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ゴールライン

秋木 真『ゴールライン』
『ゴールライン』
秋木真/著 ゴツボXリュウジ/絵
岩崎書店
2007.10

ミラボー:私はね、中学が陸上部だったんですよ。タイムを競うところなんか、いろいろ思い出したりして、楽しく読めました。ただ私は、マンガ風の挿絵がだめだったな。今の中学生には、今風で抵抗なく受け入れられるような挿絵なんでしょうけど。内容的には、冒頭でお姉ちゃんにあいつに負けないように走れと言われて陸上部に入り、しっかり全国大会に行くという、安易といえば安易な流れ。子ども向けならいいと思うのか、子ども向けでも安易すぎるのか、どちらでしょうか?

ハリネズミ:さっと読めて、それなりに楽しいと思ったんですけど、『リバウンド』と比較すると、リアリティがいかにも希薄。まず、なぜ美沙が弟に書道、野球、サッカー、水泳、と次々やらせるのかがわからない。もう一人の姉の百合に「なにかに打ちこんでほしかったんじゃないかな」なんて言わせてるけど、「打ち込んでほしい」なら、なぜかんたんに前の習い事をやめさせて、次のものに向かわせるの? 安易なストーリーづくりとしか思えません。走ることに対する子どもたちのさまざまな思いは書けていると思うけど、登場人物がステレオタイプ。それに最後は和希が「走ることに意味なんて求めちゃいけないんだ」という結論に達するけど、小学校6年生でこんなこと言うのかな? 『リバウンド』には、最初はバスケット、それもレギュラーチームに入れるかどうかだけを心配していたショーンが、デーヴィッドのことを思って、客観的に自分を見つめたり、社会的に視野を広げたりしていくところが描かれています(p299〜)。ところが、この作品は方向が逆ですね。

メリーさん:適度に起伏があって、すぐに読めた1冊でした。これまでのスポーツ小説は、ただ単純に好きで好きでしょうがなくて(あるいはたとえつらくても、それが自分のアイデンティティだから)そのスポーツをやっている主人公、というものが多かった気がします。反対にこの物語では、主人公がずっと走る意味について考えていて、最後の最後で、悩まなくていいんだという結論に達している。今の子どもはこういうふうに考えているのかなと思いました。

マタタビ:今の子向けに書かれているなと思いました。お姉さんがどうして陸上をすすめるのか、最後にわかるのではと思いながら読んでいったのですが、あれ?という感じで、終わってしまって、謎ときの楽しみは少なかったんですけど。まあ、今の子どもは、ページが少なかったり、ストーリー展開がはっきりして前に進むものを好むので、こういう作品だったら読めるのかなと思いました。大人の私はどうしてもストーリーの複雑さや味を求めてしまうので……。でも、子どもはどうなんでしょう。自分も走ってみたくなるのかな。出てくるおじいさんが全国で100メートル2番目というのも、都合がいいなあと思いました。このおじいさんも、もっと物語にからんでもよかったし、ほかの人物同士のからみあいがもう少しあってもよかったんではないかと思いました。私にとっては珍しい挿絵でした。今、ティーンズの文庫なども、こういう絵で読ませていくものが多いので、取り入れているのでしょうか。好き嫌いで言うと、ここまで漫画化しなくてもいいんじゃないかと感じました。それに文字までは入れなくていいのでは。

うさこ:大きなドラマはないけれど、走ることが気持ちいいというのはそれなりに伝わってきました。冒頭での陸上部に入った動機の軽さや、挿絵の印象が軽いせいで、なかなか話のなかに入っていけなかったです。ストーリーは単純だけれど、スポーツって案外そんなもんだよな、とか、男の子って単純でそんなもんだよなと思いながら読みましたが、読後、心に残るものは少なかったですね。この主人公は、人との関係とか、走ることへの意味とか、どれもあっさり自己完結してしまっています。陸上は個人競技だからかもしれないけど、人との関係に深まりがないなとも思いました。

ピョン吉:おもしろがりながら、読んでいました。スポーツ物をおもしろく読ませるのには、どうしたらいいのかなあ、などと思案しながら。この作品では、主人公の入ったスポーツクラブとクラスのリレーの顛末が、もう少しうまくリンクしていくと、なるほど〜、という感じになるのかなあ? 最後の主人公が出した「走ることの意味」にも、わかりやすさが加わるのでは? それにしても、百合姉ちゃんが唐突に出てくるわ、美沙姉ちゃんもけっこう弟に強引だわ、マンガチックなところが多く、それでこういう挿絵になるのね、と納得しました。あと、細かいところですが、名前の「ゆうき」と「かずき」が似ていて、読んでいて少し混乱しました。

ハリネズミ:マンガのノベライゼーションみたいなものだったら、マンガそのものを読んだ方がいいんじゃないの?

ピョン吉:これだったら、中学年でも1日あれば読めると思う。

ハリネズミ:読むのが苦手な子だったらマンガの方がおもしろいと思うだろうし、読める子だったら物足りないと思うの。この作品は中途半端じゃないのかな。

ジーナ:私も中途半端な感じがしました。小学校中学年と中学生のあいだの読み物として、こういうテーマでこのくらいの読みでのものは必要かなと思う一方で、積極的に手渡したいかというと考えてしまい、自分として結論が出ませんでした。人に言われてはじめた陸上が、最後は自分からやろうというものに変わっていくのを書きたかったのかな。でも、自分の子の小学校でのスポーツ体験からすると、今の子は塾もあるし、ゲームもしたいしテレビも見たいし、ここまで深く考えて1つのスポーツに毎日打ちこんでいる子はほとんどいないんですよね。切磋琢磨することより、仲間との温度差というような問題の方が先に立ちはだかる。だから、この物語は、現実とは離れていると思います。全員リレーのシーンはおもしろかったです。個人プレーで勝ってしまったことに後味の悪い思いをするところ。こういうところが、もう少しあとまで生かせたらよかったのに。若い作家だけれど会話はうまいなと思いました。

みっけ:さくさくとは読めましたけれど、おもしろかったかといわれると、ううむ。なんというか、設定に説得力がない気がして。都合がいいところで、不思議なおじいさんが出てきたりするのもなあ……と。この子も、悪い子ではないのだろうけれど、ふにゃふにゃした感じであまり魅力的に感じられない。クラス全員リレーの話も、クラス内のやりとりがほとんどないんですよね。これは今の学校のクラスを反映しているのかもしれないけれど、そういうほかの子との葛藤などもなく、ただ、自分ともう1人のクラブ員の女の子の2人だけの力で勝っちゃう。でもこれは、あくまでもクラスのありようの問題であって、それがこの子にとって、走ることの意味への懐疑につながるというのが解せない。なんかとってつけたようで……。だから、これが走るということなのかもしれないと言われてもなあ……という感じでした。

ウグイス:最初、本を見て、おもしろそうだな、と思いました。5,6年生のとくに男の子に薦められる本って本当に少ないので、あ、手に取りやすそうだな、と。主人公は、「ようやく水泳から解放された」と書いてあるので、水泳も好きでやっていたわけではなかった。それなのにまたお姉ちゃんに言われて陸上を始めたわけですね。しかも最初に、自分としてはよくわけがわからないまま坂本くんと走ることになり、というように、この子はなんでも他力本願なんですよね。こういうタイプの子って、結構いそう。でも、そこで坂本くんにタイムで大差をつけられて、悔しい気持ちになる、というのはよくわかるし、一人称で書いてあるので、主人公の気持ちになって、とんとんと読める。あんまり、本を読まないようなスポーツ好きの男の子に薦められると思います。でも、薦めても、おもしろくないと言われてしまうかもしれないな、とも思ったり。そういう子に薦めて「おもしろかった、もっと読みたい」と言わせるまでの力があるのかどうか、となると自信がありません。登場人物がステレオタイプだとかは、このくらいの文章量の中ではある程度は仕方がないけれど、この子の気持ちが今ひとつしっかり書かれていないというのが弱い点かな。真面目に書いていると思うし、読みやすくは書けているので、応援したい気持ちはあるんですけどね。ところで25ページの左上の字はなんでしょう?

一同:うーん、「ド」でしょうか。「ドヒュ!」。

ウグイス:文章で気になるところがいくつかありました。47ページ最後から5行の文章中「〜つつ」という表現が3回出てくるのが気になったわ。155ページ8行目「話がまとまると、さっそく和希たちはおじいさんの家に向かった」では、「和希たち」というともう1人子どもがいるのかと思ってしまった。「和希とおじいさん」とは思えなかった。

紙魚:男の子が読みたくなりそうな世界というのは、やっぱり、マンガによって表現されているので、そっちを読んじゃうのでは。

たんぽぽ:野球が好きで野球の本が読みたい子どもがたくさんいます。「バッテリー」(あさのあつこ著 教育画劇)を読みたがるのですが、小学生だと難しくて読めないんです。

ジーナ:やっぱりスポーツを表現するのに、マンガってすごく向いているんでしょうね。言葉ではなく、体の表現で伝わる部分がそのまま描けるから。

ウグイス:今回はスポーツものということで3冊選びました。『DIVE!!』(森絵都著 講談社)『一瞬の風になれ』『バッテリー』を取り上げたいところでしたが、図書館で予約待ちで借りられそうもないということでやめたんです。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年4月の記録)


チームふたり

吉野万理子『チームふたり』
『チームふたり』
吉野万里子/著 宮尾和孝/絵
学習研究社
2007.10

たんぽぽ:働くお母さんは、今たくさんいるので、専業主婦の母親が働くことと、貧しさがつながるかなと、ちょっと思いました。それから、チームメイトの靴を心配して、子どもが自分のお小遣い出すかなっーて。

マタタビ:小学3年生に読めるのかなと思ったら、2日で読んできた子が2人いたので、字の大きさ、読みやすさの点から、確かに中学年から読める作品だと思います。ただしリアル感の問題はいろいろあるかなと思いました。小学校のクラブは週で1時間程度ですから、ここで描かれているクラブは、特別クラブと言われているものでしょうか。でも、作者が伝えたいことは、読み慣れていない子にも伝わっていました。ストーリーや人物どうしの関係が整理されていると思います。うーん、最後の、靴を買ってあげてほしいとお金を届けるところはやりすぎかなとは思いましたが。女子が抱えている問題については、どうして女子の中で話し合わなかったのかなと思いました。そういった点で、確かに細かいところを見るとどうなのかなと思うところもありますが、作者が「チームふたり」という言葉にこめて届けたいと思った気持ちは、子どもに届いたと思います。分量もこのくらいのものならば、最後まで集中して読めると思います。子どもたちが、こんなふうになったらいいなとか、こんなことを考えながら生きていくのが大事なのかなと思える本だと思います。

メリーさん:楽しく読みました。キャラクターの中では、お母さんが意外でおもしろかったです。中学年向けの読み物は、低学年の絵本、高学年の読み物と違い、読者の集中力が続く時間が限られているので、どうやったら読者を楽しませることができるかといつも考えます。おもしろくて、キャラクターが立っていて、しかも無理のない設定というのはとてもむずかしい。マンガなら多少の矛盾や破綻があっても、キャラクターに力があれば読めてしまいますが。この本は、きちんと人間を描こうとしていて、おもしろくしようとしているのがわかります。ただ、キャラクターの数はしぼってもよかったかも。表紙の絵がとてもいいので、目にとまると思います。

ハリネズミ:この作家は、文章、とくに会話にリズムがあっていいなと思いました。ただ内容的には、中学年くらい対象だと文章量が限られるので、そのなかでまとめるのは難しいとは思うけど、本のおもしろさが、ゲームのおもしろさやマンガのおもしろさに勝てるように、もう少しがんばってほしいな。最近はマンガを映像化してそれをまたノベライズしたような感じの作品が多くて、これもそんな感じがします。本ならではの世界を味わえるような作品がなかなか出てこない。この作品は今年の課題図書ですけど、キャラもステレオタイプだし、リアリティも弱い。いろんな人間を描こうとしてる努力はわかるんです。でも、7時に帰ってくるお母さんがお弁当屋の「残り物」をもらってきたり(お弁当屋さんって、普通もっと遅くまで開いてるから7時に残り物なんかもらえないんじゃないかな)、これほどまじめなお父さんが毎晩酒飲んでクビになったり(このお父さんのキャラだったら、翌朝の勤務があるのにそう毎晩お酒は飲まないでしょう)、純が自分の小遣いで大地に靴を買ってほしいと言いにきたり(大地が嫌がるはずだけどな)……えっ、そんな設定や展開でいいの? と思ってしまいました。感想文を書けるポイントはいくつもあると思いますが、子どもはこれを読んでちゃんと深く考えられるんでしょうか? それとも、中学年くらいが対象なら、これでいいんでしょうか? 私も小学生のころは、リアリティがそれほどきっちりしていない作品をおもしろく読んでいたのを思い出すと、これでいいのかな、とも思うし。その辺が、よくわかりませんでした。

ミラボー:『ゴールライン』とくらべると、家族でいつも行く宿があって、そこで卓球をやっていたのが、卓球に打ち込むきっかけになっているというのは、納得できます。たまたま荻村伊智朗の生涯を書いた『ピンポンさん』(城島充著/講談社)を読んでいて、卓球の試合の様子の描写を読み比べてしまいました。『チームふたり』は、子どもが読むにはこんなものかなと思いました。後輩との組み合わせで悩んだり、家庭のゴタゴタがあって苦しんだりしながら、最後には希望を持たせている点がいいと思います。高学年の課題図書なんですか? ちょっとそれは合わないような気がします。

マタタビ:中学年でもいいですよね。

ミラボー:前向きな、いい方向に話が進んでいくというのはいいけれど、深みはないですね。

ウグイス:この本も『ゴールライン』と同じように、本を読み慣れていない子どもに薦められるかな、と思って選びました。何といっても、外国ものより設定が身近で読みやすいという点がいいと思います。スポーツものといっても、ただ頑張って勝つというだけではなく、主人公が家庭内のことでも、女子部の問題でも、いろいろ周囲のことに気づきながら進んでいく様子が書かれていて、興味がもてると思います。ダブルスで組みたかった相手と組めなかった悔しさもよくわかるし、不本意なチームだったけれど、その子の良さもだんだんにわかって、最後にはいいチームに成長していくのも、わかりやすく納得できる。
あと、装丁がとてもよくて、おもしろそうだなと思わせるし、目次のデザインや、章の頭のピンポンのデザインもしゃれている。同年齢の子どもたちは、結構おもしろく読むんじゃないかな。ただ、皆さんがおっしゃったように、純が新しいシューズのお金を持ってくるというところは、そんなことをしても大地が喜ぶわけないとわかりそうなものなのに、と不自然に思いました。ところどころ問題はあるにしても、5年生のふつうの男の子をとりまくいろいろな問題をちりばめ、飽きさせずに先へ先へと読めるように書けているし、読後感も良いので、薦めたいと思います。

みっけ:さくさくと読めたのは読めたんですけれど、お母さんが専業主婦でお父さんがクビになって、というところで、え?と思ってしまって。あまりにも作り物めいているというか、なんというか……。それと、女子部のエピソードがいまひとつしっくりこなくて、とってつけたような感じがしました。さっきから皆さんのお話を伺いながら、この女子部のエピソードなしでは、ほんとうにこの話は成立しないのかなあ、と考えていたんですが……。年齢によって、書き込みすぎると対象とする読者層の力量を超えて、本来の読者層に届かなくなるということは理解できます。だから、この読者対象だと、それほど深みがあるという感じにならないのは致し方ないのかもしれない。そう思ったりもするのですが、やっぱり少し物足りない。それと、さっきさくさく読めた、と申し上げたんですけれど、唯一、三人称の「彼」にはひっかかりました。テレビでけっこう力作と思われるドラマのセリフに、太平洋戦争時の設定であるにもかかわらず、執事が若主人をさして「彼は」という台詞があったりするのを考えると、こういう本で使ってもおかしくないというのが今の流れなのかもしれないけれど……。30年くらい前までは、日本語で「彼、彼女」というと、たとえば恋愛関係にある相手を指すような、かなり思い入れのあるというか、特殊な言葉だったように記憶しています。それに、元来日本語では、三人称の人称代名詞をそれほど使わないという印象があります。誰かを指すときも、名前や人称代名詞を使わず、役割や役職といったもので代用することが多いように思うんです。「彼」といわれると、もったいをつけたというか、しゃっちょこばった感じになる。そういう印象があるので、子ども向けの本に「彼」が出てくると、あれ?と思ってしまう。こちらの感覚が古いのかもしれませんけれど……。

ジーナ:全体の構成とか、本づくりがいいと思いました。ちょっと納得できない部分もあるんですけど、主人公がパートナーの5年生の子のことや、お母さんの知らなかった部分を発見していくとか、今まで見えていなかったところが見えていくのがおもしろかったです。でも、文章がひっかかっちゃったんだなあ。59ページ7行目「『やった!』好物なので、大地は大声をあげた。」とあるんだけど、「やった!」で好物なのはわかるので、説明過多かな。ちょこんちょこんと、そういうところがありました。あと、小学生の子が、友だちに自分のお父さんのことを話すのに「おやじ」って言うのかな。ふざけて「父ちゃん」とかは聞くけど、「おやじ」って使いはじめるのはもうちょっと大きくなってからじゃないかな。

ミラボー:言う子もいるかな。

ジーナ:あと、最後が試合の途中で終わるから、成功しちゃったという嘘っぽさがありませんよね。最後がひらかれているのがよかったです。

ピョン吉(編集担当者):この作家さんは、『秋の大三角』(新潮社)で石田衣良氏が審査する新潮社エンターテインメント新人賞を受賞されました。児童書は初めてだったのですが、ご本人がずっとされてきた卓球を舞台に、友情や家族など、「ふたり」という組み合わせを描きたい、というところから始まっています。主人公と後輩の純、女子部の部長と副部長、父と母。うまくいく「ふたり」もあれば、平行線の「ふたり」もある。いずれにしても、努力を重ねたり、一方のことを思いやったりする気持ちがとても重要なのだと思います。その辺が、うまく伝わるといいなあと思いますね。先ほども出ましたが、スポーツ物をおもしろく描くときにスポーツシーンをどれくらいの割合入れるかという話ですが、ここでは、卓球をしていない子も楽しく読んでもらえるように調整した経緯があります。一部、ネットで「この作者はあまり卓球のことを知らないのでは?」などと言われてしまったようですが(笑)、そんなことはありません。でも、スポーツの上達の過程で、出来なかったことが出来るようになるというのは、読者にとって「快感」だと思うので、その辺は大切にしていきたいですね。

ジーナ:ラケットを見にいって、プレースタイルを探るというのは、へーと思いました。

ピョン吉:画家の方も卓球経験者で、細かいところまで目配りをしてもらいました。目次や中ページは、デザイナーさんもアイデアを出してくれたんですね。「『チームふたり』チーム」という感じで、本作りもおもしろかったです。

マタタビ:この本は、家の人と家族について話し合える本だなと思ったんです。家庭での読書の意義という点で考えると、家族にこんなことが起こったらどうする? とか、ストーリーにリアル感がないゆえに一種の抽象性みたいなところあって、かえって自分の問題として話がしやすいかもしれない。子どもたちで完結している物語ではなく家族の問題をからませることで、家族で読める可能性をもった本になったのでは。だれでも手にとって読めるという分量もいいと思います。

たんぽぽ:誠実なお父さんは、報われてほしい……。どんな形でも、特に小学生には、なんか納得できる、心におさまる、終わり方であったらいいなと思います。

ピョン吉:最近の児童文学では、「パーフェクトペアレンツ」という像がかなりくずれているので、これはまっとうな方の親かなと思いましたが。酒気帯びで自主的に辞めるというのも、実際の事例があったんですね。

ハリネズミ:そういう事例はもちろんあるでしょうが、事件があったときにこれほどまじめに対応しようとするお父さんが、クビになった同僚を心配するあまり毎晩酒浸りになり、その結果朝の検査で不合格になるなんていうのは、どうなんでしょう? 同じキャラとは思えない。私の中ではイメージが乖離しちゃってます。

マタタビ:大人はリアリティを読みますが、子どもたちは、筋とか流れを見ていくことが多いと思います。ある意味の抽象性というのも、どの子にも多少あてはまるといった共感性があるというのが強いですね。

ハリネズミ:小学校中学年のあまり本が好きじゃない男の子には、学校では何を薦めるんですか?

マタタビ:科学読み物ですかね。福音館書店の「どきどき自然シリーズ」とか。科学の秘密をわかっていくのは楽しい。「学校の怪談」とか「怪談レストラン」とかは、薦めなくても読んでいますから。本が好きな子は、少し部分的に読み聞かせたり、紹介すると「トガリやまのぼうけん」シリーズ(いわむらかずお作/理論社)や岩波おはなしの本なんかを読み始めていますよ。

たんぽぽ:「黒ねこサンゴロウ」シリーズ(竹下文子著/偕成社)や、岡田淳さんの本なんかを薦めると、もっと、読みたいと言ってくれたりします。

マタタビ:4年生は「パスワード」シリーズ(松原秀行作/講談社)やはやみねかおるの「名探偵夢水清志郎」シリーズ(講談社)、令丈ヒロ子さんの作品などを夢中になって読んでます。あと、やはりハリーポッターは絶大な人気ですね。

うさこ:これでいいのだろうかと思いつつ、作家さんの書く底力に疑問を感じるところもあって、みなさんがおっしゃるそのままが私の感想でもあります。でも、この作品で評価できるところは、ふつうの子を主人公にして、作品にしようとした点だと思いました。『チームふたり』というタイトルを最初見たとき、「劇団ひとり」のような、ちょっと皮肉ったタイトルづけ? おちゃらけているの? と思ったんですが、読み始めると、ストーリーはまじめに展開。出てくる子は、いずれも親や先生が理想とするようないい子ばかりで破綻がないので、読者はどこに共感してくれるのかなと思います。文章では、三人称の「彼は」が気になりましたね。

紙魚:最後に、読んでいない私が言えることなのですが、今回の選書3冊が並んでいたら、装丁で読みたくなるのは、ぜったいに『チームふたり』です!

(「子どもの本で言いたい放題」2008年4月の記録)


黄色いハートをつけた犬

ユッタ リヒター『黄色いハートをつけたイヌ』
『黄色いハートをつけた犬』
ユッタ・リヒター/著 松沢あさか/訳 陣崎草子/絵
さ・え・ら書房
2007

サンシャイン:正直、あまりよくわかりませんでした。グ・オッドがゴットなんだって後書きに書いてありましたが、どうもスッとは心に入ってきません。ロボコヴィッツは、神様のアンチテーゼ的存在として出てきたのかなとは思いましたが、関係性もうすっぺらな感じです。日本の子どもが読んで、この本を楽しめるのか疑問です。

マタタビ:創世記がもとになっているので、ヨーロッパの子どもにとっては示唆に富んだ話なのかなと思います。ロブコヴィッツって人の存在もおもしろいですね。ロボットではないのかな? この本は2回読みました。間にネズミとの戦いとか入ってくるんですけど、そうしたエピソードを入れた作者の意図はなんなのでしょう。だめだと思ったけど、立ち向かってみたらできたというイヌの成長? それとグ・オッドとロブコヴィッツの本筋とのあいだのからみがよくわかりませんでした。人が神様を待っている話っていうのはよくあるけど、これは神様が人を待っているっていうのかな。いまだに神の門は閉じているようなので、ある種の哲学書かな。今の子どもたちで、読める子がどれくれいいるんでしょう? 児童書という位置づけが適当なんでしょうか?

クモッチ:たしかに、だれに向けて訳された本なのか?という疑問が浮かぶ本でした。「だれにも愛されない犬が、子ども二人に心を開いて、かけがえのないものになっていく」っていう筋が一つあるけれど、読み進めていくと、どうもそれがこの物語の本筋ではないように思えます。犬が語る話が、後半ボリュームを増していくので。で、こちらの話が、犬が本当に経験した話なのか、犬の創作した話なのか、わからない。読者が立ち位置をどこに置いたらいいのか分からない感じがします。そのため何度か前に戻って読んだりしたのですが、疑問が渦巻きました。

ジーナ:ロッタの視点で物語が始まったかと思うと、次にノイマンぼうやの視点に移り、次に犬になりと、だれに寄り添って読み進めればいいか、わかりにくかったです。私はあとがきを先に読まなかったので、犬の語る物語が始まったところで、「この本は、犬の話すとてつもないファンタジー、おかしな人物を楽しむ本か」と思ったのだけれど、だんだんその内容が難しくなってきて。ロッタ自身の葛藤はあまり描かれていないので、中学年向けくらいの本かなと最初思ったけれど、犬の話を読むと高学年でないとわかりそうにないし、視点をずらしていく構成はかなり大人っぽい。でも、高学年にしても、この文体はかたくて、難しいと思いました。もしかしたら原書は、それぞれの人物の語り口がすごくおもしろかったりするのかなとも思いましたが、わかりませんね。

たんぽぽ:大人が読む分には、最後まで読めたけど、子どもはロブコヴィッツが出てくる時点でやめるだろうなと思いました。酔っ払いの3人が出てくるのが、ほかのコピーだったらよかったのになって。最後読みおわって、なんだか欲求不満でした。

ハリネズミ:これは寝る前に読む本にしてたんだんだけど、すぐ寝ちゃうのね。ぜんぜん進まなくって。それで、ちゃんと机に向かって最後まで読んだんですけど、疲れましたね。日本で出すんなら、もっと編集や翻訳の人が工夫しないと無理ですね。日本の子どもに届かない。この本、二人称がみんな「あんた」なんですよ。幼いノイマンぼうやが犬に「あんた」って言うんです。ドイツ語のduをすべて「あんた」にしちゃったのかな。さえらの本って、科学書はいいのに、物語はもう少し工夫してほしい、と思うことがよくあります。グ・オッドは、G.Ottなんですね。原書では明らかに神を示唆する言葉ですが、グ・オッドじゃあ日本の子どもには伝わりません。お酒の名前がいっぱい出てきますが、キャンティはチャンティになってるし……読んでいくうちに、変だな、と思う気持ちばかりがふくらんでいきました。

クモッチ:結局、だれに向けた、なんの本なんでしょうかね?

マタタビ:黄色いハートに意味があるんだろうな、だれかのオンリーワンになれるという話なのかなと思ったら、そうでもなくて。

ハリネズミ:もともとの本がこうなんでしょうか? それとも日本語版の問題なんでしょうか?

マタタビ:今回の3点のうち、この本だけは犬の視点ですよね。

クモッチ:おじいちゃんが、ロブコヴィッツを知ってるんですよね。ここで犬の世界とシンクロしている? その意味も知りたいですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年3月の記録)


きいてほしいの、あたしのこと〜ウィン・ディキシーのいた夏

ケイト・ディカミロ『きいてほしいの、あたしのこと:ウィン・ディキシーのいた夏』
『きいてほしいの、あたしのこと〜ウィン・ディキシーのいた夏』
ケイト・ディカミロ/著 片岡しのぶ/訳 津尾美智子/絵
ポプラ社
2002

ハリネズミ:これは前からとても好きな本なんです。この年齢の子ども向けの本としては、まれにみるよくできた本。何度読んでも、やっぱりいいなあと思います。まず、訳がすごくうまい。原文にもユーモアがあるんでしょうけど、それをうまく訳しているので、日本語でもちゃんと伝わってくる。図書館に熊が入ってくる話もおもしろいし、ウィン・ディキシーも、にやーっと笑ったり、くしゃみをしたり、仲間はずれが嫌で割り込んできたりする、おもしろい犬。グロリアとかオティスとかミス・フラニーとか、どこか奇妙な登場人物が出てきますが、その人たちのこれまで生きてきた人生っていうのを感じさせる書き方もすごいですね。主人公の少女は、引っ越してきたばかりで友だちもいないし、母親の不在も抱えて不安なわけですけど、ウィン・ディキシーを介していろいろな人に出会って成長していきます。そうした核になるストーリーは比較的単純ですが、登場人物のそれぞれが短い会話や言葉で浮き彫りになるような書き方をしている。人生経験を積んだ老人たちの知恵ある言葉にも含蓄がある。雷が鳴ってウィン・ディキシーがいなくなってしまったと読者も心配しますが、最後に絆がいっそう深くなるという終わり方もいい。文学として、とてもよくできていると思います。このページ数で、これだけの深みがある本って、ほかにはなかなかないですよね。

ジーナ:本当に楽しめるお話でした。片岡さんの訳がとてもうまい。日本人が日本語で書いたみたいに。要所要所の言葉も味わいがあって、p.95の、人のことを過去ではかっちゃだめ、こんな人と決めつけてはだめというところなど、心にひびきました。「あの本に、こんな言葉があったな」と、あとで思い出す本になりそう。一人一人の人物が、ストーリーのためにいるんじゃなくて、それぞれ生きて、とてもよく描かれていますよね。ただ、題名がちょっと残念かな。「ウィン・ディキシーといた夏」というと、ウィン・ディキシーが最後にいなくなっちゃうみたいだし。もうちょっと内容がわかる、手にとられやすいタイトルがなかったかなと。

クモッチ:わかりやすくよくまとまっていますね。長くなりがちな作品群の中で、この長さで感動が得られるいいお話を読めるというのも、いいなと思いました。好きだったシーンは、お父さんと女の子がウィン・ディキシーをさがしにいったところで、お母さんのことを話すところですね。「お母さんをとめなかったんでしょ?」と女の子も本音をお父さんにぶつけ、お父さんも、「お母さんは、もうかえってこないとわかったよ」と、女の子に自分の気持ちをはっきり伝えます。きちんと向き合う場面があるのがいいなと。また、このシーンは、犬がいなくなってさがしている間の会話で、オーバーラップのさせ方も、わかりやすいと思いました。

マタタビ:とてもあたたかい気持ちで読み終われて、いい本でした。登場人物それぞれが、どっかにからっぽの場所を持っていて、そのからっぽの場所を、ウィン・ディキシーと主人公がかかわりあっていくお互いの関係の中で埋められていくっていうのがいいなって。ジグソーパズルがくっついていくみたいに。それぞれの大人がとってもよく書けています。きれいごとではなく、言わなきゃいけないことがちゃんと書かれている。アメがね、おもしろいなって。アメが隠し味になって、だれもが持っているそういうものを引き出していく。心憎い使い方をしているなあって。片岡しのぶさんの訳だったので期待していました。ディカミロは前に『ねずみの騎士デスペローの物語』を読んで、ぴんとこなかったんですけど、今回はすばらしかった。

サンシャイン:私も今回の3冊を比べると、いちばん社会性が出ていて好感をもって読みました。『ベストフレンド』がほぼ自分の心だけの話だったのに比べて、父子家庭できちんと娘に相対していないお父さん、南北戦争の歴史的なこと、魔女と呼ばれているけどいいおばあちゃん、牢屋に入れられたことがあるギターがうまい青年など人物や状況が生き生きしています。主人公が世の中で生きている存在っていうのが、よく描かれていると思います。犬が人間の友達っていう物語はアメリカですからきっとたくさんあるんでしょうけど、いい読後感でした。題名のBecause of Win-Dixieというのは、どういう意味ですか?

ハリネズミ:ウィン・ディキシーをきっかけにして、変わっていけたっていう意味でしょうか?

サンシャイン:最後にオウムを含めてみんな登場するっていう、お話の終わり方もうまいと思います。

クモッチ:91ページ グロリアさんの家に木があって、あきびんをつるしているって。こういうことする人って、普通いるのかしら。やっぱりアメリカでも変なことですよね。

ハリネズミ:変というか個性が強いから、魔女って言われてるんでしょうね。

マタタビ:日本でも、犬と一緒に散歩してると、友達になるっていうのがありますよね。オウムのガートルードもいいんですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年3月の記録)


ベストフレンド〜あたしと犬と!

堀直子『ベストフレンド あたしと犬と!』
『ベストフレンド〜あたしと犬と!』
堀直子/著 ミヤハラヨウコ/絵
あかね書房
2006

サンシャイン:繊細な女の子でね、飼っていた犬のライオンが死んでつらい気持ちは、よくかけてるんだろうなと思いましたが、あまりにも社会性がないのが残念。作者自身の経験をもとにって書いているのはよくわかって、悪く言うのもいやなのですが、作品としては成熟していない所が目立ちます。ライオンに似ているコウチャを自分のところにおきたいと思いつつ、預かっているだけだからと心を抑える所は、良く書けているとは思います。だけど、コウチャを見て車椅子の男の人が立ちあがるっていうのが、ちょっとやりすぎというか、正直うそくさいと思ってしまいます。

マタタビ:作者の犬に対する思い入れがすごく強いんだなって、感じました。犬を失った喪失感はよく書けてているなって思いました。ストーリーとは関係ないんですけど、こういう本を子どもが読んだとき、捨てられる犬を処分する施設を子どもは悪いところだと思ってしまうんじゃないかと心配です。そういう仕事に携わる人の尊厳にもかかわるので、短絡的にとらえてしまうんじゃないかとひやひやするところも。その辺の痛みをどのくらい感じながら、書いたのでしょうか。

クモッチ:今おっしゃったところは、45ページですね。最近のお話は、こういう立場の人の苦しい気持ちっていうのも、きちんと書いているものが増えていますよね。ここに登場する遠山さんも、救える犬は救いたいというスタンスで描かれていますね。

マタタビ:今の子はわりに表面的に読むので、読んだあとは話し合いをしたほうがいいかなと思いました。

クモッチ:処分されてしまう犬のことを扱った話は、ノンフィクションではよく読みますが、これは、フィクションですよね。事実を伝えようとするために、お話がどうしても中盤以降説明的になって、お話そのものの楽しさより、事実がそうなんだという流れになってきてしまっています。フィクションなら、多くの関係者のそれぞれの気持ちを描く、ということが自由にできると思うのですが、このお話の場合、千織ちゃんがひきずっている気持ちっていうのが、悲しい、悲しい、という一辺倒になってしまっているようで残念。フィクションなんだからうまく表現して、もうちょっと奥ゆきが出ると、この作品の意味ももっと出てくると思いました。脇を固める、お父さんとお母さん、えりかさんの描き方も、創作ものにする以上、奥行きをもたせたいなあと思いました。

ジーナ:この本が伝えたいメッセージは、はっきりしてますよね。だけど、この作品でスッと伝わってくるかというと、疑問でした。最後にコウチャを飼いたがっているおじさんが立ち上がるシーンを含めて、都合よすぎる感じがするところが多くて、物語を楽しめませんでした。それが残念。文章も、ときどき引っかかるところがありました。

ハリネズミ:日本語が素人っぽいなと思いました。書き出しの「ぶどう色の空が、ほうきではいたように、しゅっしゅっと明るい白味を増していった頃」も、あれっと思ったし、随所に「翔馬が髪をかきむしった」なんていう陳腐な表現も見られます。台詞にしても、エリカの人物造型と「きゃーすてき」なんていう台詞がちぐはぐ。捨て犬の保護活動をしている人たちの様子については、よくわかったし、千織が回復していく様子もわかりやすい。おしっこをさせるシーンなど、実体験に沿ったことは、とてもよく書けている。犬の本や猫の本って、客観性を失ったまま書く人がいると思うんですけど、この本も全体の印象はそんな感じでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年3月の記録)


一億百万光年先に住むウサギ

那須田淳『一億百万光年先に住むウサギ』
『一億百万光年先に住むウサギ』
那須田淳/著
理論社
2006.09

サンシャイン:よく知っている場所が舞台なんで土地勘があって楽しく読めました。かわいらしい感じですね。話題があちこちに飛んでいって、一つ一つのことについて蘊蓄を語るという進み方をしています。前半は、あっち行ったりこっち行ったりして、後半、話のテンポをあげて終わりにもっていっているという書き方をしています。

メリーさん:楽しく読みました。全体を通してさわやかな印象なのですが、それぞれのエピソードについて、もう少し読みたいなというところで終わってしまうのが残念でした。エピソードをしぼって書き込むか、人物のドラマに焦点をあてるかのどちらかにした方がいいなと思いました。

ウグイス:ウサギのイメージだとか、恋樹(こいのき)のエピソードだとか、アムゼル亭とか、心ひかれるイメージは出てくるのですが、中学生の少年少女はどちらかというと脇役になっていて、おじさんおばさんの青春時代の謎を解説されるのを聞くというスタンスのように思いました。語り手は中学生だけど、中学生が読んでおもしろいと思うのでしょうか? かゆいところに手が届かないというか、大人の側から自分たちが過ごしてきたものを伝えようとする気が強すぎると思う。ドリス・デイの歌とか、コーヒーへのこだわりとか、今の子どもたちにも魅力あるものとして提示されてはいないような気がします。いろんな人物が出てくるのですが、その人たちは物事を「解説」するために出てくるんですよね。だから、出てくると滔々としゃべる。喫茶店の先代のマスターなんかも、突然出てきてしゃべるしゃべる。だから、リアリティのある生きた人物としての魅力が今ひとつ感じられませんでした。最初の方に出てきた恋樹の、文通相手もわりあいあっさりと明かされてしまう。いろんな秘密がにおわされて、ちょっとひきつけるんだけども結局たいしたことなく終わってしまい、はぐらかされた気分。自分の中にあとになってまで残る作品ではないと思いました。

みっけ:私の心の表面をつるつるつるんとすべっていって、どこかに消えちゃった、という感じでした。食い込んでくるものがない。前にこの会で同じ著者の『ペーターという名のオオカミ』(小峰書店)を取り上げたときもそう感じたんだけれど、これが書きたいんだ!という勢いみたいなものがなく、おぼろな幕の向こう側であれこれやっているなあ、という感じで終わってしまった。途中から、我慢できなくなってぴょんぴょん拾い読みになってしまいました。同じ湘南を舞台にしたものでも、たとえば佐藤多佳子さんの『黄色い目の魚』(新潮社)の方が、ずっと生き生きとした青春ものになっている。ウサギが出てきたり、あれこれ工夫しているんだろうなあ……という気はしたけれど、ぴんと来ませんでした。

紙魚:じつは、今月の本を選書していたとき、日本の作品だけがなかなか決まりませんでした。確かに、ほかの2作品との共通性がないかもしれません。ただ、あまり古い作品にもしたくなかったので。この本に感じたことは、青春のイメージがパッチワークのように紡がれてはいるのだけれど、そこにひそむ汗とか体温とか、友情とか裏切りとか、また自分のなかでの悩みや葛藤というような、生の感覚があまり伝わってこないということでした。この本は、中学校の課題図書に選ばれているんですよね。もし私が中学生で、この本の感想を書けと言われたら、何を書けばいいんだろうって困ったと思います。

ジーナ:なかなか好きになれなくて、最後まで読むには読んだのですが、中に入れませんでした。というのは、主人公の中学3年生の男の子が語るんですけど、口調が中学生じゃないみたいなんですね。私も翻訳したものを、「あなたは中学生のつもりで書いているんだろうけど、それはつもりなだけ」と編集者から注意されることがあるんですが、そんな感じ。中学生がサンドイッチについて「ニンニクとオリーブで香り付けられた鶏肉は、かむと肉汁がはじけ、バジルの葉とレタスが先に吸収していた油とマヨネーズと溶け合う」なんて蘊蓄たれる? 中学生と言えば、受験のことや学校の友だち関係とかいろいろあるだろうに、同年代で関わるのはケイちゃんぐらいで、その辺はあっさりしている。人物の魅力に欠けるのかな。日本のヤングアダルト作品にはなかなか大人が出てこないけど、これは大人ばかりが出過ぎている感じ。マンガ本の蘊蓄はすっと読めるけれど、この本に出てくる芸術や音楽の知識は、教えられているようで、いまいち惹かれない。趣味の問題でしょうか。多くの子が共感できる本ではないと思いました。

げた:舞台が鎌倉で、登場人物もそれなりに魅力的でかっこいい感じなのだけど、私自身は、いまひとつ中に入りこめませんでしたね。今日読んだ3冊の中では、この1冊が異質だと思うんですが、「いいかげんな大人たちに翻弄される子どもたち」というあたりでつながってるって感じかな。タイトルが謎めいていて装画もいいから、とっかかりはいいので、手にとられやすい本だと思います。

ききょう:課題図書になっていたので前に読んでいたはずなのですが、私もけっこう読むのが大変でした。那須田さんがもっている趣味をいかして書きたかったのでしょうか。物語の勢いのようなものが感じられないし、ストーリーでも人物でも読めないので、目の前のコーヒーのいい匂いだけ嗅がされている感じ。私も教員なので、どうやって子どもたちにアピールしようかなと思うのですが、中に出てくるのが意外と渋いディテールなので、子ども達はここから新しい世界を見ていくのかもしれないとは思うけど、私も中学の課題図書にはきついかなと思います。ストーリーの一貫性みたいなものも感じられませんでした。

もぷしー:大人がノスタルジーを集めて、それに社会的な問題も加えてまとめたような印象を受けました。これを子どものための本とするのかどうか、読み物としておもしろいのかどうか、という二つの視点があると思います。子どもの本と考えたとき引っかかるのは、会話の口調。「〜なのだ」は、中学生とも思えないし、大人でも使わないような、ある意味正しすぎる日本語。言葉の表現にリアルさが感じられず、入り込みにくかった。歌の「ケセラセラ」も、繰り返し使うモチーフとしては、子どもには遠い存在だと思う。児童書としてではなく、物語としてどうかというのは趣味の問題だけど、まとまりがなかったのが私には読みづらかった。ウサギだとか恋樹とか、アイテムはたくさんあるのだけれど、かなり早い段階で種明かしされて置き去りにされている。もっと引っぱりたければ、ここまでの長編にせずにまとめた方が楽しく読めたかもしれない。

ハリネズミ:途中までしか読んでいないけど、会話にはすごくひっかかりましたね。著者はドイツにずっと住んでいたようなので、自然な日本語から離れてしまったのかな。これだと、抽象的な会話に感じてしまいますね。

紙魚:たとえば、村上春樹の小説などに書かれている会話は、現実に話されているような会話ではないのだけれど、ある独自の世界として成立しているからリアリティを感じるときがあります。もしかしたら、この本では、そういったところがちぐはぐなのでしょうか。

サンシャイン:私はこの感じ、芥川賞作家の保坂和志の作品に似ているなと思いましたね。鎌倉という舞台も一緒ですし。

ききょう:ケイちゃんは、学校では特異な存在のはずなのですが、あまりそういう感じがしないですよね。

うさこ:私は好きな物語でした。物語にいる居心地のよさのようなものを感じました。バランスがいいというか、大人の存在がとてもきいているというか、中学生の存在を守りながら自立性に向き合う姿に好感がもてました。大人たちもバラエティに富んでいるし、おおげさではなく、ある日常のこととしてドラマが展開されていく。長いけれど破綻がない。ウサギや歌などのアイテムがうまくからみながら、それぞれのエピソードや景色が描かれていたと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年2月の記録)


ジャック・デロシュの日記〜隠されたホロコースト

ジャン・モラ『ジャック・デロシュの日記』
『ジャック・デロシュの日記〜隠されたホロコースト』
ジャン・モラ/著 横川晶子/訳
岩崎書店
2007.07

げた:衝撃的でした。16歳の女の子が彼氏のひとことから、痩せなきゃという思いでダイエットが始まって、それがおばあちゃんの死、日記との出会いによって、空白を埋めるように過食になり、自分より前の世代の荷物を背負って立ち向かっていく姿は、悲惨ではあるけれど、一方、なんとかしようと立ち向かう気持ちは健気ですごいなと思いました。それから、日本でも、戦争の加害者としての立場から描いた児童文学が、七三一部隊関連でありますが、少ないので、そういった意味でもすごいなと思いました。デロシュの日記の中で、民族の優位性を保つ考え方にもあらためて恐怖を感じました。

ききょう:読めるかなとどきどきしながら読み始めましたが、結局一気に読みました。加害者側がどんなことを考えて向かっていったのかということを知る貴重な体験でした。日本では、松谷みよ子さんの『屋根裏部屋の秘密』(偕成社)などが定評がありますが、それくらいですね。本人が祖父を告発していくところに凄さを感じました。自分が何かの事実を背負ったときに、とどめておかないでアクションに結びつけていくーー若い人の事実と向き合ったときのエネルギーの凄さを思いました。最近、ナチスに関わった87歳の老人が逮捕された報道がありましたが、戦争は終わっていないのですよね。

サンシャイン:いやあ、相当驚きました。フィクションだとすると、すごくよく考えていて、作品としての完成度が高いです。まさかこの日記の筆者が、あの人であったとは気づきませんでした。そこにたどり着いた時の驚きを思い出します。ホロコースト文学といっていいのでしょうか、こういう形で言葉で告発するとは! ノンフィクションではないかたちで読ませてくれた、みごとな作品だと思います。作者はフランス人ですよね。

メリーさん:ホロコーストという大切なテーマを扱いながら、本として謎解きのおもしろさもあって、一気に読んでしまいました。これからもくりかえし伝えていかなければならない問題だと思います。一方で、主人公の少女が最後に祖父を断罪する場面ですが、フィクションなだけに、この結末はできることならば著者と相談したい所でした。時代の波に翻弄されながらも、罪を背負って生きることを選んだ一人の人を、現在の人間がはたして裁くことができるのか? 少女の心情は一方的ではなかったか? 死ぬことより、生きることのほうがつらいはずのこの世界で、未来につながる結末にしたほうがよかったのではないかと思いました。「シンドラーのリスト」や「硫黄島からの手紙」など、映画もいろいろ思い出した本でした。

ハリネズミ:おじいさんの日記の部分と、少女の視点で語られている部分の、書体がかえられていて読みやすかったです。歴史に関する注も日記の部分の下側に入れられていて、工夫されているなと思いました。時間が行ったり来たりするので、読み慣れていない子どもには難しいかもしれないけれど、読み慣れている子にはそこが逆におもしろいかもしれません。ナチスについてはいまだに関係者の捜索や逮捕が行われているんですよね。そういう意味でも、必要な本だと思いました。ただ読んでいる間ずっと苦しかったですね。主人公の少女は、苦しいままで快復してはいかない。最後までつらいままです。おじいちゃんを一直線に断罪するわけですが、そこには自分がもし同じ立場に置かれていたら、という想像力は働いていない。それも読んでいる側にはつらい。おじいちゃんにだって歴史の中で翻弄された被害者という側面もあるはずなので、そういう部分がもし書かれていれば、文学としてのふくらみももっと出たんじゃないかな。

ウグイス:歴史の事実を若い世代にどう伝えていくか。主人公の年頃の子どもたちにとって、決して遠いことではなく、今の自分とつながっているのだということをいかに伝えるか。それを小説というかたちで非常にうまく提示したひとつの見事な例だと思います。題名が重いのだけれど、最初、現代の女の子の苦しみがリアリティをもって書かれているので、ぐっと惹き込まれていく。その子の大好きなおばあちゃんの過去をどんどんさかのぼっていくという手法が、とてもうまい。いきなりホロコーストといってもぴんとこないところが、摂食障害というところから上手に入っていって、一見なんの関係もないと思えたことが関係あると思わせていくのは、構成の力ですね。最後のおじいちゃんへの断罪は、小説としては成功していると思うけど、子どもにどういうふうに薦めたらいいのかと考えたときには、薦める子を選んでしまいますね。大人として読むには価値があるけど、子どもに対しては、注意深く考えなければいけない作品。それから、過食症は自分が大人になりたくない人がなると書いてありましたが、事実なのかしら? 摂食障害の部分は、読んでいて苦しかった。

みっけ:英語の児童文学を見ても、児童文学の書き手たちが、第二次大戦やホロコーストなど放っておいたら風化してしまう事柄をなんとか今の子どもとつないでいこうといろいろな形の作品を試みています。この本もそういう1冊なんだなあ、と思いながら読みました。ホロコーストを加害者の側から伝えている部分は、読み手に非常に重たいものを突きつける形で、とてもよく書けているなあと思いましたが、ちょっと気になったのが、摂食障害とそういうふうにうまく(というのは言葉が変かもしれませんが)リンクするのかなあ、という点でした。ちょっと安直に見えなくもない。摂食障害の子が自分を振り返って書いている文章だから、この子のなかではこう整理されているのかもしれないけれど……。でも、こういう子だからこそ、おじいちゃんを自殺へと追いつめる流れに説得力があるような気はしました。正直、摂食障害を患ってきた子、今もその傾斜を残している子の一人称で書かれているために、全体が非常にがりがりした印象になっていて、読むのはきつかった。
フランス映画にも、こういう精神的にかなり追い詰められた人の心をずっと追っていくというタイプの作品がありますけれど、このとがり方は、ああフランスだなあっていう感じがしました。この子自身が、自分はおじいちゃんやおばあちゃんのことを尊敬し親しみを持っていた、というようなことを書いているわけだけれど、それだけでは読者のイメージは今ひとつふくらまない。徹頭徹尾一人称ではなく、たとえば冒頭にでも、この子が摂食障害になる前のおじいちゃんやおばあちゃんとのエピソードがさらっと置かれていたりすれば、それだけで読者のイメージがふくらんで、摂食障害のことも説得力が増したのではないかと思います。こういう子だから、おじいちゃんを追い詰めることにもなったろうし、おじいちゃんがそれでも生きなければならなかったというところまでは思いが及ばなかったんだろうと、そこは納得できるんですが。

ハリネズミ:私が知ってる摂食障害の子は、自分には厳しい目を向けても、他者にはやさしいですよ。

みっけ:でも摂食障害は、アグレッシブな行為が自分に向かっているという意味ではアグレッシブであることと無関係ではないし。この子の場合、摂食障害という形で自分に対してアグレッシブなだけでなく、両親への見方や恋人への見方や店屋での態度など、他人に対してもかなりアグレッシブな気がします。これは、おじいちゃんを責めたのが正しいとかいうことではなくて、そういうアグレッシブな子だから、おじいちゃんをああいうふうに責め立てるという展開も納得できる気がしたんです。

ウグイス:この子が摂食障害ではなければ、こういう結末にはならなかったということ?

みっけ:摂食障害だからこうなったという因果関係ではなく、この子の有り様からして、摂食障害にもなるだろうし、また、おじいちゃんを追い詰めることもするだろう。そういう意味で、この本で語られていることから見えてくる主人公の造形とさまざまな出来事とがきちんと結びついている、と思ったんです。ある意味で、おじいちゃんに対してこれだけ面と向かって攻撃性をむき出しにしたことや、自分のこれまでを振り返ってこういう手記を書いたこと自体、この子の治癒への可能性を予感させるもの、といえるのかもしれませんね。

紙魚:私も、結末についてはええっと驚きましたが、フランスってもともと、児童文学というジャンルが薄いですよね。なので、これは子ども観、児童文学観の違いなのかなと思いました。以前、松谷みよ子さんの『屋根裏部屋の秘密』をとりあげたときに、フィクション部分とノンフィクション部分が乖離しているというような感想が出ましたが、あれは、あの時代に児童文学として七三一部隊をとりあげたということを評価するべきだと思います。ただ、この作者は、主人公を拒食症にすることによって、そのあたりをうまく融合させています。文学として進化を遂げているように感じました。それから、『フリーダム・ライターズ』もそうなのですが、痛みを持っている人は、やはり痛みへの共感があって快復をとげていくと感じました。この主人公が健康な体だったら、ここまでの物語になったかどうか。フィクションのもつ力を感じました。それから、地の文と日記文の書体の使い分けや、注釈の入れ方など、編集がゆきとどいて、とても読みやすかったです。

ジーナ:ハードな内容にもかかわらず、一気に読んでしまい、物語の力を感じました。拒食症についての記述がリアルかどうかはわからないのですが、主人公の、大人に理解されていないという気持ちが、万引きの場面とかでまず出てきますよね。そういうことって、この年代の子はみな持っていると思うので、読者は主人公に心をよりそわせて、物語に入っていけるのだと思います。原題は「ソビブル」なんですよね。日本語でも、ふしぎな秘密めいた響きがあって、ストーリーの中で生きていますね。ふつうに生活していたら知らないでいたことに、本を通して目を開かされるというのがいい。主人公がぼろぼろになるまで向き合った事実に、読者も向き合えて。繰り返し語っていくことの大事さ、本の中で過去の事実を知らせていくことの大事さを感じました。本づくりのよさにも感心しました。書体も行間も、とても読みやすかったです。

うさこ:衝撃的な内容で、読みながら自然と力が入っていきました。ずっとひりひりしながら読んでいました。自分がこの女の子だったらどうしただろうか、おじいちゃんだったら、おばあちゃんだったら、家族だったら、万引きした店の店長だったらと、登場人物一人一人と自分とを照らし合わせるのがすごくひりひりして、こわい作業でした。戦争だったから仕方なかったんだ、この時代ではしょうがなかったんだというような言い訳は通用しない、ということを作品のなかできちっと言っていて、じゃあ、この異常な社会のなかで個はどう生きればいいのかという自分への問いにぶつかりました。これはすぐに答がみつかるものではないけど、自分のなかにすえておいて、これからも考えていくことが大事だと思います。そういう風に読み手に投げかけるところなど、この本は文学の力が強い。作者が難しいテーマに対して工夫しながら、一歩もひかずに書いた姿勢がいい。日記を読んでいる気分になるというところは、編集の工夫だなと感心しました。

山北(担当編集者):私自身、だれにでもお薦めするとは言い切れない本かもしれません。ラスト部分を読者がどう受け止めるか、とても気にかかります。一人称で一方的な見方に引っぱっておいてそのまま終わるというやり方は、日本児童文学的に期待されていないことでもあるので、どうなんだろうと考えたんですね。けれど、エンディングに賛否はあっても、この本にはすごい価値があると思いました。被害者ではなく、加害者の側から書いている文学であるというところ。そして、フィクションの中でホロコーストを追体験させ、人道問題に対する普遍的な理解へ導いているというところ。作者は、安全圏にいようと思ったらできないようなこともいっぱいしていると思うんです。直接体験をしていない人がミステリータッチでホロコーストを書くということは、責められたりもしていると思うんですね。それをおしても出版するだけのきちんとした下調べとメッセージがつまっている本だと思います。
上手く描かれているなあと思うのは、死や他人の感覚に対して無感覚になっていくことの怖さ。読者も、デロシュの日記を読んでいるうちに、初めは信じられないと思っていても、人の死や、感覚を遮断することに慣れていってしまう。その怖さを感じました。もともと原文も、淡々とした文章で書かれているのですが、それを翻訳でも表現していただくようにしました。
エンディングについての解釈ですが、私はおじいちゃんを糾弾するエマの姿は、おじいちゃんに重なっていると思っています。ジャックは、任務だと思って、ある種使命感に基づいて無感覚に人を殺していく。エマも、おじいちゃんは罪を償うべきだという自分の見解を疑うことなく、使命感に基づいておじいちゃんを追いつめる。結果、おじいちゃんを殺してしまう。おじいちゃんもそうですが、エマもこれから、自分のしてしまったことを背負って生きていかなければならないという暗示があるのでは。愛読者カードが大人からしかこないので、子どもがどういうふうに読んでいるかはわからないです。ちなみに、14もの海外文学賞と帯に書きましたが、そのうち3つは、学生が選ぶ賞なんですね。私はそこにすごくひかれました。フランスでは、この作品は子どもの心にも添っていたのだと思います。
編集的なことでいえば、エマの語り部分は極力リズムをくずさないため注などつけないようにして、日記に関しては、注のせいで集中がとぎれないようにと、注は同ページの下に設けました。訳注なんかもかなりつけています。調べていくうち、デロシュという人物はフィクションなのですが、各収容所で働く人物などは大方が実在人物なのだとわかりました。現在は行方不明という人や、逮捕された人もかなりいらっしゃいます。実際にあった出来事を物語にした作品ということで背筋をのばして編集したので、相当手間がかかりました。つねに一気読みという感じで、内容も心に突き刺さるようなので、本当にへとへとに。参考資料に書いてありますが、『ショア』は、8時間半におよぶホロコーストに関するインタビュー映画です。お薦めします。

サンシャイン:『マグヌス』(シルヴィー・ジェルマン/著 辻由美/訳 みすず書房)はご存知ですか? 同じくフランスの作家の作品です。フランスの高校生が選ぶ高校生ゴンクール賞を取ったんですが、おそらく、とても日本の高校生が読めるとは思えない。日本では、大人が読む本と位置づけられるでしょうね。

メリーさん:この本のドイツでの反応はどうなんですか?

山北:そこまではわからないですね。日本語版を出した当時は、まだドイツ語には翻訳されてなかったと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年2月の記録)


フリーダム・ライターズ

エリンとフリーダムライターズ『フリーダム・ライターズ』
『フリーダム・ライターズ』
エリン・グルーウェルとフリーダム・ライターズ/著 田中奈津子/訳
講談社
2007.06

ハリネズミ:この本の構成が最初よくわからなかったんですね。「日記へ」という言葉があるんだけど、これはなに? 先生が何か書いて、それを受けて生徒が日記へとつなげていくってこと? 日記を書いている一人一人全部違うのか、同じ人物もいるのか? どうまとめていったのか? など、頭の中に疑問符をうかべながら読んでいきました。最後まで読むと、全部違う生徒が書いていることはわかりましたが。もう少し最初に説明が会った方がわかりやすいと思います。内容的には、『ジャック・デロシュの日記』とは反対に、みんな希望を見つけていくんですね。その希望の見つけ方も150人それぞれで、大きくジャンプして希望が見えてくる子もいるし、表向きは変わらないけど自分を再確認することによって希望を見いだす子もいる。そして途中には、だまっていないで声をあげることが大事というメッセージが流れている。
教師ががんばって、だめな生徒たちやクラスを立て直して行くという話はよくありますが、これは生徒の側からの直接の声が聞こえるのでいいですね。これは翻訳だからしょうがないのだけど、原文だともっと口調にそれぞれの子の特徴が出てるんじゃないかなと思います。この訳はわかりやすいし、少しずつ変えて苦労しているのは見えるんですけど、言い方の違いみたいなことまで出して行くのは難しい。だから、5人くらいが交替で書いているのかな、と最初に思っちゃった。
私が個人的に引っかかったのは、ホロコーストに関する部分です。340ページに「第二次世界大戦〜いかに似ているかを学んだ。〜訴えていることも知った。」とありますが、意地悪く見れば、このユダヤ人の先生は、現在のイスラエルが加害者になってしまっていることまでは、生徒たちに語っていないようです。それによって、この本が伝えんとする一種の理想主義がちょっと薄っぺらくなってしまっていると、私は思ったんです。あとね、今のアメリカの貧困地域の公立学校の実情が、この本を読むとよくわかりますよね。

山北:私は『ジャック・デロシュの日記』のときに、ミステリータッチのフィクションで重い問題を扱うことに不安と迷いを感じていたので、どんなテーマであれ、この本のように本物であるということは説得力があるなあと思いました。読み始め、この本がどういう構成なのかわかりにくかったので、先に説明があった方がすっきりするタイプの本だと思います。日本版を刊行するにあたって、冒頭の「覚書」あたりに日記プロジェクトの説明を加えていたら、もっと身を入れて読めたように思います。日本人はアメリカの高校生っていうと華やかな部分を想像すると思うので、スラム街でいろんなことをあきらめている人がいることを知るだけでも重要。日本で虐待に遭ったりチャンスをもらえないでいる子たちにも意義ある本になると思う。日本だと、つらい目に遭っているこの比率がここまで高くないので、周囲に相談を持ちかけづらいと思うんですね。その子たちに、150とおりの問題、その解決のヒントが届けば意義深いと思いました。生徒自身が、それも日記という個人的なものに書いた文章であるだけに、読者もかまえがとれると思うんですね。読後感もよかったです。

メリーさん:アメリカらしいサクセスストーリーで、とてもおもしろかったです。文章で自分を表現できるということを知った時の、子どもたちの姿がとても素敵でした。「書く」ということは、「話す」以上に、自分と向き合い、他人に伝える努力をする。それが自分も、自分のまわりも変えていくいい例だと思います。そうやって考え、伝える努力をした結果、遠くはなれたサラエボの戦争についても、自分の身近な問題と関連づけて考えることができるようになる。「書く」ということを武器にした子どもたちはすごいなと思いました。

サンシャイン:この先生が新任で、やる気のない先生たちの中で頑張ってやっていったというところが、おもしろかったです。9.11前なので、またアメリカの現状は変わっているかもしれませんが。宣戦布告なき戦争、人種の対立など、21世紀に入る前のアメリカのひとつの姿。アメリカって人間が「なま」だなあとつくづく思います。日本の場合は、「なま」にはなかなかなれないで、回りの人の目とか世間体とか常識とかによって、ほんわかと包まれている。若い頃住んでいた時はおもしろくもあったのですが、年をとると住むのはつらいなと思っています。

ハリネズミ:人間が「なま」って、どういうこと?

サンシャイン:うう、なんというか、はっきり言えば男と女の問題ですけど。欲望のままに行動するというか。日本では世間体があるからそうしようかと思っても行動に移せない、やっぱりやめておこうかといった判断をさせる空気があると思います。それに対してアメリカにはある種むき出しの人間がいる、という感じが否めません。

メリーさん:すごいことまで告白していますよね。ここまでいくには相当時間がかかっていると思うんですが。自分の「なま」なところまで出したものを、あとから編集しているんだとは思うのですが。

ハリネズミ:昔、日本にも綴り方教室なんかの運動がありましたよね。「書く」という教育でいろいろ引き出せるってこと、あるんですね。

サンシャイン:日本の綴り方教室の時代に、どこまで書かせていたのかはわかりませんが、この本でいえば書かれていることが赤裸々だってことかな。それから、いい先生を徹底して持ち上げる文化、サポートして資金も援助してっていうところがすごいですね。奨学金がつくとか。コンピュータを35台でしたっけ、寄付してくれたり。初任から同じ生徒を持ち上がった4年間で、彼女もある意味のしあがったわけでしょう。たぶん日本の職場では、こうはうまくいかないと思いますよ。嫉妬やら、足を引っ張ることがあったりして。それがさっき行ったほんわかと包まれていることのマイナス面ですね。集団の中で目立たせないという空気です。

ハリネズミ:ここまで徹底的にやって評価されればいいけれど、そこまで行けないとアメリカでもきっと批判されますよ。

サンシャイン:この先生の心の中に差別意識がないこと、ラベルをつけて一くくりにしないことが素晴らしいです。9.11後だったら、もっと違ったかたちになったのでは?

紙魚:私は、9.11前でも9.11後でも、書く内容には多少の影響が出たかもしれませんが、目の前のあまりにも苛酷な状況に必死で、なかなか視野を広げられなかった高校生たちの目がどんどん開いていくということには、変わりはなかったように思います。

サンシャイン:それから、宗教的なことがいっさい出てこないところがおもしろかったですね。

ききょう:目が離せない本でした。いろんな思いをさせてもらいました。いろんなというのは、私自身が教師なので、学習指導・児童指導はもとより、様々な報告やら何やらで本当に現場はものすごいんですね。やればやるほど仕事がきます。ひとつは、この先生に対するうらやましさと、いったいどうやって時間をやりくりしていたんだろうということ。週末もアルバイトをやっていて、時間のやりくりが相当大変だったはずです。そういう点からも彼女の情熱を感じました。同時に彼女の周囲の非協力的な人やねたみが、非常に現実的に感じられました。残念ながら今の日本ではこうはできません。それが痛くもあり、いろんな思いをかきたてられました。とにかく、私が置かれている状況では、出る杭は打たれるんです。先生のクラスだけ違うことをやっていると言われる。「あの先生のクラスでいいなあ」と思われることがよくない。親も、「あの先生だったらやってくれるのに」と言ったりするので、こういうふうにやってみたくても絶対にできないんですね。私ももっと子どもたちにやってあげたいことがあるのに、様々な軋轢でできないでいるので、複雑な気持ちで読みました。私が初任で行った中学校は、家庭的な問題を抱えている子どもが多かったのですが、荒々しい言動の奥に、「ぼくを見て」「私を見て」という本音だったり甘えだったりがあったのを思い出しました。学校教育って、本当はこうしていかなければならないなと、教師という立場で読んでしまいました。
それから、日本にも、「書く」ことの力をつかって一歩踏み出していく教育が行われていたんですけど、今の国語の学習は「書く」より「話す」なんです。内容がないにもかかわらず、話すテクニックばかりを身につけていくんです。中身をどう掘りおこしていくのかということが大事なのだけど、それをこの先生はやっているなと思いました。また、授業の中で生徒たちによく本を読ませ、そこから様々な活動をスタートさせている点に感銘を受けました。今、日本で行われている子ども向けの読書推進というと、本の冊数だったり、時間だったりするんですね。本を読んだ先のことはあまり問われないんです。『アンネの日記』のようなスタンダードな本が可能性をもっているということを感じて、励まされました。「書く」ことって子どもには大事ですね。私は「日記へ」というのは、75ページのところで、「『アンネの日記』などが出てきますが、日記に向かって書くというスタンスなのだと解釈しました。日本の国語教育は、いろんなものを掘りおこしていく可能性があると思って、1冊紹介します。朝読が言われはじめたときに、国語の書かせる授業のなかで出していた「高校生新聞」というのがあるんですね。タイトルは、『私の目は死んでない!』(評論社)です。当時入手したときには、日本の作品のなかでは画期的でした。『フリーダム・ライターズ』とくらべると、ステーキとおすましくらいの違いはありますが。書くことは、自分の見方がかわっていくという、すばらしい行為なのだなと思いました。私にとっては、大切な本です。

げた:文学としてというより、記録として読みました。カリフォルニアって、こんなにすごい状況なんですね。確かにそういえば、ピストルの撃ち合いとかあったなと思い出しました。長男が高校生のときにホームステイしたんですが、ほとんど白人ばかりでこういう経験はありませんでした。感動した点が二つあります。まず一つは、この先生がすごいなと思いました。子どもたちをとんでもない現実から救い出すには、とにかく、経済的に自立させるために大学へ進学させることを目標にしで、それを本当に実現しちゃった。すごいですよね。ほとんどの子どもたちが、高校を卒業した家族がいないという状況で、ですよ。もう一つは、「寛容」という言葉です。偏狭な民族主義はいちばん嫌いなんですが、自分の考えにもぴったりきました。それからこの「フリーダムライターズ」の根源が、図書館のブックリストにとりあげている『ローザ』(ニッキ・ジョヴァンニ文 ブライアン・コリアー絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書)からつながっているんだということについても気づきました。

うさこ:活字の力が、生きる力を呼び覚ます、といった内容でとてもよかったです。読み進むにつれ、夢とか希望とか明るい方向へ向かっていくことが読んでいて爽快でした。日記を通して、自分と向き合うことで自己回復していくさまがよく伝わってきます。日記を書くってなんだろう、と深く考えてしまいました。書いてる生徒一人一人、それぞれの状況や立場は違うのだけれど、一つ一つのエピソードがうまくつながって1冊の本として完成している。これはノンフィクションの強さだなと思いました。残念だったのは、日記一つ一つに番号がついているけれど、まるで囚人番号か何かのようで冷たい感じがしました。例えば、ニックネームでもペンネームでもいいので名前をつけてほしかったです。それと、日記の語り口調がどれも同じ。150人の感性や個性もあるので、個々の語り口にしてもよかったのかなとも思いましたが、本の形で読者に読ませるには、ある程度、平らにならさなければいけなかったのでしょうね。

紙魚:この本は、150人の日記を編んでいるので、読みながら、散漫なものをよりあわせて総括していく作業が必要ですよね。なかなか辛抱が必要だともいえるのですが、でも、これを先生の成功物語のようなフィクションにしてしまっては、この感動は得られなかったのではと思いました。言ってみれば、フィクションよりもずっと嘘みたいな話です。でも、日記という現実に書かれたものであるという重しが、これだけの説得力を持たせてくれました。それにしてもこの先生は、授業の設計が見事! 最近、「話す」力もそうですが、「読む」力というのもよく言われていますよね。でも、「書く」力の大切さってほとんど聞きません。自分が手紙を書いたりするときに、いやというほど実感するのに。私自身も「書く」ことを続けようと思いました。

みっけ:とてもおもしろかったです。彼我の差についても、実話とフィクションについても、本当にいろいろ考えさせられた本でした。それにしても、生徒たちの内面が実に見事に変わって、軽々とハードルを越えて育っていく様子は、ああこれが若さなんだろうな、とまぶしいくらいでした。そういう意味で、この本を読んだ人たちは、生徒たちと教師のがんばりや変化、そしてそこに加勢する人々の行為から、アメリカンドリームを再確認できるんじゃないでしょうか。そういう意味で、アメリカでは大いに歓迎される本だろうなと思いました。もちろん日本人にも、十分おもしろく読めるわけですが。実話に基づいているだけあって、最初のうちは、ちょっと散漫な感じで長いなあと思ったりするんですが、その散漫な感じや長いなあという感じがないと、後半のぐぐっと変化していくところ、高まっていくところが生きてこないんですね。この構成も、現実をかなりうまく表現していて、感心しました。みなさんがおっしゃるような活字の力もですが、わたしはそういう活字を手渡す人の力も感じました。この先生は、『ロミオとジュリエット』のことをチカーノとブラックのギャング団の話なんだ、みたいなことをいったりするわけで、そうやって文学と生徒とをつないでいく。本好きではない子の場合、こういう仲介者がいて初めて活字と向き合えることだってあるわけです。
この作品には、いい材料、つまりよい文学作品とうまくそれを手渡す人と、もうひとつ、教室マジックがあると思いました。1回こっきりの講演などとは違って、クラスというのは、同じメンバーがある程度定期的に同じ教師と向き合って、授業の内容(この場合は文学作品やものを書くこと)に向き合わざるを得ない装置です。こうやって同じ方向を向くという経験を繰り返していくなかで、作品の中で「家族みたい」と書かれている雰囲気が生まれ、それがまた文学との出逢いを深いものにしていっている気がします。それと、書くことの力という点については、この子たちがある程度書けるようになるまでも、かなりの時間や教師の働きかけが必要だったのでしょうが、とにかくそれぞれがそれなりに文章を書けるようになり、自分自身を出すようになってから、今度は互いの文章を編集させるんですね。この本では206ページで、編集がはじまった、という話が出てくるんだけれど、それぞれの書いたものを、同じ場を共有している子が読んで編集する、という作業が始まる。これは大きな変化だと思うんです。編集することによって、同じ教室にいる子の感じていることがわかってくる。つまり、203番教室に来るまでは、自分一人で孤立した部分を抱えていた子どもたちが、まず、アンネ・フランクをはじめとするさまざまな文学作品の中の人物に向かって、自分と同じ事で悩んでいる、苦しんでいる、喜んでいる、という形で開かれ、絆を感じ始める。それが今度は、同級生の文章を編集するという経験を通して、匿名とはいえ、もっと身近な人に向かって開かれて、絆を感じ始める。さらにここにきて、読む自分と書く自分がひとつになって、読むことや書くことの意味をさらに深く実感するようになる。実に周到に組み立てられた授業ですよね。本当に感心しました。ただ残念なことに、日本ではこういう実践は難しいだろうなと思いました。学校内の事情もあるし、社会風土も違うし。あと、みなさんもおっしゃっていたけれど、日本語の文でももうちょっと個々人の個性が出ていると、さらにわかりやすかったなあ、と思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年2月の記録)


そのぬくもりはきえない

岩瀬成子『そのぬくもりはきえない』
『そのぬくもりはきえない』
岩瀬成子/著
偕成社 
2007

メリーさん:『時の旅人』を最初に読んだので、それと比べるとこの本は描写がちょっとものたりないですが、日常ととなりあわせのファンタジーとしておもしろいと思います。この本の「売り」は、現代の女の子というところ。いい子というか、優等生というか。お母さんにはなんて言おうとか、友達はどう思うかなんて、まわりに気をつかってます。最後ではそんな目をふりきって水族館に冒険し、ちょっとだけ変わるのがいいですね。

ジーナ:ひきこまれました。あれこれ論じたくないほど好きでした。最後、真麻ちゃんが水族館に迎えにくるところや、朝夫くんの作文を見つけるのはどうかなと思わなくもなかったけれど、情景描写や波の心理描写がていねいでため息がでました。会話もとても自然で、どの人物も奥行きがあって。いつもお母さんが正しいと思ってしまい、自分の言葉をなくしていた波の気持ちが手にとるようにわかるし、波が自分のしたいことを言えるようになってきて、お母さんも変わっていくあたりもいい。子どもに希望や勇気を与える本だと思いました。

ウグイス:私も好きな作品でした。波の気持ちがよくわかるし、まわりの人物もよく描けている。特に女の子の世界をうまくとらえていると思います。お誕生会でかくれんぼをするシーンの、女の子同士の微妙な力関係にとても臨場感があっておもしろかった。中でも真麻は、とても魅力的な女の子です。波が反発しようと思ってもできないでいる事に、真麻は正面から立ち向かっています。他人に寄って立たない自立した子どもで、まぶしい力強さがありますね。この年頃の子どもの感覚をとてもうまくとらえています。大人たちも子どもの目を通して描かれているので、波のお母さん、お父さん、おばあさんに対する気持ちが、描写は少なくても、関係性がよくわかります。犬を飼っているおばあさんや、ヘルパーさんなども、人物像がよくわかる書き方がしてあります。『時の旅人』と同じように時間のファンタジーで、昔住んでいた人との交流を描いていますが、波の側から考えれば、本当に心を分かち合える友だちを求めていたために、古い家の昔のままの部屋に行って朝夫に出会うのはわかるけれど、朝夫の側から見ると、何で出てきたのでしょうね? そこがちょっとわかりませんでした。最後の手紙は、ちょっとやりすぎって気もしますが……。時間のファンタジーはつじつまを合わせるのが難しいけど、あとはそれほど大きな破綻もなくうまく描かれていると思います。

アカシア:『トムは真夜中の庭で』(フィリッパ・ピアス、岩波書店)を思い出しました。ピアスのオマージュとして書いたのかなって思ったくらい。朝夫くんなんて名前からして古くて、現代の子じゃない雰囲気がありますね。波と朝夫が会話を重ねていくうちに、心を通わせていく経過もとてもうまく書けています。トムは夢の中に入って行き、バーソロミューおばあさんのなかにも少女の部分があることを発見するわけですが、岩瀬さんのこの作品にはそれだけじゃなく、波がそこから力を得てまた歩き出すところも書かれています。手紙は、波が自分の気持ちを整理するうえで必要だったんじゃないかしら。おとなが読者だと、そこまで書かなくてもいいかもしれませんが、子どもが読者の場合は、あったほうがずっとメリハリがはっきりするんじゃないかな。朝夫の側からの波と出会う必然性ってことですけど、朝夫は学校でいじめられていて、そのせいで今は怪我しているわけですから、やっぱり心を分かち合える友だちを求めていたんじゃないでしょうか。岩瀬さんは、瞬間、瞬間をうまくとらえて描写していますね。

うさこ:とても不思議な余韻に包まれる作品だなっていうのが、読んだあとの感想です。読んでいる間、なんだかぼんやりとした霞の中にいるような気分になりました。ちょっと幻想的。でも、そこがいいんですね。なぜ波は朝夫くんと出会ったのか、なぜ水族館で別れたのか、などについては少々疑問も残るし、ファンタジーの入口、出口の規則性がないような気もしましたが、それを超えたところに、この人の作品世界があるんだなって思いました。あんまり分析するものではなくって、こういうのもありだなって、自分のなかに落ちました。今の子どもたちが読んでどう思うだろうと考えたとき、ファンタジーを受け入れる成熟した感性や土壌が要求される作品かもしれないなと思いました。波を中心とした人物との関係性がとってもうまく書かれていて、この点もうまいと思いました。最初に登場するカマキリのエピソードは、波の人物をあらわしているのかなっと思ったけど、その明確な答は物語のなかになかったような気がします。

サンシャイン:『トムは真夜中の庭で』をずっと考えながら読んでいました。2階の朝夫くんに会いにいく理由づけがちょっと弱いかなって思いましたが、波の成長のほうに重点があるのでしょう。トムのほうは、時計が13回鳴って異世界に入るよっていう境界線がきちんとありますよね。その点、それがあまりないのが、日本的なのかなとも思いました。

アカシア:『時の旅人』はイギリスの作品ですが、もっと境界線がないですよね。だから境界の有無をもって日本的かどうかは言えないのでは?

ウグイス:この家の2階は、息子が出ていった時のままになっていて、おばあさんは今は全く2階には行かず、そのままになっているわけですね。私もそういう家をいくつか見たことがあるけど、その部屋にはいると昔の情景がよみがえるような感じって、ありますよね。

クモッチ:最初のカマキリのエピソードで、私はちょっとひいちゃったんですね。主人公の波がカマキリの死骸を友だちの机に悪意なく入れる、というのが、低学年の子だったらわかるのですが、4年生だとするとちょっとずれる感じ。でも、朝夫くんと波との交流は、感動しました。「今」に対して消極的なところで二人は共通している。波は、お母さんの言われるままになって積極的に自分の未来を描けていない。朝夫くんも、いじめられて学校に絶望していて未来が見えない。そんな二人が(お互い未来、過去を行き来していることを何となくわかって)出会うことによって、波の方は、朝夫くんの今、ピアニストになっている今を知っているから、波自身の未来についても見えてくる、というか見ようとする。朝夫くんの方は、ハムラーと一緒に未来を見て、今は苦しいけれど、未来につながる確かな「時間」を感じて、生きよう、という気がおこってくる。282ページに「ドアをあけるとき目をつむって、外に出て目をあけたら、ぐるっと時間がまわって……」とあって、ハムラーにあてた手紙に、朝夫くんが水族館を見て生きようと思ったことがわかります。それで、朝夫くんの姿が消えたのですね。二人が、お互いの姿を見ることで、未来への希望を見いだしているというところが、すごくいいと思いました。時間をこえて二人が出会った意味があるな、と。

げた:波と朝夫くん出会った意味ってのが、よくわからなかったんです。波ちゃんってのはあまり元気のない子なんですよね。何か、はかなげで、いつも思い通りにはいかなくて。ちょっと、元気づけてあげたくなるような。そんな子が朝夫くんと出会う意味ってなんだろうなって。今、クモッチさんの話聞いて、なるほどって思いました。表紙の酒井さんの絵は個人的にいいと思ってます。

アカシア:私も岩瀬さんの雰囲気にぴったりでいいと思うし、好きなのですが、表紙に描かれた少女は主人公よりはずっと幼いですね。

サンシャイン:おばあちゃんが後半元気になりますよね。最初は、生きがいもなく捨てられたような老人かなと思いましたが、波との交流を通して血がだんだん通ってくる感じがあってよかったですね。

ウグイス:おばあさんと朝夫君の親子関係はどんなだったのか、過去に何があったのかわ、よくわからないですよね。

アカシア:波ばかりでなく、このおばあさんも朝夫くんの気配を感じたんですよね。それで、再び家族がいる感覚を思い出して、一緒に住むことを考え始めるのでは?

ウグイス:それから、犬もうまくつかっていますね。さりげなく色々なものを結びつける存在になっている。犬が出てくると何かほっとさせる役割もあって、うまいなと思いました。

うさこ:犬は、過去を振り返らず、「今」という時間だけを生きている存在ですね。

サンシャイン:ピアノの音がおばあちゃんにも聞こえている所がありますよね。息子は死んでしまっているけれどピアノの音は聞こえるという設定かと思いましたが、実際には朝夫君は生きている。もしかすると、作者はそういうありがちな話にしたくなかったのかもしれません。

小麦:数分間に1回事件がおこったり、不思議なことが次から次へとおこったりという、最近のつめこみ型、ストーリー先行型のファンタジーの逆を行く作品ですよね。導入がていねいに描かれていて、ファンタジーに入っていくまでがわりに長い。一見、ストーリーと関係ないように思える出来事とか、波の感情とかがゆっくりとしたテンポで丹念に書いてある。そのテンポに沿って読むことで、ぬるいお湯にゆっくり浸って、物語世界の体温を自分のものにしていくような心地よさがありました。波の世界にすっぽりくるみこまれるからこそ、不思議な出来事も自分に起こったことのように素直に入ってくる。「こういう読み方って大事だよなー、時間がたっぷりあった子どもの頃って、こんな風に読んでいたよなー」ということを思い出させてくれた作品でした。造本もこの本のムードにぴったりですね。色使いとか、見返しの色とか。ただ、ラストで朝夫くんが現実にいるってわかっても、波は会いに行かないんですよね。私が波だったら、きっと会いに行くんじゃないかな。好奇心を抑えきれないんじゃないかなぁ……。

アカシア:波は心の中に抱えていたものを乗り越えたわけだから、会わなくてもいい。会いにいかないっていう可能性もあると思うけどな。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年1月の記録)


時の旅人

アリソン・アトリー『時の旅人』
『時の旅人』
アリソン・アトリー/著 松野正子/訳
岩波(少年文庫)
2000.11

サンシャイン:描写が細かい作品を、久しぶりに読んだという感じ。最近のものはもっとスピーディーで、描写が丁寧だとなかなか読者がついていけない時代かもしれません。私もすらすらとは読めませんでした。せっかくの描写を丁寧に読まなくては、と思って心して読みました。昔に入りこんじゃう話ですが、作品としてはピアスより先なんですね。でも、こちらのほうは、過去の世界と今の世界が混在していて、その境目がはっきりしないです。そういう作品もあるんだなと感じました。時代考証などきちんとしてあるんでしょうが、詳細は我々にはわからない所があります。

アカシア:情景描写や、当時の人たちの暮らしぶりがとても細かく書いてあります。昔の人は、プロットの展開が早い物語より、こういうじっくり描写してある作品の方がおもしろかったんだとおもいます。ただしこの作品には、内面的な描写はあまりないんですね。メアリー・スチュアートは、まあ日本で言ったら義経みたいなもので、向こうの子どもは悲劇の主人公としてだれでも知ってるんでしょうけど、日本の子どもにはそれだけのイメージはありません。なので、イギリスの歴史に興味を持っているおとなには楽しめる作品だと思いますが、日本の今の子どもたちには難しいでしょうね。もちろん中にはこういうのが好きな子もいるとは思いますが。それから、アンソニーが自分の命がかかっているような秘密を、よくは知らないペネロピーに話すわけですが、そこはリアリティに欠けるんじゃないでしょうか?

ウグイス:ざっと読んでしまうのはもったいない、一字一句、味わいたい本ですね。懇切丁寧な情景描写をじっくり読むことによって作品世界をありありと思い描くことができる本。でも今の子どもたちが手にする本の中には、ここまで細かいのはなかなかないので、読み進むのはむずかしいのではないかと思います。この文庫には小学校の高学年くらいから読める作品が入っていますが、映画やテレビなどでこの時代のことを観たことがないと、映像的に思い描くのは難しいのでは? イギリスのマナーハウスや古い家に行った時に、時代を遡るような不思議な感覚にとらわれることがあるけど、『そのぬくもりはきえない』のように日本家屋が舞台の場合と違って、ああわかるわかる、という感じにはならないでしょう。あと、この作品でよかったのは、農家の人たちの地に足をつけた暮らしぶりがしっかり描かれていること。国も時代も違うけど確かに生きているという感じがして、この存在が作品に厚みを与えていますね。

クモッチ:確かに、ボリューム満点という感じですね。最初、ピアスよりもこちらの方が後に書かれたのかな?と思って見てみたら、ピアスよりずっと先だったんですね。ということは、ピアスが影響受けたりしてるんだろうな、と襟を正してしまいました。おもしろかったのですが、この作品で過去に行く意味は、今使っている物が昔も使われていることから、時間が続いているのを再認識するということなのでしょうか。主人公のペネロピーは、歴史を変えられないということを背負っているために、過去に行っても主体的に何かをするという訳ではなく、その時代を見る目としかなりません。そのうち、未来に対する自分の記憶も曖昧になってしまったりして。その辺がもどかしくもありました。

ジーナ:岩瀬さんの本の次に読み始めたんですけど、途中で進まなくなって、あわてて高楼さんのを先に読みました。そんなわけで、この作品は途中までしか読めませんでした。それにしても、このシリーズの字の小さいこと! 今どきの大人の文庫より小さいですよね。前に読んだのは、評論社版だったのですが、あのときは一気に読んだおぼえがあるんです。なぜだろう? 前は、ぺネロピーが最後どうなってしまうのか知りたくて読み進んだのだと思いますが、今回読んで、こんなに細部の描写が細かかったかとびっくりしました。ひょっとして、評論社版の訳はどこか短かくしていたのかしら?

アカシア:松野さんの訳はとてもていねいでいいのですが、ですます調なので、余計長く感じるのかもしれませんね。

ジーナ:昔のことを語るような口調ですよね。非常に読者を選ぶ本だと思いました。はまる子ははまると思いますが、男の子は入りにくいのでは?

メリーさん:ぼくは男ですが、実は手に取ったのは初めてだったのに、とてもおもしろく読みました。みなさんが言うように、現代の子どもが読むのは大変だと思いますけど、好きな子は逆にのめりこむと思います。圧倒的な描写の力。台所や食べ物の描写、ハーブについてのくだりとか。まさに匂いがしてきそう。タイトルがSFみたいなので、どんな装置でタイムスリップするのかと思ったのだが、ぼくたちが名所旧跡に行って過去に思いをはせるときに、風景がパーッと変わっていくような、そんな感覚に似ていました。そういう心の動きがファンタジーの入口になっている、というのがおもしろい。ロケットを見つけるところも、過去の人物との関係を大切にする主人公のけなげな感じがとてもよかった。

げた:ごめんなさい。指定の本じゃなくって、評論社の小野章訳を読んできました。児童室の棚にあるんですけど、読み直してみて、これは小学生ではむずかしいなと感ました。書かれたのが、70年近く前ですから、そこからまたさらに過去へとワープしなくちゃいけない。現代の読者には、二重に想像力が必要となるんですよね。そこが難しいと思いましたね。それに、イギリスやヨーロッパの歴史についての基礎知識がないと、読み進むのは大変かな。

ジーナ:ヨーロッパは石の文化なので、昔の建物が今も使われていることが多いですよね。普段そういうものを目にして、今の生活ととなりあわせに歴史を見ている西洋人と、古いものがほとんどないような日常を生きている日本人とは、歴史との距離感が違うのかもしれないですね。

ウグイス:今の日本では、文化財指定になるようなものは別として、日常的に何百年も前の家を目にすることはないでしょう。イギリスでは普通の人が家探しをする場合でも、古いものほど良いというのがあるけど、今の日本ではみな新しいものを求める。そういう意味で違う価値観なのでは。

アカシア:日本は地震があるものね。『トムは真夜中の庭で』の舞台になってる家も古い家だし、ルーシー・ボストンの「グリーンノウ」シリーズの舞台は12世紀の初めからある家で、そこに実際に今でも人が住んでるんですからね。

小麦:余裕のない読み方をしたせいか、私は入り込めなくて残念でした。物語が最初から破滅に向かっていて、主人公も何かを変えられるわけではない。あらかじめ結果のわかっている物語を追うっていう構造がだめだったのかもしれません。アトリーならではの緻密な描写は素晴らしかったんですが。でも、『そのぬくもりはきえない』では物語世界を立ち上げるのに、ディティールやエピソードが丁寧に描きこまれているような感じたけど、これはそう思えなかった。ディティールの書き込みの比重が、ストーリーの展開よりもはるかに勝っていて、それぞれがうまく絡みあわずに別個のものとして乖離しているような印象がありました。いいなと思ったのは、かなりの数の単語を文中で説明するんじゃなくて、注釈処理にしているところ。例えば「ポセット」という言葉ひとつとっても、そのまま残すことで、音の響きも含めて想像力が刺激されるし、物語の雰囲気も高まる。子どもがすらすら読めるようになんでもかみくだいて説明しちゃうのって、必ずしもいいことではないんですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年1月の記録)


緑の模様画

高楼方子『緑の模様画』
『緑の模様画』
高楼方子/著
福音館書店
2007

クモッチ:3人の女の子が出会って成長(?)する話。思い返すと、この時期というのは、自分がいいなと思う物について「そうだよね」って答えてくれる存在や、素敵だなと思う部分を持つ存在を、親などから離れたところで発見していく時期なんですね。そして、未完成な部分もたくさんあって、不用意なことを言って友だちを傷つけてしまうこともあったり、自分が傷ついたり……。それが、その後の人生でも大切な財産になるのでしょう。作者は、そういう「友情」が好きなんだろうな。中、高学年向けのこの作者の作品を読むと、それを感じます。独特な世界を持っていますよね。ただ、この作品では、「透さん」というのがわからなくて、どうして3人のところに現れ、助けることまでできたのか。『小公女』を妹たちに楽しく教えた時代に戻りたかった? それだけだと説得力に欠けるし、ちょっと気持ちが悪い。そこに違和感がありました。あ、あと、この作品は、章ごとに視点がかわるんですよね。1章がまゆ子、2章がアミ、3章が透さん、4章がテト。それを不自然にならずに書いているのがすごいと思いました。もう少しこの効果があらわれても良かった気がしますが。

アカシア:私は『小公女』という作品も好きじゃないし、いわば少女っぽいフリルのついた憧れっていうか、乙女チックな世界が個人的に嫌いなんです。だからなのか、素直に入り込めなくて、やっぱり高楼さんは小さい子向けに書いた作品のほうがずっと楽しいな、って思ってしまいました。テトとアミとまゆ子という3人の少女の個性もあまりくっきりしていないし。若さの時間にいる人と、老いの時間にいる人が出会うという設定はおもしろかったんですけど。

うさこ:高楼さんの作品はどれも好ましく読んで、わりとファンなので、これも楽しく読みました。少女向け小説、少女文学として無理なくほどよく清潔に書かれたものだなって思いました。少女から少しずつ大人へと成長していくみずみずしい感覚と、ちょっとあやうい、もろい面を持ちあわせる少女たち。謎の青年に出会うときのファンタジーのスイッチのオンオフがはっきりしていたので、3人いっしょだからまた不思議なことがおこるかも、と期待感をもって読めました。大人の描き方っていうのも、わりにすてきかな。ミズネズとかまゆ子のお母さんとかも、完成された大人じゃないけれど、すてきな人物として登場する。森さんもそう。アミの両親の奈良のシカのエピソードなんか、すごくおもしろくて、このあたり、高楼さんのユーモアが出ています。透さんの3章は、ちょっと「ええっ」てひいちゃっいました。75,6歳のおじいさんにしては、少々メルヘンチックかな。透さんが純日本人じゃなくてハーフだとしたらもっと納得できるかもしれません。この作家の感性のみずみずしさは、情景描写の描き方や、人物の様子を書き表すのが説明的でなく上手で、すっと読み手に伝わって入ってくる。自然のうつりかわりの描写もよくて、好きでした。

サンシャイン:私もおもしろく読みはじめました。謎があるのかなと思わせながら、同一人物のような違うような青年が出てきます。女の子たちの心の働きはよく書けていると思います。ミステリアスなちょっとすてきな青年が現れて、女の子たちが本当は惹かれているんだけど、好意を示してはいけないと思ってわざと無視するっていうのはよく書けていると思います。私も第3章に入って白けてしまいました。説明しすぎという印象。老人の人生をたどろうとしている所は計算が先に立っていて、あまりいただけません。

げた:3人の会話や関係がとても新鮮でした。少女趣味ということになるのかもしれないけど、男同士にはないものなので、こんな世界もあるのかと興味深く読みました。『小公女』がキーワードですが、中身は、あまり関係ないですよね。『小公女』を読んだ頃のことが忘れられないおじいさんが、たまたま同じバスに乗り合わせた少女たちの会話の中の『小公女』ということばに引き込まれたことから、このファンタジーが始まるわけなんですよね。『時計坂の家』(リブリオ出版)は、おばあちゃんの過去の謎にせまるような話だったと思いますが、身近な人の謎解きのようなファンタジーもいいかな、と思いました。

小麦:高楼さんの作品ってすごく好きなのですが、色々な引き出しがある中で惹かれるのは、やっぱりユーモア路線。今回の乙女路線は、少女期の渦中にいる時に読んだらきっと夢中になったんだろうなあ……という感じ。大人になってしまった今では、その甘さが鼻についたりもするんだけど、この「きれいなものは、きれい」というきっぱり自己完結した、ある意味閉ざされた世界観というのはわかる気もします。自分たちだけの世界にすっぽり包まれて幸せ、というような。でも、大人の私が読むと物足りなかったです。ちょうどこの本を読んだ後で、『対岸の彼女』(角田光代著 文芸春秋)を読んだんですけど、あの作品では、二人の少女が自己完結した世界のなかで仲良くなって、暴走して、家出して、事件をおこす。それから時を経て、主人公が現実を生きている今が描かれています。主人公が経営する小さな会社では、社員がクーデターをおこしてやめちゃったりして、結構ハードな現実なんだけど、学生時代の濃密な時間や思い出が、一歩踏み出す強さを与えてくれている。そこがすごくいいなと思ったんです。でも、『緑の模様画』は、甘く心地いい空間が描かれているだけで、そこから踏み出す強さや現実が描かれていない。そこが物足りなく感じてしまったんだろうなぁと思います。

うさこ:この丘の上学園という限られた守られた特別な世界。

アカシア:現代の吉屋信子って感じ。

クモッチ:でも、ここまで幅広く書けて、絵も描ける力のある人は、ほかに見当たらないと思いますよね。

メリーさん:設定は、少女小説や少女マンガにとても近いですね。乙女的、閉じた空間というところはありますが、時間と空間の描写はおもしろい。過去と未来を行き来する感じが、とても軽やか。『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄著 中央公論社)ではないですが、人間は時間に束縛されているのではなく、自らが時間を作り出していく。時間は自分が決めるものなのだと、この作品を読みながらつくづく思いました。

ジーナ:少女趣味なところは、私も好きではないのだけれど、作品全体としては、とてもいいと思いました。立ちあがってくるイメージがおもしろく、場面が目に浮かんできます。たとえば、47ページ「かかとに体重をのせ、ふんふん、とはずむように歩く、しっとりとした夕暮れの道は……」のような表現は独特ですよね。ほかにもあちこちこういう表現が出てきて、うっとりしました。私も、この本の一つのテーマは友情だと思うんです。まゆ子、お母さん、森さんという、3世代の友情があり、さらに大人の友情の中に、ずっと離れていても、あったときに通じ合える関係を描くことで、まゆ子たちの友情にも希望を感じさせてくれていると思いました。また、まゆ子が小学校のとき学校に行けなくなるけれど、中学になってなんとなくその危機を乗り越えるというところ。私はここで、大人の善悪を押しつけない、「べき」だとか「こうじゃなくちゃ」という規範的な目がない書き方が、とてもいいと思いました。なんでも答えを出して、白黒つけなくても生きていけると思わせる書き方です。視点をずらせるのもうまいんですね。目の前に見えることだけじゃなくて、不思議なことがひそんでいるとか。こういう、リアルなものにひねりを加えたおもしろさは、高楼さんのほかの作品にも共通していると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年1月の記録)


ひげねずみくんへ

アン・ホワイトヘッド・ナグダ『ひげねずみくんへ』
『ひげねずみくんへ』
アン・ホワイトヘッド・ナグダ/著 高畠リサ/訳 井川ゆり子/絵
福音館書店
2005.06

みっけ:ネットには、けっこうおもしろいと出ていたのですが、私は今ひとつピンときませんでした。後の方で、主人公の女の子がクッキーをつかって年下のクラスの子たちをひきつけていくところから関係がほぐれてくるのは、なるほどなと思いましたが、今ひとつこちらに迫ってこなかった。

ネズ:上級生と下級生が手紙を交換して、それによって国語の勉強をするというアイディアはおもしろいと思いました。主人公の4年生が手紙を出す相手がサウジアラビアからの移民という設定ですけど、上級生が一方的に下級生を指導するのではなく、後半になってサウジアラビアのことも学んでいくという姿勢も出てきたので、良かったと思いました。「移民の子」が、最近は日本でもめずらしくなくなり、小学校でも昔と違った問題が出てきたり、いろいろな取り組みをする学校が増えてきたんでしょうね。それがこの本を出版した動機でしょうか。
ただ、設定が非常にわかりにくく、最初の部分を何度も読みなおしました。4年生の子がネズミになって2年生の子に手紙を書き、2年生の子がそのネズミ宛に返事を出すんだけれど、4年生の子の名前、ネズミの名前、2年生の子の名前、さらに4年生の子の友だちが考えたネズミの名前、その手紙を受けとった2年生の子の名前……と、いろんな名前がごちゃごちゃになって、わけがわからなくなる。こういう作品の場合、原文になくても最初に設定がわかるように書いておくべきだと思いました。それから、とかくこういうテーマのものにありがちだけれど、移民の子の祖国について触れていても、アメリカと対等の国という意識というか、敬意が感じられない。どうしても、アメリカより劣った国から来た、かわいそうな子に親切にしてあげるという、保護者的な意識が鼻についてしまって……。
それから、翻訳がこなれていなくて、本にする前の段階という感じ。英語と日本語はまったく違った言語だから、国語としての英語の授業をそのまま日本語にしても、読者は混乱してしまうのでは? 手紙の書き方だって違うし。21ページのように、「スミアは虫のしみだから……」なんて言葉がポンと出てくるし、ラットとマウスが出てくるけれど、その違いを説明してもいない。「ペンパル」なんて言葉もいきなり出てくるし。いちばん違和感があったのが、挿絵。なんで絵のなかに英語が書いてあるのかしら? 最初は、原書の絵をそのまま使ったと思っていたけど。訳者の問題というより、編集者の問題かも……。

アカシア:最初の導入がもたもたしていて魅力的じゃないし、設定もわかりにくかったですね。小さい子どもの本って、最初でかなりひきつけないと読んでもらえないのに。19ページには「わたしの生徒は〜」と唐突に出てきますが、この子は教えているのかなと誤解してしまいました。「わたしの文通相手は」くらいにしないと、手紙を出した相手の2年生のことをさしているとは、すぐにわかりません。物語が自然に生まれたというより、わざと作っているという感じもあります。主人公は文通相手がスペリングも不十分だし文章も書けないという裏に事情があると察していいはずなのに、30ページに「サミーラにきらわれてしまった。〜」という表現が出てくるのも不自然。人物像にも厚みがなくて、スーザンといういかにも嫌みな優等生が出てくるのはステレオタイプ。日本でどうしてこの本を出すのかが、わかりませんでした。後半、ジェニーが工夫をしてコミュニケーションをとろうとする部分はいいと思いましたが、前半はいただけない。全体として不完全な本を読まされている感じがぬぐえませんでrした。

サンシャイン:こういう作品は、あんまり日本語に訳す意味がないかもしれません。ニューカマーズが苦労してアメリカの偉大な文化に包まれて英語ができるようになるという、アメリカ礼賛の物語。うちの子も、ESLにお世話になったので、そういうこともあったねとは読めるけど、日本の子どもが読んでもあまりピンとこないでしょう。アメリカで子どもを育てている日本人が対象の本でしょうか。翻訳者もそういった経験があるのかもしれません。37ページにカギ括弧がぬけているところがありましたね。福音館の本ですが。

ネズ:アメリカと日本では、読まれ方がまったく違うでしょうね。

げた:そうか……。確かに、出だしがわかりにくかったんですね。ただ、今回読んでみて、読後感としては、幸せそうな子どもたちや周りのあたたかい大人たち。それぞれ穏やかでやさしいお友達の顔がうかんできてよかったなと思いました。だから、以前図書館の選書で目を通した時より、案外いいかなと思ったんですね。2年生と4年生の文通による国語教育というのもおもしろいと思うし。子どもたちが、自分たちにもこういう機会があったらいいかなと思えるかもしれない。でも、今、皆さんのお話をきいて、確かに問題があるかもしれないと思ったところです。

mari777:予想通りの展開だけれど、私はわりとおもしろく読みました。小学校国語の「書くこと」の分野で、目的をもって書くということが重視されているということもあって、「なりきり作文」って、日本でも最近はよく行われている学習活動なんです。高学年の子どもと低学年の子どもが文通するという活動も、最近の日本の国語教育では、わりとありがち。あまり新味は感じません。この年ごろの子でもによくある、ちょっと背のびしたいような気分や、学校の課題に対してちょっとひいちゃうような、しらけた気分は、よく書けていたと思います。ただ、ラストはありきたり。教訓的な感じで残念。

ジーナ:私も、中途半端な感じを持ちました。さっきもどなたかおっしゃったけれど、日本でも日本語がぜんぜんわからない外国の子どもが入ってくるという状況はよくあるから、テーマはよいと思ったんですけど、学校のようすが日本とすごく違うでしょ? 下級生と文通はあるかなと思ったけれど、手紙が来なかったときに、教室に行ったり、クッキーを持ってきていきなり食べちゃったり。日本の子は、いいなあと思って読むのか、違和感を持つのか、わかりませんでした。あと、絵ですけど、サウジアラビアの子どもに見えないと思いました。私が知っているアフガニスタンやモロッコ出身のイスラム教徒の家の女の子は、ズボンをはいて、肌をむきだしにしないようにしているので。

ネズ:難しいですよね、小さな子どもの本は。文化や、教育のしかたや、様々な面でギャップが大きいから、訳すときにどれくらいつけたしたらいいか、いつも考えなくては。この本の場合、「文」、「文章」「行」が混在していたり、罫線という意味で「行」と書いているのかなと思ったり……。大きく意味がわかればいいという考えなのかもしれないけれど、ちょっと大雑把だなと思います。

ジーナ:「形容詞は助ける言葉」というのも、わかりにくい。編集の人が、注意しそうなものですけど。

ネズ:71ページで、先生が『スチュアート・リトル』のことを、「これは、ファンタジーです」って生徒に説明しているけれど、読者にわかるのかしら? ねずみレターのことをファンタジーと言ってるんだと思うかもしれない。それに、この本は翻訳が出ているんですから、邦題を書いておいたほうが親切です。

ジーナ:まあ、わからないところは、わからないなりに、子どもは読んじゃうんでしょうけれどね。

ネズ:43ページの「今朝はサミーラがはっぱの〜」って文章なんて、読点がまったくないのよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年12月の記録)


マルコとミルコの悪魔なんかこわくない!

ジャンニ・ロダーリ『マルコとミルコの悪魔なんかこわくない!』
『マルコとミルコの悪魔なんかこわくない!』
ジャンニ・ロダーリ/著 関口英子/訳 片岡樹里/絵
くもん出版
2006.07

サンシャイン:ロダーリは、『猫とともに去りぬ』に続いて2冊目。おもしろく読めました。とんかちを使って、世の中をぶっこわし、うまくおさめちゃうというのは、子どもたちはおもしろく読むんだろうな。笑えるからいいんじゃないかなという感じです。

げた:私はね、小さい子どもが金槌ふりまわしているというのに抵抗があったので、初めからおもしろいという気持ちになれなかったんですよ。7つのお話もとりわけ奇抜なお話というわけでもなかったしね。訳者あとがきに、音のおもしろさについても書かれているけれど、「マル」の響きについても、日本語だとそこまで感じられない。赤ずきんちゃんの話をこわがるというのがオチなのだけれど、今ひとつ、そのおもしろさも感じられない。挿絵も平面的な感じで、好きじゃないな。

mari777:私もです。世界に入れませんでした。『猫とともに〜』も読んで、表題作はおもしろかったんだけど、それ以外は合わなかった。この作品もそうなんですけど、登場人物に葛藤がないんですよね。楽しいのかもしれないけど、悩んだりしない。訳は読みやすくてうまいなと思いました。

ジーナ:私は楽しめました。荒唐無稽で、ありえない展開の話だというのが最初から見えるので、フィクションとして、今回はどんなやつをやっつけるのだろうと、楽しんで読めました。金槌をふりまわすのと、それがブーメランみたいに戻ってくるというのがばかばかしいのだけれど、こういう本もあっていいかなと思います。ユーモアってすごく難しくて、笑うところが国によってだいぶ違いますよね。現地で楽しく読まれていても、日本に持ってくると、ちっともおもしろくないということがよくある。これは、イタリアの子のほうがもっと楽しめるのだろうけれど、日本でも通じると思いました。一つ気づいたのは、人の名前がたくさん出てきますよね。イタリア人の名前は、日本の子には聞きなれず、おぼえにくいものもあるので、ひびきのおもしろさもあるのだろうけれど、チョイ役の登場人物については少し削ったほうが、日本の子どもに読みやすかったかなと思います。

みっけ:そうなんですよね。ブーメラン金槌っていうのは、かなりきついですが、割合さくさく読めました。影とか襞とか、そいういうのではなくて、荒唐無稽な展開を楽しむというお話ですよね。第3話の、双子が赤ちゃんのお守りをしているうちに、赤ちゃんを喜ばそうと食器を割りはじめるんだけれど、その行動も実はお母さんには読まれていた、という展開なんか、かなり気に入りました。荒唐無稽な部分と、親にちゃんと見ていてもらっているという子どもの安心感と、両方があって、子どもは楽しめるんじゃないかな。あと第7話の、謎の潜水艦が実は自分には釣れもしない魚を手に入れるために金持ちが雇ったものだったという荒唐無稽さも、第1話の、強盗が双子の策略にまんまと乗せられてみんなの嫌っていた品々を持たされるあたりも、なんというかほんわりしてて、ばかばかしくていいですね。この人は『チポリーノの冒険』でもそうだけれど、からっとした感じがしますね。

mari777:ロダーリの作品は、短編集『猫とともに去りぬ』が同じ訳者で光文社の古典新訳文庫に入っています。あと、もう絶版かもしれませんが、図書館で『ロダーリのゆかいなお話』という5巻本を見ました。タイトルどおり、荒唐無稽な「ゆかいなお話」満載の短編集です。

ネズ:すらすらおもしろく読みました。落語を読んでいるみたいで。翻訳もなんとか日本語でも言葉遊びの面白さを伝えようと訳者が努力しているのが伝わってきました。おなかをかかえて笑ったかというと、そこまではいかなかったけれど。私もげたさんとおなじで、子どもが金槌を持っているというのが気になって……。イタリアの人が読むと、金槌になにか意味があるのかな? 最後の「かなづち坊やたち」というお母さんの台詞がけっこう好きなので、タイトルも「かなづちぼうや」とかにしたら、「アンパンマン」みたいにキャラクターの設定ができて、金槌も気にならなかったのかも。イラストも、本文にぴったりあっていて好きです。

アカシア:私もイラストはこれでいいと思いました。上のほうはパラパラ漫画になってるのよ。これは、いろんなところから集めてきた短編なのよね。

ネズ:そうか! だから統一がとれてないような気がするのね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年12月の記録)


あぶくアキラのあわの旅

いとうひろし『あぶくアキラのあわの旅』
『あぶくアキラのあわの旅』
いとうひろし/著
理論社
2005.03

小麦:出だしの、体があわになってしまうところが強烈で、これは期待できるぞ!と思ったんだけど、そうでもなくて・・・。あぶく人間に関するディテールはすごくよくできていて、ひきこまれるんですよね。あわがはぜる時にパチパチ痛いとか、腕がとれる瞬間はすごく痛いんだけど、何事もなかったかのようにくっつくとか。でも、そんなあぶく人間の魅力に比べると、ストーリーの方は割とオーソドックスな冒険物語で、長い割にはちょっと物足りなかったです。アキラもあぶく人間なだけに割と受け身の主人公で、いまひとつ盛り上がれませんでした。

サンシャイン:話が散漫だという印象です。無理やりこのページ数にのばしたのかな。あまり楽しめなかった。下水に入っていくのは汚いと思ってしまったし。お話はいとうひろしさんの絵本と似たようなタッチですね。ドラドンを退治する所も、ちょっと無理があるような気がしました。

アカシア:個人的には、いとうさんの作品は、短いものの方が好きです。短いからこそおもしろい、という要素をもっている作家さんだと思っています。ユーモアは感じますけど、こういう作品はそれだけでは終えられない。地の部分や、サスペンスが立脚しているところがユーモアなので、どうもアンバランスで、しまらない感じがしてしまいました。254ページ、「そちらからははらへらしが〜」という箇所、「せっけんのうで」ではなく「あぶくのうで」では?

みっけ:クスクス笑えるおもしろいところがいっぱいあるんだけれど、冒険物語としてクライマックスに向かって盛りあがっていくという感じに今ひとつ欠ける感じがして。気に入った箇所は結構いろいろあったんだけれど、今のアカシアさんの話には、納得です。キャラクターとしてはモグラの「おおぶろしき」がかなり気に入りました。それに、本物の竜が実は気が弱かったり、ガマガエルのおばあさんが取り戻したがっていたお宝が、「あおがえるの皮で作った雨合羽」だというあたりも、なんとも脱力感があって、楽しかったです。

ジーナ:どうなるかと思って読み始めたんですけど、途中で失速してしまいました。ドラドンはもうどうでもいいやという気になってしまって。でも、うまいなと思ったのが、それぞれの登場人物の語り口。どの人物も、それらしい口調をつくりあげてあるのはさすが。こういうのは、日本の創作でなければなかなか出てこないおもしろさですね。あぶくアキラについていく気になれなかったのが残念です。

小麦:アキラって、わりと他力本願なんですよね。

ジーナ:三人称で書かれているのに、アキラの声を聞いているみたいに、アキラの細かな感情の動きが伝わってくるのも、うまいなと思いました。でも、全体となると、ストーリーの引っ張り方いまひとつなのかな。

mari777:私はおもしろく読みました。宝探し、鬼探しという古典的な設定と、現代的なキャラクターがうまくブレンドされていてよかった。アキラがヒーロータイプではなくて「だめ」なところも現代的ですよね。「はらへらし」なども、ひと癖ふた癖あって、必ずしも「善玉」ではないのに、最後には好きになってしまいました。男キャラがなさけなく、女キャラがおばあさんというのは、よくあるパターンなのかな、と思いました。

げた:私も楽しく読みました。姿をかえられて元に戻ろうと旅をする物語。その道連れのもぐらとふくろうというキャラクターがまたユニーク。それぞれ、一物腹にあって、まっすぐではないけれど、義理人情的に描かれていますよね。もしかして、すごく古い話なのかな。だから古い私には、おもしろかったのかもしれません。図書館で、2年前、「おすすめの本」にしたのだけれど、残念ながら期待したほど借りられていません。今回貸し出し回数を見て、がっかりしました。内容だけじゃなくて、アキラっていうネーミングも古い感じだからなあ。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年12月の記録)


ぼく、カギをのんじゃった!

ジャック・ギャントス『ぼく、カギをのんじゃった!』
『ぼく、カギをのんじゃった!』 もう、ジョーイったら!1

ジャック・ギャントス/著 前沢秋枝/訳
徳間書店
2007.08

ネズ:この本は、出版されてすぐに原書で読みました。内容はおもしろいし、作者の意気込みも感じられていいなと思いましたけど、2つほど問題があると思ったのを覚えています。ひとつは、ADHDの子どもを薬で治療しているという点。文中では、ADHDという言葉を意識的に出さないようにしていますが、後書きにもあるように、この子は明らかにそうですよね。ちょうど同じころ、ADHDの子どもがいるクラスを持っている、小学校教師の話を聞く機会があったのですが、日本では(当時はということですけど)、医療に頼らずに、ありのままに育てたいという親が多くて、学校側が病院に行くことをすすめても、かえって反発されるということでした。治療の内容や、程度の問題もあると思うけれど、日本とアメリカとの医療に対する考え方の違いもあるし、もし日本で翻訳出版ということになると、どうやってクリアしていくか難しいなと思った記憶があります。第2巻では、薬がさらに重要なファクターになってくるし……。それと、主人公のおばちゃんやお父さんも、非常にハイになりやすい性格に描かれているし、お母さんもエキセントリックなところがある。だから、ADHDが遺伝するものだとか、環境によるものだとか、単純に思われてしまうのでは……という危惧も感じました。障碍や病気を扱った本って、とても難しいから、皮肉でもなんでもなく、徳間書店は勇気があるなと思いました。
でも、女の子の鼻先を切ってしまう場面は、ちょっとね。どぎつい印象を与えるし、この女の子にとっては大変なことなのに、さらっとしすぎていない?

みっけ:ADHDの原因については遺伝という説とか、いろいろと説があるみたいだけれど……。『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン/著 小尾芙佐/訳 早川書房)はアスペルガー症候群の男の子が主人公の一人称だし、E.R.フランクの短編集『天国にいちばん近い場所』の中にもADHDの男の子が主人公で一人称で書かれた話が出てくるんですが、この本を読んでいて一番気になったのは、主人公が3年生でしかも一人称でここまで説明できるだろうか、という点でした。ほかの2作品では、そのあたりにあまり違和感がなかったのですが……。ふーん、なるほどなあと思いながら読み進みはしたものの、そこはひっかかりましたね。最後に作者があとがきに書いているように、まわりにこういう子たちがいるにも関わらず、そういう子たちの物語がなかったというのはなるほどなあと思うのだけれど、私のなかで今ひとつ納得できませんでした。この子自身はいい子なんですけれどね。

紙魚:ADHDはこういう子だという書き方ではなく、こんな子どもがいるという個人の個性からアプローチしている書いているのはいいと思いました。とくに、本文中にADHDという言葉は1回も出てこないのですよね。やはりこういう言葉は強いので、ADHDという言葉が1度出てしまうと、ADHDを読むというようになってしまうのですが、そう陥らずに最後まで読めました。ただ訳者は、あとがきで「ADHDという障害」という言葉をつかっています。こういうところの表現は難しいですね。実際に子どもたちはどう読むのかなと気になりました。それから、全体として散漫な感じがしたのですが、それが、この子の性質・性格によるものなのか、物語が散漫なのかは、わかりません。

げた:私は、ADHDという病気自体をよく知らないんですけどね。主人公の男の子の特異な行動は、先天的なものだけでなく、環境という後天的な影響があったわけですよね。かなりひどいことをおばちゃんにされていたんだから、そういうことが資質を高めたかもしれないとは考えられませんか?

みっけ:ADHDも自閉症も、脳の一部の問題とされていますよね。お母さんが妊娠中に麻薬をすると、率が高まるとアメリカでは言われています。

サンシャイン:お酒を飲んで妊娠した場合は、酩酊児とも言われるそうですね。

ネズ:エジソンもそうだったっていうじゃない。

げた:この病気のことを知らないと、突然変わった行動が出てくるのには、ついて行きづらいんじゃないかな。鼻を切ってしまうのも、ちょっとずれていたらと思うと怖いしね。こういう子どもたちの本を読んだ、まわりの子どもたちは、どう思うんだろう? この病気についての理解と思いやりが深まるのかどうかは疑問だな。

アカシア:この本については「よくぞ訳してくれた」という手紙も来ているそうですよ。ただ、薬さえ飲めば大丈夫と受け取られかねないですね。

みっけ:学校に行かせないで育てられれば、それはそれでいいのだけれど。そういうわけにはいかないとなると、集団の中で過ごすために薬の力も借りよう、ということなのでしょうね。とにかく集団として教員が見ていけるようなレベルにまで、ぎりぎり症状を抑えようという感じではないかしら。薬を飲むか飲まないか、ではなくて、集団の中である程度はみ出さないでいられるようにしておいて、ほかの子との交わりの中で成長していくという感じではないかと思いますけど。

アカシア:いろいろなケースがあるのでしょうが、この子が集団の中にいたらほかの子を傷づける可能性もあるわけだから、先生はたいへん。

みっけ:ここに書かれているような行動をとる子がクラスにいたとすると、担任としては、一時も気が休まらないんじゃないかな。

紙魚:何かやってしまったあとに割合けろっとしているのは、この子の個性なのか、それともADHDの特徴なのか、作者はどの程度、そのあたりを意識して書いているのでしょう?

アカシア:ここまでの症状が出ると病気だから何らかの治療をしたほうがいいのかもしれませんが、今は、ちょっとほかの子と違うと、自閉症とか多動児とか、いろいろな名前をつけて障碍だということにされてしまうような気もします。学校では、ADHDっていう言葉を使うのかな?

サンシャイン:ADHDとまでは言わなくても、「多動性がある」という言葉は、よく使いますね。幼稚園に入る前からゲームを野放図にやらせているとそうなるとか。

アカシア:鼻を切られてしまった女の子については、読者の子どもも心配すると思うんですが、その後どうなったかは書かれてませんね。

みっけ:この作品は、複眼にした方がよかったんじゃないかな。説明的な部分も、ほかの人の視点が入ってくれば、無理なく収まったんじゃないかしら。

アカシア:一人称でも、できなくはないと思うけど。

サンシャイン:私は、カバー袖に書かれているあらすじを先に読んでしまったので、支援センターに行くことを前提として読んでしまったんですね。だから、支援センターに行って初めて救われる話なのかなと思ってしまいました。

アカシア:この子は、変わったおばあちゃんと暮らしていたので、必要な情報がなかったんですよね。情報がなくて困っている人たちに、手をさしのべる物語とも考えられるわね。

紙魚:こういう子どもたちのことを考えてもらおうとする真面目に姿勢は、伝わってきますよね。

ネズ:自分の子どものころのことを思い出すと、今だったら「ADHDだから、病院に相談に行ったら?」と教師にすすめられるような人は、たくさんいたんじゃないかな? 落ち着きが無かったり暴れたりするのが、その子の個性かどうかっていう線引きは難しいわね。

アカシア:その子がハチャメチャなだけならいいいけど、他人に危害が及ぶかもしれないとなると問題ですよね。アメリカには専門の人がいるから、こうした場合アドバイスできるんですね。日本にも、適切なアドバイスができる専門家がいるんでしょうか?

サンシャイン:となると、これはアメリカならではの物語として読んだほうがいいのかもしれないですね。

アカシア:一度レッテルを貼られたら、特殊な施設に入れられてしまうだけだと怖いですね。この作品の中では、クラスの中で手に余ると判断されたら支援センターへ行って、そこでその子にあった訓練を受けてまたクラスに戻ってくるということになってますけど、それでうまくいったら、いいですね。

みっけ:特別なクラスに入れて、そのまま戻って来られない、というのはよくないですよね。その点この本では、行ったり来たりできているけれど。

アカシア:今の日本にはまだないのでしょうが、こういう形があるというのは、その本を読んでわかりました。

ネズ:大人が読んだ方がいいっていう本なのかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)


チューリップ・タッチ

アン・ファイン『チューリップ・タッチ』
『チューリップ・タッチ』
アン・ファイン/著 灰島かり/訳
評論社
2004.11

げた:こわくなりました。どうしていいかわからなくなりました。というのは、チューリップがこうなったのは、彼女の父親のせいですものね。一方、ナタリーのお父さんは、私は自分自身の立場に置き換えて読んでしまいました。もし、自分がナタリーの父親だったら、どうするんだろうとね。彼のナタリーへの接し方は普通なのかなと思いましたね。いずれにしても、こういう子どもに接したことがないので、突き刺されるようにこわかったです。

紙魚:帯に「邪悪な人間なんて、いない」と書かれているので、最初からそういう人物の物語を読むつもりで読んでしまいました。私には、ナタリーがチューリップにひかれていく過程はつかみにくかったです。ただ、ひたひたとおそろしさがつのっていく書き手の力はすごいです。ただ、年齢の低い人にすすめたいとは思いにくい本です。

みっけ:すごく強烈で、ぐいぐい引き込まれたけれど、どうやら私はチューリップの方に感情移入しちゃったらしく、ナタリーがなんとも嫌で、大人も非力で、なんか嫌な気分が残りました。確かにナタリーはああするしかなかったわけだけれど、それでもあるところからすっと離れていくじゃないですか。突然離れて行かれる方はたまらないよなあって、そう思っちゃった。アン・ファイン自身がぜひ書きたいと思っていたと、訳者後書きにあったし、たしかにそれだけの力のこもったよく書けた作品だけれど、これを子どもに向けて出してどうするの?と思っちゃった。大人が読め!っていう感じですね。ナタリーにこれ以上何かを要求するのも無理だし、ナタリーのお父さんたちがチューリップに気をつかっているのもわかるし、本当に痛々しかったです。

ネズ:この本は、大変な傑作だと私は思っています。作者は本気で書いているし、訳者も本気で訳している。すごいなと思ったのは、麦畑の場面。最初に、黄金色に輝く麦畑の中に、女の子が子猫を抱いて立っているというルノアールの絵のような、美しい光景が出てくる。それが、後半、なぜこの子が、このとき子猫を抱いていたのかということが分かったとたんに、それまで読者の心の中にあった泰西名画のような場面が一気にモノクロの、陰惨な場面に変わるのよね。見事だなあと思いました。それから、ナタリーが、チューリップを敬遠するようになるころから、チューリップがナタリーの中で生きはじめてくるというか、だんだんチューリップのモノローグなのか、ナタリーのなのかわからなくなり、ひとりの人間の中でふたつの人格がせめぎあっているようなサスペンスを感じました。
この本が出たときは、イギリスでも子どもに読ませるべき本かどうかという議論があったと聞きました。よく児童文学は「子どもについて」書いた文学ではなく、「子どものために」書いた文学だって言われるわよね。この「ために」というのは、子どもが読むためにという意味だけど、アン・ファインはこの作品を「子どもが読むために」というより、「子どもの味方になって、子どもを擁護するために」書いたような気もします。何度も読みたくなるような楽しい作品じゃないけれど英国の児童文学の質というか、レベルに圧倒される作品だし、ぜひ大勢のひとに読んでもらいたいと思う。

みっけ:大人に読ませるという感じは、確かにしましたね。

アカシア:私もすごい作品だなと思いました。それに私は、大人だけじゃなく、この作品を必要としている子どもも確実にいると思います。ナタリーのように、悪魔的な魅力をもった者にどうしようもなく惹かれてしまうことって、子どもにもあるじゃないですか。それにチューリップのように、否応なくこうなってしまう子だっている。そして今の時代の親は、特に児童文学に描かれる親はそうですが、あんまり子どもの力にはなれなくなっている。ナタリーの親は普通の良心をもちながらも、チューリップに対しては中途半端な善意を持ってしまいますが、そういうのも自分も含めてよくある大人だと思います。そんななかでナタリーはどうしたらいいかわからなくなるわけですけど、アン・ファインがすごいのは、結論をあたえるのではなく、いっしょに考えていくところ。いっしょに悩んでいるところ。
『新ちゃんがないた』のような本も必要だと思いますが、大きな違いは『新ちゃんがないた』は、正解を作者が用意していて、ちゃんと読めばその正解にたどりつく。逆に言うと、その正解にしかたどりつかない、とも言える。それに比べ、この作品は、もっといろいろなところへ考えが広がっていく。読者の中に考える種として残って、のちのちまたさらに枝を広げていくかもしれない。
作品のリアリティについては、ナタリーがチューリップにひかれていく気持ちや、だんだん重荷になっていく気持ちは、とてもていねいに描かれていると思います。もちろん低年齢の子どもには向かないと思いますが、中学生以上の子どもにはぜひ読んでもらいたいと思います。

サンシャイン:チューリップのような人が、とりついてきて、はなれられなくなるというのは、自分にも経験があります。ホテルの火事の場面もすごいですね。

アカシア:徹底的にリアルよね。

ネズ:ホテルで働いている人たちの描写もリアル。

サンシャイン:チューリップには、ヨーロッパの魔女のイメージも重ねあわされているような気がします。それからチューリップの激しい言葉に、まわりの大人たちが驚くというのも、イギリスの階級的な空気??この言葉はこの階級の人は絶対に人前では言わないとか??が反映しているのでしょうね。翻訳されるとわかりにくくなってしまいますが。

アカシア:最後の一文「チューリップを狂わせたのは、あたしだと。」というのは、原文と照らし合わせてみると、ずいぶん強い感じがしますが、どうなんでしょう。

ネズ:「あたしにも罪がある」くらいじゃ弱いと、訳者が思ったんでしょうね。

アカシア:ハッピーエンドになりようがないわけですけど、現実世界をリアルに描くとこうなるしかないんでしょうね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)


新ちゃんがないた!

佐藤州男『新ちゃんがないた!』
『新ちゃんがないた!』
佐藤州男/著 長谷川集平/絵
文研出版
1986.06

げた:個人的な話なんですが、友達に、この新ちゃんと同じような子がいたんです。40歳くらいで亡くなったから、どちらかというとこのお話に出てくる先輩みたいな子かな。どんどん筋力が落ちて、最後は目だけで反応していて。小学校には同級で入学したんですけど、やっぱり新ちゃんみたいに途中でしばらく施設に行ったんですが、それでもよくならなくて、戻ってきました。そういう記憶がよみがえってきて、あの頃のことをいろいろ思い出しました。障碍がある子も同じように生きているんだよ、ということをわかってもらうには、いい本だと思いました。

みっけ:お話そのものの展開は、一種予定調和的というか、問題もすべてすらすらと解決されてしまうので、そういう意味のインパクトは少ないけれど、新ちゃんの描写の細かいところが、とてもリアルでいいなあと思いました。トイレで苦労する話とか、足を引きずってズボンが破けてしまう話とか、そういったことがぐぐっと迫ってくる気がしました。20年以上前の作品だからというのもあるかもしれませんが、新ちゃんの親友である語り手が、なんというか熱くて元気で明るくて、全体にトーンが明るいのもいいなあと思いました。

ネズ:作者も同じ障碍を持っているということを知って、だからこういう作品が書けたのだと納得しました。具体的に新ちゃんが困っているというトイレの場面など、この作者だからこんなにリアルに書けたんでしょうね。『チューリップ・タッチ』のような作品は難しくてわからないという子どもたちも、こういう作品なら素直に理解できるんじゃないかしら。でも、主人公も新ちゃんも、ちょっとばかりいい子すぎるのでは? あと、タイトルがねえ……。

サンシャイン:乙武さんみたいに、障碍のある子も一緒と、アピールしている本だと思います。すごく楽観的な本で、子どもは結構感激したりするんじゃないかな。ただ毒がなさ過ぎるとも言えます。悪い話じゃないんだけども、登場人物がいい子すぎる。乱暴な感じの子が、夏休みに本を2回も読んじゃったりして。そこがちょっと気になりました。筆者自身がその病をかかえているので、そうありたいという祈りが込められているのでしょう。

アカシア:障碍についてきちんと伝わるように書くというのは、難しいことですよね。この作品は、作者も同じように苦労されているから伝わる力を持っているわけですが、へたすると、障碍があっても必死で頑張れば一人前になれる、という結論になってしまう。でも、頑張りたくても頑張れない人だっているんじゃないですか。最近、病院の職員が迷惑な入院患者を公園に捨てたっていう事件がありましたよね。新ちゃんや乙武さんは、頑張っているし迷惑もかけないからいいけど、そうじゃない人は捨てられてもしょうがないんだ、みたいになってしまうとまずい。
こういう立場から書いた本は少ないから。そういう意味では貴重ですね。頑張るという点も、作者の理想が、新ちゃんやお兄ちゃんに投影されているのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)


いたずらおばあさん

『いたずらおばあさん』
たかどのほうこ/著 千葉史子/絵
フレーベル館
1995

ウグイス:たかどのさんは幼年ものがうまい作家で、子どもにもたいへん人気があり、よく読まれてます。タイトルや表紙がまずおもしろそうで、ユーモラス。内容も明るいユーモアが感じられ、安心して読めるわね。登場人物のネーミングがおもしろい。エラババ、ヒョコルさんなど名前を聞いただけで、子どもはおもしろがります。翻訳ものだと、ネーミングのおもしろさは伝わりにくけど、日本の創作だとこれが味わえてうれしい。おばあさんたちのいたずらは、ちょっと嫌なやつをへこませるという悪気のないものばかりで、後くされがなく、ハハッと笑って終われるところがいいですね。主人公は68歳と84歳のおばあさんなんだけど、そんな歳になっても子どもの部分があるというのを垣間見る感じで、おもしろかった。

ペロ:おもしろく読みました。痛快ですね〜。24ページで、ヒョコルさんがはじめて若返るとき、「50歳くらいになれば、もうじゅうぶんなのではありませんか?」ってエラババ先生に言ったら、エラババ先生の返事がふるってる! 「もういちど子どもになって、思いっきり遊べるっていうときに、さかあがりひとつやれない中年のおばさんになって、それでじゅうぶんだなんて、こころざしが低すぎて、ばちがあたりますよ!」だって。楽しい! いろんないたずらもおもしろかったのですが、1箇所、音楽祭のところはちょっと無理があると思いました。発表会のときは、ピアノを習い始めたばかりの子でも、暗譜して弾くものだと思うし、ましてゲゲノキ先生は音楽の先生ですから……。でも、このお話は、そういうことにこだわってちゃダメなのよね。

愁童:おもしろく読みました。エラババ先生みたいなユーモラスなネーミングの登場人物の設定なんか、読者の子供達に素直に受け入れられそうでうまいなって思いました。ただ、最後の行政批判みたいな箇所は、ちょっとウザイかなと……。

ネズ:私も、たかどのさんは幼年童話がとてもうまいと思う。この作品も、すらすら読めて、ゲラゲラ笑えて、子どもたちに人気がある理由がよくわかります。登場人物のネーミングもおもしろい。最後の章については、私も愁童さんとおなじで、ちょっと理屈っぽくなったかなと思ったけれど、こういう章をおしまいに持ってきたことで物語がうまくまとまったとも言えるのでは? おばあさんを書いたもので、私が大傑作だと思っているのが、以前に学研で出たミラ・ローベの『リンゴの木の上のおばあさん』。物語のなかのキャラクターとしてのおばあさんと、現実のおばあさんを書きわけていて胸を打たれますが、この作品にはそれほどの奥行きや深みはないわね。でも、そこまで望むのは望みすぎかしら?

mari777:発想が斬新で、おばあさんが二人とも生き生きしています。二人のおばあさんのキャラクターがきちんと書き分けてあるのもよかった。

みっけ:楽しく読みました。いたずらの仕方やいたずらを仕掛ける相手が、いかにも子どもたちの共感を呼びそうで、おもしろかったです。子どもって、いばっている大人が大嫌いだから。でも、最後の章だけは、ちょっとこなれてない感じというか、お説教くさいような気がして、もう少し違う形で終わったらよかったのになあ、と思いました。

アカシア:たかどのさんの本は、やっぱりこのくらいの長さのものがおもしろいわね。ユーモアたっぷりで笑えるし。いやな大人がいても子どもはなかなかやっつけることができないけど、この作品だと正体はおばあさんだから、懲らしめることができるんですよね。そこも痛快。最後の話も、読んでる子どもは痛快なんじゃないかな。リアリティを言い出すときりがないけど、この作品はそういう種類のものじゃないから、私は楽しく読みました。

うさこ:たかどのさんは幼年童話ものがうまい作家さん。日本語で日本人が読むものとして書いてますけど、ユーモアのセンスや発想が、どこか遠くて近い外国の人が書いているような感覚で、とても楽しく読めました。おばあさんたちの茶目っ気たっぷりのユーモアがとてもおもしろかった。人物名はじめ、その他に音や音の響きを有効につかって表現しているところがたくさんありました。会話文のおかしさを地の文でフォローして、さらにおもしろくさせたり細部まできちんと書きたい作家さんだと思います。うまへたな絵もこの物語に合ってますよね。続刊が出てないのはなぜでしょう?

げた:洋服を重ね着すると、重ね着した服の数だけ若返られるなんて、大人が読んでもおもしろいと思います。どちらかというと大人の発想なのかという気もしますね。「若返り変身願望」は大人のものですもんね。「夢見る少女の会」のおばさんたちの言動なんかも、子どもにはピンとこないんじゃないでしょうかね。挿し絵はちょっと古めかしいかな。エラちゃんは子どもに変身しても、しもぶくれ顔は変わってませんね。そこがおもしろいといえばおもしろいんですけど。

愁童:おばあさんたちが子どもに変身した場面に、『まあちゃんのながいかみ』(福音館書店)にあったような子どもの目線が生きていると、もっと説得力が出たんじゃないかなって思いました。

ネズ:おばあちゃんにもどったときは、もう少しおばあちゃんらしく、腰が痛いだの、目がしょぼしょぼするだの書いたらどうだったのかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2007年10月の記録)


マチルダばあやといたずらきょうだい

『マチルダばあやといたずらきょうだい』
クリスティアナ・ブランド/著 こだまともこ/訳 エドワード・アーディゾーニ/絵
あすなろ書房
2007.06

愁童:ちょっと個人的な感慨になっちゃうんだけど、久しぶりに同人誌時代の若い頃のこだまさんと、おしゃべりしているような雰囲気を感じながら楽しく読んじゃいました。幼児語の翻訳なんか、なかなか秀逸だと思いました。原作の持つかなりハチャメチャな雰囲気と訳者の体質がうまくマッチしていて楽しい翻訳本になってますよね。

mari777:懐かしい感じのテイストが好き。昔の岩波書店の翻訳シリーズを読んでいるような感じ。7つのおけいこの構成がミステリ仕立てだな、と思いながら読んでいたら、この作家、ミステリ作家だったんですね。書きなれているという印象で、安心して読めました。ただ、せっかくなら魔法ではなくて知恵とか気持ちの持ち方で解決していってほしかったなと思うようなところもあります。最後に約束どおり、ばあやが子どもたちを離れていく、というストーリー展開は、予想がついたけれどもほろり。装丁も懐かしい感じがしていいなと思いました。

みっけ:子どもに媚びていない感じがあちこちにあって、おもしろかったです。たとえば、7ページで、「あんまりたくさんいたので、名前はいちいち書かないことにします。……ぜんぶで何人いるか、足し算してくださいね。」なんていうところには、おっと、こうきたか!という感じでした。それでいて、いかにもおばあちゃんが話してくれている雰囲気が出ていて、そのあたりが絶妙でした。語り手のおばあちゃんのたたずまいまで想像できてしまう訳文だと思いました。きっと、とても礼儀正しくてきちんとした人だけど、それでいて、いたずらっぽく目がきらっと光っているような人なんじゃないかなあ。読み始めてからしばらくのあいだは、子どもたちが何か悪さをするたびに大騒ぎになって、でも、マチルダばあやにSOSを出すと一件落着!みたいな感じで話が進んでいきます。心のどこかで「大丈夫なのかなあ」とちょっと腑に落ちない感じもしました。ところがそのまま読み進めたら、最後の一回になって、子どもたちの悪さでひどい目にあった人たちが勢揃いして、子どもたちがたいへん怖い思いをする。この展開には感心しました。妙に救済したりしていないところが、いいなあと思います。どことなく意地悪というか、ぴりっとした隠し味が聞いている。ただ、大おばさんにイバンジェリンがもらわれていく話は、これでいいのかな、と思いましたけど。あと、アーディゾー二の挿絵は、もうそれだけで古き良き時代に連れ戻してくれる感じで、いいですね。

アカシア:この本は昔から知ってたんですけど、上流階級の子どもの話だし、とてもイギリス的な乳母の話なので、今の日本では受け入れられないだろうな、と考えていたんです。でも、今回この本を読んで、あまり古いという感じがしませんでした。逆に、古い部分よりもおもしろい部分がきわだつ訳になっていて、ああ、こういうふうにすればこの作品も原題に生きてくるんだな、と思いました。訳者の力ですね。舌足らずの子どものセリフも、ちょっと考えると意味がわかるようになっていて、うまいですね。

みっけ:ラストは、出っ歯が落ちて、それが宝箱になって、そこから出てくるおもちゃに夢中になっていると、マチルダばあやがいなくなっているという展開で、なんというか、肩すかしを食らったような不思議な終わり方ですよね。

愁童:マチルダばあやを、単なる雇い人として描くのじゃなくて子どもたちに君臨する動かし難い大人として書いているのがいいな、なんて思いました。

アカシア:ばあやは、メアリー・ポピンズと同じで、ずっと不機嫌な顔をしている。厳格なイギリスの乳母の典型ですよね。ただね、下層の子が身代わりになって嫌なおばさんの養子になり、それでめでたしめでたしなんていうところには、作者の階級意識があらわれているかも。

うさこ:ある日突然どこかからやってきた人の物語は、またある日いずこへか帰っていくというお約束があるのだけど、このお話はどういう展開で結末を迎えるのかなと楽しみでした。「1つめのおけいこ」の章の流れが各章のおけいこのある規則性を示しているのかなと思ったけど、どの章もちがうかたちでいたずらと「おけいこが終わりました」でまとめられている。どの章も「…でも歯はでっ歯でした」の表現が妙にインパクトがあるなと思ったら、最後のとっておきのごほうびとうまく結びついて楽しかった。

ウグイス:以前は、G社が出していた世界の童話シリーズの中の1冊。このシリーズの中では、この『ふしぎなマチルダばあや』だけが他と比べて古めかしい印象があったので、正直言って今さら新訳?と思ったんですけど、読んで見ると古めかしさより軽快な楽しさが感じられておもしろかった。原文もそうなんでしょうけど、翻訳もとても丁寧で上品な言葉使い。そういう言葉使いなのに実はとてもおかしなことを言っている、というのがこの本のおもしろさだと思う。旧版は、明らかに3〜4年生を対象にした作りでしたが、この装丁や字の大きさを見るともっと年齢が上の子をターゲットに作ったのかな? 内容的には3、4年生に読んでほしいんだけど。

ペロ:この装丁は、原書とだいたい同じ。この原書、天地155ミリ×左右110ミリと、小ぶりでかわいい! 今の子どもたちは、読める子と読めない子との差が大きくて3〜4年生でも読める子はどんどん読むし、5年生でも、読めない子は低中学年向きの本も読むのがたいへんという話だから、読者対象をどのくらいに設定するかっていうのは、なかなか難しい問題だと思います。

げた:子どもたちのいたずらの内容など、よく考えてみれば、とんでもない話ですよね。ロバに女の子の洋服を着せて身代わりにするなんて、ドタバタ劇になっちゃうような話ですよ。描き方によっては、とっても下品な感じになるんだけど、それがちゃんと上品な仕上がりになっているのがすごいなと思いました。アーディゾーニの挿絵の効果もありますよね。

ネズ:大人の本でも新訳ものが続々と出てきていて、旧訳と読みくらべてみると楽しいですよね。特に子どもの本は、その時代の子どもや児童文学に対する考え方があらわれてくるのでおもしろい。それから、アカシアさんの話にもあったけれど、この本にかぎらずこういう古い作品は、どこかに差別的な物の見方などがちらちら現れたりするので、訳すのに神経を使いますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年10月の記録)


頭のうちどころが悪かった熊の話

『頭のうちどころが悪かった熊の話』
安東みきえ/著 下和田サチヨ/絵
理論社
2007.04

げた:この本は、今、人気の本なんです。うちの図書館も、気づいたら予約がいっぱいになってて、びっくり! 最初1冊しか購入していなかったのですが、あわてて3冊追加購入しました。うちの図書館では、分類は「児童書」にしたんですけど、実は今、ちょっとまずかったかもと思ってまして……。圧倒的に、子どもよりも、大人に読まれているんですよね。予約をしている人も、ほとんどが大人。で、僕もざーっと読んでみたんですけど、やっぱり子どもの本ではないですね。YAでもキツイかも。一般書かな。書評でとりあげられたこともあって、今は予約がいっぱいなので、しばらくはこのまま行きますが、一段落したらYA棚か一般書に移そうかと思案中。お話はおもしろいけど、やっぱり児童書としては扱えないので……。僕は、7編のうち「頭のうちどころが悪かった熊の話」「いただきます」「ヘビの恩返し」あたりが、特におもしろかったな。「頭のうちどころの悪かった熊の話」の最後、熊のセリフで、そういえばレディベアをお嫁さんにしたとき、友だちの月の輪熊に「どこか頭のうちどころを悪くしたか」ってたずねられたけど、あれはどういう意味だったんだろうなんていうところ、ニヤッとしちゃった。

うさこ:私は、大人のための寓話だなと思いました。読み終わってから、ふと「こういうお話が読みたいときって、どんなときだろう?」って考えたんです。さみしいときかなあとか、なにか特別なときかなあとか。もやもやしてるときに読むのもいいかと思いますね。読後感もそれなりにおもしろいし、読んだ後、スーッとして、ミント味のキャンディをなめたみたいな感じも。読んだときどきで、感想も変わりそうです。例えば、88ページの終わりから2行目、「自由なたましいに縄がかけられないことを父さんは知っていた」というフレーズは、気持ちに何かかかえているときに読むと、「そうだよな〜」と共感して読めるけど、フツウの気分のときに読むと「大げさな…」と感じるかもね。

ケロ:やっぱり、大人に向けた寓話かな。寓話っていっても、イソップなんかとは、だいぶ違いますよね。私は「いただきます」が、とくに好き。7編が、1冊の最後になって、まとまりを見せるという構成もおもしろかったな。

アカシア:私も図書館で借りようと思ったら、たいへんな順番待ちになってて借りられず、買って読みました。やっぱり、子どもには難しいかも……。この本、子ども向けの本ではないですね。たとえば「りっぱな牡鹿」なんかは、子どもにはわからないんじゃない?「ないものねだりのカラス」は、ちょっと宮沢賢治の「よだかの星」に似たテイストがあるんだけど、こういうのって、子どもにはどうかなぁ? いや、こういうお話って、大人でも、好きな人は好きだと思うんだけど、でも、普遍的でだれにでも愛されるっていうのとはちょっとタイプがちがうかも。理論社のYA路線のうまさもあるよね。ちょっとひねってあって、メッセージもあって、っていう……。

みっけ:私も図書館では借りられず、買って読みました。うーん。おもしろかったのは、おもしろかったんだけれど。とても奇妙な味わい。どちらかというと、さみしいような、やさしいような、ふしぎな雰囲気で、たしかに、子どもにはちょっと難しいかも。読んでると、なんかこう、「カクッ」とくるようなところがあって、人生いろいろあるという大人にすればおもしろいところなんだと思うけれど、書いてあることだけを追って読む子どもには、通じにくいかもしれない。決して嫌いな本ではないし、読んで損したとも思わないけど、でも、子ども向けの本ではないような気がします。初出の雑誌から見ても、もともと子どもに向けて書いたのではなくて、子どもの周辺にいる人に向けて書いたようだし。

mari777:国語の教科書関係の仕事をしているので、短編を読むときは「教科書に載せられるかな?」と、ついつい考えながら読んでいます。今回も、やっぱりそういうことを考えながら読みました。教科書に掲載する作品って「おもしろかった」で終わってしまうものはあまり向いてない。いろいろな読み方のできる作品のほうが、教材としてはとりあげやすいんです。表題作の「頭のうちどころが悪かった熊の話」と、「池の中の王様」は、内容としてまとまっていて長さも適当だし、コミュニケーション不全についてのメッセージとしても読めるかな、案外、小中学校ではなくて高校の教科書に載せたらどうだろう、などと思いましたが、やっぱりちょっときついかな。高校生も含め、子どもが楽しく読む、という類の本ではない、という気がしました。でも、表紙の絵がかわいくて、ちょっとおしゃれな感じで、こういうのも人気の秘密なのかな。

ウグイス:この本、興味があったのよね〜。まず、タイトルがおもしろいでしょ。それに、小泉今日子が書評でとりあげてから、スゴイ人気になってるみたいだったし。それで、期待して読んだんだけど、人間のもっている、いろいろな、ままならない感情をうまく表現してるなあと思いました。部分的には、そういう感情あるあるって思うんだけど、1つ1つの点がつながって1本の線となったときに、一体どうなっているのか、よくわからなくなる。そういうことから考えると、子ども向きではなくて、大人向きですね。といっても、子どもが笑いそうなところもあるのよね。子どもの本としておもしろいかなと思ったのは、「池の中の王様」で、オタマジャクシの「ハテ?」が、おばあさんに「顔、洗って、きちんとしといで」って、いわれるところとか、「りっぱな牡鹿」で、アライグマがげんなりやつれて、目のまわりが茶色になってしまった、なーんていうところ。大人より子どものほうが、こういうのをおもしろがると思うの。だから、子どもを意識して書けば、それはそれでおもしろいものになったんじゃないかという気もする。

みっけ:なんか、最後がなんとなく尻切れトンボというか、よくわからないで終わっちゃうのが多いんですよね。

ウグイス:最後に、「あっ、そういうことか!」って思うこともあるんだけど、いや、でもやっぱり違うかもっていう気もしてきたり……ほんとによくわからない。こう、煙にまかれる感じ……。

みっけ:そう、そう、煙にまかれるの!

ウグイス・みっけ・アカシア:そして、それをわかってて、わざとやってるって感じ!

みっけ:ラストは、読者にぽーんって預けちゃう感じ。

ウグイス:あと、この本、動物の短編集だけど、この動物だからこの話っていう必然性はあんまりないのよね。あ、ヘビの話は例外で、これはヘビならではのお話だけど。その他は、あんまり動物の生態とは関係がなくて、例えばクマの話は、別にクマである必要はなく、キツネでもいいというような感じ。だから、動物の話というよりは、動物の皮をかぶった人間の話なんでしょうね。

こだま:ふふふ。「とくにこの本が」、ということではないんだけど、わけのわからない本を、書評なんかで「おもしろい」っていうと、なんとなーくおしゃれに見えるっていうこと、あるわね。

ウグイス:ともあれ、大人に「おもしろい、おもしろい」と言われて売れるっていうのも、それはそれで、結構なことだと思うわぁ。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年10月の記録)


トモ、ぼくは元気です

香坂直『トモ、ぼくは元気です』
『トモ、ぼくは元気です』
香坂直/著
講談社
2006.08

mari777:リアリティがあるなと思いました。前半はぐいぐい読めて。関西弁の小説は苦手なのですが、この作品には抵抗感がありませんでした。阪神タイガースなどステレオタイプかなとも思いましたが、女の子たちも魅力的だなと。ただ、障害をもつ二組の兄弟姉妹という設定が、自分としては今ひとつのれなかった感じです。

愁童:おもしろく読みました。登場人物の体温が感じられるような児童書で好感を持って楽しく読めたですね。商店街の雰囲気や、そこに暮らす大人たちのイメージがちゃんと伝わってきて、作者の書く作品世界が読者の脳裏に確かな存在感で拡がっていく、巧みな作品だと思いました。ただ、ちょっと残念だなと思ったのは、最後の帰宅の描写で主人公が発する「トモ、帰ったぞー」という言葉。作者がそれまで、ていねいに書き込んでいる主人公のトモに対する微妙な思いなどに共感して読んでくると、帰宅の言葉が、こんなオヤジ風なものになるのには、かなり違和感がありましたね。画竜点睛を欠いた感じ。

アカシア:そこは、オヤジみたいなイントネーションじゃなくて、「帰ったぞー」って、張り切ってる感じのイントネーションで読めばいいと思うけどな。

愁童:帰宅の途中に日向と日陰があって、こっちが夏…、こっちが秋というようなところは主人公の少年らしさが見事に表現されていて、とても印象に残りましたね。

アカシア:私もおもしろかったですね。最初はよくわからない謎の部分がたくさんあって、読んでいくうちにだんだんわかってくるっていうつくり方もうまいなと思いました。大阪弁がいっぱい出てくるっていうだけじゃなくて、大阪弁の人たちと和樹のテンポの違いっていうのもちゃんと書いてる。いつも居眠りしてる刀屋のおじいさんとか、紅白の服をいつも着ている夏美の祖父母とか、アニマル柄の服でいつも自転車をぶつけてくるおばちゃんとか、商店街の人たちのさまざまな人間模様も効果的に登場します。霧満茶炉と書いてキリマンジャロと読ませる喫茶店も、いかにもありそう。舞台がちゃんと書けているので、子どもたちの姿も浮かび上がってきます。文章の生きもすごくよかったし、和樹がお兄さんのお守りとお母さんの期待の重圧に耐えかねて切れてしまうところも説得力がある。和樹と夏美の幼い恋愛感情もいいですねえ。夏美の妹の桃花ちゃんと、和樹のおにいちゃんが同じような障碍っていうのは、ちょっとできすぎですが。この作家さんは、『走れ、セナ』のときよりずっとうまくなってますよね。一箇所だけひっかかったのは、233ページ。和樹くんが拓に対して、「ぼくもそうだった。…いらいらする」って、長い説明をしちゃってる。でも気になるところはごくわずかで、どんどん調子よく読めて、とてもおもしろいと思いました。

ジーナ:すごくよかったです。6年生の夏休みに一人で大阪に行かなくてはならないという設定がうまいですね。大阪の子が大阪を舞台にして展開すると、ほかの地方の人には入りづらいだろうけれど、東京から来た主人公という設定で、子どもの目線で見たものをていねいに描いているからすっと入っていけますよね。学習塾に行くんだけど、ただ受験が目標というのではない、いろいろな子どもの姿も見えてくる。ゴーイングもそうだと思いましたが、作者が、いい人はいい人、悪者は悪者と決めつけないところがいいなと思いました。いやな不動産屋の子も、最後に本屋で和樹と出会うシーンで、ちゃんすくいあげている。子どもに向かって書いているなあって。今の日本の作品にしてはめずらしく、大人がしっかり描けているから厚みがあるのかも。和樹はお父さんのことも、発見するんですよね。読むと元気の出る作品だと思いました。

クモッチ:日本児童文学者協会新人賞の賞を取られたときに読みました。『走れ、セナ』のときは、う〜ん?という感想でしたが、この作品は、とてもよかったです。一気に読んでしまいました。昔ながらの商店街を描く児童書ってけっこう多いですよね。でも、「いいよね、こういう昔ながらのところって」で終わらせていないので、印象に残りました。細かい人物描写や、金魚すくいの伝統の一戦の部分など、多面的に描かれているから、印象に残ったのだと思います。障碍者を描くのも、児童書には多いですよね。そのせいか、あ、また?という感じで最初はひいてしまったんですけれど、主人公が抱えていたものや、どう乗り越えていくかがきちんと描かれていたので、最後まで引き込まれて読みました。

愁童:夏美、千夏、桃花の三人姉妹に、すごくリアリティがあるんだよね。三人がうまく書き分けられていて、作者の目配りの確かさに感心しました。タコヤキ屋のおばちゃんが、がんばれよってタコヤキを口に入れてくれるところなんか実にうまいですね。主人公の少年が口の中の熱いタコヤキにへどもどするような雰囲気が文章の背後にきちんと伝わってくるもんね。

アカシア:匂いとか触感とか、ちゃんと書けてるんですよね。

愁童:商店街の雰囲気や、そこに暮らす人たちが的確に描写されているので、こんな本を読んで育っていく子どもたちなら、空気が読めない大人にはならないでしょうね。K・Y人間撲滅推薦図書にしたいくらい。

サンシャイン:私も楽しく読ませてもらいました。いい本と出会ったなと思いました。伏線がうまく書けていて、次へ次へと読ませます。彼女のアタックが唐突で激しいんだけど、嘘くさくなくうまく書けてるかな。障害のあるお兄ちゃんに対する気持ちもいろいろあって、母親の前で爆発しちゃって、ある一定期間よそにいっていて、成長して戻ってくるっていう話。確かに、最後が気になりますね。帰ったところでトモとどうなるかも、もっと書いてあるといいんじゃないですか。

アカシア:いえいえ、そこを書いちゃったら書き過ぎです。読者に先を想像させるからいいんですよ。

愁童:帰る前に、ネコのうんちみたいなかりんとうを送るところがあるでしょ。母親にはネコのうんちなんて言えないけど、トモや父親とはそんなことを話題にしながら一緒にかりんとうを食べたいなって思う描写なんかも、この年頃の男の子らしくてうまいなって思いました。そんなこと考えながら帰って来たんだから、最後の帰宅の第一声に、もうちょっと工夫があると良かったな、なんて思っちゃった。

アカシア:でも、ここで水しぶきがとんでいて、虹をつくろうとしているのがわかりますよね。だから読者も想像できる。こういうところも、うまいと思う。

げた:『走れ、セナ』もそうだったんだけど、人物設定がはっきりしていて、わかりやすい。ということは、ステレオタイプだという感じにもなるんですけどね。豹柄のおばちゃんといい、夏美や千夏の描き方といい、いかにも大阪人という感じですね。和樹が大阪に来ることになった理由は、大阪での和樹の経験や東京で和樹のまわりに起こった出来事が語られていくなかで、だんだん読み進むうちにわかってくるというストーリーの展開のおもしろさがありますね。和樹は、それまでの自分を全く否定されたわけじゃないけど、一夏の経験を通して、一つ壁を乗り越えて、成長したわけですよね。そんな和樹が見られて、とてもすがすがしい気持ちになり、納得できました。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年9月の記録)


しらぎくさんのどんぐりパン

なかがわちひろ『しらぎくさんのどんぐりパン』
『しらぎくさんのどんぐりパン』
なかがわちひろ/作
理論社
2005.05

クモッチ:著者の名前は随分前から知っていましたが、ちゃんと作品を読むのは初めてでした。イラストもご本人なんですか。おばあさんがいて、手品のような魔法のようなことをする話っていうのは、いつ読んでも心が落ち着くなと思いながら読みました。子どもにとってのおばあさんというには、この絵は、ちょっと年をとってますね。それは、いいのかな? いずれにしても、何か困ったことがあったときに、お父さんやお母さんと違った接し方をしてくれるっていうのが、心を安定させてくれるんですね。でも、しらぎくさんっていうのは、あまり存在感のない人ですね。しらぎくさんは、どうしてこの子たちのところに現れたんだろうとか、お父さんも会っているというのは、どうしてなんだろうとか、そんな疑問がわいてきます。すてきなファンタジーなんだけど。作者の中には、ご自分のおばあさんの思い出があり、それが作品に反映されていると思うのですが、わざと、血縁のあるものとして描いていません。それが、いいのかどうかはわかりませんが、一つの家族との関わりだけを描いた形で本が完結しているのに、関係が明らかにされないので、印象が薄くなっている気がします。

ジーナ:なかがわさんの本は、絵本や翻訳はよく見かけても、長めの創作はこの会で読んだことがなかったので取り上げてみました。中学年くらいに、今このようなお話はあまり書かれないので、貴重だと思います。ちょっと困っている子どもたちのところに現れて、力を与えてくれるという設定が、『菜の子先生がやってきた』(富安陽子/著 福音館書店)に似ていますよね。しらぎくさんはおばあさんなんだけど、言葉遣いは昔話のおばあさんみたいじゃなくて、今風のしゃべり方なのも自然でよかったです。どんぐりパンとか青いスカラベとかガラス瓶などの小道具も、名前からして、想像力をふくらませてくれます。何気ないものから始まる想像のようなものを、作者がこのお話で子どもに届けたかったのかなと思いました。なにげない風景が、うまく書かれていますよね。せいやくんもさわこちゃんも、何かうまくいかないことがあってしらぎくさんに出会うけれど、それが何かとか、どうやって解決したとか全部言語化せずに、立ち直っていくところが、子どもの現実の姿をよくうつしていると思いました。

アカシア:安心して、おもしろく読みました。ただ、ファンタジーの世界の中のリアリティは希薄じゃないかな。お汁に食べたシジミやアサリの貝殻を下駄で踏んでつくる道が真っ白く見えるかなあとか、ドングリってアクを取ったりが大変で、すぐにはパンにならないだろうなあ、とか思ってしまいました。あとこのサルの絵は、いとうひろしっぽいですね。作者はきっと古きよきクラッシックな作品をたくさん読んで育った人なんでしょうね。古いよき懐かしさを感じる作品です。

mari777:表紙をぱっと見て、うわあ、かわいい、と思いました。しらぎくさんが魅力的なので、もっとしらぎくさんを読みたかったかなという感じ。人魚姫の部分は、入っていけなかった。6年生の女の子にリアリティを感じられなくて。あまんさんの作品もこのようなファンタジーが多いと思いますが、それと比べると最後の書き込みがもうひとつかな、という印象を持ちました。

げた:表紙の感じは、ちょっと地味かな。子どもたちにアピールできるのか、疑問ですね。話としては、好きなんだけど、ストーリーの高低があまりないので、どうなのかな? 中学年ぐらいの子どもにとっては、文章は読みやすいし、分量としては適しているのでしょうが、子どもたちをぐいぐい引っ張る力があるのかな、と疑問を感じました。かなり強くおすすめしないと、子どもたちには読んでもらえないかな? 子どもの心を解きほぐしてくれる、しらぎくさんの魅力が一読しただけでは伝わらないのではないかと思いました。

サンシャイン:作者本人が絵を描いたと伺って、こういうおばあさんのイメージだったのね、とわかりました。おばあさんに出会うためには、子どもの中になにかつらいことが必要なんでしょうねえ。66〜67ページで家族がやけに冷たいというか、冷えたハンバーグを食べさせたりして……。こんな家族って、ありますかねえ?

ジーナ:うちはこんなことありますけどー。ほかのことをしていると、自分であっためてという感じで。この子も、落ち込んでいたから黙っていたのであって、普通のときなら「あっためて」とか自分から言うのでは?

サンシャイン:あまりしらぎくさんと出会う根拠がはっきりしないな、という印象がありました。人魚姫の話については、思わず筆が進んでしまったのかなー、バランスの悪さを感じました。ちょっと中途半端な印象。

アカシア:せいやくんの話のほうは、自分の問題について乗り越えたというのが分かりやすいけど、さわこのほうの話は、その辺がはっきりしませんね。

ジーナ:この倍くらいの量があって、しらぎくさんのことがもっとわかると、おもしろくなるかもしれませんね。

クモッチ:でも、読者対象からすると、これ以上本が厚いと手を出しにくいかも。中学年向けくらいの作品で、私たちが読むともの足りないと思うようなことは、この本に限らずよくありますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年9月の記録)


ビッグTと呼んでくれ

K.L.ゴーイング『ビッグTと呼んでくれ』
『ビッグTと呼んでくれ』
K.L.ゴーイング/著 浅尾敦則/訳
徳間書店
2007

アカシア:とてもおもしろかった。主人公のトロイは、自分にはいろいろな点でマイナスのレッテルを貼りまくっています。まわりの目を気にしすぎるし、〈デブ〉という脅迫観念にとらわれすぎている。それで、まわりの人たちには逆にプラスイメージのレッテルを貼りまくる。自分のことも他人のことも等身大にとらえることができないでね。弟は「どこにいてもしっくり適応できる」し、お父さんは「元海兵隊でびしっとしてて、背が高いけど筋肉質でデブじゃない」。カート・マックレーのことも、最初はやはり実像でなくレッテルで見てしまって「やせてる」、「まわりをまったく気にしない」「かっこいい」「自己表現できる」と、自分とは正反対のプラスイメージで最初はとらえている。でも、しだいに自分のことも他者のことも客観的に見ることができるようになっていきます。そのへんの過程が、うまく書けてますよね。最後、元海兵隊のお父さんの手をかりて、カートといっしょに住もうっていうのは、ちょっとやりすぎかなって思ったけど、カートはほかに救いようがないから、これしかないのかもしれません。カートみたいな子っていうのも想像できるし、トロイみたいな子もいっぱいいるだろうし。極端なプラスイメージや極端なマイナスイメージを出してオーバーに書いている部分など、コミカルな感じもあって。まじめなテーマだけど、笑えるところもあるって、いいじゃないですか。翻訳もうまい。

愁童:作者の創作姿勢がよく似ていて、『トモ〜』と読み比べる感じでおもしろく読めましたね。パンクロックがはやっていた時代にちょっと寄りかかりすぎてて、生活臭が感じられなくて、やや物足りない面もあるけど、自分のデブを鬱陶しく思う主人公の心情が良く書けていて、共感をもって読めたですね。

アカシア:パンクロックって、今でもまだ白人の間でははやってるんじゃないかな。この作者は、けっこう細かいところもきちんと書いてますよ。たとえばこのお父さんだけど、p33に「外に出ると、不審者が侵入しないよう、建物の入口をしっかりロックしてから、つかつかっとこっちにやってきた」なんて書いてます。p55には「部屋の奥にある窓の外に、一文字掛けた〈アン ィーク〉という赤いネオンサインがあって、けばけばしい光が部屋にさしこんでいる」なんていう描写もあるわよ。

mari777:私は今月の3冊の中でいちばんひきこまれて読みました。表紙の絵を見て、自分では絶対に買わない本だと思ったんですけど。内容的にはかなり特殊な世界を描いてるけど、翻訳ものっていうのがプラスに作用しているように思いました。ニューヨークを舞台にしていることで、距離がとれるっていうか、現代の日本の高校生が読んでも、逆にすんなり世界に入っていけるんじゃないかなと。翻訳はうまいなって思いました。最初から最後まで、ていねいに訳している感じです。ただ、割注が多いのが気になりました。割注ってどうなんでしょうね。

アカシア:読みたくない子はすっとばせばいいから、いいんじゃない?

クモッチ:翻訳物って、当たり前ですが外国のことなので、分からないことが結構ありますよね。そのぼんやりした感じもけっこう好きなんですが、脚注を読みながら、へ〜えと思う感覚も好きです。135ページの「デッドマン・ウォーキング」なんかはこれでよくわかるし。159ページの「あまーい空気…」についてる(マリファナはあまい香りがする)は、よけいかな。でも、おもしろい。207ページのように話の流れが速いところのベスピオ火山なんかは、無意識に読み飛ばしてたみたい。最後にまとめて注がついているのは、逆に話が中断してしまうので読みにくいと思ってしまいます。

げた:『トモ〜』もそうですけど、イメージがすぐにぱっと広がる感じです。タイトルを見ただけで、「何だろう?!」と手にとりたくなりますよね。主役の登場の仕方もおもしろい。地下鉄でふらふらしていたところを声をかけられて、おごらされちゃう。そしたら、それがロックの神様。伝説のロックスター。どうしてTがそんなに気に入られたのか、わかんないところもありますけどね。自虐的な「デブ」がどこまで、ビッグになるのかなって、期待させるところもおもしろいです。やっと、ライブにこぎつけたんだけど、いいところで、ゲロ吐いちゃって。でも、二度目の挑戦でスティックを持つところで終わって、ビッグなTを予感させる終わり方がよかった。すごく映像イメージがしやすくて、映画になりそうだなって思いました。一気に読者をひっぱっていってくれる本ですね。

クモッチ:私もおもしろくて一気に読んじゃいました。でも、カートの人物像がぶれちゃって、よくわからなくなったんですけど、先ほどおっしゃったように、主人公の目線で書いているので、それでかなと納得した感じです。でも、『トモ…』も1人称なんですよね。うーん、『トモ…』は、ぶれなかったんだけど。ぶれてしまうのは、「マンハッタンの高校生像」てのが、よくわからないからかな? カートの弱い面とスルドイ発言をする面に、私の中では折り合いがつかなかったという感じです。それにしても、この作品は、強烈です。臭かったり、うるさかったり、トロイがすごく食べるんで、読んでいて、だんだん気持ち悪くなってきちゃって。まあ、気分が悪くなるくらいリアル、ということなんですが、ほんと、キモチ悪かったです、これ。それにしても、父親が完璧なんですよね。中盤以降よく登場するこの父親は、どうしてトロイが過食症になっちゃったんだろう、というくらい良い父親ですよね。

アカシア:いや、いい人だけど、きっとそんなに完璧でもないんですよ。他者にはみんなプラスのレッテルを貼ってるトロイの目から見ると完璧に見えるけど、よく読むと、子どものことで悩んでる姿とか、「〈落胆している役たたずの片親です〉の電光掲示板が、頭上でチカチカ輝いている」なんて書いてありますもん。

クモッチ:最後のほうで、カートが「あのカップルを見ろよ」って言って、トロイが見ているうちにだんだんわかってくるシーンは、おもしろかった。こういうところも、カートはどこまでわかってるんだろう、と思いました。

アカシア:こういう子っていますよ。感受性はめちゃめちゃ鋭いんです。そのくせ、自分のことをかまってくれる人がいないから、正反対のタイプなのにトロイのお父さんみたいな人にちょっとなついちゃう。

きょん:私もカートのことがよくわからなくて、たぶんトロイの一人称で書いているから、カートのことを最初のうちは語れなかったんですね。

ジーナ:勢いのあるストーリーだと思いました。ぐいぐい読ませる。まさに、気持ち悪いほどのリアリティ。ここまでストロングな作品はなかなかないなーと。トロイが、カートというはちゃめちゃな子と出会って変わっていくのですが、ほかの人も変わっていくんですね。お父さんは、すごく厳格な人なのに、173ページで、カートは自分が盗みをしたのは「腹が減ってたし、疲れてたからっすよ」だなんてとんでもないことを言われても、鬼軍曹に豹変せず、カートに対して、予想と違う面を見せていくでしょ? だれもが、ステレオタイプにはまらずに、ストーリーの中で意外性を見せていくところがとてもおもしろいと思いました。ロックの場面の迫力は圧倒的で、すごい音が聞こえてきそう。ロック好きの息子に読めと勧めてしまいました。こういう場面を、文章でこんなふうに表現できるのだということを伝えたくて。

きょん:すごくおもしろく読みました。自分に自信を持つまでのストーリーで、ハチャメチャなところがおもしろいです。が、デブとしてのいじけた気持ちが前半延々と語られるのが、もういいやという感じもしました。デブの息遣いが聞こえてくるようで、私も気持ち悪くなってしまった。でも、カートとで会って変わっていって、ゲロを吐くところで、あまりな展開にびっくりして、そのあとぐいぐい読みました。人物の描き方がとてもうまい。カートが主人公のことをとても認めていたことに、トロイが気づくところもおもしろい。カートが、「お前も自分をさらして生きているんだ」というところ、カートがTを精神的に救ってくれた。でも、弟とのかかわりで、少しひっかかりました。デブの兄を前半さげすんで嫌っているが、わりとすっと認めていく様子に変わっていくところ。そんなふうにすっといくのかな?という感じがしました。

アカシア:前半は弟が「〜と思っているにちがいない」と言うくだりが多いんです。トロイが弟の実像を見ているわけじゃなくて、「きっと自分のことをさげすんで嫌ってるんだろう」と思い込んでる。それが、だんだん等身大の人物像として感じられるようになってくるんです。人物像がぶれてるわけじゃなくて、トロイの見方が変わって行くんじゃないかな。

愁童:終わり方が『トモ〜』と似ているなって、ちょっと思いましたね。最後の最後で、ギターと会話をしていくというのに、ドラムにスティックをたたきつけるという表現にはちょっと違和感を持ちました。ま、訳の影響もあるかもしれないけどね。

アカシア:最初の大事なステージではゲロ吐いちゃうんですよ。だから、ここでは叩きつけるほどでないとだめなんじゃないですか。

愁童:作者は、かなりの枚数を使って、主人公がギタリストのギターとの会話風なドラム演奏の練習シーンを詳しく説明的に書いてますよね。それだけに、作品の流れにそって読んでくると、「さぁ、会話の時間だ」という切っ掛けの言葉に反応してスティックをドラムにたたきつける、という表現が浮いてしまっているように読めちゃうんだけどな。まぁ、読み方次第では、これは主人公の最初のライブ演奏にスタートする意気込みの表現と受け取ってもいいんだろうとは思いますけどね。

一同:いや〜そんなもんじゃないよ。これでいいんじゃない?

(「子どもの本で言いたい放題」2007年9月の記録)


フレディー〜世界でいちばんかしこいハムスター

ディートロフ・ライヒェ 『フレディ 世界でいちばんかしこいハムスター』
『フレディー〜世界でいちばんかしこいハムスター』
ディートロフ・ライヒェ/著 佐々木田鶴子/訳 しまだしほ/絵
旺文社
2001

ケロ:今回初めて読みました。すごくかわいらしくて楽しく読みました。発売されたのは、ハムスターがはやっていた時期なので、この本はよく読まれたのでは? ただかわいいだけではなく、動物のキャラクターの書き分けが上手ですね。モルモットのエンリコとカルーソとのかけあいも楽しめました。詩のかけあいは、原文のテンポがどんなかわからないので残念ですが。中学年の子どもたちが喜んで読めるのではないでしょうか。
『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』(リチャード・アダムズ著 評論社)を読んだとき、ウサギが、困難に遭うと眠っちゃったりするのがおもしろく、本当の動物を観察しているなと思ったのですが、ハムスターがトライアンドエラーするあたりのことが、それに似ていて、動揺したときにヒマワリの種を並べ替えるのもおもしろい。続きも読み進んでいて、今3冊目読んでます。

ジーナ:私はそれほどおもしろいと思えませんでした。ハムスターが好きな子どもにはおもしろいんだろうなと思うのですが。一方通行ではないコミュニケーションをとりたい、つまり、自分の思っていることを伝えたいというフレディの願望は、飼い主であるゾフィーとのことなのかと思って読み進めていったら、それが最後結局は、マスター・ジョンが理解してくれたらいいとなってしまうんですね。それが、肩すかしをくったみたいな感じで。あっけなく終わってしまった感じでした。

ウグイス:細かいところは忘れてしまったんですけど、とっつきやすい本の感じも、挿絵もいいし、子どもが喜びやすい本だと思います。子どもって、飼っているペットの動物がどんなことを考えているのかな、と思って接していると思うので、おもしろく読めると思う。

ネズ:子どもたちにとても人気のあるシリーズのようですね。言い回しがうまいし、訳もなめらかなので、おしまいまですらすら読んでしまいました。最初の章のひいおばあちゃんの性格が、特におもしろくて気に入りました。ただ、ゾフィーによりそって読んでいたら、フレディは文章を書くのに都合がいいからとマスター・ジョンのところに行くでしょ? いやぁ、かしこいなあと思ったけど、ちょっと肩すかしを食ったみたいな気分になりました。これで登場人物や背景がでそろって、2巻からのお話が始まるので、いいのかなとも思うけど。それから、モルモットの役割もおもしろいですね。『不思議の国のアリス』のトゥィドゥルディとトゥイドゥルダムみたいなころっとした体形で、歌をうたったり、お芝居をしたり。子どもが喜びそうな挿絵も、とても良かったです。

ミッケ:このハムスターがちょっと好きじゃなくて、入っていけなかった。なんかいばっている気がして、みんなを見下しているというか・・・・・女の子のことも結構さらりとさよならしちゃう感じだし、モルモットのこともなんか下に見ているし。そのあたりが気になりました。ようするに、おりこうさんすぎるんですね。ハムスターが主人公っていうのは、大人から見れば弱い立場の子どもたちにとっては、すっと主人公に寄り添えていいと思うんだけれど、主人公に今一つしっくりこなかったので、楽しめなかった。最後も、「いよいよぼくの時間だ…」っていう感じで、なんかなあ、と思いました。

サンシャイン:ハムスターを私は飼ったことがないんですけど、飼ったことがある人は、汚いのがいやだとか、食べ物を選ぶとか、ハムスターの性質がわかっておもしろく読めるかなと思いました。ハムスターがパソコンを打って人間とコミニケーションをするという話は楽しめます。作者はユダヤ人なんでしょうか? 「約束の地」とか出てきますが。

一同:さあ、という顔。

ネズ:この巻は「天国のような『約束の地』アッシリアをみつけたハムスターの話を」で終わっているけれど、2巻め、3巻めはそういうお話なの?

ケロ:2巻目、3巻目は、特にそれとは関係のない話ですね。自分でつくったお話をフレディがネットで流してしまって、それをハムスターを研究しているマッド博士がつきとめて、というような事件が起こります。(その後、5巻まで読んで、『約束の地』という感じではないですが、フレディはゴールデンハムスターのは発祥の地アッシリアにたどりつきます。フレディにとって天国のような自分らしく生きられる場所という意味で使われ、最初はマスター・ジョンのところ、そして最後はハムスターらしく生きられるアッシリアということになります)

うさこ:とてもおもしろかったなと思って、好きなお話でした。幼年向けの童話として、登場人物(動物)や設定がシンプルでついていきやすかった。「ペット人生を捨てたハムスターの物語」というのがすべてを物語っているようにペットではなく自分の生き方を切り開いていこうとしているハムスターの話。フレディの語り口調から、次々に場面が流れて読者も無理なく読めるのでは。日本語もコンパクトに短く、どこにも迷いなく読めた。次も読んでみたいなと。シンプルさがいい。対象は、1・2年生?

ネズ:1・2年生にしては、漢字も言い回しもむずかしいから、3・4年生?

うさこ:4年生には幼すぎるから、3年生くらいまででしょうか。幼年童話というと絵ばかりだけど、これはもう少し文字の多めの物語を読みたい2年生にもおすすめでは。

げた:学校で行うブックトークで取り上げたことがあります。ひょっとしたら、動物は人間の言葉がわかるんじゃないのかと思ったり、ペットと言葉でコミュニケーションがとれたらいいなと思ったりしてる子どもは、いるんじゃないかと思うんですよね。自分も子どもの頃そう思ってたんです。動物が言葉を理解するといえば『ルドルフとイッパイアッテナ』のルドルフも字が読めるようになるんですけど、わくわくする感じがしました。これもそうですね。ですから、子どもたちがお話に入っていきやすいと思います。このシリーズは人気があります。それぞれの巻がユニークなテーマで読み手をあきさせません。読みなれていない子でも、楽しく読める、3・4年生におすすめの本です。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年8月の記録)


無人島に生きる十六人

須川邦彦『無人島に生きる十六人』
『無人島に生きる十六人』
須川邦彦/著 カミガキヒロユキ/絵 (初版1948)
新潮社
2004

サンシャイン:明治時代くらいの話。流されてから、叡智をつかって、助けられるまで生き延びるというのが、とてもいいなと思いました。すごくよく出来ている話。16人みんな助かるというのもすごい。登場人物の個性はあまり書かれていないのは残念ですが、時代と日本文化の持つ特徴なのかもしれません。集団で協力して無事帰還できるというのは、日本らしい。今の時代と違う状況が書かれていて気に入りました。いい本に出会ったと思いました。

愁童:あまり好きな作品とは言い難いな。自然描写の文体に何か違和感があって、作品世界に入りにくかった。この作者自身の海に対する感動とか恐怖感みたいなものが、あまり感じられないのが物足りなかったですね。

ミッケ:この著者は海のことはとてもよく知っているし、そういう面では違和感はなかったです。ただ、最初のうちは、とにかく時代がかった表現で、講談か紙芝居を見ているみたいで、入りづらいなあって思いました。ホノルルの港に入ったときのことでも、「アメリカ人に感心されたんだ! 日本男児はすばらしいんだ!」という具合で、今の人間からすると、おいおい、といいたくなる。もう、ほとんど見得を切っている感じ。日本がよくてアメリカから帰化した小笠原の人の話もそうだし、いかにも戦前の教育、という感じがしました。でも内容については、知らないこと、びっくりするようなことがたくさんあって、なかなかおもしろかったです。アザラシの肝を薬にするために驚かさないようにしておく話とか、海の水から塩をとる話とか、とても興味深かった。アザラシを殺すと決まった直後に救われるっていうのは、なんか、あまりにもタイミングがよすぎる気がしましたが。

ネズ:私はフィクションではなく、ノンフィクションとして読みました。語り口は、たしかに時代がかっているけれど、祖父や父、それに親戚のおじさんたちに聞かされた戦争体験記??それも、いつも同じ話!??は、みんなこういう語り口だったので、なんだかとてもあたたかくて、なつかしい気分になりました。たいへんな苦労はしたけれど、全員生還してハッピーエンドだったので、こういう語り口になったんでしょうね。不愉快なこと、不都合なことは、たぶん省かれてるんでしょうね。それにしても、次から次へと出てくるおもしろい動植物、それをうまく無人島生活に取り入れていく知恵に圧倒されました。こういう知恵って、当事は海の男だけでなく、町で暮らしている人も農家の人たちも持っていたんじゃないかしら。小笠原に暮らす、帰化したアメリカ人の話もおもしろかった。この本は、「お風呂で読む本100選」に選ばれているけれど、お風呂版を買って、荒海でなく、お湯に揺られながら読みかえしてみたいと思っています。

ケロ:とても新鮮な気持ちで読みました。一つの記録としてとてもおもしろいし、記録にしては表現力があるなあ、と感じました。特におもしろいなと思ったのは、竜宮城の記述のところで、海の下をのぞくのは軽気球に乗って空から見下ろすのと同じ趣きがあると書いてあったところ。以前に、ダイビングをやる人に、とてもきれいな海に潜ると空に浮いているような気がするよ、という話を聞いたことがあって、そんな感じだったのだろうなと思いました。夜の海も光る生物がいっぱいの色鮮やかな世界だと書いてあります。思えば、昔話の「浦島太郎」も、海の中の美しさを知っているから竜宮城を登場させることができたお話だったのだなあと、改めて感心してしまいました。
この作品では、淡々と描かれていますが、恐怖心と戦うというのは、実際はすさまじいことだったのではないでしょうか。ホノルルで、日本人として誇りを持って、など、なんだか肩肘張ったところもあったけれど、そのころの日本は、本当にそんな感じだったんだろうなと思いました。

うさこ:読み始めてすぐに一人称の限界を感じたので、それを差し引いて読みました。漂流もの、冒険ものには、スリルとかワクワク感というのを期待してしまいますが、皮膚感覚で物語を読むことができませんでした。無事に帰ってきたあとにつづった体験記なので、どうしても話がフラットな感じがしてしまって残念。ひとつひとつのエピソードはおもしろいけど。遭難してしまった絶望感や危機感が、そんなに多く書かれていなかったのも残念。食事をどうしていたのかをもう少し詳しく書いてほしかった。これをもとに現代の作家がリライトしたらどうだろうなと思いました。16人のそれぞれの個性があったからこそ生還できただろうし、人と人とのぶつかりあいもあったはず。そのあたりを16人の名前もきちんと出して作品にしたら、おもしろいのではないでしょうか。

げた:サバイバルものにつきものの人間関係の軋轢などはあっさり省略して、今回のテーマ「かしこさ」、すなわち人間の英知を結集して困難をのりこえ、人間ってすごいよということを前面に出しているんですよね。それにしても、自分が無人島に放り出されたら、絶対この本のようにはいかなかっただろうなと思いました。いかだづくりにしても、カメの油の行灯つくりにしても。細かいところは省いてありますが、「無事ご帰還、おめでとうございます」という感じで、それはそれで、読後感としてはよかったですね。これから、自覚的に人生をスタートする中学生には応援歌的なものとしておすすめの本だと思うな。

ネズ:さっき「不愉快なことや不都合なことは省いているのでは?」と言いましたけど、このころの日本人は、本当にこんな風だったのかも……とも思います。今の日本人と、まったく違うのかもしれない……。

ミッケ:海に出る時は、文字通り命がかかっているから、船の中には基本的に絶対服従の指揮系統があって、そういう意味では鍛えられてもいるし、船長も統率力があるはずだとは思います。それもですが、この本は、新潮文庫に入る前、昭和23年に講談社から出ていて、さらにその翌年には著者が亡くなっている。そういうタイミングを考えると、一つには敗戦で日本全体がしょんぼりしているときに、そんなことはないんだ、日本人だってすばらしいんだ、という感じで出た本なのかな、と思ったりします。著者も、きっと、いろいろな思いの丈を詰めたのではないかと。

ケロ:誇りがありますね。いい意味でもそうでない意味でも。それにしても、今遭難して無人島にたどりついても、この本のようにはできませんよね。カメから油なんかとれないしなー。

げた:コンビニをさがしちゃいますね。

サンシャイン:中学生に読ませてみる予定です。「この本で一番驚いたことは何?」と聞きながら子供たちの読みを引き出していきたい。

ネズ:今、テレビで擬似サバイバルのような番組をやっているでしょう? そういうのに慣れ親しんだ子どもたちは、どう思うかしら?

愁童:今の中学生が、「しらしら明け」といった夜明けの表現から、どんなイメージを作るのかな? ちょっと興味あるな。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年8月の記録)


アグリーガール

ジョイス・キャロル・オーツ『アグリーガール』
『アグリーガール』
ジョイス・キャロル・オーツ/著 神戸万知/訳 菅野旋/絵
理論社
2004

ウグイス:出たときに読んで、おもしろかった本。主人公がユニークなので印象に残りました。同年代で共感を持つ子がいると思う。タイトル、表紙絵は、どうなのかな、と思いました。おもしろそう、と手を伸ばす感じではないと思う。

ジーナ:前に読んだけれど、忘れてしまい、今回読み直しました。最初状況がわかりにくいけれど、アグリーとマットという主人公が、それぞれ1人称、3人称の語りで書かれていることがわかってくると、どんどん読めました。このくらいの年齢の子の行動や心理がとてもよく書かれているなと思いました。親も先生もうざいと思ったり、マットが思わず余計なことを言ってしまったり。でも、この文体は私は違和感がありました。一見のりがよさそうだけれど、今の子の言葉とは違う感じがして。わかりにくい表現もあって、350ページ7行目の「ママのあごが落っこちた」というのなど、ひっかかりました。それに、ゴシック体の部分が、なぜゴシックになっているのか、よくわかりませんでした。会話が突然ゴシックになっていたり、じゃまな感じがしました。原題は、Big Mouth & Ugly Girlとマットのことも言っていて、実際男の子も読んでおもしろい本だと思うのに、「アグリーガール」だと男の子は手にとりにくく、読者をせばめているかも。男の子も読むと、心に残る子にはいるのでは?

ケロ:おもしろかったです。入りづらい部分とか、アメリカの高校生にピントを合わせるのに時間がかかりましたが。作品の世界に入ってしまうと、2人の対比がわかりやすいし、2人が近づいていく感じがとてもうまく表現されていると思います。主人公2人の距離感がとても心地よく読めました。マットが事件を通して変わっていくところも見どころなので、たしかに「ふたり」という内容が入った書名の方が良かった?かな。それにしても、アグリーガールは魅力的。とんがっているけど、正しいことをスッといえるかっこよさ。作者が70歳近いと知り、びっくりしました。メールを打つ場面で、おもしろいと思ったのは、いろいろ書いたあと、消去するところ。よくやりますよね。思いの丈をつづるのだけれど、結局この内容は相手に届いていないという。新しい表現方法ですね。

うさこ:現代の危うさやもろさをうまく描いている作品だなと思いました。テロに対する過剰反応、人を信用できない、妄想の中のおそれ、個と集団のバランス、メディアにのることによる誇大化など、すごく上手だなあと。不幸の連鎖からマットが孤独に陥るけど、アーシュラがかかわって人間性を取り戻していくというのが、リアルにビリビリ伝わってくる。犬のパンプキンまでも誘拐されたところはもうほんとにドキドキして。無事に戻ってきてほんとによかった! 自分のすぐとなりにある恐怖感みたいなのを感じた。確かにこの絵とこの書名だと強烈なインパクトがあるけど、入りにくい子もいるかも。タイトルづけも、もう一工夫が望まれます。作者が69歳というのを今知って、びっくりしました。この年代の人でも、ここまで登場人物くらいの年齢の人に寄り添って書けるんだなと感心。ひきこまれていくけど、読んでいて楽しい作品ではないですね。

きょん:アーシュラが、自分のことをアグリーガールと自分で言い、友だちにも、「自分はアグリーガールだからいいのよ」と、人とのつきあいの言い訳、または、自分の心のよりどころにしているんですが、アーシュラ・リグスが、なんで“アグリーガール”なのか? アグリーガールだからどうなのかというのが、読んでいてはっきりとしない。そこが、しっくりこなかった。マットとのやりとりで、変わっていくんだけど、最初の設定がはっきりしないから、何となく曖昧に進んでいって、アーシュラの心の変化がはっきりしてこないように思います。しかし、メールのやりとりは、リアルでおもしろかった。送らないで消去するシーンの戸惑い、微妙なところが、実感として読者に伝わってくる。アーシュラが最後成長して、ハッピーエンドなんだろうけど、スカーンと晴れ渡るようなさわやかさがない。アーシュラがアグリーガールだったというのを、もっと曖昧にしないでいたら、明るく終われたのかな?

げた:『アグリーガール』っていうタイトルを見て読み始めたら、いきなりマットが出てくるから戸惑ったんですけど、読み進むうちに、筋の流れと構成がだんだんわかってきて、引き込まれていきました。この作者は読み手をひっぱっていくうまい人だなと思いました。中高生に読んでもらう本としては、ハッピーエンドで終わったところは良かったな。むやみに、傷ついたり、死んだりする人がいなくって。マットのために唯一目撃証言した「アグリーガール」は、アグリーじゃなくて、一番美しいんだよっていう、反語的な意味を込めて「アグリー」が使われているんだろうなと思いました。書名についてですが、半分は「マット」について書かれているんだから、原題のように、書名にとりあげておいた方が、はいりやすかったかもしれないなと私も思いました。日本語表現がむすかしいですけどね。でも、読後感はよかったです。

サンシャイン:この舞台になったあたりに数年住んでいたので土地勘もあり、楽しく読めました。多分学校のあるロックリバーは架空の地名ですが、ほかの地名は実在しています。ところでアグリーガールは白人でしょうか、黒人でしょうか? たぶん白人なんですよね。原文では、どこかでそれがわかるような書き方をしているんではないでしょうか。15ページ、彼女はアグリーと言っているけれど、人からはアグリーとは呼ばれていない。要するに、家族から愛されていないと思いこんで、バスケット部でもみんなから嫌われていると思って、つっぱっている少女。通っている学校の関係者に対して地域の中で訴訟を起こすことは、公立高校は各地域に一つしかなく地域の代表であるということを考えると、まわりから非難されたりいじめられたりということは十分ありうることです。英語の題名と日本語の題名にずれがある点ですが、アグリーガールは一人称でも出てきますが、マットは三人称だけなので、やはりアグリーガールの方に比重があるのでは。狂信的なブルーアー師が最後に逮捕される行動に出るというのは話の展開としては安易でしょう。とにかく9・11後のアメリカの状況をうまく捉えて書いています。ママが精神的に不安定なのは、描写が極端なような気もしますが、これがアメリカの実態なのか、小説上で多少大げさに書かれているのか、ちょっとわかりません。日本ではこれほどではないのでは?

ミッケ:作品そのものは、おもしろかったです。ただ、ちょっと日本語が読みづらいところがあって……。ジョイス・キャロル・オーツという人は、かなり年配の人で実力もあるし、おそらく、細部まで神経を行き届かせて、かなりきっちり構成された文章を書いているんじゃないかな。ぶつっと切れているように見えて実はそうでない、といった感じの英語だったりするんじゃないかと、これはあくまでも推測ですが。爆弾騒ぎであるとか、学校相手の訴訟の話などは、前にもアヴィをはじめ何人かの人が取り上げて書いているけれど、オーツはそういう話題を取り上げつつ、濡れ衣を着せられた男の子と疎外感を持っている女の子の関係を中心に据えて、既視感を持たせない作品に仕上げている。力のある人なんだなあと、おもしろく読みました。人物造作も、狂信的な差別主義者のブルーアー師まで含めて納得できるし。でも、つくづく、翻訳物は難しいなあ、と思わされたのも事実です。たとえば、33ページのアグリーガールのお父さんのせりふ。「せめて、ヤンキースにしたらどうだ? よりによって、なんでメッツを?」というんですが、ヤンキースとメッツの違いをよく知っているアメリカの読者なら、それだけでアグリーガールがどういう少女でお父さんがどういう人かがぴんとくるはず。でも、日本の若者にはこれだけではなんのことやらわからない。アメリカやイギリスの書き手は、当然自国の若者に向かって書いているわけですが、現代の若者を取り囲む状況を取り上げた作品の場合、上手な人ほど、固有名詞や何かを巧みに使って、なるべく少ない描写で今時の若者に伝えたいことを的確に伝えていく。ところが日本語に訳すとなると、その固有名詞自体を説明しなくてはならない。これは、翻訳本のほんとうに悩ましい点だなあと改めて思いました。

きょん:ストーリーとして重要な部分は日本の読者にもわかるようになっていないと、おもしろさが伝わらないのでは? そういう細かいところがわからないから、私が最初に感じた「アーシュラがアグリーガールといっている意味」がはっきりしてこないんだと思う。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年8月の記録)


かはたれ〜散在ガ池の河童猫

朽木祥『かはたれ』
『かはたれ〜散在ガ池の河童猫』
朽木祥/著 山内ふじ江/画
福音館書店
2005

たんぽぽ:読むのは2度目ですがおもしろかったです。女の子が出てくるあたりからお話がカラーになるみたいな感じがしました。ひとりぼっちの八寸と女の子が同じさびしさを抱えているように思いました。私の図書室では6年生も読んでますし、続編の『たそかれ』も読んでいます。表紙がこんなふうだけど、中のイラストを見るとかわいらしい。表紙が、また違った感じになると、手にとりやすくなるかもしれません。とっつきがあまりよくないんですが、河童だけの最初のところをがまんして読めると、子どもも物語に入っていけるんです。猫になるんだよって言うと興味がわくみたい。

アカシア:最初に序章がありますが、そこを読んだときに、この人文章うまいなって思いました。最近登場した若い作家たちは、お話を作るのはうまいけど、文章がうまい人って少ないように思います。でも、この人はうまい。古めかしい感じがするところも、この物語の雰囲気にあっています。ひとりぽっちになってしまった八寸がどうなるのかなと思ったら、なんと猫に化けるとは! おもしろいですね。猫になっているときは猫の視点で人間を見ているのもおもしろい。盲導犬訓練所で落ちこぼれたチェスタトンという犬も出てきて、いい味を出しています。八寸と麻の関係は、ノートンの『床下の小人たち』みたいな関係ですね。ゆったりとした、わりと地味なお話だけど、とてもいいなと思いました。

ねず:まず第一に、文章に深みがあってうまいと思いました。佐藤さとるさんの『天狗童子』は、天狗の世界もおもしろいし文章も言うまでもないことで、大好きな作品ですが、ストーリー性に欠けるところが残念でした。そこへいくと『かはたれ』は、人間の世界にとびこんだ河童の正体がいつばれるかというスリルもあるし、お母さんをなくした女の子の気持ちもよく書けている。続編もぜひ読みたいと思っています。いつも、この読書会で話に出ることだけれど、日本の創作児童文学の母親像って、勉強しなさいと怒ってばかりいたり、視野が狭かったり、とかくステレオタイプで気に入らなかったんだけど、この本の亡くなったお母さんとか、後に出てくる牡丹さんは、なかなかいいですね。こっちのほうが、ずっとリアルだと思う。

ウグイス:最初河童の世界が詳しく書かれていて、ひとりぼっちの八寸がこれからどうなるのかと、引き込まれます。作者は動物が好きなんじゃないかと思う。猫のようすだとか、情けない顔をした犬のようすとか、とてもリアルに描かれていて好感が持てました。最初は八寸の視点で書いているけれど、麻が出てきてからは、麻の視点にかわっていくんですよね。後半にも、もっと八寸の視点がほしかったと思いました。麻の見た八寸になってしまうので、ちょっと物足りない。続編を読むとまた違うのでしょうか。全体に、しーんとした静かな気分が感じられ、ちゃかちゃかしてないところがいいですね。最近の本には珍しい。子どもにもゆっくり静かに読んでほしい。挿絵の河童の姿は、ここまでリアルに書かなくてもいいと思いました。後姿だけにしたほうがよかったのではないかしら。

みっけ:とても楽しく読みました。1ページ目から、ぐぐって引き込まれる感じで。この人は鎌倉に住んでいて、独特の地形をうまく使っているのもとても興味深かった。鎌倉のじとっと湿気のある感じが、河童があっている気もするし。それに、なんだかあちこちに隠れられそうな場所があることも。ともかく上手な人だなと思った。キウイを食べて、へなへなっとなっちゃったり、麻が八寸を洗おうと思って水をかけちゃって、カッパに戻っちゃったりして、えっ、どうすんの?とはらはらするんだけれど、破綻せず上手につながっていって、とてもおもしろかった。途中からは、お母さんを亡くした麻の気持ちがぐぐっと前に出てくるのだけれど、このお母さん像については、もちろんわかるんだけれど、なんかちょっとやり過ぎのような気がして、はじいちゃったというか、入り込めなかった。なんといっても楽しかったのは、麻の留守に、八寸が家中を探検して回る、「八寸おおいに遊ぶ、チェスタトンもおおいに遊ぶ」のあたりでしたね。とにかくおかしくて。それと、猫になったり、河童になったり、それがすけて見えるような微妙な感じも、いいなあと思いました。迷い猫のポスターが張られて、兄弟が気づいて、というあたりの展開もいいし。それと、どうやって終わるんだろう、と思っていたら、たたみかけるような展開で、八寸が麻にさよならも言えずに一族の元に返っていく。そのあたりも、めそめそしていなくて、いいなあと思いました。とっても気に入って、続編も読みました。

アカシア:麻の視点が出てくるのも、私はいいと思いました。続編には、麻が八寸に、八寸が麻に会いたいと思っているというのが出てくるから、ここで麻の視点を出しておく必要もあったんじゃないかな。

ウグイス:両方の視点から書かれていること自体はいいと思うんだけど、後半もう少し八寸の視点に戻ったらよかったかなと。

ねず:河童は、いまけっこうはやりだとか、新聞に出てましたね。

みっけ:最初に滝先生が出てくる場面があって、いかにもこの人が絡む、という感じに思えたのに、結局は最後にちょこっと、といってもかなり印象的な形なんですが、出てきて終わるのが、なんというか、ぜいたくな感じでしたね。

ウグイス:テーマが、目に見えないものを信じる心が大事だ、みたいなことを言っているから、ほかにもそういう人がいるんだっていうことを言うために滝先生を出したのかな。

ジーナ:おもしろい話を読んだなと思いました。日常の世界を、いつもと視点を変えて見せていくでしょ? これぞフィクションのおもしろさだなって。しかも、描写がとてもていねいで、すてきな表現があちこちにありました。八寸と麻の気持ちもこまかく描かれているから、納得しながら読み進められるんですね。たとえば、52ページ2行目。「犬は八寸が河童だとわかるから吠えるのか、猫だから吠えるのか、それともただ吠えたいから吠えるのか、八寸にはさっぱり理解できなかった。」という文章は、八寸の思ったことを簡潔だけれど過不足なく描いているし、114ページ2行目の「おやつのみかんゼリーは風邪薬のシロップみたいな味がした。」というところも、麻のつまらなさがすごくわかる。それから、この作者はキーツの詩だとか、植物の名だとか、シェークスピアだとか、さりげなくちりばめていますよね。50年前くらいの文学というのは、教養主義というのか、こういう薀蓄がもりこまれていたけれど、最近の児童文学というのは、等身大ばかりでこういう目線はなかなかありません。すぐにはわからない子も多いと思うけれど、世の中にはこんな美しいもの、すてきなものがあるんだよ、という投げかけに作者の心意気を感じました。

ポン:この本は、出版されてわりとすぐに、知人から「とってもおもしろいわよ!」と勧められて読んで、とても好きな作品だったのですが、今回読み返してみて、やっぱりしみじみといいお話だなあと思いました。もうね、最初、ひとりぼっちの八寸がかわいそうでね〜。20ページの「八寸はわずか61歳で、天涯孤独の身の上となったのである」という1行がずしんときた。だって人間でいえばまだ6歳くらいで一人になったわけだから、その孤独さかげんを思うと、気の毒で気の毒で……。でも、言葉っておもしろいなと思うんだけど、こんなすごくヘビーな状況でも、「わずか61歳」といわれると、ちょっと笑える。だって、人間界では61歳を「わずか」ということは、まずないでしょ。そういう河童ならではの設定がとってもおもしろいし、それをこんなふうにシリアスに、ずしんとくるようにいいながらも、ユーモラスな雰囲気もほんわか香るって、即物的、表面的だけでない、奥深さが感じられて、こういうのっていいなあと思いました。
と、最初から、細部までとっても楽しんで読んだのですが、ちょっと気になったのは、読者対象。表4には「小学校中級以上」とあるけど、中級にはムズカシイかも。難しい漢字も使ってるし。「翅(はね)」とか「薔(ば)薇(ら)色(いろ)」とか。こだわりがあって使っているんだと思うけど、どうなんでしょう? やっぱりひらがなにしたり、やさしい字に変えたりすると物語世界がくずれるのかな。118ページの「華奢なこどものように首もかぼそく、うなだれて内股気味に立っているようすは、いかにも頼りなげだった」なんて、その八寸の姿が目に浮かんでくるような、とてもよくわかる描写だけど、「かぼそい首」って、私が小学生のころだったら、ピンとこなかったかも。こういう描写も難しい漢字も、読者を子ども扱いしないで書くっていうスタンスのあらわれなのかな。子ども扱いしないっていうのは、子どもにとってうれしく思う部分もあると思うけど、あんまり本を読まない子には障害になるかもしれませんね。

ケロ:去年、児童文学の新人賞を総なめにした作品で、その時に読んで、すごく深みのあるおもしろいお話だと思いました。今回は、テーマがあったので、それを思いながら読み返しました。主人公の麻が、母をなくしたことをきっかけにして心が閉じてしまったところに、河童が現れます。目に見えるものが信じられなくなっている麻は、目に見えない「心」のつながりを河童との出会いで少しずつ手に入れていきます。麻と河童、麻とチェスタトン(犬)は、言葉は通じないけれど、気持ちは通じ合っています。ここでは、異形の者とは、人間と言葉の通じない生き物。でも、だからこそ心を通い合わし深いところで通じることができる存在だという気がします。この、目に見えない通い合いを重ねていくようすが丹念に描かれているなと感じました。序章は、作品に深みを持たせるものにもなってますけど、間口を狭くしているというところもあり、いちがいに言うことはできません。第1章以降は、ユーモアもありテンポもよくなり。河童が水をあびてしまったところで、超吸収タオルでふいたとか、おもしろいですよね。また、この作品から興味が派生する要素もあります。シャーロックホームズの黄色い顔を思い出しながら、カーテンをしめるとか。

サンシャイン:鎌倉にいたことがあるので、お話に親しみが持てました。本自体はおもしろかったんですけど、児童文学という名で大人向けに書かれた本かなと思います。難しい言葉もあって、子ども向けに書いている感じがあまりしなかったです。

ねず:子どもに真っ向勝負で書いているような感じ、昔の作家にはよくありましたよね。子どものとき、リアルタイムで読んだ手塚治虫のマンガにも、子どもながらそういうところを感じた記憶があるわ。

アカシア:子どもの本か大人の本か、というのは、難しい言葉が使われているかどうかじゃなくて、どういう視点で書いているか、だと思うんです。この作品は、はっきり子どもの視点に立って書いています。それに、わからなさそうなところは、ちゃんと説明してるから、ただの教養主義とは違うと思うな。

サンシャイン:麻っていう母親を失った子が、河童との出会いで癒されていくというのも、大人の視点かなと思ったんです。

ジーナ:等身大ではないかもしれないけど、作者がそういう部分もふくめてこの世界を子どもに手渡そうとしてるんだ、と私は思いました。

アカシア:表紙は少し抵抗がありましたけど。子どもが見てどうなんでしょうね。

ケロ:本屋ではじめてみたとき、この表紙はちょっとって思いましたね。

ねず:この色もきたならしいっていうか。

ウグイス:各章の扉の絵はいいのにね。目に違和感があるの。河童の姿をここまでリアルに描かなくてもいいのにね。

ジーナ:でも、これって「かわたれ」って読めませんよね。タイトルから図書館で検索したときに、ちゃんとヒットするのかしら。読み方どこにも書いてないし。

多数:カバー袖にあるわよ。「かわたれどき」って。

ジーナ:ああ、私の借りた本は、袖を切り落としてブッカーがかかってるからわからなかったんだ!

(「子どもの本で言いたい放題」2007年7月の記録)


牡丹さんの不思議な毎日

柏葉幸子『牡丹さんの不思議な毎日』
『牡丹さんの不思議な毎日』
柏葉幸子/著 ささめやゆき/絵
あかね書房
2006

愁童:うまい作品だなって思いました。読書会の課題本を読んでると言う、こっちの構えた姿勢を、いつのまにか忘れさせられて、楽しんで読んじゃいましたね。学校の成績や偏差値みたいな価値観以外の所にも、人生の真実や面白さがあるんだよって言う作者のメッセージが素直に伝わってきて、今の子ども達が読んでくれると、癒されたり、楽しんだり、多様な読み方ができる貴重な児童書だなって思いました。

アカシア:設定はすごくおもしろいなって思ったんですね。現実界の人とそうでない人が、接点を持っているってところがいいなと思って。ただね、これって産経の大賞だったんですよね。大賞かって思うと、ちょっと言いたいことが。ユキヤナギさんっておばけが出てくるでしょ。初出が「鬼が島通信」だから別々の時期に出たせいか、最初のほうは幽霊なんだけど、最後のほうはただのおばあさんみたいになって、優麗らしさがなくなっちゃう。それから、資(もと)っていう3年生の男の子。お父さんに変身した木とずっと暮らしちゃう。ファンタジーだからと言ったらそれまでだけど、現実との整合性って多くの作家は苦心して考えぬいてるんですよね。でも、作品はその辺がちょっと甘いかなって思いました。。「お盆にまだ一週間も前だというのに」は、誤植かな。

たんぽぽ:何歳くらいの子を対象にしているのかなって思って。小学生にはちょっと無理かなって思いました。女中さんが、流れの女中さんとか、おじいさんが昔の恋人に会いにいったとか。木がお父さんになってそのまま暮らすっていうのもなんか、無理があるように。子どもには難しいかな。連載をつなぎあわせていったって感じもしました。

アカシア:小学生には『かはたれ』のほうがわかりやすいんですか?

たんぽぽ:ええ。同じくらいの少女の気持ちが描かれていて共感できるのではないかと思います。

愁童:でも、柏葉さんの方には、さりげなくユーモアがちりばめられていて、世の中何でもありだよ、みたいな昔は良く居た隣のオバサンみたいな語り口。子供達がリラックスして楽しめる雰囲気がある作品に仕上がっているのがいいなって思うけどな。

みっけ:ふわふわした感じで、おもしろかったです。なんか奇妙な味ですね。お母さんの造作がなかなかおもしろくて、家族がみんな、それにふりまわされるみたいな感じなのが、日本ではわりと珍しい。お花見のエピソードなんかでも、あのおごちそうを、結局牡丹さんたちは食べたのか、食べなかったのか、よくわからない。飼い犬が男の子を拾ってくるエピソードでも、男の子が木の精と暮らすようになった、んだろうなあ、という感じで、なんだかゆるゆるっとした印象。人間とあちらの世界のものが入り交じっていた奇妙だけどほんわりした世界をおもしろく書いている。最後のエピソードで、初市での命のとりかえっこで、おじいちゃんの命が代わりに取られた、なんてさらっと書いてあるところは結構不気味で、これがこの人の持ち味なんだなあと思いました。

ウグイス:私は途中で飽きました。この本のおもしろさは3つあって、まず第一はホテルを家にして住むっていうところです。宴会場や、フロントなどに普通の家族がどのように生活するのか、子ども心におもしろいと思う。次に、幽霊やこの世ならぬものとの交流です。そして3つ目は、牡丹さんってキャラクター。最初からお母さんではなく「牡丹さん」と書いてあることからもわかるように、作者はこれを一番おもしろがって書いていると思う。大人から見れば魅力的な女性なんだけど、子どもはこういうお母さんに魅力を感じるかな? 作者がおもしろがっているこのキャラクターは、子どももおもしろいと思うのかな、と疑問に思いました。

愁童:自分の親をうざいなって思っている女の子って結構居たりするから、そんな子が読むと楽しく共感出来ちゃったりするんじゃないかな。何しろ、人生かくあるべし、みたいな作品じゃなくて、作者が子どもをまきこんで、一緒に楽しんじゃえ、みたいな創作姿勢に、僕はいかれてしまいましたね。

ウグイス:お母さんと娘っていう感じがしないでしょ。わざとそうしてるんだろうけど、子どもは楽しいと思うかしら。連載していたものをまとめているので、ゆきやなぎさんのことを何度も説明したり、ムダなところがある。50ページ、「泣くまいと歯をくいしばる小さな男の子は痛々しかったが、好もしく見えた」。「好もしく見えた」っていう表現は、全く子どもの語彙ではないですね。51ページ、「会いたい木があるんだ。……ぼくその木と友だちになった。あの木に会いたいんだ」って、子どもが言う言葉にしてはずいぶんわざとらしい。このあたりから、だんだんつまらなくなってしまった。

愁童:木に対する思い入れっていうのは、『冬の龍』(藤江じゅん著 福音館書店)にもありましたよね。よくあることじゃないのかな? 自分の子ども時代のこと考えても鮮明に記憶に残っている木ってあるもんね。

ねず:ウグイスさんがひっかかるのは、この言い方じゃないのかしら? 歯の浮くような台詞というか……

サンシャイン:私もあんまり評価できないですね。雑に書かれているという印象です。読んでよかったなって感じがあまりしませんでした。いきあたりばったりというのか、深みが感じられません。

ポン:私は、おきゃんなおばちゃんがドタバタする話に、子どものころから魅力を感じられないタチなので、これもタイトルを見ただけで「いかにも」という感じがして、あんまり読みたい気持ちにならなかった。でも、読み始めたらおもしろいところもあって……って、おもしろいことはおもしろいんだけど、でもなあ……。素朴なギモンなんですけど、ユキヤナギさんは、どうして幽霊になったのかなあ。何かこの世に心残りがあるから幽霊になったんだと思うんだけど、そういうこと、ぜんぜんでてこない。そんなことを気にしちゃいけない作品なのかもしれないけど、でも知りたかった。
50ページの「大人はどこまで子どもをないがしろにすれば気がすむんだ。菫はこぶしをにぎりしめた。子どもの気持ちを知ろうともしないで、気を使ったつもりでいる」というところは、違和感があった。菫がここでそんなに怒るのは不自然。よく事情も知らないのに、こぶしをにぎりしめるほど怒ることはないと思うんだけど。だって、資のおかあさん、資にここにきたいっていわれてすごーく悩んだのかもしれないよ。資をないがしろにしたくなくて、あれこれ考えた末にここにやってきたのかもしれないじゃない。資のおかあさんが、資の気持ちを理解しようとしたかどうか、資に会ったばかりの菫は知るはずもないのに、なんだか一方的に決めつけてるみたい。だいたい、小学校3年生だったら、行ったことのある場所だって限られるだろうし、新しいお父さんと、この先家族としてずっとやっていくのなら、前のお父さんのことはすべて封印しましょうってわけにもいかないと思うんだけど……。

アカシア:菫が怒るところ、私はわかる。粗雑な神経に腹がたってるんでしょ。小さい頃、私は粗雑な神経の大人がすごくいやだったから、よくわかります。

ケロ:菫ちゃんって、感情をあらわにする子じゃないのに、ここだけ感情がぴゅーって突出しているから違和感があったのかな?

アカシア:一方、牡丹さんはへんなことはするけど、子どもの気持ちをないがしろにするようなことはしないじゃない?

愁童:伏線がきちんとあって、それがうまく生かされている巧みな作品作りだなって思いましたね。

ケロ:「かはたれ」より「牡丹さん」の方がわかりにくいという発言がありましたが、どうしてかなと考えていました。読みやすいのは「牡丹さん」だと思うんだけど。テーマなのかな。

ウグイス:牡丹さんに共感できないと楽しめないでしょ。

ケロ:牡丹さんについては好ききらいがあるでしょうけど。

愁童:牡丹さんの日常的な生活感が感じられる部分を、さりげなく描いてイメージが浮かびやすい配慮がされている点などもうまいと思った。

アカシア:でもたとえば、資くんにしても、言葉で説明しちゃってますよね。だから、もとくんの本当の気持ちはわからない。でも、『かはたれ』は、麻ちゃんの気持ちに立って、けっこう細かく書かれています。こっちは、クールビューティーのお医者さんが赤ん坊をおぶっているなんていうところも、「なぜ」も「いかに」もなくて、書きっぱなし。

ケロ:柏葉さんの書かれた『ブレーメンバス』と比べると、これは一つ抜けて、うまく書けていると思いました。根っこに流れているブラックな部分はそのままで。そう考えてみると、『モンスターハウス』のシリーズも、ブラックな部分があるんですよね。日本のファンタジーを書く方の中でも、とても特徴がありますね。細かいところをいえば、資くんのところは、よくわからなかった。けっきょく長靴をとられちゃったのは、だれだったのかな? よくわからないけど、まあいいじゃん、みたいなテイストがあって、それをいいと思えるのかどうかってことでしょうかね。柏葉さんの作品は、繊細なイメージがあったけど、これは豪快な感じで。

ねず:終わりまでおもしろく読みました。いちばん感じたのは、良くも悪くもアバウトであるってこと。とってもおおらかで、そこが柏葉さんやこの作品の魅力だと思うんだけど、やっぱり「木がお父さんになる」というところが、いちばんひっかかったわ。ここだけがアニミズムの世界で、残りの部分は成仏できずに幽霊になっているという宗教の世界だから気になるのかも。プルマンの「ライラの冒険」3部作の第3巻に、幽霊がちりになって世界に散っていくという場面があって、ここにはプルマンの宗教観というか、祈りのようなものがくっきりと現れていて感動したけれど、この作品の場合は、わりあい気楽にやっているのでは? 温泉宿のこととか、いかにも日本らしいいろいろなものの書き方は、とても魅力的で、うまいなとは思ったけど、アカシアさんと同様、これが大賞?って、ちょっと思ったのはたしか。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年7月の記録)


イェンス・ペーターと透明くん

クラウス・ペーター・ヴォルフ『イェンス・ペーターと透明くん』
『イェンス・ペーターと透明くん』
クラウス・ペーター・ヴォルフ/著 木本栄/訳
ひくまの出版
2006

ジーナ:おもしろいと思えませんでした。エピソードが並んでいるオムニバスタイプの本だから、このユーモアにのれないと楽しめませんね。1冊読んだという満足感もないし。日常生活をあれこれかき回す透明人間が出てくる、という設定自体はおもしろいんだけれど。一番気になったのは、54ページの歌をうたうシーン。透明くんの声はみんなには聞こえないはずなのに、ここだけ急に聞こえるでしょ? これってどうして? 聞こえたら確かにおもしろいけれど、その場その場で都合よくただ楽しげに書かれている感じがして、ついていけなくなりました。

アカシア:透明くんはもうひとりの自分ってことでしょ? だから、ここは自分の声なんじゃないのかな。私はそう読んだけどな。

ポン:えっ? 自分の声だったの? あらぁ、びっくり! 話を間違って読んでたかも……。そんな私がコメントしてよいものかちょっと不安ですが、思ったことを言いますと、いろいろと、おもしろいといえばおもしろい出来事が起こるんだけど、最初から作者に「これはおもしろいんでーす!」って言われているような感じがして、あんまりのれなかった。袖に、イェンス・ペーターは「おりこうさん」って書いてあるけど、読んでてそんなにおりこうさんとも思えなかったし……。

サンシャイン:子どもの本でも何かしら人間の深い部分に触れている作品かそうでないか、という視線でどうしても読んでしまいます。透明くんが現れて、人間の裏側の深いところに触れている感じがするか、ということですが、そういう視点で読んでいい作品なのかどうか、皆さんがどう思われたかうかがいたい。私は、そうは思えませんでした。ファンタジーにしかできないこと、ファンタジーでしか表現できないことがあって、それは人間の隠れた部分を描くことだと河合隼雄さんが書いていましたが、そのような作品なのかかどうかということを皆さんに伺いたいです。

アカシア:別に人間の隠れた部分を書かなくてもいいと思うんです。大人の思う「ためになる」本ばかりじゃなくてもいい。入り口から入って出るまでに何かが得られればいいのかな、と思うんです。その何かは、すっごくおもしろかったとか、すっごく笑えたとか、それだって一つの体験なんだから、いいんじゃない? ただこの本は、そこまでもいかなかったけど。

ウグイス:見た目はすごくおもしろそうな本。タイトルも表紙の絵も、あまり分厚くないことも、子どもには手にとりやすい本だと思う。でも中身は期待はずれだった。目に見えない存在がいるというのはそれだけでおもしろいんだけど、起こる出来事はたいしておもしろくない。それに会話のおもしろさが全然ない。透明くんのセリフが「よんでくれたまえ」とか、「あるまいね」とか古めかしいし。

みっけ:すごくおもしろい、とは思わなかった。というのは、どれもワンパターンだったから。全部、透明君が、ほとんど暴力的にペーター君をそそのかして、ペーター君がひきずられてはちゃめちゃになっていくという構造でしょ。子どもがしたそうなことを取り上げているのはわかるけれど、なんか感じ悪い、と思いました。透明くんの存在が、なんかうざったい感じになっちゃっている。だからたのしくない。9ページの絵を見ても、ペーター君がお利口さんとは思えないし。

ケロ:タイトルなどおもしろそうだったけど、実際に読んでみると、あまりおもしろくなかった。どうしてかなと考えてみましたが、おそらくこの「透明くん」という存在が、いわゆる心の中の「悪魔」みたいなもので、作者側にしてみれば、そそのかされてイエンス・ペーターがとんでもないことになってしまうことが「悪いことをしちゃうのって、おもしろいだろう」ということになるのでしょう。でも、それすらも教訓めいて、説教くさく感じてしまう。悪いことするのも、まあ悪くないよ的なスタンスで描いているのでしょうが、意外性もない。だからおもしろく感じられなかったのかな、と思いました。

たんぽぽ:発想は、牡丹さんと同じでおもしろいのですが、悪戯のしっぱなしで最後まで、すとんとくるようなものがなかった。

アカシア:幼年童話かと思って読み始めましたが、違いますね。「彼女」なんていう言葉がルビナシで出てきますもんね。編集者は読者をどの辺に想定しているんでしょう? 49ページ6行目には「碧色(あおいろ)の瞳」っていうのもあります。文体とあまりにも合わない漢字が使われていたり、編集方針が分からない。訳もすっきりしませんね。ドタバタならそれなりの言葉で訳せば、もっとおもしろかったのでは?

愁童:透明くんがどんな存在なのか、よくわからない。はちゃめちゃなとあるけど、何が、どうはちゃめちゃなのか、さっぱりわからない。まして透明な存在ということになれば、この作品の描写じゃ、読者にはさっぱりイメージがつかめないよね。子どもには何が何だかわからないんじゃないかな。

アカシア:主人公以外がみんなステレオタイプなのも、つまらない。もっとはちゃめちゃにやってもらいたかったな。

愁童:透明くんが、おばさんに対して無反応なのが不自然な感じで、作者自身の透明くんのイメージが明確じゃないのかな?なんて思えちゃう。

ねず:ごめんなさい、わたしは、けっこうおもしろく読んじゃった!小学校の中学年くらいのときって、ある日とつぜん「わたしってなに?」と気づくころなんじゃないかしら? わたし自身、ある晩、眠りにつく前に、とつぜんそう思って自我に目覚めたときのことを強烈におぼえているので、そういう年頃の子どもたちが読んだら、けっこうおもしろいのでは? 『ジャマイカの烈風』にもそういう場面が出てきて、あの傑作のなかでも最高の場面だと思っているのだけれど。こんな風に読むのは、ちょっとひいきのしすぎかな? 透明君の台詞の色を変えているのも、いい工夫ですよね。ずいぶんぜいたくな本!

(「子どもの本で言いたい放題」2007年7月の記録)


レネット〜金色の林檎

名木田恵子『レネット』
『レネット〜金色の林檎』
名木田恵子/著
金の星社
2006

げた:チェルノブイリの話は、『アレクセイの泉』(本橋成一/アリス館)のあと児童書ではあまりなかったと思います。被災者した子どもたちを預かった家族が、なんで離れ離れになって、悲しい結末を迎えることにしなくちゃならないんだろう? チェルノブイリの話をとりあげるのなら、もっとあたたかい、ハッピーな形で終わる物語にはできなかったのかなあと思いました。セリョージャに対する気持ちは、自分のことを省みられなくなって、やきもちをやいているということじゃなくって、実はセリョージャに恋していたんだということは、後のほうでわかるんですけど、僕にはわかりませんでしたね。お母さんのことなんですけど、12歳でなくなった長男の身代わりのような形でセリョージャを迎えて、セリョージャが帰ってしまうと、その思いを断ち切りたいから、北海道を離れていく。なんで、そうなるの? 家族関係を壊すことないじゃないの? ちょっと納得いかない部分ですね。

アカシア:私はこの表紙や題名からは意外だったんですが、読んだらおもしろかったです。チェルノブイリの事件を日本の子どもも大人も忘れかけているときに、こういう取り上げ方もあるんだ、と思って。セリョージャだけだと、いい子で出来すぎかもしれませんが、レオニトっていうわがままな子も出てくるのが、いいなあと思います。ボランティア団体の恩恵を受ける側なんですけど。子どもらしくていい。お兄さんが亡くなって主人公の家族が暗いんですけど、セリョージャと暮らしているうちに、家族の関係が変わっていくんですね。たぶんお父さんとお母さんとみかちゃんは、セリョージャに対してそれぞれ違う思いを抱いていたんだと思います。三者三様の思いが書かれています。短い作品なので書き込めてないところもあると思うんですけど、こういう書き方もあるのかと感心しました。

驟雨:時間をかけてじっくり読めなかったというせいもあるのかもしれないけれど、私はなんだか入っていけなかった。ああチェルノブイリのことか、ああお兄ちゃんがいなくなっていろいろあった家庭のことか、という感じで、作者の書きたいお題目が次々に頭の中に浮かんできて、それでおしまいという感じでした。

アカシア:私は作者が書きたかったのは初恋だと思うのね。

驟雨:なんか、そういうふうには読めなかったです。最初の、お兄ちゃんが死んで家族がバラバラになりそうだ、というところから、途中のチェルノブイリときて、その段階で完全に構えが決まっちゃったようで、うまく読みとれませんでした。

ネズ:私も最後のところを読んで、「ああ、初恋を書きたかったんだ!」と思いました。どうりでセリョージャのイメージが、少女マンガに出てくる王子さまのようだと納得。でも、導入部はマンガとは大違いで、とにかく暗い。「なんだろう、この暗さは!」と思って読むのが辛かったけれど、金色の林檎の種が出てくる場面で、やっとイメージがはっきりしてきて、なかなかいいなと思うようになりました。幼いレオニトとかニコラウも登場して、動きも出てきておもしろくなった。けれども、やっぱり書きたかったのは、初恋なのかと、ちょっとがっかり。今の日本の児童文学はーーなんて威張って言えるほど読んでないけどーー自分の身の回り何メートルかのものを、ちまちまと書いているような感じがするんですね。この作品はチェルノブイリを扱っているので、もう少し広がりのある作品なのかと期待していたけれど、そういう問題も家族とか初恋とか、自分のまわりの小さな世界にぎゅっと吸い寄せてしまう日本の児童文学の力って、ある意味すごいなと……大上段にふりかぶった児童文学が必ずしもいいというわけではないけれど。

アカシア:でも、チェルノブイリ被爆者のことを日本の子どもにも引き寄せてフィクションで書こうと思ったら、こういう書き方になるんじゃないかな。確かにセリョージャは少女マンガ的だけど、初恋って相手のことがちゃんと見えなくて美化するようなところあるじゃない?

げた:日本にも、里親として、3か月ぐらいの期間、被爆した子どもたちの面倒を見て、体を強くして帰してやるという活動をしている人がいるというのを、初めて知りましたね。

アカシア:たとえ1か月だけでも健康な暮らしをするのがよいというのは、初めて知りました。今まで、新聞で受け入れる人たちの話を読んでも、自己満足じゃないかと思ってしまっていたんだけど。

驟雨:今、みなさんのお話を聞きながら、はじめのほうをめくってみたんですが、やっぱりべたーっとした印象で、好きになれません。息が詰まりそう。途中でやんちゃ坊主が出てくるところは、唯一息がつけましたが。

ネズ:林檎というのは、西欧の人々にとって、まさに「生命の木」というような特別な意味がありますよね。エデンの園の林檎ともイメージが重なって、生命の始まりと、チェルノブイリに象徴される人間の滅亡というようなーーチェルノブイリというのは、黙示録に出てくるニガヨモギを意味するときいたことがあるけれど。そういうイメージの美しさとか、力強さは感じられたけれど、とにかく暗いというか、ユーモアが無いのよね。ところで、こういうスカスカな、1行ずつ改行するような書き方って、よくあるのかしら。

ジーナ:『世界の中心で愛をさけぶ』のような大人向けのベストセラーも、改行だらけですよ。

アカシア:でも『レネットーー金色の林檎』って、この題でよかったのかしら。リンゴではなく、林檎って?

ネズ:「サヤエンドウのさやをむく」とか、「するっとさやをむく」という記述が度々出てくるけれど、これは「サヤエンドウの筋を取る」ってこと? それとも、グリンピースのことかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2007年6月の記録)


ひとりぼっちのスーパーヒーロー

マーティン・リーヴィット『ひとりぼっちのスーパーヒーロー』
『ひとりぼっちのスーパーヒーロー』
マーティン・リーヴィット/著 神戸万知/訳
鈴木書店
2006

ジーナ:私はこれはダメでした。こういう状況におかれた子どもというのがいるのはわかるのだけれど、これを子どもの読者に投げかけて、何が言いたいのか、わかりませんでした。子どもに何を感じさせたいのでしょう? 最初のページから「ぺしゃんこな状態」というのが出てきて、このぺしゃんこという言葉が、あちこちで繰り返されるのだけれど、そのイメージがあいまいな気がします。感覚的な言葉で、わかったような気分にさせられるけれど、やっぱりわからない。原文はなんという語だったのか、知りたくなりました。

ネズ:“flat”ですね。

ジーナ:あと、ヒーローものになぞらえて、「善行」をして点数を稼ぐ、というふうに主人公が考えるわけですが、ゲームのたとえなら、『ごめん』(ひこ・田中著 偕成社)の「経験値」のほうが、ずっと読者にぴったりくるように思いました。この「善行」という言葉は、あまりピンとこないのでは?

驟雨:前に原書を読んだこともあるんですが、今回翻訳を読んでみて、あらためて、これを日本の子に紹介してどうするのかなっていうのが、正直なところです。袖に、母を思う子の一途な思い、感動の……といった惹句が入っているけれど、違う気がする。感動するどころか、悲惨な事実をそのまま無責任に投げ出されたような嫌な感じばかりが残る。このお母さんはなにやってるんだ、周りの大人はなにやってるんだ、これを読んで、子どもの一途な心に感動してすませるなんて、そりゃあおかしいだろ!みたいな……。表現として考えれば、おもしろい面がないわけではない。すっかりスーパーヒーローに成りきった子どもの主観で見た世界をどう書くか、という書き手にとってのおもしろさという点で。それにしても、SFとかコミックの素養がない私などは、聞き慣れないSF的な言葉に次々に躓いて、それも世界に入り込めない原因だったように思います。スーパーヒーローが好きな子が読めば、違うのかもしれませんが。

アカシア:最後まで読むのに時間がかかりましたね。もうちょっとていねいに訳してほしいなとも思ったし。スーパーヒーローって言葉自体、英語ではわかりますが、日本語ではスーパーマンとかバットマンとかスパイダーマンのこと、そうは言わないんじゃないかな。「善行」って言葉も、この物語には合わないと思いました。急に修身の本みたいになっちゃいます。「人助け」くらいでいいんじゃないかな。同じテーマなら、『タトゥーママ』(ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社)のほうがずっといい。スーパーヒーローごっこというのも。訳文がぴったりはまらない。ヘックの一人芝居だから、ヘックに感情移入できないと作品全体がおもしろくなくなっちゃう。途中からヘックが不安定になっていくところで、『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著 小尾芙佐 早川書房)のような書き方をしてくれればよかったんですが。マリオンが最後自殺するところも疑問に思いました。

げた:よくわからなくて2回くらい読みました。全く読後感が悪い本でした。ヘックが出会ったマリオンという少年を自殺させたり、中学生のヘック少年を一人でがんばらせたりして、大人の都合で。最後に、ヘックが自分はもうスーパーヒーローじゃないと気づいたところで、少し救われたかな、と思えるんだけど。ヘックが心を閉ざしているから、友だちのスペンスが呼びかけても、なかなか応えられない。もっとスペンスに応えられるようなつくり方をできなかったのかなと。この表紙を見て、もっと単純で明るい話なのかな、と思ったら、イメージが全然違う。児童書には不向きだな。

ネズ:原書の裏にある推薦の言葉を読むと「読者は主人公のヘックを愛さずにはいられないだろう」と言う意味のことを言っているけれど、主人公に感情移入するのに時間がかかりました。とても幼い感じのところもあるのに、とっても難しい言葉を使ったりする。アメリカン・コミックに親しんでいるアメリカやカナダの読者はおもしろく読めるかもしれないけれど、難しかった。私は、ヘックよりもマリオンに親しみを感じてしまったので、なにも殺すことはないのに、残酷だなあと思いました。お母さんにも腹が立ったし……

アカシア:こういう状況の子どもは多いから、大人が自戒するために読むのならわかるけど、子どもに読ませてもね。

ネズ:どうしてこの子は母親に腹を立てないのかしら。なんで、ここまでお母さんを守りたいと思うの?

ジーナ:「守ろう」というより、お母さんと一緒にいたいっていう気持ちでは? 福祉事務所などに知られると、施設に送られるというのがわかっているから。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年6月の記録)


天使のすむ町

アンジェラ・ジョンソン『天使のすむ町』
『天使のすむ町』
アンジェラ・ジョンソン/作 冨永星/訳
小峰書店
2006

げた:今日の3冊の中では、一番読後感がよかったな。読み終えて「心がほんわりとあたたかく」という気持ちになりました。マーリーは14年の間、実はおじさん夫婦に育てられたんだということを、ある日突然告げられ、動揺して、いらいらしてたんです。でも、お母さんのラブレターを読んで、自分がお互いに愛し合っていた父と母の子どもなんだ。たまたま事故で離れ離れにならなければならなかっただけなんだということを知って、ヘヴンという地名にふさわしい気持ちになっていくんですよね。気になったのは、そうはいっても、ジャックがどうしてマーリーを見られなかったのかなということですね。妻を失ったショックで、立ち直れなくなってしまってじゃ、おかしいんじゃないかな。逆に、俺に任せろと思わなくっちゃ。この舞台になった場所は、特定できるんですか?

驟雨:作者はずっとオハイオ在住で、オハイオの小さな町を舞台にした作品をいろいろ書いているようですよ。この作品の中にも実在の場所が何カ所か出てきますが、ヘヴン自体は特定できないみたいですね。

アカシア:この本は出たときに英語で読んで、日本語にするのは難しいな、と思ってました。小峰で出たのはよかったけれど、やっぱり売るのは難しいかもしれませんね。いい人たちが出てくるんだけど、人間関係がわかるまでに時間がかかるんですよね。ジャックが、どうしてこの子と暮らせなかったのかというのも説明されてないし。原書の表紙には、アフリカンアメリカンの女の子が出てますが、日本語版にはそういう情報もありません。アフリカン・アメリカンの家庭だとわかったほうが理解できることもあると思うんですが。焦点が一つに定まっていない点描のかたちで物語が進むので、読書好きの子は楽しいだろうけれど、そうでないと自分の中できっちりと像を結ばせていくのが難しい。最後は明るい感じで終わるのはいいですね。シューギーが、親を拒否しているんですけど、これがこの年齢特有なものなのか、それとも何か理由があるのか、よくわからなかった。

ネズ:これは不思議な本ですよね。この物語の前の出来事を、作者は次の本で書いているんですよね。赤ちゃんが生まれて、お母さんが死んでしまうまでのお話。同じ出版社から、別の訳者で出ている……

驟雨:『朝のひかりを待てるから』ですね。

ジーナ:よかったのは、人物一人一人が生き生きと描かれていたところ。ただ私は、いくら愛する妻が死んでしまったとはいえ、ジャックおじさんが幼い子を人にあずけて放浪に出てしまう、しかものんきそうに手紙を書いてくるというのが理解できなかったので、物語にのりきれませんでした。また、確かに自分の親が違っていたというのはショックだろうけれど、マーリーは育ての親に愛情を注がれて育っているわけですよね。さっきの本のヘックなんかと比べれば、ずっと恵まれた状況です。それが、血がつながっていないとわかったとたんにこんなになってしまう、というのがピンときませんでした。キャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(岡本浜江訳 偕成社)の頃から、さまざまな家族の形というのが児童文学ではずっと書かれてきているのに。

アカシア:アメリカは、養子や里子には、きちんとそう話す場合が多いですよね。それを言ってこなかったというので、この子がショックを受けるんでしょうね。

驟雨:この作品は、かなりふわふわとつかみ所がないような描き方がされていて、たしかに読み取るのは難しいかもしれませんが、一方で、そのふわふわした感じが、天使が描かれたヘヴンのはがきに通じるし、揺れている主人公の気持ちを忠実に追いかけていく感じにも重なって、それがこの本の魅力になっているような気がします。ふわふわと揺れている点描の風景に忠実に寄り添っていくと、主人公の心の動きがとてもリアルに感じられる。前々から、養子ものというと、悲惨なものがついてまわる感じがしていたけれど……、

アカシア:70年代くらいからは、そうでもないよ。日本の作品でも。

驟雨:悲惨というか、つまり、養父母との関係の難しさとか、実の親との関係の難しさとか、金銭的なこととか、そいうことがつきまとってくる印象があるんですが、この本は、養父母とも実の親とも、関係がいいという設定で、アイデンティティーの問題がくっきり浮き上がってきているのがいいと思いました。この子は、養父母との家庭にきちんと自分の居場所があって、のびのび育ってきた。それが突然アイデンティティの足下をすくわれる。結局たいした変化はないじゃないか、ただ名札が変わるだけのことだろ、といわれればそれまでなんですが。アイデンティティが混乱してからまた捉え直すまでの過程がとてもよく書けていて、自分の中にそういう混乱を抱えている子はきっと日本にもいるだろうし、そういう子には響くものがあるんじゃないでしょうか。この子はすごく混乱して、今までのことがすべて嘘だったのかと思い、ドアをばんと閉めてみたり、トイレに閉じこもってみたり、いろいろするわけですが、そういう行動に出られるのも、養父母との関係がうまくいっていて、子どもらしくのびのびと育ってきたからだと思うんです。だから、読み終わったときに、ほんわり暖かいものを感じる。この子と養父母のような安定した親子関係の中にいる子が遭遇するさまざまな困難を取り上げた作品というのは、ややもすると地味だと見られがちですが、必要としている子はいると思います。今を生きる子どもたちに届ける本として、プルマンの『黄金の羅針盤』のように、子どもを利用することしか考えない親を持った子どもが、それでもタフに生きていく、というタイプの本も必要だと思いますが、一方で、大人といい関係が持てて子どもらしくあれる子の成長物語も、必要な気がします。

アカシア:『アンモナイトの谷(蛇の谷 秘密の谷)』(バーリー・ドハティ著 中川千尋訳 新潮社)と同じで、成長の過程で子どもが養父母を選びなおすっていうテーマですよね。でも、ドハティの方が児童文学としてはわかりやすいですね。

驟雨:あとひとつ付け加えると、たとえばジャックおじさんが昔のことを思い出している時に、同時に主人公も昔のことを思い出していたり、主人公の夢とボビーの描いている絵の中身が同じだったりと、さりげなく不思議な感じが醸し出されているあたりも、いいなあと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年6月の記録)


町かどのジム

エリノア・ファージョン『町かどのジム』
『町かどのジム』
エリノア・ファージョン/著 松岡享子/訳 エドワード・アーディゾーニ/絵
童話館出版
2001

ケロ:とてもていねいな語り口のお話で、物語への入って行き方も自然で楽しく読める本 でした。ていねいな語り口は、訳者の力だと思いました。ちょっと古い表現がありましたが(たとえば、「ぶっつかる」とか「ごりっぷく」とか)、それを そのまま生かすことで「昔のお話なんだな、いいお話だな」という読者側のスタンスができるので、それがとても良いと思いました。

カーコ:今回の3冊のうち、2冊は語り方に特徴がある本だと思いました。『いたずらハリー』は、読者に向かって登場人物が語りかけているのに対し、この本はお話の中の登場人物がべつの登場人物に、さまざまなお話を思い出話として語るんですね。語りの取り入れ方がおもしろいと思いました。今でもロンドンに行ったらこんなおじいさんに会えるんじゃないか、と思わせてしまう。松岡さんのおじいさんの語りの文体がすばらしく、チンマパンジーなどの作者の造語も、日本語にきちんと置き換えて訳しているところもすごいなと思いました。この本が松岡さんが初めて翻訳された本と知ってびっくり。

ネズ:昔読んだときは『町かどのジム』が本当に好きで、『百まいのきもの』のほうはそれほどではなかったけれど、今回読んでみると『百まいのきもの』のほうが新鮮に感じられました。この時代の安定した階級社会の話で、あたたかさと共にペーソスも感じました。読み聞かせに最適の訳がすばらしい。ところで、みかん箱って原作ではなんなのかしら? りんごの箱? オレンジ? 今はみかんは段ボール箱に入ってるから、みかん箱ときいてもわからないかもしれないわね。

ミッケ:ファージョンはとっても好きで、自分でも何冊か持っています。とにかく、古き良きという感じがあふれていて、それが好ましい。男の子が自分の身近にあったことなんかを話すと、それを引き継いだ形でジムが途方もない話をするという、その落差がとてもいいですね。ジムが話し始めたとたんに、ばーんとイメージが広がって、途方もない事になっていくあたりは、子どもが読んでもわくわくしそう。しかも、荒唐無稽さが半端じゃなくて、それでいてどこか優しいから、心地よい。あと、この絵もほんわかした感じを支えていますね。訳の調子と安定した社会を背景にした内容とがぴったりあっていていい本だと思いました。

アカシア:私はこの本がとても好きなんです。最初に学研から出ていて、その次に福武にうつったときから、絵が原作どおりアーティゾーニになりましたね。この作品の中では、貧しいジムのことを、周りの人々が全然下に見ていないんです。ほら話への展開の仕方もうまい。ジムのことをデリーがすごいと尊敬して見ている設定もいいと思います。8歳と 80歳の間にかよう気持ちがとても良いし、読者の想像力を喚起しますね。エリノアという表記ですが、今出し直すならエリナーかエレナーにしてもよかったのでは? 岩波の選集の、ファージョンの他の作品は年齢対象がもっと上ですが、これは小さい子に向けて書かれていてわかりやすいですね。

げた:いい本なんだけど、子ども達になかなか手にとってもらえない本になっていますよね。「町かどのジム」に対する周りの人のあたたかい気持ちがとてもいいと感じました。自然な感じでね。お話をジムのように、子どもたちに語れたらいいなと思いました。この本は、それぞれのお話が完結してるので、1冊を読むことをすすめるより、1話1話読んであげてもいいんじゃないのかなあ? 1話読んであげれば、次からは、自分で読みたくなるようになるかも。私も、ジムのように、いつか、町かどの「おはなしおじさん」のよになれたらいいなあ、と思ってます。

小麦:この本ははじめて読んだのですが、とてもおもしろくてぐいぐい引き込まれました。よく考えると、ジムは身寄りのないホームレスなんだけど、その存在が、ちっとも切なくならないどころか、魅力的にすらうつるのは、ジムのお話が抜群におもしろいから。自分のなかに物語を持っている人は、どこまでいってもみじめにならない。物語を抱えることは、もうひとつの大きな世界を手に入れることなんだなーなんてことをしみじみ感じました。うまいなと思ったのは、船乗りであったというジムの前歴が、物語の導入部分でうまく生かされているところ。いかにも船乗りっぽく天気を読んだりした後に、自然に船乗り時代のお話に入っていくから、突拍子のない話も本当らしく聞こえてくるんですよね。しかも人から聞いた話ではなく、全部ジムが経験した話として語られるから臨場感があって、そばで聞いているデリーのワクワク感が伝わってくる。私もワクワクしながら、一気に読んでしまいました。

愁童:1934年発表とういことで、とても古い本だけど、好きですね。しみじみ感じるのは、この時代の大人が子ども達にやさしかったこと。日本にもこのようなおもしろいほら話をしてくれるおじいさんが割と身近にいましたね。偏差値的価値観に縛られがちな今の子達に読んでもらって、ホッとしてほしいなって思います。海へびをなでる話など、今だったら冗談じゃない、みたいな感じになりかねないけど、この本の語り口だと、ごく自然に、それもありかなって思えてしまうのがいいですね。

カーコ:これこそ、本当に豊かな想像力ですね。

愁童:荒唐無稽なほら話の雰囲気が、どこか志ん生の落語を聞く楽しさに通じるところがあるよね。洋の東西を問わず、この時代の大人は、人生なんて 「Let it be」、どうにかなるもんだよ、と子どもに言って聞かせていたおおらかさが、色濃く反映された作品っていう気がする。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年5月の記録)


百まいのドレス

エレナー・エスティス『百まいのドレス』
『百まいのドレス』
エレナー・エスティス/著 石井桃子/訳 ルイス・スロボドキン/絵
岩波書店
2006

げた:旧版と比べてまず思ったのは、絵が逆版になってますね。前が間違ってたんでしょうか? 全ページの絵が逆になってますよね。

ケロ:新版のP82〜83をみると、右から左に絵が流れていますよね。だから今回の新版で、縦組にあわせて絵を逆版にしたんじゃないかな?

げた:色も古い版に比べて、ずいぶん鮮やかにきれいになってますね。僕はこの本を読んで、まず、これじゃワンダがかわいそうだなと思いました。これで、終わり? と。ペギーもマデラインも、ワンダがいなくなった後に絵を見て「わたしたちのことをきらいじゃなかったんだ」と言ってるけど、なんだか自分たちを納得させているだけみたいな感じがして、ずいぶん勝手な話だなあ、とも。ワンダはそのあとどうなっていくのかな、と心配です。ワンダは「強い子」かもしれないけど、だからワンダは「大丈夫」でいいの? 納得いきません。この本はもちろん基本図書に入っていて、学校のブックトークなどでも「いじめ」や「ともだち」をテーマの時、ぜひ読んでみてって、おすすめする本だけど、読み手にとって感じ方の難しい本だなと思いました。前回の『教室の祭り』も同じように感じましたが。マデラインは、これからは嫌なことは嫌とはっきり言おうと、決心してはいるけど、私はそれでもなんだか納得できませんでした。みなさんがどう思われたのか、意見を聞くのが楽しみですね。

小麦:私も最初この本を読んだ時、全然しっくりきませんでした。マデラインが全然好きになれなかった。読み返して、ここが嫌だったんだと思ったのが、P71で、マデラインが想像するシーン。ワンダをいじめている子たちに向かって「よしなさいよ! この子だってあなた方と同じ人間じゃないの」と言うところ。

アカシア:そう! そこ、私もすごく嫌だった。

小麦:結局、マデラインは全然ワンダと同じところに立ってない。見下した視点からかわいそうと思っているだけ。ワンダをいじめたことで悩んでるんじゃじゃなくて、それによって生じたもやもやや罪悪感を払拭したいだけ。それが嫌だった。この本をいい本だとは思えなくて、何で読み継がれているんだろうと考えながら読むうちに、これはワンダの話なんだと思いました。ワンダは絵を描くという自分の才能を見つけて、それに打ちこんでる。そうすることで強くいられる。自分が打ちこめることを見つけた子が一番強いんだというメッセージを込めた本なのかもと思ったら、ようやく納得できました。古い版と読み比べて印象的だったのは、子どもたちの親へ対する言葉使い。例えば古い版では「すてきなしまの着物、わたしもお母さんにつくっていただくわ」というのが新装版では、「私もチェックのドレス、お母さんに買ってもらおうっと」となっている。私もよく親に「私があなたぐらいの時は、両親に対してそんな口のききかたをしたことはなかったわ」なんてよく怒られたけど、昔の人は本当に美しい日本語を話して美しい生活を送っていたんだなあ……

ケロ:私は前回話題に上った、『教室の祭り』よりはストンときました。この『百まいのドレス』で描かれているいじめは昔のいじめ。要するに貧富の差ですよね。今はいじめの質も違うだろうし、今の子にはどうかな?と最初は思ったけど、マデラインの心の動きは今に通じるくらいよく描かれてると思いました。きっと彼女は、自分がやってしまったことを一生はずかしいと思い続けると思う。そういうことって私にもあります。大人になった今でも、小さい時に相手に言ってしまったことを思い出して、「ぎゃ〜」とさけんで走り出したくなるなんてことが。甘いかもしれないけど、そういうマデラインの気持ちはしっかり描いてあると思う。いいなと思ったのは、ワンダが100枚のドレスを描きあげたシーン。本のなかの絵も素晴らしいし、彼女はきっとこの先大丈夫だな、と思える。いじめをテーマにしたものって難しいけど、こういう描き方もできるんだ。変にぐちゃくちゃのまま終わらせるよりは、いいと思う。

カーコ:石井桃子さんの新訳ということで、古い版と照らし合わせて読みました。全体にずいぶん変わっていて、細かなところまでていねいに直しが入っていました。例えば新版17ページ14行で「ワンダ」と呼びかけているところは、古い版だと「ワンダさん」。新しい言い回しになって、今の子に読みやすくなっています。「きもの」より、「ドレス」のほうが、すてきなものに思えます。いじめられているワンダ、中心になってワンダをいじめるペギー、それに加担しながらも嫌だと思っているマデライン。私は、その他大勢のマデラインに気持ちをそわせて読みました。ケロさんが言ったみたいに「とりかえしのつかないこと」ってだれにでもあって、そこの気持ちがよく書かれている。私は最後にマデラインが、心からよかったと思っているとは思わず、このことを一生後悔し続けるように読んだので、読後感は悪くありませんでした。貧しさをからかうのは昔のいじめかもしれないけれど、おでこがてかてかしているとか、名前が変だとかでからかうのは、くさくないのに「くさい」と言ってのけものにする、今のいじめとおんなじ。今に通じるものを感じました。こんなに文章が入っているのに、前はよく絵本で出ていたなあ。読み物らしいこの体裁なら、中学生が読んでもいいんじゃないかな、と思いました。

ネズ:石井さんが今の時代にこの本の新訳を出そうと思ったのがわかる気がしました。『教室の祭り』は、大人が子どもに向けて書くのではなく、自分の思いをぶつけているだけだという感じでしたが、この本は大人の安定した視点で書かれている。あたたかい書き方のようだけど、決してそんなにあたたかくも、甘くもない。大人の小説のようでした。ラストで、ペギーとマデラインが「ワンダはきっとわたしたちのことを好きだったのよ」と言っているけれど、作者は決してそうは思ってはいないと思う。ただ、子どもの読者がそこまで読み取れるかどうかは疑問だけど。

ミッケ:これは、個人的にとても思い入れのある本です。小学校の頃に岩波書店の絵本シリーズとして親に買ってもらって読んだんですが、印象に残っていて、大学時代に自分でも買い直したんです。別にくりかえし読むわけじゃないんだけれど、なんか気になっちゃって……。あのシリーズはけっこう不思議な本が多かったけれど、特にこれは、楽しい本じゃないんですよね。でも、だからといって嫌いでもなくて、なんだかすっきりしない分、気になったんです。前回取り上げた草野たきさんの『教室の祭り』もやはりいじめが出てきていたけれど、草野さんの本が、それぞれの登場人物に役割があてはめられてるという感じだったのに対して、この本の子どもたちは、いかにもいそうだと思えるんですね。教室っていうのは、いろんな子どもたちがいて、ちょっとしたことがきっかけでかなり深刻なことにもなって……という場なんだけれど、それがごく自然にじょうずに描けている。子どものずるさもよく描けているし。マディはペギーにくっついているけれど、ワンダをいじめるのは嫌だなと思っていて、でも、自分に矛先が向くんじゃないかと思ってしまい、止められない。そういう葛藤は、今の子どもたちにも通じるんじゃないかなって思います。この本はインターネットで盛んに取り上げられていて、「いじめの本」だと書いてあるんだけれど、それはちょっと違うかなと思う。テーマだけで「いじめ」と括って片付けたのでは、もやもやとした感じがどこかに行ってしまうから。あと、この挿絵もちょっと不思議な感じだなってずっと思っていました。ぼやっとして、一見子ども受けしそうにない絵で。でも、このぼんやりした感じが内容に合っているのかもしれませんね。

アカシア:昔この本を読んだときは、変な本だなあと思ったんですが、今回あらたに読んで見て、とても嫌な本だなと思いました。さっきも話が出たけど、「よしなさいよ! この子だってあなた方と同じ人間じゃないの」というところに、上に立っている人間が下にいる子に同情を寄せているいやらしさを感じてしまって。ワンダはどこかに行ってしまったという形で終わらせればいいのに、わざわざワンダに手紙をよこさせて、「もとの学校の方が好きでした」と言わせてる。しかも、自分を毎日いじめ続けた子の顔を絵に描かせてる。なんでそんなことさせるの!? そこも、いじめた側の免罪符を付け加えている感じがして嫌でした。普通こんなふうないじめ方をされた子どもは、そんなことしませんよね。しかも最後のところで、「『ええ、きっとそうだったのね。』と、マデラインはペギーの言葉にうなずき、自分の目にうかんだなみだを、まぶたではらいおとしました」となってるでしょう。これだと、マデラインはワンダに嫌われてなかったんだ、ああ、よかった、という印象を読者にあたえてしまう。大人は違う読み方ができるかもしれないけど、子どもは、マデラインたちはワンダから許されたと思っちゃうし、かわいそうなことをしちゃったけどマデラインも涙を流してるんだからおあいこだと思っちゃうんじゃないでしょうか。ネットを見ると、この本は「いじめについて考える本」としてあちこちで薦められているんですが、とんでもない。私はすごく問題のある本だと思いました。

ケロ:でも、当時はこれでも斬新だったのかもしれませんね。時代の制約もあっただろうし。

ミッケ:時代の限界はあるかもしれませんね。日本語版が出たのが1949年だから、原書はもっと古くって、公民権運動なんかの前だから。自分自身は差別されたり踏みつけられたりする側に立ったことがないけれど良心的な人の作品という面はあるかもしれませんね。

アカシア:結局この本は、いじめた側の子どもの心の救済、あるいはいじめた側の感傷にとどまってしまっているんじゃないでしょうか? 今また出す意味が私にはよくわかりませんでした。

ミッケ:アカシアさんが問題にしていらっしゃる観点と、最後の終わり方の点でいうと、ワンダから送られてきた絵が自分たちの姿だと知ったマデラインの形容は、前の訳では、「そして、出てくるなみだをはらいました。/あの運動場のへいのそばの日だまりに、ひとりぼっちで立っていたワンダをーーじぶんを笑っている女の子たちを、じっと見ているワンダをーーええ、百まい……ならべてあるの、と、いつもいっていたワンダを?おもいだすと、いつも、涙が出てくるのでした。」となっていて、今度の訳では、「じぶんの目にうかんだなみだを、まぶたではらいおとしました。/そして、そのなみだは、いつもあの校庭のレンガべいのそばの日だまりに、ひとりぼっちで立っていたワンダのことを考えると……そしてまた、じぶんのことを笑いながら立ち去っていく女の子たちを、じっと見ていたワンダのことを思い出すと……「そうよ、百まい、ずらっとならんでる。」と、くりかえしいったワンダを思うと……いつもうかんでくる、なみだなのでした。」となっているんですね。これで逆に、マデラインの造作が浅くなって、物語としても浅くなったような気がします。それと、最後の絵もまずいような気がする。この本は、いじめた子の気持ちもよく描けていて、けっして一面的でもないし、個人的な思い入れもあって、だめだとは言い切りたくないですけど……

ネズ:うまくまとめようとしたから、いけないんでしょうね。ワンダからの手紙がなければ、ストンと落ち着いたのかもしれない。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年5月の記録)


いたずらハリー〜きかんぼのちいちゃいいもうと その3 

ドロシー・エドワーズ『いたずらハリー』
『いたずらハリー〜きかんぼのちいちゃいいもうと その3 』
ドロシー・エドワーズ/著 渡辺茂男/訳 酒井駒子/絵
福音館書店
2006

げた:昔の版は堀内誠一さんの挿絵なんですね。堀内さんの絵も本当に「きかんぼ」って感じでいいけれど、酒井駒子さんの絵は、もう少しかわいらしさや深みというか、引き込まれる感じがあっていいですよね。酒井駒子さんの世界だなあ。いつも、うるさいと叱られる子どもたちが、静かに図書館でネズミを見ていたり、パンの耳がひきだしの中でかびだらけになっていたり、指輪騒動のお話では、指輪がおばさんのボタンにかかっていたなんてオチがあったり、また、ハリーのド派手なコートのことを「コートが叫んでいる」と表現されていることとか、とってもいじわるなおとうさんとおるすばんとか、一つ一つの挿話が楽しく読めました。子どももたちも楽しく読めるんじゃないかと思います。

小麦:このシリーズは、1巻目が出たときから好きでずっと読んでいます。なにがいいって、タイトルに違わず、きかんぼのちっちゃいいもうとが、本当にきかんぼなところがいい。わがままで、がんこで、やりたい放題。その突き抜けたきかんぼっぷりがこの本の魅力。私は一人っ子なんですけど、当然一人っ子の周りは大人ばかりで、その中でいつも自分だけが一番ちっちゃな子どもなんです。そんな状況でも、これを読んだら「ちいちゃいいもうとってば、しょうがないなあー」なんてお姉さんぶった気持ちになれる。いつもちっちゃい子よばわりされている一人っ子や末っ子が、普段なれないお兄ちゃんやお姉ちゃんの気持ちになって楽しめる本だと思います。ちっちゃな子が、自分よりもちっちゃな存在を見つけて、可愛がったり、世話をやいたりする、あの感じ。訳も、子どもがいかにも言いそうな言葉遣いになっていて、すごくいいと思いました。

ケロ:1巻から3巻まで私もおもしろく読みました。最初は、自分よりも小さい子のやることには、子どもは興味を持たないのでは?と思いましたが、娘に読んでやったらすごく喜んで、今日ここに持ってこようとしていたら、「返しちゃうの?」って心配しちゃって。挿絵も格調が高く、なにより妹がとてもかわいらしい。いたずらも、こんなかわいらしい妹なら、許せてしまうという感じ。この本は、作者やその妹が大人になった後に、ちっちゃい妹のことを思い出しながら書いているという設定ですが、へんに幼稚っぽく書いていない分、安心して読めるんだと思いました。おもしろかったのは、ハリーのお母さんが床を掃除するのに、新聞紙を敷くというエピソード。庭でやっていた遊びの続きが、ハリーはどんなところでもできてしまうんですね。子どもの想像力の豊かさを感じてほほえましかったです。

カーコ:エピソードは、確かにおもしろかったんですけど、私はこの語りになじめませんでした。冒頭の「わたしが小さかったとき、わたしよりもっとちいさいいもうとがいました」という文章で、妹なら自分より小さいに決まっているのに、とひっかかってしまいました。この内容なら、3人称で書いてもおもしろいと思うのに、作者がなぜわざわざ1人称の語りにしたのか、おねえさんの視点を持ってきたのか、自分では答えが出ず、みなさんの意見をお聞きしたいと思いました。

ネズ:この物語の「わたし」と「妹」だけは、名前が無いのよね。「自分にもこういう妹がいたら……」と思わせようとしている、おもしろいテクニックだと思いました。それから、気難しい靴直しのおじさんとか、目を細める女の子とか、おもしろい登場人物が大勢出てくるけれど、たとえば家族を失ってひとりぼっちになったから気難しいとかなんとか理由をつけずに、気難しいから気難しい。そういわれてみれば、幼い子ってこんな風にストレートに人間や物事を受け止めるんじゃないかしら。そのへんのところも、とても新鮮で、うまいなと思いました。
また、原書の挿絵はシャーリー・ヒューズ、日本語版は酒井駒子さんだけど、ふたりが描く子どもの頭の形ってそっくりね。おもしろかった。シャーリー・ヒューズは英国の国民的な児童書イラストレーターだけど、日本では絶対にだめなのよね。なぜかしら。
訳は上品だなと思いました。古めかしい言い方もあるけれど、昔ながらの言葉や言い回しって、児童書を通して次の世代に受け継がれていくのね。この本の訳にも「たいそう」というのが多いけれど、本をよく読んだり、読んでもらったりしている子どもは、作文に「たいそう大きな木でした」などと書くと聞いたことがあるわ。

ミッケ:形容詞も、たくさんついていますよね。ひじょうに原文に忠実な訳だなと思いました。だからちょっとぎこちなかったりもして。「わたしのちっちゃないもうとは」というのが繰り返し繰り返し出てくるんだけど、読み聞かせのリズムという感じでもないし、ちょっとうるさいなあと思ったり。内容は、書かれているのを読むと、「そうそう、子どもってこういうことをやるよね。やりたがってるんだよね」と思い当たるんだけれど、自分では考えつきそうにない展開が書いてあって、とってもおもしろかったです。子どもにはすごく受けると思いますよ。痛快だもの。トライフルを食べたあとで、食べ散らかしてそのまま逃げるじゃないですか。逃げおおせるのがポイント。あれなんか大笑いですよね。当然、おなかは痛くなるわけだけど。お父さんとの意地の張り合いなんかも生き生きしているし、たいへん楽しく読みました。この本の持ち味からいうと、今風にしすぎるのも妙だと思うので、基本的には、こういうお上品というかのんびりした感じでいいと思いました。

アカシア:これは、イギリスの子どもたちに読んでやって大うけした本なんです。原文は翻訳ほど上品じゃない感じがしましたけど。翻訳はたとえば60ページの「さて、そんなある日、クラークおくさんとよばれるご婦人が、わたしたちの家に、お茶によばれて、やってきました。」と、とても上品ですね。お母さんも子どもたちに対して、とてもていねいな言葉使いをしていて、たとえば126ページでは「今日の午後のお茶に、小さい女の子がきますよ。その子に、やさしくしんせつにしてあげてね。その子のおかあさんがお出かけのあいだ、おせわをたのまれたんですからね。」と言っています。エピソードは、どれも子どもをよく見たうえで日常生活の中の子どもをよくとらえていますね。お姉さんが語っているという設定は、自分にはお姉さんもお兄さんもいない子が読んだり聞いたりしても、お姉さんになった気持ちになれる、ということだと思います。原文のnaughty という言葉には「きかんぼ」というだけではなくて、「やってくれるじゃないか」っていうニュアンスもあるんじゃないかな。子どもたちはいつもDon’t be naughtyと言われているので、naughtyでありつづけるこの子には、「だめじゃないか」と諭す気持ちと同時に、爽快感も感じるんだと思います。

愁童:この作品あんまり好きじゃなかったですね。じんましんが出そう。子育ても終わった大人が過去を振り返って癒されるための本みたいな感じ。

アカシア:でも、私が読んでやった子は3歳〜7歳だったけど、すっごく喜びましたよ。パンの耳を食べないで隠しといたら、かびだらけで出てくる、なんてところまで普通書かないもの。

愁童:パンの耳がどうして嫌いなのかが書いてあると、あっ同じだなんて共感が深まる子もいると思うけどな。

ネズ:私は、そこはうまいと思った。子どもって、好きは好き、嫌いは嫌いですもの。

カーコ:これを読むと、お姉さんが大人になってから書いているみたいにとれるけれど、原文だとおねえさんの口調は、どのくらいの年齢の感じなんでしょう?

アカシア:訳が上品でていねいなので、大人の口調のようにとれるのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年5月の記録)


アル・カポネによろしく

ジェニファー・チョールデンコウ『アル・カポネによろしく』
『アル・カポネによろしく』
ジェニファ・チョールデンコウ/著 こだまともこ/訳
あすなろ書房
2006.12

アカシア:主人公の男の子ムースの、いかにも要領の悪いようす、おたおたしてしまうようすが目に浮かぶように書けてますね。ほかの子どもたちもそれぞれ特徴があって、キャラクターとしてどれもなかなかいい。ムースのお姉さんは、本当は14歳なのに10歳で通しているわけですけど、ムースがちゃんと理解して世話をしているところとか、ほかの子どもたちもナタリーをそれなりに受け入れているところなんか、いいですね。ただね、刑務所に洗濯物を出して、アル・カポネにシャツを洗ってもらおうっていうところが、設定としてとてもおもしろいと思うんですけど、日本の今の子どもは、アル・カポネを知ってるんでしょうか?

ねず:アルカトラズは「ルパン三世」に出てきたけど。

アカシア:アル・カポネは極悪人なんだけど、表の世界ではできないことでも裏を通じてできるって子どもは思ってるわけでしょう? ナタリーのことも、アル・カポネがひそかに何とかしてくれたのかもしれないっていう、話の運び方ですよね。ストーリーが一本の筋というよりは何本かの筋がより合わさってできていて、それを統合しているキーワードがアル・カポネだと思うから、アル・カポネのイメージをしっかり持っているほうが楽しめますよね。

:アメリカではアル・カポネって、わかっている?

ねず:アメリカの子どもは知ってるんじゃないかしら?

:アル・カポネがわからなくても、楽しめる?

ポン:アル・カポネのことをあんまり知らなくても、物語自体のおもしろさがたくさんあるから、楽しめると思うなあ。

:充分楽しめるっていうのは、物語のおもしろさ?

ポン:物語のおもしろさもあるけれど、まず、なんといっても舞台設定のおもしろさがありますよね。刑務所の島で暮らすなんて! その発想に拍手をおくりたい気持ち。当時の島での暮らしぶりについても入念な取材をしたうえで描いたそうで、とてもリアリティがある。登場人物もみんな生き生きとしていて、それぞれのことをみんな好きになっちゃう。ちなみに、私のいちばんのお気に入りはテレサなんだけど。
ひとりひとりのことがすごくよくわかるように描かれていると思う。たとえば、54ページ。ナタリーがエスター・P・マーリノフに行ってしまったあと、ムースにはナタリーの部屋のドアが開けられないの。それで、お父さんがナタリーの部屋に行ってムースのグローブをとってきてくれるんだけど、そのときムースがナタリーのお気に入りの毛布が部屋に残されているのを見ちゃうっていう場面。ムースの複雑な気持ちがよく伝わってくるし、ナタリーのこと、大切に思っていることもよくわかる。
ストーリーもね、ほんとにいいんだなぁ。胸きゅんポイントがたくさんあるの。とくに好きだったのは、188ページ。自分の世界に、自分の奥深くにある遠い世界に行ってしまったナタリーを子どもたちがそれぞれのやり方で気づかう場面。ナタリーのほっぺたにとまったハエを、アニーがしーっと追い払ったり、無関心そうにしているジミーは何も言わないんだけど、器械をつくりながらナタリーのためにそっと石を積んであげたり……みんなやさしいよねえ。やっていること自体はユーモラスでオカシイんだけど、みんなの思いやりにじーん。あっ、309ページもいい。お父さんがムースとナタリーを抱きしめて、「おまえたちはおれの誇りだ」っていうところ。ほろっとしちゃった。

ミッケ:最初は、アル・カポネの話なんだ、と思いこんで読み始めたんだけれど、そのうちに、あれ、カポネは脇役なんだなってわかりました。こういう興味の引っ張り方は、うまいと思います。気づいてからは、最近日本でもようやくニュースなどでとりあげられるようになった、障碍がある子の兄弟や親のありようが中心なんだなあ、と思って読みました。そういう意味では、かなり大まじめなことを扱っているのに、それがちっとも暗くなくて深刻でないところが、この本のいいところだと思います。なんといっても、刑務所の島という舞台設定が生きていますね。なんか起こるんじゃないかというんで、ちょっとドキドキしながら読んでいける。その意味で、タイトルと設定が実にじょうず。もちろん、刑務所ならではのことがいろいろあるわけで、へえ、ふうん、と思わせられるんだけれど、全体を貫いているのは、ムースくんやお母さんやお父さんが、お姉さんをめぐってどういうふうに感じ、どう動いてどうなったかという、ある種の成長物語。それにしても、それぞれの子がよく書けていて、特にパイパーがとても印象に残りました。初めのうちは、主人公からすれば引っ張り回されてばかりでたまらない、っていう感じのかなりしたたかで計算高い所がある子なんだけれど、途中あたりから優しいところがちらちら見えてきて、でも憎まれ口をきいて、というのがいいですね。それと、カポネのことは、最後の最後で落語のおちみたいにちょろっと出てくるんだけれど、それがまた、にやっとしちゃう感じでよかったです。訳もとてもいいし、楽しく読みました。お姉さんを巡るムースの働きかけや状況の変化が、最後の320ページをすぎたあたりでパタパタと運んでいくのも、無理がなくて納得できました。

宇野:長い本だけれど、一章一章が短くてどんどん進んでいく構成が読みやすいですね。全体にそこはかとないユーモアがあって、ルイス・サッカー『穴』(講談社)を思い出しました。細部がおもしろくて。お姉さんをめぐる、家族それぞれのいろいろな思いがきちんと書かれていてよかったです。今年から特別支援教育というのが始まって、いろいろな子どもが教室にいて、そういう子どものお母さんも担任もコーディネーターも、みんなすごくたいへん。どうしていいかわからないのに、とにかく病院に行きなさいとか薬を飲みなさいとか迫られたり。子どもがどこまで読み取るか分からないけど、このお母さんの追いつめられた感じは真に迫っていて、大人として胸が痛くなりました。その一方で、子どもらしさもよく書かれているんですね。野球をしたくて約束するのに、その日にお母さんに呼ばれるというところとか。でもちがうことで自分を楽しませたりして、いじらしい。野球をするシーンでも、この子が野球が好きなことがひしひしと伝わってきました。ストーリーでは、ムースとパイパーの関係がかわっていくのが楽しかった。「うん」と思っていても「うん」と言わない、こんな子っているなって。表面はとげとげして見えるけれど、実はよく理解しているという関係が、表面仲良さそうなのに、実は何を考えているかわからない今の子の人間関係と対照的だなと思いました。すごく楽しかったです。

紙魚:この本は、アル・カポネという人がどういう存在なのかわからないと、せっかくのおもしろさが少し損なわれてしまいます。おそらく、日本の子どもたちは知らないと思うんですね。例えば、いちばん最初に、じゃーん、極悪人アル・カポネ登場! というような印象深いシーンがあったりしたら、それに引っ張られてもっとおもしろく読めるかなとは思いました。一章ごとが短いのは、とても小気味よいです。章ごとにおもしろいことが散りばめられていて、リズムもあるので、どんどん先に向かっていけます。それからタイトルと装画には、強さを感じました。

ケロ:まずタイトルが楽しそうで読んでみたいという気にさせられますね。ただ、読者にとって、アル・カポネがどんな強烈な人だったかがもっと分かっているとよかったのでは?たとえば、アル・カポネに洗濯してもらえる、というシーンで、みんながこぞって出すのが感覚としてピンとこない。洗いあがってきたときに、ただ洗ってあるだけじゃんってクラスのみんなが引くんですよね。そのあたり、クラスメイトたちが何を期待していたのか、よく分からないのでは? いやいや出しているのかなとか。
ルイス・サッカーの『穴』に似ているというのは、ムースの役回りなのかな。自分では普通にしているつもりでも、悲劇的に悪い役回りになるところとか。テーマは重いのだけど、この『穴』に似ているような、ユーモアが救っているし、おもしろく読ませるなと思いました。実際にあったアルカトラズ島をお話に結びつけたのはすごい思いつき。作者は、アルカトラズ島に関わりがあったのかなとか、いろいろ思いながら読みました。実際はアル・カポネは、アルカトラズ島にきたときには、もう権力を失っていたらしいですね。1936年のストに参加しなくてバッシングを受けたらしい。その直前のエピソードという設定なのですね。

ねず:原書の後ろを見ると、参考文献が40冊近くならんでいるから、著者は相当調べて書いたらしい。アルカトラズのガイドもしたとか。

ケロ:訳者あとがきも、フォローがきいているので、日本の読者に親切。

ポン:アル・カポネについては、8ページに書いてあるくらいでよいのでは? 読みはじめれば、わりと早い段階で(28ページ)テレサのカードが出てきて、アル・カポネのプロフィールはわかるし、どういう存在かっていうのも読んでいくうちにわかると思うけど……? 私もアル・カポネのこと、よく知らないまま読んだけど、楽しめました。

アカシア:私の年代だと、アル・カポネはテレビや映画でよく知ってるんですけど、今の日本の子どもに手渡すときにどうすればいいか、やっぱり考えちゃいますね。

ミッケ:たとえばカポネが関わった大事件を取り上げた一面トップの大見出し、みたいなのを扉絵かなにかで入れたりしたら、あんまり説明的でなくさりげなく、なんかカポネってすごいらしいぞ、というのが伝わるかも。

紙魚:ちゃんと読み進めていけば、実際のアル・カポネを知らなくても、だんだんとその悪者ぶりはわかってはくるんですけどね。

うさこ:いい物語だなと思いました。特にこの中に出てくる子どもたちの強さが好きでした。ただ、もったいないなあと思うところが、みなさんの意見にもあったように、物語のなかに誘いこむ導入のしかた。アル・カポネについて日本の子どもたちがどういう認識をもち、どのくらい知っているのかな、と思いながら読みました。どんどん読み進めていくと家族の物語で、カポネを全く知らなくても読めるのだけど、知っていたほうが登場する子どもたちに、より気持ちをよりそわせておもしろく読めると思う。作者あとがきを読んでそうだったのかと思うところもあるので、それをアレンジして前に持ってくるという手もあったかなと。

ねず:そのへんのところは、難しい問題だと思うわ。作者、訳者、編集者は、前置きなしに、すっと物語の世界に入っていってほしいと思うだろうし……

げた:タイトルが気に入って、アル・カポネがどんな人だったか、子どもにわかるか、なんていうことを考えずに、自分だけがおもしろがって読んでしまった。確かに、うちの子どもは、アル・カポネのこと知らないですね。図書館ではYAの新刊に入っています。ちっちゃい女の子パイパーにムースがもて遊ばれるあたりで、ムースとパイパーの関係にいらついたり、おもしろがったり。お姉さんとムースのことよりも、こっちの方が気になりました。でも、お姉さんが囚人105と出会った後の、ムースのお姉さんを護ろうとする、健気な思いも伝わってきました。長い読み物だけど一気に読めた。タイトルも表紙の絵も思わず、手にしたくなる魅力がありますね。

ねず:タイトルが魅力的で、すぐに手に取りました。作者のホームページで見たのですが、彼女はラブストーリーを書きたかったんですね。

アカシア:パイパーだけじゃなく、テレサもムースのことが好きなのよね。

ねず:ひとりひとりのキャラクターが、とても生き生きと描かれている。ナタリー自身の性格もよく描けていて、そこがこの本のいちばんの魅力。それから、アルカトラズ島はまさに職住接近の場所で、子どもたちも親の働いている姿をいつも見ているし、大人たちも子どもたちのことがよく分かっている。変な言い方だけど、アルカトラズ島は子育てには最適の場所だったのかも! そういう場所を舞台に選んだことで、物語がいっそう生き生きとしたんじゃないかしら。舞台の面白さと、自閉症の姉を持つという作者の経験がうまく結びついて、いい作品に仕上がったのだと思う。この本が第二作めだというから、これからの活躍が期待される作家ですよね。

ポン:訳もいいですよね〜。こういう文体って、なかなか難しいと思うんだけど、くだけかげんがほどよい感じ。いちばん最後の一文「例の件、終わった」が、また洒落ててすばらしい! ニクイ!

アカシア:この作品がアル・カポネを知らない日本の子どもたちにどう受け入れられるのか、私はまだ気になっています。たとえば『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著 講談社)は省略された文章ですけど、ピントが一直線でずれることがないので、読者がついていける。でも、この本では、障碍を持ったお姉さんが寄宿学校に入れるのか? ムースとパイパーの関係はどうなるのか? お父さんは失職することはないのか? ムースは居場所を見つけられるのか? ナタリーは囚人に恋してしまってだいじょうぶなのか? と、たくさん要素がある。長い文学作品に親しんできていない子どもには、ちょっとばかり難しいかもしれませんね。本をよく読む子には、逆にそこがおもしろいでしょうけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)


ピトゥスの動物園

サバスティア スリバス『ピトゥスの動物園』
『ピトゥスの動物園』
サバスティア・スリバス/著 宇野和美/訳 スギヤマカナヨ/絵
あすなろ書房
2006.12

ミッケ:これは、『アル・カポネによろしく』より対象年齢が低いんですよね。動物園を作る?と大人なら目が点になるようなことを大まじめに考えて、トラを借りてくるなんて言い出して、どうなることかと思っていたら、子どものトラを借りられることになったりで、えっ?というようなことがそれなりに現実になって、でもそれほどはちゃめちゃでもなくというところが、楽しかったです。とくに遠足にいったときのあれこれは、よく書けていたと思います。フクロウがそう簡単に捕まるかな? とは思ったけれど、でも、マネリトゥスがジャーンという感じで出てきて、みんなとあれこれやって、夕方バスで帰るみんなを見送り、もうこれでこの子の出番は終わったのかと思っていたら、最後でまた動物園に見に来るというのがよかった。本の作りも、全体に対象年齢がはっきりしていていいと思いました。

げた:子どもたちが、仲間のためにいっしょになって動物園をつくろうとしている姿に感動した。なかなか最近こういう、子どもたちが生き生きと活躍する本がないので、うちの図書館のブックリストに載せました。絵もかわいいじゃないですか。いかにもいい子ばっかりっていう感じがするんだけど、こういう子が活躍してほしいという気持ちもあって、おすすめの本にしました。きっと子どもたちがこんな風に生き生きするためには、しっかり見守っている、大人の存在が必要なのだろうなと思いました。

うさこ:病気の友だちのために子どもたちみんなで力を合わせて…と明るくて生き生きしていていいお話なのだけれど、作者は生活童話を書きながら、自分のユートピアの中にいる子どもたちを書いてしまったのかな、というのが感想でした。最もあれっ、と思ったところは、動物をつかまえてくるところはとてもていねいに書かれているのだけれど、その後、食べ物や排泄など世話をする、管理することは書かれていない。生き物を扱うときはその世話が最もたいへん。ここらあたりをあいまいにしているのが読んでいて消化不良でした。また、お金を扱う入場券のこととか、前日のパレードが絵のようにすっとできてしまうとか、物語を支える細部に疑問を持ち、とても残念でした。夏休みで宿題もせず、毎日毎日外出して怒られないのかなとも考えてしまった。

ポン:1966年の作品ですからね。

宇野:少なくとも、塾とかないし。

うさこ:かわいくていい絵なんだけど多く入れすぎて、読み手の想像力を奪ってしまっているし、ここぞというときの挿絵のインパクトが薄れてしまうようにも思いました。

ケロ:こういうタイプの本って、日本にはないですよね。新鮮な感じがしました。ただ、大人たちは出てこないけど、それなりに大がかりなことが動いている。バスが何台も出て動物をつかまえに行くとか。あれ、近所でやっていたんじゃなかったの? って思っていたら、きっと大人達がちゃんとからんでいたのね、って思ったりして。そのへんのピントが合わせづらかったです。

宇野:バスが8台というのはオーバーですよね。ただ多いってことを示したかっただけでしょう。

ケロ:現実ではなかなかないようなお話なんだけれど、中に書かれているエピソードが、子どもたちがみんなで何かやろうとしたときに、実際にありそうなことなので、とてもおっもしろく読みました。いいな、と思ったエピソードは、小さい子が、最初みんな掃除班に入れられてしまって泣いてしまうのを、もう一度割り振り直すところ。時代はちがっても共感できると思いました。ただ、友だちのために動物園をやろう、という話のわりに、ピトゥスは小道具的にしか使われていないですね。そこはちょっと残念。

アカシア:文学って、光と影の両方を伝えるものだと思うけど、これは、影の部分はなくて、光の部分だけを楽しく書いているんですね。小さい子向けだから、それでもいいと思うんですけど。だから、動物たちをつかまえるところは工夫が具体的に書かれてるんですけど、その後のめんどうな部分、影の部分は書かれていない。つかまえた動物の世話をするのも、お父さんお母さん。いいのかな、とちょっと思いました。チョウチョウを開園1週間前につかまえて小さな箱に入れておいてだいじょうぶなのかな、とか、死んじゃったらどうするのかな、とか、野鳥もつかまえてるけど禁止されてないのかな、とか、いろいろと考えてしまいました。それから、中高生のお兄さんは大工で、お姉さんは裁縫だなんて、ジェンダー的には古いですね。最初の子どものチームにも、女の子はひとりだけだし。おもしろかったけど、気になるところもありました。訳は、ていねいで、わかりやすくて、いいですね。

:1年半ぶりにこの会に参加したので、カルチャーショックがあったのかもしれないけれど、これは「上質なエンターテイメント」。可もなく不可もなく、これだけで本になっちゃうわけ? ピトゥスはどうなっちゃっているわけ? この経験はこの子どもたちにどう生きているわけ? 子どもは読むでしょうし、売れるでしょうが、それだけでいいの? ただ、力というのはあって、元気をもらえる。へたに深いところにふれていない。別れがないし、後腐れもない。日常生活とはちがうけれど、日常生活のエッセンスを入れた上手なバランス。『くまのプーさん』を思い出しました。現実世界に触れず、あの世界だけを上手にとどめて成功している。40年前の作品と聞いて納得しました。

ねず:子どもの目で、夢中になって読みました。とってもおもしろかった! 最初はグループ作りのおもしろさ、次は動物狩りのおもしろさ。作者もおもしろがって書いているので、ついついピトゥスのことを忘れちゃうのよね。それで、ときどき思い出したように、すまなそうにピトゥスのことが出てくる。たしかに童心主義というか、大人が見る子ども像という感じもしなくはないけど、このくらいの年齢の読者には、それでいいと思う。洞窟の場面など、どきどきさせるエピソードも盛りこんであるし、サービスいっぱい。子どもたちが読んだら、きっとわくわくするんじゃないかしら。訳も、それぞれのキャラクターにふさわしい口調で台詞を言わせているし、とても工夫されていて、いい訳だと思いました。

:そういう意味で、「上質のエンターテイメント」なんですよね。

アカシア:こういう楽しさって、日本の作家だとどうしてもリアリティが問題になるから、結局翻訳物で子どもに手渡すってことになるのかもしれませんね。

ミッケ:著者は小学校の先生だったそうですが、子どもたちのグループ分けの話だとか、細かいところに、なるほど先生としての経験が生きているなあ、と感じさせるところがありますね。

紙魚:この物語って、たくさん登場人物が出てきますよね。でも、あまりごちゃごちゃしないのは、それなりに性格がわかりやすく書き分けられているのと、スギヤマさんの絵にも助けられるからだと思います。もしもこれが一人称で書かれていたりしたら、子どもの目って近視眼的だから、ここまでいろいろな子がいることを書けなかったと思います。お話もとっても気に入りましたが、スギヤマさんの仕事ぶりになにしろ脱帽しました。先ほど、挿絵が多すぎるのではという意見もありましたが、私はこの絵の質と量がとてもいいと思いました。読み物といっても、文章と絵の関わりがかなり密接なんですね。本づくりの過程に興味がわきました。確かに、大人が子どもを見ているというのはあると思います。でも、年齢の低い人たちの場合には、そのことが安心感につながる場合もあると思います。

ポン:タネットはなんて立派なんだろうとか、私は子どもの心で読みました。ちょっとしたところに胸きゅん。握手しなおすところとか、いいですよね。光と影というようなことは、全然考えもしなかった。筆箱を供出した子が17人もいたっていうのは、びっくりしたけど。ちょっと軽率なやつがいたりするのも楽しい。宇野さんの訳はやさしくて、この作品の雰囲気をよく伝えてると思う。私が好きなのは、やっぱりこういう世界なのかも。

宇野:みなさんのおっしゃるとおりだと思います。10年以上前に本屋さんで、この本だけ20何刷かになっていたのを見て手にとったんです。原作がカタルーニャ語なんですが、スペイン語版の翻訳は悪いと人に言われ、カタルーニャ語で訳したいと思いました。スペインは内戦後、スペイン語以外の言語の本は出すことができない時代があって、この本はカタルーニャ語が解禁になってすぐに刊行された、記念すべきカタルーニャ児童読物なんです。実は、いろいろな日本の出版社に要約を見せて何度もボツになり、しまいに全訳して持ち込んでようやく採用された作品です。原書を読んだときは、原書の絵もいいなと思ったのですが、スギヤマさんの絵を見たらだんぜんこちらがよくて感激しました。大人が子どもを見て書いているという感じは、確かに全編にありますね。でも、原書にたくさんあった「子どもたちは〜」という主語は、できるだけ子どもの視点で読めるように気をつけて訳しました。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)


教室の祭り

草野たき『教室の祭り』
『教室の祭り』
草野たき/著
岩崎書店
2006.10

うさこ:タイトルがすごく気になって、今の子どもたちの日常を切り取った作品だなあと思って読み進めたのですが、この本で印象に残ったのは「強い人になりたい」ということば。スミコが友だち関係にすごく悩んでいることを本の3分の2くらいまで書いてありますが、でもそんなに大きな変化がない。それが18章で大きく展開し、ラストまでが急激な感じがしました。156ページ「心の強い人になるんだ」が、イコール「いじめに耐える人」という風に伝わってくる。いじめに耐えつつナオコと携帯でつながっているのだけれど、人間関係の描き方が希薄。携帯で通じ合ってる、メールでつながっているというだけで、それ以上に踏み込むのはいやがられるのが今の子の関係性なのでしょうか。人間関係の深みを感じられなくて、さびしい作品だなと思いました。疑問点として、スミコはナオコが気になっているのに電話すらしないのに、最後、携帯でメール、おやっと思いました。作品を通して、ナオコの人柄もよくつかめませんでした。

ケロ:タイトルはインパクトがありました。「祭り」ってこわいですね。女の子同士の確執からどう抜け出すか。このことに関しては、結論とか解決が出しづらい問題だとは思うのですが、なにか最後まで読んでも納得がいかないままになるお話だと感じました。ナオコという、弱いと思っていた子が強さを見せ、自分のほうが見捨てられていたんだと、ガーンとなるスミコ。作者は、そのインパクトが書きたかったのかな? 高学年のおそらく女の子が、この作品から何を受け取るのかな。知りたいなと思います。パーフェクトなお母さん像を描く必要はないと思うのだけれど、このお母さん像が今ひとつしっくりこなかった。大人になっていくと、あきらめることを選ぶことが必要と言うけれど、前半のお母さん像とズレを感じる。お母さんが「選ぶ」と言っていることと、友だちを「選ぶ」というのは、同レベルで考えられることなのかしら…。こういうお話は、ハッピーエンドでなくてもいいから、もっと元気の出るふうに結末を持ってきてくれるといいんだけど。

アカシア:いじめを書いている作家はたくさんいますが、作者がどういう位置に立って書くかが大事だと思うんです。この作家の立ち位置は、私には共感できませんでした。作者の考えはスミコのお母さんの言葉にあらわれていて、それは「AじゃなくBを選んでもいいんだ」ってことだと思うんですが、どっちかを選ばなくちゃ行けないっていうこと自体、私は嫌だったんです。それでは人間関係が狭くなるだけで豊かにはならないでしょう? いろんな人たちといろんな友だちの作り方がある、と私は思うから。それ以外にも、気になるところが多くて、楽しめませんでしたね。28ページ「バーカ、こないだの体育の…」今の子は、こんな長い会話はしませんよね。84ページでは、お母さんが自分は充分努力したって言うんですけど、努力している姿が書いてないんで、しらけちゃいました。カコとてっちゃんの描き方も薄っぺらだし。

ねず:日本の創作物については、いつも辛口になるので、まず最初にいいなと思ったところを言おうと思います。ナオコの家にクラスのみんなが押しかけるところ、無邪気さを装った底知れない悪意があって、なんともいえない迫力がありました。こういうところが、この作者は得意なのかしら? でも、読み終わって「いやなものを読んじゃった」という感じがしました。57ページ最後の「友だちっていうのは、選んでいいのよ」というお母さんの台詞を読んだときは、心がすうっと冷たくなるような気がしました。西川てつこともうひとりの友だちの平べったい書き方にも疑問を持ったし、共感をおぼえるような登場人物がひとりも出てこない。いじめ問題を取りあげるにしても、もっと人間の本質に迫るような、読者が大人になっても折りにふれて思い出すような、そういう作品を書いてほしいと思いました。こういうことしか書くことがないのかな。もっと子どもに語りたいことがあるでしょうに。それから、地の文と語り口調がまじっていて、「わーっと声に出して喜んだ」ではなく「わーって声に出して……」となっているような所がときどきあって、あんまり端正な文章ではないという気がしました。

ミッケ:みなさんのお話を聞きながら、あれこれ考えていたんですが、この本は、いじめをしたり、されたりしている子どものレベルを超えるものを提示してない気がします。主人公は、ふたりの女の子にいわば引っ張られるような形で、なんとなくもやもやを抱えながら親友と遠ざかるんだけれど、これじゃだめだっていうんで、ふたりの女の子に向かって、自分の思っていたことを言う。それ自体は悪くないんだけど、主人公と一緒に3人で楽しく過ごしていたと思いこんでいた2人にしたら、それってどういうこと?ってなっちゃう。そこへの目配りがないんですね。なにしろふたりにすれば、藪から棒に足下をすくわれたみたいな格好なわけで、そりゃあむっとしたり腹を立てたりもするでしょう。ここで、主人公の側が、自分が反省しているというあたりをきちんと相手に伝えきれないこともあって、そこからいじめが始まるわけですよね。こうなると、いじめられる側は、消極的な抗戦をして、徐々に仲間が増えていくのを待つしかない。まあ、こういう形で終わること自体は、子どもたちの現状からいってこうしか書けないだろうし、リアリティのある展開なんだろうと思うけれど、でもねえ、という気がする。たとえば、お母さんの「選んでいいのよ」っていう言い方や、この子が仲間に対して、わたしはあんたたちじゃなくあの子を選ぶ、みたいにスパッと相手を切り棄てるようなことをいうことからもわかるように、この本では、いじめたりいじめられたりする平面の中で物語が完結していて、そこからひとつ上にあがっていじめを乗り越えるという道が提示されていない。大人も含めて、子どもの狭い視野から抜け出せていなくて、子どもたちも最後までそういう狭い視野のままなんですね。あっちにつくか、こっちにつくかという同じレベルでの2分法で終わっている。いじめる側といじめられる側、というふうに決めつけておしまいという感じなんですね。だからこういうふうにしかなりようがない。それがこの本の限界だと思います。

アカシア:ナオコも結局スローガンで動いているみたいで、生きている立体的な人間という気がしないんですね。もっと登場人物を魅力的に書いてほしかったな。

ミッケ:冒頭から、主人公の澄子さんがだらだらしていて、魅力的じゃないんですよね。

:だから、みんな共感できない。魅力的じゃないのよ。

ねず:お母さんのことは、この子はどう思ってるの?

:お母さんはこう言うけれどって、反発するところがないのよ。親子のとらえ方が浅薄な原因かな。ただ著者は、いじめられてもしたたかな子どもを、書こうとしたんじゃないかな。

ねず:したたかさを書いても、おもしろい作品ならいいけれど……

紙魚:そういうところは、今の時代の傾向かなとも感じます。以前、お母さんたちが集まった席で、「自分の子どもが、いじめっ子になるのと、いじめられっ子になるのではどちらがいいか」という議論になったとき、一人のお母さんは「どうしても選ばなければならないのなら、いじめられっ子」と、もう一人のお母さんは「どちらもいや」とこたえました。あとのお母さんたちは全員が「いじめられるくらいなら、いじめっ子になった方がいい」と答えたんです。そういうことが大きな声で言えてしまうという今の風潮は確かにあると思うので、こういう作品はそうした時代のトレースなのかなとも感じたりします。

ポン:なんであんまりおもしろくなかったのか、今みんなの話を聞いて、わかった気がする……。ちっちゃい、ちっちゃいところで行われていることを書いているから、今同じような状況にある子が読んだら、すごく共感できるのかもしれないけど、その場にいない私にとっては、遠い世界。私の想像力は、うまく働きませんでした。

宇野:「友だちを選んでいい」というのは、よく言われる「みんな仲良く」に対する言葉かもしれませんね。

げた:私は、みなさんとはぜんぜん違うふうに読みました。ナオコが出てきた教室が祭りだっていうんだけど、そこにいる子どもたちは、ナオコの心の中は考えず、自分の気持ちや都合とその場のノリで行動している。そういうことに対して、スミコはほかの子どもたちから排斥されながらも、ナオコの気持ちをなんとか考え、なんとかしようとしている。その中で自分自身も変えていこう、強い人になりたいというスミコの変化を書いているのかな、と思ったんですよね。私は、スミコに共感できるものがありましたね。他人のことを思いやれる子ほど、かえって受難者になるという詩を読んだことがありますが、まさにスミコのことですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)


少年

ビートたけし『少年』
『少年』
ビートたけし/著
新潮文庫
1987

エーデルワイス:生徒たちはけっこう喜んで読むんですよね。ビートたけしの家族構成はよく知られていて、それをよく反映しているのが最初の短篇ですが、まあ、深みがあるわけではなく、漫画的な感じですね。でも徒競走のヒーローであるカラバカが熱を出して、それでもどてらを着て走って、倒れて、というドタバタに、後に偉くなって社長になりましたという落ちがついて、楽しめる話だと思います。次の短篇は、最後に兄弟が死ぬのかどうなのかということが、読んだ生徒たちの間で議論になります。兄弟は亡くなった父への想いをまだ断ち切れず学校でもいじめられ、一方母親は再婚へ、というあたりが切ない作品だと思います。3つ目は大人の世界をかいま見るというように、3つの作品の持ち味がそれぞれに違う。気軽に読める本の世界への入門編という感じですね。よく本を読んでいる生徒からは、「底が浅い」という感想も出ることがありますが、一般的には取っつきやすい作品だと思います。

アカシア:ビートたけしの本だから読んでみたらおもしろかった、というのは、たしかに本の世界への入り口としていいと思います。この小説には、ビートたけしにつきものの飛躍というかギャップがないから、編集の手も相当入っていると考えていいのでしょうか? 読みやすいですよね。カラバカみたいな子は今の時代にはいないでしょうけど、昔は得体の知れないおもしろい人がまわりにいっぱいいましたね。そういう得体の知れない人がまわりにいると、子どもはいろいろと考えたりすると思いますけど。エーデルワイスさんの学校の生徒は、この本のどういうところをおもしろいって言うんですか。

エーデルワイス:生徒たちの発言をどう引き出すかですが、まず、読んでこさせて、記憶に残っている場面や、気に入った登場人物を言わせると、一人一人違っていろいろ出てくるわけです。成績では振るわない子が、カラバカに対する熱い思い入れを語って「将来大物になるぞ」と宣言したり、兄の立場の子が作品中のお兄ちゃんに自分を重ねたり、弟はまた弟に自分を重ね合わせたり、あるいは、弟の立場でこんなお兄ちゃんがいればいいのに、とか。様々な人物が出てくるから、それぞれが作中人物に自分を重ねられる。子どもにとっては、感想が言いやすい本で、バラエティーに富んでいるので、おもしろかったという印象が生まれるんだと思います。選択教科の時間というのがあって、生徒が選んだ本を読み合うというのをやっていますが、そこで中3の子が選んできたのがこの本です。

アカシア:それぞれの短篇のイメージがくっきりしていますよね。人物の描き方は深いとはいえなくても、ステレオタイプでもないから、中学生くらいで読むにはいいと思います。わかりやすいし。

げた:アカシアさんと同じ感想です。ストーリーも人物設定もわかりやすい反面、ぼくはステレオタイプかなとも思わなくもないですけどね。カラバカが土建屋になって駅前にビルを建てました、というのはいかにもという感じかな。でもイメージはたしかにくっきりしていて、本になじみのない子にとっては、イメージがわきやすい。本に親しむための、とっかかりの本としていいと思います。

ミッケ:みなさんがおっしゃったとおりだと思います。いわば、昔の中学生が星新一から本格的な読書に入っていったような、そんな感じの位置づけ。特に新しいことがあるわけではないけれど、長さも短いしくっきりしているし、たけしの作品ということで近づきやすい。ただ、星新一の前回の作品に比べると、家族を扱っているという点で普遍性があるから、古びないかもしれない。でも、最初の短篇はかなり時代色が濃いですよね。今の子にとっては大丈夫なのかな?

アカシア:「菊次郎とサキ」みたいなのをお茶の間で見ているわけですから、子どももけっこうわかってるんじゃないかな。

ミッケ:エーデルワイスさんの学校の生徒たちは、たとえば第一作のようないわば昭和という時代の色が濃くて、大人が読むとノスタルジーを感じるようなものを読んだときに、こういう時代性にはどう反応するんですか?

エーデルワイス:それは、生徒によっていろいろですね。

げた:この話の中に登場する小道具は確かに古いけれど、運動会への思い入れという点では、今の子にも通じるところがあるから、わかるんじゃないかな。どてらを着たカラバカはさすがにいないだろうけど、それに近いくらいの子はいそうだし。私が見た運動会では、子どもたちは結構シビアに競走してますよ。

アカシア:今は学校の運動会でも、タイムをあらかじめ計っておいて同じようなレベルの子を競走させたりするので、カラバカタイプが注目されるチャンスが少なくなってるのでは? カラバカ、いいですよねえ。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年3月の記録)


カモ少年と謎のペンフレンド

ダニエル・ペナック『カモ少年と謎のペンフレンド』
『カモ少年と謎のペンフレンド』
ダニエル・ペナック/著 中井珠子/訳
白水社
2002.05

げた:カモと聞いて最初鳥の鴨かと思ったんですが、ああ名前なんだと気づきました。今日の3冊の中では2番目にイメージがわきやすいものだと思います。途中まで自分もカモと同じように、ひょっとしたら18世紀から来た手紙かなと思って、『これってファンタジー?』と思ったけど、実はとても現実的な話で、10カ国語を使える母と、英語修得をしなくてはいけない息子の話なんですね。ペナックのカモシリーズは日本ではこれしか出ていないようだけど、フランスでは人気作家だそうですね。このお母さん、妙に英語修得に熱心なんだけど、他の科目が悪くなっても英語の力をつけたいというのには理由があるのかな?

アカシア:フランス人はフランス語に対するプライドが高いから、外国語習得にしゃかりきになる人は少ない気がするけど。

エーデルワイス:このお母さんは、ユダヤ人ですよね、きっと。ロシアからドイツに来て、語学は得意みたいなことが書いてありました。語学が生存そのものに直結するんでしょう、歴史的に。だから息子にきちんと外国語を学ばせたくて、いろいろと考えたんでしょう。

げた:世界で一番話されている英語の力をつけたいという思いがあったのかしらね。

アカシア:おもしろいアイデアの本だと思います。過去から手紙が来るという設定で、『嵐が丘』の登場人物から手紙が来るんですもんね。ただ、イギリス人ならこのアイディアだけで1冊の本をつくったりはしないと思うんです。大体3か月で言語習得は無理でしょ。そういう意味でリアリティはなくて「これは作り話ですよ」というくくりの中で楽しめる本ですよね。この手のお話は、読んでてうまく仕掛けに乗れると読者の側にも快感があるんだけど、これ、それほどうまくは乗せてくれないんで、ちょっと残念。あと、フランス語のvous とtuを、「あなた」と「あんた」って訳してるんですけど、かなりニュアンス違いますよね。訳しづらいところだけど、もう少し工夫があるといいなと思いました。

ミッケ:このカモ君のシリーズは、英訳もされていて、児童書の本屋に置いてあったところをみると、それなりの人気があるんだろうと思います。でも、なんというかアイデアの本だなという感じがする。たとえば、たまたま私が持ってる同じシリーズの英訳本“Kamo`s escape”なんかは、カモ少年に一時的におじいちゃんが乗り移っちゃうという話で、おじいちゃんを通して第二次世界大戦のことを語っていたりするんですが、それだけがぽこんと浮いている感じで、結局書き切れていないというか、拍子抜けな本なんです。今日のこの本もやっぱり同じような印象で、過去の人との文通というアイデアはなかなかいい。でも、物語がふくらむ前に、さっさと友達が相手の正体を突き止めてきて、しかもそれがカモのお母さんだったという種明かしに進むというのは、なんとも肩すかしを食らった感じでした。そんなふうに簡単にだまされるかしらと思ってしまって、今ひとつリアリティがない。もう少しふくらませて、なるほどと思わせてほしいな。なんか淡々としているんですよね。英語版の経歴によると、作者はモロッコのカサブランカ生まれで、木こりをしたりタクシーの運転手をしたり、教師もしていて、その後作家になったそうです。あと、この人の読書に対する思い入れの強さは、この本からもわかりますね。

アカシア:手紙が来た時にカモ少年が取り付かれるというところで、私の場合はカモと自分の間にすでにギャップを感じて、入り込めなくなりました。

エーデルワイス:やはりアイデアがおもしろい作品だと思う。私は楽しく読めました。背後にいろいろな教養がちりばめられてあって、なかなかいい。『嵐が丘』を読みたくなりましたが、間に合わなかった。

アカシア:フランスの子どもの本には、なかなかいいのがないですね。

ミッケ:これも、大人の作品という感じがしますね。

エーデルワイス:話は変わるけど、フランスには高校生が選ぶ「高校生ゴンクール賞」というのがあります。高校生がきちんと議論してかなり高度な本を選ぶ。高校生を子ども扱いせず、立派な大人として扱っている。もう19回だとか。去年の受賞作は『マグヌス』という本ですが、読み応えがあります。

ミッケ:子どものなかで、議論したり知的な話をするという能力がちゃんと育っていくと、思春期になったときに、大人に議論をふっかけてみたり、知的な話で背伸びしたりというふうに、自分の力をあれこれ試してみたいという気持ちが出てくるはずで、大人の側がそれにきちんと対応してはじめて、物をしっかり考える力がつくのだと思います。でも、日本では、大人の側が受け止め切れていなくて、議論を避けたり圧殺したりする場合がかなり多いような気がします。おそらく社会の根底にある価値観にも関わるんだと思いますが。

アカシア:日本には、まだまだ議論で考えを深めていくという文化が育ってないんでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年3月の記録)


まぼろしの小さい犬

フィリパ・ピアス『まぼろしの小さい犬』
『まぼろしの小さい犬』
フィリパ・ピアス/著 猪熊葉子/訳
岩波書店
1989.07

アカシア:子どもの気持ちをよくとらえているし、どの人物もみなあたたかいし、ほんとうにピアスはすばらしいなあと思います。みんなを仕切るグレートマザーのおばあさんは、いわば敵役で、犬も嫌いだし、もっとひどい奴に書いてあっても不思議じゃないのに、ベンに「おまえ、犬をもらう約束だったね。約束はまもらなくちゃーーちゃんとね。わたしたちは、そうしなきゃいけなかったのだよ……」と言ったり、ベンが小犬たちをあやしているところを悪い足を引きずって見にきたりします。p4には、「おばあさんはひどくゆっくりと、うしろむきになって階段をおりてくるところだった。ひざがかたくなっていたので、いつもそうしてぎゃくむきにおりるのだ」という描写があります。本筋とは関係ないんですけど、2階からバスの到着を見ていたことがわかり、おばあさんなりにベンを待っていたんだろうと読者に想像させます。おじいさんの方も、「おじいさんはこういう人でした」と書くのではなく、しぐさや言葉の端々から読者に人物像を思い描かせる。読書好きの人にはたまらないおもしろさですよね。
こういう作品は、読むたびに新たな発見があるかもしれない。フラットに説明するんじゃなくて、読者の想像力に働きかけますから。この少年は果たして犬を飼えるのだろうか、という引っ張りもあるけれど、それより何より上質の味わいを楽しむ作品だと思います。筋しか追えない読者だと、最後に犬が手に入ったときに、それなのに犬を拒む気持ちや、でも呼び戻そうとする気持ちがわからないでしょうね。ほんとうは、こういう本こそ中学生なんかには読んでもらいたいんだけど、一方にハリポタのような展開が早くて筋で読ませる物があると、やっぱり負けちゃうんでしょうか? ピアスの作品は、どれもいいですよね。

げた:同じような気持ちです。舞台はちょっと昔で、5人兄弟の中で宙ぶらりんな立場の子という設定だけど、今時の子だと、まだ兄弟が小さいのにお姉さんがもう結婚するというのはぴんと来ないかも知れませんね。今日の3冊の中では、文章表現にいちばん厚みがあって、丹念に読んでいくと、情景がはっきりしてくる。それぞれの人となりがよくわかるような文章で、ちゃんと読めば読むほど味わいが出てくると思います。筋だけを追う読み方をすると、よくある話じゃん、で終わりになってしまう。要するに、犬がほしくて仕方ない子が、夢中になったあまり事故にあったりして、でも結局犬をもらうことができて……、みたいな感じでね。小学生に読ませようとすると、難しいかもしれませんね。大人が読んでも味わえる文章ですからね。前半でいうと、落っことした犬の絵が踏まれ、ゴミのように捨てられる場面の表現がすごく印象に残っています。ただ割れました、ですまさない。児童文学ってすごいなあと思いました。あとは、お父さんが引っ越し話でむくれるところなんかも、大人が読んでも面白い話ですね。

アカシア:でも、本に慣れていない子どもの場合、自分の力で読み取らなくてはならない部分がたくさんあるからきついかもしれないですねえ。

げた:読み聞かせしたほうがいいかもしれませんね。

エーデルワイス:ブックトークをするとしたら、どんな風にするんですか。

げた:たとえば、「今一番ほしい物」みたいなテーマを決めて、読み物や知識の本、絵本なんか5〜6冊用意しておいて、そのうちの最後の1冊として出すんでしょうね。

ミッケ:みなさんがおっしゃったことにつきると思います。ピアスの本は大好きで、なかでもこの本はとても好きで、自分でも買って持っています。今回課題になって、さっさと本棚から出してきたのだけれど、一昨日まで、なんだかんだと理由をつけて読まなかったんです。というのは、もう物語に引き込まれちゃって、たぶん涙が出てくるってわかってるものだから、おっかなくて。で、覚悟を決めて読み始めて、当然すっかり引き込まれたわけですが、それにしても、最後の部分を電車の中で読むことになったのは、大失敗でした。電車の中で涙が出そうになって、ひどく困りました。とにかく、岩波の本の223ページからあと、たった10ページちょっとしかないんだけれど、さっきアカシアさんがおっしゃった、念願かなって犬は手に入ったものの、それが自分の期待していたのと違っちゃったものだから、せっかく自分の物になった犬を受け入れられずにいて、でも結局はその犬を受け入れる、という部分が実にすばらしい。これがあるのとないのでは、もう雲泥の差だと思います。犬のほうも、人間に歓迎されていないことを悟って離れていこうとするあたりが何とも切なくて、でも結局はハッピーエンドになって読者はほっとする。とにかく大好きな作品です。

アカシア:最後の部分は、子どもに実体験があれば、それに裏付けられて読みが深まるという形になるんでしょうけど、今の子に、こういう本の読みを裏付ける経験はあるかなあ?

げた:今の子は何でも手にはいるから。

ミッケ:今の時代は、携帯とかゲームとかがたくさんあって、とにかく、ぼーっとしていて、何をするでもなく自分とはあまり関係ない物を見たり感じたりするという時間や経験をなくそう、なくそうとする圧力がとても強いように思います。自分と関係がなさそうな物に対しては、関心を持たなくなってきている。物事を丁寧に感じ、丁寧に見ようという余裕がなくなってきていて、そういう意味で、相手の気持ちを想像したり、あるいは外見や行動から相手の中身を探っていくという実体験は減っているのかもしれない。文章の読み取りの訓練としては、難しい文章の読み取りもある程度訓練できるのかもしれないけれど、実体験での裏付けとなると難しいかも。ということは、読みの豊かさが失われることにもなりそうですね。

エーデルワイス:ピアスの『トムは真夜中の庭で』(高杉一郎訳 岩波書店)は中学生に読ませましたが、この本はやっていません。トムの場合も丁寧に読んでいかないと、なかなかその世界に入れないところがあります。今の作品は会話でポンポン、テンポよく読ませる本ばかりなので、これは難しいかもしれませんね。じっくり読めるようになるには訓練が必要ですから。

アカシア:ピアスでも短編集の『幽霊を見た10の話』(高杉一郎訳 岩波書店)なんかはちょっと怖い話だから、入りやすいかもしれませんね。

ミッケ:これって、売れてるんでしょうかね?

アカシア:本の好きな子って、いつの時代にも一定数はいますから……

エーデルワイス:『トムは真夜中の庭で』を学校で取り上げたときに、フィリパ・ピアスを読んだことある人、と聞いたら、ほとんどいませんでした。男の子だけですが。ちょっと残念です。広く読んでほしい作家ですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年3月の記録)


ウサギが丘のきびしい冬

ロバート・ローソン『ウサギが丘のきびしい冬』
『ウサギが丘のきびしい冬』
ロバート・ローソン/著 三原泉/訳
あすなろ書房
2006.2

愁童:おもしろいんだけど、擬人化が過ぎるんで、子どもの読者は読んでいるうちに人間の話だかウサギの話なのか、こんがらかって来ちゃうんじゃないかな。だいぶ昔に評価が高かった『ウォーターシップダウンのウサギたち』(リチャード・アダムズ著 神宮輝夫訳 評論社)と比べると作者の姿勢が対照的ですね。『ウォーターシップダウン〜』の方は、自然の中で生きる野生のウサギの生態に感情移入して読めるように書かれているけど、こっちはウサギがベッドでふとんかぶって寝てるわけだから、そんなに寒けりゃ、ストーブかエアコンで暖房すれば? なんて思う子もいるんじゃないかな。

みんな口々に:これって、原著が出たのが昔なんですよねえ……1954年ですもん。

ミッケ:この作者は、『はなのすきなうし』の画家で、『はなのすきなうし』が大好きだった人間としては、かなりわくわくして読みはじめたのですが、なんというか、さすがに時代がかっているなあ、という感じでした。いかにも、『ウォーターシップダウン〜』なんかが出てくる前の作品、という感じ。でも一方で、こののんびりした感じはいいなあ、と思わないでもない。こういうのんびりした感じは、今の作品には決してないから。お話としては特にぐっとくるところがあるわけではなかったけれど、訳はとても滑らかで、よく工夫してあると思いました。それから、後ろの方で主人公のおじさんにあたるウサギが、お父さんウサギがしょっちゅう吹聴している遙か遠くのグリーングラスという地方にあこがれて、そこに行ったつもりになって戻ってくるんだけれど、じつはちょっと下の庭師の家までいっただけだった、という作りは、とてもおもしろかった。愁童さんがおっしゃったように、ひじょうに擬人化されていて、たとえば、野ネズミが冬が厳しくなって大挙して移住していくところなんかは、シネスコの黄色みがかった西部劇の映画を観ているような感じでした。あと、ちょっと説教くさいところもありますね。

ねず:たしかに古めかしい本ではあるけれど、わたしはそれなりに楽しく読みました。良くも悪くも、この物語の特徴は擬人化された動物の世界と、リアルな人間の世界の両方を並行して書いていることですよね。前に取り上げた『天才コオロギ ニューヨークへ』(ジョージ・セルデン著 吉田新一訳 あすなろ書房)もそうでしたが、人間の世界と動物の世界を切り替えるときのテクニックがうまいと思いました。そのふたつの世界の間に位置しているのが、ペットである犬と猫で、これは全然しゃべってもいない。どっちつかずの、アホみたいな、かわいそうな位置にいるというのもおもしろいと思いました。だいたい、どうして子どもって動物を擬人化した物語をすんなりと受け入れるんでしょうね? 研究している方もいるかもしれないけれど、いつも不思議に思います。この物語のクリスマスの場面、アメリカにいるウサギはみんなクリスチャンなの?などと突っ込みたくもなりますが、光と食べ物がふんだんにあふれたこういう場面を読むと、小さい子どもたちはとっても幸せな気分になれるのでは?

アカシア:私はこの作品はもの足りませんでした。動物を擬人化すること自体はいいんですが、この作品は擬人化の度合いが一つの作品の中で統一されてないんですね。たとえばp.47では、ウサギのアナルダスおじさんが、ネコを助けられないかと母さんウサギに持ちかけられて、「自然のおきてに反しておる。そうだろう? いつからネズミとウサギが、ネコをたすけるようになったのだ? (中略)そうだ、わしは自然のおきてに反するようなまねは、したくない」と言うんですが、その一方ではウサギとキツネが仲良く話したり、キツネがたくわえている七面鳥の肉をノネズミが取りにいったりする。p.16-17の文章と絵にしても、父さんウサギはステッキをついて丘をのぼってくるのですが、ジョージーぼうやは擬人化されずにぴょんぴょんはねています。どうもご都合主義な感じがして、いただけません。また、この作品には物語の核がないんですね。ドラマティックな山がない。大人が昔風ののんびりした物語をなつかしむにはいいかもしれないけど、子どもにとってはわくわく感が足りないと思います。
良かったのは装丁(桂川潤さん)と、翻訳です。読みたいという気持ちにさせる美しい装丁だし、翻訳は、たくさん登場するキャラクターの特徴をうまくつかんで会話などの口調も訳し分けていますね。おかげで原文よりおもしろく読めるのではないでしょうか。
ああ、それから、野生の動物たちが人間に依存して暮らしているという設定も、私は嫌でした。

愁童:そうなんだよね、そのとおり!

ミッケ:いってみれば、人間に餌付けされてるんですよね。

愁童:動物のリアリティが感じられないよね。今は学校でウサギの飼育係なんてのをやってる子もいるから、そんな子は、ウサギは水が苦手なのを良く知っているし、p.54あたりの話や挿絵なんか見ると、「ありえなーい!!」ってなことになるんじゃないかな。

ウグイス:わたしは、動物の擬人化物語はとても好きなんです。この作品は、1950年代に書かれていることと、アメリカのコネティカットの田舎を舞台にしている、というのがポイントですよね。農場で暮らす子どもにとっては、いつも目にするなじみの小動物が、自分たちの知らないところで実はこういう暮らしをしているのか、と想像する楽しさがあると思うんです。そして、ユーモアも50年代らしく、大変おだやかで、ゆるやか。この時代ならではの良さが感じられるけど、今の子には退屈かもしれない。一見読みやすいけれど、物足りないでしょうね。装丁がすてきで、面白そうだなと思って期待したんだけれど、その割には、引き込まれるというところまではいかなかったわね。物語の核がないという意見に私も同感です。作家が身近な動物に愛情を注いで、楽しみながら作ったという感じ。

ねず:読み聞かせに使ったらどうかしら。

一同:う〜ん、どうかなあ。

愁童:日本にだって、野生のウサギを身近に見ながら生活している地方の子がいるわけで、そういう子にとっては、ウサギが籠に食べ物を入れて持ち歩く描写なんか読まされるとシラケるんじゃないかな?

ウグイス:動物が人間のように描かれているのはいいと思うの。そこがおもしろいんだから。

アカシア:作者は動物の生態を伝えるためにこれを書いたわけじゃないし、擬人化そのものが問題なんじゃないのよ。子どもは、擬人化されている動物物語は、そういうものとしてちゃんと理解するからね。ただ、一つの物語の中での世界の構築の仕方に揺らぎがあるから、まごついちゃう。

ウグイス:動物が、子どもには見えないところで実は人間くさいっていう、そこの齟齬がおもしろいんだと思う。

ねず:人間と動物の見ている物が違っている、そのずれのおもしろさがユーモアになっているのよね。でも、『天才コオロギ ニューヨークへ』では、人間も動物もそれぞれが、それなりに外側の厳しい世界にさらされていたけれど、この物語の動物は囲われているからね。

アカシア:50年前と違って今は自然が失われてしまったから、これよりは『ウォーターシップダウン』を勧めたいっていう愁童さんの気持ちは、私もよくわかります。今の子どもにまずこれを手渡したいという気持ちにはなれない。

愁童:お話はとても可愛らしいとは思うけど、この本からは、自然に対する畏敬とか、自分とは異なる生き方をするものに対する冷静な観察眼や思いやりは育ちにくいんと思うんだよね。

ねず、ウグイス:人間が動物のパトロン的なのよね。

うさこ:動物ファンタジーの難しさを感じました。内容としてはおもしろい。でも、人間はふつうで、動物の方だけファンタジーというのが中途半端な感じで。ぎくしゃくしてる。ファンタジーとしての枠が確立されていないから、混乱するんですよね。人間世界と動物世界に距離があるのはわかるけれど、物語世界として練れていない。ウサギの世界の中でも矛盾があって、ファンタジーと生態がごちゃごちゃ。たとえば、p.171の絵なんて、ジョージやノネズミはリアルな姿なのに、おじさんとお父さんは足を組んで肘掛け椅子にすわったり、パイプをくゆらしたりしてファンタジーの世界に入ってる。p.40-41もそう。一枚の絵の中にリアルな要素とファンタジーの要素が同居すると、え?という感じになります。絵もお話もかわいいけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)


シルバーウイング〜銀翼のコウモリ1

ケネス・オッペル『シルバーウィング』
『シルバーウイング〜銀翼のコウモリ1』
ケネス・オッペル/著 嶋田水子/訳
小学館
2004.11

ミッケ:コウモリが主人公だなんて、おもしろいなあと思って読み始めたんですが……。たまたまちょっと前にコウモリのエコーロケーションシステムについての科学の本を読んだりしていたので、その影響でちょっと乗れなかった部分があります。というのは、エコーロケーションシステムというのは、音波を送ってその跳ね返りで物体までの距離を判断するから、実は裏側がどうなっているかはわからない、前面しかわからないはずなんですよね。だから、人間が見ている世界とはかなり見え方が違うはずなんじゃないかと思うんです。ちょっとシュールな感じかな。この本ではその感じがあまりなくて、ちょっといい加減だなあ、と思ったんです。そう思っちゃったもんだから、その後もなんかいまいち乗れない部分があって……。歌なんかをじょうずに使っていることや、空を飛んでいるときの描写なんかは、うまいなあと思う部分もあるんだけれど、全体としては、ふーん、なるほど、なるほど、という感じでした。動物と鳥の戦争の間で……というのは、ヨーロッパではイソップなんかでおなじみだから、なるほどそれをうまく使っているのね、というふうに、ちょっと引いた感じで読んじゃった。あと、今回読んだ3冊の中では、いちばん日本語に引っかかりました。「彼」とか「彼女」とか、もうやめてくれ〜という感じ。それも、この物語に乗れなかった大きな原因だと思う。

アカシア:空を飛ぶ部分はとてもうまく書けてるし、ストーリーラインの作り方も、あちこちに謎を置いていくなど、うまい。でも、作品世界には私も入り込めなかったんです。その理由の一つは、主人公のシェードが、ひとりよがりだったり、優越感にひたってばかりいたり、戦争好きだったりして、共感のもてるキャラじゃないという点。これは原文の問題ではなく、欠点があっても魅力的な主人公に訳し切れていないという訳の問題かもしれませんが。
もう一つは、物語の作り方がいい加減な点。たとえば、「こだまの洞」というのがあって、そこには何百年も前から代々の長老が歌った歴史が半永久的にこだましていて、洞の中に入るとそれが聞こえてくるという設定です。シェードとフリーダはそのこだまを聞くわけですけど、洞の中で二匹でべらべらべらべら会話している。すると、当然そこでしゃべった言葉も半永久的にこだまして、大事な歴史の邪魔をすることになるはずでしょう? こんないい加減な物語でいいんですか!! まじめに読んでたら、馬鹿みたいです。途中でほかの銀翼コウモリに会っても、仲間の群れを捜しているはずのシェードが話しかけさえしないのも不自然です。
それから、三つ目は訳の問題。たとえばp.11に「シェードがはじめて飛び上がり、翼をばたばたさせて空中に浮かんだあと、ぶざまに墜落したときは、群れのだれもがおどろいたものだ。これならだいじょうぶ、生きていけるだろう。」とありますが、どういう意味? p.119の終わりの方ではシェードとマリーナが笑ってますが、なぜおかしいかが伝わらない。19章に出てくるプリンスとレムスは同一キャラですが、すぐにはわからない、などなど、ひっかかるところがずいぶんありました。私は、単に情報やストーリーラインを伝えるだけでなく、味わいとか余韻も本の要素としてほしいと思っているので、それまで伝えるように訳してほしいです。

ウグイス:細かいことは気にしなかったので、どんどん読めて私はとてもおもしろかった。コウモリに興味があるせいもあるけど、コウモリになって飛んでいる気持ちになれて楽しかったんです。1章ずつが短く、必ずその章で何かおこり、章末に、次へつながる文章があって、先を読まずにはいられなくなる。長い物語を読みなれない子どもでもひっぱっていく力があるんじゃないかな。単純にひっぱられて楽しく読みました。いろんなコウモリの特徴もおもしろかったし、ものを見る方法も、食べるものも興味深い。科学的に正しいかといえば、違う種類が恋人同士になるというのはおかしいけれど。コウモリは、不思議な生き物。ありきたりの動物でないものの世界を見せてくれる作品としてもおもしろい。シェードのキャラクターに感情移入できないという意見がありましたが、これは3巻ものなので、1巻だけでは中途半端だということがあると思います。3巻目はシェードの息子が主人公になって、1巻目で語られなかった部分も明かされていくんです。

愁童:おもしろく読んだ。コウモリの生活環境によって行動様式や主たる食物が異なっていて、それらが物語に登場する個体のキャラクターや体の大きさに影響していることを、さりげなく書いていて、説得力があると思ったな。主人公のコウモリがカブトムシを捕らえて食べるところの描写なんか、微妙な感覚までうまく表現されていて、好感を持って読みました。母コウモリから地図を伝達されているという設定も、超音波を使うコウモリの生態の説明がきちんとされているので読み手は想像力を刺激されて、コウモリの情報伝達手段に神秘的な魅力を抱かされてしまったりして、うまいなと思った。

サンシャイン:キャラクターの名前ですが、バテシバとか、レムス・ロムルスとか、何かを思い出させる名前です。バテシバは旧約聖書のダビデと関わった人。レムス・ロムルスはローマ建国の時に登場します。綴りが一緒なら、西洋の人は何か一定のイメージを思い浮かべるんでしょうか。

愁童:輪をはめているコウモリが、次は人間になれるというところは、人間中心主義的な感じで、ちょっぴり引っかかったですね。

ミッケ:それは、輪をはめているコウモリをほかのコウモリが仲間はずれにする、仲間はずれにされると、どうしても同類同士が集まって、選民思想で自分たちを支えるしかなくなるということで、リアリティがあるというか、納得できると思いますけど。

サンシャイン:コウモリは太陽を見てはいけないという戒律があって、フクロウがそれを厳しく監視している。主人公はそれに反発して、自由な世の中、広い世界を求めるけど、多くのコウモリにはもうそれを打ち破っていこうという意欲もないーーこういう話の作り方はおもしろいなと思いました。

愁童:母コウモリから伝達されている地図の情景で、実際にオオカミの耳のような山の間を飛ぶシーンなんか、うまいなぁと思いました。

アカシア:空を飛ぶ話は、この会でもいろいろ読みましたが、その中ではこの作品がいちばんうまく書けているようには思ったんです。でもね、ファンタジー世界の中のリアリティがお粗末なのが嫌だったんです。

愁童:同感。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)


本朝奇談 天狗童子

佐藤さとる『天狗童子』
『本朝奇談 天狗童子』
佐藤さとる/著 村上豊/絵
あかね書房
2006,06

うさこ:わりと厚みのある本だったけど、どうなるのどうなるのと先が気になり、つるつると読めました。特におもしろかったのは、作者のこだわりが見える、天狗の世界観。しきたり、階級、ルール、食事、術、住まいなどがきちんと構築してあったところ。九郎丸の脱いだカラス簑の様子とか、与平がカラス簑を焼くところとか、大天狗がヒョウタンの中にとじこめてしまった庭とか、縮地法とかは、とてもおもしろくて好きな部分でした。
でも、物語としては完成度が低いのかな、というのが読み終わったあとの感想です。途中はおもしろいのだけど、読み終わってみると、わりと平面的な物語というのかな、山あり谷あり、敵あり、迷いあり、悲しさ辛さ、喜び、達成感などはあまりなく、山場がなかったなあという印象です。完成度が低いと思った理由をあげると……与平が九郎丸に笛をしこむように頼まれて、天狗からあずけられることから物語は始まるのに、最後、笛の修業の件はうやむや。与平が九郎丸を人間に戻してやりたいというところや、九郎丸が本当の父親に会ったところも、九郎丸の気持ちはつかみにくかった。与平は大天狗との約束で、九郎丸を人間に戻す代わりに身元請負人になったけど、本当の父に会わせるまでで、最後は寺男となって、光明寺や円覚寺を行ったり来たりするだけ。与平の九郎丸に対する思いも伝わってこない。
与平、九郎丸、大天狗など、登場人物の外見や様子は書いてあるのだけど、気持ちや心の内のことはあまり書かれていないので、いまひとつ伝ってくるものが弱かったと思います。また、出てくる人物は、九郎丸にとって敵らしい敵はいなくて、一様にみな親切で好意的。ちょっと都合よすぎかなとも思いました。気になったのは、光明寺の高円坊=乱波(忍者)。忍びの者として伊勢方から光明寺に入っていたのに、あっさり身元をあかし、忍んでいたところの者たちと仲良くなり、忍者なのにと、ちょっと疑問でした。しかも、西安さまにほれこんで、こちら側に寝返るとかなんとかいっていたのに、結局、九郎丸の世話役を引き受け、従者のようなことをした、という終わり方で、登場人物のなかで一番芯の通っていない人物のように感じました。天狗と人との「因縁で結ばれる」というところ、もっと随所でこれがキーになるのかな、と思ったけど、そうでもなかった。結末は、歴史的な解説でばたばたと後片付けするように終わったなあ、と思いました。

アカシア:天狗の世界のあれこれは、とてもおもしろかったんですが、部分的におもしろいところがあっても……。連載の限界があるなと思いました。
まず物語の焦点がどこなのかわかりにくい。天狗が人間に笛を習いにくるというのはおもしろいので、ちゃんと習得できるのかと興味をもつのですが、いつのまにかそれはどうでもよくなる。与平が天狗に戻るための蓑を火にくべてしまい、命をかけて九郎丸を天狗から取り戻す決意なのだと思っていると、そうでもない。大天狗は九郎丸に与平の命を取りに行けと言うだけは言いますが、その日にはもう護法天狗が与平をさらってしまいますからね。九郎丸が父親と対面できるかどうかが山場かと思うと、父親は「おお、達者で暮らせ」というだけでまたすぐ別れてしまう。
つまり、読者は次から次へと肩すかしを食らわされていくんです。物語がどこで焦点を結ぶのか、それがあいまいなせいでしょう。それに、与平は九郎丸を天狗の手から取り戻したいと思っているけれど、九郎丸は天狗のままでいたいと強く思っている。それなのに九郎丸は、与平の意志を大天狗に伝えるという設定にもリアリティがありません。『だれも知らない小さな国』が好きだった私にとっては、ひどく物足りない本でした。

ねず:やっぱりうまいなあ……とまず最初に思いました。天狗の世界が生き生きと描かれていて、おしまいまでわくわくしながら読みました。けっきょく、佐藤さんの書きたかったのは、天狗の世界だけだったのでは? 私としては、こんなにおもしろい世界を見せてもらったので、それだけで十分という気持ちもするけれど、やっぱりこの世界のなかで繰り広げられる物語も読みたかった。でも、作者はもうお年なので、作品のなかの子どもたちが悲しい目や苦しい目にあうのが嫌だったんじゃないかしら? それでさらっと書き流してあるのでは? 出てくる大人たちもいい人ばかりだしね。
いちばん疑問として残ったのは、なぜ与平が九郎丸を人間に戻してやりたいと思ったのかということ。私くらいの年代だと、妖怪はかわいそうで、人間のほうがずっといいとすんなり思うのだけど、今の子どもたちは「人間より空を飛べる天狗のほうがずっといいじゃん!」と思うのでは? そのへんの作者の心のうちの説明があったほうがよかったのではと思います。

ミッケ:多少なりとも自分の知っているあたりが登場する作品の楽しみというのは、日本の物にはあるから、そういう意味でおもしろかったです。鎌倉なんかは、鎌倉幕府のすぐ後からだーっと一気に寂れていって、明治になってようやく違う角度から注目されるようになり、今ではそれなりに人気があるわけだけど、そういう寂れかかった時代の鎌倉を登場させているのも、リアルだと思いました。それに、天狗の世界もよく書けていたし。日本に昔からある豊かな世界を感じさせるし、古い時代の雰囲気がとてもよく出ていて。
ただ、そういう古い時代って、近代自我とは無縁で、庶民とは関係のないところで世の中が動いていくし、偉い人でも城をとったりとられたり、というかなり単純な構造なものだから、そのままだと、今にアピールする葛藤とかがなくて物語にならない。そういう意味で、食い足りない感じになったんだと思います。半分天狗になった九郎丸も、お父さんに一度は会うけれど、すぐにさようならとなるのは、当時だったらそうなのだろうし、与平が本人の意向も考えずに九郎丸は天狗よりも人間になったほうがいいんだ、と考えて行動に出ちゃうあたりも、当時の人らしいんだけれど、今の人間からするとなんか物足りない。とってもよく調べてあって豊かな舞台なんだけれど、そこで展開されるお話はあんまり迫力がない。天狗の館の話だとか、あと、九郎丸が半分焼けた天狗簑で大山に飛んでいく道中なんかは、ほんとうにわくわくしましたけれど。残念。

愁童:安心して読めました。日本では天狗という存在が昔から語り継がれてきているので、今の子にあらためてこんなお話を読んでもらうのは意味があることだな、なんて思いました。ただ、天狗は、今の子にとって昔ほど身近な存在ではないので、この題名だとちょっと手にとって貰いにくいんじゃないかな、なんて余計な事を考えてしまいました。

ウグイス:この読書会のための選書は、日本の作品を何にするかでいつも悩みます。天狗は動物ではないけれど、人間以外のものということで他の2冊と一緒に読んでもいいかなと思い、選びました。
まず日本語がわかりやすく、目に見えるように書かれています。日本の文化をきちんとした日本のことばで伝えるこのような作品を大事にしたいと思いました。会話にもリアリティがあり、特にせりふとせりふの間に、「〜と言いました」だけではなく、「身を乗り出して」「わらいたいのを我慢して」「まるで子どもをさとすように」というような文章をはさんで、状況が目に見えるようにしている。ユーモアのある書き方もいいですね。げらげら笑うということではなく、思わずくすっと笑いたくなるユーモアがちりばめられています。確かにストーリーのつめは甘いと思います。連載だったから、という難点もあります。
でも私がこの本で一番いいなと思ったのは、子どもを見るまなざしが温かい、ということです。それは、与平が九郎丸を見る目に一番現れているのですが、それは作者の思いでもあると思います。最近の日本の児童文学は、苦しい状況にある迷える子どもをこれでもかこれでもかと書く傾向にあるんですが、子ども本来がもつ純粋な部分を温かく見守る態度は、今の児童文学に欠けているかもしれないと思って、ほっとする感じがありました。愁童さんがおっしゃるように、この装丁や書名だと、子どもが自主的に手にとりにくいとは思います。

サンシャイン:楽しくは読めましたが、最後は話を締めくくるために無理矢理終わらせた感じです。篠笛は、日本で生まれた唯一の楽器らしいですよ。他の楽器はみんな、外国から来たものだとか。笛をきっかけにして人間と天狗の出会いがあるんですが、笛の話があまり出てこないんですね。結末で「篠笛のふき合わせを…」と書いてありますが、とってつけた印象です。本全体を貫く一貫性には欠けているかもしれない。それぞれの場面は楽しく読めたが、完成度は低いのではないでしょうか。

ねず:ひょうたんのなかに広がる世界とか、縮地法とか、とてもおもしろかった。子どもより、おじさん、おばさんの世代が好きな話なのかも。

愁童:今は天狗になじみのない子も多いから、そのおもしろさがわかるかなぁ。でも、九郎丸の天狗蓑の描写や手触り感などの表現はさすがだなって思ったですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)


冬の龍

藤江じゅん『冬の龍』
『冬の龍』
藤江じゅん/作 GEN/画
福音館書店
2006.10

カーコ:ストーリー自体はおもしろいと思ったし、あちこちで石を探しながら今まで知らなかった町の歴史や人の生き様を知っていくというのもいいな、と思ったんですけど、全体の書き方になじめませんでした。なんでか、と考えてみてみると、会話が全体に長くて説明的なんですね。長い独白で説明しているところが多くて、つくりものっぽく思えました。それに、この子たちの会話も、6年生の子どもにしてはお行儀がよくて、今の子じゃないような感じがしました。

ミッケ:けっこう期待して読んだのですが、なんか残らない。欅の精が出てきたりして、それはいいんだけれど、登場人物がページから立ち上がってこないというか、迫り来る感じがなかった。いまひとつ説得力が感じられなくて、拍子抜けしちゃった。それで、どうしてかなあと思って、今日来るときにもう一度ちらっと見てみたんですが……たとえば、最初のほうで、問題の玉が災いをもたらすという話が出てきて、それがどうやら人びとの気持ちをささくれ立たせてぎすぎすした感じにするとか、そういうことらしい、とわかるわけだけれど、でもそれって災いとしてはなんかわかりにくくない?と思っちゃう。なんかもっと、バシッとした災いなら、男の子たちがしゃかりきになるのもわかるけど。ふうん、そうなんだ、終わり、という感じで、弱い。これと同じようなことが、ほかのところでもあったから、全体が薄い感じなんだなあと思いました。絵は、よかったです。

ウグイス:この本はとても真面目に一生懸命に書いていることが感じられて好感がもてます。早稲田界隈という私たちがよく知っている場所を書いているのも馴染みやすいし。子どもが神社とか井戸にまつわる昔の話に興味をもち、図書館で借りた本から知識を得るといったことが出てくるのは、なかなかいいと思いました。ただ、会話が説明的というだけじゃなくて、この本全体が説明的。著者の前に正座させられて話を聞かされている感じがして、くつろげない。次々に、それでどうなるの?と聞きたくなる感じではなく、「はい、はい、わかりました」と答える感じで、ちょっと押しつけがましい。主人公は、出来事を語らせるために登場させたようなもので、魅力的な子ども像にはなっていない。あとになって印象的に思い返すようなタイプではないんですよね。

ケロ:冬休みにじっくりと読みました。物語自体、おもしろい要素がたくさんあって、一気に読み終わってしまった感じでした。でも、読み進むうちに、ひっかかるところや進んでほしいところで進まないもどかしさを感じるところが出てきて、私も、どうしてなんだろう、と考えてみました。すると、最初に物語の構想があり、それに合わせて人物を動かしているからかな、という気がしてきました。欅の化身があり、歴史的な出来事があり、という骨組みがあってそれに合わせて登場人物、特に主人公たちを動かしているような印象なんです。「欅の化身」も一緒に探すとはいいながら、すぐ行方不明になってほとんどいないし、古本屋の友だちの両親がほとんどいないし。骨組みに当てはめるために無理している感じがします。最後、テンポよく進んでいろいろなことが明かされたりしていってほしいところで、ほとんどの人が風邪ひいてダウンして、みんな動けなかったり。もどかしかったです。主人公がもっと生き生きと動いてほしいのにそうなっていかないのは、まず構想ありきだったからなのかな、と思ってしまいました。それが、残念。

紙魚:読む前から、手にとっただけで風格を感じさせる正しいたたずまいの装丁にはまず感服しました。謎をといていくような冒険小説で、調べ物をしていくくだりなどもとてもおもしろいはずなのに、肝心のどきどきわくわくという体感がないのが残念です。それから、主人公が欅の精の存在をすっとかんたんに受け入れて、たいして疑問を抱かずに話が進んでいくのに違和感をもちました。ファンタジーの存在をもっと信じさせてほしかったです。

げた:私はみなさんとちがって一気に読みました。子どもたちが心霊写真を撮りに行って、龍の玉を探す一生懸命さがよくて読後感もよかった。現実感のある話だけど、中心は欅の精と龍の玉さがしなんだから、ファンタジーなんですよね。おもしろかったので、冬のおすすめ本の候補になりました。図書館のシーンなどは、どうやって調べていくのか、どきどきしましたね。書籍姫という言葉は初めて知りました。今の公立図書館には、書籍姫なんていう人もいにくくなっているんです。

サンシャイン:私、この辺に住んでいるものですから、そのあたりのディテールはよく書けていて共感しました。ただ欅の精の話あたりからどうも入り込めませんでした。全体的に「調べ物」という感じですね。子どもたちが地域の人たちに協力してもらいながら、調べていっていろいろなことを発見する、その過程はおもしろかったですが、内容が架空の話なので、現実味はないかな。210ページの『想山著聞奇集』って実際にあるんでしょうか。欅の精の設定は受け入れて読んでいくべきなのでしょうか。火が出る場面はもっと騒ぎになるはずですよね。

げた:龍の玉が見つかってからが、ちょっとあっけないんですよね。

サンシャイン:リアリティが感じられなかったんです。

うさこ:けっこうおもしろく読みました。早稲田界隈の言い伝えや知識が盛りだくさんで、勉強になったなあと。最後、本を閉じて「ありがとうございました」という感じでした。怪談話や古書店、水神伝説など、興味をひくところが多かったです。この作家はそれらをまとめて物語にしたかったのだろうなと思いました。ただ、読者には、玉が見つかる過程でどれだけおもしろいかということが大事だと思うのですが、冒険ものとしてはちょっと危機感に乏しく、大きな変化がないのも残念でした。知識とか説明を「へえー、へえー」と感心しながら読んでいました。せっかく欅の化身として出てきた二郎さんが中途半端。子どもたちの主体性はそこそこあったと思うのですが、二郎さんにはとても物足りなさを感じました。玉が九月館にあったという結末は、突拍子もない感じではなく、この物語だとこういうところに落ちつくのかな、と一人納得しました。女性の背取師の登場はかっこよかったです。あと疑問点ですが、この写真はデジカメじゃないんですよね。カメラがデジカメでないところで、これは現代の物語じゃないのかな、と一瞬思ってしまいました。

げた:それは女の子から借りたカメラだからかな。

アカシア:女の子の家は写真店なのよね。証拠にしたいと思ったのかも。

げた:使い捨てカメラって日付が入るのかな。

ウグイス:使い捨てカメラだったら、いったん撮ったら日付の変更はできないものね。

アカシア:現代の都会で冒険ものを書くのはなかなか難しいと思うので、期待しながら読みました。おもしろくて、どんどん読んでいったのですが、387ページで五十嵐さんが小学生のシゲルに自分の来し方行く末を説明しているところまで来て、まてよ、と思っちゃった。邪険にお母さんを追い出した五十嵐さんだけど、やっぱり家族のことをちゃんと考えてるんだ、ってことを書きたかったんだと思うけど、それだったら、なにがしかの行為を描写して示したほうがいい。こんなふうに会話の中でべらべら説明してしまい、しかもそれがあんまりリアルじゃないのはまずいなあ。そう思って見ると、ほかの方たちも言っているように、ここと同じような説明をしているところが多いんですね。あとは、いろんな要素が入りすぎていて、話に骨太の感じがなくなってしまっているのが残念。木の精の存在の秘密とか、シゲルとお父さんとの関係はどうなるのかとか、下宿人たちの人間関係とか、それに加えて龍の玉とか、あまりにも要素が多すぎるんだと思います。二郎さんが途中で行方不明になりますが、ここは荷物まで持って出ていく必然性がないので、疑問が残ります。部分的にはとてもいい描写がたくさんあるし、魅力的な人物も登場するし、子どもたちが龍の玉について調べていく道筋はちゃんと書けていておもしろい。今後はきっといい作家になる方じゃないでしょうか。

愁童:日本の作家が龍を書いてる作品で、あまり感心した児童書に出逢ったことがないんで、ある予断を持って読んじゃったんですけど、この作品は意外に良かったなって思います。女性の方々の感想を聞いてて、女性はリアリストだってよく言われるけど、ホントだな、なんて思っちゃった。小学校高学年あたりからの女の子の読者も、似たような感覚で読むのかなって思うと、ちょっとさびしいけど、でも、街の様子や登場人物達がくっきりと鮮明にイメージに残るように描かれているので、そんなわけないいじゃん、みたいな反発が出てくるのも作者の力量のなせる業かもね。

アカシア:ファンタジーの部分がいけないというんじゃなくて、ファンタジーの中でのリアリティにほころびがあるのよ。あと一歩。

愁童:龍の卵や雷の玉探しみたいなファンタジックなことより、この作者は、人情話だけで書いたほうが説得力があったのかもしれないなんて思ったりもしますけどね。

ポロン:まずは、私にとってたいへん身近な地名が出てきて、びっくりしました。それで、冒頭の1〜2ページって、漢字がすごく多いの。パッと見た感じも黒々しくて難解そうに見えるので、私に読めるかしら、そして小学校5〜6年生の子に読めるかしらとちょっと心配になりました。読みはじめてみたら、すーっと読めたのでだいじょうぶだったのですが……。内容は、筋書きはたいへん見事でしたが、残念ながらあまり魅力を感じませんでした。なんというか……たとえるなら、千疋屋のイチゴみたい。とってもキレイな粒のそろったイチゴが、箱の中にお行儀よく、きっちりつまっている感じ。高級で(実際、千疋屋はお値段も高級)お味もいいけれども、まあ庶民が自分のためにちょくちょく買うものではないといいましょうか。多少でこぼこしていてもいいから、小粒だけど甘いとか、つぶしてお砂糖と牛乳をかけて食べたらすごーく美味しいとか、印象に残るイチゴが食べたいなあ……。と、イチゴの話はこのへんにして、他に気になったこと。私も「五十嵐さん」は気になりました。144ページの5行目あたり、毎日のように夜中に一人で泣いたり歌ったりしている大学生って、ちょっと……。

アカシア:でも、今の時代、どんな人がいてもおかしくないと思うよ。私はこういう人っていると思うな。

愁童:図書館員の女の子が、同じ下宿人の本の返却が遅れている男の部屋へ行って図書館の本を探す手際のよさみたいなことをさりげなく書いたりしている場面なんか、うまいなって思いました。

サンシャイン:あの、「書籍姫」っていう用語は、図書館の世界で一般的な用語なんですか? いい響きですよね。

げた:いいえ、私の図書館では、そういうタイプの人はたまにいますが、最近はあんまり見かけないですね。

きょん:物語はおもしろいといえばおもしろくて読みやすいのだけど、説明的なんですね。シゲルがいちいち説明するところが多すぎる。わりとうまくととのっているのだけど、説明的な部分が多いので、つじつま合わせをしているように見えちゃう。説明しちゃうと文学的じゃなくなっちゃう。

愁童:最初のほうに、男の子3人で幽霊の写真を撮りにいくじゃない。あのあたりの男の子と女の子の関係ってうまく書けていると思うんだよね。今の小学生が読んだら素直に入っていけると思う。そう思いません?

ケロ:いや、いいとは思うんですけど、途中からなんでだろうというところが出てくるんですよ。

きょん:著者紹介の文中に「第十回児童文学ファンタジー大賞奨励賞を受賞。本作品は単行本化にあたり、同受賞作に大幅な加筆修正をほどこしたもの」ってありますよね。説明的な部分って、編集が手を入れて「大幅に加筆修正」した部分だったりして?

ポロン:しかも「大幅に」ってわざわざ書いてあるところに、意味を感じますよね。

ミッケ:この本からは、洋物のファンタジーだけでなく、日本にもファンタジーの素材としてうんとふくらませられそうな題材がいっぱいあるんだなあって思わせられて、そこはおもしろかったんです。だけど、要するにこの本って、サスペンス物の2時間ドラマのイメージなんだと思う。ああいうドラマって、なんだかんだといろいろあって、最後にジャジャーンっていって、断崖絶壁で犯人やら主人公やらが延々と背景を説明して、終わりになりますよね。あれと同じで、全部説明しちゃってるものだから、ああそうですか、っていってこっちとしては拝聴するしかない感じ。

愁童:じゃあ、二郎さんが木に耳をつけて木の声をきくなんて部分も気になりますか?

一同:それはいいの! そこは説明してるわけじゃないもの。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年1月の記録)


王への手紙(上・下)

トンケ・ドラフト『王への手紙』
『王への手紙(上・下)』
トンケ・ドラフト/著 西村由美/訳
岩波少年文庫
2005.11

げた:ゲーム感覚で読みました。王へ手紙を届けるために旅に出て、いろんな敵がやってきて倒して、使命を成就して、またもとのところへ戻ってくるという、行きて帰りし物語の基本的なスタイルをとっていますよね。最終的にうまくいくことがわかっていても、それに至る過程を楽しむエンターテイメントですね。漢字が多いので、私の図書館ではYAのコーナーに置いていますが、小学生でも、読めると思います。オランダで石筆賞をとったらしいですが、なるほどという感じでした。

サンシャイン:おもしろく読みました。トールキンの『指輪物語』が出たのが55年で、これは60年ですから、やはり『指輪物語』の影響を受けているのでしょう。地図を見てもわかるように、単純な道筋なんですね。最初の辺りのお話はロールプレイングゲームのような気がしました。しゃべっちゃいけないという約束を守って騎士になるというのは、子どもたちも喜ぶでしょう。その約束を破って冒険に出るわけですから。

うさこ:最後まで読んでいなくて、途中まで読んでの感想なのですが、冒険ものの王道ですよね。正しい者が最後に勝つというのがなんとなくわかっているので安心して読めます。こういうタイプの物語は、読者はきっと好きだろうなと思います。この話の続きとして、ティウリとピアックが主人公の別の物語も昨年末に訳本が出たんですよね。

アカシア:クラッシックな感じのするお話だなと思いました。でも、その割に描写がきびきびしているので、わくわくしながら読める。ストーリーテラーとしての力が作者にあるので、おもしろかったですね。ゲーム的な作品というより、こういう冒険物語を元にしてゲームのストーリーがつくられていったんだと思います。だけどこれは、ネオファンタジーと違って登場人物の人となりや特徴などもちゃんと描かれている。ただ、一つひっかかったのは、最初の場面で、ティウリが割と簡単にドアを開けて出ていってしまうように思えたこと。なにがあっても開けてはいけないという決まりなのだから、もう少しためらったりした方がよかったのではないかと。そうすると最後の方でも、「自分はあのときこう決めたんだから」という割り切りがはっきりと出来てよかったのではないかと思いました。わからなかったところは、(下)124ページのボートを漕ぐシーン。ピアックが「こぐの手つだえない?」ときくと、ティウリが「いいよ」と言うんだけど、ピアックには漕がせない。なぜかな?

ウグイス:「いいよ」は、英語で言うと「Yes」ではなく「No thank you」なのよ。でも文面をみていくと、まぎらわしいですね。

愁童:ぼくは、あまりおもしろくは読めなかった。かなり冗長な感じもするし。「岩波は何をメッセージとして伝えたくて今の読者にこの物語を届けるのかな?」とききたい感じがする。ティウリ家柄もいいし騎士になるけど、ピアックの方は盾持ちにしかなれないわけでしょう。格差社会を肯定しているし、今の子に読ませてどうしようっての? 王様が絶対存在だっていうのも気になるしね。主人公は秘密の暗号で書かれた自分では意味の分からない「王への手紙」を最後まで分からないまま届けるんだよね。文面が最後まで分からないのも不満。ずるいよー、って感じ。こんなストーリーは、劇画で見せれば充分なのでは。

一同:(そうではないという反論あり)

ポロン:この激しい議論のあとでは申し上げにくいのですが……私の感想は「騎士は、カッコイイなあ」です。わくわくしながら読みました。ちょっと残念だったのは、章タイトルで内容がわかってしまうところ。「さあ、どうする? どうなる?!」と思いながら読んでいるのに、章が変わるところで、その後の展開がわかっちゃうところがいくつかありました。章立てがこまかくて、それぞれ章タイトルがついているのは、読者にとっていい道しるべになると思うのです。ここにもうちょっと工夫があれば、「この先、どうなるの?」心が、さらに盛り上がったと思うんだけど……。

ミッケ:するすると、おもしろく読みました。けっこう引っ張られて、ぐいぐい読み進む感じだった。この作品は、西欧の古くからの伝説や伝承がいっぱい積み重なったがっしりとした土台をしっかりふまえていて、その安定感が、読んでいてとても気持ちいいんだろうと思います。まあ、その上で何を書くかが問題になるわけだけれど。いろいろな場面での主人公の葛藤がちょっと物足りない気もしたけれど、要するにこの子は根がとてもいい子なんだなあと、一応納得。読後感がさわやかで、特に最後のところで、いったんは別れたピアックがもう一度現れるシーンはとても気に入りました。それと、最初のほうで、灰色の騎士の正体が読者にも主人公にもわからず、向こうも主人公のことを誤解しているという設定は、なかなかスリリングでじょうずだと思いました。

もぷしー:個人的にファンタジーには食傷していたので、ちょっと抵抗感もあって読み始めたんですが、ティアックとティウリが前向きでさわやかなのと、山河など旅の情景が心が洗われるほど美しかったので、好感を持って読み進められました。人名、国名などがたくさん出てくるため混乱しがちな構成なのに、それを騎士の色で区別して、わかりやすく表現しているのが賢いと思います。ちょっと気になったのは、人物の心の葛藤が浅いという点。アクションシーンよりも迷うシーンが多いのがこのお話の良いところだと思うのだけれど、迷っている人物のその葛藤が浅いのが物足りない。迷っても、「まあ、いいやとりあえずやってみよう」的に展開してしまう。善と悪の分け方も、気になりました。父王が「弟が邪悪だ」と言い切るシーンがあるけれど、我が子を悪と弾劾するまでの心の葛藤があまり書かれていないと思うので。スルーポルも最も怖い存在として引っ張ってきたのに、とらわれたとき、自分が何を考えて徹底悪に走ったか上手く告白できていない気がするんです。そこが書かれていればもっと良かったかな。

アカシア:我が子を悪と弾劾するって、286ページの、「王は言った。『いま、わかったであろう。エヴィラン王は、いまなお、われらの敵だ。彼に、この国を統治させてはならぬ。なぜなら、彼は悪だから! 彼はわたしの息子だ。わたしは彼を愛している。だが、彼は、悪だ。彼が王になれば、この国じゅうが苦しむであろう!』」っていうところですか? 私はここは、父親である王としての葛藤が表現されているんじゃないかって思ったけどな。スルーポルも、私には、悪人としての矜持みたいなものが伝わってきましたよ。それに、善悪をはっきり分けるのは、古典的ファンタジーの一つの特徴だからね。

紙魚:私も、286ページのこの部分はちょっとひっかかりました。ただ、善悪の問題というよりは、訳文の影響もあるかなという気がしました。「なぜなら、彼は悪だから! 彼はわたしの息子だ。わたしは彼を愛している。だが、彼は悪だ。」の部分などは、確かに原文ではそうなっているのでしょうけど、もう少し余韻があるような言葉で訳したら、印象もちがってたように思います。こういう文って、訳の特徴が出るところだと思うんですよね。

ウグイス:私も楽しく読みました。章数が多く、物語を小分けにして次へ次へと引っ張っていくので読みやすい。テンポの速さがいい。冒頭からすぐに冒険が始まるので、そんなに読書慣れしていない子でも、知らず知らずのうちに読み進められると思う。最後は成功するとわかっているから、途中にどんな試練があっても安心して読んでいけるのもいいですよね。話が長いし、いろんな人物がカタカナ名で出てくるので区別つきにくいんですけど、この作品は、赤い騎士、白い騎士というように色で分けたり、はじめて出てきた人の特徴をまず形から説明する(背の高さとか、ひげがあるとか、帽子とか)ので、イメージしやすい。子どもに親切な書き方だと思います。善悪がはっきりしてるって、もぷしーさんは言ってたけど、私はメナウレスさまの言葉に「もっともよい人と思える人こそ悪い」というのがあったので、ピアックも悪い人ではないか、と不安に思っちゃったのね。目次を見ると、そうではないことがわかってひとまず安心したんですが。この目次はたしかにネタバレになっていて、楽しみを削いでしまう部分もありますね。それからさっき愁童さんから、ピアックが盾持ちにしかなれないのは差別だという意見が出ましたが、騎士はどんな人でもまず盾持ちから入って修行を積んでいくわけだから、差別には当たらないと思うんです。将来ピアックも騎士になれるかもしれないわけだし、描き方も見下した感じはしないので、そこは階級差別とは言えないと思います。

ケロ:私はおもしろく読みました。主人公が経験を重ねながら成長していくというストーリーの王道を行っていると思います。それが、「よくある話」となる場合もあると思いますが、この話の場合、それぞれの思いが描かれているので安心しながら冒険につきあえる、という印象を受けました。たとえば、お金を払わなくては川が渡れず、ボートで渡ろうとして失敗するシーン。主人公は領主の姿を見て、あの人が信頼できる人かどうか、逡巡しますよね。こういうところ、現代でもあると思うんです。それが当たるかはずれるか、実社会ならもっとはずれることもあったりするんでしょうが。おもしろいシーンだと思います。また、最後に主人公が王に会い、任務を終えた後で、王がみんなの前で「この手紙を読まなかったら、息子の国と和平を結んでいただろう」というようなことを言ったとき、主人公はショックを受けて自分のやったことは余計なことだったのだろうか、と目の前が真っ暗になりますね。このシーンも王の苦しみや、主人公の気持ちがとてもうまく描かれていると思いました。

紙魚:すごろくのゲーム板のうえを、コマが進んでいくというような、シンプルな物語ですよね。わかりやすいし、楽しくも読めたのですが、私には最初の「使命」の必然性があまり強く感じられませんでした。何をティウリは信じたんだろう? 最初の約束を破っても騎士になれるのだとしたら、しゃべってはいけないという約束の意味は何だったんだろう? などと考えてしまいました。章ごとに入る、作者自身の絵はとてもよかったです。

アカシア: 26ページの叙任式の前夜の場面には、「(ドアを)開ければ、規則を破ったことになる……ティウリは思った。そうすれば、ぼくは、明日、騎士になることができない」と書いてあります。それでもドアを開けるのだから、ティウリは騎士になるのは断念して、それなりの覚悟をしたのだろうと思っていると、後の方では、断念しているわけではないらしい描写がたびたび出てきます。ストーリー的には、断念したのに思いがけず騎士になれた、という方がインパクトがあると思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年1月の記録)


わたしは生きていける

メグ・ローソフ『わたしは生きている』
『わたしは生きていける』
メグ・ローゾフ/作 小原亜美/訳
理論社
2005.04

ミッケ:この本を読んで、思ったことが二つあります。一つ目は、原作がうまいなあ、ということ。戦争の書き方が斬新で、感心しました。過去の戦争を書くというのはよくあるけれど、それでは戦争を知らない子どもにとっては、フーンで終わってしまうようなところもあり、かといって未来の戦争というふうにすると、今度はSFめいてしまって、やっぱり読者から遠くなる。ところがこれは、時代背景などが細かく書かれていないために、逆に読者にすればリアルに感じられる。携帯電話やなにかが出てくるところを見ると、昔の話ではない、でも、今とそんなに変わっているふうでもないから、ごく近い未来か、それともすぐそばの今なのかもしれない。そういう形で、戦争を経験したことのない人に戦争を追体験させるという手法が見事だと思いました。また、戦争を、攻撃する側としてでもなく、攻撃される側としてでもなく書いているのも、すごいと思う。戦争の持っている残酷さだとか、戦争に影響を受け、振り回されていく様子がかなり身近に感じられるように描かれている。そういう意味でとても新鮮でした。
もう一つ思ったことは、翻訳がひどい。もう、途中で読めなくなりそうでした。たまたま原書を持っていたので、原書を見てみたところ、とても今風な女の子の語り、という感じで書かれているんだけれど、翻訳のほうは、NYで物質的には不自由ない暮らしをしていても精神的には飢えている子、という像がきちんと結べていなくて、読んでいてとても疲れる。トーンがひどく不統一な感じで、色々なところでひっかかりました。冒頭から引っかかりっぱなしで、「時代遅れのの女王様か、死人みたいに」というところも、一瞬、どういうこと?と思うし、「それまで」っていつまで?「はじめっから、」っていつから?「あの戦争」って第二次大戦のこと? みたいに、疑問だらけになっちゃいました。今時の女の子の省略のきいた語り口は、そのまま日本語にしたんじゃあ伝わらない。かなり言葉を補っていかないとまずかったんじゃないかな。とにかく読むのがたいへんで、原書の持っている力が、うまく伝わってこなかった。

ケロ:この物語は、現代の延長線上にある戦争に巻き込まれてしまった女の子の話だな、ということがわかった中盤以降は、引きこまれるように読んで、印象的な物語だなと思いました。このような設定で書かれた本は、日本にはないと思うし、とてもリアルですごい試みだと感心しました。ただ、最初にこの設定に入るまでは、結構とまどったんです。というのは、携帯電話などから現代だとは感じていたものの、主人公が引き取られた先がイギリスの田舎で、子どもたちが動物などの世話をしている古めかしい家なので、あれれと思ってしまった。いくら田舎でも、こんな暮らしがあるんだろうかと、読み返してしまった。すると前の方に「あの戦争」という言葉があったんですけど、それがどの戦争を指すのかもはっきりしなくて、とまどいました。主人公とパイパーがさまようシーンは、読者にとってわかりやすく、その中で主人公が食欲を含めて「生きる」ことに前向きになっていく様子が、自然に書かれていたと思います。

エーデルワイス:9.11のテロの後、それがもとで戦争になったという設定は、趣向が新しくてとてもおもしろいと思います。ただ、世界がどのように戦争状態になったのかという全体像は、はっきり描かれてはいませんね。主人公たちは田舎にいて、戦闘に直接的にはかかわらない。遠くで戦争が行われているという、のんびりした感じです。ちょっと離れているところで情報がないと、こうなるのかなと思いました。わからなかったのは、最後のところで、父親から電話があって、具合の悪くなった主人公が帰っていくくだり。主人公はニューヨークという都会で辛い思いをしていて、イギリスの田舎に移動した後で戦争にあって再生するという話なわけで、最後はすっきりしなかった。

ミッケ:この本は、戦争を書いているんだけれど、あまりドンパチやっているところとか、陣取り合戦とかは出てこない。どうやら占領されちゃったらしいよ、というようなとても曖昧な戦争で、ほぼ日常と変わらない感じが続いているみたいにも見えるのに、それがどこかで突然沸点に達して虐殺が起こったりする。そういうふうに書いてあります。これは、ある意味で戦争の怖さの本質のような気がします。そういう意味でとてもうまい。それと、主人公の恋人のエドモンドが心を閉ざしてしまうきっかけになる虐殺のシーンでも、虐殺後の様子は、主人公とパイパーが顔見知りを捜してていねいに見ていくということで、かなり詳しく出てくる。そして、エドモンドが心を閉ざしてしまったという結果としての現実も書かれている。でも、エドモンドが虐殺を目撃したというシーンそのものは出てこない。そうやってそのシーンの強烈さを読者に推し量らせている。そういう省略の仕方がこの作者は非常にうまい。そういう箇所が随所にあって、感心しました。

げた(メール参加):家庭環境になじめない女の子が、外国のいとこたちとの出会い、新しい感情が芽生え成長していくと言う話ではじまりました。それが、突然、近未来SF小説のような展開になり、戦争にまきこまれていくという、意外なストーリー展開に引き込まれました。

アカシア:翻訳をもう少しきちんとしてほしいな。たとえば、P6の「さがしてさがして、みんなは立ち去っていくのに…」。さがしてさがしての主語は「私」ですが、読点の後の主語は「みんな」だから、すとんと胸に落ちない。どういう意味かなあと頭をひねる箇所もたくさんありました。p17の「ほら、あたしはまた結論に飛びつこうとしている」は、何を指して言ってるんでしょうか? 同じページの「これという理由は思いつかなかったけど、自分は何世紀も前から、ずっと、この家の住人だったような気がした。そんなこと、かなわない夢だったのかもしれないけど」も、ぴんときません。こういう話し言葉口調は、訳すのがむずかしいでしょうけど、ニュアンスが伝わるようにもっと工夫してほしいな。それと、くだけた口調で話してるかと思うと、P31には「あたしには選択の余地はなかった」、P73には「もしくは……もとより……」なんていう硬い表現や古くさい表現が出てくる。これでは主人公の像が結べないですね。焦点が合わない感じで。P50の「血がつながった家族はもとより、」も、この文章がどこにつながるのか不明です。他にも、もどかしい箇所がいっぱいあって、私は読むのがつらかったです。編集者の人も何をしているのでしょうか? せっかくの作品がこれではかわいそうです。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年12月の記録)


ジュリエッタ荘の幽霊

ベアトリーチェ・ソリナス ドンギ 『ジュリエッタ荘の幽霊』
『ジュリエッタ荘の幽霊』
ベアトリーチェ・ソリナス・ドンギ/作 エマヌエーラ・ブッソラーティ/絵 長野徹/訳
小峰書店
2005.07

エーデルワイス:ユダヤ人の女の子をかくまって、それを他に知られないようにするというストーリーで、主人公ほか子どもたちはすべてを知らされていませんが、リッリの母親もよくわかっているし、村全体がパルチザンをかくまっているという設定。イタリアでもこのようなナチスへの抵抗運動があったのか、と勉強になりました。とても引きつけられて読んだ。いい作品でした。

ケロ:これは、過去の戦争の話ですね。でも、日本と違う事情のある中での戦争ということで、日本の戦争の話には嫌気のさしているような子でも、結構新鮮に読めるのではないでしょうか。ただ、パルチザンとドイツ軍の関係がちょっとわかりにくかったり、陸続きに国境があるということもわかりにくいかも知れない。まわりのおとなたちも、こわいと思っていた人が実はパルチザンをかくまっていたり、勇気ある行動をとっていたことがわかるなど、信頼できるいい人として描かれているので、安心して読むことができるますね。

ミッケ:この本をイタリア人の子が読んだら、自分たちが住んでいるところで起こったことでもあるし、ナチスと一緒に戦争を起こしてさっさと降伏しただけじゃなくて、イタリア人だってパルチザンとして抵抗もしていたし、このおじいさんみたいな反骨の人もいたんだ、ということがあらためてわかるから、とても楽しめると思う。ただ、日本の子はイタリアの歴史を知らないから、そのあたりで、ちょっと距離があるかなと思いました。そうはいっても、この子がしゃべっちゃうんじゃないかとか、ハラハラするところもあるし、主人公にとっては見えていないさまざまな謎もあるしで、おもしろく読ませる本だと思います。主人公の女の子の一人称で書かれているにしては、ちょっと堅めかなとも思ったけれど、昔の話だということを考えれば、やむを得ないかな。子どもを一人かくまっていて、その子どもを隠すために、もう一人の子どもを家に通わせるというあたりは、うまいことを考えるなあと、感心しました。イタリアの子に向けてイタリアのおとなが書いた、心のこもった作品という感じがします。

げた(メール参加):タイトルから受けた最初の印象と内容の深刻さのギャップがおもしろいと思いました。時間的には短い間の出来事なので、分量的には少々あっけない感じもしました。

アカシア:イタリアが降伏したころのドイツにはイタリアに侵攻する余裕などなかっただろうと思っていたので、意外な事実を知らされましたね。ほんとうに幽霊はいるのだろうか、という謎が仕掛けてあって、おもしろく読めます。ユダヤ人に対する迫害は、日本の子どもたちもよく知っていると思いますが、パルチザンについては、本文の中で、もう少し補ったらさらにわかるようになったと思います。みんないい人だったということがわかる終わり方も、ホッとできていいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年12月の記録)


シャングリラをあとにして

マイケル・モーパーゴ『シャングリラをあとにして』
『シャングリラをあとにして』
マイケル・モーパーゴ/作 永瀬比奈/訳
徳間書店
2002.08

ケロ:読みやすいし、話の展開もわかりやすいですね。ただ、おじいちゃんの記憶をなくす過程が、ちょっと安易な気がしました。また、おじいちゃんが「シャングリラには行きたくない」とうわごとのように言うので、シャングリラってどんなひどい場所かと思うのですが、結局これはおじいちゃんが友だちから最近聞いた老人ホームだった、とわかります。そこが、どうも納得いかなかったですね。自分がどこに住んでいるかなど最近のことをショックで忘れている、という状況の中で、「シャングリラ」は書名にもなっているし、何をあらわすのか興味がわいたのですが、それがただの老人ホームだったとは! もっと、おじいちゃんの根元的な何かの記憶と結びついているのかなと思っていたので、ひっかかってしまいました。最初の場面で、このおじいちゃんは雨の中にずっと立っているわけですが、そこはあんまりリアルには感じられませんでしたね。

ミッケ:以前読書会で取り上げた同じモーパーゴの『ケンスケの王国』(佐藤見果夢訳 評論社)が今ひとつだったので、どうかなあと思いながら読み始めたんだけれど、これはとてもおもしろく読めました。自分は捨てられたと思っている息子と父の再会という要素と、老人の自主決定権の問題という要素と、戦争の傷という要素、この三つの要素がうまく絡み合っていて、ぐんぐん引っ張られる本。それに、このおじいちゃんのありようも、私はかなりリアルだと思いました。息子から見ればひどい仕打ちをしているにも関わらず、どうしても会いたいといって押しかけて来ちゃったり、それで歓迎されないと今度はひどく落ち込んじゃったりする、ちょっとお調子者な感じも、とてもよくわかる。それと、自分の暮らしを自分で決めていきたいという気持ちも。最後が、会いたいと思っていた人に結局は会えない、というのもいいと思う。これが会えちゃったりすると、嘘くさく甘くなるけれど。こういう本を読むと、欧米には戦争体験をちゃんと次の世代に伝えようとする人がいるんだな、と感じられますね。この作品は、作者が様々な作品を発表するようになってだいぶ経ってから書いたようですが、そのあたりも、興味深いなあと思いました。

エーデルワイス:私もよくできているな、という印象を受けました。ただ、子どもの本だな、という感想も。というのは、悪い人が出てこない。シャーリーはいじめっ子ですが、反省して途中から和解するし。たしかに老人ホームの鬼ばばというのも出ではきますけど。おじいちゃんは若かりし頃に、ルーシーアリスに助けられ、恋をする。おそらくルーシーは、敵をかくまっていたことがばれて、どこかへ連れていかれ、殺されたんでしょうね。そんな過去を持ったおじいちゃんがとてもうまく描けていると思いました。ビートルズの曲が要所要所に登場しますが、とてもうまく使われています。「ひとりぼっちのあいつ」という訳になってる曲は、原題は「Nowhere Man」で、どこにもいない男、ということですよね。まさしくこのおじいちゃんのことを言ってるんだなあ、と思いました。

げた(メール参加):以前読書会で読んだ『カチューシャ』(野中ともそ著 理論社)を思い出しました。『カチューシャ』の祖父の過去が十分伝わってこなかったのに比べて、こっちは、おじいさんの過去を探ろうとするセシーの姿から過去が読者によく伝わってきているのではないかと思いました。お父さんやお母さんの気持ちよく伝わってきました。その他の登場人物もその性格がはっきり伝わってきて、読み取りやすかったと思います。

アカシア:老人ホームの人たちが脱走して船出するところなんか、とってもおもしろいなと思いました。おじいちゃんの元恋人捜しとか、このおじいちゃんの素性とか、謎もたくさんあって、戦争を扱っていると言っても楽しく読めます。私もシャングリラについては、ケロさん同様インパクトは弱いと思いましたが、おじいちゃんのキャラは全体から浮かび上がってきました。それと、シャングリラっていうのは、英語では架空の楽園という意味だから、この書名には「想像上の楽園を捨てて、厳しくはあっても現実と向き合おう」っていうニュアンスが含まれているのではないかな? 日本語にしてしまうとなかなか通じないけど。モーパーゴという作家は、戦争を自分のテーマの一つにすえて、説教くさくなく楽しく読んで、しかも考えてもらおうという点に心を砕いています。別れ別れになった親子ということでは、モーパーゴ自身が、お父さんのことを知らずに育って、後に再会しているんですね。再会してから30年近くたって、自分の体験も書けるようになったのかな、と思いました。P199に「ベル」と出てきますが、これは「鐘」のことでは? ともあれ、『わたしは生きて行ける』と比べると、少女の一人称という点では同じなのに、こっちの方がずっとずっと読みやすい。編集力の差でしょうか?

(「子どもの本で言いたい放題」2006年12月の記録)


ブランコのむこうで

星新一『ブランコのむこうで』
『ブランコのむこうで』
星新一/作
新潮文庫
1978/2005

アカシア:私はおもしろくなかった。作品を構築していくというよりは、思いついたことを思いつくままに書いていくという感じですよね。この作品が書かれた頃は、夢の世界の描き方もこれで新鮮だったのかもしれませんが、今は多様なイメージのファンタジーが氾濫しているから、新鮮みもないし、作者のつくりごとに無理矢理つきあわされる感じになってしまいます。すなおに作品世界に入って楽しめなかったです。次の夢に入るというのも、どこかで読んだことがあるという感じでしたし……

カーコ:ここ数年の出版傾向として、ファンタジーとならんで復刊ものが多いと聞いているので、そうやって再び子どもに投げかけられた作品が実際のところどうなのだろう、というのを考えてみたくて、このテーマを選んだんです。この作品は、この表紙になってから、中高校生にもよく売れているという記事を読んだことがあったので選びました。調べてみると、もともと新潮少年文庫というシリーズの一冊としてで出ているもの。ほかのラインナップからすると大人の作家が若い読者向けに書いたものを集めたシリーズのようなんです。お話は、特に目新しくもないけど、短い言葉で場面をくっきり描いているところがうまいと思いました。場面が変わるごとに、どういうところに来たのか、よくイメージできる。ショートショートで、簡潔に場面を作りあげているからかなあ。取り立てて、心に残るというのではないけれど、ショートショートと一緒にこの本を手にとった読者が、長い作品にも近づいていければいいのでは?

アカシア:新潮の星さんの本は、シリーズ全体が新しい装丁になったので、中高生も手に取りやすくなったかもしれませんね。

ミッケ:星新一の本は、中学の頃かな、さくさくと読んでいた記憶があります。でも、今読むと、なんというか、時代を感じますね。星新一が出てきた頃は、とても新鮮だったんだろうけれど。この本に関していえば、次々に場面が変わっていくやり方は、次はどうやって変わるんだろう、どこに行くんだろう、という感じがあっておもしろかった。それに、砂だけの世界に入ってしまうところなんか、アイデアだなあと思いました。でも、全体としては中途半端。子どもの目線で書いているとは思えないな。夢の中でお父さんに会いそうになるのなんかはいいんだけれど、先のほうで、実際の世界で満たされないものが夢の世界で満たされるんだ、みたいな感じになるのは、理に落ちるというか、説教くさい。わがまま放題の王子とか、子どもを追いかけるお母さんの話とか、夢の中でひどい皇帝になっている人の中にかろうじて残っている良心が若者の姿で現れる話とか、子どもがほんとうに喜ぶんでしょうか? しらけるんじゃないかな。やっぱりこの作者はアイデアの人だと思った。

エーデルワイス:内容が薄いなっていうのが正直なところでした。夢に入っていくんですよね。ピアスの『トムは真夜中の庭で』を思い出しましたが、それとも違いますね。

アカシア:ショートショートなら、ぴりっとしたアイデアだけでおもしろいんですが、これはもっと長いので、ちょっとつらいですね。これだけでは物足りない。

ウグイス:ショートショートは、今の中学生にも読まれているんですか?

エーデルワイス:そうですね。好きな子は、次から次へと読破していますが、そればっかりになって、そこから出ることが出来ていない子も見受けられます。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年11月の記録)