加害者に有利で残念です。下半身マヒのカーラが、過保護な母親をうるさいと思っていて、独りにしてほしいとあれだけ言っているのに、母親に恋人ができたのかといちいち気にして逆に母親の一挙一動に目を光らせるのは、ちょっと私の中では人物像が結びにくかったです。著者が一所懸命に書いているのは伝わってきましたが、あらかじめこういう流れで書こうという設計図があるせいか、ちょっと堅苦しさを感じました。もっと自然に登場人物が動いていくと、きっとユーモアも入ってくるのかもしれません。

サークルK:表紙の3人の肖像画を額縁に入れて図案化したものを、各章の名前の下に毎回入れている工夫がなされ、3人それぞれの事情を読むときに迷子にならずにすみました。冒頭に「いのちの電話」の案内などが書かれていることもあって身がまえる読者もいるかもしれませんけれど、あえて原題と異なる『ラスト・フレンズ』というタイトルになっているところに(ラストという語には動詞なら「続いていく」という意味もあるので)、これからも3人が友達関係を続けられるという希望を読める気がしました。作中の16歳の少女たちが巻き込まれている日常(たとえば自分と異なる宗教観や結婚観、人生観、罪悪感、性的虐待といったヘビーな内容)に想像力が追いつかないとしても、不気味な自殺幇助団体の「契約」に取り込まれていく様は、現代の日本でもうっかりWebをクリックして思わぬ犯罪に巻き込まれてしまう子どもたちへのリアルな警鐘となると思います。つらい展開のところもありましたが気がつくとぐいぐいと引き込まれて読んでしまいました。

ヤドカリ:読み終わったときに、読めてよかったと思えるような小説でした。著者の伝えたいという思いが強く出ていて、力のこもった作品だと思いました。3人のキャラクターそれぞれに、日本の読者もいろいろなポイントで共感できるのではないかと思います。母と娘の関係が大切な小説で、帯にいとうみくさんが言葉を寄せられているのも、それでなのかしら、と思ったりもしました。編集の面でも非常にていねいに配慮されているなと感じました。

コアラ:タイトル、特にサブタイトルの「最後の13日間」で手に取る人がいるのではないかと感じました。物語に入る前に、「いのちの電話」などの相談先が載っていて、この本を出版する上での気配りがされていると思いました。途中までは自殺に向かって準備を整えていくストーリだし、p5にあるように、よくない引き金を引いてしまわないとも限らない。最初に載せたら、読んでいる途中で気持ちが揺れても、相談先を思い出すことができるので、まず相談先を載せたというのは、とても配慮されていると思いました。カバーの人の絵が、版ズレしているようで、けっこう気になったのですが、p13で自殺サイトのデザインが「微妙にレイアウトがずれてるメニューバー」とあるので、そのイメージからきているのかなと考えたりもしました。性格も環境も全く違う女の子3人が自殺サイトのマッチングで出会います。最初の出会いのぎこちなさはよくあらわれていると思うし、それぞれのつらさも、読んでいて我が事のように迫ってきました。特に、ミーリーンの章の、太字のフォントで書かれている「カオス」の声は、こんな声がずっとしていたらたまらないというか、本当に死にたくなると思いました。p351のカオスの声に囲まれているようなレイアウトは、頭の中の状態、苦しさが、レイアウトでよくあらわれていると思いました。この物語では、自殺サイトで知り合った人や親が救いとなったけれど、現実の世界でも、苦しい状況では、友人や親からの救いを欲していると思うし、そういう生きることへの引きとめも心の底ではかすかに願って自殺サイトで人と知り合うことがあるかもしれない。でも現実では、小説のように心を打ち明けられる関係にはならず、お互いに死へと進んでしまうのかもしれない。そういうことを重く考えながら読みました。苦しんでいる人が、この本を読んで自分の気持ちを誰かに打ち明けられるようになればと思うし、周りの人も、苦しんでいる人の気持ちに寄り添えるようになればいいなと思います。

花散里:この本が出版されたとき、3人の顔が描かれていない表紙画、「自殺」やSNSの問題などを取り上げていることが話題になっていたのですぐに読みました。そのときに本書が著者のデビュー作であり、自身の体験をもとに書かれた作品であるということで力作だと思いました。今回、読み返してみて、中盤までは自殺のサイトで知り合った3人が次第に自殺を思いとどまっていくところ、SNS利用の怖さや、仲よくなった3人の中での葛藤などをていねいに描いていて、とても構成がうまいと改めて感じました。ブリティッシュ・ムスリムの著者は自身と重ね合わせて、後半の追いつめられていくミーリーンをいちばん描きたかったのではないかと思いました。最後にカウンセラーの対応の上手さなど、生きることへ希望をもたせ、読後感がさわやかに感じました。自殺サイト、性的虐待などを取り上げている点で大人にも読んでほしい作品であり、YA世代にはぜひ読んでほしいと思います。

荻原(編集担当者):「サマリア人協会」や「ほっぺ」、そのほか、皆さまご指摘ありがとうございます。オリヴィアのパートは原書のレイアウトになるべく近づけてみています。なかなか同じようにはいかなかったですけれども。また、相談先のリスト(日本語版は国内の各団体にご協力いただきました)は、原書では巻末にありました。それを巻頭にもってくることで、入り口に壁をつくってしまった点も課題になりましたが、今この主人公たちと同じような苦しみを抱えている読者が、もし、途中で本を閉じてしまったら……と考えて、巻頭に載せました。この作品は、著者自身がティーンエイジャーだったときに読みたかった本だ、とのこと。著者が求めた本の力を私も信じて、日本の読者にも届けたいと思ったのではありますが、本当のところ、読者にどんな影響を与えてしまうのか、不安もありました。この作品を選んだそのほかの理由のひとつとして、死生観が信仰に反することに苦しむ、という心情は、日本ではあまり触れる機会がないのではないかと思ったこともあります。カバーイラストの画風と、作中に登場するサイトのレイアウトとの関連は……全然考えていませんでした(笑)。実は、編集担当として、はじめて自分で選んでオファーした作品で、ボリュームも考えずに買っちゃったので、なんとかページ数をおさえようと、文字もぎっちぎちですみません。訳者の代田さんの力を借りて、ようやく形にできたという感じです。皆さまのご意見を、今後の編集の課題にしてがんばります。今日はありがとうございました。

しじみ71個分:この物語で行頭がずらしてあったりするのは、詩的な表現というよりは、頭の中の思考が千々に乱れたり、自分で考えたことを自分で否定したり、心の中で瞬間瞬間に湧き上がる苦悶や葛藤、思考の乱れを視覚的に演出しているだけなんじゃないでしょうか? たとえば、オリヴィアの思ったことに取り消し線が引いてあるのは、自分で考えたことを自分で打ち消しているのを表現しているのだと思いましたし、3人で打ち解けているときは行頭が揃っているので心の落ち着きを表現しているのかなと思いました。

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ネズミ(メール参加):読み応えがありましたが、読むのはつらかったです。この子たちがどうなるのか気になって読み進めましたが、話し言葉で展開するとはいえ、ページ数も多く、読者を選ぶ、ある程度本好きな読者でないと読み通すのがきびしいかなと思いました。
3人それぞれのかかえている問題が重たく、当事者となる読者に手渡してよいか、ためらわれます。むしろ、まわりの大人に読んでほしい。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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わたしとあなたのものがたり

『わたしとあなたのものがたり』表紙
『わたしとあなたのものがたり』
アドリア・シオドア/文 エリン・K・ロビンソン/絵 さくまゆみこ/訳
光村教育図書
2022.06

アメリカの絵本。「クラスには、茶色いはだの子どもは、ひとりしかいなかった。それが、わたし」という文章で、この絵本は始まります。「学校で、奴隷制について勉強した時、みんなが、わたしをじっと見ているような気がしたものよ。奴隷たちが大農園で綿つみをさせられたことや、ほったて小屋にすんでいたことや、子どもたちが、ばらばらに売られていったことを先生がはなすと、わたしは消えてしまいたいとおもったわね」

アメリカの学校には、アフリカ系アメリカ人の歴史をふりかえるBlack History Monthが設けられています。アフリカから奴隷が連れて来られてプランテーションなどで強制労働をさせられ、奴隷解放宣言が出てからも差別され、公民権運動が起こり、少しずつ権利を獲得していった歴史を学ぶのです。過去の歴史を学ぶことによって未来をもっとよくしようという意味がそこにはあるのでしょう。でも、そんなとき、肩身の狭い思いをしていた子どもがいることには、私はこの絵本に出会うまでは気づいていませんでした。語り手の「わたし」は、白人の男の子に「リンカーン大統領がいなかったら、おまえはまだ、おれたちの奴隷だったんだぞ!」なんていく言葉を投げかけられたりもしています。

そんな「わたし」が、やはりクラスでたった一人の茶色い肌の娘に向かって、「あなたには、すがたをかくしたり、消えてしまいたいとおもったりしないでほしいの」「どうどうと立って、空高くはばたいていってほしいの。・・・だって、だいじなのは、ほかの人にどう見えるか、じゃなくて、鏡にうつった自分に『なにが見える?』って といかけてみることだから」と語りかけています。

(編集:相馬徹さん 装丁:森枝雄司さん)

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2022年02月 テーマ:12歳の冒険

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『2022年02月 テーマ:12歳の冒険』
日付 2022年02月18日
参加者 まめじか、ハル、アンヌ、エーデルワイス、雪割草、ルパン、ハリネズミ、ニンマリ、西山、コアラ、シア、さららん、サークルK(しじみ71個分)
テーマ 12歳の冒険

読んだ本:

『ジークメーア』表紙
『ジークメーア〜小箱の銀の狼』
斉藤洋/著
偕成社
2021.09

〈版元語録〉ジークメーアは、ザクセン公国の北のはずれ、北海に面する洞窟の中で母親とくらしている。泳ぎがうまく、夜でももののかたちがはっきりとわかり、半弓の技にたけていた。ある夜、村をおそった海賊とたたかう百人隊長・ランスを助けたことから、ジークメーアの運命は大きく動きはじめる。母の言葉に導かれ、12歳になる年、ジークメーアはランスとともに旅に出る。旅の目的は、邪悪な魔神をあやつり、ヨーロッパを征服しようとしている隣国・フランク王国の企みを阻むこと。そのためにはまず、古くから伝わる『マーリンの書』に書かれた「小箱の銀の狼」を手に入れる必要があるという……。中世ヨーロッパを舞台に、さまざまな敵と対峙しながらたくましく成長する少年のすがたを描く。斉藤洋の冒険ファンタジー、新シリーズ第1弾。
『キケンな修学旅行』表紙
『キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!』
原題:CRATER LAKE by Jennifer Killick, 2020
ジェニファー・キリック/著 橋本恵/訳
ほるぷ出版
2021.07

〈版元語録〉小学校の修学旅行で、クレーター湖にきたランスたち。ところが、何か様子がおかしい。バスの前に血まみれの男が飛び出してくるし、施設のスタッフはあやしいし――、おまけにどうやら、眠ると別の何かに変身させられてしまうようだ! ランスたち5人は、力を合わせて迎えがくるまで敵とたたかうことを誓う。合い言葉は、「ぜったいに眠るな!」イギリスでロックダウンの最中に出版され子どもたちの人気を博した、SFホラーサスペンス!

(さらに…)

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キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!

『キケンな修学旅行』表紙
『キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!』
ジェニファー・キリック/著 橋本恵/訳
ほるぷ出版
2021.07

まめじか:主人公のサイドは善という構図で描かれたエンタメですね。最後に主人公は豪邸に住んでいたことが明かされるのですが、それをよしとするような価値観に底の浅さを感じました。p188で、マックは空気のにおいをかいで、チェッツの行き先がわかるのですが、どれだけサバイバルスキルに長けていても、人間の能力では不可能ですよね。p126では、電話は鍵のかかったオフィスにあり、でも、そのあとp164で、すべてのドアを解錠したとあるのですが、なんでこの時点で助けを呼ばなかったんですか? p146でワーカーたちが「この体は食べ物が必要なんだ。まともな栄養をとらなければ、コロニーは機能しない」「この体は弱い」と話すのですが、読者に必要な情報を伝えるための会話だなと。そもそも、なぜ先生がランスを目の敵にしていたのかもよくわからないし。虫みたいな目というのは複眼のことだと思いますが、これで子どもにわかるかなあ。p175「おぞましい!」、p295「ブタやろう」などは、子どもの言葉じゃないように感じました。「えーん」「うわーん」といった訳語にもひっかかりました。p194の6行目に、読点が重なっている誤植がありました。

エーデルワイス:イギリスの子どもたちによく読まれているということですが、このような内容なら、日本のアニメやゲームの方がおもしろくて優れているような気がします。登場人物の子どもたちが、孤児だったり、サバイバルを生き延びるための訓練を受ける、私立中学受験など多様な子どもたちを登場させているのは現在を反映していると思いました。主人公のランスが睡眠時無呼吸症候群というのを効果的に使っているのは新しいと思いました。ランスが実はお金持ちで……は、拍子抜けしましたが、友人たちと安心してくつろぐ最後はいいですね。(それぞれの親には知らせてあるのでしょう)イラストがあんなにあるより、最初に登場人靴の顔と紹介、冒険の地図の紹介があったらよいと思いました。

アンヌ:おもしろいけれど1度読んでしまえば終わりという感じで何も残らないし、2読目には疑問ばかりになりますね。何しろ設定も解決方法も昔からある古典SFそのままなのであきれました。『宇宙戦争』(H.G.ウェルズ 著 井上 勇訳 創元SF文庫)や『人形つかい』(ロバート A.ハインライン著 福島 正実訳 ハヤカワ文庫SF)とか。まあ、この本をきっかけに、そういうSFの世界も楽しんでほしいとも思いますが。寄生生物という概念を説明するのにテレビ番組を見させるというのも、安直だなあと感じます。トレントの誕生日パーティのエピソードは、まあこの子は一族郎党含めて、人の気持ちがわからないんだなと納得させられました。でも、読者を誤解させる様に書いておきながら、実は主人公の家は大金持ちでした……という幕切れと同様に、後味が悪くて笑えませんでした。

ルパン:なんか、マンガ読んでるみたいでした。マンガならおもしろいのかも。でも、「宇宙人の侵略」というとてつもない非現実の設定のわりには、主人公の秘密が、さんざんじらしたあげく無呼吸症候群だったりとか、親に捨てられてずっと里子だったというバックグラウンドが全然キャラ設定やストーリーに関係なかったりとか、SFなのかリアルな学園ものなのかはっきりしなくて、なんだかものすごくちぐはぐ。ミス・ホッシュやトレントなどの悪役は最後まで救いようがなくて、魅力ないままで終わるし、いろんな名前の子が出てくるけど、どれがどれだか(最初は男か女かすら)わからなくて、ほんとにマンガにしてくれ、という感じです。あと、ちなみに、宇宙人を撃退するのにクマムシを使うんですけど、地上最強の生物というわりには、意外とすぐ死ぬらしいです。温度差に強いだけみたいです。

ハリネズミ:引っかかるところがたくさんありすぎて、楽しめませんでした。たとえばp35に「乳歯が生えてきた」とありますが、この年令で乳歯なんか生えてこないでしょ。作者がいい加減なのか、編集者がいい加減なのか。また夜になって子どもたちが部屋に閉じ込められるわけですが、どうして鍵穴に鍵を刺さったままにしておくのかなど、随所にご都合主義が透けて見えます。p177では装置を入れたリュックをかついでいるはずなのに、絵はそうなっていません。もっとていねいに訳さないと、物語に入り込めません。キャラも浮かび上がってきません。

雪割草:おもしろくありませんでした。読んだ後、何も残らない。ゲームみたいだと思いました。登場人物の描写は外面的で、子どもたちの心の動きもリアルに感じられませんでした。こんなに奇妙でシリアスな状況なのに、物事に冷静に対処する子どもたちは異様だと思います。よかったことを絞り出すとすれば、親がいないなど様々なバックグラウンドの子が描かれているところでした。これは本である必要があるのだろうか、こんな本を出すのか、イギリスで人気と書いてあるが、子どもたちは大丈夫か、などふつふつと思ってしまいました。また、あとがきだけでなく、作者や役者のプロフィールさえ掲載されておらず、滑稽に感じました。

ハル:なるほどなぁ、と思いました。「SFホラーサスペンス‼」とうたわれてしまうと物足りないのだけど、それを児童書に落とし込むとこうなるのかなぁと思いました。でも、うーん、「なるほど」とは思うけど、「イギリスで子どもたちの人気を博した」ってほんとう? と思ってしまう。全体的に表面的で、不安定な感じがありました。これは計算だと思いますが、まとまりのない装丁や落っこちそうなノンブルの位置も絶妙で、良くも悪くも落ち着かない。おっしゃるとおり、登場人物も、挿絵を見るまで、どの子がどんな雰囲気の子なのかもなかなかつかめず。それぞれの告白タイムも、これがあってこその作品なんだとは思いますが、やや無理やりいい話にしようとした感も否めず。トレントをトイレに閉じ込めた理由も、エイドリアンとトレントの間にあった出来事も、すっきりしませんでした。

さららん:ゲーム感覚で書かれた作品だなあと思いました。主人公のランスは、常に動きつづけることで、解決方法を探します。絶対に何か方法があるはずなんだ、と周囲を探しまわると、その何かががうまく出てくる。PCやスマホゲームにはまっている世代には、ランスの判断や行動はすごく身近に感じるんでしょう。ランスには少し先が見えているのか、こんなときはこうする、という判断が早く、戦略も立てられるので仲間たちから頼りにされる。でも、ここで描写される世界には、現実感がまったくありません。例えばp178で、主人公たちは必死に泳ぎます。そのあと、「体が鉛のように重い」とひとことあるものの、息切れもしてないし、服もぬれているのかよくわからない。一事が万事、夢の中の出来事のよう。だからどんな危機的な状況になっても、私には緊迫感が感じられませんでした。でも、ゲーム好きの子どもが読むと、共感できておもしろいのかもしれません。

ハリネズミ:いや、ゲーム好きの子にとっては、こういう本よりゲームそのもののほうが絶対的におもしろいと思います。だから本は、ゲームと違うおもしろさを追求しないと。

ニンマリ:最近、選書される本は賞をとっているなど評価の定まったものが多いので、こういう新しい本を読むのは新鮮でした。ただ、ツッコミどころは非常に多いと思っています。特に大きいところで2つありまして。まず1つめは、人物描写が荒っぽすぎるということです。冒頭、主人公のクラスメイトたちの名前が次々に出てきますが、トレント、エイドリアン、チェッツについては描写が最低限あるのですが、マックとカッチャについては全然出てこないんですよね。そして、クレーター・レイクに到着した後、敵側のボスであるディガーが登場するのですが、そのシーンの描写が「ハゲの大男」のみ。これはあまりに乱暴すぎる気がしますね。作品の前段階のプロットを読んでいるような気になりました。もう1点は、このサバイバルの目的に共感できないことです。一般的には「脱出」と「助けを求めること」が第一目標になると思います。いきなり「敵のことをよく知ろう」という話になるのですが、それは脱出できないし助けも求められない状況に陥ってからではないでしょうか。p126の小窓から電話を見つけるシーンで、主人公は部屋になんとか入る努力をしないんですよね。電話せずピンチを自分の力で乗りきりたい、と思いを明かします。これ以降どんなピンチに陥っても、自分が選んだ道だよね、と突き放したい気持ちになってしまいました。電話がつながらなかったとか、どうやっても部屋に入れなかった、というプロセスがあればよいのですが。最終的に、屋根にのぼれば電波がつながって、スマホで助けを求められたし、オフィスの固定電話も使えたことがわかって、なんだったんだろう、と気が抜けました。作者が子どもたちをはらはらさせようと急ぎ過ぎて、必要な描写やプロセスをカットしてしまったような気がしてなりません。

サークルK:登場人物の個性が際立たされていない(いわゆるキャラが立っていない、という状態な)ので(挿絵を参考にしようとしてもあまり頭に入ってこなかったです)、誰にどう感情移入すればよいのか、だれが主人公なのかさえ、しばらくわからなかったです。そういう意味でほかの方も指摘されていたように、ミステリーの中で楽しめるはずの疑心暗鬼とは異質な居心地の悪さがありました。ミス・ホッシュははじめからランスを敵対視していますが、修学旅行の引率まで引き受けるくらいですからきっと上層部には受けの良いしっかりした教師というポジションがあるのかもしれません。けれど執拗な弱い者いじめをするいわゆる極端なブラックな担任になってしまっていて、この人ははじめから異星人だったのだったかも、と思いそうになりました。挿絵から分かるエイドリアンの褐色の肌や、ランスがアッパーミドルっぽい階級に属しているらしいなど人種や階級などの格差社会にも目配りあり、というサインが散見されると思いました。それだけに、作者の紹介やこの作品についての解題的な解説が最後にほしかったです。

コアラ:タイトルはおもしろそうで、小学6年生だったら絶対に手に取るだろうなと思いました。内容はぶっとんでいて、特に、エイリアンになった人を助けるために、コケを飲み込ませて、コケの中にいるかもしれないクマムシにエイリアンを食べさせるとか、とんでもないけれど、勢いで最後まで読ませてしまいます。こういう作品なんだと思って読んだので、あまり引っかかりませんでした。イギリスでも修学旅行があるんだなあと思いました。出だしで人物名がたくさん出てきて、それもマックとかチェッツとかカッチャとかカタカナで見た目が読みづらくて分かりにくかったです。最初に登場人物紹介があったら少しは馴染みやすかったのではと思いました。

シア:設定がかなり古臭いですよね。1960年代の海外SFドラマや映画のようで。私はこういうカルト的な人気を誇るSFは大好きなので問題ないのですが、これが現代に登場してしまうのかと。そして子どもに人気が出るのかと驚きました。そこはやはりイギリス。尖っていますね。「テレタビーズ」(BBC)を生み出した国はセンスが違います。この古さは子どもには新鮮なのかもしれません。そんな妙な納得感があったので、気になる点もあったのですが細かいことを気にするより気楽にいこうと、するすると読んでしまいました。くだらなさが逆に癖になるスピード感のある本でした。登場人物は少々テンプレ気味ですが、個性もありそれが強みにつながっています。エンターテインメントとしてのキャラクター性はあると思います。大変なことを乗り越えたり、隠し事をすることによって生まれる連帯感など、子どもが共感しやすい作りになっています。B級ホラー映画のような導入もおもしろいですし、クマムシというマニアックな着眼点がB級らしさを高めます。テンポが良く一気に読める本なので、とくに本が苦手な子どもや男の子に良いと思います。海外ものらしい分厚さがあるので、読破できたら達成感もあるのではないでしょうか。イギリス作品のため「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 静山社)の小ネタも散りばめられているのですが、最近の子はハリポタを読まないのでその後の読書につなげられるかもしれません。それにしても、原題は『Crater Lake』なのに邦題がダサすぎますね。表紙がかっこいいのにどうにも締まりません。ですが、そこがまたB級感溢れていて味わい深いと思いました。文章として気になったのはp194「なので、ひとつめの」と文頭に「なので」が使われているところです。口語ではありますが、まだ正しい使い方とは言えないので、子どもの語彙を増やす使命を持つ児童書には適さないと感じます。この本では使われていませんが「知れる」や「ほぼほぼ」もYAや児童書でよく見かけますので、言葉は揺れ動くものですが、子どもは言葉を本からも覚えるということを軽視してほしくないと考えています。

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しじみ71個分(メール参加):イギリスでは人気のあるシリーズとのことですが、さくさくとストーリー展開で読めてしまうからなのかなと思いました。私は、小学生時代あまり本を読まない子どもでしたが、その頃の自分だったら、気楽に読んだかもしれません。バットマンやジョーカーのこととか、あちこちみんなが知ってる「くすぐり」みたいなしかけもあって、ああ、あれね、なんてことを知ったかぶりして話したくなったりするかも。私も、子どもの頃に見たテレビシリーズを思い出して、それなりに興味を持って読みました。物語というより、子ども向けのテレビドラマとして読むととてもよく分かる気がします。頭の中で、いろいろな情景がドラマの場面として簡単に浮かび上がってきます。悪役のはげた大男、というのも「ああ、あんな人」という感じだし、ラストに主人公の家で、みんなでまったりするシーンも目に浮かぶようです。物語を読んで深く考える本ではないですが、でもたまに気楽にポテチをかじりながら読めばいいんじゃん、みたいなときにはアリなのかも。そんな印象でした。

(2022年02月18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジークメーア〜小箱の銀の狼

『ジークメーア』表紙
『ジークメーア〜小箱の銀の狼』
斉藤洋/著
偕成社
2021.09

まめじか:子どものとき、斉藤さんの『ジーク 月のしずく日のしずく』(偕成社)がとても好きだったので、この本が出たときはわくわくして読みはじめました。斉藤さんはアーサー王伝説を子ども向けに書き直していらっしゃいますよね。この本では、アーサー王の要素を上手に入れていて、すらすら読み進めたのですが、作家の中にすでにあるものをパッチワークのようにつなげているというか。オリジナルの世界が立ちあがってこないように感じました。

ハル:これはシリーズものの1巻目ですよね? 最後まで読んで「やっぱり、1巻じゃ終わらないよね」と、がくっときたのですが、それでもやっぱり開幕感がありましたし、今月のもう1冊(『キケンな修学旅行』ほるぷ出版)と読み比べても、物語が豊かだなぁと思いました。セリフが少しかたく感じるところもありましたが、ジークメーアも少年とはいえ冷静で賢く、そもそも特異な存在ですし、読者とはやや距離のあるキャラクターなので、それはそれでいいのかもしれません。挿絵も独特の雰囲気がありますが、入れる位置は、あと少し後ろにしてー! と思う箇所もありました。たとえばp183の元海賊の男が再登場する場面。ハラハラしてページをめくって、先に挿絵が目に入って「あの海賊がいる」と思ったし(顔はちゃんと描き分けられているのです)、p229も箱を開ける前に狼の挿絵が目に入ってしまった。素直に文字だけを追っていればぴったりの場所に入っているので決して間違ってはいないのですが、できればちょっとずらしていただければありがたいです。しかし、つづくにしても、ラストはすごいですね。ショックとともに、続編を渇望させる、これも作戦でしょうか?

アンヌ:魔術と魔物がいる世界にマーリンとかが絡んでくる。そんな、よくあるファンタジー世界を新たに書きだすのに、相変わらず女性は魔女というか賢い女の占い師で、それ以外は宿屋のおかみさんしかいないんだなと、あまり期待せずに読み始めました。フランク王国とか、キリスト教の進行とか、歴史で習う前の小学生にはわからないことが多いのが気になりました。まあ、私自身、ローズマリー・サトクリフの物語で、イギリスにおけるローマ軍の侵略を知ったので、物語さえおもしろければ、そこらへんは理解できなくとも読めるとは思いますが。挿絵は独特で、例えばp15のイグナークの顔など、昔読んだ『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー編 新井皓士訳 岩波文庫)のギュスターヴ・ドレの絵のようなグロテスクさがあって、怖いもの見たさの興味がわきました。物語全体は何か盛り上がりに欠けるような気がするんですよね。続き物だとしても、第1巻を1つの世界として楽しめないといけないと思うのですが、もう少し読者が主人公に感情移入できるような場面がほしい気がします。最後の冒険場面でも、例えば魔物はあまり怖くないし、閉じ込められていた場所の謎解きとか、もっと書き込めないのかとも思いました。手に入った小箱の狼とかについての記述もあまりなくて終わってしまうし、ラストを盛り上げてこそ、次回に繰り広げられる世界への期待がわくのじゃないかと思いました。

エーデルワイス:斉藤洋はさすがうまいストーリーテラーだと思いました。おもしろく読みました。斉藤洋氏が20年ほど前に盛岡にいらしたことがあります。講演会場の小学校の体育館の舞台に立たれると、舞台の端から端ヘと左右何度も移動されながらお話している姿が思い出されました。ストーリーの中では、村に11歳以上の子どもがいない。この解明に続編を期待しています。キリスト教にも触れていますが、多神教の方が柔軟という印象を受けました。

雪割草:書き方や表現、トーンはどちらかといえば好きかなと思います。世界観があるし、小箱の中に狼などエンディングが不思議で、続きがあるなら読んでみたくなりました。ただ、世界観は少々ベタな感じで、登場するのが男性ばかりなので、続きでは女の人にも光を当てて描いてほしいです。人のあたたかさもちゃんと描かれていると思いました。

ルパン:急いで読んだからかもしれないんですけど、全然お話の世界に入っていかれないまま終わりました。長編の1巻だとは知らずに読んだので、ページが終わりかけていても全然クライマックスが来なくて、「え? だいじょうぶ?」と心配になりながら読み、最後は「あれ、これで終わり?」というキツネにつままれたような感じでした。おとなだから読み終わってから、「まあ、斉藤洋だし、『西遊記』みたいにこれから続くんだろう」と思いましたが、子どもはわからないんじゃないですか? いろいろ伏線みたいなことも散りばめられていますが(11歳以上の子どもがいない、とか)、そういったことの理由も明かされないままで、不完全燃焼でした。せめて「続く」とか書いてあげてほしい。

ハリネズミ:私はエンタメだと思って読みました。斉藤さんは、子どもがおもしろいと思う本はどんな本か、ということを調査し、研究してそのセオリーに則って書いている部分もあるように思います。1巻目なので山場はまだこの先にあるのでしょうね。一神教と自然神の対立などが描かれているのも、私はおもしろいと思いますが、今後その辺ももっと描かれてくるのでしょう。斉藤さんがどのように考えているのか、続編が楽しみです。

ニンマリ:佇まいがとても魅力的な小説ですね。イラストも素敵で、世界名作全集を想起させます。1巻はまだ序章で、これから物語が大きく展開していきそうですね。今のところジークメーアは母とランスの言うとおりに動き、受け身なので、主人公への感情移入はまだ薄いです。いつか、ジークメーアが自分の意思で羽ばたいたときに、魅力が高まるのでしょう。個人的には2巻は気になるけれど、とても待ち遠しいというほどではないです。その理由はやはりジークメーアの心情がわかりづらいところにあるかと思います。とても静かな物語なんですよね。ジークメーアに相棒のリスでもインコでも犬でも、何かいて、話しかけることで気持ちがわかったりとか、お茶目な一面が見えたりとかするとぐっと引き込まれるかと思うのですが……。そうするとエンタメになってしまって、この佇まいが台無しになるのかもしれませんね。

西山:斉藤洋って、こういう文章だったっけと驚きました。雑すぎやしないかと……。例えば、p100、半弓が手元にすでに城にあるというのは、ある種のギャグかと思ったくらいです。ふつう、そういうアイテムを1つ1つ手に入れていく冒険が展開されるのではないかと思ったのですが、あれもこれも「実は家にありましてん」という漫才台本になりそうと勝手に笑ってしまいました。ていねいに書かれた本を読みたいなぁというのが読了後一番に感じたことでした。

コアラ:装丁が、ヨーロッパの中世のファンタジーという感じでとてもいいと思います。挿絵も、ヨーロッパの昔話やファンタジーの挿絵っぽくて、よく見ると、左下にドイツ語で挿絵タイトルが書かれていて、右下には画家のイニシャルが入っているんですよね。凝っているなと思いました。ザクセンが舞台だから、ドイツ語で書かれているとそれっぽくていい感じだと思いました。中世のドイツを舞台に、アーサー王伝説を組み合わせたファンタジーで、その設定だけでもワクワクするし、途中まではおもしろく読みました。ただ、最後のほうで、なんだか煙に巻かれたような、すっきりしない、腑に落ちないような形になって、それが残念でした。「洞窟」というのが、大ムカデの口、あるいは腹の中、というのは、ちょっと納得できないし、それより何より、ランスはずっと、「小箱の銀の狼」というのは馬だと言っていたんですよね。p99の最終行からp100の1行目にかけて、「『小箱の銀の狼』という名の、たぶん馬が、どこかにいる」と言っています。ところが、p232の後ろから3行目「小箱を見た瞬間、わたしは、この中に狼がいると直感した。だから、さほどおどろきはしなかった」などと言っているんです。「馬」と言っていたのはどうなったんだと、すっきりしない感じが残りました。それ以外は、おもしろかったです。シリーズ物のようなので、続きが楽しみです。

ハリネズミ:このタイトルとサブタイトルは、続きがあることを想定させていますよね。

シア:オビに「新しい冒険の物語がはじまる」とありますし、偕成社のWebサイトにも「ジークメーア1」と題名の上に書いてあります。だから続くと思いたいのですが、この著者の『ルーディーボール エピソード1 シュタードの伯爵』(斉藤洋著 講談社)が2007年のエピソード1以降音沙汰なしなので、売れ行き次第なところがあるのでしょうか。この本を初めて見たときに、『ジーク 月のしずく日のしずく』の続きだと思いまして、『ジークⅡ ゴルドニア戦記』の2001年からの超ロングパスで続編を書くなんて、児童書界のアイザック・アシモフか! と喜んだのですが、全く違いました。しかし、挿絵も描いている人は違いますが『ジーク』に似ている感じがしますし、『テーオバルトの騎士道入門』(斉藤洋著 理論社)に「ランス」という名の従者が出てくるので、最近流行りのクロスオーバー作品かなと混乱しながら読みました。そのため、この本自体にはあまり大きな感動はありませんでした。最後の川の辺りの描写が読みにくいというか、いまいち想像しにくく、しかも肝心のラストも別にそこまで盛り上がらず、往年の輝きがなくなってきてしまっているようにも感じました。久しぶりに会った方がお爺さんになっていたような感覚です。個人的に大好きだった2シリーズと勘違いしたので、期待値が大きすぎました。とはいえ、最近はアーサー王伝説を知らない子どもが多いので、その辺りを知るのに良い本ではないかと思います。この方の本はどれもおもしろいですし、とくにファンタジーは最高にクールなので、中高生にも薦めやすい本です。p21、p22に「さほど」という言葉が集中的に3か所も出てくるのでここは訂正してほしいと思いました。

さららん:たとえば、洞窟の中に住む主人公は、満潮のときは泳いでいかないと外には出られません。そんなときのために、乾いた服を別の場所に用意しておく、といった描写などに、手触りのある世界を感じました。物語の構成はクラシックですが、マンネリとは思わなかったです。キリスト教、アーサー王伝説についての知識がちりばめられ、その中で登場人物たちもしっかり動いているように思えました。例えば新しい弓をもらった主人公は、古い弓をどう処理するのか。作者はそこまできちんと書いています。母親に対する深い信頼、ランスへの不信感などが、言葉というより、むしろ主人公の行動で表されているため臨場感があります。なお文章は、少し時代劇っぽい感じがありました。例えばp198「ジークメーアはそう思った」までで、心の変化を数行かけて説明したあと、「川で魚がはねた」と、突然短い風景描写を入れて、章を締めくくるあたりなどです。テレビドラマでもよく場面転換に使われる手ですが、作者はそこで、間を取りたいのかもしれませんね。

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しじみ71個分(メール参加):日本人作家による、ヨーロッパを舞台にした時代劇という点におもしろさを感じました。未読ですが、アーサー王物語シリーズを先に書いておられるので、そのスピンオフというところなのでしょうか。ジークメーアの暮らしぶりや能力を描き、続いて冒険物語がサクサクと展開していくので、するすると読めました。ですが、時代物の典型のような話運びなので、斬新さや深い感情移入などはなかったという印象です。まだシリーズ第1巻のせいもあるかとおもいます。何より一番気になったのは、話の終わりどころでした。えー、狼見つけただけで終わっちゃうの?という感じで、もう一つ狼との関わりを語る逸話が欲しかったなぁと思ってしまいました。振り返ると、そこまでにあまり盛り上がりが足りなかったということなのかな…すんごい大冒険をして、苦労して狼を得たという感じがあまりしなかったのでした。でも、とにかく第2巻以降に期待というところです。挿絵はとてもいいと思いました。ヨーロッパの古い銅版画をおもわせるようなイメージは好もしかったです。

(2022年02年18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ダーシェンカ 愛蔵版

『ダーシェンカ』表紙
『ダーシェンカ 愛蔵版』
カレル・チャペック/著 伴田良輔/訳
青土社
2020

『ダーシェンカ 愛蔵版』(NF)をおすすめします。

フォックステリアのダーシェンカが、「片手にひょいと載せられるほどの、白い小さなかたまりだった」時から、歩けるようになっても「足を一本見失ってしまい、四本であることをすわりなおして確認しなくてはならな」かったり、なんでもかんでも手当たり次第にかんでしまったり、おしっこの水たまりをあっちこっちに作ったりしながら成長していく過程を、味のある文章と、愛情あふれる写真と、ゆかいなイラストで描写した本。ヒトラーとナチスを痛烈に批判した作家の、日常生活や人となりを知るうえでもおもしろい。

原作:チェコ/13歳から/犬、ペット

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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