投稿者: sakuma

チキンスープ・ライスいり 〜12のつきのほん

『チキンスープ・ライスいり 〜12のつきのほん』
モーリス・センダック/作 じんぐうてるお/訳
冨山房
1986.08

何よりもおいしいお米の入ったチキンスープを毎回登場させながら,1月から12月までの季節の移りかわりを表現した楽しい絵本。 (日本児童図書出版協会)

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ピエールとライオン〜 ためになるおはなし

『ピエールとライオン〜 ためになるおはなし』
モーリス・センダック/作 じんぐうてるお/訳
冨山房
1986.08

誰のいうこともきかないへそ曲がりのピエールが,大きなライオンに食べられてしまう! こわくてゆかいで”ためになる”絵本。 (日本児童図書出版協会)

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ヒューゴとジョセフィーン (北国の虹ものがたり・2)

『ヒューゴとジョセフィーン (北国の虹ものがたり・2)』
マリア・グリーペ/作 大久保貞子/訳
冨山房
1980.12

スウェーデンの少女ジョセフィーンの、小学校の入学式からクリスマスまでの生活を、不思議な少年ヒューゴとのかかわりで描く。 (日本図書館協会)

型やぶりの少年ヒューゴと多感な少女ジョセフィーン。二人の”規格外”の子どもが,小学校に通うようになりました。 (日本児童図書出版協会)

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やまわらしきえた(わが西山風土記・冬)

『やまわらしきえた(わが西山風土記・冬)』
梶山俊夫/作
冨山房
1980.06

シリーズの4巻目。

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ティムとサンタクロース

『ティムとサンタクロース』
ジュディ・ブルック/作 まきたまつこ/訳
冨山房
1980.11

ティムとヘレンにポリーとサイモンが生まれました。雪の日ケーキの飾りになるサンタクロースを助けた親子は、楽しいクリスマスをすごします。 (日本図書館協会)

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ティムのおよめさん

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『ティムのおよめさん』
ジュディ・ブルック/作 まきたまつこ/訳
冨山房
1980.11

はつかねずみのティムは、ヘレンと結婚しました。でも、ヘレンは、教会からでてきた花よめさんの美しいドレスを見てから、自分もドレスばかり作り始めます。 (日本図書館協会)

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ティムとめうしのおおさわぎ

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『ティムとめうしのおおさわぎ』
ジュディ・ブルック/作 まきたまつこ/訳
冨山房
1980-09

はつかねずみのティムと、はりねずみのブラウンさんは、ミルクをもらいに農家へいきます。ねずみを見ておどろいた牝牛たちは大さわぎ・・・。 (日本図書館協会)

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チキチキバンバン〜まほうのくるま 1 ・2・3

『チキチキバンバン〜まほうのくるま 1 ・2・3』
イアン・フレミング/作 ジョン・バーニンガム/画 渡辺茂男/訳
冨山房
1980.07-

1)孤独な発明家カラクタカスが50ポンドで買った中古のパラゴンパンサーが空を飛ぶ話。2)みち潮のため海中に沈みそうになったチキチキバンバンは、危機一髪のところで助かります。 (日本図書館協会)

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なだれだ!行け そうさく犬

『なだれだ!行け そうさく犬』
バルトス=ヘップナー/作 上田真而子/訳
冨山房
1980.06
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小さなジョセフィーン(北国の虹ものがたり・1)

『小さなジョセフィーン(北国の虹ものがたり・1)』
マリア・グリーペ/作 大久保貞子/訳
冨山房
1980.12
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あさなゆうなに〜こどものための詩集・1

『あさなゆうなに〜こどものための詩集・1』
エレイン・モス/選 矢川澄子/訳
冨山房
1980.10
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こんこんさまよめいりいつじゃ(わが西山風土記・秋)

『こんこんさまよめいりいつじゃ(わが西山風土記・秋)』
梶山俊夫/作
冨山房
1979.11
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忘れ川をこえた子どもたち

『忘れ川をこえた子どもたち』
マリア・グリーペ/作 大久保貞子/訳
冨山房
1979.12

100年以上も昔の、リンゴの花咲く平和な村や、「忘れ川」に囲まれた北国の不思議な館を舞台に、幼い2人の子をめぐってくりひろげられる幻想的な物語。 (日本図書館協会)

スウェーデンの児童文学

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ティムとひこうせん

『ティムとひこうせん』
ジュディ・ブルック/作 まきたまつこ/訳
冨山房
1979.08

ティムが、はりねずみや、こまどりと力を合わせ、ひこうせんで、かやねずみを麦畑から救い出すお話。 (日本図書館協会)

 

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ティムといかだのきゅうじょたい

『ティムといかだのきゅうじょたい』
ジュディ・ブルック/作 まきたまつこ/訳
冨山房
1979.08

イギリスの絵本。

どぶねずみに捕えられたかえるのウィリーを探しながらのティムの冒険旅行。 (日本図書館協会)

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やまわらしだれや(わが西山風土記・夏)

『やまわらしだれや(わが西山風土記・夏)』
梶山俊夫/作
冨山房
1979.07
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シュゼットとニコラ 2〜おつかいに

『シュゼットとニコラ 2〜おつかいに』
市川里美/作 矢川澄子/訳
冨山房
1979.06
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キバラカと魔法の馬〜アフリカのふしぎばなし

さくま編訳『キバラカと魔法の馬』表紙
『キバラカと魔法の馬〜アフリカのふしぎばなし』
さくまゆみこ/編訳 太田大八/画
冨山房
1979.09
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あまがえるどこさいった(わが西山風土記・春)

『あまがえるどこさいった(わが西山風土記・春)』 わが西山風土記

梶山俊夫/作
冨山房
1979.07
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その他

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『その他』
1970.04

◆1970年4月から1973年1月まで文化出版局編集部書籍編集課で、絵本の編集を担当していました。課長は『ヘビのクリクター』を訳された中野完二さんで、ちょうど文化出版局で絵本の出版を始めようとしていた頃。
H.A.レイの「じぶんでひらく絵本』シリーズ、長新太さんの「らいおん」シリーズや『ぼうし』や『しっぽ』、アーノルド・ローベルの絵本、太田大八さんの『のぼっちゃう』、石川重遠さんの『だれのぼーる』『かくれんぼ』『にじのくに』などの編集にかかわりました。

◆1979年5月から1998年9月までは冨山房編集部で、子どもの本を編集していました。
翻訳絵本、読み物、辞典などさまざまな子どもの本を担当していました。忘れないうちに思い出したものを書き出しました。若い人と一緒に作った本もあります。

 

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「2023年IBBYバリアフリー児童書」に日本から推薦した本

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『「2023年IBBYバリアフリー児童書」に日本から推薦した本』
2月13日に「2023年IBBYバリアフリー図書」に日本から推薦する本を選ぶ選考会がありました。選考委員は、梨屋アリエさん(児童文学作家)、林左和子さん(静岡文化芸術大学教授)、村中李衣さん(児童文学者/ノートルダム清心女子大学教授)、山田真さん(小児科医)、そして私です。進行はいつも撹上久子さんがやってくださいます。
前は候補の本を並べて、一つずつ見ながら話し合っていたのですが、コロナでそれができなくなり、事前にそれぞれ見ておいてからオンラインで話し合うというかたちになりました。
この選考会は、いつもほかの委員の方々の意見をうかがって、なるほどと思うことが多々あるのですが、今回も「軽度障碍者を派遣で雇うことがいいことであるかのような書き方でいいのか」「パラリンピックの選手をこういうふうに描くと、障碍者にもっと努力しろというようなものではないか」「こういうふうに間の動きを描いてもらうと発達障碍の人たちにもわかりやすい」「これだと命を粗末にしているようにとられる」などなど、いろいろな意見が出てきました。
3時間の話し合いの結果、日本から推薦することにしたのは、次の作品です。
◆カテゴリー1:誰もがアクセスできる本
・『音にさわる-はるなつあきふゆをたのしむ「手」』広瀬浩二郎作  日比野尚子絵 偕成社
・『かける』はらぺこめがね作 佼成出版社
・『仕事に行ってきます① クッキーづくりの仕事 洋美さんの1日』(LLブック)季刊『コトノネ』編集部作 加藤友美子写真他 埼玉福祉会
・『どちらがおおい? かぞえるえほん』村山純子作 小学館
・『ふーってして』松田奈那子作 KADOKAWA
・『まどのむこうの くだもの なあに?』荒井真紀作 福音館書店
・『りんごだんだん』小川忠博作 あすなろ書房
◆カテゴリー2:障害がある子どもや人物を描いた本
・『全身マヒのALS議員 車いすで国会へ』舩後靖彦、加藤悦子、堀切リエ著 子どもの未来社
・『めねぎのうえんのガ・ガ・ガーン』多屋光孫作 合同出版
・『わたしが障害者じゃなくなる日』海老原宏美著 旬報社
2023バリアフリー児童書へJBBYが推薦した図書
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スティーブン・ホーキング

『スティーブン・ホーキング』(ほるぷ)表紙
『スティーブン・ホーキング』 (小さなひとりの大きなゆめ)

マリア・イサベル・サンチェス・ベガラ/文 マット・ハント/絵 さくまゆみこ/訳
ほるぷ出版
2022.02

イギリスの絵本。小学校低学年から読めるようにと工夫された伝記絵本シリーズの1冊で、車椅子の宇宙物理学者として有名なホーキング博士の子ども時代から、難病にかかって絶望の縁においつめられたこと、そこから気を取り直して好奇心旺盛に何にでも挑戦するようになっていったこと、そして現代で最もすぐれた宇宙物理学者になったところまでを、親しみやすい絵で描いています。

このシリーズのコンセプトは、幼い頃に抱いた夢がどんなふうに将来につながっていったかを絵本で表現するということ。ほかには、マザー・テレサ(なかがわちひろ訳)、オードリー・ヘップバーン(三辺律子訳)、ココ・シャネル(実川元子訳)、キング牧師(原田勝訳)、マリー・キュリー(河野万里子訳)、ガンディー(竹中千春訳)、リンドグレーン(菱木晃子訳)、エメリン・パンクハースト(上野千鶴子訳)、マリア・モンテッソーリ(清水玲奈訳)があり、小学校の図書館に入れたらよさそうです。

本の翻訳は、つながっていることがあって、「ホーキング博士のスペースアドベンチャー」シリーズ(岩崎書店)を翻訳したことから、ホーキングの伝記絵本の翻訳依頼をいただいたのですが、ホーキングさんの伝記はもう1冊(『スティーブン・ホーキング〜ブラックホールの謎に挑んだ科学者の物語』キャスリーン・クラル&ポール・ブルワー文 ボリス・クリコフ絵 化学同人 2021.06)を訳しています。
(編集:細江幸世さん 装丁:森枝雄司さん)
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彼の名はウォルター

エミリー・ロッダ『彼の名はウォルター』表紙
『彼の名はウォルター』
エミリー・ロッダ/著 さくまゆみこ/訳
あすなろ書房
2022.01

ロッダさんの、シリーズではない単発の作品で、オーストラリア児童図書賞を(またもや!)受賞しています。テーマは歴史、多様性、ミステリー、権力に翻弄される若者といったところでしょうか。

学校の遠足で歴史的な町を訪れるはずだったのに、途中でバスが故障します。ほかの生徒たちはそこから歩いて目的地に向かいますが、コリン(転校生)、グレース(足の怪我で松葉杖をついている)、ルーカス(コンピュータ好き)、タラ(バスの中で鼻血を出した)の4人は、フィオーリ先生(イタリア系、遠足の責任者)と共に、その場でタクシーが来るのを待つことになります。

今にも嵐が来そうな天候です。バスを回収に来たレッカー車の運転手に、丘の上の古い館で待つといいと助言され、5人はひとまずその館に避難します。ところがタクシーは現れず、5人はその古い館で夜を明かすことに。コリンは、キッチンにおいてあった書き物机の秘密の引き出しに手作りの美しい本が入っていたのを見つけ、タラと一緒に読み始めます。その本の書名は『彼の名はウォルター』。

ところが、何者かがその本を読ませないようにしているらしく、不気味な館では不気味な現象が次々に起こります。この館では過去に何があったのか、その本にはどんな真実が書かれていたのか──見た目も性格もバラバラで友だちでさえなかった4人の子どもたちが、その謎を解き明かしていきます。

現在と過去を1冊の本で結びつけるロッダさんのストーリーテリングが、すばらしい! 館の不気味さと謎でグイグイ引っ張っていきます。

自分で持ち込んで出してもらった本ですが、原書が276ページ、日本語版が350ページ。ページ数が多いので、訳者あとがきはありません。

(編集:山浦真一さん 表紙イラスト:都築まゆ美さん 装丁:城所潤さん+大谷浩介さん)

 

紹介記事

・「朝日新聞」(子どもの本棚)2022年03月26日掲載

週末の遠足でグロルステンという歴史的な町へ出かけた子どもたち。乗っていたミニバスが途中で故障し、フィオーリ先生と4人の生徒は田舎道で立ち往生し、丘のてっぺんにある2階建ての古い屋敷で一晩を過ごすことにした。屋敷の中にあった書き物机から、コリンは表紙に『彼の名はウォルター』と書かれた手書きの本を見つける。不安な夜をその本を読み合うことで切り抜けようとするが、物語の世界が現実に侵食してきて、いいようのない恐怖感に包まれていく。スリル満点のストーリー展開に身がすくむ思いがした。(エミリー・ロッダ著、さくまゆみこ訳、あすなろ書房、税込み1760円、小学校高学年から)【ちいさいおうち書店店長 越高一夫さん】

 

<紹介映像>

・大阪国際児童文学振興財団 「本の海大冒険」土居安子さんによる紹介

<紹介記事>

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2021年12月 テーマ:非日常の経験

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『2021年12月 テーマ:非日常の経験』
日付 2021年12月16日
参加者 ネズミ、ハル、シア、アカシア、アンヌ、さららん、マリトッツォ、雪割草、まめじか、西山、サークルK、(しじみ71個分、ニャニャンガ)
テーマ 非日常の経験

読んだ本:

岩瀬成子『もうひとつの曲がり角』表紙
『もうひとつの曲がり角』
岩瀬成子/作
講談社
2019.06

<版元語録>小学五年のわたしは引っ越してきた町でいつもと違う知らない道が気になり、ずっと先に白い花がさく家が見える路地へと入っていく。
『海を見た日』表紙
『海を見た日』 この地球を生きる子どもたち

原題:THE ECHO PARK CASTAWAYS by Hennessey, M. G, 2021
M・G・へネシー/作 杉田七重/訳
鈴木出版
2021.05

<版元語録>それぞれの事情で、養母の家に預けられた三人の子どもたち。みんながバラバラの方向を向いていて、ちゃんと向き合わずに過ごしてきた。そこへ新しくアスペルガー症候群の男の子が仲間入りし、その子の母親に会いたいという願いをかなえるために四人は冒険に出かけることになる

(さらに…)

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海を見た日

『海を見た日』表紙
『海を見た日』 この地球を生きる子どもたち

M・G・へネシー/作 杉田七重/訳
鈴木出版
2021.05

ハル:ここ何回か、里親と里子の家族のお話を読みましたが、今回はだめな里親というか、里親自身も成長していった点が新鮮でした。理想的ではないのかもしれませんが、それでいいようにも思うんですよね。「だめ」の程度にもよるとは思いますが、心が成熟した素晴らしい大人しか里親になれないというんじゃなくてね。p184の観覧車から海を見るシーンが印象的でした。「きっと世界は、そんなにひどいところじゃない」という1行には、励まされもするし、この子たちのこれまでの日々を思ってつらくもなります。

ネズミ:それぞれの声で語りながら、4人の里子や里親の様子がだんだんと見えていく構成、物語としての盛り上がりなど、非常によくできていて、おもしろく読みました。ただ、声をかえての一人称語りは、すぐには状況がつかみにくく、特に日本では、読者を選ぶだろうとも思いました。父親だけ国にかえされてしまった、エルサルバドルからきたヴィク。言葉が出ない、スペイン語圏出身のマーラの状況など、外国から来たということも、よくわからないかも。とてもいい作品だけれど難しそうだなと。

アンヌ:以前読んだ同じ著者の『変化球男子』(杉田七重訳 鈴木出版)では、作者が読者に伝えたい知識──ホルモン剤とか支援団体の存在とか──がかなり盛り込まれた作品でしたが、今回はあとがきに作者の「里親制度」についての思いが書かれてはいるのですが、表立ってはいません。物語も登場人物もおもしろくて、その中で、絶望させない、偏見を持たせないような感じで、里子のことを分からせてくれます。なんと言ってもヴィクの持つスパイ妄想がおもしろくて、夢中で読んでいると話がクエンティンをママに合わせようという「作戦遂行」に移っていき、気がつけば子どもたちがみんな揃って旅に出ていました。ナヴェイアの視点でイライラしながら進んでいく道中の途中で、子どもたちが思いがけず遊園地や海で「楽しむ」ということを知ったり、大声で笑いあったりする場面に行きつきます。クエンティンに母親の死という重要なことを知らせるのに、海辺で砂遊びをしながら話すというところでは、海の持つ力が見事に生かされていると思いました。家に帰った後、ヴィクもナヴェイアもミセス・Kもそれまでと変わっていて、気づかないまま肩の力が抜けている。家族として互いに肩を貸しあって、少しずつ楽になっているという終わり方には感心しました。

マリトッツォ: 読み終わってから、『変化球男子』の著者の方か、とびっくりしました。作風がまったく結びつかなかったです。この本は今回、課題本にしてもらってよかったと思っています。もし自分でたまたま手に取って読み始めていたら、途中、かなりしんどくてやめてしまっていたかもしれないからです。終盤で、ぱっと未来が開かれていくような、なかなか他の本では味わえない満足感があります。これは中盤までの閉塞感があってこそですね。里親を称賛するわけでもなく否定するわけでもない、このリアルさは、著者がこういう活動をしている方だからか、とあとがきを読んで深くうなずきました。クエンティンのような自閉症の子の一人称は、掴みづらいことが多いのですが、他の二人のパートで状況が説明されているのでわかりやすく、バランスが絶妙だと思いました。いろいろ好きな表現があります。たとえば細かいところですが、「足にまだ砂がついていて、シーツにも砂がこぼれてるのがうれしい。ビーチもぼくたちのことが好きになって、それで家までついてきたみたいだった」(p260)という部分、素敵ですよね。一つだけ戸惑ったのは、観覧車の部分です。え、安全バーが必要で何周もするの? と、驚きました。

さららん:里親のミセス・Kのもとで暮らす年齢も境遇も異なる4人の子どもが、1つの家族になっていくまでのお話です。数か月ぶりに読み直してみたのですが、いいものを読んだという印象は変わらず、4人それぞれの在り方がずっと心に残っています。自分も「お姉ちゃん」として育ったので、特にナヴェイアに心を寄せて読みました。しっかり者のいい子に見えますが、自分の未来の夢をかなえるために、ある意味打算的に手の焼ける年下の子たちの世話をしています。でも、クエンティンのママの病院へみんなで行くという1日の冒険を通して、ナヴェイアは大きく変わり、他の子の在り方をまるごと受け入れていくのです。みんなで観覧車に乗って初めて海を見る場面、そのあともう1度病院を抜け出して海にいく場面が、ほんとに効果的で、象徴的です。会話のなかで、4人の関係が少しずつ変化するのがわかり、互いにいたわりあえるようになっていきます。(最後はミセス・Kに対してまで!)自分のことで頭がいっぱいのクエンティンが、英語がほとんど話せないマーラと心を通わす場面など、とてもよかったです。ロードムービーのような展開のため、刻々と場所が移るにつれて感情や考えもゆれ動く、いってみれば「目に見える」物語なので、読者の記憶に深く残るような気がします。それまで英語をほとんど話さなかったマーラが、最後のほうで「まったくうちの家族ときたら」(p277)と首をふりふり言うところ、そこが実に自然で、マーラを抱きしめたくなりました。

雪割草:この作品は、里子の子どもたちを通して新しい家族のかたちを描いているのかなと、読んでみたいと思っていました。最初の印象は、ヴィクがうるさくて口調が老けているように感じました。でも、口調は父親を尊敬しているからでは、と言われて納得しましたし、2回目に読んだときは、ADHDの特徴がよく描かれていると思いました。作品全体を通じては、厳しい状況にある子どもたちが、海の美しさに圧倒されるシーンのように、世界を肯定できるような、希望をもてるような体験をすることや、仲間の存在が生きる力につながるということを、改めて感じることができました。また、原題にある「漂流者」や、「わたしたちは、ひとりでやっていかないといけないの……。」(p161)にあるように、子どもたちの心情もよく描かれていると思いました。私の友人や友人の親が里子を育てていますが、そういった家庭は日本では少ないと思うので、里親制度や、子どもを社会やコミュニティで育てるといった考え方が広まっていくといいなと思いました。「オナカスッキリ! ナヤミスッキリ!」(p180)は子どものセリフとして違和感がありました。

アカシア:これは、吊り広告の言葉をそのまま繰り返してるんじゃないですか?

まめじか:いい作品なんだろうな、とは思ったのですが……。シビアなテーマの作品なのに、今ふうの軽い言葉がいっぱい入ってるのが浮いてるようで、二次元のキャラみたいに感じてしまいました。たとえばヴィクのせりふで、「当ててみ?」(p6)、「オタク、ちょっとヘンタイ趣味入ってます?」(p8)、「タルい」(p30)、「マジ、こわいんですけど」(p155)。一方で「世を忍ぶ」(p11)、「迷惑をこうむる」(p179)など、11歳にしては大人っぽい言葉づかいをするのが、どうもしっくりこなくて。そんな感じで読み進めたので、訳者あとがきの「この世界には、こんなにも、こんなにも素晴らしい子どもたちがいる」という最後の一文でひっかかってしまいました。もちろん、この本に出てくる子たちの状況はとても大変なものですが、そうした子はほかの本の中にも、現実にもいっぱいいるし。あと些末なことですが、マーラがホームレスの男の犬にチョコレートをやっていますが、チョコレートって、犬に絶対食べさせちゃいけないものの1つですよね。p3のクエンティンの語りで、「女の人はこまった顔になって」とあるのですが、アスペルガーのクエンティンは人の気持ちを読みとるのが難しいと思うので、どんな表情が悲しい顔なのか習ったからわかったということですよね。

アカシア:普通は、学習を経てわかるようになると言われていますよね。これまでの多くの作品は、ハンデを持っている子どもが1人という作品が多かったのですが、この作品は、ADHDとアスペルガーの子が登場し、マーラという小さな女の子も何らかの発達の遅れを抱えているのかもしれません。なので、書くのが難しいかと思ったのですが、年齢や性別や障碍も違うのでちゃんと書き分けられ、ひとりひとりが独立した存在に描かれているのがすごい、と思いました。ナヴェイアは、成績のいい子で、ハンデを持っているわけではないと思いますが、黒人なので生きにくさはやっぱり感じています。ナヴェイアがクェンティンを連れていこうとしたときに、白人の女の人に疑念をもたれる場面もありました。生きにくさをそれぞれ抱えている子どもたちだからこそ、お互いとを自分のことのように感じてわかり合えるのだと思いました。ナヴェイアが優等生の自分の殻を脱ぎ捨てて海辺でみんなで楽しもう、という場面は、とても印象的でした。この作品には助ける大人が出てこないので、子どもがお互いに助け合います。しかも、やっぱり問題を抱えている大人のミセスKに子どもたちが保護者的な視線を送っているのもおもしろいと思いました。4人でクエンティンのお母さんを探しにいこうというあたりからは、展開も速くなるのでハラハラしましたし、子どもたちの関係がだんだん密になっていくのもわかって、おもしろく読みました。わからなかったのは、さっきまめじかさんもおっしゃった犬にチョコレートをやるところ。それからp15にミセスKが「養母」として出てきますが、養子ではないので「里親」なのでは?

西山:一気に読みました。作者のあとがきで、現実のことがくわしく書かれてて、これがロサンゼルスの里親制度の抱える問題ということは明示されているわけですが、日本の読者が読んだときに、日本の里親制度にネガティブな印象をもたないかな、とちょっと危うく思いました。海を見た幸せな1日を経て、子どもたちの関係が親密に変化してからの様子に、『かさねちゃんにきいてみな』(有沢佳映作 講談社)を思い出しました。抱えている背景の深刻さは違うとはいえ、異年齢の子どもたちのその年齢らしさや、互いへの気遣いが重なって、状況が違っても普遍性を持っている子どもの本質的な部分を見せてもらえた気がします。(以下、言いそびれとその後考えたことです。クエンティンが他者の中でなんとかやっていけるように、お母さんがたくさんのアドバイスをして、クエンティンがことあるごとに、その言葉を思い出すことでパニックを回避している姿がとても印象的でした。読書会が終わって、つらつら思い返していて、こんなに彼を導いていたお母さんなのに、どうして自分の死を受け入れられるようにする手立てをしていなかったのかとふいに思い至りました。癌を予期できないとしても、いきなりの事故死ではないし、病気にならなくても、いずれ自分の方が先に死ぬのだという現実を、クエンティンが受け入れられるように用意することは最大のミッションなのではと。そう思うと、ちょっと冷めました。)

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ニャニャンガ(メール参加):クエンティン、ヴィクの視点ではじまるため、物語に入るのに少し時間がかかりましたが、ナヴェイアが登場して全体像が見えはじめ、さらにクエンティンのために旅に出たところかにはすっかり引き込まれていました。ミセスKが心を閉ざして子どもたちの世話をしないせいで、ナヴェイアが年下の子たちの面倒を引き受ける姿には胸をしめつけられます。ほかの3人の面倒をひとりでしていたナヴェイアが限界に達したとき、ヴィクが頼りになる存在になり、子どもたちの絆が強くなって、ほんとうによかったです。しらこさんによる表紙も、とてもいいと思いました。ロサンゼルスの里親制度をよく知る作者だからこそ書けた作品です。

しじみ71個分(メール参加): ロサンゼルスの里親制度の実態をリアルに描写していて、子どもたちの切実な実情を伝える本だと思いました。養育に欠ける子どもたちがたくさんいるために、里親にあまり向かないような状況の人のところにも里子が引き取られることがあるというのは、ロサンゼルスに特徴的な事象なのか、全米的な問題なのでしょうか。いずれにしても大変な状況だとまず思いました。最年長のナヴェイアが我慢を重ねて小さい里子たちの面倒を見て、大学に進学して自立することを願う姿はいじらしく、特にp95で、突然「涙が目に盛り上がってきた」という場面には共感して、こちらもウルウルしてしまいました。いろんなことに疲れてるんだろうなぁって思い……。ADHDのヴィクは頭の中に言葉があふれていて、うるさいですが、私には可愛らしく見えて、とても好きなキャラクターです。新入りのクエンティンがアスペルガーで、小さいマーラはスペイン語しか話さないという、それぞれ異なる難しさを抱えた子どもたちがどうなっていくのか、興味に引っ張られて最後まで読み通しました。海を初めて見たシーンは特に印象的で、困難にある子どもたちには子どもらしい家族とのあたたかな思い出や楽しい経験がない、あるいは奪われたりかもしれないということに気付かされて、胸がつまりました。クエンティンの母を探して旅をして、海と出合ったことが、4人の共通の喜びの経験となり、家族として結びついていくきっかけになっていて、そこはとてもうまい装置になっているなと思いました。失意のために、養母としての役目が果たせてこなかったミセスKが、最後に子どもたちのおかげで気力を取り戻し、立ち直るという結末も読後感がよかったです。

(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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もうひとつの曲がり角

岩瀬成子『もうひとつの曲がり角』表紙
『もうひとつの曲がり角』
岩瀬成子/作
講談社
2019.06

まめじか:英語を習わせるのも家を買うのも、子どものためだと言いながら、実は親の自己満足なんですよね。そうした大人の一方的な思いや、遠いのに自転車通学を許されない不条理な学校の仕組みの中で、朋もお兄ちゃんも窮屈な思いをしています。そして子どもの自我が目覚め、そういう大人の押しつけに反発すると、やれ反抗期だとかなんだとか言われてしまう。そんな中で言いたいことを言えない朋の気持ちが、「先生はいっぱい言葉をもっているのに、こっちにはなにもない」(p88)という語りにこめられていると感じました。朋はひとりの時間に日常のすき間にはいりこんで、そこで不思議なできごとを体験するわけですが、秘密をもつことが成長につながるのは、E.L.カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)にも通じます。曲がり角の先は別の道がつづいてる、ここ以外の世界もきっとあるというのを、こういう形で描けるなんて。作者の力量を感じる作品でした。

雪割草:今回の選書係だったのですが、最近読んだなかでとてもよかったので、選びました。まず、私は兄がいるのですが、兄とのやりとりの描写にリアリティがあり、親しみを感じました。しれっと妹に洗いものをさせたり、中学になって変わっていったり、兄も案外考えているんだなと感心させられたり、なんでも兄には話せたり。それから、この作品のように、日常の中でふと、異空間や異次元といった非日常にいくことのできる物語が好きで、子どもの頃から憧れていました。「心って、いつおとなになるの?」(p183)や「ついこのあいだ、わたしもあなたみたいな子どもだったの……。」(p239)とあるように、オワリさんとその子ども時代のみっちゃんを通して、一人の人間のなかに子ども時代が生きつづけていることを感じることができました。また、このふたりをつなぐ存在として、センダンの木を登場させているのもいいなと思いました。ネギを背負った人など、ところどころユーモアがあるのも楽しかったです。ただ、表紙の女の子の絵は、私の想像とは違うと感じました。

アカシア:どんなふうに違ったんですか?

雪割草:本では、もうちょっとおてんばなイメージでした。

まめじか:私も、この子はもっとはっきりものを言える子だと思うので、イメージとは違いました。絵はおしとやかな感じがします。

アカシア:酒井さんの絵は、静的で内容から受ける印象より少し幼い感じがいつもしますね。だから人気があるのかもしれませんけど。

シア:私もイメージと異なって、酒井駒子さんの絵は大人好みになりすぎると思っています。YA辺りならいいのかもしれませんが。表紙から抑えめなのもあって、描写はていねいで良かったんですけれど、心は打たれませんでしたね。将来役に立つから、という言葉がそのとき限りの大人の言葉として扱われていて、悲しく思いました。みっちゃんがそろばん塾を辞めたその後がわかったりすると、大人の方便にも聞こえるような“将来役に立つ”という言葉の意味が生きてくると思うんです。お母さんに隠れて読んだ漫画はどうだったかとか、ダンスはどうなったのかとか、全然わからなくて。大人の言うなりになることと、自分で決めることの本当の違いがオワリさんの人生を通して見えなかったので、このタイムリープで学べるものや成長がなかった気がします。英語にしても、同音異義語の不思議とかいい視点を持っているのに、笑われるからと委縮して言えなくなっていてもったいないと思います。フォローしてくれない人たちがたまたまいただけで。アメリカ人なのに鷹揚に接しない先生も珍しいけど。心を開いたり勇気を出せば、耳を傾けたり足りない言葉をくみ取ってくれる大人もいるという役割をオワリさんがやってくれていないので、見えない将来に時間をかけたくない、で話が終わってしまっていて、結局オワリさんがロールモデルにならず、今回の経験は気持ちが若返ったオワリさんにしかメリットがなかったと思います。子どもが読んだらおもしろいんじゃないかな。「うん、でも、たぶん、わかってないと思うけど」(p250)と最後まで周りと壁を作って、大人と子どもの境界線をはっきりつけてしまう子どもの視点で書かれているので、「だよねぇ!」「わかるぅ!」と今を見ている子どもたちが共感できる作品にはなっていると思います。保護者が読めば気づきみたいなのは得られるかもしれません。気になったのは、なぜ主人公が元の時代に戻れなくなるとか、昔の時代に行けなくなったとかがわかるのかということです。つるバラが決め手なのでしょうか?

まめじか:私は、オワリさんの人生とか、習いごとが将来役にたったかどうかなんていうのは、この本にはなくていいのではないかと。主人公の朋が、今ここだけじゃない世界を知るというのが、この本のキモなので。

さららん:ふつうの家族、絵空事じゃない家族の中にある無数の違和感を、岩瀬さんはいつもうまくとらえています。大人も子どもも、そしてその関係も、ありきたりではありません。いま生きている人間が感じられるところ、そして子どもの反骨心が、岩瀬作品の魅力です。新しい家に引っ越したあと、願いをかなえたママはやけに張りきっているけれど、空回り気味。「わたし」やお兄ちゃんとの関係はもちろん、パパとの微妙にすれちがう関係も会話の中に巧みにとらえていて、「うちとおなじだ……」と驚きました。中学生になったばかりのお兄ちゃんは、コーヒーフロートを勝手に作ってひとりで飲んでいるのですが、そんなエピソードにも妙なリアリティがあります。でも現実の話だけで終わらず、オワリさんというおばあさんが朗読する物語の世界や、時間を超えて主人公が迷いこむ世界など、重層的にいろんな要素が入っていて、かなり凝った造りになってますね。「英語でなにかいおうとすると、普段自分の中にある日本語のいろんな言葉の意味がすうっとうすくなっていくような気がした」(p12)など、英語を学び始めたときのもどかしさを表現する言葉には膝を打ちました。「よりよいって、それはだれがきめるの? 人によって、それはちがうんじゃないの。そんなあいまいなもののために、いまの時間をただがまんして無駄にしろっていうの」(p221)と、主人公がパパにいうところでは大喝采。これが言えないがために、今の子どもたちは炸裂するくらい苦しんでいるんじゃないかと思うのです。「わたし」はほんとに頑張った! オワリさんとの出会い、まったく違う時間、違う角度から自分を見られことが、主人公の力になったのだと思いました。

マリトッツォ:安定の岩瀬成子さん作品という感じで、引き込まれて最後まで読みました。児童文学は、「続ける」「頑張る」「達成する」というテーマがどうしても多くなるので、大人から見て正当な理由がなくやめる状況に寄り添っているこの本は、子どもの味方だなと思います。また、一般的なタイムトラベルものだったら、なぜそこに行ってしまうのか、というロジックが明確でないと入り込めないのですが、この作品は描写がていねいなので、明確な説明がなくてもそんなに気になりませんでした。あと、主人公の「わたし」の一人称と、おばあさんの創作の文章がはっきりと違うので、そういうところにもリアルさを感じました。「わたし」の文章は、同じ言葉を重ねることが多くて、たとえば、「わたしはリモコンで部屋の明かりを消した。リモコンで部屋の明かりを消すのも、この家に来ておぼえたことの一つだった。」(p24)というふうに、重複が多いんですよね。この年頃の子の思考、表現を忠実に再現していると思います。なお先ほど、そろばん教室を辞めて、その結果どうなったのかが書かれてない、という話題が出ましたが、「そろばん塾を辞めても喫茶店の経営はちゃんとできた」ことが、もしかしたらひとつの答えなのかもと思いました。

アンヌ:今回はテーマが「非日常の経験」だったので、てっきりファンタジーだと思っていたのですが、p60まで読んでやっと異世界が現れるので、もしかすると異世界より現実界に比重がある物語なのかと気づきました。なんとなく『トムは真夜中の庭で』(フィリッパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店)を思わせるタイムスリップ物なのですが、ファンタジーにある謎とき的要素は全然ないまま終わります。異世界で、犬を連れた男の子やいじめっ子をやっつけることができて自由にふるまえる自分に気づいて、そこで現実世界でも家族に自己主張できるようになるという話がていねいに語られていくのは魅力的でしたが、やはり私としては異世界の方に興味があったので、せっかく、みっちゃんに現実世界で会えても、主人公は相手が自分に気づくかとドキドキしたりしないし、みっちゃんであるオワリさんの方も気づかないままでいるのが、なんだか不思議な気がしました。どちらかというと、朗読している庭に入っていくときの方が、過去にタイムスリップするときよりドキドキ度が高かったり、オワリさんが作る話がおもしろくて謎があったりするので、この現実世界の方がおもしろい気もしました。最後は、主人公がこれからも、またオワリさんに会いに行こうと思っているところで終わるから、いつか、二人がお互いに気づくというか名乗りあう時が来るかもしれません。そんな風に、読者がいろいろ考えて、この物語が続いていく感じで終わるところがこの作品の魅力なのかもしれません。でも、ファンタジー好きの私にとっては、少々不満がある物語でした。

ネズミ:私はとてもおもしろかったです。英語塾をやめたいと言えるまでというのがストーリーの中心だと思います。こうなって、こうなったから、こうなったというふうに結果が差し出されて「はい、終わり」となる本もありますが、岩瀬さんの本は、この物語の前にも後にもお話が続いているのを、ここだけふっと切り取ったような印象があって、そこがほかの書き手と違うなと。曲がり角の向こうに、思いがけない世界があるすてきさ。p8で、マークス先生の言う「エイプウィル」が「四月」のことなんだとわかったあとに、「なんだあ、と思った。それから、疲れる、と思った。」とか、p250のお風呂に入りなさいと母親に言われたおにいちゃんが、「おれはあとで」と答えて、「わたしも」と、わたしがいうところなど、何気ない表現に日常や人となりが透けてみえます。こういう表現が物語を支えているのだと思います。

さららん:会話を「作ろう」とは思っていないのかも。登場人物が頭の中で、いつのまにか動き出して、勝手に話しているんでしょう。

ネズミ:この子が、大人にグサッとささるようなことを言うのも、そういうことなのかも。最後に、英語塾に行かないというのを言えてよかったです。

ハル:作家は皆さんそうだと思いますが、岩瀬さんの小説は、岩瀬さんにしか書けないものだということを特に強く感じます。なんてことなさそうな表現のひとつひとつが素晴らしい。p54で描かれている、お父さんとお母さんのけんかの、端で聞くとうんざりな感じとか、p100で犬をけしかけてきた高校生くらいの男の子に「YTっていうのはおぼえたからね!」とか。いかにもちょっと大人になりはじめた時期の子どもという感じ。p157は、朋がみっちゃんのいる世界は自分がいてはいけない世界だと気づきはじめる場面ですが、p156では「ばいばーい」って無邪気に手を振り合って、p157の3行目でいきなり「後ろはふりむかなかった。ふりむけなかった。ふりむいちゃいけない気がしていた」とくる。そこで読者は朋も気づいていたことを知ってぞっとするわけです。この1行が効いているなぁと思います。そして初読のときから何げに強く印象に残ったのは、作中作までおもしろい! というふうに、あげたらきりがないんですけど、子どもは将来のためでなく「今」を精一杯生きているんだと改めて思い出させてくれるところとか、物語の構成もテーマももちろんなのですが、技巧を楽しむという意味でも繰り返し読みたい1冊です。それから、先ほど、朋がタイムスリップした意味についてのご意見がありましたが、たとえば、みっちゃんが習わされていた「そろばん」だって、今の世界の朋にとったら、学校でちょっと習うくらいのもの。こんなこと言ったら反対意見もいただきそうですが(笑)、朋が習わされている「英語」だって、そのうち同時通訳機みたいなのがもっと優秀になって、いやいや勉強する必要なんてなくなるかもしれない。大人のいう「将来役にたつ」は案外あてにならないぞということを知っただけでも、タイプスリップさせた価値はあるんじゃないでしょうか。

アカシア:岩瀬さんは、言葉の使い方がほかの作家と質的に違いますよね。梨屋アリエさんの『エリーゼさんを探して』(講談社)という作品も、親にものが言えない子どもというテーマですが、梨屋さんのほうは、主人公がお母さんとはすべて「です・ます調」で会話しているという設定で、抑圧された状態を表しています。岩瀬さんの方は、子どもの気持ちをそのまま描いていくという書き方。岩瀬さんは、自分が子どもの時の気持ちを忘れてないんですね。このテーマは、思春期の子どもにとってはとても大きいのでしょうね。嫌なことはしなくてもいいというふうに子どもの背中を押してくれる本なんですね。岩瀬さんは今アンデルセン賞候補になっていますが、このおもしろさを100%楽しめるのは、日本の現代に生きている人たちかもしれないと思ったりもします。岩瀬さんの作品はストーリーラインだけで読ませるものとは違うので、翻訳するのはそう簡単じゃないでしょうね。日本語の堪能なとてもじょうずな翻訳者が岩瀬さんに乗り移ったみたいになって翻訳してくれるといいな。

まめじか:前提となる生活のこまごました背景を知らないと、ね。

サークルK(後から参加):とってもおもしろかったです、主人公と曲がり角の先にいるみつほさん/みっちゃんの関係が、まるで『トムは真夜中の庭で』のトムとハティの関係に似ているのかな、と思ったので。初めての環境に慣れていく子どものドキドキ感が伝わってきました。現代的な両親の期待に(違和感を感じながらも)応えようとしてもがく主人公の姿や、一足先に思春期になってあまり自分の気持ちを話さなくなっていくお兄ちゃんとの関係に、読者は共感できるのではないでしょうか。p30で、お母さんが(賃貸住宅ではない)初めての持ち家に愛着があって、たとえ不在であってもきれいにしておかないと「(台所が)ママに告げ口をするような気がした」という文章にハッとさせられました。人間が不在でも、その人が大事にしているものがその人本人に代わって、人間を見張っていると感じてしまうことは時々あるような気がするから、そういう表現はとても興味深かったです。大人が子どもの先回りをしてどんどんことを進めていくことへの批判――子どもが間違えたり傷ついたりする自由が奪われるべきではない――をこめた主人公の成長物語になっているように思いました。

西山(後から参加):以前読んだんですけど、再読しはじめて、ああこの路地の雰囲気知ってる、この景色見覚えある、この登場人物たちも知ってる・・・と思うのですが、初読時の感想も、ストーリーも思い出せません。自分の記憶の情けなさを棚に上げてなんですけれど、岩瀬成子の作品は、一言一言をおいしく味わう、そういう経験になっている気がします。たとえば、「わたしは塾に行く途中で、急に気が変わる予定だった。」(p30)などという一節がたまらなくおもしろい。そうやっておもしろく読んだのに、覚えていないと……。

アカシア:大テーマのある作品じゃないからですかね?

西山:岩瀬作品は、読書の快を感じる作品ですね。

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しじみ91個分(メール参加):新しい家に越してきて環境に慣れない主人公の朋が、ふと思い立って英語塾に行かずに小道の先の曲がり角を曲がったら過去の空間に行ってしまい、一人の女の子と出会うというお話ですが、嫌なことがあったり、くさくさしたりしたときに、ふっと「どこかに行っちゃいたいな」と思ってしまうときの、「どこか」の感じをありありと体験させられるような物語でした。読んで、子どもの頃、マンションの一室の自宅に帰るとき、いつもと違うの入口から入ったら、角度の加減で廊下の突き当りにあるはずの自宅が見えず、家がなくなったんじゃないかと怖くなった小学生のときの経験を思い出しました。朋が、朗読をするオワリさんと仲良くなって異空間に入り込み、みっちゃんという女の子と仲良くなりながらも、帰れなくなるんじゃないかとこわくなり、こちらの世界に戻ってくる感じは、日常の裂け目に入り込んでしまったときの、空恐ろしい不安をリアルに感じさせてくれ、ちょっと背中がぞわぞわしてしまいました。でも、朋が感じたその恐怖感は、逃避を選ばず、きちんと日常に向き合って行こうとする生命力の裏返しでもあるのかなと思って読みました。また、ほかの方もおっしゃっていることですが、全編を通して、『トムは真夜中の庭で』へのオマージュを感じました。モチーフになるのは双方1本の木で、あちらはイチイの木で、こちらはセンダンの木などと、さまざま両作品間の違いはありますが。過去の異空間にタイムスリップして、おばあさんの若い頃に出会うというしかけには共通するものを感じます。岩瀬さんの物語は、子どもの日常に生じたちょっとしたズレや断層から、日常がゆらいでいく様子を描いているように思うのですが、それを読むと心がざわざわします。でも、それが気持ちよくて、岩瀬さんの物語が好きなんだなぁと自分で思います。お兄ちゃんの晴太の思春期の親離れが進行していく様子も好ましく読みましたが、同時に賢いお兄ちゃんだなとも思いました。岩瀬さんのリアルな描写と、タイムスリップファンタジーとの組み合わせが大変におもしろかったです。

(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2021年11月 テーマ:命を見つめる

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『2021年11月 テーマ:命を見つめる』
日付 2021年11月17日
参加者 ネズミ、ハル、花散里、エーデルワイス、アンヌ、しじみ71個分、カピバラ、マリンゴ、雪割草、コアラ、西山、さららん、まめじか、ハリネズミ、アカシア、(ニャニャンガ)
テーマ 命を見つめる

読んだ本:

花形みつる『徳次郎とボク』表紙
『徳次郎とボク』
花形みつる/著
理論社
2019.04

<版元語録>四歳から小学校六年生まで、祖父とボクの物語。お祖父ちゃんはだいたいのものが、それがどんなに便利でも新しくても高価でも、気に入らない。朝起きて畑に行き、夜寝るまで一度決めたルーティーンは、正月だろうがなんだろうが変えない頑固者だ。そんなお祖父ちゃんのガキ大将だったころの話を聞くうちに、ボクは子どものお祖父ちゃんが大好きになっていく。
『神さまの貨物』表紙
『神さまの貨物』
原題:La Plus Précieuse des marchandises by Jean-Claude Grumberg, 2019
ジャン=クロード・ランベール/著 河野万里子/訳
ポプラ社
2020.10

<版元語録>戦時下、列車の窓から投げられた赤ん坊を必死に守る大人たち――。モリエール賞作家が描く、人間への信頼を呼び覚ます愛の物語。

(さらに…)

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神さまの貨物

『神さまの貨物』表紙
『神さまの貨物』
ジャン=クロード・ランベール/著 河野万里子/訳
ポプラ社
2020.10

しじみ71個分:これを読んだのは3度目です。この作品は寓話の形を取りながら、背景としてユダヤ人の迫害とホロコーストの歴史的な事実を題材にとって描いています。ホロコーストの事実を訴える文学は多々ノンフィクションにありますが、ホロコーストを描きつつ、寓話として壮大な愛を描くというのはほかにないタイプの作品だと思います。最初に読んだときは、話がとてもハードで、硬質で、大きなテーマを持っているのに対して、翻訳の言葉がところどころ優しすぎるところがあるのではないかと、一瞬違和感を覚えました。そのときは、同様に寓話の形を取っている、『熊とにんげん』(チムニク著 上田真而子訳 徳間書店)を思い出していたのですが、上田さんの訳が、物語とあまりにも融合していたので、その幸福な感覚とつい比較してしまったのですね。ですが、2回目に読み直したときは、大劇作家による、ストレートでかつ壮大な愛の歌い上げが、物語の最後でドカンと胸に迫り、すごく感動しまして、翻訳云々生意気なことを考えたことを反省しました。特に好きなのは、きこりが、最初は赤ん坊を避けていたのに、おかみさんの導きで赤ん坊の胸に手を置いた瞬間に、愛を感じ始めるシーンです。また、きこりも、森に住む戦争で顔が崩れたおじさんも、おかみさんと赤ん坊のために命を擲ち、戦って死んでいくシーンは何度読んでも胸にぐっと迫ります。赤ん坊のお父さんがホロコーストを生き延びて、娘を見付けたけれど名乗らずに去っていくシーンも哀切です。赤ん坊は美しい少女に育ちますが、ソ連で生きていくことになるという未来が、本人にとって幸せなのかどうかは分からないというところにもまたひとつ仕掛けがあると思うのですが、結果はどうあれ、1つの命を守るためだけに、次々と命を投げ出すことになった人たちがあったかもしれない、という寓話に込められているのは、偶然によってでも繋がれていく命への畏敬の念と賛歌、愛なんだなぁと思い、作家自身の深い思いに圧倒されました。

花散里:私も今回読んだのは3回目ですが、改めて胸を打たれました。ホロコーストの作品はたくさん読んできましたが、心に残る1冊になりました。「むかしむかし…」とおとぎ話のように始まりますが、雪の中に貨物列車から投げられた赤ちゃんが、子どもがほしいと願い続ける、大きな暗い森に住む貧しいきこりのおかみさんに拾われていくという物語は、惹きつけられるような作品で、読んでいて重厚な印象が心に深く残っていきます。巻末の「エピローグ」と「覚え書き ほんとうの歴史を知るために」は、最後にドシンと心に響き、この胸に迫る感じはなんだろうと考えさせられました。装丁もとても良いと思いました。歴史を伝えて行くためにも大事な作品かなと思いますが、内容を紹介して手渡していくことが大切ではないかと感じました。

コアラ:感動しました。この本も電車の中で読んでいたのですが、エピローグの最後、p149の「たとえどんなことがあっても、どんなことがなくても、その愛があればこそ、人間は、生きてゆける」のところで涙ぐみそうになってしまいました。でも、ちょっと冷静になって考えると、読者に読み取ってほしいことを、作者が最後に言ってしまっているというのは、どうなんだろうと。「愛だ」と一言で明かしてしまっているんですよね。ただ、そのエピローグを読んで、私は感動したわけだし、やっぱりこの形でいいんだろうとは思います。出だしは昔話風ですが、読んでいてすぐに、これはナチスの強制収容所に送る列車の話だとわかる。歴史を知っているからこそ、幼い命や、赤ちゃんを守ろうとする大人たちの思いとか幸福感とかが、美しく感じられました。やさしい言葉で書かれていて、子どもから大人まで幅広い読者層に訴える本だと思いました。ただし、私はひねくれた子どもだったので、寓話の形で書かれたこのような本を、子どもの私は、好んで手に取ることは、しなかったかもしれません。大人になって読んだからこそ感動したのだと思います。

カピバラ:今回2度目に読んでみたら、1度目に気づかなかったことに気づきました。p4の冒頭の文章です。「むかしむかし、大きな森に、貧しい木こりの夫婦が住んでいた。おっと待って、これはペローの童話じゃないから大丈夫。出だしは『親指小僧』に似ているけれど、貧しくて子どもたちを食べさせられないからって、自分の子どもを棄てる親の話などではない。そんな話はたまらない」。ストーリーを知った上で読むと、すごいことが書いてあるなと、衝撃を受けました。そして結末がわかっているのに、ページをめくる手が止まらず、また最後まで引きこまれてしまいました。ひとつひとつの文章が、そっけないくらい短くて、客観的でありながら、登場人物の心情が読者に向かってどんどん迫ってくるような感じを覚えました。最後の著者の言葉「そう、ただ一つ存在に値するもの、それは、愛だ。」、このことを言うための物語だったんだな、と納得しました。いろんな立場の人が出てくるんだけれど、その行いがいいとか悪いとかは一切書いてないんですね。だからこそ、最後にこの言葉が生きてくるんだと思います。胸を打たれたのは、木こりが最初は赤ん坊を邪魔者扱いしていたのに、赤ん坊の肌に触れ、心臓の鼓動を感じてから一転してその命の輝きに心をうばわれる場面でした。これも最後の言葉に結びついているんだと思います。物語だけでも衝撃的なのに、エピローグを読んでさらに衝撃を受け、覚書を読んでもっと衝撃を受ける。そして訳者あとがきが静かに全体をまとめてくれる。1冊全体の構成がみごとにまとまった本だと感じました。

ハル:最初に読んだときには、戦争を伝えていく小説は、新しい形の段階に入っているんだなぁと思いました。ただ、胸に迫るし余韻が残る作品ではあるけれど、私はどうとらえて良いのかわからないというのがいまの正直なところです。戦争によってもたらされた小さな贈り物によって、木こりが愛を知っていく場面はほんとうに美しいのですが、その向こうには残酷な背景があって、「戦争によってもたらされた」なんていうことはあってはいけないと思うし、描かれていることは一貫してグロテスクでもあり。小さな贈り物を守るために斧をふるう場面は作品の中でも見せ所でもあるけれども、やっぱりそれが「斧でよい仕事をした」と言い切れるのかというのも苦しい。おかみさんや木こりや小さな女の子は、無垢ではあるけれど、人々の無知であることのかなしみも感じます。おかみさんが最後には神様を妄信はしなくなるのも印象的ではありましたけれども。この子の父親が列車から赤ん坊を投げ捨てたのは、この子を救ったのではなく、もうひとりを救うためでしたし……。一言に「泣ける」「心温まる」「美しい」では片づけられない作品だとは思います。

マリンゴ: ホロコーストを描いた物語は、いかに残酷であったか、という描写に重きを置かれることが多いと思います。そのなかでこの本はおとぎ話のような語り口で、残酷な描写を最小限にして、本質的な部分を抽出しています。作者の祈りのようなものが、伝わってきました。ホロコーストのことをよく知っている大人と、ほとんど知識のない子どもとでは、だいぶ読んだ印象が変わってくるのではないかという気がして、子どもの反応も聞いてみたいなぁと思いました。細かいところですが、p77の「まっ黒な胆汁をペッと吐いた」の部分、黒い胆汁を吐くことがあるのか、と調べたのですが、そういう事例があまり見当たらず、気になりました。

雪割草:胸に迫ってくると同時に、美しい情景の浮かんでくる作品だなと思いました。ホロコーストという酷すぎる状況の中で、生と死、子どもを愛しむ気持ち、希望を上手に浮かび上がらせているなと思いました。おかみさんの揺るぎなさだったり、貧しいきこりが「人でなしにも心がある」と仲間の前で叫ぶまでに変わったり、顔のつぶれた男の心の美しさだったり、人間味がよく描かれているとも思いました。運命のような偶然のようなめぐり合わせとしての構造は人間の人生ってこんなものかなと、本質的なところをついているように感じました。ただ、たまに展開が急だと感じたり、時代背景を知っているからわかる部分も多く、ホロコーストを知らない子ども向けではないかな、どう感じるかなと気になりました。

ネズミ:読むのは2回目でした。とてもよくできたお話でしたが、『三つ編み』(レティシア・コロンバニ著 齋藤可津子訳 早川書房)を読んだときと同様、作為や感動させるための仕掛けを感じてしまい、手放しに深く感銘をおぼえるということはありませんでした。きっと私がひねくれた読者なのだと思います。絶対悪としてのナチスを描いた作品はもう無数にあります。ファシズムと抵抗した人々という構図を示すだけの作品で、ヨーロッパの悲劇ばかりに私たちの目を向けさせることはないだろうという気持ちもあって。大人が読んだら時代背景がわかりますが、何も知らない子どもに読ませるのはどうかなと思いました。

アカシア:ある司書の方が、この本を読んだけど何言ってるかよくわからないとおっしゃっていたのですが、読んでみると、私自身はわかりにくくはなかったし、深いものがあるとも感じました。ただその司書の方がなぜそうおっしゃっていたのかも、わかるような気がしました。たぶんいい意味でも悪い意味でもフランス的なのではないでしょうか。最初に親指小僧が出てきますが、英米の作家ならこういう書き方はせずに、もっと一直線に書いていきます。フランスの作品は斜に構えて書く場合が多いと思うのですが、これもその一つだなあ、と感じてしまったのです。「子どもの本なのにそんなに斜めから書かなくてもいいじゃないか」と思う人はけっこういるんじゃないかな。まあ、この本は、子どもじゃなくて大人向きに出ているのかもしれません。味付けが一風変わっている作品なので逆にひと目を引くし、だからこそこの作品もよく売れているのではないでしょうか。こういう作品もあることは、とてもいいと思いますが、たぶんホロコーストを知らないと、フランス風の斜めの味付けが前面に来てしまって、嫌な感じがしてしまうのかもしれません。ちょっとひねった書き方がおもしろいと思う大人のほうが、この作品はより深く理解できるようにも思います。この作品は1つの命を救うためにほかのいくつもの命が消えていくという大変な状況の話でもあるので、ネズミさんと同じように私も、それを斜めから巧みすぎる技法で書いていることにちょっと抵抗がありました。でも、そこに惹かれる人も多いようなのでこれでいいのかもしれません。

エーデルワイス:みなさんも何度か読み直していらっしゃるのですね。読み直すことは大事ですね。この『神さまの貨物』を1回目に読んだとき、歴史的なこと、後世に伝えていくべき大切な内容と理解できるのですが、どうにも好きになれませんでした。何度か読み直して、戯曲として読めばよいのだとなんとか納得しました。アカシアさんの「フランス文学」の特徴、「斜めにみている世界」、をお聞きして、ようやく胸のつかえが降りたようです。最後に生き延びた女の子が旧ソ連の「ピオネール」として国の機関誌の表紙を飾る。その写真を見た医師になった父親が会いたいと手紙を書いた。その後会えたかどうだか分からない。で終わっていて、すっきりしません。第二次世界大戦後の米ソの混沌とした世界を提示したのでしょうか。

アンヌ:1度図書館でこの本を借り出して読もうとしたとき、どうしても読み切れなかったので、今回やっと読めました。お伽話を読んでいるつもりが、少し進むと現実に頬を叩かれる、というような構造のせいで読めなかった気がします。それでも、きこりが赤ん坊を愛さずにいられない瞬間は実に美しく心が温まる思いがしました。父親が娘に名乗らない場面は謎でしたが、エピローグや覚書が続く中で、収容所で亡くなった双子の家族が現実にいたことを知り、もし自分が父親だったら、こんな風に娘の命を助けられたなら僕は何もいらないと祈り夢見ただろうなと思いました。権力がデマで人心を惑わすことへの警告とか、旧ソ連の体制の欺瞞性とか様々な啓発に満ちた物語でもありますが、子供たちにどう手渡せばいいのかわからず、かなりの註や説明が必要になるのではないかと思っています。

西山:はじめてだったんですけど、一気読みでした。すごく興味深かったです。やはりユダヤ人が移送列車から赤ん坊を助けようと投げ出す絵本『エリカ 奇跡の命』(ルース・バンダー・ジー著 ロベルト・インノチェンティ絵 柳田邦男訳 講談社)をすぐに思い浮かべました。しかし、こういう形があるかと驚きました。今の子どもたちにとっては、すでに「歴史」である戦争ですから、昔話のような書かれ方をしてもいいと思います。一方で、抽象化した戦争ではなく、やっぱり事実っていうものを伝える必要もあると思うので、この方法、どうするんだろうと思いながら読み進めてきて、「エピローグ」で「ほんとうにあった話? いやぜんぜん」だなんて人を食ったようなことが書かれていて、しかも、それに続けて「覚え書き ほんとうの歴史を知るために」が来る。年月日と地名と固有名詞の箇条書きのようなこの部分を読むと、私が子どものころこの作品に出会っていたら、虚構もなにも、まるごと、書かれていることは全てほんとだったんだ!と思った気がします。著者の祖父が出てくるのですから。そういう手があったかと驚いたのですけれど、これがいいのか悪いのか、どう考えればよいのかよく分かりません。新鮮だと思ったのは、木こりが自分のやっていることを知っていたという点です。おかみさんの無知ぶりから、木こりも、何も知らず作業にかり出されているのかと思っていたら、十分差別意識をもっている。これは、なかなか厳しい指摘で衝撃でした。生き延びた赤ん坊が長じてソ連の機関誌の表紙を飾るというのも、なかなか皮肉な感じで、そういう展開もはじめて読みました。

さららん:ホロコーストは書きつくされているように思えるけれど、そうか、この手があったか、と私も思いました。昔話のような世界と厳しい現実が1章ごと交代で現れるこの作品を書いたのは、きっと手練れの作家だと思ったら、やっぱりそうでした。短い章をつないでいく言葉が硬質で、寓話の言葉と小説の言葉を巧みに混ぜています。硬質の訳がまたいいですよね。1回目に読んだときは、強烈な後半部分にショックを受けました。木こりの夫婦が女の子の命を救い、愛情をもって育て始めたという話の前半に対して、その木こりが斧で仲間たちを殺すし、情け深い森の男もあっけなく銃で打ち殺されるし、なんて血まみれで残酷な話だろうと、思ったんです。でも2回目に読んだときは、そこはあまり気になりませんでした。エピローグには、この話が作り話だったとわざわざ断りがあり、せっかく読んだものが無に帰すようでしたが、「ただ一つ存在に値するもの――(中略)それは、愛だ。」の締めくくりで、やられちゃいました。ラ・フォンテーヌの寓話やペローの童話のように最後に教訓をつけるふりをしたかと思うと、「覚え書き」まで加えて、現実に起きたホロコーストの記録の一部を伝えている。作者は、文学のジャンルを超える実験を試みたんでしょう。この本の意味がまったくわからない子どもも多いと思います。でも、ひと握りの子どもたちには、忘れられぬ印象を残す作品かもしれません。ここに描かれていたことはいったいなんだったのか?と。

まめじか:収容所の中で起きていることも理解していない素朴な村人のおかみさんは、「列車の神さま」が赤ちゃんを授けてくれたのだと信じています。しかしやがて「列車の神さま」のおかげではなく、雪の中に赤ちゃんを投げた手や、その子を守った人たちの力で赤ちゃんは生きのびたのだと思い至ります。作品にこめられた人間への信頼を感じます。収容所にいる父親の心に希望が生まれ、たとえ当の本人がそれを笑ったり、涙でぬらしたりしても、その芽はのびつづけたという箇所なんかもそうですよね。木こりが赤ちゃんに手をあげようとする場面では、体がふれたときに2人の心臓が響きあい、そのとき木こりは恐怖をおぼえます。いとしいという感情がわきあがってくるのに抵抗しようとするのですが、愛情とかいとしいとか、そういう直接的な言葉をつかわずに表現しているのがすばらしいですね。またおかみさんが赤ちゃんのことを、「わたしの生きがい」ととっさに言うのですが、そんなちょっとしたせりふが真実をあらわしていると思いました。

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ニャニャンガ(メール参加):読みはじめてすぐに、『エリカ 奇跡のいのち』(講談社)の話だと気づき、子どもに伝えるには絵本の方を勧めたいと思いました。この本は、ポプラ社から出ていますが、2021年の本屋大賞、翻訳小説部門 第2位だとすると、大人向けでしょうか。大人向けに感じた理由は、p.25 ひどいことのルビにポグロム、p.135人間性にユマニテとだけあるのは若い読者には親切でないと思ったからです。文章が頭に入らない部分は私の読む力が足りないのだろうと思ったのですが、翻訳についてAmazonレビューに細かい指摘があり驚きました。
https://www.amazon.co.jp//dp/4591166635
フランス語はわからないので翻訳に関してはなんとも言えませんが…名のある方の訳でもあり、有名になると細かくチェックされるのかなと怖くもなりました。

(2021年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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徳次郎とボク

花形みつる『徳次郎とボク』表紙
『徳次郎とボク』
花形みつる/著
理論社
2019.04

アンヌ:児童書というよりすべての世代でそれぞれ共感を持って読まれる本だと思いました。祖父の病院嫌いの場面とか、介護について姉妹でもめる場面とか、今の現実を映していると思います。最初作者が男性だと思っていたので、長女のケイコおばさんの描き方はひどい、介護を担う人の苦労はわかっているのか等と思ったのですが、作者のインタビュウを読んで女性だと知ってからもう一度読みなおしました。主人公の語り口が実におもしろく、p91 の「決まりかな、とボクは思った……決まったな、とボクは思った」とか、p148 の「お母さんの忍耐の結界にはられたお札は今にもはがれ落ちそう」とか、独特の魅力を持つ書き手だなと思いました。主人公が成長しながら死に向かう祖父の気持ちを理解していくという物語よりも、つい介護問題の方に目が行ってしまう世代なので、祖父と3人の息子だったら、こんな風に尊厳を守られたのだろうかとか考え込んでしまいました。

エーデルワイス:「花形みつる」というと『巨人の星』(梶原一騎原作 川崎のぼる作画 週刊少年マガジンコミックス)を思い出し、作者が女性と聞いて驚いています。おじいちゃんと孫の交流を描いていますが、介護をリアルに描いていて、児童書で「介護」を具体的に描いた画期的な内容だと思いました。作者の体験が盛り込まれていたのですね。私事ですが義父母を介護中なので、孫よりも介護する徳治郎さんの娘たちの気持ちに寄り添ってしまいました。97歳になる私の義父も意思が固く、耳は遠くて徳治郎さんとそっくりなんです。徳治郎さんは寝たきりになりますが、最後まで頭はしっかりしていました。世の中たくさんの人が認知症を患っています。今度は的確に認知症を扱った児童書を読みたく思いました。

アカシア:この作品は、子どもの視点で徳次郎をくっきりと浮かび上がらせるのが、とてもうまいなあと思いました。作者は実体験に基づいて描いているのでしょうが、ボクが途中で徳次郎のところに行くより友達と遊ぶほうがおもしろいなと思ったり、母親のきょうだいの言い合いにうんざりしたり、徳次郎の歩く速度が遅くなったのを見て祖父の体力の衰えに気づいたり、などという描写がとてもリアルです。脇役の使い方もうまいですね。エリカちゃんも問題を抱えながらも長所を持った子として立体的に描かれているし、犬のシロは来訪者にぎゃんぎゃん吠えるのに、いつのまにかおじいちゃんの枕元にすわっているし……。最後のほうにヨシオさんという人が出てきて、徳次郎の戦争体験を親族は初めて知るのですが、その出し方も秀逸。死がテーマなのでシリアスですが、文章の随所にユーモアがあるのもいいですね。同じように耳の聞こえない隣の畑のおじいさんとのとんちんかんな会話なんか、想像すると笑えます。この本が産経児童出版文化賞の大賞を取ったときの記事を読むと、徳次郎のモデルは花形さんのお父さんで、お父さんの子ども時代の話がとてもおもしろかったので、それを書こうと思ったのが作品が生まれたきっかけだと語っておいでです。

ネズミ:とてもおもしろかったです。特によかったのは文体で、それぞれの登場人物のせりふや書き分け、特におじいちゃんの口調が巧みで、翻訳ではなかなかできないことだと思いました。高齢者が増えていて、介護と尊厳は大きな問題です。体の不具合をなおすことに熱心になって、クオリティオブライフが後になるというのはよくあることですよね。P.208の1行目に「あのとき、ボクは、わかってしまったんだ、お祖父ちゃんがなにを望んでいるのか。お祖父ちゃんの望みは、自分のやり方で死んでいきたい。多分そういうことなんだ」という言葉があります。また、だれにでもその人なりの人生があるということが見えてくるのが、いいなあと思いました。

雪割草:大変よかったです。読んでいて、懐かしい気持ちになったり、じんわり温かくなったり、電車の中で読んだので泣きませんでしたが、泣きそうになる場面がたくさんあり、いろいろ感じることができる作品でした。おじいちゃんではなく徳治郎としているタイトルからも、ボクがおじいちゃんと一人の人間として出会っているのだと思いました。ボクがおじいちゃんのことをよく観察して、寄り添い慕っているのが本当に見事に描かれていて、こんなふうによく観察して寄り添う力は大切で、ぜひ子どもたちに読んでもらいたいし、おとなにとっても味わい深いと思います。所々、クスッと笑えるところがあったり、親しみがわくところもあったりするもよかったです。特にp60の鳥の巣の場面では、鳥の巣の美しさがわからないいとこたちに向かって「こいつらバカじゃないか」というボクの心の中のつぶやきに、なんだかこう思ったことあったなと妙に共感してしまいました。私は子どもの頃、両親や兄弟、祖父母や曾祖父母と暮らしていて、曾祖父母が老衰のため自宅で亡くなるのを見ました。今は家族で死を看取ることが少なくなっているので、身近な暮らしの中での死を描いているのもとてもよいなと思いました。

マリンゴ: この本は1年以上前に読んでいたので、今回が2度目の読書になりましたが、1回目と2回目で印象がかなり変わった本でした。大前提として、とても読み応えのある本で、人が生きて死ぬリアルが伝わってきますし、3姉妹や姪っ子のエリカちゃんなど、脇のキャラクターも魅力的です。あと、横須賀は多少土地勘があるので、急勾配の坂とか山の上にある畑だとか、そういう風景も目に浮かびました。特に前半、自然の中で虫をつかまえたりおじいちゃんの子どものころの話を聞いたり、そんな場面が鮮やかでした。タマムシが、小道具としてラストに再び登場するのも素敵ですよね。ただ、1回目は、自分が子どもの頃だったらどんなふうに受け止めたか、という視点を持ちながら読んだので、この本に描かれている死への道のりがリアルすぎて、ここまでまだ知りたくなかった、という気持ちになるのでは、と思ったのでした。昨日2度目に読んだときは、その記憶を持って読んだせいで逆に、いやいや素晴らしいじゃないか、死に方の一つの理想じゃないか、と感じました。周りであわてふためきながらも何とかしようとしている大人たちも含めて、みんなが精一杯生きているのもいいですよね。でも、それはわたしが大人として、身近な人の死を経験した後で読んでいるからではないかとも思ったのです。この本の初読と同じ頃に読んだ『昔はおれと同い年だった田中さんとの友情』‎(椰月美智子著 小峰書店)のほうが、児童書としての死との距離感はちょうどいいかも、と感じたのでした。

ハル:ひとが生きて死んでいくさまをおかしみとかなしみをまじえて愛情深く描いた、ありそうでなかった児童文学作品で、わかったような言い方で恐縮ですが、初めて読んだときに、「これぞ文学!」と思いました。おじいちゃんの死が迫る終盤で、「ちっせぇとき」のお月見の話が入ってくるところや、作品の中でのおじいちゃんの最後のセリフが「あくしゅ、してくれ」なところがなんとも美しくて、素晴らしいなぁと思いました。と同時に、版元の理論社は「おとながこどもにかえる本」の位置付けでこの本を出しているのだと思うのですが、まさに、大人が読みたい児童文学なんだと思います。現在中学生のボクの目線がだいぶ大人ですし。だけど、「こども」世代にも、ぜひ、このわめきちらす頑固者のおじいちゃんの魅力や、それをとりまくおばさんたちの愛を想像できるような年頃になったら、ぜひ読んでほしいと思います。

カピバラ:『おじいちゃんとの最後の旅』(ウルフ・スタルク著 キティ・クローザー絵 菱木晃子訳 徳間書店)のおじいちゃんと孫の関係にどこか似ているなと思いました。どちらも頑固でへそ曲がりで、周囲に迷惑をかけることもあるけれども、孫にとっては信頼できるおじいちゃん、大好きなおじいちゃんでもあるわけです。徹底して孫から見たおじいちゃんを描くことで、おじいちゃんの人生を浮き彫にする描き方も似ているなあと思いました。子どもの視点から書かれているという点で、これは子どもにぜひ読んでほしい、子どもの文学として位置づけたいと思います。徳治郎がボクに語る昔の悪ガキぶりが生き生きとしておもしろく、戦争体験もありつつ家族の歴史が伝わってきました。3人の娘たちの会話もリアリティがあって、おもしろかったです。最後に別れのときがくるけれども、ボクにとってはおじいちゃんの人生を肯定して終わることができて、さわやかな余韻が残りました。

コアラ:電車の中でサラサラと読んでしまって、あまり興味をひかれないまま読み終わってしまいました。最初のほうで、竹とんぼが出てきたし、p23で「黒い固定電話」が出てきたので、1970年代くらいかなと思っていたのですが、p75では携帯電話が出てくる。そうすると2000年代くらいになりそうですが、それにしては時代的にしっくりこない気がして、そういうこともあって物語に入れなかったのかもしれません。大人の目で読めば、カピバラさんがおっしゃっていたように、大人同士の会話はリアリティがあっておもしろいなと思ったし、主人公の男の子が祖父の死を見つめるのは大切な物語だと思うんですけれど、心が動かされないまま読んでしまいました。

花散里:徳治郎おじいちゃんのことが印象深く残っていたので、ウルフ・スタルクの『おじいちゃんとの最後の旅』が出版されたとき、この『徳治郎とボク』みたいだと思いました。今回読み直して、改めてとても良い作品だと感じました。孫の視線から見たお祖父ちゃんがとてもよく描かれていて、ボクが成長していくとともに、お祖父ちゃんに対する見方が変わっていくところが伝わってきます。母親と離婚した父親への思いが、お祖父ちゃんの子ども時代とも重なって描かれているのも印象深く思いました。お祖父ちゃんと畑に行くときの様子、昆虫、植物のことなど自然の描き方や、登場人物の描き方も見事だと感じました。言葉の表現の仕方など日本の児童文学のなかで花形さんの作品が好きですが、特に子どもたちに読んでほしい1冊だと思いました。海外の作品で1991年に刊行された『リトルトリー』(フォレスト・カーター著 和田穹男訳 めるくまーく)も環境、家族の絆、人間関係などが描かれた作品ですが、この本と一緒に紹介して前出の『おじいちゃんとの最後の旅』などとともに勧めたいと思います。

しじみ71個分:これを読んだのは2回目です。1回目もすごくいいなと思って、2回目もやはりよかったです。私は生まれたときには既に祖父は2人ともいなくて、祖父のリアルな存在感がまったくないんですね。なので、この徳治郎とボクの関係は私にとっては、とてもすてきで、こんな関係が持てたらいいなと、ちょっと仮想おじいちゃんを頭に描きつつ読みました。自分の父は9人兄弟の末っ子ですし、母方の祖母が大正12年生まれなもので、なんとなくいろいろ自分の状況を重ねて読んでしまいました。ウルフ・スタルクの『おじいちゃんの最後の旅』でも感じたのですが、親子とは違って、微妙な距離感がある、おじいちゃんと孫という関係がこれだけすてきなストーリーを生み出せるのだなぁとしみじみ思いました。親は近すぎて重たくなるのかな。昨今、子どもに、身近な人の生き死にを見せられるのは、祖父母しかないのかなと思いますので、万人にとって共感できる話なんじゃないかと感じました。孫がおじいちゃんを観察して、大変に人間くさく、魅力的に描いていますよね(親だとただ面倒なのだろうと思います 笑)。徳治郎が、自分が生きたいように生き、死にたいように死んでいくという、人間の尊厳を貫き通す姿は魅力的だし、そんなふうに私も残りの人生を歩みたいと思わされました。大人が読んで胸に沁みるのはもちろん、決して子どもに読めなくはないと思います。リアルな死を描きつつ、とてもいい話で、私の好きな本です。人間の死は生前の人間関係に負っているのだということが描かれているのも、重要なポイントだと思いました。

西山:おもしろくは読んだんですけど、けっこう出だしでひっかかってしまいました。80に近いお祖父さんの孫が幼稚園児という年齢でひっかかったり、例えば、p27最後の段落で、「ササゲもみっしり実っていた」と野菜に詳しかったり、「畑は,荒々しいジャングルに出現した勤勉に手入れされた小さな庭園のようだった」とたとえたりというのが、「ボク」がいつの時点から回想しているのか、幼稚園時代を回想しているけれど、かといっておとなの口調ではないし、いったいいくつの子だ?と気になってしまったのでした。先月の、ウルフ・スタルクと読み比べるのもおもしろいと思いましたけれど、身体的に弱っていくことにあらがっている人の最終ステージを淡々と記録した、というそれ以上でもそれ以下でもないというふうに読み終えました。

さららん:おじいちゃんはできることは少しでも自分でやろうとし、気に入らないことには癇癪を起こします。その理由を考え続けたボクが、おじいちゃんは「自分のやり方で、死んでいきたいんだ」と悟るところがとてもいいと思いました。文章も全体に抑制が効いています。例えば、おじいちゃんが死んだ場面でも、死んだとは書いていない。「こうしてぼくは『冒険』を手に入れ、お母さんは『安心』を買いに走った。」(p74)など、切り取り方も巧みです。この作品の良い点は、老いること、死ぬことを、できるだけ具体的に書いてあり、単に孫とおじいちゃんの良い話にはなっていないところ。死に向かう過程をひとつずつ重ねるように描いていて、実際の「死」に触れる体験の少ない子どもたちにとって、学びの多い作品だと思いました。ただ前回の『おじいちゃんとの最後の旅』に比べると、ユーモアやひねりに欠け、エピソードの組み立てが立体的でない気がします。p196で、おじいちゃんが兵役についていたこと、さらに上官に盾ついて、リンチにあったことがヨシオさんによって明かされます。それは家族にとって意外な事実で、権威や押しつけに対するおじいちゃんの反発の根っこであったことが、明らかになるのです。おじいちゃんを理解するうえで大事な要素なので、具体的にどうして盾をついたか、私は書いてほしかった。そこが気になって、クライマックスに気持ちがついていかず、説得力がやや弱いように思えました。作家はあえて書かなかったのかもしれませんが。

まめじか:お祖父ちゃんが畑まで行くのにひと休みするようになるとか、歩くのが遅くなるとか、そういう日常の場面を重ねて、老いることや人生の終わりを迎えることがていねいに描かれています。歳をとって人の手を借りることが増えていくお祖父ちゃんが、主人公やエリカちゃんの心を救う存在になっているのがとてもいいですね。

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ニャニャンガ(メール参加):孫とおじいちゃんの交流を描く物語なので、好みの作品でした。徳次郎じいちゃんが、畑仕事が趣味の自分の父親と重なるところが多く、共感しながら読みました。昔の話をするおじいちゃん、大好きです。父は今年89歳で、わたしはたまにしか帰省せず会っていなかったのですが、父が数年前に大病をして入院お見舞いのため数日通ってつきっきりで話をしたときのことが懐かしくなりました。口の悪さにかけては、徳次郎は『おじいちゃんとの最後の旅』のおじいちゃんに負けず劣らずだと思いました。3人姉妹による介護分担での攻防や、長女の娘エリカちゃんの変化、徳次郎おじいちゃんが弱っていくようすなど、身につまされるようにリアルで読み応えがありました。主人公の語り口について、後半は違和感なく読みましたが、4歳からスタートするにしては大人っぽい語り口なのは仕方ないのでしょうか(わたしは4歳のときの記憶はおぼろげなので少しひっかかりました)。両親が離婚したのに、父親が直接登場する場面がないのは気になりました。唯一登場するのはp62の離婚後の面会日。主人公にとって父親はそれほど薄い存在だったのかと考えてしまいました。

(2021年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2021年10月 テーマ:嘘について考える

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『2021年10月 テーマ:嘘について考える』
日付 2021年10月12日
参加者 ネズミ、ハル、シア、ルパン、すあま、ハリネズミ、アンヌ、しじみ71個分、まめじか、さららん、カピバラ、サークルK、ニャニャンガ、マリンゴ、雪割草
テーマ 嘘について考える

読んだ本:

ウルフ・スタルク『おじいちゃんとの最後の旅』表紙
『おじいちゃんとの最後の旅』
原題:RYMLINGARNA by Ulf Stark, 2017
ウルフ・スタルク/作 キティ・クローザー/絵 菱木晃子/訳
徳間書店
2020.09

<版元語録>死ぬ前に、昔住んでいた家に行きたいというおじいちゃんのために、ぼくはカンペキな計画をたてた…。ユーモラスで、切ない物語。
『大林くんへの手紙』表紙
『大林くんへの手紙』
せいのあつこ/著
PHP研究所
2017.04

<版元語録>ある時から学校へ来なくなった大林くん。文香が関心を寄せ続けることで、ついに大林くんの気持ちが少し動く……という友情物語。

(さらに…)

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大林くんへの手紙

『大林くんへの手紙』表紙
『大林くんへの手紙』
せいのあつこ/著
PHP研究所
2017.04

まめじか:p7でカレンダーを机に置いて、「ノートだけ机に置くより、ずっとかわいい」というところでまず、「かわいい」という表現でいいのかなと思いました。宮子が大林くんの手紙にひとこと「小さい!」と書くのもそうですが、全体的に言葉足らずの印象です。p22で先生が宮子に学級委員の仕事を手伝わせるのも唐突だし、突然訪ねてきたクラスメイトを前に、大林くんのお母さんが平身低頭で謝るのも理解できなかった。人物像や行動が不自然で入りこめませんでした。「~だもの」「~よ」「~わね」というフェミニンな言葉づかいや「あの馬鹿」なんていうせりふも、小学校高学年の子どもにはそぐわない感じがします。また、小学6年生の子が友だちのことを思い描いたとき、「体は細くて胸はないけれど」(p 64)っていうふうになるでしょうか。文香のお母さんは不登校について「たくさん休むといろいろとめんどうなことになる」「なぜたくさん休んでいたのか、何度も説明しないといけなくなる」「役に立たない人間だと区別されるかもしれない」(p107)と言うのですが、あまりにも乱暴な説明にとまどいました。

シア:私も話に入りこめませんでした。テンポが全体的に緩慢で、どこか漫画的でした。そのせいで悪くするとギャグ寄りになってしまう場面もあって、私は卯沙ちゃんの言葉や態度などのちぐはぐさに失笑してしまうこともありました。どこをとってもドロドロしそうな展開なのにしていなくて、あっさりしています。これが現代的で、現代の小学生なのでしょうか? それなのに、先生はいつも役立たずのテンプレで描かれているので悲しいです。気になったのは、大林君のメールアドレスは了解を得て回しているのかというところ。このネットリテラシーはいただけません。それに、空いている席には誰が座ってもいいんですよね。単なる便宜上のもの。移動教室とかクラブ活動もありますし。すべてをていねいに使えばいいんです。マーキングしたい日本人の感覚だなと思いました。ウルフ・スタルクの本を先に読んだので、すべてが狭く感じました。日本的というべきなのでしょうか。最後にツッコミたいところがあって、p172「携帯を開き」とあるんですよね。スマホじゃないのかと。パカパカケータイなのかと。小学生だからなんですかね。

カピバラ:自分の本心を作文に書くことができない主人公の気持ちが正直につづられているから部分部分には共感する子もいるのかもしれませんが、物語としては一向に先に進まないのがもどかしかったです。結局、手紙もメールも書けないまま終わるという結末は中途半端で、大林くんが何を感じ、どうして学校へ来ないのかわからないし、物足りなさを感じました。宮子、中谷くん、卯沙の描き方ももう一つつっこんでほしかった。最初にクラス全員に大林君への手紙を書かせ、全員で家に届けるなんてこと、本当にやっている学校があるのでしょうか。私はここでまず引いてしまいました。大林君とお母さんの態度も後味が悪いです。歴史好きのお母さんとの会話は、おもしろくしようとしているのだろうけど、効果がないし、違和感がありました。

ハリネズミ:感想文や手紙でついつい思ってもいないことを書いてしまうことはあるし、文香が大林君の席にすわって考えてみるという展開はいいかもしれませんが、物語の流れから見て不自然なところが随所にあって、入り込めませんでした。たとえば、宮子がまわりを巻き込む押しの強い性格だとわかっているのに、文香が大林君のメアドを渡してしまうところとか、大林君の席にだれかが荷物をおいているのを見とがめて文香は自分が席にすわりつづけるわけですが、ほかの生徒が荷物をおくより、ほかの生徒がすわってしまうほうが大林君の存在を無視してしまうことになるような気もします。しかも文香はp129で中谷君が文香の席に座っているのを見ると、「他人(ひと)の席に平気で座るなんて」と文句のような言葉をつぶやくのは変。それと、最後の場面が唐突で、ただ情緒的な言葉でまとめたようで気持ちが悪かったです。物語世界がもう少しちゃんとつくってあれば、いい作品になったかもしれませんが。

マリンゴ:発売されて間もないころに、話題になっていたので読んだ記憶があります。そのときは、いい作品だけれどそんなに尾を引かないないなぁ、と思っていました。学校生活っていろんなことがあるけれど、物語があまりに「大林くん」と「手紙」に集約されている印象だったからです。今回、再読したときのほうが、おもしろく読めました。主人公は、ちょっとADD(注意欠陥障害)気味なのか、部屋の整理整頓ができない子で、周りの人はどうなのかあまり気にしていません。でも終盤、人の部屋はどうなのだろう、と関心を持つようになるなど、視野がゆっくり広がっていく感じがいいと思いました。ただ、これは好みの問題かもしれませんが、最終章の六章がまるごとなくていいのではないでしょうか。五章から、時がほとんど進んでないので、そこで終わっている方が、余韻を残したのではないかと思います。あるいは、六章を入れるなら、何カ月かあとに飛ぶとか、そのくらい話が展開したほうがいいような気がしました。

しじみ71個分:読んでなんだかイライラしてしまいました。学校のクラスのとらえ方が古くさいなぁと思いまして……。不登校の子に対してみんなで手紙を書くことを強制して、みんなで届けにいくなんて、ひと昔まえの教室運営ではないかなと……自分の子どものときの話を思い出してしまいました。先生に大林君へ手紙を書くことを強制されるのも不快でしたし、リーダー格の女子の宮子に強制させられるのも、読んでいて本当に嫌でした。宮子から「小さい」とか言われて、一方的に、こうあってほしい大林くん像を押しつけられるというのもいい迷惑だなと感じてしまい、物語の後半で宮子が少しいい子に見えてきた、という表現もあったのですが、ぜんぜんそのように寄り添った気持ちにはなれませんでした。唯一、共感できるとすれば、主人公の子が思ってないことを書けないというのは正直だと思ったことですが、その先の展開がなく、大林君の席に座って、大林君の椅子の傾きを感じ、彼が見ていたものを見る努力をするというのは、わかるような、わからないようなで……。断絶も含め、不在の人への思いや働きかけがあってこそ、読者の心が動く何かが生まれるのではないかと思いました。主人公の中で、不在の人への気持ちや思いがどう深まっていったのか、まったくわからなかったんです。大林くんが禁じられた屋上に上がって、しかられたけれど、なぜ一人だけ反省文を書けなかったのか、という点をきっかけにもっと大林君の物語を深められたのではないかと思うし、彼のお母さんが必要以上に自己肯定感が低いことにも背景があるはずなのに、それがまったく描かれていなくて、もやもやしたままです。結局、椅子に座ることも、手紙を書くことも、彼の気持ちには迫らず、自分たちの自己満足でしかないのではないかと思えてしまいました。『12歳で死んだあの子は』(西田俊也著 徳間書店 2019)にも感じたのですが、亡くなった子のお墓参りをすることに終始して、その人の不在が訴えかけてこなかった点に共通したものを感じ、思い出してしまいました。人の不在に対する心の動きがないと、物語が成立しないんじゃないのかなぁ……。

すあま:主人公は、感想文や反省文と同じように、手紙も嘘を書いていいと思って、きれいな文章の手紙を書く。先生がいいって言ったので正解だと思ったけれど、そのあとでほかの人の手紙を見て、ハッとする。手紙は相手に気持ちを伝えるものだから嘘ではだめだ、ということに気づいたことから物語が展開していくのだと思ったのですが、うまくいっていないように思いました。共感できる登場人物がいないことや細かい描写がちょっとうるさく感じられることなどで、読みづらく感じました。会話の間に頭の中で考えていることが入っているのもわかりにくかったです。登場する大人である先生や親がきちんと描かれていない大人不在の物語で、今回読んだスタルクの本とは対照的でした。あまりおもしろさが感じられませんでした。

サークルK:p47で「いつかちゃんとした手紙」を書く、と書いた文香の「最後の手紙」がp170で「板、ぴったりでした!」で落ちがつく、という展開に肩すかしをくった、というか愕然としてしまいました。もうちょっと、何か言葉はないのかな。ショートメールなどのやり取りになれているイマドキの子どもたちは、短ければ短い方が心に響くと思っているのかしら、ととまどいました。そしてこの物語が今を生きる小学校高学年の子どもたちに「あるある、だよね」という形で受け入れられているのだとしたら、小学校の現場の寒々しさというか、子どもたちがとても気を使って毎日を送っている息苦しさを思ってつらくなりました。これからを生きる子どもたちがもっと言葉を豊かに紡ぐことができるようになってほしいなあ、と願いながら読みつづけるしかありませんでした。

ハル:今、サークルKさんの意見を聞いて、ハッとしたのですが、確かに私はこの本を、今の子がどう読むかという視点では読めていなかったです。それに、2017年の刊行から少し時間が経っていますので、もしかしたら当時は画期的なテーマだったのかも知れず、あくまで2021年11月現在の感想になってしまうことも、考慮しなければいけないとも思います。そう先に断りつつも、これはいったい、いつの時代の、誰の話なんだと思うような、アップデートされていない感じが、私は受け入れられませんでした。仮にこれがノンフィクションだったとして、すべてが実際にあったことだったとしても、それを描き出して「大人ってほんといやよね」「先生って全然わかってないよね」「同調圧力、ほんといやね」で終わるのではなく、じゃあどう変えていこう、どうしたら未来が変わるだろう、というところまで感じさせてほしかったです。ただ、不登校になる理由が明確でないというのは、現実の世界でも往々にしてあることだとは思います。

ネズミ:正直な気持ちを書けない主人公というテーマはいいなあと思いましたが、物語は残念ながらあまり楽しめませんでした。p15で大林くんのお母さんが、パート先で自分の息子が学校であったことを話すところで、こんなことあるのかなと思ってしまって。不登校のことが、p108で「学校に行かないのはとんでもないことらしいのはわかった」と書かれたあと、それ以上に深まらないのも、物足りませんでした。閉塞的な息苦しさを超える、新たな気づきや共感がもっとあったらと思いました。

ニャニャンガ:主人公の文香が嘘を書きたくないという点には共感しましたが、全体的にどうかといえば共感できませんでした。気になったのは、大林くんが不登校になった本当の理由が明かされない点です。また、担任の先生の行動が怖かったです。立ち入り禁止のところに入ったくらいで反省文を書かされ、学校に行かなくなった大林くんの心の傷を理解しているのだろうかと思うほど、子どもたちに無言の圧力をかけ、無神経な行動をとるなど既視感がありました。クラスのみんなで不登校の生徒に手紙を書くとか、宮子を教師の「使える子」として学級運営をしているのは、わが子が小学生だったときと重なったのでリアルだと思います。でも、大林くんのお母さんは謝りすぎ、文香のお母さんはマイペース、友だちの卯沙はふわっとしているようでしっかりしているなど、マンガのようにキャラ立てしようとしているのかなと感じました。

さららん:この作者は言葉にすると壊れてしまう感覚を、書こうとしたのかなあと思いました。主人公は、最後まで手紙を書かず、読者としてはもどかしい感じ。そして大林くんの気持ちが主人公に少し伝わるのは、親友を通しての伝言と間接的なメールの画面だけ。主人公は大林君の席にすわって、その気持ちを想像する毎日なのですが、そんな主人公を大林くんはちょっと意識していて、最後のほうで「板」をくれます。椅子の傾きを調整するために。関係性に踏みこまないで人物を描いているから劇的な展開もなく、開けられた容器に、読者が「大林君はどう感じているんだろう」「どんな子なんだろう」「なぜ学校を休んでいるんだろう?」と自分の想像で埋めるほかない物語でした。そこには空白があって、書きこみが足りないといえばそれまでなんだけれど、今の子どもたちの感覚に通じる部分があるのかも……そういう意味では現代的なんでしょうか? 友だち同士のコミュニケーションが取れているような、いないような関係は理解できませんが、代わりに物の手触りをていねいに書いている点がおもしろかったです。

ンヌ:読みながら、事件と事件との間に物語としてのつながりがなく、読者が詩や和歌を読むときのように、間を埋めながら読んでいく作品のような気がしていました。実に繊細な感じで。だから、具体的なイメージがうまくわいてこない部分も多く、ハンカチが選べなくて2枚差し出す意味とかは、うまく読み取れませんでした。手紙を書き直すというのはわかるのですが、やっと本当の手紙が書けたのに、それを出す前に中谷君と大林君とのメールのやり取りが始まってしまうという第六章は、先ほどマリンゴさんからもご指摘があったのですが、時間の経過が速すぎる気がして奇妙な感じがしました。歴史おたくの文香の母親は、ユーモアとして描かれているのでしょうが、p107で不登校について「何度も説明しなければいけなくなる」は親の立場の説明だとしても、「役に立たない人間として区別される」という発言をするのには疑問を持ちました。

ルパン:私は今回の選書係だったのですが、この本はある意味傑作だと思って選びました。たしかに小学生としてはおとなびた感があり、中学が舞台のほうがよかったなと思いますが、ものすごくリアリティを感じます。みんな、もやもやしていて、方向性なんてないんですよ。定着して方向がつけられた学校制度の中に閉じこめられた子どもたちの現実です。そして大人たちの現実でもある。子どもが不登校になって、どうしたらいいかわからない自信のない親。自分がどうして学校に行かれなく(行かなく)なったのか自分でもわからない子ども。感想文や手紙を書けと言われてどうしたらいいかわからない友だち。旧態依然の価値観をもち、マニュアルに頼る自信のない(あるいはありすぎる)先生たち。この中の登場人物に似た人たち、私のまわりにはたくさんいます。物語の中で不登校の理由がはっきりしたり、それを解決できる大人がいたりしたら、そっちのほうがよっぽど非現実的です。「個人の自由」や「個性の大切さ」を声高に言いながら、足並みをそろえることを強いる「学校」という社会の中でみんな困っている、という現実をあぶり出した作品だと思っています。みんなが先生に言われて書いた手紙の中で、大林君は主人公の手紙だけに反応した。それを知った主人公は何か自分ができることはないかと模索した。ここで二人はちゃんと繋がりました。答えがなくてもいいじゃないですか。りっぱな大人が出てきて解決しなくてもいいじゃないですか。現実ではむしろそんな大人が都合よく出てきてくれることのほうが少ない。この主人公は何もしなかったわけでも何もできなかったわけでもない。私は「理想の大人や理想の子どもが描けていない」と思う人こそ「大人目線」なのだと思います。もやもやして困っている子どもたちはきっと共感し、「こんな自分でも、できることをさがしていいのかもしれない」と一歩、いや、半歩でも踏み出せるかな、と背中を押されるはず。文章の細かいところで課題はあるかもしれませんが、今回はそういう理由で選びました。

(2021年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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おじいちゃんとの最後の旅

ウルフ・スタルク『おじいちゃんとの最後の旅』表紙
『おじいちゃんとの最後の旅』
ウルフ・スタルク/作 キティ・クローザー/絵 菱木晃子/訳
徳間書店
2020.09

アンヌ:私はおじいちゃん子だったので、主人公と祖父が性格の一致を喜ぶ場面には、心がギュッとつかまれました。船の中で、手と手を重ね合わせるところとかを読んで、相手の温かさを感じるだけで幸せな気分になる感じとか、いろいろ思い出してしまいました。題名からわかるように、この物語は祖父が妻の死を受け入れ、自分の死も受け入れていく物語であり、主人公が祖父の死を受け入れていく過程が描かれています。でも、ユーモアたっぷりの物語で、その中にスウェーデンの典型的な食べ物、ミートボール、シナモンロール、コケモモのジャム等が姿を現し、その食べ物にも一つ一つ意味があって、おいしそうで温かくて魅力的な物語となっています。アダムという頼りがいがある大人が出てきて、p131で祖父を病院から連れ出した自分を責める主人公を、おじいさんはああいう人だろうとなだめてくれるところでは、たとえ老人でも病人でも障碍者でも人権があるということを教えてくれます。嘘が嘘を呼ぶ苦い味も12章の「カンペキなうそ」でしっかり描かれていて、実に見事な物語だと思いました。キティ・クローザーの挿絵も一目見た時からあまりに魅力的で、目が離せませんでした。

ニャニャンガ:ウルフ・スタルクは好きな作家なので、刊行後まもなく読んだので再読です。スタルク最後の作品ということで読む前から胸が熱くなりました。おじいちゃんと孫、人生の悲哀をテーマにしたスタルク作品は最高です。ただ今回は、おじいちゃんがあまりに口が悪くて偏屈だったので、物語世界に入るのに少し時間がかかりました。島から帰ってきたあと、天国で妻と再会するときのために言葉遣いを直そうと努力するおじいちゃんが大好きです。ただひとつ残念なのは、キティ・クローザーの挿絵をスタルクさんが見られなかったことです。対象年齢の読者がどのように読むのかを知りたいと思い「読書メーター」を見てみたところ、勤務校の男子生徒にすすめられたという書きこみを見つけ、きちんと届いているんだなとうれしくなりました。

ネズミ:とてもおもしろく読みました。はじめから、おじいちゃんが死んじゃうんだなとわかるのですが、それでも読者を思いがけないところまで連れていってくれます。ストーリーや人物に無理がなく整合性があって、ほころびがない、完成度の高い作品だと思いました。改めていいなと思ったのは、この本に出てくる人たちが、誰ひとりとして、いい人になろうとしないところ。こうじゃなきゃいけない、というような道徳や偽善がない。看護師さんも、おじいちゃんが患者だというのに悪口を平気で言うんですね。日本の子どもの本とは、人間の描き方がずいぶん違うと感じました。

ハル:皆さんの感想を聞いていて、思い出し泣きしそうです。本を閉じてからしばらく泣いてしまったのですが、もしかしたらこんな体験は初めてかも。私は小さいころ、おじいちゃんのことがあんまり好きじゃなかったので、子どものころにこの本を読みたかったなぁと思います。子ども時代に読んでいたら、愛する人を失うという体験を、この本で初めて覚えたのかもしれませんね。登場人物、ユーモアもたっぷりの表現、イラスト、訳文……そういった全部、この本のすべてに愛があふれている感じがします。そして今度、北欧を旅することがあったら、お皿に添えられたコケモモのジャムも大事に食べようと思いました(以前に旅したときは、なんでおかずにジャムがのっているのかよくわからなくて、よけちゃったので)。

雪割草:あたたかくて素敵な作品だなと思いました。おじいちゃんは、古風で怒ってばかりですが、人間味あふれる描写で、「訳者あとがき」にもあるように、作者の、おじいちゃんのことが大好きという気持ちが伝わってきました。それから、「死」の描き方もいいなと思いました。カラスがオジロワシになって飛んでいくラストシーンへ向かって、p149にはウルフの見えないものへの気づきが書かれていますが、子どもの等身大の体験に近く感じました。ほかには、ウルフとおじいちゃん、ウルフとお父さんの関係が、p59にあるように世代の違いだけでなく、一人ひとりの違いとして描かれているのもよかったです。人生のはじめの方にいるウルフと人生の終わりの方にいるおじいちゃんの交流が、味わい深かったです。

マリンゴ:タイトルから、重い展開をイメージして、今まで敬遠していたのですが、想像とは違ってとてもハートフルで、楽しい部分もある物語でした。「嘘」が出てくるお話って、それがバレたらどうしよう、とハラハラする流れが一般的だと思いますが、この作品は、嘘を言うことを楽しむ少年が主人公で、ピンチに陥っても、仲間のアダムがすらすらと嘘をつくなど、嘘を肯定する展開がおもしろかったです。お父さんの前で、おじいちゃんとの冒険の事実を主人公がぶちまけると、お父さんがまったく信じてくれない、という場面が印象的でした。p126「合宿でなにがあったか、話してみなさい」と言われて、「……寝袋の中にゲロを吐いた子がいた」と答える場面はユーモラスで、笑ってしまいました。事実がすべて正義とは限らない、と考える作者の想いが伝わってきます。大きなことではないのですが、唯一引っかかったのは、p114からp115にかけて、アダムが卓球の試合ですぐに負けた話をしたあとの主人公のコメントです。「すぐに負けて、よかった」「ビリだっていったほうが、うけがいいでしょ」「負けた人のことは、みんな、かわいそうだと思うよね。で、ふだんよりやさしくしてくれる」などと続くのですが、これが、物語の流れのなかで若干唐突なので、後の伏線かと思ったらそうでもなく、少しとまどいました。

ハリネズミ:p114からのところは、ウルフの人となりをあらわしている表現だと思って読みました。融通のきくちょっとちゃっかりした性格の子なんじゃないかな。ウルフ・スタルクは角野さんと同じ時期に国際アンデルセン賞候補だったんですけど、選考期間の間に亡くなられたので、候補から除外ということになってしまいました。さっき、ハルさんが泣いたっておっしゃったのですが、私は、あっちこっちで笑いもしました。しみじみさせながら笑わせもする作品って、すごいです。文章にも絵にもあちこちにユーモアがちりばめられています。たとえば、汗臭い女の人に寄っていくっていうエピソード+p20の絵で、私は噴いてしまいました。子どもらしい視点も随所にあります。たとえばp10「ぼくは、まえからずっと、おじいちゃんが怒りだすときが好きだった。その場にいると、ものすごくドキドキする」とか、お父さんに「わたしの目を見ろ」と言われて、p122「ぼくは見なかった。パパの眉毛を見ていた。目でも眉毛でも、パパにはわからない」とか。p130で、パン屋の店に入って「店の中に入ると、あたたかくて、うす暗くて、いいにおいがして、ぼくはからだがふるえた」とか。スタルクには、上から目線や猫なで声がまったくない。あと、短い文章の中で、じつに的確に表現しています。たとえばp72「ぼくがジャムの瓶を持ってもどると、おじいちゃんはしばらくのあいだ、その手書きの文字をじっと見つめていた。それからふたをあけ、パラフィン紙の封をナイフでそっとはがした」というところですけど、あれだけ罵詈雑言を連発していたおじいちゃんが、おばあちゃんの作ったコケモモのジャムには万感の思いを抱いていたことが伝わってきます。それと、どのキャラクターにも奥行きがある。下手な作品だとお父さんを悪者にしてしまうところですが、お父さんも、p146のお菓子を買ってくるくだりや、そのとなりの絵を見ると、ただの堅物ではないことがわかりますよね。最後のカラスとオジロワシのところも伏線がちゃんとあるし。キティ・クローザーの絵も、ほかのにも増してすばらしいので、スタルクを敬愛していたことが伝わってきます。

カピバラ:私もスタルクは大好きな作家なんですけど、大好きなスタルクの最後の作品だというさびしさと、おじいちゃんの最後の旅という悲しさとが重なって、なんともいえないしみじみとした読後感にひたった一冊でした。スタルクの持ち味はユーモアとペーソスだと思いますが、それが十分に味わえる作品だったと思います。時代も国も違うのに、こんなに親しみを感じる人が出てくる本っていうのは少ないものですが、先ほど「登場人物がみなほかの人に自分を良く見せようとしない人たちだ」という感想がありましたが、なるほどと腑に落ちました。何度も何度も繰り返し読みたい作品です。

まめじか:登場人物が人として立ち上がってきて、この人たちはページの向こうにちゃんといると感じられました。主人公のウルフはおじいちゃんのことをよく理解していて、たとえば「死んだ人を愛しつづけることって、できる?」(p60)ときいたときに「だまれ、ガキのくせに!」なんて言われても、それは「できる」という意味だとちゃんとわかってる。わざと汚い言葉を言わせて、その罰として薬を飲ませるのも、おじいちゃんへの想いが伝わってきます。ウルフは人生がはじまったばかりの子どもで、一方おじいちゃんは人生を終えようとしている。夢と現実の境があいまいになって、おばあちゃんとかオジロワシとか、そこにはいないはずのものが見えるようになったおじいちゃんの目に映るものを、ウルフはときどき感じながら最後の時間をともに過ごして、やがておじいちゃんは船のエンジン音のようないびきをたてて向こう側の世界へと出航していく。たった2日間の冒険が、主人公の心にかけがえのないものを残したのですね。冒頭に出てくる紅葉した葉は、次の世代に命をつないでいくことを思わせるし、コケモモのジャムは生きることそのものというか、人生という大きなものを日常のささやかなものにぎゅっとこめるように描いていて、そういうのも見事だなあと。おじいちゃんが弱っていく姿を見たくなくて病院に来たがらないお父さんの描写には、リアリティがありました。あと、ウルフがバスの中で、汗のにおいがうつるようにおばさんにくっつく場面なんか、ユーモアがあっていいですね。挿絵も物語にとてもよく合っています。キティ・クローザーは現実と想像が入り混じった世界を鮮やかに描き出す画家で、私はとても好きです。死をテーマに扱った作品も多いですね。

さららん:しばらく前に読みましたが、ほんとに短いけど、どこもかしこもおかしいような切ないような、魅力的なお話でした。おばあちゃんのお葬式のときに、汚い言葉を吐いてしまったおじいちゃんは、天国でおばあちゃんと再会するときのために、これからはきれいな言葉をしゃべれるようにがんばろう、と決意します。そんなところに、おじいちゃんがおばあちゃんに伝えきれなかった、深い愛を感じました。そして、この本はあえて直訳風にした翻訳の仕方がすごくおもしろくて! p44の「かわりに息子と、とてつもなく愉快なわたしのおいがまいります」とか、下手にやったら目も当てられない表現ですが、それがものすごく笑えるんです。これは菱木さんのマジックかなあ。シナモンロールはよく食べるけれど、カルダモンロールは食べたことないので、食べてみたいです。おじいちゃんが静かにいびきをかきはじめた場面では、涙が出そうになりました。

サークルK:読書会に参加させていただくようになっていちばん涙を流した作品でした。タイトルがすでに物語るように、主人公のおじいちゃんの死に向かっていくお話ではありますが、悲壮感がなく「命がゆっくりと尽きていくときの時間」ということを作者が尊厳をもって温かい言葉で語ってくれていて、素晴らしかったです。その素晴らしさを翻訳と挿絵がさらに引き立てていました。p61のおじいちゃんと孫がまったく同じポーズで船室の椅子に座っているところはユーモラスで思わず笑みがこぼれましたし、p159の挿絵で孫の男の子がおじいちゃんの大きな手を握りながら最後の時を過ごしている様子には、胸を打たれました。ベッドサイドテーブルにおばあちゃんの写真とほんの少しだけ残ったコケモモのジャムの瓶が置かれていることが描かれていたからです。大好きな妻の作ったコケモモのジャムはおじいちゃんの生きるエネルギーそのものになっていたはずなので、挿絵に空っぽの瓶ではなく、ほんの少しジャムが残された瓶が描かれたことによって、おじいちゃんが明日もまた生きておばあちゃんのジャムを食べたいと思っていたのかもしれない、という希望のようなものが感じられました。p90で示唆されていた「オジロワシ」にp161で見事に姿を変えたおじいちゃんの最期は悲しみに満ちたものでなく誇り高いものであったのだなあ、としみじみ感じ入りました。

すあま:最後に登場人物が死んでしまうことがわかっている話は子どものころからあまり読みたくないのですが、スタルクなら絶対おもしろいだろうと思って読みました。ウルフが両親をだましておじいちゃんを連れ出すところは、途中で見つからないか、おじいちゃんは具合が悪くならないかと、ハラハラする冒険物語を読んでいるようでした。アダムがいたのも大きかった。家族じゃないけど助けてくれる大人が出てくる物語はいいですね。出てくる大人がちゃんと描かれているし、アダムも魅力的な大人で、おじいちゃんとわかりあえている感じもよかったです。日本でも、子ども向けに老いや死、認知症をテーマにした本がいっぱい出ているけれど、ウルフ・スタルクにかなう人はいません。泣かせる、感動するだけでなく、やっぱり笑えて楽しいところもあるのが良いと思います。ウルフはいい子だけど、それだけじゃなくて嘘もつくし、個性豊かで生き生きしている。おじいちゃんが亡くなってしまうのも自然に描かれていて、いいなと思いました。死を描いていると、怖かったり悲しすぎたりするものも多くて、そういう話が苦手な子にも読みやすくて受け入れやすい話だと思いました。来日されたとき講演会でお話をうかがったのですが、物語のウルフに会ったようで、とても楽しい時間でした。訳については、汚い言葉を話す人たちを、キャラクターが伝わるように訳すのは難しいのではないかと思いましたが、すばらしい翻訳でした。

シア:『うそつきの天才』(ウルフ・スタルク著 はたこうしろう絵 菱木晃子訳 小峰書店 1996)という本が大好きでしたので、ウルフ・スタルクだ! と思いながら読みました。「最後の旅」という題名を見て、また題名ネタバレをしている……とガッカリしたのですが、結果的にかなり泣かされました。日本版はこの手の題名多いので、なんとかしてください! おじいちゃんの汚い言葉がかえって生き生きしていて、本当におばあちゃんを愛していたんだなというのも伝わりましたし、変わっている人なんですがとても素敵な人だと思えました。こんな人生いいなと思いながら読みました。子どもに是非読んでほしい本です。挿絵は色鉛筆ですかね、きれいな色合いでした。小学生くらいから読むのにいいと思います。夜に読んだので、シナモンロールとかコケモモのジャムなど、誘惑にかられる1冊でした。

しじみ71個分:読んでもうとにかく感動しました。短い物語の中で、どうして人間関係がここまで書けるんだろうと驚くばかりです。詳細な説明は書いていないのに、おじいちゃんとの関係ばかりか、お父さんとウルフ少年との関係など、全部わかってしまうんですね。キティ・クローザーの絵もすばらしくて、最後のおじいちゃんとおばあちゃんの二人がよりそっている後ろ姿の絵を見て、涙腺崩壊しました……。アダムも看護師さんたちも脇役ながら、人がらがみっちりと描きこまれていて、とても魅力的です。著者はキティ・クローザーの絵を見ることなく、出来上がった本を手に取ることなく、亡くなられたとのことですが、自分が老境にあって、おじいちゃんのことをどういう心境で書かれたのかなと思うと、また泣けてきます。汚い言葉を使うけれども愛情深い人で、短い言葉や行動の中におばあちゃんへの愛情があふれていますね。病院を抜け出して島にわたる際におばあちゃんの姿を見たり、おばあちゃんの腰かけていた椅子に座って窓の外を眺めたり、と不在の人を見る、またその人の見ていたものを見ようとするという行為が、不在の人を思う深さを直接的な言葉でなく語っているところに、ウルフ・スタルクのすごさを感じました。それから、ウルフ少年の嘘も、自分の苦しまぎれの保身とか自分勝手とかではなく、おじいちゃんを楽しませるためで、自分の力で考え、アイディアで難局を切り抜けていくという、この物語に代表されるような、西欧の活力ある子ども像は大変に魅力的ですし、そういう物語が日本のお話でも描かれていくといいなと思いました。

さららん:キティ・クローザーが日本に来たとき、お話ししたことがあるんです。そのとき、日本で何をしたいですか? ときいたら、島に渡りたいと言ってました。このスタルクの本の中に出てくる多島海の風景は、ベルギーとスウェーデンの両方を行き来して育ったキティの原風景でもあるんだ、と思いました。

ニャニャンガ:原書の表紙では、おじいちゃんの足元にタイトルが入っていますが、邦訳では上に移動していますね。空の部分が原書の倍くらいになっていますが、どうやってつけ足したのかなと思いました。

ハリネズミ:日本語版には帯がついているから、タイトルを上にしたのでしょうね。原画が大きかったのかもしれないし、コンピュータ処理で空の部分を伸ばしたのかもしれません。

(2021年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2021年9月 テーマ:音楽

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『2021年9月 テーマ:音楽』
日付 2021年09月14日
参加者 ネズミ、まめじか、アンヌ、雪割草、アカシア、西山、さららん、虎杖、ハル、コアラ、カピバラ、マリンゴ、ヒトデ、しじみ71個分
テーマ 音楽

読んだ本:

『いちご×ロック』表紙
『いちご×ロック』
黒川裕子/著
講談社
2021.04

〈版元語録〉受験に失敗し、滑り止めの高校に通うことになった海野苺。そのショックで、友達も作らず、「ぼっち」な毎日を過ごしながらも、クラスのイケメン・シオンへの秘めた恋心をあたためていた。ところが、そんな想いもあっけなくバレ、あえなく撃沈。傷心の苺に追い打ちをかけるように、父親がとんでもない事件を引き起こし、警察のやっかいになることに……。お先真っ暗の苺は、江戸川河川敷で謎の集団の奇妙なパフォーマンスに遭遇する。仙人のような大男、学校1の問題児・笠間緑、そして苺を振ったシオン! 3人が繰り広げるのは……エアー・ギターだった!
『わたしが鳥になる日』表紙
『わたしが鳥になる日』
原題:EXTRAORDINARY BIRDS by Sandy Stark-McGinnis, 2019
サンディ・スターク-マギニス/作 千葉茂樹/訳
小学館
2021.03

〈版元語録〉主人公の少女デセンバーは、鳥が大好きで『鳥類完全ガイド』を丸暗記している。そして、自分も鳥で、背中から翼が生えてくると信じていた。ある日、動物保護センターで傷ついたノスリが自力で飛ぶ訓練をすることになる。 空を飛びたいと願う11歳の少女の悲しくも希望に満ちた感動物語。

(さらに…)

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わたしが鳥になる日

『わたしが鳥になる日』表紙
『わたしが鳥になる日』
サンディ・スターク-マギニス/作 千葉茂樹/訳
小学館
2021.03

ヒトデ:物語のカギとなるビートルズの曲や、ロバート・フロストの詩など、モチーフの入れ方が、とても巧みだなと思って読みました。嫌味なく物語にはまっているというか。こういうのが読めるから、やっぱり翻訳文学っていいなと思いました。「鳥」というモチーフも新鮮でしたし、物語にしっかりハマっていてよかったです。

雪割草:すてきな作品だと思いました。「エリナー・リグビー」がテーマ曲として描かれていますが、知らなかったので調べて聴きました。それで、登校時にエリナーが歌っているこの曲が、悲しい歌詞とメロディーだったことを知り、エリナーのキャラクターをより深く味わうことができました。あとがきにもあるように文章は詩的で、また色でさまざまに表現するところも好きでした。主人公は、自分は鳥だと思っていて、鳥になれば自由になれるのだと、自分の物語(日記)を持ち歩いていますが、ミミズを食べるシーンなどはやりすぎではないか、読者はついていけないのではないかと思いました。ただ、それだけ主人公の傷も深いのだとも思いました。そして、エリナーは献身的で素晴らしい人物だと思いましたが、素晴らしすぎるのではないかと思いました。

カピバラ:デセンバーには、一つ一つの物事がどう見えているのかを、時に詩的な表現を使ってていねいに綴っているのがよかったです。ただストーリーを追うのではなく、一人の少女のものの見方や感受性を共に味わう、といった読書の楽しみがありました。またすべての事柄を鳥の生態や習性と結びつけて考えるのが新鮮でおもしろかったです。オリジナリティがありますね。周りの人々を鳥になぞらえて表現するのもデセンバーならではの見方でおもしろいです。いろいろな辛い体験をしているので、最初はもっと年齢が上の子のような印象でしたが、まだ11歳なんですよね。11歳の身に余るつらい体験を重ねてきたから、自分は鳥なんだと思い込もうとするところが痛ましいです。やっと出会ったエリナーの押しつけがましくない愛情や、シェリルリンのストレートな友情に救われるところはほっとします。あと、意外にソーシャルワーカーのエイドリアンが最後に涙するところは、感動しちゃいました。ずっと見守ってきたんですものね。エリナーが傷ついた鳥を保護して自然に帰す仕事をしているのが象徴的に描かれていると思いました。

さららん:もうすぐ鳥になれると信じ、そのたびに木から落ちて傷つくデセンバー。妄想とか精神障害ではなく、想像を現実とごっちゃにできる、ぎりぎりの年齢として11歳の主人公を設定したのは、正解だったと思います。何が起きているのか見当もつかぬまま読み始めましたが、カウンセラーとの会話を通して、デセンバーが、自分の行動が人から変だと思われることをちゃんと理解している子だと知りました。デセンバーは自分の行動や感じ方を説明するとき、様々な鳥の例を具体的にあげます。その表現がおもしろく、独特な言葉の用法で、ここにしかない世界が作られています。ブルー、ピンクなどの色彩が象徴的に使われ、音楽も聞こえてきました。里親エリナーとデセンバーの気持ちが通じ合うにつれ、エリナーへの共感が増し、飛ぶたびに傷つくデセンバーの姿に、もうこれ以上自傷行為は繰り返さないで!と願う気持ちになりました。大切な友人になるトランスジェンダーのシェリルリンの存在によって、現代に生きる子どもの物語としての厚さが増しています。デセンバーのために、なんとか居場所を探そうとするソーシャルワーカー、エイドリアンの描き方も好ましく、新鮮でした。

まめじか:デセンバーは聡明な面を見せる一方で、空を飛べると思っていたり、自分も剥製にされると思ったりするようなところもあり、そうしたアンバランスな内面がよく描かれていると思いました。ここから飛び立ちたい、自分の居場所を見つけたいという強い思いは、「ある場所に属している」というアカオノスリの学名に呼応し、また渡り鳥の帰巣本能にも重ねられています。餌のネズミをていねいに扱うエリナーを見て、ネズミの運命がわかっているから優しくするのか、自分のことも過去を知っているから優しくするのかと考える場面など、心の動きが繊細に表されています。校長室までデセンバーにつきそってきたシュリルリンが、「あなたはどうしてここにいるの?」と聞かれて、「心のささえになるためです」と答えるのですが、シュリルリンやエリナーやエイドリアンがデセンバーの心に寄り添う姿には胸が熱くなりました。

しじみ71個分:今回の選書係としてこの本を選んだきっかけは、図書館の書棚に並んでいるのを見て、表紙の装丁が素敵だなと思って手に取ったのでした。読んで本当に良かったと思います。前回読んだ『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス著 千葉茂樹訳 あすなろ書房)と内容は似ていて、家族がいなくて里親を転々とし、最後に家族を得るという点は共通しています。スーパー・ノヴァでは主人公は自閉症で、求めているのは最愛の姉でしたが、この本は失われた母親で、その母親が主人公を虐待して大怪我を負わせていなくなるというより厳しい内容でした。里親になるエリナーの名前の由来は、The BeatlesのEleanor Rigbyで、その歌の寂しい雰囲気が物語を通底していると思い、イメージが広がりました。とても切ない歌詞で、教会で結婚式でまかれる米を拾う老婆エリナー・リグビーをはじめ、すべての孤独な人々を歌っていますが、この寂しさを極めたような歌が物語のカラーになっていると思います。里親になるエリナーが娘を亡くし孤独を抱えた人であり、デセンバーも孤独で、孤独な人同士が探り合い、最後に寄り添うというイメージは美しいと思いました。デセンバーが鳥になって飛ぶことに取り憑かれているのも、そういうふうに思わざるを得ないほどに追い込まれた、11歳の体につまった悲しい思いであって、自分を虐待した人でも母と思って慕う姿は読んでいてもつらかったです。お母さんも連れ合いを亡くして精神的に不安定で、それゆえにネグレクトと虐待をしてしまった、ある意味支援の手の足りない人だったのも切ないです。文章が詩的で美しく、言葉からのイメージをたくさん受け取れた物語でした。

アンヌ:最初は本当に「鳥になる」物語かと思っていたのですが、これは飛ぶ話ではなく繰り返し木から落ちる話で、何度も自殺未遂を見させられているようで、読み進めるのが苦痛でした。種しか食べない偏食を自分に課しているデセンバーに、アイスクリームを山盛り食べさせてくれるエイドリアンとか、ゆったり構えて無理強いをしないエリナーとか、まっすぐに友情を示してくれるシェルリリンとか、良い人たちとの出会いがあるけれど、その裏に母親の虐待の事実が少しずつ現れたり、学校のいじめが描かれたりする。その構成は本当に見事だと思うけれど、読んでいてつらいものがあって、後半を読み進めながら、ここでもう一押し誤解があってそれから木から落ちるのかと思うと、つらいなあ、長すぎるなと感じました。詩的表現が心を打つ場面も多いので優れた作品だとは思いますが、読み進められる年齢層はどれくらいなのでしょうか?

アカシア:今日読んだ作品で比べると『いちご×ロック』(黒川裕子著 講談社)が図式的だったのに対して、これは個性をきちんと描き出していると思いました。文学って、こういうもんなんじゃないかな、と。読んでいてたしかにつらいですが、こういう子どもがいるというのは確かなので読んで心を寄せたいと、私は思います。木に登って飛ぼうとするのはこの子の無意識の自傷行為だと思ったし、最後で自分は人間だと何度も自分に言い聞かせているところで、それだけこの子の心の傷が深かったのだと思い至りました。欲を言うと、新人ならではの部分もなきにしもあらずです。たとえば冒頭はどういう状況かつかみにくいし、p54で「剥製にされるんじゃないか」と主人公が本気で思うところで、私はついていけなくて、最初に読んだ時はそこでやめてしまいました。今回もう一度読んだら、作品の深さもわかってきたのですが。それと、里親のエリナーが出来すぎですよね。つらい子どもを受け容れるには、こんなにすばらしい人じゃないとだめなのかと思ってしまいます。

虎杖:同じ訳者による『スーパー・ノヴァ』に設定が良く似てるなと私も思いました。千葉茂樹さん、同じ時期に訳されたのなら大変だったろうなと思ったり、さすがだなと感心したり……。ただ、『スーパー・ノヴァ』の主人公は、お姉ちゃんにとても愛されていたという経験があるのに、この作品のデセンバーにはそれがない。愛されなかったことをナシにしようとおそらく無意識に思いつめたことが、「自分は鳥になる」という思いにつながる。そこのところがなんとも悲惨ですね。作者のあとがきには、実際にいろいろな人に話を聞いたと書いてありますが、このデセンバーもモデルがいたのかなと推察しました。それにしても、色彩にあふれた詩のような文章が素晴らしい。パンプキン畑の描写が特に美しい映画を見ているようで印象に残りました。ただ、エリナーはちょっと出来すぎというか、作りすぎというか……。『おやすみなさい、トムさん』(ミシェル・マゴリアン著 中村妙子訳 評論社)のように、守られている子どもと守っている人が、お互いに影響しあいながら変わっていく様子が見たかったなという気がしました。『スーパー・ノヴァ』の表紙も好きだったけど、この本の表紙もすてきですね!

ハル:私も雪割草さんと同じで、「エリナー・リグビー」がタイトルでピンとこず、読み終わってから調べて「ああこれかぁ!」と思ったので、先に調べてから続きを読めばよかったです。これは失敗でした。作品全体としては、実はちょっとトラウマになりそうなくらい陰鬱な部分もある作品ですよね。たとえば、いじめっ子に追い詰められてミミズを食べる場面とか、繰り返し木から飛び降りる場面とか。それでも、構成力や表現力、人物の魅力で、ぐっと物語に引き込む力をもった作品で、読後はいいお話を読めたという深い満足感がありました。YAとしては、やや読解力を必要とするタイプの作品かなぁと思います。

ネズミ:いい物語を読んだという満足感がありました。心にしみるお話です。鳥がこの子にとっての鎧であり、逃げ場だったのだろうなと思って、胸が痛くなりました。表現のひとつひとつがとても繊細だと思いました。「わたし」が「わたしたち」に変化していくことに象徴されているものがあったり。11歳にしては、全体に大人っぽい感じがしますが、p143からの魔法の杖で遊ぶ場面は、シェリルリンといることから子どもっぽい部分が引き出されているのか、とても印象的でした。タイトルは感じがいいですが、ミスリードしないかなとも思いました。「鳥になる」のが目標なのかと思って読み進めてしまったのですが、そうではなかったので。原題のExtraordinary Birdsというのは、訳すのが難しそうですね。作者の〈謝辞〉に「中級学年むきの作品を書くべき」と言われたとありますが、日本の子どもが読むなら、この作品は中学年より高学年ですよね。

アカシア:日本ではページ数が多いだけで、高学年向けとかYAになってしまうのではないでしょうか。

カピバラ:翻訳もののほうが、設定になじみが薄い分、グレードが高くなるのかもしれませんね。

マリンゴ: 非常に魅力的な本でした。デセンバーが、エリナーのもとに来て、信頼関係を結んでいく物語なのだろうなと、序盤で容易に想像つくのですが、それでも、複数の不安定な要素があって、どういうふうに着地するのか、と引き込まれました。冒頭だけは読みづらくて、数ページ読んでから、人間じゃなくて鳥が主人公の物語なのかな、といったん最初まで戻って読み直してしまいました(笑)。鳥にまつわるさまざまな蘊蓄が随所にあふれていておもしろく、また鳥の一生と人間の人生を重ねている部分なども、説得力があってよかったです。特にp130に出てくるシャカイハタオリという、世界で一番大きな巣をつくる鳥が気になって、調べました。なぜかミサワホームのホームページにくわしい情報が出ていましたよ。デセンバーは、8歳か9歳くらいの幼さを見せるときと、12歳以上の知性を見せるときと、ばらつきがありました。それは、デセンバーのPTSDの深刻さを意図的に見せているのだろうな、というふうに受け止めました。敢えて言えば、エリナーの人柄があまりに優れていて忍耐強いので、デセンバーのような子の信頼を得るためには、里親はここまで頑張らなければならないのか、とちょっとしんどさもありました。なお細かいことですが、「リーキ」という食べ物が登場しますけれど、この呼び方はあまり日本ではなじみがない気がします。ニラネギ、もしくはポロネギと訳してもらったほうが、イメージが湧きやすいかなと思いました。

西山:最初は読みにくかったですね。だんだん加速していって後半は途中で止められなかったのですが、それは、デセンバーに何が起こったのか、その不幸な過去を知りたいという興味で読み進めていて、我ながら、それはちょっといやしい読み方だなと思っています。読みにくかったのは、例えば、鳥が好きなのだったら、ヒメコンドルが不細工だと言ったりする(p38)のかなとか、デセンバーという少女の像が一本に結べず、ついていきにくかったからかと思います。過去の過酷な体験が原因で、彼女の感情面の振幅が激しいのかとも理解しますが、それが読みにくさになっていたかなと。ソーシャルワーカーのエイドリアンが好きでした。デセンバーが彼の心遣いをしっかり受け取っているから、それが読み手に伝わったのだと思います。

(2021年9月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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いちご×ロック

『いちご×ロック』表紙
『いちご×ロック』
黒川裕子/著
講談社
2021.04

ネズミ:非常に勢いのある作品だなと思いました。思った高校に行けなかったこと、母との関係、父親の事件への戸惑い、よくできた姉への劣等感など、いろんな要素がからんでいます。高校生のさまざまな要素を盛り込もうとしているんだなと好感を持ちました。ただ、私の好みの問題かもしれませんが、その勢いについていけない部分もあったかな。特に、ひっかかったのは父親の事件をめぐるやりとりは、すっきり解消せず、消化不良感が残りました。

虎杖:エアギターというのは、テレビでコンテストの風景を見たことがあったけど詳しくは知らなかったので、おもしろいなと思いました。楽器を弾けなくてもできるというのがいいですね。でも、人前で演奏するには、楽器を弾くより勇気がいるかも。濱野京子作『フュージョン』(講談社)を読んだときも、ダブルダッチとか縄跳びの技を知ることができておもしろかったのを思いだしました。文章は軽くて、すらすら読めるし、登場人物もマンガチックだから、中学生は手に取りやすいかな(高校生となると、疑問だけど)。ひっかかったのは、主人公の苺の設定で、受験の失敗で暗くなってる優等生が、たとえモノローグでも、こんな風に話すかなということ。それに、成績が251人中25番で落ち込んでいるらしいけど、ここまで読んだら251人中224人の読者はカチンときて読みたくなくなるかも。お父さんが痴漢で捕まったという事件は、十代の子にとっては大変なことだと思うけど、結局やってたのか、どうなのか曖昧なまま終わりますよね。これって、絶対やってるよね。冤罪だったら、最初から猛烈に怒るだろうし、闘おうとするだろうから。作者も、そのへんのところは気になっているとみえて「このひとは、嘘をいっているかもしれない」なんて主人公に言わせている。いっそのこと、本当にやったという設定にすればおもしろい展開になったのかもしれないのに。変な言い方かもしれないけれど、作者の覚悟が足りないなって気がしました。当然いるだろう被害者(あるいは、被害を訴えた人)のことも、この主人公はまったく考えていないんだよね。実際に痴漢の被害にあった中高生が読んだら、カチンどころじゃなくて猛烈に怒るだろうなと思いました。

アカシア:私はあまりおもしろく読めませんでした。シオンの父親は韓国人なのですが、その設定がうまく生かされていませんね。ただのどうしようもない父親というだけで、それならわざわざこういう設定にする必要がなかったのでは。父親が痴漢を疑われるのですが、もし無実なら最初から家族にはっきりそう言うだろうと私は思ったんですね。最後の娘との和解の場面になって初めて言うなんて、リアリティがないように思います。また娘のほうも高一でそう父親と親しくなければ、父親が痴漢の疑いをかけられたくらいで、これまでとまったく違う人間になろうとするくらいまでぶっ飛ぶこともないように思います。いろんな意味で、文学というよりマンガのストーリーじゃないでしょうか。またエアギターやエアバンドについては、おもしろさを文章で伝えるのは難しいかもしれないですが、この作品からは私はおもしろさを感じられませんでした。出てくるキャラクターも図式的で、魅力を感じるところまで行きませんでした。

アンヌ:一度読んだだけでは、最後がどうなっているのか分からなくて読み返しました。一つ一つの場面では完結しているのだけれど、物語として納得がいくような流れ方をしていないなと思いました。ロクは魅力的だけれど、たぶん難病ものなんだろうなと予感がしてしまって、もう少し別の設定はないのかなと思います。実は裏表紙にUGの絵があったので、最後には出て来てかっこよく弾いてくれると期待していたので、出番がなくて残念でした。

コアラ:おもしろく読みました。ただ、最後のページが、何を言っているか全然分かりませんでした。最後のページの4行目、「さあ、わたしの十五秒はどこにある?」って書いてあるのですが、〈EIGHTY-FOUR〉のパフォーマンスを力いっぱいやり終えたばかりでしょう。「どこにある?」って、これから探すように書かれていて意味が分からない。最後がうまく締めくくれたら、もっと後味がよかったのにと残念でした。全体としては、表現はいろいろおもしろいと思うところがあって、表現に引っ張られて読んだ感じです。エアギターを取り上げているのも、おもしろいと思いました。高校生ならリアルギターもできる年齢ですが、あえてリアルではなくエアギターというところで、リアルな世界での姿とのギャップや、リアルでは出しづらい反抗心とかを描きたかったのかな、とも思いましたし、人目を気にしないでやりたいことをやってみろ、とか、そういうことを描きたかったのかなと思いました。シオンくんが最後にエアドラムを叩く場面は、おお、やるなあ、と思いました。エアだから表現できることって確かにありそうだなという気がします。読み終わってから、YouTubeでTHE STRYPESの〈EIGHTY-FOUR〉を聴いたんですが、この曲を知っていれば、この物語に流れるエネルギーみたいなものをもっと感じられたかなと思います。エアであれ、ロックをやる若者を描いているんですが、文体としてはロック感がなくて、優等生的という感じを受けました。そこが作品としては残念かなと思います。

まめじか:ラストの「わたしの十五秒はどこにある」は、今弾いた曲ではなく、人生の十五秒という意味では? 音楽というのは本来、ほとぼしるような感情の発露なのだということが、エアギターというものに表されていると思いました。自分の思いをぶつけて、自由に表現するというか。一度失敗したらぜんぶだめなのかと、ロクは苺に言うのですが、それは苺が志望校に落ちたことやシオンにふられたこと、父親の痴漢疑惑やUGのアルコール依存症などにつながります。価値観を押しつけ、決めつけてくる大人に対し、苺が自分にとっての真実を見つける物語ですね。ロクが病弱だという設定は、吉本ばななの『TUGUMI』(中央公論社)に重なります。病弱だけど強い魂をもった少女に男の子が思いを寄せ、それを主人公が見守る構図だなあと。

カピバラ:いろんなモヤモヤをかかえた高校生がエアバンドに出会って解放されていく感じがよかったし、高校生らしい比喩とか心の中での突っこみがおもしろいと思いました。でもこの人の描写があまりにも説明的で、新しい人物が出てくるたびに、どういう髪型でどういう服でと、あたかもマンガの絵を上から順に説明するように書かれているんですよね。新しい場所に行くたびに、場所の説明も事細かに書いてあって、ちょっと疲れると思いました。それだったらマンガを読んだほうがいいんじゃないかな。文章を読んでいろいろ想像するような楽しみっていうのがあまりないのが残念です。見た目だけを解説しなくても、雰囲気や性格は伝わると思います。それが文学なので。

雪割草:読みやすかったです。外国籍の背景やいろんな家族のかたちをとり入れていたり、消しゴムのかすに自分を例えている主人公が、エアギターを通して自分を出していく変化を描いていたりするのはいいと思いました。ただ、恋愛模様の描き方や登場人物の設定が表面的なところなど、コミックチックだと感じました。例えば、UG(ロクとシオンの祖父)はヒッピーっぽく、一風変わっていておもしろそうな人物ですが、ダメな感じにしか描けていないのが残念でした。裏表紙の絵の描かれ方も風格がなくてびっくりしました。人生の先輩の年齢の人なので、もっと深みがあって学べるところがあるはずなのに、もったいないと思いました。

ヒトデ:「音楽系」の児童文学が好きなので、今回、推薦させていただきました。「音楽」「バンド」を書いたものではあるんですけど、「エア」というのが、個人的におもしろかったです。「エア」だからこそ、現実の部分をこえて、表現することができる。その着眼点は、この作者ならではのものだと思いました。キャラクターの造形など、マンガ的ではあるんですが、こういった形だからこそ読める読者もいるんじゃないかなと。好みもあるとは思うのですが、ハマる読者はいると思います。私はハマりました(笑)。勢いが楽しいです。

ハル:最後まで一気に突っ走っていくような、疾走感が心地よい作品で、いいねぇ、青春だねぇと、勢いよく読みました。とか言いながら、対象読者よりもだいぶ歳上の私にしたら、途中「ちょっと長い……」と思ったのも正直なところです。でも、青春ってこういうことなのかもねと思います。傍から見たらダサくて全然いけてなくても、何かに熱くなれた時間が、いつか大きな財産になると思うので、読者が何かしら影響を受けて、何かに夢中になってみたい!と思えたら、それはいいことなんじゃないかなと思いました。苺のママと流歌さんがすぐに友達になっているのは意外でしたけど。

しじみ71個分:私は、ああ、青春の爆発だなと思って、その点は好もしく思って読みました。心の中に言い出せないモヤモヤがいっぱい詰まってて、いつも怒りか何かわからないものを抱えていたなぁ、とか自分の若い頃が思い出されました(笑)。制服に口紅でバツを書くなんていう気持ちはとてもよく分かりましたね。苺は受験に失敗したりとか、父親が痴漢の容疑者だったりとか、事件はあったけど割と普通で、ほかの人物は父親の国籍が違うとか、病気を抱えてるとか、それなりの背景があるのに深掘りされないので、苺の視点から見た普通の子の鬱屈は分かるんだけれども、その対比となる部分がない感じがします。エアギターもおもしろいとは思ったんですけど、もうちょっと魅力的にエアギターを書いてほしかったなぁと思いました。そこまでエアギターに入り込む必然性、どうしてエアギターじゃなきゃだめなのか、というところまでは感じませんでした。『拝啓パンクスノットデッドさま』(石川宏千花、くもん出版)は、ネグレクト、ヤングケアラーといった重いテーマを背景にしつつ、パンクへの愛がこれでもかというくらいに描かれていて、なぜパンクなのか、パンクでなければダメなんだという点がとても心にしみて、ぐっと入り込めたんですね。主人公が好きなものは書き込んである方が気持ちに寄り添えるし、設定に入り込めるなと感じました。それと、UGの造形がちょっと物足りないかなと。千葉にはジャガーさんという伝説のヘビメタロッカーがいて、読みながらそういうロックなおじいさんを想像していたんですけど、わりとすぐにUGがエアギターを教えてくれて軽い感じがしたし、ロッカーというよりわがままなおじいさんにしか見えなくて、物足りなさはありました。あとで、The Strypes見ましたが、ちょっと物語のエアギターと結びつかなかったな…残念…。

西山:率直に言ってしまうと、わたしはあんまり好きじゃなかったです。まず、苺が高校生に思えなくて。もちろん、1年生だし、16歳とあるので、実際のところはそんなものかもしれませんが……子どもの本の世界でこんなふうな造形は中学生として読み慣れてきたので違和感があるのかもしれませんが……。作者は、存在しないギターを弾いて見せるエアギターを、映像ではなく言葉で描写するという、「見えない」を二重にして書くこと自体がチャレンジというか、おもしろかったのではないかと勝手に思っています。でも、読者としてそれを楽しむという風にはならなかったわけです。ちょこちょこひっかかりが多くて……。たとえばp76の最後の行で、シオンくんのお父さんが離婚して出ていったことを「クラスメートだけど、そんな話きいたことなかった」とあるけれど、そりゃそうでしょと思います。どんな親しい子だってめったにそんな話はしないし、苺はクラスの中で壁を作って閉じこもっているし、なおのことそうでしょうと。お姉ちゃんに対して屈折していて内心反発していて、心中「夏みかん」と呼んでいるというのもピンとこない。憂さを晴らすためなら違う言葉じゃないかなとか。ラストは説教臭く感じてしまいました。例えば、カラコン外して「素のままの自分」という感覚は大人好みの気がしたのでした。

マリンゴ: 黒川さんの本は、取り上げられる素材がバラエティに富んでいて、次は何かと興味深く読んでいます。『奏のフォルテ』(講談社)はクラシック音楽でしたが、今回はロックですね。いろんな要素が詰め込まれていて、高校生の主人公が混乱してもがきながら、どうにか前へ進んでいく様子が描かれています。いいなと思ったフレーズはp184「百まで生きるより、ずっとかっけー十五秒もあるよ」です。ただ、ストーリーとディテールにそれぞれ気になるところがありました。まずストーリーについてです。父が「自分はやってない」と最後の最後で語るのですが、本当にやってなかったら、引きこもったりとか帰宅したときに謝ったりだとか、そういう言動にならないのではないでしょうか。これは主人公と父が理解し合うシーンを最後に持ってきたいから、敢えて事実を伏せて引っ張っているように思えるんですけども、そのせいで逆にリアリティから離れた気がします。また、ディテールですが、都会の女子高生の一人称のわりに、そういう子のボキャブラリーとは思えない比喩が多くて気になりました。たとえば、p10の「水田の稲の高さくらいは跳んだだろう」とありますが、都会暮らしの女子高生がぱっと思いつく言葉として、「水田の稲」は違和感がありました。もう一つ挙げるなら、p28の「おでんの鮮度でたとえるなら、三日目夕方のはんぺんだ」。16歳の主人公がおでんを食べるとすると、主に家庭でだと思うのですが、お母さんはp104で「潔癖性の気のある」と書かれていて、おでんを三日出すキャラクターとは違いそうです。そうすると、三日目夕方のはんぺんをどこで見たのかな、と。見たことないのであれば、大人ならともかく女子高生が「イメージ」だけでこういう比喩を出すのは少し不自然かなと思いました。三人称で書かれていれば、さらりと読めた気がします。

(2021年9月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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子どもの本に見る新しい家族⑫ もっと多様性を!

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『子どもの本に見る新しい家族⑫ もっと多様性を!』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑫

もっと多様性を!

これまで11回にわたって、子どもの本に新しい家族がどう描かれてきたかをみてきた。子どもにとって最も身近な環境である家族・家庭を通して、子どもの本をとらえ直してみたいと思ったからである。日本ではまだ家族というと血のつながりが前提だと思い込んでいる人が多い。そして父親はたくましく外で働き、母親はパートくらいはするにせよ家で家事や育児にいそしみ、子どもは思春期には多少の揺れがあったとしても最終的にはしかるべき企業に職を得る─それが安泰な暮らしの基盤であり、家族の理想像だと考えている人もたくさんいる。そこからは、親の離婚再婚は身勝手だと責める目や、単親家庭や里子や養子は特殊な、かわいそうな存在だという視点も生まれる。

子どもの本の編集者の中にも、そうした従来型の家族の理想像を提示することが肝要だと考えたり、日本の平均的な家庭・家族の有り様を描くのが大事だと考えている人が少なからずいる。そこからはずれた状況やマイノリティの人々を描いた本は読んでもらえないし売れないと思っていたりもする。

先日ある若い絵本作家から、子どもがたくさんいる絵を描いたとき、左利きの子どもを一人混ぜておいたら、左利きは描かないでほしいと編集者から言われたという話を聞いた。これは極瑞な例だとしても、そういう風土の中では、ただ今現在自分がいる小さな(いじましい)社会の中でのマジョリティに沿った価値観しか提示されない。女性の役割にしても、一時は編集者たちが討議を重ねて、ジェンダー的にずいぶん考慮された絵本も出版されていたが、最近はそれも少ない。

 

マイノリティの提示にも意味がある

しかし私は、子どもの本がマイノリティを提示していったり、読者がマイノリティの視点を学んでいったりすることも大事だと考えている。そうしないと、子ども社会のなかでも同調圧力がさらに強くなり、なんらかの点で自分は多数とはちょっと違うと思っている子どもたちが「自分は自分のままでもいい」と思えなくなってしまうだろう。ひいては、他者が何を考え、何を感じているのかを想像する力も弱くなってしまうだろう。

日本の子どもの自己肯定感は、諸外国と比べてきわめて低いという。(古荘純一著『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』光文社新書)。平昌オリンピックに出場した選手たちからは「自分を信じて」という言葉がよく出たが、自分を信じることができない子どもたちが日本にはたくさんいる。日本ではまた、場の「空気を読んで」、「みんなと合わせる」ことも奨励される。そういう考え方に沿えば、左利きや、LCBTQや、単親家庭をはじめとするマイノリティは特殊なのであって、「みんなと合わせる」ことができない人たちだということになってしまう。

でも、実際は子どもたちの多くが、自分はマジョリティとは違うところがある、とか、どこかで無理をしないとみんなに合わせられない、と感じているのではないだろうか。それなのに、マジョリティに合わせることをよしとする画一的な考え方を親や教師が事あるごとに提示し、本でも見せていたら、子どもの自尊感情が低いままになってしまうのも当然ではないだろうか。

 

◆日本と欧米の作品を比べてみると

ヴィンス・ヴォーター『ペーパーボーイ』表紙家族や家庭にしても、これまで見てきたようにアメリカやイギリスでは、ずいぶん前から多様な家庭が作品の中に登場していたのに対して、日本の作品の多くは、ごく最近までマジョリティを取り上げることを当然と考え、いわゆる問題小説の中にしかマイノリティは登場してこなかった。

ついでに言うと、それは家族像ばかりではない。ほかのマイノリティにしても同じである。

一例をあげると、アメリカの作家ヴィンス・ヴォーターの『ペーパーボーイ』(原著 2013/原田勝訳 岩波書店 2016)と、椎野直弥著『僕は上手にしゃべれない』は、どちらも吃音をもつ少年を主人公にした中学生向きのフィクション『僕は上手にしゃべれない』表紙で、どちらの著者も自分が吃音で悩んだ体験をもっている。しかし、『ペーパーボーイ』においては、吃音は作品を構成するいくつかの要素の一つにすぎない。一方『僕は上手にしゃべれない』の方は、主人公の吃音の克服が最大のテーマとなっている。日本のこの作品では主人公が「他者と違う」点が前面に出ているが、アメリカの『ベーパーボーイ』では、他者と違っているのは主人公だけではない。じつに個性的で多様な人物たちが主人公を取り巻いている。

日本の児童文学作家は、マイノリティを取り上げるときはそれなりの覚悟をして、それをメインテーマにして作品を書くことが多いのに対し、欧米では、マイノリティは多様な登場人物の一人として、さりげなく登場してくることも多い。

『ジェリーフィッシュ・ノート』表紙たとえばアメリカの件家アリ・ベンジャミンが書いた『ジェリーフィッシュ・ノート』(原著 2015/田中奈津子訳 講談社 2017)の主人公スージーの兄アーロンはゲイだが、「兄さんのボーイフレンドのロッコ」という言葉がちらっと出てくるだけなので、気づかずにスルーしてしまう読者もいるだろう。また、スウェーデンの作家アンナレーナ・ヘードマンが書いた『のんびり村は大きわぎ!』(原著 2010/菱木晃子訳 徳間書店 2010)の主人公アッベ(10歳)は、生後3か月のときスリランカからスウェーデンに養女としてやってきた。その後養親が離婚してアッベは養母と暮らしているのだが、この物語がメインに描いているのはそこではなく、子どもたちが村の人たちをまきこんでギネス世界記録に挑戦する様子である。養女であったり、親が離婚していたりする部分は、物語の背景として登場するだけだ。

アンナレーナ・ヘードマン『のんびり村は大さわぎ!』表紙といってもスウェーデンの子どもの本が、すべてそのようなあっけらかんとしたトーンで描かれているわけではない。この連載の3回目でも触れた絵本『パパはジョニーっていうんだ』(原著 2002/ボー・R.ホルムベルイ文 エヴァ・エリクソン絵 菱木晃子訳 BL出版 2004)は、親が離婚して母と二人暮らしの少年が久しぶりに父親と会う話だが、一緒に暮らせない父と息子のやるせなさを漂わせていた。

またスウェーデンの第一線で活躍していた作家ウルフ・スタルク(昨年6月に72歳で死去)の『シロクマたちのダンス』(原著 1986/菱木晃子訳 佑学社 1994、偕成社 1996)は、かなリシリアスなトーンで、別居した両親の間で揺れ動きながら自分を見いだしていく少年の気持ちを描いていた。スタルクが、少し前の作品(たとえばアメリカのジュディ・ブルームが書いた『カレンの日記』や、ドイツのベーター・ヘルトリングが書いた『屋根にのるレーナ』)と違って、離婚する親に非難がましい目を向けていないことにも注目しておきたい。

 

◆それぞれのお国事情はあるけれど

もちろん子どもの本も、それぞれの国の事情を反映している。英米にしろスウェーデンにしろ、親の離婚や再婚、単親家庭、養子、里子などは日本と比べてずっと多い。だからそうした多様な家庭が作品に描かれるという側面ももちろんある。しかし 英米や北欧の絵本や児童文学が「多様性」を重視するのは、それだけが理由だとも思えない。多数派からの距離や違和感を感じている子どもたちに、多様な価値観や多様な存在のあり方を提示することによって「少数派でもだいじょうぶだよ。どんな状況のどんな子どもだって生きていてほしい」というメッセージを送っているのではないだろうか。

私の孫の一人が通っている幼稚園では、母の日にはお母さんの絵を、父の日にはお父さんの絵を子どもに描かせる。「お母さんのいない子は、おばあさんの絵でもおばさんの絵でもいい」などの配慮もあるらしいのだが、配慮があったとしても、単親家庭や養護施設で幕らしている子は疎外感を持つことだろう。といっても、今は保育国、幼稚園、小学校の多くは、家庭の多様化をかんがみて、母の日や父の日の行事をしなくなっているらしいが、差し障りがあるからやらない、というだけでいいのか、という疑問も感じる。

先日目にしたBBCニュースでは、母の日、父の日ではなく「家族ウィーク」を設けたイギリスのある幼稚園が紹介されていた。子どもたちがそれぞれ固有の自分の家族を絵に描き、どんな時に家族といて楽しいと思うか、うれしいと思うかを話すというものらしい。先生たちは、最初から多様な家族像をしっかり認めたうえで、子どもたちが「これも家族」「あれも家族」「それも家族」と自然に思えてくるように指導していた。

 

◆子どもは新たな未来をつくる存在

子どもは新たな未来をつくる存在だ。教師や親や権力者の言いなりになるより、自分の心で感じ、自分の頭で考えて、今よりいい未来をつくっていってほしい。

どんな子どもの本を書くか、出すかは、そこにつながっている。子どもの本にかかわる人たちは、世界は動いていることを認識し、どんな社会に子どもをおいたらいいのか、ということも考えてみてほしい。

家族ひとつを考えても、血のつながりとか、従来型の家族像にばかりとらわれてしまうと、新たな未来にはつながらない。昨年厚生労働省は「新しい社会的養育ビジョン」を打ち出して、里親や養親の数を増やそうとしている。それについても、子どもの本の作り手は考えてみてほしい。そして、子どもたちが未来を考えるときに参照できるような多様な価値観や多様な選択肢を、子どもの本でも示しておいてほしい。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年4月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑪ 「外から来た子ども」を日本の児童文学はどう描いてきたか

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『子どもの本に見る新しい家族⑪ 「外から来た子ども」を日本の児童文学はどう描いてきたか』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑪

「外から来た子ども」を日本の児童文学はどう描いてきたか

日本では、まだまだ血縁が大事、実の親がいちばんという神話が威力を発揮している。そのせいか養子や里子はこれまで日本の児童文学にそう多くは登場してこなかった。このテーマはまだ多くの日本の児童文学作家の視野には人ってきていないと言ってもいいのかもしれない。最近になってようやく、連載⑦でとりあげた戸森しるこの『十一月のマーブル』(講談社)のように、「外から来た子ども」がぽつぽつと描かれるようになってきてはいるが、養子や里子を正面からとりあげた、文学的にもすぐれた作品となると、まだまだ数は少ない。

 

◆親族が親代わりになって子どもを引き取る場合

『よるの美容院』表紙たとえば市川朔久子の『よるの美容院』(講談社 2012)では、ある事件をきっかけに声を失い、筆談でコミュニケーションをとる12歳のまゆ子が、美容院を経営する遠縁の「ナオコ先生」に預けられて、開店前の準備などを手伝っている。まゆ子の母親はまゆ子に愛情を抱いていないわけではないのだが、「こんなに一生懸命やってるのに、なにがいけないの。いったいなにが不満なの」とか「お母さんを困らせるためにわざとやってるんでしょ」などと口走ってしまう。おっとりゆったりかまえているナオコ先生とは逆のタイプとして描かれている。

講談社児童文学新人賞を受賞したこの作品では、ナオコ先生が、毎週月曜の夜、まゆ子の髪をあたたかくやさしい手でていねいに洗ってくれる場面が印象に残る。

まゆ子はゆったりと力を抜いて、ナオコ先生の指先に頭をあずける。
ナオコ先生の手は、とても温かい。ぽかぽかした指先できわられていると、かちんとかじかんで冷たくなっていた頭の皮が、ふわっととけていく。

頭皮だけではなく、かじかんでいたまゆ子の心までゆるゆるとほどけていく。まゆ子は半年たらずの滞在を経てやがて親のもとへ帰るので、養子や里子になったわけではない。しかし、実の親ではできないこともあるということをこの作品は見せてくれている。

岩瀬成子『春くんのいる家』表紙

岩瀬成子の『春くんのいる家』(文溪堂 2017)は、祖父母の家に身を寄せる二人の子どもを描いている。一人は、親が離婚して母と一緒にやってきた小学校4年生の日向であり、もう一人は、父親が病死し母親が再婚したあと、祖父が「たったひとりの跡取りなんだ。こっちにわたしてくれ」と言って養子にした中学2年生の春。日向と春はいとこ同士であるとはいえ、年齢も性別も違うのですぐに打ち解けるということにはならない。

陶器の店を経営している祖父は、「今からは、このみんなが斉木の家族だからね」と言うのだが、そう言われるだけですんなりと家族になれるわけでもない。そのあたりの日向や春の心の揺らぎを岩瀬はみごとに描写していく。

日本的だと思ったのは、日向が離婚の理由をたずねても、母親が語らない点だ。

パパとママがなぜ離婚することになったのか、わたしには、今もわからない。「どうしてなの?」と、わたしはママにたずねた。ママがわたしにはじめて「パバとはベつべつに暮らすことになったから、わたしと日向は、これからはおじいちゃんの家で暮らすのよ」といったとき。
ママは、「さあね、どうしてだろ」といった。そして大きい息をひとつついた。少しして、「そういうことになったのよ」といった。

欧米の親は、離婚の理由を子どもにも伝えることが多いが、今のところ同じような状況にある日本の親の大半が、日向の母親と同じような対応をするのではないだろうか。もしかしたら、この母親は自分でも明確に離婚理由を意識化してはいないのかもしれない。欧米人が、たいていは明確に意識化しないと大事な局面で次の一歩を踏み出すことができないのに対して、日本人は「なんとなく」の気持ちが積みかさなってある地点までたどりつくこともありそうだ。ただし、この母親は、現状をよく見ているらしく、春くんが子ネコを拾ってきて祖父が嫌な顔をして飼うのに反対していると、きっぱりと言う。

「ネコ、飼おう」と、いきなりママがいった。きっぱりした声だった。「うちは今、なんていうか、たいへんなときじゃないの。今までべつべつに生活していた人間がこうやってあつまって、なんとか家族になろうとしているのよ。つまり、たいへんなときであるわけよ。でしょう? この際だから、ね、ネコも飼いましょう。みんなでいっしょに家族になればいいんじゃないのかな」

その後、母親は涙ぐむのだが、母親がこの時言ってくれたとおり、子ネコの世話を通して日向と春の距離が近づき、こんな会話が出るようになる。

「この子、この家を好きになるかなあ?」
「きっとなるよ。日向ちゃんはどう? この家、好きになった?」
「うん。好きになったよ。だってしょうがないじゃん」と、わたしはいった。
「日向ちゃん、意外に大人だね」と、春くんはいった。
「春くんは?」
「ぼくも意外に大人だよ」と、春くんはいった。

そして日向は

階段をあがっていきながら、春くんがきてくれてよかったなあ、と思った。それからネコも。きてくれてよかつた。

と、そんなふうに思えるようになるのである。

欧米の作品のように、問題や葛藤がくっきり提示され、それが解決されて物語が終わるというわけではない。ただ、子どもの気持ちを内側から描いていく岩瀬は、日向の気持ちがリラックスしてきていることを次のように表現している。

なぜだか理由がはっきりわからないのにわらってしまうことってあるんだ、と思った。気もちの底のほうがゆるくなって、うれしいような、楽しみなような、おもしろいような、いろんな気もちがごちゃごちゃとまじりあっていて、それはうまく言葉ではいえないけれど、安心するような気もちだった。

 

◆特殊な状況での新しい家族

『岬のマヨイガ』表紙柏葉幸子が野間児童文芸賞を受賞した『岬のマヨイガ』(講談社 2015)では、震災をきっかけに、血のつながらない3人の女性が出会って一つの家族をつくろうとする。3人のうちの一人は、萌花という少女。両親を亡くして、これまで会ったこともない親戚にひきとられることになっているのだが、この子も、『よるの美容院』のまゆ子と同じように口がきけなくなっている。もう一人は、暴力をふるう夫から逃れて家を出て、萌花と同じ電中に乗り合わせていたゆりえ。この二人が、狐崎という駅で電車を確りた後に大地震と津波にあい、中学の体育館に避難する。そこで、出会ったのが不思議な老女キワさんだ。この作品には 「遠野物語」を思わせるようなカッパや妖怪も登場して、ファンタジーとリアリズムが融合した展開になっていくのだが、「家族」という視点から見てみると、まったく血縁関係にない3人が、たまたま出会って過去を清算し、名前も変えて家族をつくる姿が描かれているという意味で、おもしろい。最後にゆりえとキワさんは、こんなふうに言う。ひよりというのは、萌花の新しい名前である。

「私、逃げるのはやめました。夫ときちんと話し合って離婚します。ひよりの伯父さんも、どうなっているのかさがしだして、ひよりといっしょに暮らせるようにたのんでみます」(結になったゆりえの言葉)

「ひよりも結さんも 私の家族だ。ひよりが鳥舞を舞うところも見たい。ひよりが中学生になるところも、高校生や大学生になるところも、きれいな娘さんになるところも見たいね。ひよりや結さんが、狐崎をはなれたいと思う時まで、ここにいるよ」(キワさんの言葉)

 

ファンタジーにおける新しい家族

上橋菜穂子『鹿の王・上』表紙上橋菜穂子の「守り人」シリーズの主人公で女用心棒のバルサは、殺された父親カルナの親友ジグロに育てられ、短槍の達人ジグロからその術を学ぶ。ジグロは、バルサの命を守るために職も名誉も捨てて、養い子であるバルサが一人でも生きていけるよう、愛を持ちながらも厳しく仕込む。バルサは、ジグロの養女という設定になっている。

また、上橋の『鹿の王』の主人公ヴァンは、奴隷として働かされていたアカファ岩塩鉱から逃れた際、もう一人の生き残りだった幼女ユナを発見して、置いて行くことができずに一緒に連れていく。また、ヴァンの追跡を依頼されたサエは、逃亡奴隷の追跡をなりわいとするマルジの娘で、一度結婚したが出戻り、今は父親と同じ仕事をしている。このサエが、しだいにヴァンという存在にひかれていく様子も描かれている。最後は、黒狼熱が人々の町に広がらないように犬を連れてひとり森の奥へと消えて行ったヴァンを、サエとユナがトマ(オキの民)、智陀(移住民)と共に飛鹿に乗って迫いかけるという展開になっている。ヴァンとユナとサエが今後ひとつの家族を形成していくかどうかは描かれていないが、上橋はこう書いている。

オキの民と移住民の若者、沼地の民の娘とモルファの女は、家族のように寄り添って、深い森の奥へ消えていった。

血のつながらない、文化や風習も異なる者たちが一つの家族をつくろうとしているイメージが、頭の中にうかんできたのは、私だけだろうか。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年3月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑩ 「外から来た子ども」をイギリスの児童文学はどう描いてきたか

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『子どもの本に見る新しい家族⑩ 「外から来た子ども」をイギリスの児童文学はどう描いてきたか』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑩

「外から来た子ども」をイギリスの児童文学はどう描いてきたか

イギリスでは、親と一緒に暮らせない子どもは里親や養親の家庭で養育されることが望ましい、とされてはいたものの、最近は養護が必要な子どもの数が増加する一方で、里親や養親は不足していると言われている。そんな背景もあって、かなり早い時期から養子や里子が児童文学にも登場していた。

 

『アンモナイトの谷』の場合

『アンモナイトの谷』表紙バーリー・ドハティのYA小説『アンモナイトの谷』 (後に改題して『蛇の石 秘密の谷』 原著 1996/中川千尋訳 新潮社 1997)の主人公は、15歳のジェームズ。赤ちゃんのときに生母に置き去りにされ、今は養子として暮らしている。客観的に見るといい養親でも、思春期で反抗的になっているジェームズは、養父を必要以上に責めたり、養母にも「ほんとの息子じゃないからね」と言い放ったりする。そして、ある日、養親には内精で生母を捜す旅に出る。紆余曲折を経てジェームズはようやく生母に会えるのだが、その出会いは、想像していたのとは違っていた。生母とジェームズは、会話らしい会話をしない。ぎゅっと抱き合ったりもしない。生母は「幸せなの?」ときき、ジェームズがうなずくと「そう。よかった」と言うだけだ。戻っていく生母を見送る場面は、こう書かれている。

永遠に心に焼きつけておこうとするみたいに、その人は、じっとぼくを見た。その視線に、ぼくは耐えられなくなった。しゃがみこんでアンモナイトをスポーツバッグにしまい、そして立ちあがったとき、その人はもうそこにはいなかった。
夫と、子どもたちといっしょに、ゆっくりと家への道を歩いていた。ぼくは追いかけなかった。そんなことしたくなかった。あの人には家族がある。ぼくにだって。

その後でジェームズはこう考える。

でもとにかく、やろうと思ってたことはやった。お母さんを見つけたんだから。ほんとうに会って、話までした。いまでは ぼくを産んでくれた人がどんな人なのか、ちゃんと知ってる。
それにもうひとつ、おもしろい変化が起きた。あの人のことを、ほんとうのお母さんだとは思わなくなった。うちにいる母さんが、ぼくのほんとうの母親だ。早く母さんに会いたい。

15歳というのは、養子であろうと実子であろうと自分の来し方を確認し、未来に向けてふたたび歩きだす年齢である。ジェームズも生母の存在を確認できたことで満足し、自ら養親を選びとり、こんな手紙を書く。

母さんと父さんヘ

ぼくはいままで、行くはずじゃない場所にいました。生まれた場所を見つけ、母親にも会ったら、なぜぼくを手放したのか、わかりました。あの人といっしょに暮らせないのはわかってます。ただ、会ってみたかっただけです。会ってよかった。いまの家に帰れるのが、とってもうれしい。

愛をこめて  ジェームズ

 

◆ 『おやすみなさいトムさん」の場合

『おやすみなさいトムさん』表紙ガーディアン質を受賞したミシェル・マゴリアンの『おやすみなさいトムさん』(原著 1981/中村妙子訳 評論社 1991)の舞台は第二次大戦下のリトル・ウィアウォルドというイギリスの小さな村。主人公は、空襲を避けてロンドンから疎開してきたた9歳のウィルと、しぶしぶこの子を預かるトムというおじいさん。トムは、妻子を病気で亡くして以来、人付き合いが悪く村人たちから偏屈だと思われている。ウィルは体中に母親から折檻を受けた痕があり、トムからも折檻を受けるのではないかとおびえている。おまけに虐待のせいで体の発達も遅れ、文字の読み書きもできない。

トムは、40年間続いてきた規則正しい日課が崩れることにいらだったり途方に暮れたりしながらも、ウィルの世話を焼き、村人とのつき合いも復活させていく。二人はだんだんに距離を縮めて親しくなり、おたがいにとってかけがえのない存在になっていく。

生母によって呪縛されていたウィルの心身は白由になり、いろいろな力がわき出てくる。ところがそんなある日、母親から、病気なので帰ってきてもらいたいという手紙が届く。ウィルは、半分は期待をもち、母親と抱き会う場面などを想像しているのだが、久しぶりで会った母親は、息子の笑顔にぎょっとし、自分の権威がおびやかされたと感じる。

この生母は、「やさしい」「包み込む」「あたたかい」などという一般的な母親のイメージからは正反対のところにいる。ウィルはまた母親の虐待に直面することになる。生母は人種的偏見にも満ち満ちていて、ウィルが疎開先で親友になったのがユダヤ人だと知ると、息子をさんざんに重たい物で殴り、階段の下にとじこめる。

一瞬彼は いっそリトル・ウィアウォルドに行かなければよかったと思った。そうしたら母さんのことをいい人だと思っていられただろうに。ほかの人と比べようがなかったろうから。絶望感の怒濤が身のうちに荒れ狂い、彼はこの新しい目覚めを呪った。

一方トムのほうは ウィルが悲惨な状態に逆戻りしたことを知るよしもなかったのだが、ある時、夢でウィルの悲鳴を聞く。そして心配で居ても立ってもいられなくなり、ロンドン行きの汽車に飛び乗る。そしてようやくたどりついた家で、ドアを破って入ったときに見たものは、とんでもない光景だった。ウィルは傷だらけで鋼鉄製の管に縛り付けられ、自分の糞尿の中に放心したようにすわっており、両手に何やら小さなものを抱えていたのだ。抱えていたのは、とっくに落命していた赤ん坊だった。母親は失踪し、ウィルは赤ん坊と共に遺棄されていたのだ。

トムに救い出されたウィルは、ふたたびトムと暮らし始めて、徐々に人間性を回復し、生きる方へと視線を向けることができるようになる。その後だいぶんたって母親が自殺したことを聞くのだが、そのころにはまた健康な子どもらしさを取り戻し、こんなふうに思えるようになっている。

生きていたくないなんて――そんなことを考える者が本当にいるんだろうか。したいことが限りなくある毎日。雨の夜、風の日、海の大波、月の満ちかけ、読みたい本、描きたい絵、聞きたい音楽。

やがでトムはウィルを正式に養子に迎えることにする。それを知ったウィルは大喜びし、二人は手を取りあって歓声を上げながら部屋中をおどりまわる。ウィルがトムのことを初めて「父さん」と呼んだ場面は感動的であり、これからの二人の生活を祝福するように描かれている。

ウィルが眠りに落ちた後、トムも床に入ったが、ウィルの言葉の意味がこのときはじめて胸のうちに沈んだ。
「あいつ、わしを『父さん』と呼んだ」と彼はしゃがれ声でつぶやいた。「父さんと」
胸がつぶれるほど幸せな気持ちで、トムは声を抑えて泣いた。涙がさんさんと頬を伝っていた。

キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー『わたしがいどんだ戦い1939年』表紙

 

同じ時代のイギリスで同じように母親に膚待されて、疎開先で人付き合いの悪い大人に引き取られた子どもを描いた作品に『わたしがいどんだ戦い1939年』(原著 2015/キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー著 大作道子訳 評論社 2017)がある。ブラッドリーはアメリカの作家たが、どちらにも共通しているのは、虐待する生母と、人間的な養親との対比であり、養親のもとで人間性を開花させていく子どもである。(現在続編の『わたしがいどんだ戦い1940年』も出版されている。)

 

「トレイシー・ビーカー物語」シリーズの場合

ジャクリーン・ウィルソン『おとぎ話はだいきらい』表紙イギリスの大人気作家ジャクリーン・ウィルソンは、困難を抱えた子どもたちを作品に多く登場させ、その子たちに寄り添う書き方をしてきたが、中でも「トレイシー・ビーカー物語」シリーズの3冊は、イギリスでは里親や里子のためのガイドブックにも登場している。

10歳のトレイシー・ビーカーは、1巻目の『おとぎ話はだいきらい』(原著 1991/稲岡和美訳 偕成社 2000)では養護施設にいるのだが、前に取り上げた『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン著 岡本浜絵訳 偕成社)のギリー同様 生母をどこまでも理想化している。また、すでに傷ついている自分を守るために暴力をふるったり悪態をついたりが日常茶飯事で「扱いにくい子」というレッテルを貼られている。

ところが、施設に取材に来た女性作家カムになつき、生母が迎えにくるまでの間、里子にしてほしいとカムにねだる。最初カムは絶対にダメだと断っていたのだが、だんだんに二人の距離が近づき、3巻目の『わが家がいちばん』(原著 2000/小竹由美子訳 偕成社2010)では、トレイシーは、里親研修を終えたカムの養子になっている。そこへ『わが家がいちばん』表紙生母があらわれて娘を引き取ると言い出すのだが、生母は買った物を娘にプレゼントするだけで「子を育てる」とはどういうことかがわかっていない。酒と男で回っていたような暮らしを断念するつもりもない。ある意味、気の毒な人である。

生母の家を飛び出したトレイシーは、しばらく空き家で時間を過ごすが、やがで「家」に帰りたくなる。ここでトレイシーが「家」と言っているのは、カムの家である。

そしてカムのところに戻ったトレイシーは、生母のことも客観的に見られるようになって、こう言う。

「ママって、おもしろいときもあるし。自分の服をあたしに着せて、おしゃれさせてくれてね、すごく楽しかったんだよ。だけど、あきちゃうんだ。あたしにもあきちゃった」

トレイシーも、『アンモナイトの谷』のジェームズと同じように、モノより愛情を自分に注いでくれていた里親を、物語の最後で自ら選びとるのである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年2月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑨ 「外から来た子ども」をアメリカの児童文学はどう描いてきたか

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『子どもの本に見る新しい家族⑨ 「外から来た子ども」をアメリカの児童文学はどう描いてきたか』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑨

「外から来た子ども」をアメリカの児童文学はどう描いてきたか

「外から来た子ども」とは、非血縁の子ども(養子、里子)のことである。前回は絵本でどう描かれてきたかを見たので、今回はアメリカの児童文学読み物でどう描かれてきたかを見てみたい。

 

『ガラスの家族』の場合

『ガラスの家族』表紙全米図普賞を受賞したキャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(原著 1978/岡本浜江訳 偕成社 1984)は、11歳の女の子ギリーが主人公である。生母コートニーに実際は捨てられた状態のギリーなのだが、生母の写真と、写真の隅に書かれた「いつも愛しています」という言葉にしがみついて生きている。生母はそばにいないので、どこまでも理想化することが可能なのだ。

何度も里親をたらい回しにされたギリーが、今回頂けられた里親は、メイム・トロッターという「カバみたいな女性」で、その家には発達障碍をもっているらしいウィリアム=アーネストという別の里子もいる.おまけに夕食を食べに来るランドルフさんは盲目の黒人だ。ギリーはこの家を「はきだめ」だと思う。だれからも安定した愛を受けたことのないギリーは、「とんかりすぎの鉛筆みたいな気分」で、学校でも家でもすべてにつっかかり、自分の強さを誇示しようとする。そして、自分を理解してくれそうな人が出てくると、逆に讐戒心を抱く。

ギリーがこうなったのは 都合のいいときは甘やかし、都合が悪くなると捨てたこれまでの里親との体験がトラウマになっているせいでもある。

ギリーは、やがでトロッターさんとランドルフさんのお金を盗み、一人で生母に会いにいこうとする。ところが長距離バスのキップ売り場で疑われて、保護者に連絡が行く。駆けつけたトロッターさんには、ギリーがお金を盗んだこともお見通しだが、警官がギリーを一晩とめおこうかときくと、断固として言い返す。

「たとえ一分だって、このわたしが自分の子を留置場へいれられると思うのかい?」

トロッターさんは、福祉事務所のケースワーカーとも渡り合い、ギリーを引きつづき家におき、しかも盗みの件には厳しく対処し、なくなった分は働いて返すように言いつけてバイト料金リストを提示する。ベテランの里親として、どう対応すればいいかをよく知っているのである。

ギリーの気持ちはしだいに前向きになるのだが、それを可能にしたのは、トロッターさんならどこまでも守ってくれるという安心感を得たことに加えて、自分が必要とされる存在だと感じたことも大きい。ランドルフさん、トロッターさん、ウィリアム=アーネストの3人ともがインフルエンザにかかってギリーが看病でへとヘとになっているところへ、今まで存在さえ知らなかった祖母があらわれて、「すぐにここからつれだしてあげる」と言う。そのときギリーはこう思う。

だれもあたしをここからつれだしたり、できるものか。だれもが、これほどあたしを必要としているときに。

トロッターさんに心を許し、周囲の人たちともようやく心を通わせ始めたギリーは、しかしながら法的にこの祖母と暮らさざるを得なくなる。しぶしぶ祖母の家に引っ越したギリーは、クリスマスに生母とも再会するのだが、

コートニーがギリーをだきしめた。大きなバッグを胸やおなかにおしつけたままで

ずいぶんと久しぶりに出会った憧れの生母とギリーの間には、大きなバッグがはさまっていた、というこの描写からは、娘の気持ちをかえりみることなく、おざなりに抱くことしかしない生母のありよう示している。ギリーはようやく、生母のことは見切らなくてはならないと悟る。

 コートニーは 自分からすすんできたのではなかったのだ。おばあちゃまがお金をだして、こさせたのだ。だから長くいるつもりもない。ギリーをつれて帰るつもりもないのだ。写真のすみにあった「いつも愛しています」は、うそだったのだ。ギリーはこのいまいましいうそのために、一生を棒にふってしまった。
「あたし、トイレにいってくる」
ギリーはおばあちゃまにいった。ふたりがついてきませんようにと祈った。なぜならまっさきにしたいことは吐くことで、第二は逃げだすことだった。(偕成社文庫版より)

現実に直面して逃げたくなったギリーは、トロッターさんに電話をして「帰りたい」と一度は言ってみるものの、ベテラン里親との心を開いた対話から、祖母も自分を必要としていることを理解して、祖母の家で暮らす決心をする。

訳者あとがきによれば、著者のパターソンは、実生活でも実子二人のほかに養子二人を育て、カンボジアからの里子二人の世話もしていた。里子たちが言うことを聞かないとき、ついかっとなって、どうぜ一時のことだからと思う自分がいたことを後悔し、「せめて本の中では、里子に世界最高の里親をあたえたい」と、 トロッターさんという理想の里親像を造形したという。

 

◆ 『メイおばちゃんの庭』の場合

『メイおばちゃんの庭』表紙ニューベリー賞とホーンブック賞をとったシンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』(原著 1992/斎藤倫子訳 あかね書房 1993)の主人公は、母親と死別して孤児になり、やはり親戚をたらい回しにされた少女サマーで、今回の里親は、高齢のオブおじちゃんとメイおばちゃん。ギリーと境遇は似ているが、大きく違うのは、サマーには自分が愛情を受けた記憶がおぼろげながらあることだ。

 ある晩、台所で亜麻色の長い髪をあんでるおばちゃんにおじちゃんが手をかしてるところを初めてみたとき、あたしは、森にかけこんでわんわん泣いてしまいたいような気分になった。悲しかったからじゃない。しあわせな気持ちでいっぱいになったからだ。
きっとあたしも あんなふうに愛されてたんだと思う。よくおぼえてないけど、ぜったいにそうだ。だってそうでなかったら あの晩おじちゃんとおばちゃんをみて、ふたりの深い愛情に気つくはずがないもの。
(中略)かあさんは自分がもうすぐ死ぬってわかってて、ほかのどのおかあさんよりもしっかりとあたしを抱いて、たっぶり愛情をそそぎこんでくれたにちがいない。いつかあたしか愛というものをみたり感じたりしたときに、それが愛だってわかるように。

そして、この二人のところに来たことを、当時6歳のサマーは心から喜び、

「ここで過ごした最初の晩は、あたしの人生で、いちばん天国に近い日だった」
「ようやく自分のうちにたどりついた」

と感じている.

しかし、メイおばちゃんはやがて亡くなり、意気消沈したオブおじちゃんを今度はサマーが励ます側にまわる。

この2作は、子どもにとっては食べ物と同じくらい、愛された記憶が必要だということを伝えている。そして、愛をもたらすのは血縁者とは限らず、肉親がかえって加害者になって子どもを苦しめる例もあること、愛とは抽象的な観念なのではなく相手が何を求めているかを察して手をかけ心をかけることだということを語っている。

 

『アラスカの小さな家族』の場合

『アラスカの小さな家族』表紙スコット・オデール賞を受賞したカークパトリツク・ヒルの『アラスカの小さな家族〜バラードクリークのボー』(原書 2013/レウィン・ファム絵 田中奈津子訳 講談社 2015)は、養女ボーが主人公である。ボーは、〈楽しみ女〉のミリーが産んだ子で、育てられないから孤児院に入れてほしいと言ってアービッドの手に渡された。それ以来ボーは、二人の父親に育てられている。アービッドは、ゴールドラッシュのときにスウェーデンからやってきた。もう一人の父親はジャックで、アメリカ南部出身の黒人だ。二人とも大男の鍛冶屋である。ボーは、前回触れた絵本『ねぇねぇ、もういちどききたいな わたしがうまれたよるのこと』の女の子と同じで 自分が二人の娘になったいきさつを何度でも聞いて楽しむ。この作品では、アービッドとジャックがどんな関係にあるのかについては語られていないが、ジャックには昔結婚しようと思った女性がいたことが会話に出てくるので、同性愛カップルと決めつけることはできない。

ともあれボーは非血縁の二人の父親や先住民のエスキモーを含めた多様な民族の混じり合う社会で、みんなに見守られて育っている。家ではアービッドが裁縫、ジャックが料理を担当し、日常生活には全く困らないが、女の子の育て方についてはまわりの人からアドバイスをもらっている。二人の父親は、時に父性的な要素、時に母性的な要素を発揮して娘を大事に育てており、ボーは日々の暮らしに満足している。

ある日、ボーは言葉を話さない小さな男の子に出会う。この子は、死んでいる自分の父親のそばにすわりこんでいるところを見つけられたのた。やがでわかったのは、この子の名前はグラフトンだということ、子だくさんの叔母は孤児院に預けてほしいと願っているということだった。ボーは グラフトンも養子にしてほしいと父親たちに頼む。二人の父親の決定をグラフトンに伝える場面は、こう書かれている.

 グラフトンの目はまん丸くなりました。
ボーはこれ以上だまっていられません。
「ジャックがあんたの父さんになって、アービッドもあんたの父さんになって あたしはあんたの姉さんになるの!」
「グラフトンはわしらの息子になるんだよ」と、アービッドがいいました。
グラフトンはひっそりほほえんで、靴下をはいた足を見つめました。
「今の話、わかったと思うかい?」ジャックが心配そうにボーにたずねました。
「この子がこんなふうににこっとするのは、うれしいときだけなの」と ボー。

ボーがグラフトンの気持ちをよくわかっていることと 父親たちも家族がふえるのを楽しみにしていることが伝わつてくる。

4人家族のだれ一人として血がつながっているわけではないのだが、この作品は全体が日常の楽しさにあふれており、この4人でこれからもあたたかい家庭を作っていくだろうことが予測できる。この作品ではボーはまだ小さいが、続編もあるということなので ボーが成長して反抗期になったらこの父親たちはどうするのか、興味深いところである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年1月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑧ 「外から来た子ども」を絵本はどう描いてきたか

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『子どもの本に見る新しい家族⑧ 「外から来た子ども」を絵本はどう描いてきたか』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑧

「外から来た子ども」を絵本はどう描いてきたか

前回は、非血縁の親がどう描かれているかについて書いた。次は、非血縁の子ども(養子、里子)がどう描かれてきたかについて考察してみたい。養父、養母、里親を取り上げた作品と、養子、里子を取り上げた作品は、いわばコインの両面なので、ある意味では前回のテーマと重なる部分もある。

 

『ねぇねぇ、もういちどききたいな わたしがうまれたよるのこと』の場合

『ねぇねぇ、もういちどききたいな-わたしがうまれたよるのこと』表紙アメリカで20年以上前に出た絵本『ねぇねぇ、もういちどききたいな わたしがうまれたよるのこと』(原著 1996/ジェイミー・リー・カーティス作 ローラ・コーネル絵 坂上香訳 偕成社 1998)は、アメリカでも日本でもいまだに読みつがれている。作者は、自身も二人の養子を迎えた女優である。この絵本は、自分の写真アルバムを抱えた女の子が、「ねぇねえ、もういちどききたいな わたしがうまれたよるのこと」と両親にせがんでいる場面から始まる。しかし、次の見開きでは、パパとママと犬が一つのダブルベツドで寝ていると、真夜中に電話が鳴って、「わたし」の誕生を告げられたことがわかる。パパもママも、遠くのだれかから赤ちゃんの誕生を知らされるのだ。読者はおやっと思うかもしれない。

知らせを受けたママとパパは、ベビー用品のつまったカバンを持って、飛行機で赤ちゃんを迎えにいく。絵本はさらに、生母が若すぎて世話ができないので、女の子が養子になったことを語っていく。この子が書いた絵入りの家系図によると、親として「パパ」と「ママ」のほかに、「うんでくれたママ」と「うんでくれたパパ」(こちらは語として今ひとつ落ち着かないが)が描かれている。絵本はさらに、養親が初めて赤ちゃんに対面して思わず笑顔になったこと、ママが赤ちゃんを抱いたときうれしくて泣きだしたこと、お人形さんみたいに大事に抱きかかえて帰ったことなど、養親がこの子をどんなに大事にしてきたかが、ゆかいな絵と文章で表現されている。

養子にしろ実子にしろ、愛されている実感がない子どもは、自分の誕生時のことを親に何度も聞きたいとは思わないだろう。本当の愛は甘ったるいものではないから、叱られたりしてしょぼんとすることもある。そんなとき、幸せな出発点を再確認したいと思うのは、いかにも子どもらしいのではないだろうか。

 

『たからものはなあに?』の場合

『たからものはなあに?』表紙それから10年以上たって、2009年に日本でも『たからものはなあに?』(あいだひさ作 たかばやしまり絵 偕成社)が出た。作者は、自分も特別養子縁組をした子どもを育てている。この絵本に登場するのは二組の家族で、たくやは母親のお腹から生まれ、なつかは赤ちゃんの家からやって来た。なつかの養親は、赤ちやんの家に何度も会いにいき、それから家に迎え入れる。たくやがママのお腹の中で大きくなったのに対して、なつかは言う。

 「じゃあ、なつかは ママと パパの こころのなかで どんどん おおきくなったんだね!」

作者は後書きで、

結婚前から、実子の有無にかかわらず養子を迎えたいと考えていた私たち夫婦は、『子どもをもつ最後の手段』とでもいうような、日本での養子の考え方に驚いたものです。(中略)里親や特別養子縁組に限らず、家族の始まり方はさまざまであってよいと思います。そしてどんな始まり方でも、互いを心から思いやり、愛し合って築き上げてこそ家族だと信じています。

と語っている。血縁重視の傾向が強い日本の現状を変えていきたいという意図がこの絵本にはあり、作品からもその意図がくみとれる。

 

『ママとパパをさがしにいくの』の場合

『ママとパパをさがしにいくの』表紙ホリー・ケラーの『ママとパパをさがしにいくの』(原著 1991/末吉暁子訳 BL出版 2000)は、アメリカの書評誌ホーンブックが優秀作品として選んだ絵本で、動物を主人公にしている。最初の場面では、トラのママがヒョウの子どもホラスを寝かしつけながら、こう話す。

「あなたに このうちに きてもらったのは、小さな あかちゃんだったときよ。
なぜって、あなたには さいしょの かぞくが いなくなってしまって、
あたらしい かぞくが ひつようだったから。あなたの からだのもようは
すてきだったわ。ぜひ、うちの子に なってもらおうと おもったの」

しかし、ホラスはママの話が終わる前にいつも眠ってしまう。ホラスは幸せに暮らしてはいるのだが、体の色や模様が家族と違うことは気になる。そこである日、本当の家族を探しに出かける。そして、とうとうヒョウの一家を見つけ、そこに仲間入りして子どもたちと楽しく遊ぶ。しかしそのうちホラスは、育てのパパとママを思い出し、ヒョウの家族の誘いを断って、「ぼく、もうおうちへかえりたいの」と言う。「おうち」とは、養親の家のことである。そしてその夜、いつもの話を養母が繰り返すのを今度は最後まで聞いて、トラの両親を自分の本当のママとパパとして自ら選びとるのだ。

 

『タンタンタンゴはパパふたり』の場合

『タンタンタンゴはパパふたり』表紙ジャステイン・リチャードソンとピーター・パーネルが文を書き、ヘンリー・コールが絵をつけた『タンタンタンゴはパパふたり』(原著 2005/尾辻かな子・前田和男訳 ポット出版 2008)は、アメリカ図書館協会が優良図書に選んだ絵本。ニューヨーク市マンハッタンにあるセントラル・パーク動物園にいるペンギンの実話を基に作られた。いつも一緒にいる雄ペンギンのロイとシロは、ある日、卵形の石をあたため始める。その様子を見ていた飼育員が、他のペンギンが遺棄した卵を2羽の巣においてやると、今度はそれを交替であたためる。その卵からかえったひなは、タンゴと名づけられる。この3羽がいい家族であることは、絵からも感じられる。この絵本は、男性カップルが養子を迎える話というふうにも解釈できるが、非血縁者が家族をつくる絵本としてここに入れておきたい。

 

『おとうちゃんとぼく』の場合

『おとうちゃんとぼく』表紙にしかわおさむの『おとうちゃんとぼく』(2012)も、作者の制作意図は別として、養子の絵本と考えることも可能だ。

「おとうちゃん」の名前はノラさん。犬だが擬人化されてズボンをはき二本足で歩いているノラさんは、子どものころ、人間のおばあさんに引き取られ、世話をしてもらうかわりに、おばあさんを手伝ったり、夜はどろぼうや怖いものが来ないように見張ったりしている。やがて大人になったノラさんは、小さな捨てネコに出会う。この絵本で「ぼく」と言っているのは、この子ネコだ。子ネコを連れ帰ったノラさんは、おばあさんに「おいら こんやから このこの おとうちゃんに なります!」と堂々と宣言し、敷地に小さな家を建ててもらって自立する。そして子ネコにご飯を食べさせたり、おしめを替えたり、遊んでやったりして育てる。

ある日、子ネコを従えてパトロール中のノラさんは、どろぼうをつかまえたのはいいが、自分もケガをして入院する羽目になる。「ぼく」は心配で、ずっとノラさんに付き添う。やがて元気になったノラさんに、人間の女性が言う。「そのぼうや あなたの 子どもじゃ ないでしょ? ちゃんと おやを さがして かえしなさいよ」と。ノラさんは怒って、その女性の服にかみついてしまい、パトロール隊の隊長に叱られる。しょんぼりしているノラさんに、子ネコは言うのである。

「ぼくの おとうちゃんは おとうちゃんの ほかに どこにも いないよ!」

 

『おとうとがやってきた!』の場合

『おとうとがやってきた』表紙イギリスの絵本『おとうとがやってきた!』(原著 1993/ティー・シャールマン作 もとしたいずみ訳 偕成社 1996)は、弟ができた姉ドーラの話だが、その弟が養子であるところが他と違う。イギリスではこの年代でも養子縁組は珍しいことではなかったようで、最初の場面でドーラは、養子の弟がやってくることを

「おとうとはね、あかちゃんじゃないの。それに ほんとのおとうとでも ないのよ。そのこ、パパもママも いないんだって。それで うちのかぞくになるんだ。あたしの おとうとよ。えへ、『サーシャ』って なまえなんだよ」

と学校で自慢して、友だちをうらやましがらせている。

でも、実際に一緒に暮らすようになってみるとサーシャは、ドーラが完成しようとしていたパズルをめちゃめちゃにしたり、ドーラが大事にしているくまさんをお風呂につけてしまったり、せっかく描いた絵をぐしゃぐしゃにしたりするので、ドーラは「もう おとうとなんか、いらないっ!」と言ってしまう。それでも、サーシャが留守にすると、さびしくなる。

このあたりのストーリー展開は、実のきょうだいの場合とそう違わない。違うのは、サーシャの場合は赤ん坊時代がなくてすぐにいたずらを始めるところくらいだろうか。最後はやっぱリドーラが、弟に絵の具をべったりつけられながらも、「うちに きてくれて うれしいよ、サーシャ!」と言う場面で、裏表紙には、ドーラが笑顔のサーシャも入れて描いた家族の絵が載っている。

 

ここで取り上げたどの絵本にも、非血縁の子どもたちが、あたたかく迎えられ、愛をあびて育っている様子が描かれている。養子や里子だから、実子より大きな愛でつつまれている、などということは、もちろん言えない。ただ、実の親が子どもを虐待したり殺害したりする事件を目にすると、私たち日本人も、非血縁の親子関係をオプションとして視野にいれる必要が出てきているのではないかと私は思う。

そういう意味では、養子や里子が出てくる作品に子どもたちが親しむ状況をつくることには、大きな意味があると言えよう。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年12月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑦ 「外から来た親」はどう描かれてきたか

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『子どもの本に見る新しい家族⑦ 「外から来た親」はどう描かれてきたか』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑦

「外から来た親」はどう描かれてきたか

 

「外から来た」とは、非血縁という意味である。日本人の多くは、家族は何よりも血縁が大事だと思いがちだ。子どもの本にも、そうした家族観が反映されている場合が多い。しかし、英米の児童文学の作家たちは、そうした家族観がとりこぼしてしまう子どもたちがいることに、かなり早い時期から気づいていたように思う。たとえばアメリカのシャクリーン・ウッドソンは1994年に『レーナ』(さくまゆみこ訳 理論社 1998/連載の第6回でも取り上げている)の中で、父親から性的虐待を受けているレーナに

「血のつながりなんて、事故みたいなもんだよ。親族は血がつながっているんだから愛さなくちゃいけないって、みんな言うけどさ」(p110)

と言わせているし、イギリスのアン・ファインは、血のつながらない多様な家族が登場する『それぞれのかいだん』(灰島かり訳 評論社 2000)という作品を1995年に発表している。日本では、それから20年以上たった2016年に、市川朔久子が『小やぎのかんむり』(講談社)で「親子は、縁だ。あんたとこの世を結んだ、ただのつながりだ。それ以上でもそれ以下でもない」という台詞をタケじいに語らせて、追い詰められていた主人公を救った(連載の第4回を参照)。

今回は、子どもの本に描かれる血のつながらない親、つまり継父や継母を取り上げてみたい。

 

◆昔話の影響?

グリム昔話では、「シンデレラ」にしろ「白雪姫」にしろ「ヘンゼルとグレーテル」にしろ、継母は、子どもをいじめたり、亡き者にしようとする悪い存在として描かれている。ただし、グリム昔話の初版では継母ではなく母(実母)という言葉が使われていた。昔話に登場するのは、もともとシンボルや象徴としての存在で、現実をそのまま語っているわけではないからそれでもいいのだが、グリム兄弟は、虐待するのが実母では、いくら物語でも子どもたちが悪夢にうなされるかもしれないと考えて、継母に変えたのである。

日本の昔話にも、「米福粟福」「落窪物語」「鉢かづき」「手なし娘」のように、継母が子どもをいじめる話がたくさん伝わっているし、スラブの昔話「12のつきのおくりもの」(マルシャークの『森は生きている』でも有名)も、ロシアの昔話「バーバ・ヤガー」も、ネパールの昔話「プンクマインチャ」も、子どもが継母に虐待される話で、絵本にもなっている。

私たちが、血のつながりのない継母や継父に、好感を持ちにくくなっている理由の一端には、こうした昔話の影響もあるのかもしれない。

しかし、児童文学作品の場合は、どうだろう? たしかに非血縁の親が子どもを理解しない存在として登場する場合もあるが、継父や継母=意地悪(ちなみに昔話には継母はよく登場するが継父が登場することは少ない)というステレオタイプを突き崩すような秀作もいくつも書かれている。

たとえばパトリシア・マクラクランの『のっぽのサラ』(原著 1985)は、子どもたちが、継母(候補)と心を通わせていく物語だが、これについては連載の第1回に書いたので、そちらをご覧いただきたい。

 

◆『800番への旅』の父親

カニグズバーグ『800番への旅』表紙アメリカの作家E.L.カニグズバーグが書いた『800番への旅』(原著 1982/岡本浜江訳 佑学社 1987、小島希里・他訳 岩波書店 2000・2005)の主人公マックス(愛称ボー)の両親は離婚している。マックスは母親と暮らしているのだが、母親が再婚することになり、そのハネムーンの間息子は父親のウッディに預けられる。父親は各地をまわり、お客をラクダに乗せてお金を稼いでいる。きちんとした生活が好きで上昇志向もある母親の影響もあり、最初のうちマックスは久しぶりに会った父親を批判的にながめ、周囲の一風変わった人たちのことも冷ややかに見ている。しかし、徐々にマックスも父親のよさを理解し、社会から外れた人たちのたくましい生き方に触れて成長していく。

ところがこの作品には、物語の最後の方に読者をあっと言わせる展開が用意されている。ある女性がマックスに、「(ウッディは)あんたのことも、まるで自分のほんとの息子みたいに愛しちゃったのね」と口をすべらせるのだ。問いただしたマックスは、ウッディが実父ではなかったという事実を知って衝撃を受け、狼狽し、困惑し、どういう態度をとればいいのかと思い悩む。しかし間もなく「ただ、ウッディの息子ボーであることを楽しめばいい」と考え直す。最後の場面では、帰宅するマックスをウッディが車で飛行場まで送っていく。

 それからおしりをすべらせて ウッディに近づいた。ウッディはハンドルを持った片手を放して、ぼくをひき寄せた。
ぼくは空港に着くまでのあいだ、じっとよりかかっていた。

この場面からは、マックスの血のつながりなどを超えたウッディヘの信頼と愛情が感じられる。実母が息子を置いて旅に出てしまったことを考えると、象徴的な場面でもある。ちなみに、800番とはアメリカの無料通話の番号で、ここではウッディの周囲にいる無名の人たちをさしているようだ。

 

◆『ベーパーボーイ」の父親

ヴィンス・ヴォーター『ペーパーボーイ』表紙同じくアメリカの作家ヴィンス・ヴォーターの『ペーパーボーイ』(原著 2013/原田勝訳 岩波書店 2016)にも 血のつながらない父親が登場する。舞台は1995年のメンフィス。吃音を抱え、周囲とのコミュニケーションがうまくない主人公ヴィクターは、夏休みの間友だちのかわりに新聞配達をすることになり、配達先できまざまな人に出会って世界を広げ成長していくというのがメインストーリーである。そこに、自分の出生証明書の父親の欄に「不明」と書いてあるのを見てしまったヴィクターが、思い悩むというわき筋が入ってくる。

どうしてもわからないことがひとつある。だれかよその男の人とお母さんのあいだにぼくが生まれたのだとしたらなぜぼくはお母さんよりお父さんといるほうが好きなんだろう? ばくはお母さんと話すよりお父さんと話すほうがずっと好きだ。お父さんはぼくがひどくどもることを全然気にしていないように見える。(p119)

ちなみに、ヴィクターは話す時は吃音を防ぐために息継ぎをしょっちゅうするのだが、それとは対照的に、文章は息継ぎのカンマなしで書くため、訳文も読点なしになっている。

また 出張から帰ってきた継父とキャッチボールをしている場面では、ヴィクターは、こう考えるようになる。

出生証明書の父親欄は「不明」だったかもしれないがぼくから見れば今こうしてワイシャツ姿でネクタイの先をボタンのあいだに突っこんでキャッチボールをしてくれている背の高い男の人こそが父親だ。びかぴかだったお父さんの革靴は花壇に入ったボールを拾ったものだから泥だらけになった。この人はいつだってぼくのためにこの世のほとんどどんなことでもする気でいる。でもよく考えてみるとそう思わなきゃならない義務なんてない。(p268)

物語の最後では、ヴィクターは「お父さんとお母さんにぼくが生まれてきたいきさつがどうであれ二人の子どもでいられてうれしい」(p278)とはっきり述べている。家族にとっていちばん大事なのは、血のつながりではなく、一緒に過ごす時間の質だという価値観が、この作品には明確に表現されている。

 

『十一月のマーブル』が伝える血縁と非血縁

『十一月のマーブル』表紙戸森しるこの作品はどれも(今のところ、表題作のほかに『ぼくたちのリアル』と『理科準備室のヴィーナス』)、生きることは複雑であり、だからこそおもしろいということを伝えている。デビュー作の『十一月のマーブル』(講談社 2016)は、6年生の主人公波楽(はら)と、自分の性に違和感を持つ親友レンの間に通う繊細な愛の物語とも言えるが、その一方で非血縁の家族の物語でもある。

波楽は、「かあさん」とは血がつながっていないことを最初から承知していて、自分が産んだ娘と波楽を差別しない継母に尊敬の念さえ抱いている。しかし、生母の再婚相手の井浦凪と出会ったことから、波楽は「とうさん」とも血はつながっていなかったという事実に気づいてしまう。妹を含めた一家4人のなかで、波楽だけが血のつながらない家族なのである。波楽は悩みながらも、自分を生まれた時から育ててくれた「とうさん」と、4歳から育ててくれた継母を自ら親として選びとり、自分と顔がそっくりの凪には「凪さんのこと、すごく好きだ」と言いつつ、こうも言う。

「ほんとうの父親がだれかなんて、ぼくにはもうどうでもいいことなんだ。だってぼくのとうさんは、柴田航太郎ひとりだけだから」

波楽は、血縁より、一緒に過ごした時間が長く、自分を愛してくれている非血縁の家族を選びとり(ちなみに生母は亡くなっている)、継母には思い切って「弟はほしくない」と、これまでは言えなかったわがままも言うようになる。その場面では、血縁へのこだわりが逆の意味で顔を出しているのもおもしろいところだ。

ぼくは今でもかあさんをひとりじめしたいって思ってる。血がつながっていないぶんだけ、よけいに気持ちがつながっていなきゃって、どうしても思ってしまう。
血のつながりが関係ないなんて そんなのうそだ。(p169)

血縁へのこだわりが顔を出すもう一つの場面は 航太郎が(妻を略奪した)凪と縁を切らなかった理由について、凪が波楽に語るところである。凪は、いずれ「血のつながりのある相手が、どうしても必要になることもある。たとえばきみが重い病気にかかったとき、ぼくがきみにしてやれることがあるかもしれない」からだろうと推測している。このひと言で、航太郎の波楽に対する愛と、それを察することができる凪の優しさの両方を、うまく表現しているのが見事だ。

ほかにも継母、経父が登場する作品はあるが、ここに取り上げた作家たちの家族観に、私は共鳴している。家族は血縁で縛るものではなく、一緒に過ごす時間の豊かさを大事にするほうがいいと思うからである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年11月号掲載)

 

 

 

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子どもの本に見る新しい家族⑥ 父子家庭はどう描かれてきたか

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『子どもの本に見る新しい家族⑥ 父子家庭はどう描かれてきたか』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑥

父子家庭はどう描かれてきたか

 

先月は母子家庭を取り上げたので、今月は父子家庭が描かれた作品を取り上げてみたい。

 

絵本の場合

『パパと10にんのこども』表紙フランスの絵本『パパと10にんのこども』(原著 1997/ベネディクト・ゲッティエール作 那須田淳訳 ひくまの出版 2000)では、バパが家事と10人の子どもの世話を一手に引き受けており、子どもたちを学校に連れていったあとは、自分も会社に行く。仕事から帰ってくると10人をお風呂に入れ、ご飯を作って食べさせ、歯磨きをさせ、お話を開かせ、キスをして「あ―あ、くたびれた」と言う。パパは、たまにはひとりになりたいと、夜中にこっそり船をつくって、おばあさんに子どもの世話をたのみ、海に出てつかの間の休暇を楽しむ。そして10日も眠り続けた後に戻って来る。そして今度はその船に10人の子どもを乗せて、もっと大きな冒険の旅に出るのである。リアルな父子家庭というよりは、寓話的な絵本といえよう。

『おやすみアルフォンス』表紙スウェーデンの絵本『おやすみアルフォンス!』(原著 1973/グニッラ・ベリィストロム作 やまのうちきよこ訳 偕成社 1981)も、父子家庭を描いた古典的な絵本。4歳のアルフォンスは夜なかなか眠れずに、何度もパパを呼ぶ。やさしいパパはそのたびに アルフォンスにお話をしてやったり、歯ブラシやジュースを持ってきたり、ジュースをこぼしたシーツをとりかえたり、おまるを持ってきたりと大奮闘。しかしパパは、ぬいぐるみを探しにいった時に、とうとう疲れて眠り込んでしまう。父子家庭を取り上げたどちらの絵本も パパの大奮聞とそれによる疲労を描いている。アルフォンスの絵本には続編(『パパ、ちょっとまって!』『アルフォンスのヘリコプター』『ひみつのともだちモルガン』)もあり、スウェーデンではだれでも知っている人気シリーズになっている。

イギリスの作家に日本で絵をつけた絵本『おかあさんどこいったの?』(原著 2011/レベッカ・コップ作 おーなり由子訳 ポプラ社 2014)と、ひぐちともこの『4こうねんのぼく』(そうえん社 2005)は、どちらも母親の死去による父子家庭を描いている。『おかあさんどこいったの?』に登場するまだ幼い少年は、死を理解できずに、母親を捜したり、腹を立てたり、自分のせいでいなくなったのかと思ったり、ほかの子をうらやましがったりする。『4こうねんのぼく』に登場する少年は、高速瞬間移動型ロケットを発明して、4光年前の地球を見ると亡くなった母親が見えるのではないかと考える。子どもが喪失感を抱えているのはどちらも同じだが、乗り越えていく段階も描かれる『おかあさんどこいったの?』の方が絵本としての出来はいい。ただし、どちらも母親を、家事の担い子としか描いていない点が残念だ。

『おかあさんどこいったの?』と『4こうねんのぼく』の表紙

イギリスの国際アンデルセン賞4家アントニー(アンソニー)・ブラウンの絵本『すきですゴリラ』(原著 1983/山下明生訳 あかね書房 1985)に描かれる父子家庭では、父親が多忙で娘ハナになかなか注意を向けない。朝食の席でも親子の間を父親の新聞が壁となって隔てている。父親はハナが登校する前に出勤し、夜は家でも仕事をするので 娘が話しかけようとしてもいつも「いそがしいから、いまはだめ」と言う。ハナが暗い部屋の隅で、テレビを見ながらひとりで食事『すきですゴリラ』表紙をしている場面や、べッドの端の格子細工のせいで、寝ているハナが檻に閉じこめられているように見える場面もあり、絵からもハナの孤独感がひしひしと伝わってくる。ゴリラが大好きなハナは 誕生日にゴリラがはしいと父親にねだるが 夜中に目をさまして見つけたのは、ちっぽけな箱に入ったゴリラのぬいぐるみ。でも、そのゴリラがぐんぐんと大きくなり、ハナを動物園や映画館やレストランに連れていってくれ、一緒にダンスも踊ってくれる。こんなに楽しかったのは生まれて初めてだ、とハナは思う。

この絵本がすばらしいのは、最後の場面である。夜の間のできごとを父親にも教えてあげようとハナが階段を駆け下りると、テーブルの上には他にもいくつか誕生日プレゼントが置いてあり、ゴリラの絵がついたバースデーカードも用意されている。そして父親が言うのである。「これから どうぶつえんに いくなんて、どうかな?」(日本語版では、これが父親の台詞だということがわかりにくいので、娘からの提案だと思う読者もいるかもしれない)。ふだんは忙しい父親がこの日だけはなんとしても娘を楽しませようと張り切っている様子が伝わってくる。

 

読み物の場合

ジャクリーン・ウッドソン『レーナ』表紙(さくまゆみこ訳 理論社)読み物に描かれる父子家庭の父親は概して頼りない。アメリカの国際アンデルセン賞受賞作家ジャクリーン・ウッドソンの『レーナ』(原著 1994/さくまゆみこ訳 理論社 1998)には、二つの父子家庭が登場する。一つは、アフリカ系のマリー(12歳)の家庭で、母親は失踪しており、父親は大学の教員で裕福でもある。もう一つは、白人のレーナの家庭である。父親は臨時雇いをしており、母親はガンで亡くなっている。プアホワイトの父親はレーナとその妹のディオンに性的な虐待を行っている。レーナとマリーは母親不在という共通項で友だちになり、レーナはだれにも言えないでいた父親からの虐待についてマリーにだけ打ち明ける。最初はレーナが「(父親が)愛しすぎている」という言葉で表現するので、父親にもっと抱きしめてもらいたいと思っているマリーには理解できない。

思春期の娘をもつ点では同じだが、マリーの父親は娘との身体的な接触を必要以上に避け、レーナの父親は娘を死んだ妻がわりに性的な対象としている.ウッドソンが従来型の白人・黒人家庭とは逆にこの二つの家庭を描いていることにも注目しておきたい。

 

ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』表紙(さくまゆみこ訳 評論社)イギリスの作家ジル・ルイスによる『白いイルカの浜辺』(原著 2012/さくまゆみこ訳 評論社 2015)では、主人公の少女カラの母親は環境活動家で、ソロモン諸島に調査に出かけたまま行方不明になっている。難読症をもつ父親は、妻の不在という現実を受け容れることがなかなかできず、仕事もうまくいっていない。カラ自身も難読症で学校にとけこめず 自分を閉ざす傾向にあるのだが、脳性麻痺の少年と友だちになることから、少しずつ未来に目を向けることができるようになる。カラの、父親に対する信頼感は途中で揺らぐが、最後は二人で母親の死を受け入れ、次の一歩を踏み出す。

私は父さんにもたれかかり、海を見わたした。外海はおだやかで波もほとんど立っていない。トルコ石のように青い。波打ち際には小さな波がよせている。
「二人で新しい舟をつくろうな、カラ」父さんが言って涙をぬぐった。「おまえと私で、舟をつくってセーリングに出よう」
私は父さんの手をにぎって、目を閉じた。(p287)

 

アン・M・マーティン『レイン』表紙

アメリカの作品『レイン』(原著 2014/アン・M・マーティン著 西本かおる訳 小峰書店 2016)の主人公であり、語り手でもあるローズは、アスペルガー症候群を抱えていてクラスにもなじめず、同音異義語にこだわっている。母親は病死しており、父親は娘を愛していないわけではないが不器用だし、娘の特異性をちゃんと理解していない。最後にはこの父親はローズとも気の合う弟のウェルドンに娘を託す決心をする。理解のないひどい父親だと非難する読者もいるだろうが、著者は娘を手放す場面で父親をこんなふうに描いている。

「さあ 行け」バパはそう言ってから、ほんの一瞬、わたしを抱きしめた。もうずいぶん前から、抱きしめられたことなんてなかった。ほほがふれたとき、パパのはほがぬれているのを感じた。パパはすぐに体を離して前を向いた。あごがぶるぶるふるえている。(p224)

またウェルドンにも、兄であるローズの父親について

「きみのパパはいつも正しかったわけじゃないけど、いつだってきみのことを大事に思ってたんだよ」
「たぶん、ローズはぼくと暮らすほうが幸せだと思ったんだろうな」

と、言わせている。それもあって、私には父と娘の別れの場面が非常に切なく思え、辛いなからも正しい選択をしたこの父親はそれなりに見事だと思うのである。

 

『世界がぼくを笑っても』表紙日本で父子家庭を描いた作品といえば多くの人が思い浮かべるのは、今江祥智の『優しさごっこ』(理論社1977)だろうが、ここでは『世界がぼくを笑っても』(笹生陽子著 講談社 2009)を取り上げたい。頼りない教員と中学生をめぐる物語が、生徒同士のネットのやりとりも交えなから北村ハルトの一人称で描かれている作品だ。ハルトは、8歳の時「うちにもサンタさん来てくれるかな」と父親にきくが、父親はサンタのネット予約に必要だと言って息子に500円を出させ、馬券を買ってすってしまう。ハルトが2歳の時に母親は家出をし、その後離婚しているのだが、教師が家庭訪問に来ると、父親は「中学2年生にもなって、みんなと仲良くできないようじゃ、天国にいるおがあさんにも申しわけが立たんぞ、まじで」などとほざいて、妻を死んだことにしてしまう。ハルトは、久しぶりに母親に会った時、ここぞとばかりに父親のことを悪く言う。

「子どものころは、ずいぶんとひどい目にあいましたけど。いえ、なぐられたりはしてません。なんていうかこう、精神的な意味での虐待みたいなものが、たびたびあったりなかったり。もちろん、いまは昔とちがって、やられたらやり返してます。親父もそろそろ年なんで、あと少しでオレの天下です」

ハルトは父親をクソ親父とののしりながらも、心底憎んでいるわけでもないらしいのが、作品からは伝わってくる。『優しさごっこ』の父親とは対照的な、子どもにまったく気を遣わない父親ではあるが、そんな父親にも人間としては愛すべき側面があることを、成長したハルトはすでに認識しているのだろう。

ちなみに、今回取り上げた父子家庭を描いているのは、アンソニー・ブラウンと今江祥智以外はすべて女性である。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年10月号掲載)

 

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子どもの本に見る新しい家族⑤ 母子家庭のがんばるお母さん

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『子どもの本に見る新しい家族⑤ 母子家庭のがんばるお母さん』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑤

母子家庭のがんばるお母さん

 

ひとり親家庭を描いた作品も最近では多くなってきた。その中でも、今回は母子家庭が登場する作品を見てみたい。何度も操り返すようだが、私が読んでおもしろく心にも残った作品を取り上げる。

 

絵本の場合

『かあさんのいす』表紙コルデコット賞銀賛を受賞したアメリカの絵本『かあさんのいす』(原著 1982/ベラ・B.ウィリアムズ作・絵 佐野洋子訳 あかね書房 1984)では、祖母、母、娘(ローザ)の女3人家族が、大きなびんに小銭を貯めている。ウェイトレスとして働き疲れて帰って来る母親のために、すてきな椅子を買うための貯金である。一家がそれまで住んでいた家は家財ごと火事で丸焼けになってしまっている。とうとうお金が貯まると、3人はバラの模様がついたビロード地の椅子を見つけて買い、幸せと満足感にひたる。この絵本の母親には悲愴なところもなく、近所にもこの一家を応援しようという人々が大勢いるのが、心強い。

『かあさんのいす』続編表紙続編の『ほんとにほんとにほしいもの』(原著 1983/あかね書房 1998)では、ローザが自分の誕生日に、どれにしようかとさんざん迷ったあげく、びんに貯めたお金でアコーディオンを買ってもらう。シリーズ3作目の『うたいましょうおどりましょう』(原著 1984/あかね書房 1999)では、病気の祖母を励ますために、ローザが肌の色の様々な友だちと楽団をつくって演奏し、空っぽだったびんにまた演奏の謝金を入れることができる。『ほんとにほんとに〜』では、母と子で鏡を見て百面相ごっこをする場画もあるし、どの店でもいったん買うと決めたものを土壇場でやめるというローザに対して、母親はいらだったり怒ったりすることなく笑い出す。

シリーズの3作をとおして、この労働者階級の3人家族がどんなにお互いを愛し合っているか、毎日を楽しんでいるかが伝わってくる。ウィリアムズは、東欧からの移民の親から生まれ、子どもの時に父親不在の期間を体験し(刑務所に入れられていたのではないかと、後にウィリアムズは推測している)、自らも離婚しているが、そうした体験から生まれたこの3冊の絵本が明るくて楽しいのは印象的である。

 

ジャクリーン・ウッドソン『かあさんをまつふゆ』表紙(さくまゆみこ訳)

同じくコルデコット賞銀賞のアメリカの絵本『かあさんをまつふゆ』(原著 2004/ジャクリーン・ウッドソン文 E.B.ルイス絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書 2009)にも祖母、母、娘の女3人家族が描かれているが、戦時中ということもあって絵もそう明るくはない。母親は娘のエイダ・ルースに確かな愛の言葉を残して、シカゴに出稼ぎに行く。エイダ・ルースは何度も手紙を送るが、母親からは手紙もお金も届かない。そんなとき、小さな迷い猫がやってきて家に住み着くことになり、この猫を媒介にして祖母と孫娘の気持ちの揺れや時間の経過が表現される。孫娘にとっては寂しい時間が流れるが、それだけではなく広い視野をもつ祖母から教わることもある。最後の場面には言葉がないが、確かな足取りで家に向かっている母親の後ろ姿が描かれている。

 

『アンナの赤いオーバー』表紙戦後のアメリカの母子家庭を描いた『アンナの赤いオーバー』(原著 1986/ハリエット・ジィーフェルト文 アニタ・ローベル絵 松川真弓訳 評論社 1990)では、母親が金時計やネックレスやティーポットなど大事なものを一つずつ代金がわりに手渡して、ヒツジの毛を刈ってもらうところから始め、1年かかって娘にすてきなオーバーを調達する。そのちょっと大きめのオーバーには、母親の愛情と時間がたっぷりこめられていることが伝わってくる。また、既製品をただ購入するのとは違って、さまざまな人々の時間と手と心がかかわって一着の衣服が出来上がって行く様子もわかる。

 

『おかあさん、げんきですか。』表紙日本絵本賞大賞を受けた『おかあさん、げんきですか。』(後藤竜二文 武田美穂絵 ポプラ社 2006)に登場するのも母子家庭で、母の日に小学校4年生の息子が学校で書いた手紙が絵本になっている。「わかった?」と何度も言わないでほしいとか、部屋を勝手に片付けないでほしい、というのがその内容なのだが、その手紙の文章からこの子の母親に対する愛情と成長がはっきりわかり、ユーモアもたっぷりで、何度読んでもあきない。最後のページは、お母さんがこの息子の手紙を読んでいる場面で、それまでのマンガっぽいちょっと怖いお母さんと違ってリアルなお母さんが登場している。

 

どの作品も、母子家庭の大変さを売り物にすることなく、それはそれとして母子の愛情が豊かに描かれているのがいい。

 

読み物の場合

『怪物はささやく』表紙映画が公開されて話題になった『怪物はささやく』(原著 2011/シヴォーン・ダウド原案 パトリック・ネス著 池田真紀子訳 あすなろ書房 2011)の主人公コナー(13歳)も母親と二人で暮らしているのだが、ガンにかかった母親は自分の余命が長くないことを感じている。その不安が息子に伝わるのか、コナーの前にイチイの木の姿をとる怪物があらわれる。この怪物が、コナーの潜在意識を表に引き出す役目を果たす。それによって死ばかりを見つめていたコナーはようやく生の方向にも目を向け、母の死をのりこえて進むことができるようになる。この作品の場合、コナーは母との愛着関係が強く、頼りない父親にも意地悪な祖母にもすがることができないと思っているので、よけいに孤立感が深く、不安や恐怖も強い。シヴォーン・ダウドはイギリスの女性作家で、自らもガンに冒されて2007年に死去し、その遺稿をアメリカ生まれのネスが完成させてカーネギー賞を受賞した。

 

『レモネードを作ろう』表紙次に家庭小説の伝統があるアメリカの二人の作家を取り上げる。ヴァージニア・ユウワー・ウルフのゴールデン・カイト賞を受けた『レモネードを作ろう』(原著 1993/こだまともこ訳 徳間書店 1999)には二組の母子家庭が登場する。一つは、14歳のラヴォーンの家庭。父親は死去して母親が働いて家計を支えている。ラヴォーンは貧困から抜け出すために大学に行こうと、ベビーシッターをしてお金を貯めようと考える。シッターを頼んできたのはジョリーという17歳のシングルマザー。幼い子二人を抱えているが、路上で暮らしていた経験も持ち、子どもの父親はわからない。ジョリーは安い賃金で働いているが、雇い主のセクハラにあって仕事も辞めざるを得なくなる。しっかりと将来を見すえているラヴォーンと、母親らしくなく、生きる術もわからずにいる極貧のジョリー。この二人のティーンエージャーは、最初は仕方なく付き合うのだが、やがでラヴォーンはジョリーから母親の強さを学び、ジョリーは自立するためにラヴォーンの手を借りることになる。最近アメリカでは韻文のような文章で書かれたYA小説が多く出ているが、これはその先駆けでもある。

『ジョージと秘密のメリッサ』表紙ジョージと秘密のメリッサ』(原著 2015/アレックス・ジーノ著 島村浩子訳 偕成社 2016)の主人公ジョージ(小4)も母子家庭で、母親と兄と一緒に暮らしている。ジーノは、トランスジェンダーの作家で、ジョージも見た目は男の子だが、内面は女の子という設定になっており、母親にその部分をわかってもらいたいとは思いながら、打ち明けられずに苦しむ。以下は、ジョージがようやく打ち明けたときの母子のやりとりである。

「・・・でも世の中はふつうとちがう人にやさしいとはかぎらない。ママはとにかく、あなたに必要以上に苦しい道を歩んでほしくないの」
「男の子のふりをするのはほんとうに苦しいんだ」
ママは何度かまばたきをした。
もう一度目をひらいたとき、涙がひとつぶ、ほおをつたい落ちた。
「つらかったわね、ジージー。わかってあげられなくて、ほんとうにごめん」
ママはジョージをひきよせると、ぎゅっとだきしめた。(P188-189)

親が一人しかいないという不都合をすでに子どもに背負わせている母親は、それ以上の負担を避けるほうが世の中をうまく渡っていけると考えていた。しかし、子どもが思い切って打ち明けると、すぐにその隣に立つ道を選択しているのは見事である。ジョージを真っ先に理解する友だちのケリーも、父子家庭の女の子である。自分もなんらかの社会的ハンデを持っている人のほうが、他者に寄り添う共感力が強いと著著は考えているのかもしれない。

 

岩瀬成子も、よく母子家庭を登場させるが、その中身は作品によって違う。たとえば『ぼくが弟にしたこと』(理論社 2015)に登場するのは男の子二人と母という家庭で、母親は老人ホームで働いていて、帰宅して夕飯の支度をしてからまた週4日はコンビニの夜勤に出かけていく。別れた夫は暴力をふるう男で、離婚の理由については「あのまま家族でいると、それぞれのいいところが失われてしまうような気がしたから」と母は子どもに説明し、「逃げたんじゃない。3人で新しく出発したんだよ」と言っている。世間体をとりつくろうことなく、必要なことは子どもにきちんと話し、仕事も子育てもなみなみならぬ努力でがんばっている。そのため息子たちも、心に波風が立つことはあっても、父親がいたときよりは今の方が安心という気持ちも持っている。

岩瀬成子の3作 表紙

同じように低賃金の仕事を掛け持ちしている『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社 2016)の母親は、娘との二人暮らしだが、夜帰ってこなかったり、娘の亜澄に「死のうか」と不用意に言ったりする。亜澄は、父親にも弟にも会えない寂しさがあり、心の中にはもっと強い波風が立っている。

だれにもいえない』(岩瀬成子著 毎日新聞社 2011)の千春の家族も母子家庭だが、一緒に幕らしている叔母が、千春のことをよくわかっていて、母親より近い距離からアドバイスしたりする。岩瀬が書く物語は、外側の事件より子どもの内面に重きを置いている。そんな子どもたちの心のひだを「育てている」のは、孤独な時間なのかもしれない。そういう意味では、子どもに目を光らせる親の数が少ないというのも、あながち悪いことではないのかもしれない。

 

2016年の国民生活基礎調査を見ると、日本では、ひとり親世帯の就労率は世界的に見ても高いのに、貧困率は実に50パーセントを超えていて、主要国最悪のレベルにある。なので、岩瀬が書くように、日本の母子家庭の母親は安い賃金の社事を掛け持ちしなくては生活が成り立たず、ベラ・ウィリアムズの描く母親のような心の余裕もなかなか持てない場合が多いのではないだろうか。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年9月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族④ 問題を抱える親、大人になれない親

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『子どもの本に見る新しい家族④ 問題を抱える親、大人になれない親』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族④

問題を抱える親、大人になれない親

 

日本の親子関係は、血のつながりが他の国以上に重視されているように思われる。血を分けた親が子どもを育てるのも、子どもが実の親を敬うのも当然のことであり、そうでない場合は、白い眼で見られたりする。しかし、そうしたステレオタイプな考え方が、子どもをかんじがらめにしてしまうこともある。

評論家の芹沢俊介氏によれば、親になるには2度の覚悟が必要だという。最初は子どもが生まれた時の「生物学的な親として」、そして次は「何があっても受け止めるという〈受け止め手〉として」。いくら血がつながっていてもその覚悟ができなければ、子どもの存在は危うくなってしまう。

今回は、絵本や児童文学に登場する困った親について考えてみたい。断っておくが、私はケーススタディとして作品を取り上げているのではない。すぐれた文学作品を通して子どもたちが社会へも目を向け、さまざまな立場にある子どもたちと手をつなぐことができるようになってくれれば、と思うのである。また私が読んておもしろかった作品だけを勝手に紹介している点もお許しいただきたい。

 

自分で自分を救えない親の場合

『パパと怒り鬼』表紙ノルウェーの絵本『パパと怒り鬼〜話してごらん、だれかに』(原著 2003/グロー・ダーレ作 スヴァイン・ニーフース絵 大島かおり&青木順子訳 ひさかたチャイルド 2011)には、家族を愛していないわけではないのに虐待し、暴力をふるう父親が登場する。主人公の男の子ボイは、いつも父親の一挙手一投足をうかがっており、身体的にも極度に緊張している。そして、父親が怒り鬼に支配されてしまうと、

ぼくのせいかもしれない。もっといい子になるよ。もっとお利口になるよ。どんなことでもするよ。ごめんなさい、ゆるしてよ、パパ

と思うのが、切ない。怒り鬼の炎を消すことはだれにもできず、家族は荒れ狂う父親の暴力に耐えるしかない。嵐が過ぎ去ると、父親は泣きなから、もう2度と暴力はふるわないし、いい父親になると約束するのだが、その約束は守られたことがない。母親は、家族が壊れそうになっていることを、ひた隠しにし、幸せ家族を偽装する。

最後はボイが思い切って王さまに手紙を書いた結果、父親の治療の道が開けるという展開だが、その部分はノルウェーならではのことだとしても、こういう状況に陥った子どもの気持ちを、この絵本はリアルに表現している。

『ノックノック:みらいをひらくドア』表紙(さくまゆみこ訳 光村教育図書)アメリカの絵本『ノックノック〜みらいをひらくドア』(原著 2013/ダニエル・ビーティー文 ブライアン・コリアー絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書 2015)の表紙には、息子を抱き上げた父親の背中が描かれている。実体験に基づいて作られた絵本なので、この息子は作者のビーティーで、抱いているのは実の父親である。父親はイクメンで、幼い息子をかわいがっていたが、息子が3歳の時に投獄される。息子の心には大好きな父親の不在という穴がぽっかりあいてしまう。ただ、この父親は変わらず息子を愛していて、ある日メッセージを送ってくる。それをもらって自分なりの道を見いだした著者が、幸せな家庭を築いているらしいことが後半部分からうかがえるのがいい。この絵本を作ったのは、投獄だけでなく、離婚や死などさまざまな事情で親の不在を体験している子どもたちに寄り添おうとしてのことだとビーティーは述べている。

ジャクリーン・ウィルソン『タトゥーママ』表紙イギリスの読み物『タトゥーママ』(原著 1999/ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社 2004)については、この連載の第1回でも触れた。マリゴールドという名の母親は、「ろくに働きもせずに生活保護のお金で暮らし、飲んだくれたり男をひっぱりこんだりする、精神状態の不安定なタトゥーだらけの未婚の母」(訳者あとがきより)で、親の覚悟をもって子どもに接することができない。父親の違う二人の娘(スターとドルフィン)は、家出をしたり、反発を感じたり、もうやってらいれないと思ったりする。しかし世間的にはできそこないの母親ではあっても、娘たちは母親の愛情を確信し、下の娘ドルフィンは最後にこう述べるのだ。

わたしは、マリゴールドを見つめた。わたしのタトゥーのあるお母さんを。マリゴールドはほんとうに、わたしとスターを愛しているんだ。わたしたちにはそれぞれのお父さんがいて、これからも顔を見せるかもしれないし、見せないかもしれない――でも、わたしたちにはいつもお母さんが、マリゴールドがいる。頭がおかしくても、いいお母さんじゃなくても、かまわない。マリゴールドはわたしたちのものだし、わたしたちはマリゴールドのものだ。わたしたちは三人家族。マリゴールドとスターとドルフィンなんだ。

ひとい母親なのに、娘からこう思われるのは不思議だと思う人もいるだろう。しかし、なるほどと読者を納得させるだけの筆力をウィルソンは持っているのである。

以上見てきたように、ダメ親でも子ともを愛している場合や、本人の力でもとうにもならない弱点を抱えている場合は、作著も親を糾弾したり、むやみに突き放すことはしないようだ。

 

覚悟ができない親からダメージを受ける子ども

 次に、親になる覚悟ができなかった親と、それによつて大きなダメーンを受けてしまう子どもを描いた作品を見てみよう。

アン・ファイン『チューリップタッチ』表紙イギリスの読み物『チューリップタッチ』(原著 1996/アン・ファイン作 灰島かり訳 評論社 2004)は、子どもの内面で起こる大きなドラマをとでもリアルに描いた傑作だ。語り手のナタリー(小学校高学年〜中学1年生)は、親が忙しくてなかなか目を向けてもらえない間に、近所の少女チューリップと仲良くなる。チューリップは嘘つきだし行動は破壊的だ。でも、それが何ものにもとらわれない個性やスリリングな創造性にも見えて、ナタリーはひきつけられる。

チューリップの父親も〈怒り鬼〉に支配されているのか、「突然、狂ったようにおこって、その怒りをチューリップにぶつける」し、母視は「いつもびくびくしていて、何も気づかないふりをしている」。父親は、身体的な暴力のほかに、子猫殺しをチューリップに命じるなど心理的な暴力もふるっている。その影響か、学校でチューリップが描く絵には、

憤怒と軽蔑がこもり、紙の上には暴力の渦があった。どこもかしこも暗く猛り狂っていて、見ている者を飲みこみ、引きずりまわさずにはおかない力があった。

それでも、ナタリーにはチューリップが必要だった。自分も心に空洞を抱えるナタリーはこう思っている。

あたしがなんの問題も起こさず、大人の言いつけを守り、いい子でいるあいだに、チューリップがあたしの秘密の命を生きていた。あたしが机の前におとなしく座っている、と先生の目に映っているときに、別のあたしはチューリップといっしょに丘にいて、はかの子たちが行列して教室を出入りするのをながめていた。(中略)ママが(弟の)ジュリアスを探して、あたしには目もくれずに通りすぎるときに、あたしの中には、チューリップもかなわないほど激しく怒り狂う、別のあたしがいた。

近所の人たちもチューリップに居場所がないことはわかっているが、打つ手がない。チューリップの中で鬱屈した怒りや不安は、どんとんふくれあがっていく。

アン・ファインはナタリーの目に映ったものを通して物語を進めて行くが、明らかにチューリップに寄り添って書いている。そしてダメ親が不安と恐怖の渦巻きのような環境しか子どもに提供できない場合、子どもは底知れぬダメージを受けてしまうことや、周りの「いい人たち」がその子を落ちこぼしていく様子を冷徹な目で描いている。

また、子どもがいくらダメージを受けていても、実の親がいる以上、他者が救いの手を差し伸べるのは至難の業だということも、ここには描かれている。

『小やぎのかんむり』表紙小学館児童出版文化賞をとった市川朔久子の『小やぎのかんむり』(講談社 2016)にも、チューリップの親と同じような親が登場するが、アン・ファインが心の奥深くまで探るような書き方をしているのに比べると、そこまで深くは描かず、読者の想像にゆだねる書き方をしている。ある意味でこうした書き方は、日本の児童文学の特徴の一つかもしれない。

中3の夏芽は、夏休みに山寺のサマーキャンプに行き、それまで周辺にはいなかった人々と触れあううちに、壊れかけていた自分を取り戻していく。夏芽の父親も、気に入らないことがあるとすぐに暴力をふるう自分勝手なダメ親である。そのせいで夏芽は摂食障害に陥っているし、父親に殺意まで抱いたことで強い罪悪感をもっている。しかし、山寺の住職のタケじいは夏芽に言うのである。

「親子は、縁だ。あんたとこの世を結んだ、ただのつながりだ。それ以上でもそれ以下でもない。(中略)愛とか絆とか、そこに意味を持たせようとするから、なんだかおかしなことになる。――そんなもの、運がよければあとから出てくるもんだ。ないものをあると仮定するからゆがむ。苦しむ。はじめからありはしないのに」

そして、夏芽は悪くない、と断定したうえで、こうも言う。

「(父親を)『許してやれ』とか言う連中には関わるな。あれはただの無責任な外野に過ぎん」

紋切り型の常識的な愛情論をふりかざす人たちを、タケじいは、すばっと切り捨てている。

ほかにも、たとえばノルウェーのトールモー・ハウゲンは『夜の鳥』(原著 1975/山口卓文訳 河出書房新社 2003)で心の病を患う父親と、そのせいで大きな不安にさいなまれる息子を描いているし、梨屋アリエの『スリースターズ』(講談社 2007)の3人の少女たちの背景には、それぞれとんでもない(でも、その辺にいそうな)親が存在している。また、いとうみくは『カーネーション』(くもん出版 2017)で、実の娘をどうしても愛せない母親とその娘の葛藤を描いている。

血のつながった親が愛情たっぷりに子どもを育てることができれば、それに越したことはないのだろうが、それが不可能な場合はどうしたらいいのか、そういう子どもにはどう寄り添えばいいのかを、作家たちは考えているのである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年8月号掲載)

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宇宙への扉をあけよう(ホーキング博士の宇宙ノンフィクション)

ホーキング『宇宙への扉をあけよう』(さくま訳)の表紙
『宇宙への扉をあけよう(ホーキング博士の宇宙ノンフィクション)』
ルーシー&スティーヴン・ホーキング/著 さくまゆみこ/訳 佐藤勝彦/監修
岩崎書店
2021.09

この本は、これまでに出ていたシリーズ6巻分の科学コラムやエッセイを集めて加筆し、新たなエッセイも加えて作られたものです。このシリーズの本当の最終刊、だと思います。ブラックホールなど最新の画像も入っています。

オビに言葉を寄せてくれた村木風海さんは、小学校4年生のときにおじいさんに『宇宙への秘密の鍵』をもらい、それをきっかけにサイエンティストになったのだそうです。そうか、もうそんなに長いことこのシリーズは続いているのか、と感慨深いものがあります。

原著の細かいところにいろいろ間違いがあり、佐藤先生にうかがいながらチェックしていきました。製本は、本の開きがとてもいいコデックス装になっています。

(編集:松岡由紀さん 装丁:坂川事務所)

 

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子どもの本に見る新しい家族③ 親の離婚や再婚はどう描かれてきたか

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『子どもの本に見る新しい家族③ 親の離婚や再婚はどう描かれてきたか』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族③ 

親の離婚や再婚はどう描かれてきたか

 

絵本では

絵本でも、このテーマを扱ったすぐれた作品が何点か出ている。

『パパのカノジョは』表紙パパのカノジョは』(原著 1998/ジャニス・レヴィ作 クリス・モンロー絵 もん訳 岩崎書店 2002)は、アメリカの絵本。主人公の「あたし」は、父親が今つきあっているカノジョが最初は全然気に入らなくて、「すっごくカッコわるい」と思っている。それでも父親は、交際を娘に隠そうとせず、カノジョとピクニックに行く時もカノジョの家に食事に呼ばれた時も娘を連れていく。そのうち「あたし」の心境に変化が訪れ、パパのカノジョは

「あたしのはなしを テレビをけしてきいてくれる。ひみつはひみつにしといてくれる」

「あたしのものをガラクタっていわないし、かってにさわらない」

「あたしのきげんがわるいとき むりやり わらわそうとしたり、質問ぜめにしたりしない。そう、ただ しずかにしといてくれる」

と、評価を徐々に上げていく。そして、最後は、

「パパのカノジョの ほんとのなまえはエリザベス。いまんとこ、ちょっといいセンいってるかもね」

という言葉で終わる。「あたし」は、カノジョの名前をちゃんと出して客観的な評価ができるようになったのである。

『パパはジョニーっていうんだ』表紙スウェーデンの『パパはジョニーっていうんだ』(原著 2002/ボー・R. ホルムベルイ作 エヴァ・エリクソン絵 ひしきあきらこ訳 BL出版 2004)は、親の離婚で母親と暮らしている少年ティムが、父親と会う1日を描いているが、雰囲気はもう少し重たい。父親と母親の仲は悪いらしく、顔を合わせることなくティムを駅に置いていく。全体を通して絵が暗めの色調なのも、この絵本にさびしいトーンをあたえている。

ティムは久しぶりに父親と会えたのがうれしくて、ホットドッグ屋のおばさん、映画館のキップ切りのおじさんと、会う人ごとに、この人は自分のパパで、ジョニーという名前だと紹介する。やがて父親は、発車前の帰りの電車にティムを連れて入り、乗客たちに向かって声を張り上げる。

「この子は、ぼくの息子です。最高にいい息子です。ティムっていうんです!」

と。最後の場面には、言葉はついていない。絵には、楽しかった1日の思い出と、父親が去った駅でお迎えを待っていたさびしさの両方をかかえたティムの小さい肩に、母親がやさしく手をおいている後ろ姿が描かれている。

 

◆親の離婚に揺れる子ども、考える子ども

『カレンの日記』表紙次に、読み物を何点かとりあげる。アメリカの人気作家ジュディ・ブルームは、かなり早い時期に『カレンの日記』(原著 1972/長田敏子訳 偕成社 1977)を書いている。描かれるのは、けんかばかりしている両親に子どもが3人という家庭。カレンは12歳になる真ん中の娘で、秘密の日記に、自分の気持ちや家庭のことを書き綴っている。そのうち両親が別居すると聞いたカレンは、

「離婚なんて! まさか、離婚なんて、しないでしょ!」

と叫んで泣きだしてしまう。 カレンは不安になるが、友だちに話したくても、話すと恐れていることが現実になるような気がして話せない。両親の仲を元どおりにしたいと思って様々なことを試みるが、何をやってもうまくいかず、しまいには「べつにこの世の終わりじゃないんだから」(原題)とあきらめるしかない。これは、親を保護者としてではなく、ひとりひとりの人間として見ることができるようになっていく子どもの物語でもある。

アン・ファイン『ぎょろ目のジェラルド』表紙イギリスでは、アン・ファインが『ぎょろ目のジェラルド』(原著 1989/岡本浜江訳 講談社1991)を書いて、カーネギー賞とガーディアン賞をダブル受賞した。キティは、母親が再婚しようとする相手ジェラルドを最初は憎悪しているが、反核デモで母親が逮捕された後の対応からジェラルドに一目置くようになり、やがてけんかした母親とジエラルドを仲直りさせたりもする。

ドイツのペーター・ヘルトリングによる『屋根にのるレーナ』(原著 1993/上田真而子訳 偕成社 1997)は、レーナが、けんかばかりしている両親の注意をひきたくて、菜園のあずまやの屋根の上に危なっかしく立っている場面から始まる。

パプとマムがけんかしはじめると、どっちもおんなじほどいやになる。……どっちも好きでいたいのに、二人はそうさせてくれない

ヘルトリング『屋根にのるレーナ』表紙とレーナは思い、親友のリーケに、両親が離婚しそうだと打ち明ける。すると、すでに離婚した母親と暮らすリーケは、

「母さん、変わったもん。ともだちがいっぱいいるの、女のともだち。みんなでよぐあつまって、 一人で子どもを育てるのはどんなぐあいかって議論してる。弁護士さんや心理学者を招待することもあるわ」

と話してくれる。リーケの母親のまわりにはシングルマザーのコミュニティができていて、そこで助け合ったり考えたりしているのだ。

レーナが親友に悩みを話せる点、同じ状況の女たちが話し合う場がある点、そして子どもがただ嘆いたり悩んだりするのではなく、自分たちのことも考えろと裁判所でも親に要求する点が、これまでの作品とは違う点である。

ひこ・田中『お引越し』表紙日本では、松谷みよ子の「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズが、親の離婚を早くに扱ったすぐれた作品として挙げられるが、ひこ・田中の『お引越し』(福武書店 1990、福音館書店 2013)は、小学6年生のレンコが、両親の離婚前提の別居と向き合う姿を描いている。物語の冒頭で、父親の荷物を引っ越し先に運ぶトラックの荷台でレンコが知人のワコさんとおしゃべりをする。関西弁でのはずむような会話が続くこともあり、表向きはレンコが悩んだり落ち込んだりしている様子は感じられない。わざと明るくふるまっているのだろう。それでも内心は揺れていることが伝わってくる。レンコにとって、もちろん親の離婚がショックでないわけはなく、ひとりでいるときには、こんなふうにも考える。

「父親っていうのがいない生活」ってかあさんから言われると、おふとんを急にはがされたみたくで、私一人だけパンツがもうはけなくなったみたくで、ガッコから帰ってきたら私の部屋がなくなってたみたくで、百点のつもりが零点だったみたくで、寒かった。

この作品では、母親とレンコが二人の暮らしをどうやっていくかを親子で相談して決めている。それが堅苦しくなったり、妙に深刻になったりしないのは、テンポのよい会話によるところも大きいだろう。

 

◆親の再婚をめぐる物語

『バイバイわたしのおうち』表紙イギリスの人気作家ジャクリーン・ウィルソンの『バイバイわたしのおうち』(原著 1992/小竹由美子訳 偕成社 2000)は、10歳の少女アンデイーが主人公。両親は離婚してそれぞれ再婚している。アンディーはスーツケース一つを抱えて1週間ごとに母親の家庭、父親の家庭を渡り歩かなくてはならないうえ、親の再婚相手だけでなく、その連れ子たちとも折り合っていかなくてはならない。両親ともアンディーを愛していると口では言いながら、日々の暮らしに追われて娘の窮状を深く考えることがないダメ親である。

ウィルソンが多くの作品で取り上げる家庭の状況はシリアスだが(たとえば、ゴミ箱に捨てられていた子ども、孤児院でだれかが引き取ってくれるのを待っている子ども、精神的に不安定な親をもつ子ども、など)、ストーリーテラーとしての手腕と、抜群のユーモアのセンスによって子どもの読者を魅了し、ベストセラー作家になっている。またこの作品には、親以上にアンディーのことを親身になって考えてくれる老夫婦ピーターズさんが登場する。血のつながった親ができない子どもの心の居場所作りを、他人であるピーターズさんがやってくれる点にも注目しておきたい。

ウルフ・スタルク『シロクマたちのダンス』表紙スウェーデンのウルフ・スタルクの『シロクマたちのダンス』(原著 1986/菱木晃子訳 佑学社 1994、偕成社 1994)では、家族が集まってクリスマスのお祝いをしている時に、母親が別の男性の子どもをお腹に宿していることがバレて、楽しいひとときが暗転する。ひとり息子のラッセは母親と暮らすことになるが、母親の再婚相手は歯医者のトシュテンソンで、ラッセより年上の娘がいる。トシュテンソンは、ラッセを品行方正な優等生にしてみせると意気込み、ラッセはメガネをつくってもらい、きちんとした服を買ってもらい、ヘアスタイルも整えてもらう。学校の成績も上がってくる。ラッセも最初は、晴れがましい気持ちになったりもする。しかしトシュテンソンが「自然界は戦場だ。強い者にだけチャンスがある。他人を負かした者しか生きのこれない」と考えている人物だということを、ラッセは間もなく見抜く。そしてトシュテンソン好みのラッセは自分ではないと思うようになる。そこで決意して書き置きを残す。

「ぼくはとうさんのところへ引っ越します。(中略)ぼくは、ぼく以外のだれにもなれないということなのです。そして自分がだれなのかは、自分で見つけなければいけないのです」

スタルクは、親の離婚や再婚について非難がましいことは書かない。世界一離婚が多いというスウェーデンの事情もあるのか、それはそれで致し方のないことだとして、次の段階をどう踏み出したらいいかを子どもに寄り添って考えている。ラッセは母親のことも父親のことも大好きなのだが、もとのさやにおさめようとは最初から思わない。母親のもとを去る決心をしたラッセは

かあさんの手をぎゅっとにぎりかえした。かあさんのことが大好きで、すべてのことが悲しいという気持ちをつたえたくて。

そして最後の文章はこうなっている。

車はゆっくりとソッケン通りをいき、それから南へむかう。
ぼくはとうさんの右腕を首にからませてすわっている。
ぼくたちはおしだまったまま、車を走らせる。
どこへいくかは、とうさんもぼくも知らない。

ラッセと、無口で不器用でシロクマのようなお父さんは、この先どうなるかは確信がもてないながらも、静かに再会の喜びを味わっているのだ。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年7月号掲載)

 

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子どもの本に見る新しい家族② 母親は家出する

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『子どもの本に見る新しい家族② 母親は家出する』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族② 

母親は家出する

 

子どもの家出は子どもの本のテーマの一つだが、親の家出が描かれる絵本や児童文学はそう多くはない。母親の家出や蒸発となるともっと数は少ない。それでも、そうした作品は考えさせられる点をいくつも含んでいる。

 

◆ 『おんぶはこりごり』の場合

アンソニー・ブラウン『おんぶはこりごり』表紙イギリスの絵本作家アンソニー・ブラウンの『おんぶはこりごり』(原著 1986/藤本朝巳訳 平凡社 2005)に登場するのはピゴット(Piggot)さん一家。この名前は、原書タイトルのPiggybookにも関連している。

この一家は大きな家に住み、父親はパリッとしたストライプのスーツを着て、胸ポケットには蝶ネクタイとおそろいのポケツトチーフをさしている。「だいじな仕事」をしている偉い人らしい。息子たちも胸にワッペンのついた制服を着ており、「だいじな学校」に通っている。しかし母親の方は、夫と息子の世話に明け暮れているうえ、外に働きに出てもいる。

みんながでかけたあと、ママはあさごはんのあとかたづけをして…… ベッドをなおし…… どの部屋にも、そうじきをかけ…… それから、やつと仕事に出かけます。」「みんながゆうごはんをすませると、ママは、おさらをあらい……せんたくをして…… アイロンをかけて…… それから、あさごはんのよういもします。

といった具合。男たち3人は、こんなふうに毎日世話をしてもらうのに慣れてしまっている。

ところがある日、男たちが帰ってくると母親がいなかった。「ぶたさんたちの おせわは もうこりごり!」(原文はYou are pigs.なので、もっと強烈だ)という書き置きを残して家出したのである。

さあ、それからが大変! 父親と息子たちは慣れない家事に取り組むが、できた食事はひどい味だし、家の中はすぐにブタ小屋のようになってしまう。

(ついでに一言。今、原書と日本語版を照らし合わせていて、少し間違いがあることに気づいた。日本語で「はじめて、おさらをあらいました。はじめて、せんたくをしました。まもなく、家は、ぶたごやのようになりました」となっているところは、原書では「一度もお皿を洗わなかったし、一度も洗濯をしなかったので、まもなく〜」という文脈になつている。)

さて、しまいに料理の材料もなくなり、食べ物のかけらでも落ちてはいないかと男たちが部屋をはいずりまわって探しているところへ、母親が帰ってくる。そこで、父親と息子たちは心を入れ替えて家事を分担するようになり、家庭には微笑みが戻ってくる。

この絵本では、絵もさまざまなことを語っている。まずこの母親だが、最後の2ページになるまでは表情がまったく描かれていない。夫からは、名前ではなくold girlなどと呼ばれ、個人としての人格を認められていない状態に置かれていることを表しているのだろう。

英語ではおんぶのことをpiggybackという。原著の書名はそれにちなんでいるのだが、ともあれ、ページが進むにつれて、父親や息子たち、そして家のいろいろなものが徐々にブタ(piggy)に変わっていく。どこがどう変わったかを見つけるのもおもしろい。

日本には、この絵本の母親のように家事も育児もほとんど一手に引き受けながら、外で仕事もしている女性はイギリスよりずっと多いはずだ。

 

『ざわめきやまない』の場合

高田桂子『ざわめきやまない』表紙 『おんぶはこりごり』と同じ頃に出版された高田桂子の『ざわめきやまない』(理論社 1989) に登場する中3の里子の母親は、下の子を亡くし精神的に不安定になつているのに、単身赴任の夫は仕事だけが生き甲斐でちゃんと向き合ってくれない。里子の祖母はこう言う。

 「なんぼ仕事が生きがい言うたかて、子どもが病気になりでもしたらやめな仕方おへん。看病かて女の仕事やし、家にお年寄りがいてはったら、その世話かて女の仕事やし。一、二年ごとのだんさんの転勤にも馴れなあかん。だんさんのうしろで、引越しの荷造りしたり、家をさがすのも女の勤めやし。単身赴任かて、今では常識や。しっかり留守も守れへんでどないする。子どもを亡くさはったお人かて、ようけいてはる……」

それで、母親はポキンと気持ちが折れたのか「時間をください 三カ月/必ず帰ります/許して 里子」という書き置きを残して家出するのである。期限つきだし、自分の母親に連絡して子どもの面倒をみてくれと頼み、単身赴任の夫にも伝えたうえで、だ。『おんぶはこりごり』と比較すると、イギリスと日本の社会の違いが如実にあらわれていることがわかる。こちらの母親はずいぶんと低姿勢だし、帰ってからもしょっちゅう謝っている。

2012年に国際社会調査プログラム(ISSP)が実施した「家族と性役割に関する意識調査」によれば、配偶者がいて18歳未満の子がいる男女が家事にかける週固半均時間は、日本だと男性が12.0時間、女性は53.7時間。日本男性の家事分担率はたったの18.3%で世界一低いと言われている(ちなみにイギリスは34.8%)。政府がいくら「すべての女性が輝く社会づくり」などと言っても、夫が家事をしない(夫の意識の問題もあるが、長時間労働の影響も大きい)、子どもが保育園に入れない、ではまったくの絵に描いた餅でしかない。

 

◆ 『レーナ』の場合

ジャクリーン・ウッドソン『レーナ』さくまゆみこ訳

全米図書賞やいくつものニューベリー賞銀賞を受賞するなど現在アメリカの第一線で活躍しているジャクリーン・ウッドソンの『レーナ』(原著 1994/さくまゆみこ訳 理論社 1998)にも、家出した母親が登場する。語り手の少女マリーの母親は、マリーが10歳のときに家も国も出て、旅先から娘のマリーに絵ハガキを送ってくる。マリーは、家出前の母親が蛇口から水をジャージャー流して声が聞こえないようにして泣いていたことにも、その後父親が同じように時々泣いていることにも気づいている。マリーは母親に宛てて手紙を書くが母親が定まった住所を持っていないので、結局出せないままになっている。

この母親の家出の理由は、父親に言わせればこうである。

「おまえの母さんは、外に出ていって、さがしているんだよ。自分が幸せだって……感じられる……場所をな」「ほかの所へ行かなくちゃならない人もいるんだよ。生きるためにな」(p69)

「母さんはこわくなったんだ。生きることをじゅうぶんにしないままに死んでしまうんじゃないかってな」(p70)

狭い場所に閉じ込められていた母親が、いわば自分探しをするために家を出る。それは、「母親という役割」からしか女性を見ない人にとっては、とんでもない話だろう。しかし、当の母親にとっては生きるか死ぬかの問題なのだとウッドソンは言う。

ジャクリーン・ウッドソン『あなたはそっとやってくる』さくまゆみこ訳

しかしこの作家は、母親の視点だけから見ているわけではない。『あなたはそっとやってくる』(原著 1998/さくまゆみこ訳 あすなろ書房 2008)の主人公エリーの母親は2度も家出をしたことがあるのだが、エリーは母親が戻ってきても長いこと口をきかない。そしてそれは、

「間違ったことを言ったら、また家出をしてしまうのではないかとびくびくしていたからです」(p29)

「最初のときだってなんとかやったんだから、自分が乗りこえられるのはもうわかってるのよ。でも、その一方で、みんなそのうちいなくなってしまうんだって思ってる自分もいるの」(p139)

と、エリーに言わせている。不安を感じる子どもと、それでも家を出ざるを得ない母親の間の溝はなかなか埋まらないのである。

ちなみに、ウッドソンのこの2作の大きなテーマは肌の色が異なる子どもたちの間の友情、愛情と別れであり、母親の家出は背景の一つとして描かれているにすぎない。

 

『紙コップのオリオン』の場合

市川朔久子『紙コップのオリオン』表紙市川朔久子の『紙コップのオリオン』(講談社 2013) にも大きなテーマとは別に(というか大きなテーマを構成する要素の一つとして)、家出した母親が登場する。語り手である中2の橘論里の母親は、ある日、意味のよくわからないメモを残して家出する。論里に言わせると

信じられないことに、母さんはカメラひとつを抱えて気ままな写真撮影の旅に出かけてしまったらしい。行き先も期間も決めない無計画旅行だった。いつか行ってみたいと、ずっと願いながら叶わずにいたことを、とうとう実行してみたのだという。まったく、あきれて言葉も出ない。

母親は、日本のあちこちで撮った写真をブログに載せて、

「十月なのに、もう寒いです! でも、食べ物がさらにおいしくなつてきました。ほっけ、うまい! イクラ、うまい!」

などという能天気なコメントを書いている。『ざわめきやまない』や『レーナ』の家出した母親と比べると、段違いにお気楽なのだが、論里の継父は家族思いの底抜けにいい人であり、「(妻に)試されてるんじゃないかと思うんだ」(p155)と述べている。何を試されているのかはこの部分には書かれていないのだが、別の箇所を見ると、母親には以前健康診断の際気になることがあって、それ以来、継父一人でも子どもをちゃんと育てられるかを試している、というようにとれる。それだけでは理由が弱いと作家が思ったかどうかはわからないが、この母親には前からちょっと変わったところがあったという設定になっている。

最初は「いい気なもんだ」と論里は腹を立てているのだが、母親の帰宅後は「半年以上留守だったにもかかわらず、ぼくたちは母さんのいる生活にあっという間に慣れ」「今のぼくには、家族のそれぞれが、前よりもくっきりとして見える」ようになる。どうしようもないことに関しては、子どもはかくも寛容なのである。

それにしても、日本にはまだこうした母親に不寛容な大人はたくさんいそうである。しかも教育勅語などをよしとする政治家が多ければ、さらに増えるだろう。しかし、母親を無責任と非難するだけでは、何も解決しないのである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年6月号掲載)

 

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子どもの本に見る新しい家族① 今、子どもの本は家族をどう描いているのか

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『子どもの本に見る新しい家族① 今、子どもの本は家族をどう描いているのか』

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族① 

今、子どもの本は家族をどう描いているのか

 

多様性と国際化

子どもたちには本を通して、なるべくたくさんの多様な価値観に触れてほしいと、特に今、私は思っている。そして本を通して、なるべくたくさんの地域の子どもたちと友だちになっておいてほしいと考えている。それが、これからの社会をになう子どもたちの「国際化」につながることだと思うからだ。外国語がネイティブのように話せたところで、相手の存在の背景にある文化や価値観が理解できなくては、真の意味での国際人にはなれない。それに、多様な価値観に触れておけば、うっかりお粗末な為政者の口車にのって他の国を敵視してしまうことへの備えにもなるだろう。

私が絵本や児童文学が家族をどう描いているかに関心を寄せるきっかけとなつたのは、スーザン・クークリンの『家族』(Families)という米国のノンフイクション写真絵本だった。初版は2006年だが、米国ではいまだに版を重ねている。日本語訳は出ていない。

FAMILIES 表紙

この写真絵本が取り上げているのは、15の多様な家族である。おもて表紙に写っている家族は、肌の色の白い母親と褐色の父親と、その中間のように見える肌の色の子どもたちだ。うら表紙には、アメリカ人の父親と日本人の母親と、ムサシ、オサムという子ども二人の家族。どっちの家族もにこにこと楽しそうだ。表紙の家族のほかに、ひとりっ子の家族、子だくさんの家族、親が離婚・再婚した家族、父親二人の家族、母親二人の家族、障碍者のいる家族、ふたごのいる家族、実子のほかに養子もいる家族、独身女性が養子を迎えた家族などが登場する。肌の色も、宗教も、文化もさまざまだが、どれもアメリカの家族である。著者の後書きを見ると、ここに登場するどの子も「愛されていて、安心できる居場所がある」と感じているとのことだし、写真でもそれぞれの家族があたたかい雰囲気をかもしだしている。写真絵本なので、子どもも一目瞭然に多様性が理解できるだろう。日本でも、地域によっては外国籍の親をもつ子どもが増えているが、多様であっていいということを伝える本はまだまだ少ない。

 

キャサリン・パターソンのスピーチ

キャサリン・パターソンは、ニューベリー賞2回、全米図書賞2回をふくむ数々の賞を受賞した米国のベテラン作家だが、1998年に国際アンデルセン賞を受賞したときのスピーチで、こんなことを言っている。

「米国の図書館には自国で出版された本がすでにたくさん並んでいるせいか、外国からの翻訳作品も必要だということを忘れてしまいがちです。でも、私たちは米国の子どもたちに本を通して、イランや朝鮮半島や南アフリカやセルビアやコロンビアやチリやイラクに暮らす友だちをあたえていかなければなりません。どの国の子どもたちとも仲良くなってもらうために。人は、自分の友だちが暮らしている国には危害を加えようとは思わなくなるからです」

中国に生まれて日本軍の侵略を体験し、後には日本にも住んだことのあるパターソンは、多様な文化を知ることの重要性を人並み以上に強く感じていたのだろう。

米国は、児童書に占める翻訳作品の点数が非常に少ない(新刊点数の2%くらい)。パターソンは、このままではいずれトランプのような人間が権力の座について大変なことになると当時から思っていたのかもしれない。

この連載では、子どもにとっていちばんの環境である家族を取り上げた絵本や児童文学を紹介し、昨今の作品がステレオタイプから離れた新たな家族像をどう描いてきたかを見ていきたい。近年のファンタジーの中にもたとえば「ライラの冒険シリーズ」(フィリップ・プルマン)のライラの家族のように、従来型の家族像とはまったく違う(もっと言えば家族とは思えない)家族が登場する作品もあるが、ここでは主にリアリズムの作品を取り上げて考えてみたい。ただし、取り上げるのはメッセージが前面に出ている作品ではなく、文学的にも評価されている作品としたい。

 

理想の家族像?

ローラ・インガルス・ワイルダーが『大きな森の小さな家』をはじめとする自伝的シリーズの中で描いたような家族が理想だと考えている人は、日本にも結構いる。父親は外敵から家族を守りつつ土地を開墾して家を建て、母親は家事育児にいそしみ、一家の主が決めた計画に内心では不服だとしても従う。子どもたちは助け合い、親の言うことを基本的には守り、ほぼ自給自足の生活の中で家族が強い絆で結ばれている――そんな家族だ。

『大きな森の小さな家』表紙
『大きな森の小さな家』恩地三保子訳 福音館書店

ワイルダーは60歳を過ぎてから、作家の娘ローズに勧められて書き始めたので、なつかしい日々を思いだして懐古的に語っている。そのおかげで、苦労も楽しい思い出話になっているように私には思える。

それはそれとして、今も、ローラの家族のようなかたちは可能かというと、それはなかなか難しいのではないだろうか。アメリカで西部開拓時代に安住の地を求めて移動していく人たちには、外に野生動物や先住民などの脅威があった。そして、子どもがさまざまなメディアに触れる機会もないため、生活面だけでなく情報面でも子どもは親に頼るしかなかった。親という窓を通して世の中を見ていたのである。また、子どもは、すぐれた生活の技術をもつ親を間近に見て尊敬の念を抱いていた。同じような条件下にない現代社会で、このような家族のありようは難しいと言わざるをえないだろう。今、必要なのはもっと違う家族像だと私は感じている。

 

『のっぼのサラ」と非血縁の家族

パトリシア・マクラクラン『のっぽのサラ』表紙私が新たな家族像を描いているとして最初に感銘を受けた児童文学作品は、パトリシア・マクラクランのニューベリー賞受賞作『のっぼのサラ』(原書 1985/金原瑞人訳 福武書店 1987、徳間書店 2003)だった。母親が病死して父親と一緒に暮らす子どもたちが、継母(候補)のサラと心を通わせていく物語である。語り手である姉のアンナと弟のケイレブは、母親が死去して以来、家庭に歌がなくなってしまったと感じている。農業を営む父親が新聞に後妻募集の広告を出す(これは米国ではよくあることらしく、ほかの児童文学にも登場する)と、サラという女性が応募してくる。サラは、メイン州の海辺で兄と暮らしていたのだが、兄が結婚することになったので、その家を出る必要が出てきたのだ。手紙のやりとりの後サラが一家に会いにくることになり、二人の子どもたちは胸をおどらせると同時に気をもむ。

継母というのは、昔話では悪役を演じることが多く、創作作品でも子どもを理解しない存在として描かれることがよくある。しかし、ここでアンナとケイレブが案じているのは、「サラが意地悪だったらどうしよう」ではなく、「サラがここを気に入ってくれなかったらどうしよう」なのである。「継母=意地悪」というステレオタイプは、この物語には存在しない。

もちろん生後すぐに生母が亡くなって思い出を持たないケイレブと、生母の思い出を持っているアンナとでは、サラに対する思いも少し違う。アンナの複雑な思いは、以下のような独自にあらわれている。

パパはなにもいわずに、サラの腰に腕をまわして、だきよせました。パパのあごの下にサラの髪があります。わたしは目をとじました。ふいに、ママとパパがこんなふうに立っていたのを思い出したのです。ママはサラより背が低くて、金色の髪をパパの肩に押しつけていました。そっと目をあけてみると、ママのかわりにサラが立っていました。ケイレブはわたしを見て、にこにこ笑っていました。これ以上うれしい顔はないというくらい、にこにこしていました。(徳間版 p113)

サラは自立心もしっかりと持っていて、馬車の御し方も習ってひとりで町へ出かけていく。子どもたちは、サラが出ていってもう戻らないのではないかと本気で心配する。しかし夜になって戻ってきたサラは、「いつだって前の家は恋しいけど、あなたたちに会えないほうが、もっとさびしい」と言って、この一家との結びつきを強めていくのだ。

 

『タトゥーママ』に見るダメ親

ジャクリーン・ウィルソン『タトゥーママ』表紙『のっぽのサラ』は、血がつながっていない親と子どもが心を通わせて親子の結びつきを深めていく物語だが、その一方で血のつながった親が親としての役割を果たせない姿を描いた作品もある。ダメ親に対する保護者役としての子どもが児童文学に登場するのは、もちろん近年になってからである。英国でチルドレンズ・ローリエト(児童書のすぐれた作家に授与される称号。子どもの本の普及のためにも働く)を務めたジャクリーン・ウィルソンは『タトゥ―ママ』(原書 1999/小竹由美子訳 偕成社 2004)でガーディアン賞を受賞した。この作品に登場する母親マリゴールドは、精神不安定で、生活保護のお金が入るとすぐタトゥー屋にとんでいって自分の体にタトゥーを入れてしまう。語り手の10歳のドルフィンは、異父姉のスターに頼って暮らしている。マリゴールドは、子どもに安心できる居場所もつくってやれないし、衣食住もおろそかにするし、客観的に見ればまったくのダメ親である。しかし著者のウィルソンは、そのマリゴールドがどこかいとおしい存在であるという描き方をしている。それは、ダメ親ではあっても、マリゴールドの愛を子どもたちが疑っていないからだろう。

 

子どもでいる時間

ジル・ルイス『紅のトキの空』さくまゆみこ訳

同じく英国の女性作家ジル・ルイスの『紅のトキの空』(原書 2014/さくまゆみこ訳 評論社2016)にも、母親と弟に対して保護者の役割をけんめいに果たそうとしている少女が登場する。12歳のスカーレットは、精神的に不安定な母親のようすを見つつ、アスペルガーの異父弟レッドの世話もしなくてはならない。スカーレットはそれを苦痛に思うのではなく、自分がしっかりしないと愛する家族がばらばらになってしまうと危惧して頑張っている。著者のルイスは、このことを美談に終わらせず、子どもには子どもでいる時間が必要だという視点から物語を進めていき、最後にはなかなかすばらしい解決策を用意している。

 

 

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年5月号掲載)

 

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つかまえた

田島征三『つかまえた』表紙
『つかまえた』
田島征三/作
偕成社
2020.07

『つかまえた』をおすすめします。

川でやっと大きな魚をつかまえた少年が、しばらくしてその魚が死にかけているのに気づき、今度はその魚を生かそうと奮闘する姿を描いた絵本。少年の心の動きや、少年と魚の命が呼応する様が生き生きと表現されている。

「手の中で ぬるぬる/にぎると ぐりぐり/いのちが あばれる」といった実感を伴う言葉と、ぐいぐい勢いよく描かれた絵とがあいまって、この少年と魚の命の輝きが伝わってくる。昔の子どもが日常の暮らしの中で体験したことを、今の子どもはすぐれた絵本でまず体験してみることも必要なのかもしれない。

生と死や命といったテーマを、抽象的な概念ではなく、子どもにも共感できる具体的なものとして提示しているのがすばらしい。

(産経新聞「産経児童出版文化賞:美術賞講評」2021年5月5日掲載)

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やとのいえ

『やとのいえ』表紙
『やとのいえ』
八尾慶次/作
偕成社
2020.07

『やとのいえ』をおすすめします。

多摩丘陵の谷戸に建てられた一軒のかやぶき屋根の農家と、その周辺の環境の変化を見つめた絵本。1868年から約150年間の変遷を、ていねいな絵とわかりやすい文章で表現している。最初は、この農家の周辺は雑木林や畑や田んぼで、人々は農業や炭焼き、養蚕やカゴ作りなどをして暮らしている。子どもたちは空き地や川で遊び、家畜ばかりでなく野生の生き物とも触れあっている。ところが、1970年代に入ると開発の波が押し寄せ、あっという間に森林が伐採され、舗装道路や団地や分譲住宅ができ、鉄道やモノレールが通る。やがて古くなったこの農家も壊されて、瓦屋根の住宅に建て替えられる。

環境の変化の歴史と同時に、季節ごとの農作業、婚礼や葬儀、お祭りなども描かれ、その時々の人々の暮らしぶりもわかる。変化していくものとは対照的に、この家の庭の隅にはずっと変わらず石造りの十六羅漢さんが置かれているのもおもしろい。

巻末にはそれぞれの場面に描かれているものについての詳細な説明があり、絵と対比しながら読むとまた新たな発見がある。

(産経新聞「産経児童出版文化賞:大賞講評」2021年5月5日掲載)

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