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フラワー・ベイビー

アン・ファイン『フラワー・ベイビー』
『フラワー・ベイビー』
アン・ファイン/著 墨川博子/訳
評論社
2003

アカシア:原書で読んでたんですけど、日本語版の表紙の絵を見てあれっと思いました。この脚の感じだと、幼い子ですよね。せいぜい小学校中学年までにしか思えない。主人公は何歳なんでしょう? アメリカ版の表紙には高校生くらいの男の子が出てます。プロジェクトのやり方や、子どもたちの態度や発言からすると、中学生くらいかな、と思えるんですけどね。導入の学校でみんながわいわい言ってるところとか、先生と生徒のやりとりとか、ただまじめに訳すと面白くなくなって、翻訳が難しいですね。フラワー・ベイビーのプロジェクトをやることになったいきさつとか、主人公が自分の父親のことを考えていくくだりとか、アン・ファインは語るのがうまいなあと感心しました。

ケロ:挿絵を描いたのが外国人ですが、英語版を描いた人が描いたんでしょうか?

アカシア:アメリカ版でもイギリス版でも、この絵は見たことなかったんですけど、日本にいる外国人に書いてもらったのかな?

ケロ:確かに、読んでいて主人公の年齢はよくわかりませんね。英語版でも、読んでいて年令設定がわからない感じがするんでしょうか。

アカシア:小学校低学年とか中学年で勉強が嫌いだったら、こんな作文は書けないんじゃないかな。それに、p112には、自分の父親が「今のサイモンよりほんの少し年上」だったと書いてありますよ。だとするとサイモンは、少なくとも中学生にはなってるんじゃないかしら。だから表紙には違和感を感じるんですね。

カーコ:p87に小学校のことが過去形で出てくるし、もう小学生ではないでしょう。

雨蛙:テンポがよくてとても面白かったけど、その分、訳にひっかかりました。中学生と高校生になる甥っ子たちはどう感じるのか、読ませてみたいですね。ただ、タイトルが「フラワー・ベイビー」のままでは、自分から手に取ることはないだろうな。主人公と同じくらいの男子生徒には、挿絵もかわいすぎる。主人公たちは、授業の内容などから、中学校3年生とか高校1年生くらいじゃないかな。そのわりにやっていることが幼いように思うけど。物語の最後、父親のことを自分で完結させるところは、性急でもったいない。まあ、男子生徒が読むにはいいかなと思いました。

ケロ:父親との関係を、自分の中で納得させるまでに、たしかにもう何段階かあってもいい と思いますね。

アサギ:プロットがとても上手にできてるけど、こういう作品って私は好みではないのね。自分が翻訳を仕事にしていてこういうのもなんだけれど、外国のお話と言う感じが強烈にする。日本の作品とテイストが違うからこそ、翻訳の意義があるのは事実なんだけど、それを考えに入れた上でも、こういう展開は好きじゃないなあと思いながら読んでました。書名は、何のことかまるでわかりませんでした。むろん、本文を読んで、なるほどこういうことなのか、と読者に思わせる効果もあるので、わからないからいけない、とは言い切れないけれど。翻訳はとてもひっかかりました。こんな言い方しないだろうと思ったところがいくつもあったし。それに、p94の「作文の字が間違っている」というところだけど、それなら、訳文にもその痕跡があったほうがいいと思いました。それからp59の5行目に「男の子に人形をあてがえば、すぐにふさぎこむ。女の子だったら、いったいどうなってしまうのだろう」ってあるけど、どういう意味?

アカシア:私もここはひっかかったんだけど、翻訳者が意味を取り違えてるんじゃないかしら。男の子にも育児を分担させようとして、あるいは育児について学習してもらおうと思ってお人形をあたえても、すぐに考え込んだりふさぎこんだりするんなら、女の子たちも未来の家庭に希望がもてないわね、というふうな意味じゃないかな。アン・ファインの原文はなかなか難しくて、意味を深く読み取りながら訳さないと無理だと思うの。

アサギ:ほかにもこんなこと言わないよね、と思ったところがいろいろあったわ。p196の後ろから3行目なんかもそう。言いたいことはわかるけれど、様相なんていう言葉を子どもの本で使うかなあと思って。それはともかく、いいテーマだしプロットも良くできてるから、読後感想文は書きやすいわよね。ところで、父親との関係はこれで解決したのかしら? お父さんのことが吹っ切れたのはわかるけれど、なぜ吹っ切れたのかが良くわからない。 書き込みが足りないんじゃないかな。

アカシア:第一章や第二章で生徒たちが言い合ったり、先生とやりとりする場面なんだけど、話してる内容よりも、俗語でしゃべってるテンポみたいなところで読ませるわけですよね。それを日本語で普通に訳しても面白くならない。これが最初にあると、入り込めない子どもがたくさんいるかもしれないな。

アサギ:確かになかなかお話に入れなかったわね。

ハマグリ:カーネギー賞を取ったし、評判も高かったので、私はとても楽しみに読んだのに、あまり面白くなくてがっかりしちゃった。やっぱり最初の教室の様子が日本の子が読むことを考えると、もっと身近でそうそうこんな風と思えるようでないとだめだと思う。教室での会話が続くところもあまり面白くない。

アカシア:イギリスの子が読んだら面白いんだと思うけど。

ハマグリ:その良さが出てないよね。どうして小麦粉の袋を赤ちゃんとして愛情を注ぐようになるのか、という点もぴんとこなかった。発想が面白いし、主人公がこのプロジェクトによって変っていくというストーリーだけ聞くと面白そうと思うんだけれど、実際に読んでみると納得できるようには書かれていない。

アカシア:最初は「爆発」にひきつけられているのが、だんだんいろいろなことを考えるうちにいとおしくなってくるのよね。その微妙な心理の過程が原書ではうまいと思うけど、訳文では出てないのかもしれないな。

アサギ:頭で書いた作品という印象が抜けなかったですね。

ハマグリ:この本ではそういう良さがわからないからがっかりと言う感じ。こういうのを訳すのは本当に難しいと思うけれど、先生の言葉にしたって「よく見たまえ」「わたしにはわからん」なんて言わないし、会話の面白さは伝わってこない。この先生のキャラはきっともっと面白いのに、残念だと思いますね。話の流れが頭では理解できても楽しめなかったという感じなの。物語の世界にすっとはいれないのは、生徒たちの年齢がわからないせいもあると思う。この本つくりだと、せいぜい5、6年生くらいの感じで、中学生は手に取らない。最初のページにこのクラスが四−Cと書いてあるので、日本の読者はぜったに小学校4年生だと思って読むと思うのよね。4年生と思って読んでいくと、授業の内容がもっと上の感じだから、最初から何か居心地の悪い感じになってしまう。

アカシア:イギリス版は四−Cだけど、アメリカ版は教室番号八になってましたね。

ハマグリ:ともかく四と言う数字を出したら、日本の子は4年生と思ってしまうから、誤解を与えないように工夫してほしかった。

ケロ:勉強が苦手なサイモンが、とても難しい引用をしますよね。

ハマグリ:書名のフラワーは、普通はお花だと思ってしまいますよね。表紙に原綴が書いてあるけど日本の子どもは絶対に小麦粉だとはわからないでしょう。何かもっと斬新な意訳をしてもよかったんじゃないかしら。表紙の絵も内容よりも幼いし、本作りが中途半端ですね。

アサギ:最後の2行、へんに大仰で違和感があったわ。

アカシア:著者のユーモアが、日本の読者には伝わってませんね。

ハマグリ:原書を読んだ方たちの印象からは、ユーモラスなところや、くすっと笑うところがたくさんあるようなのに、日本語ではそういう面白さは全く感じられない。がっかりな一冊でした。

むう:私も原書を読んで、この本はすごく面白いと思ったんですけどね。ほかのファインの本に比べても絶対に面白いんだけれど、それが訳には出ていないみたい。

ケロ:発想はすごいなあって思いました。小麦粉を赤ん坊に見立てることをやらされているうちに、自分がまさしくその赤ん坊だったらということに思い当たって、自分を投げだして出ていってしまった父親のことを考えるようになる、なんて、すごいですよね。でも、プロットがあって、あと肉付けがたりないという気がしました。サイモン像がとてもゆれて、どんな子なのか、よくわからなくなったりしたので。これは、翻訳の問題なのか、もともとの話を読んでもそう感じるのか、知りたいです。読んでいて、翻訳がへたなのでは? とは思いました。あとがきを見ると、はじめての翻訳とあったので、なれていないのかな? とも。
最後は、サイモンがどうやって納得したの? というところもわからない。p248あたりからサイモンが突然語っちゃうんですが、その内容がわからない。流れがぷつぷつ切れて。翻訳の問題なんでしょうか、原作の問題なんでしょうか。

アカシア:ここは、ばんばん投げたり蹴っ飛ばしたりしながら、ちょこっと考えている感じなんですよね。それがカタルシスになってもいる。でもこの訳だと大まじめになっちゃってるから伝わらないかも。

むう:原作を読んでの一番印象に残ったのは、いい子になりそうになって、いろいろ考えて、結局それをバーンと蹴っぽる爽快感だったんだけどなあ。

ハマグリ:そういう爽快感ってこの訳者は全く読み取っていないんじゃないかしら。あとがきを読んでも、まじめ一辺倒な感じ。何か違うんじゃないかっていうギャップがつきまとって、不満が残るんですよね。

:私はとても面白く読みました。訳でひっかかったところもあったけれど、ストーリーの面白さで引っ張られて、読み進めました。最初のところでは、小学校の高学年かなという印象でした。この小麦粉の袋のプロジェクトも へええ、こんなことをするんだ、と思って面白かった。学校でこういう内容をテーマの選ぶこと自体に、国民性の違いや、自由な発想力の底力のようなものを感じました。翻訳物を読むときの面白さは、そういう違いを知る楽しみがあると思う。

アカシア:こういうプロジェクト、むこうの学校では実際にやってるみたいよ。

:もうわくわくして読み進めると、フラワーベイビーを世話するうちに、出て行った父親の気持ちをたどり始め、さらにフラワーベイビーにこんなに愛着を持っちゃって。ゴミ箱行きから救い出したところで、この執着からどうやって解放されるんだろうって、どうなるのかなあと、はらはら。最後の小麦粉だらけになるもって行き方は爽快だった。父親の家出の原因が、ずっと気持ちの奥に沈んでいて、今回のフラワーベービーとの出会いで浮き上がってきて、自分の中で解決とはいかなかったけれど、そこでぐっと吹っ切るところに、子どものエネルギーを感じました。面白さで引っ張られて読んで、訳のおかしいところは皆さんから聞けるだろうと思って気にしませんでした。

カーコ:私はみなさんと同様、最初は文章につっかかって入りにくかったです。フラワーベイビーの研究にのめりこんでいくきっかけが勘違いというのが面白いですよね。勘違いとわかったときどうなるんだろうというドキドキと、父親へのこだわりというサイモンの内面の部分という二つの線で引っ張られて、真ん中まで読んで面白くなってきたところで時間切れでした。p14〜15に出てくる授業科目や、サッカーが部活動みたいなところからすると、主人公は小学生ではなさそうだけれど、それにしては幼稚。原作ではっきりわからないとしても、訳者が編集者と話して、主人公は何年生と決めて訳してくれればもっと読みやすかったのではないかしら。

むう:これって、私がはじめて読んだアン・ファインだったんです。原書で読んで、読み出したらとまらなくなって、ほとんどショックでした。それで、続けてアン・ファインのほかの作品を読んだんですが、たしかもともとがテレビ関係のライターをしていた人なので、ひじょうにテンポが速くてプロットを作るのも上手。職人芸的な意味でもじょうずな人だなと思いました。でもほかの作品は、じょうずさが勝っていて、この作品ほどすばらしいと思わなかった。原書は、表現が切り詰められているので、確かに翻訳は難しいと思います。途中でどんどんまじめになっていって、どうなるか、どうなるかと思ったら、最後の場面で、「ヘーンだ!」と真面目を蹴っぽる。そのぐーっと揺れる揺れ幅が大きくて、最後にすかっと爽快になるんです。でも今回原書と読み比べてみたら、大事なところで意味を誤解しているようだったり、言葉遣いに統一感がなかったり、会話が自然な感じがしなかったりで、読み進むのにとても引っかかった。!一番肝心なサイモンのタフさが伝わらないような形で紹介されたのは、とても残念です!

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


クララをいれてみんなで6人

ペーター・ヘルトリング『クララをいれてみんなで6人』
『クララをいれてみんなで6人』
ペーター・ヘルトリング/著 佐々木田鶴子/訳
偕成社
1995

アカシア:取り上げられているのが普通の家庭で、子どもがすでに3人いるところに赤ちゃんが生まれるという設定。お父さんもお母さんも普通の感じで、そのあたりは好感がもてます。ただ、ヘルトリングの他の作品と比べて印象が薄いのは、フィリップに視点になったり、テレーゼの視点になったりと動いているからかもしれませんね。

雨蛙:ヘルトリングということで期待して読みはじめたんですが、物語の世界に入るのにわりと時間がかかりました。ごく普通の家庭の日常が淡々と描かれていくせいかもしれません。好きだけれど、ほかの作品と少し違うという印象。一番下のパウルが、視点がずれているのではと思うところがあったことと、おばちゃんが二人出てきて、そのままぱたっと出てこなくなったのが残念だったですね。障害を持って生まれるかもしれないという深刻な状況ですが、終わり方がさすがヘルトリング。家庭ものとしてよく描けています。ただ、クララのことではなく、それぞれの家族の描写が多く、起伏が少なくて子どもには読みにくい面があるかも。フィリップは、カメラ的な役割を背負いすぎているきらいがあると感じました。フィリップ自身の気持ちをもっと描いてほしかったし、お父さんは、その性格を考えるともっと違ったふうに子どもたちに写るのではと思えるところもありました。それだけ、ヘルトリング自身の思い入れが強い作品なのだと思うけど。

アサギ:ヘルトリング自体は好きだけれど、これはインパクトが弱いと思いました。でも、リアリティはある。すごく好きな表現があって、164ページ、2行目の「お父さんは、帰ってくるのがすごく上手だ!」というところ。私は個人的に自分の体験とダブるので、その意味では熱心に読んでしまったわ。最初にドイツでベビーシッターをした家が、この家族と似ていたので。

ハマグリ:ヘルトリングの作品は次々に読んでいましたが、『ヨーンじいちゃん』『ヒルベルという子がいた』など、とても印象的な作品がある中では、この本は印象はうすい。登場人物のだれかが主役ではないから、そうなるのでしょう。でも、5人の家族がそれぞれにいろんなことを考えながら、赤ちゃんを迎える、という雑多な感じが、逆にこの本の魅力だと思います。実際にクララが登場するのは本の最後の部分で、そこに至るまでの家族の気持ちが描かれ、まだ生まれていないけれど、クララは家族の一員だ、と意識していく過程が書けているので、少子化でお母さんのおなかが大きくなってくるのを体験する子どもが少なくなっている昨今、日本の子どもにも読んでほしいと思うな。

ケロ:『フラワー・ベイビー』のあとで読んだので、イメージが作りやすかった。なるほど、いろいろな人の目線で描かれているのは、あえて意図していたのかと思いました。パウルがすることや、ふりまわされてしまうところなど、本当にこんな感じだろうなあと思いますよね。ヘルトリングが自分の家族に近いものを描いているからこそのリアリティ。その中に、味がありますね。二人のおばさんの天然ボケぶりなど、まわりの人たちも味がある。いろいろな色を見せてもらったという印象。ふつう、この手の話だと、クララが生まれて色々あって…という話になると思うけど、生まれてくる前の話を描いていながら、クララに対するまなざしをちゃんと描いているところがすごいなあと思いました。

カーコ:他の本のほうが印象深いというのはあるけれど、何より登場人物が面白いし、日常生活の機微がとてもよくかけていると思いました。書きすぎず、不足もなく、読者が考える余地を残している。日常のごくあたりまえのことが文学になっているのに感動しました。たとえば33ページの3行目からの「こいつ」騒動。ここだけで、この家族のありようがよくわかる。揺れや迷いが出ていて、人物にふくらみがある。あと、組体裁や本を持った具合が、本の内容とあっていて気持ちがよかったです。シリーズ全体として、本作りがいいですね。でも今は、とかく新しいものばかりがもてはやされるので、埋もれてしまうのではないかと心配です。折に触れて、今の子どもに紹介していきたい作品です。

ハマグリ:ヘルトリングは大好きで、いろいろと読んでいます。『ぼくは松葉杖のおじさんと会った』などと比べると、なんとなくごちゃごちゃっとしていて印象が散漫だけれど、日常がとてもよく書けているのがいいなと思いました。ヘルトリングが書きたかったのは、家族に赤ちゃんが加わることによる一人の人の成長ではなく、赤ちゃんが加わることによる集団としての家族の変化なんだと思います。だから誰かひとりに視点を固定する形でなくなって、視点が移るので拡散もするのだけれど、そこが書きたかった作品なんじゃないかと思いました。ただ、訳については私もひっかかったところがありました。

アサギ:ヘルトリングは、原文がとても洗練されているので、訳は難しいの。ヘルトリングはもともと詩人なので、言葉が究極までそぎおとされているから。そのまま訳すとぶっきらぼうだし、かといって足していくと、原文の味がなくなってしまう。行間を読む作家ですね。ネストリンガーと対照的。ところで、このお父さんって、どんな感じがします? 88年に来日したとき、ヘルトリングの奥さんが、「彼には家族というものがわからない」と言っていたのを思い出しました。現実のヘルトリング家は、奥さんが支えていたのではないかしら。

むう:ヘルトリングさん自身、幼少期は家庭に恵まれなくて、今は暖かい家庭を築いているからこそ、こういうものを書きたいと思ったのかもしれませんね。幼少期の厳しかった現実からくる寂寥感やなにかが『松葉杖……』などの作品を生み出したとしたら、これはヘルトリングさんの今が生み出したのかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


となりのこども

岩瀬成子『となりのこども』
『となりのこども』
岩瀬成子/作 網中いづる/画
理論社
2004

アカシア:岩瀬さんは、すごく好きな作家なので、ファン心理で読んでしまいました。この文体が、私にはしっくりくるんですね。この作家特有の時間の切り取り方があって、それを読むと自分の子どものときのことを思いだします。ほかの作家では思い出さないのに。子どもの細かいところをよく観察しているからかな。子どもの姿を浮かび上がらせるのがうまいですねえ。短篇集なんだけど、読んでいくと、前に出た人があとで出てきたりして、同じ地域の話だとわかっておもしろかったし、子どものころは日常生活のすぐ向こうにファンタジーがあるという状態もよく書けています。あいうえお順に献立を考えるおばあちゃんとかおもしろい。「い」のつく料理を考えているうちに「家出」もかんがえついたのかな、とか。ただ、何歳くらいの子が主な読者層なんでしょう? 大人が読んで面白い作品かもしれませんね。

雨蛙:連作ということで、ひとつの地域の話として、つながりとまとまりがあるのが心地よかったですね。よくありそうなコミュニティの、よくいそうな子どもたちとおとなたちだと思ってしまう不思議な感覚がいい。「あたしは頭がヘンじゃありません」で、竹男くんが人形をもらう場面のように、この子いいなあと思ったり、「ねむの木の下で」で野良猫にえさをやるのがきっかけで友だちになったり、ほっとしたり共感できる場面が多いのもよかった。とても身近に感じながら読め、ついつい個人的な体験と比べてしまう。個人的に言えば、子どものころにすごした環境よりも、都会的な印象を受けた。たとえば、「夜の音」の少年たちとその親の関係とか。自分の体験をふりかえると、もっと大人と子どものつながりが強かったように思ったり。「二番目の子」で、女の子同士が遊んでいる、友達をとられてしまうのも、よく書けているなあと。しっくりくる話が多く読後感がよかった。

アサギ:「緑のカイ」という最初の話が好きになれなかったのだけれど、次からは全部おもしろかった。でも、私の子ども時代とオーバーラップするので、現代の子どもにわかるかな、という気はしました。「二番目の子」もリアリティがあってよかった。最後のほうに出てくるあずさちゃんの、へんにケチくさいところなんかも身に覚えがありましたね。ストーリーとしてぐいぐいっとくるのは、バイクの話。たいへんにいい作品だと思いました。

ハマグリ:最近この人の本を『アルマジロのしっぽ』『金色の象』と読んできたんだけど、『となりのこども』が一番面白かった。「緑のカイ」は、この年代の子どもが持っている未来への漠然とした不安とか、成長することへのとまどいを表現していると思う。第2話では、全く違う子どもたちが出てくるのに、最後にちょっと麻智のお母さんが登場し、第3話では、「あたし」って誰かと思ったらおばあさんで、第一話に出てきた竹男くんが出てきて、という構成もうまい。次はどんな話だろうという期待も出てくる。竹男くんは、おばあさんの家出をどこか面白がってる風で、あいうえお順の献立の「あ」という張り紙をさっさと自分で「い」に張り替えるとか、びん人形の世話をするとか、魅力的なキャラだと思った。この作品全体として、子どもって本当にいろんなことを考えているんだな、ということをよくわからせてくれる。児童文学によくある学校の話でもなく、家庭の話でもなく、子どもが一人でいるときに、子どもの頭の中にどんなことがあるのか。たとえば「夜の音」で、弟が、バイクの事件にかかわった兄のことを毎日とても心配しているけど、一方ではリコーダーで「庭の千草」がうまく吹けないということも描かれて、全く次元の違う悩みも、子どもの中では同一線上にある、といった感じをうまく書いていると思う。また、夕子と愛、麻智とあずさちゃんのように歳の離れた子との関係もうまく書けている。いろんな子どもが出てくるのだけれど、この子はこんなことを思いました、感じましたではなく、徹底的に子どもの行動で描いているところがいいですね。だから、今の子どもが読んでも共感するのでは。大人が楽しめる部分もあるけど、大人のいないところにいる子どもがよく書けているので、やはり子どもに読んでほしいな。

ケロ:挿絵の感じや、お話の内容から、すごく昔、というわけではないけど少し前の風景を描いているな、と感じました。自分の体験と重ね合わせて読むような感じ。今の中学生や高校生が、どんな感想を持って読むのかをきいてみたいです。気持ちとしては普遍なのだろうけれど。「子どものころ、こんなことなかった」みたいな話は、私は個人的にあまり好みではないんです。でも、確かに印象深いし、うまいなとは思います。短編連作というのは、本当に上手な人っていますよね。テーマでしっかりくくっている訳ではないけれど、全部を読むと、しっかりとしたある感情にみたされるという感じ。

:私も岩瀬成子さんファンなので、ファン心理で読みました。「緑のカイ」では、麻智や理沙がちょっと上の年令に感じられた。こういう気持ちになったよね、という気持ちのヒダをうまく切り取っていると思います。子どもは、大人がいないところで育つんだと、どっかで聞いたことがあるけど、これを読んでいて、その言葉を思い出しました。私も妹を邪魔にして、どうやってまこうかと苦心した思い出があって、感じがよくわかります。どの短編もおさまりがよくって気持ちの良い読後感でした。
*「あたしは頭が変では」のおばあさんの人形の名前など、細かいところがすごいとひとしきり盛り上がる。

カーコ:大体もう出尽くしていますが。読み進むうちに仕組みがわかって、ひきこまれていきました。居心地が悪くなるくらい、こういうことあった、あったという感じ。でも、ここに描かれている地域の人間関係は、どことなく一昔前と言う気がしました。今は、知らない人に声をかけられても話すなに始まって、親も学校も管理が厳しくなっているでしょう。ここの子どもたちは、もう少しゆるやか。スカートをはいてパンツを見せるというのも、今の子はしないんじゃないかしら。

アカシア:地方ではまだこういう情景があるんじゃないかな。著者も山口県に住んでいる人だし。

カーコ:そうかあ。ともかく、今の子が読んでどう思うかなあっていう気がしました。高校生の女の子くらいなら、おもしろがって読んでくれるかしら。理論社の本の中では、つくりからしても並製本の大衆路線と一線を画していますよね。とびっきり部数は出なくても、読む人は読んで大事にしてもらいたいという本かと思いました。

ハマグリ:最後の話でお母さんのケータイが出てくるから、そんなに昔の話じゃないのでは?

アサギ:おばあさんも別に昔のおばあさんではないし、昔の話のように感じるのは、全体の雰囲気だと思う。

:時代を超えた、人間の感情の普遍的な部分を書いてあるんじゃないかなって思います。

アサギ:年下のきょうだいを邪魔にするというのは、時代を超えてるわね。だからリアリティを失わない。

むう:今回のテーマを赤ちゃんにしようと思って日本の作家が書いた赤ちゃんものの読み物を探したのですが、見あたらなくて、枠を広げて兄弟も入れようということでこの本を選びました。みなさんがおっしゃったとおりで、この人は細部までとてもよく観察しているし、それを上手に表現していると思います。「あたしは頭がへんでは……」は、なんか高野文子の『絶対安全かみそり』に出てきた幼い女の子姿のおばあちゃんを彷彿とさせる感じで、それが妙に納得できて面白かったです。それぞれの作品に、不思議がすぐ隣にあってたゆたうようなところもあるあの年頃がうまくとらえられていて、こんなことがあったよね、という感じがするんですね。ゆらゆらっとしたところをじょうずに書いている。あと、どの作品も、終わり方が書き過ぎもせず、書き足りないこともなく、とてもうまいと思いました。

ハマグリ:「鹿」の終わり方はどうでした? 最後に出てくる白い鹿っていうのは、ちょっと唐突だと思わなかった?

アカシア:本としては、不思議な存在が出てくる「緑のカイ」で始まって、また最後に不思議な鹿が見えるという終わり方なんじゃないかな。フッと不思議なものが見えるような気がすることってあるじゃないですか。それと、二人の女の子の気持ちが「鹿」を同じように見るということで重なるところを書いているのでは?

ハマグリ:なるほど。さんざんいじわるな気持ちがふくれあがっていたのに、鹿を見るという一致した行為があったために、スッとまた仲良くなれたのね。「また遊ぼうね」って言葉が、素直に出てくるんだものね。それに対して、あずさちゃんが、「いいよ」って返事するのもなんかおかしいし、よく感じが出ている。

アカシア:子どもだけを乗せてる運転手さんが、「おたくら」と話しかけたり、「とうとうきゅうきゅう車がきましたっ」と小さな妹が言ったりするところなんか、定型をはずれたところにある真実をちゃんと書いている。p156から157にかけてのお母さんの心の変化も、短い描写でぴたっとおさえている。プロットばかりのネオファンタジーの対極にある作品ですよね。プロット偏重の作品ばかりを読んできた子どもには、逆にわからないかもしれませんね。こういうものをわかるのが大事なことなのに。アン・ファインも、こんなふうに訳してくれたら、よかったのにねえ。それにしても、ステレオタイプに甘んじる描写がないんですよね、この作家は。

ハマグリ:そう、ストーリー性がないから、あとで思い出そうとすると、こういう話というようには思い出せないのよ。でも、細部のリアリティや、味わいみたいのが残るの。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


ヒットラーのむすめ

ジャッキー・フレンチ『ヒットラーのむすめ』さくまゆみこ訳
『ヒットラーのむすめ』
ジャッキー・フレンチ/著 さくまゆみこ/訳
鈴木出版
2004

アサギ:戦争そのものを扱ったというよりも、親の誤りに子どもはどこまで責任があるか、子どもはどう身を処すべきかを扱った作品だと思う。この作品の一番の魅力は発想ですね。「もしヒットラーに子どもがいたら」という前提が斬新。ただ設定のうまさにたよりすぎている感じで、導入にいささか無理があって、お話の迫力が欠ける感じがしました。「デュフィ」とずっと呼んできたのが、最後「総統」に変わるところを、みなさんはどう解釈したのでしょうか。あくまでフィクションなんだけれど、最後のしめくくり、フィクションとノンフィクションの境目みたいに話を流し込んでいるのがうまい。

アカシア:「デュフィ」が最後に「総統」に変わるわけじゃなくて、最初から「デュフィは総統でした。そしてハイジのお父さんでした」(p52)って出てくるわよ。それにハイジは「デュフィ」と呼ぶけど、ほかの人はずっと「総統」と言ってる。

ハマグリ:すごいところをついている話だとびっくりしました。身近なところで言うと、オウムの子どもたちが学校に行くことを社会が拒否するという問題がありましたね。そういうことを大人が説明するのを避ける傾向があるところを、この本では正面きって取り組んでいる。最初のバス停の場面はそれほど面白くないが、お話が始まるとだんだんにのめりこんでいく。お話というものの持つ力をうまく使っていると思う。p60で、アンナがマークに「お父さんやお母さんが信じてることが正しいかどうか、きちんと考えてみたことあるの? 自分の親が考えてることなんだから正しいにちがいないって、思っちゃってるんじゃないの?」と言うところがあるけど、子どもの持つ既成概念を根本から考え直させる。児童文学には、大人の考えていることは正しいという前提で、それを伝えようとして書かれるものが多いけど、この本は新しい視点だと思います。

むう:今回の3冊の中では、一番引きつけられもし、面白かった。冒頭は、どこかぎくしゃくした感じで違和感がありました。唐突にヒットラーの娘の話が始まって、それにすぐにマークが引き込まれるというのが納得できなかったんです。ただ、最後まで読んだ後でもう一度ふり返ると、この女の子の唐突さというか、ぎくしゃくしたところに、すでにラストの秘密があるようでもあり、これでいいようにも思います。ヒットラーの娘という架空の存在を使って、戦争について書いている本だと思って読みました。その際、最高指導者の秘密の娘を中心に据えてその目でまわりを見ていることから、戦争の悲惨さが間接的にしか描かれずに進んでいきます。先ほど言われていたような迫力のなさは、このあたりに起因するのでしょうが、これはこれでいいと思います。後の方でハイジが戦争の悲惨さをまざまざと目にして、自分もそこに巻き込まれていくところはだんぜん迫力があり、読者としてはそこでぐっと引きつけられますけど、その直後に突然ぷつんと話が切れて、マークでなくとも「なんだ? どうなったんだ?」という気持ちにさせらる。このあたりもうまい。戦争を昔の話として書くのではなく、どうやって今とつなぐかを考えた末、こういう設定になったのでしょう。女の子の祖母が、ひょっとしたらヒットラーの秘密の娘だったのかもしれない、という形で終わらせたのは、見事です。後に余韻が残ります。10年後には使えない手法かもしれないけど……。感心しました。

カーコ:みなさんおっしゃっていますが、視点の面白い作品ですね。地の文、お話の部分の語り手と文体の変化もうまい。今回の他の2冊が、1冊は回想録、1冊が取材によるフィクションですよね。第二次世界大戦から半世紀が過ぎ、実体験として語ることができなくなってきた今、こういう書き方が出てくるんだなあと感心しました。マークと父親の会話ですが、日本の親子ならこういう理詰めの会話は不自然になってしまいますよね。でも、この作品は、親の側の微妙な揺れやためらいもとりこんで、うまく考えさせています。海外の作品の会話って、前はいかにも翻訳という感じで鼻についていたのですが、このごろ、こういうのも日本の子どもにとって大切かなと思うようになってきました。

愁童:いちばん感動したのは、児童文学を書く作者の姿勢。お話ごっこみたいな日常の遊びの中に、こういう問題を取りこんで、子供の目線で考えさせちゃうんなんて、すごいなと思った。子どもに向き合う作者の姿勢が他の2冊と基本的なところで違うように思いました。

きょん:『ガラスのうさぎ』と比べてうまいなと思いました。全く想像もつかない「戦争」の事実を、今の子どもたちに読ませるには、一歩離れたところで、子どもと同じスタンスで「戦争」を語る方が、わかりやすいのでしょう。「戦争体験」をそのまま語るという手法より、入りやすいし、一緒に考えていけるのだと思いました。読み始めは、アンナの雨の日の「お話ゲーム」というのが、すごく唐突で入りにくかったのですが、それはお話のための“舞台設定”だと思えば、すんなりと流れていきました。
マークが、自分に引きつけて考えていくところが、身近に感じる「わかりやすさ」なのだと思います。民族問題から、現代の家族の問題まで、上手に盛り込んでストーリーを展開しているところがうまいなあと。特に、「想像のお母さん」とヒットラーについて会話するところなど、身につまされるような感じがしました。本当のお母さんは、「忙しいんだから」ってちっとも取り合ってくれないのに、「お話を聞いてくれるお母さん」なら、こう言うかしら……って想像しているところ。
また、いろんな人(娘アンナや、家庭教師、またアンナのおばあちゃん……)の悲しみがじわじわとにじんでいて、「ヒットラーも一人の弱い人間だったのだ」という感じが伝わってきたように思いました。

もぷしー:戦争体験でもなくルポでもなく、離れた視点で書いています。戦争を生き抜くというのではなく、戦争に進んでいく心理を描いているんですね。気づかないうちに、いろいろなことがすべて結びついて、戦争という方向へ流されていってしまう。冒頭も最後も雨が降り続いていて、静かです。静かに静かに進んでいって、どっと大水になるという風景が描かれていますが、現実の問題とも重ねてあるのでしょうか。児童文学で描かれる親子の関係は、「大人の考え方が正しい」というのか、「大人のいないところで遊んでしまえ」というのか、どちらかになりがちです。その点この作品では、子どもが大人にストレートに問いかけている。お話の部分と現実の部分が交互に出てきて、しょっちゅう現実に引き戻されますが、無関係と思いがちな今の読者にはここが必要なのかもしれません。

アカシア:日本でもホロコーストものは割合たくさん出版されていますよね。でも、そればかりだと日本の子どもにとっては「よその国の過去」という枠の中の一つのファンタジーになってしまうのではないかと思ってたんです。この作品はその点が違うと思いました。時間的に過去のホロコーストと現在の子どもを結びつける工夫をしようとしている。それだけではなく、空間的にもポル・ポトとかアフリカの戦争を出してきて、「今だって同じようなことが行われているんじゃないか」という問いかけもしている。子どもの中には、撃ち合うのがかっこいいと思っているタイプもいるし、友だち関係を大事にするあまり自分の意見をもちにくくなっているタイプもいるし、知らないで流されちゃうタイプもいる。その中にマークみたいなのがいてちょっと待ってよと考えていく。その辺の描き方もリアルです。迫力に欠けるという意見がありましたけど、ハイジの数奇な運命や逃走だけに焦点を当てれば迫力は出るけど、今の子どもと結びつけることができない。作者に思いがあって、いろいろな工夫をしながら子どもに伝えようと一所懸命書いているのがわかります。

ハマグリ:やっぱり考えるきっかけになる本よね。

もぷしー:ちょっと待て、ちょっと待てと、立ち止まって考えさせるところがよかった。装丁もいいですね。

アサギ:去年ドイツで『ヒットラー』という映画が上映されたんですけど、製作中に人間ヒットラーを描くことの是非が問われて、すごい論争になったみたい。上映後ネオナチが力を得たという雑誌記事もあったしね。ゲッベルスの子どもたちが青酸カリを飲むシーンを見た子どもがかわいそうと泣いたとかで、物議をかもしたりもしたの。かといって、ヒットラーを特別残虐な異常な人物として片づけるのは、逆にすごく危険よね。すごくむずかしい問題。といっても、この本は前に言ったようにヒットラーを描いたわけではなく、親子の問題がテーマだと私は思ったんですけど。

アカシア:ヒットラーがもし歴史上希有な怪物だとしたら、今後同じことがくり返される危険性は少ない。でも普通の人間の部分もあるのにいろいろな条件が重なるとああいうことになるだとしたら、これからだって安心できない。だから私はヒットラーの人間的な側面を考えるのも大事だとは思うんです。でもこの本はヒットラーの人間性を描いているわけではないし、最後にはハイジが「ヒットラーの娘」という在り方を捨てて「奥深くに小さな種のようにひそんでいたハイジ自身」(p201)になっていく。そこがいいなあ、と私は思いました。

むう:イギリスの書評誌などを見ていると、学校で本を読んで、それを材料にディスカッションを行ったりもしているようですけど、それには、ある意味で物議を醸す、あるいは多様な感想が出てくるこのようなタイプの本が適していますね。そして、物議を醸す本の場合は、子どもに渡して読ませてそれでおしまいではなく、いろいろ話し合うことでもっと考えさせることも必要になります。そうしないと、読みっぱなしで深まらず、逆に危険です。日本でも本を素材として、そういうディスカッションが行われているんでしょうか?

愁童:日本の学校ではちゃんとしたディベートのやり方を教えてないよね。小さいときから自己主張させてディベートの訓練しないと、意見をぶつけ合うことなんてできない。

むう:ほんとうに子どもの心の深いところに響くディスカッションをするには、子どもたちの幅広い感想をあらかじめ予想したうえで、大人が間口を広く構えて、子どもをうまく刺激しながら議論を深めなければならないと思うけど、それには大人の側にかなりの力量が要求されますよね。そういう大人が、あまりいないということなのかもしれません。

愁童:帯の文句は気になった。これじゃ作者の意図に水をかけるようもの。ヒットラーの子どもだったら、戦争を止められたか? なんていう読み方の方に読者を引っ張ってほしくないよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


生きのびるために

デボラ・エリス『生きのびるために』
『生きのびるために』
デボラ・エリス/著 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2002

むう:あまりぱっとしない印象でした。私のようにアフガニスタンのことに関心はあってもそれほど詳しく知らない人間にとっては、はじめて知ることばかりなので、それに圧倒されて読み進めることができたんだけど、物語として面白いというタイプの本ではありませんでした。フィクションの場合、現実そのものが強烈ななかで、それに拮抗するどのような物語を作れるかが問われますよね。イラン映画に「少女の髪どめ」というのがありましたが、アフガン難民の少女が少年と偽って働き、その子が女であると見破った少年が恋心を抱くというもので物語としてよくできていました。別に恋でなくてもいいので、この本にももっと引きつける物語がほしかった。もうひとつ、主人公の母親の印象がバラバラで、継ぎ接ぎ細工のような妙な感じでよくわからなかった。

アカシア:『ガラスのうさぎ』は、主人公ががんばるばかりなのに対して、主人公の女の子とお姉さん、男の子など、日常が書かれている点に好感を持ちました。ただ、私は中村哲さんの本を読んでから、タリバン=悪という単純化はアメリカの攻撃=OKにつながるんだなあ、と思って警戒しているんですが、この本は、タリバンが悪いという北米の視点で書かれちゃってますね。それにp9には「ソ連軍が去っていくと、ソ連軍に銃をむけていた人びとは、まだその銃でなにかを撃ちつづけたいと思った。そこで、たがいに銃をむけて撃ちあいはじめた」とあり、p31には「アフガニスタン政府はいつの時代も、自分たちに反対する者を刑務所にほうりこむ」とありますが、歴史や背景を知らない日本の子どもたちは、アフガニスタン人は野蛮で、アフガニスタンは遅れた国なんだ、と思ってしまわないかと心配です。訳では、p23でお父さんが「われわれアフガン人は、イギリスの支配を望んだだろうか?」とマリアムにきくと、マリアムが「ノー!」と英語で答えるんですね。原文はカナダ人が書いているのでNo! かもしれませんが、日本語ならもっと別の表現にしないと、ここはまずいですね。確かにお母さん像は、私もわかりにくいと思いました。お父さんが刑務所に入れられたとわかっているのに、どうして通りの人にお父さんの写真を見せて歩くのかも疑問だし、最後も、お母さんのほうからパヴァーナを捜してるふうではないさないのは、どうしてなんでしょう?

ハマグリ:異文化世界の中で次から次へといろいろなことが起こるので、目を丸くしながら読んでしまうという感じだったけど、物語としては、今ひとつ物足りなかったわね。お母さん、お姉さんに人間的魅力が感じられません。怒られたり、いばられたりしても、主人公にとっては家族なので、どこかにもっと愛情を感じられる部分があってもいいと思うのに。子どもにどうやって戦争と平和のことを考えさせるかということを最近考えているんだけど、児童文学というのは主人公が子どもなので、戦争を扱った児童文学は、どうしたって被害者の立場で描かれることになってしまう。『ガラスのうさぎ』のような体験ものだと、なんて大変だったんだろう、なんてかわいそうなんだろう、だけで終わってしまっていいのか、という問題があるでしょ。「なぜ、そうなったのか」を考えるきっかけをつかむようなものが、これからの戦争児童文学には必要になってくるんじゃないかしら。それから、子どもにとっては決して楽しい話ではないので、それでも読んでおもしろかったと思えるような、物語としての価値もないといけないと思うの。

もぷしー:書名『生きのびるために』の「ために」に悲壮感を感じてしまいました。パヴァーナの生活と性格を考えると、「生きのびてやる」とまではいかなくても、もっとタイトルに生命力がほしかった。原書の書名のほうが力強いですよね。「未来は未知のまま、パヴァーナの前につづいていた」という終わり方は、まだ続いている感じがあって、この作品に合っています。お母さんの人物像がはっきりしないという感想は、私ももちました。最後にお母さんが作った雑誌が出てきますが、その中身などが書かれていれば、もっとはっきりしたのでは? 思ったより事態は悲惨だというのはわかりましたが、読者は私にはどうしようもない、という気持ちになってしまいます。戦争文学全体として大事だと思ったのは、悲惨、悲惨でなく、責任を感じながら強くなっていくという人の姿。それは伝える意義があるかと思いました。

きょん:現実に起きている話なのに、ドラマのように読んでしまいました。まさに戦争が、フィクションになっているようでした。『ヒットラーのむすめ』もそうでしたが、作中の主人公が、「ではどうしたらいいの?」って問いかけ、その答えを読者が考えながら、読み進めていくことで、戦争についてを考えるきっかけになるのだと思います。
パヴァーナに悲壮感がなく「生き抜く」強さが全面に感じられるので、『ガラスのうさぎ』より気持ちよく読めました。確かに9ページの「ソ連軍が去っていくと〜」の部分は、そんなに断定的に、人種差別的なことを言っていいのかしら……って、びっくりしました。あまりにもタリバンの描き方が乱暴だったし。
父親と一緒にゴザを広げていた市場の一角の建物の高い窓から、時折ものが投げおろされていますが、だれが、なんのために、ということがとても気になりました。これは、想像ですが、建物から出てこれない女の人が、「私は、まだ生きていますよ」というメッセージを送ってるんでしょうか。また、父親と一緒だった女の子が、一人でゴザを広げるようになり、男装しても、女の子だとわかったので、「がんばれ」って応援するつもりで、中からものを投げおろしていたんでしょうか。最後、パヴァーナが、この町を去るときには、もう市場には来られないので、建物の中の女性を励ますこともできないからと言って、花を植えるところからも「同じ女性として、会えないけれども、一方は、かげから姿を見て、一方は想像することで、励まし合っていた」のかもしれないなあと想像しました。すれ違いだけれど、お互いに思いは通じていたのか……と。でも、このシチュエーションは、読者が理解するには、結構難しいと思いました。もう少し、そこのところもわかりやすく描けていたら、よかったのですが。

愁童:異文化を見下して書いている感じがして、好感を持っては読めなかった。宗教的な日常生活の部分は書かれていないし、タリバン=悪、女性のブルカ=女性蔑視みたいな視点ばかりが目立ってしまう。実際には、ああいう圧制下にあっても、庶民レベルは結構しぶとく生きてるだろうし、そういう生活者同士の連帯や生活臭のある部分をきちんと書いてくれないと、アフガンの人は可哀想、イスラム原理主義は悪し、だけみたいな感じになって、日本の子どもには何だかよくわからないのではないかな。

アカシア:訳者あとがきには、この著者はパキスタンのアフガン難民キャンプを取材したと書いてありますよね。だけど、国外に逃げられたのはお金のある人だったと、中村哲さんは言ってました。じっさいにパキスタンの中に入ってみないと、わからないところもあるのかもしれませんね。

ハマグリ:窓のおばさんのことをもっとおもしろく書くといったことが、フィクションの面白さなのにね。事実を土台にしてはいても、もっと子どもが面白く読めるものにしてほしいな。

愁童:家族間の体温も感じられないね。

もぷしー:おねえさんは資本主義的社会のそこらにいそうな人ですね。お父さんも西洋風の理想のお父さん。そのせいか、悲惨な状況に西洋の家族が巻き込まれた、という印象を持ってしまいました。

カーコ:世界で起きているこういう現実を知らせることは大切だと思うんですけど、この本は、お話として読者を最後までひきつけていく吸引力があまり感じられませんでした。パヴァーナの気持ちで読んでいこうとするのだけれど、家族の描写がちぐはぐで、なかなか寄り添わせてもらえない。子どもにこのような現実を伝える書き方、子どもにわかる書き方とはどういうものだろうと考えさせられました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


ガラスのうさぎ

高木敏子『ガラスのうさぎ』
『ガラスのうさぎ』
高木敏子/著 (改訂新版 2000)
金の星社
1997

アサギ:この作品の世界は、私自身でさえ実感しにくいので子どもが実感するのはたいへんなことですね。ただノンフィクションの力に圧倒されました。体験記としては、お汁粉のところや着る物のところなど、状況が髣髴とさせられていい作品。父親の葬式を一人で出すなど、とても厳しい話だけど、主人公が明るくてけなげなのが、作品に希望と光を与えていると思いました。子どもが読むには、想像力の限界を超えてしまっているからとアニメにする気持ちはわかります。

ハマグリ:私もだいたい同じような感想。戦争体験者が子どもに語るということで、今の子どもたちにも読めると思う。主人公は本当にけなげで、応援したい気持ちになって、最後まで読ませる。これがフィクション仕立てで、『生きのびるために』なんて書名がついていたら嫌らしいけど、『ガラスのうさぎ』というタイトルも何のことかな、と思わせて、いいと思う。ただ、こういうものを子どもに読ませて、戦争はよくないと思いました、という感想文を書かせて終わるというのではなく、親や教師と話すとか、そのあとのフォローが必要になってくるのでは。

アカシア:私は昔読んだときは感動したんです。でも今もう一度読んでみると、この本以外にも「悲惨」と「がんばる」がセットになって「けなげ」をアピールする本がほかにもいっぱいあるなあ、とそっちに目がいってしまった。それが課題図書になったりしていることに気づいて、これでいいのかなあ、と思い始めてます。今の子どもは「この子はかわいそうだった」と思い、その中のよい子たちは「戦争はやめましょう」と作文に書いたりするのかもしれないけど、それでどうなるんですかね? がんばりたくない子どもは、どうするんでしょうね?

アサギ:最後の憲法第9条のところで、これだけのことがあったからこそ平和がいいものだということが、子どもたちにも伝わるんじゃないの。

ハマグリ:体験してきた人は、こういうスタンスでしか語れないのでは。

アカシア:この手の戦争児童文学が出続けることに対して、清水眞砂子さんが「子どもは食傷している」と言ってましたよね。それに、今の子にとっては、ファンタジーと同じレベルの非現実的な物語になってしまう。

むう:この時代そのものが今の子にとってまったく縁のない別世界にしか見えないという意味では、やはり今の子にとってはハードルの高い本だと思います。家族のありようや言葉の使いよう、生活習慣等々、すべてが子どもたちの身の回りとかけ離れていて、おいそれとは共感できないかもしれません。しかも、この主人公は一種の優等生で、へんてこな人物が出てこない。結果、じつにクラシックな、いかにも児童文学ですという感じの作品になっている。むろんこの本の力は、作者が事実を書いている、その中をかいくぐってきたということにあるのであって、その意味で、いもしない人物を登場させるわけにいかないのはわかります。また、このような悲惨な事実を子どもたちにきちんと伝えたいという作者の気持ちは重い。しかし、戦争を書いた児童文学がすべてこの本のようなトーンの作品ばかりでいいとも思えないんです。仮にこれがフィクションであれば、いい加減な人間や奇妙な人間、子どもたちの身の回りにいそうな人間を登場させることによって、物語を子どもたちに身近なものにできるはずですよね。この本自体は立派な本だけど、その後の日本の戦争を扱った児童文学が、フィクションであるにもかかわらず、この本をなぞる「ノンフィクションのまがい物」の範疇を出られていないところが問題なのでは? 先ほどのアカシアさんの言葉を借りれば、「ファンタジーで終わらない作品」がない。その時代を生きなかった人間だからこそ書けるフィクションとしての力を持った作品で、戦争と現代の子どもをつなげてほしい。

カーコ:『生きのびるために』と比べると、お話に力があるのを感じました。『ハッピーバースデー』(青木和雄著/金の星社)は、小・中学生からずいぶん支持されているようですが、あの作品を読むような子なら、同じように読めるのではないでしょうか。今回私は2000年刊の新版で読みました。章ごとに語句の解説があったりルビが多くなっていたり、今の子どもにも手渡したいということだなと思います。現代の日本の子どもの本だと、『夏の庭』(湯本香樹実著/徳間書店)にも、おじいさんが嵐の夜、三人の男の子に戦争のときのことを話すというシーンが出てきますよね。あれなどは、全編戦争ものでなくても、そういうことを今の子どもに伝えたいという現代の作家のスタンスかなと思います。

愁童:昔、読んだときも、今回改めて読んでみても、それほど共感は湧かなかった。数ある大人の戦争体験記の一つという感じで、「ガラスのうさぎ」という題名が生きてくる内容じゃないという印象。今の子に読ませる戦争ものとしては、もう無理なのでは? この作品の時代には日韓併合の影響で、小学校にも朝鮮半島から来た家庭の子が何人かはいて、いじめられたりするケースもあったけど、そういうことは書かれてないし、ひたすら小学生時代の作者が、いかにけなげに戦時中の苦労を乗り越えて生きてきたかという話に終始するので、児童文学作品として読まされると、何となく抵抗を感じてしまう面もある。

アカシア:戦争では日本は加害者でもあったわけでしょう。それなのに、日本の作家は被害者の視点ばかりを強調して、アジアの被害者の人たちの視点はほとんどない。ヨーロッパを舞台にしたものは、被害者のユダヤ人の証言や物語が日本でもたくさん出るのにね。いろいろな本が出て、これもその中の一冊というなら、いちばんいいのに。

ハマグリ:70年代に日本の戦争児童文学がたくさん出たけど、疎開の苦労や、被害者としての自分たちを語るものが多かったわね。これからは、もう一歩その先を行くものを読んでほしい。

きょん:あまりに悲壮感があって、べたべたの戦争物語なのですが、思わずかわいそうになって涙ぐんでしまい、嫌になりました。それだけ、「体験」を語ると言うことが「強い」ということなのでしょうか。それとも、これもテレビドラマに涙するのと同じように、ひとつのフィクションなのでしょうか。昔読んだときは、タイトルに出てきた「ガラスのうさぎ」は、掘り出した後どうなったんだろうと思ったことをおぼえています。
今の子どもが、理解できないと言いますが、どこがわからないのか、不思議です。「戦争」は遠い世界のことで、よくわからないのでしょうが、「肉親を失う悲しみ」は、時代を超えて共通だと思います。親が目の前で死んでしまう、兄弟が行方不明になる……自分の身に置き換えて考えればそんなにわからない話ではないと思います。それが、わからないとなると、今の子どもたちが、自分とは、違う状況にある他の人の立場になってものを考えられなくなっている危機的な状況なのかもしれません。それに、敏子さんは、すごくがんばりやさんですが、すぐあきらめてしまうような今の子には、「こんなにがんばる敏子さん」を理解できないのかもしれませんね。

もぷしー:私は母が戦後生まれなんです。「がんばる像」についてですが、『アタックNO.1』は茶化していいけれど、この作品には茶化してはいけないというのを子どもの読者にわからせる気迫がある。子どもが自分で手にとる本ではないなので、課題図書という形でなくても、子どもに手渡せば伝わるのではないでしょうか。

アカシア:戦争はいいか悪いか、と問えば、今の子どもだって「悪い」という子が圧倒的に多いと思うんです。でも、戦争って、したくないのにいつの間にか巻き込まれてしまうんですよね。その辺の視点がないと、「戦争は悪い。被害者は悲惨」ということを伝えれば戦争はストップできるんじゃないか、と勘違いしてしまう。

アサギ:だいぶ前に、子どもを白血病で亡くした友人がいて、その手の本を読んだことがあるの。同じように子どもを亡くしたお母さんの手記というのを、当時、滂沱の涙を流して読んだのよ。なのに、あとになって思い出すのは、同じ時期に読んだ津島佑子の『夢の記録』(文芸春秋)っていう短篇集なの。場合によってはフィクションのほうが、読者の胸の奥に届くこともあるのかと、考えさせられたのを今思い出したわ。この『ガラスのうさぎ』にはノンフィクションならではの強さを感じましたが、もし戦争をいまの子ども達の日常につなげて描くフィクションがあれば、それはそれでとてもいいことだと思うのね。ノンフィクションでは、どうしても事実に縛られるし、書ける人が限られてしまうから。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


バラ色の怪物

笹生陽子『バラ色の怪物』
『バラ色の怪物』
笹生陽子/著
講談社
2004.07

ブラックペッパー:とても上手に書けている、と思いました。すっと読めて。でも、上手に書けすぎているという気持ちもあります。遠藤が急に強くなるというのが鮮やかではあるけれど、急すぎた。あと、吉川がよくわからなくて。彼女はなんなんでしょうね? 『スターガール』(ジェリー・スピネッリ著 千葉茂樹訳 理論社)のような、反逆児のような。こんな子いるのかな?

:私は、『ぼくは悪党になりたい』(笹生陽子著 角川書店)の方が、得体の知れない人がいなくて、読みやすかった。この本も、主人公の男の子が家の手伝いをするし、母親に心配かけまいと健気だし。そんな子がネットオークションでカードを売り買いしたり、夜の歓楽街に出掛けたり、本人に自覚の無いままに事件を起こしたり、巻き込まれたりする、中学生くらいの子のこわさが実感としてありましたね。急にあんなに遠藤が強くなるところには、私も違和感をもちました。

むう:私はかなり好きです。『きのう、火星に行った。』(講談社)以来、笹生さんの書き方が好きなのかもしれません。現在の世相をうまくとりこみながら、順調に育ってきたバイオエリートみたいな子がうまく出ている。一歩ずれたところに自分を置いている感じが納得できる。主人公が母親と口ゲンカになるところも、この年代特有の人との接しにくさがよく書けている。暴力におぼれていくところも、私は違和感がなかった。ただ、最後のおっかけっこの場面で、突然劇画調になったのがちょっと。全体としては好きですね。

ハマグリ:文章がうまいと思うし、すらすらっと読める本でした。でもこの主人公のような、一見さめているみたいなんだけど実は結構単純という主人公って、あまりおもしろみがない。こういう子は確かにいるとは思うんだけど、個人的には好みではありません。『楽園のつくりかた』(笹生陽子著 講談社)の主人公の方が好きですね。読んでいるときはすっと読めるけど、作品としてはなんとなく後味が悪い。三上なんかの描き方もそうだし、吉川は、最初の出方が印象的なのに、中途半端。人は見かけによらない、別の面を持っているという程度で終わっているのが、とても物足りなかったですね。

きょん:ずいぶん前に読んだんです。全体としてはすらっと読めるけど、私もあまり好きじゃなかった。なんとなく中途半端な感じがしました。子どもの中に潜む“怪物”はちょっと理解できたし、それが、時としてむくむくと頭をもたげて暴れ出し、心を乗っ取る感じは、よく描けているのだけど、結局、最後には怪物の正体を見つけられたのか、それを追い払うことはできたのか、疑問が残ります。吉川は、よくわからなかったんですよね。やはり最後には、飛び降りたのでしょうか……。吉川が、「ふつーの世界」の住人にこづき回され、嫌われながら、なぜ平然と変人ごっこを続けていたのかよくわからなかったんです。せっかくおもしろいキャラなのに、なんでこうなったのかが漠然としすぎていて。問題提起を投げつけるだけで、本の中で自己完結できなくて、そのまま終わってしまったよう。進学私立校に通うエリート中学生の三上の犯罪も、なんだか中途半端で、それでどうなったんでしょう? YA文学で思春期の子どもたちが読者だと考えると、問題を投げつけるだけでも、共感できるのでしょうか? あえて、そこに生き方とか、指標になるようなものを提示しなくても、いいのでしょうか? 中途半端な書き方が、この中途半端な年代には、いいのかしら?

愁童:最初は3冊のなかでいちばん面白いかなと思ったんだけど、『きのう、火星に行った。』のほうが面白かった。中学生あたりに読ませるという意識が過剰なんじゃないかという気がしました。吉川の奇矯な行動を出してきて、読者の関心をパッと引きつける冒頭の書き出しなんかうまいなって思ったんだけど、その後、ほとんど吉川が書き込まれてこないのが残念です。最後の方で、青いつなぎを着た男を裏と定義し、それに吉川を重ねて遠藤が納得するシーンには違和感が残りました。だって、青いつなぎの男は、読者からは裏には見えない。外見のハンデにもめげずに、倉庫で普通に仕事をしている設定になっていて、むしろあっぱれなぐらい表なんじゃないですか。吉川を、こんな風に説明するんじゃなくて、ストーリー展開の中で上手く書き込んでくれれば、遠藤との交流を通じて作品の奥行きが出てきただろうに、惜しいなって思いました。

ブラックペッパー:吉川がああなったのは、塾に一緒に行っていた子たちから仲間はずれにされたのが原因なんですよね。

愁童:でも、その描写はないわけで。

ブラックペッパー:そこがずっと謎だったのが、あとから明かされて「真相解明!」っていうつくりなんですよね。

愁童:文章で書くならば、グレーゾーンも書かないと、立体感が出てこないじゃないですか。

ブラックペッパー:私は、吉川が、派手なことをしたいのに温室によく来てるということがピンとこなかったですね。お花に詳しかったり。

むう:吉川やつなぎの男の人っていうのは、多数派と少数派の対比なのかな。マジョリティーとマイノリティーみたいな。

愁童:それは裏とはちがうんじゃない。青いつなぎの男は少数派かもしれないけど、裏じゃないと思う。

アカシア:中学生ってすごく難しい年齢ですよね。社会からは疎外されたところにいて、でもあれこれ思い悩むし感受性も強い。だから常識の物差しでは量ることができない吉川みたいな女の子だって出てくるのはわかるんです。ただ最初の出だしを読んだときは純粋エンターテイメントのドタバタなのかな、と思ったんだけど、読んでいったらそうでもなくて、どっちつかずになっていた。私も『ぼくらのサイテーの夏』(講談社)や『きのう、火星に行った。』のほうが、心理の揺れがきちんと描かれていて作品としての質は上じゃないかと思いました。
今日は出席できないトチさんから、メモを預かっているので、みなさんにもお伝えします。

トチ(メモ):三上くんの正体がなんなのか知りたくて、最後まで読みました。途中から「光クラブ」にヒントを得ているんだなと分かりましたが、歳のせいでしょうね(リアルタイムで知っているわけではありません。念のため)当時より今のほうがずっとこういう事件(というか犯罪)が起こりそうな時代ですし、題材の選びかたがなかなか鋭いし、おもしろいと思いました。というわけで、三上くんがらみのストーリーは、おもしろかったし、遠藤の気持ちもきめこまかく、よく描かれていると思いました。ウサギのような宇崎くんもおもしろい。
でも、三上くんのストーリーと、吉川や、頭にけがをした青いつなぎの若者の話がどうからんでいるのか、わかりませんでした。よっぽどオツムが悪いのでしょうか? 一見バラ色の怪物のような吉川や、けがのせいで通行人に気味悪く思われている男の人のほうが怪物ではなく、三上くんのような優等生のほうが怪物だといいたいのでしょうか?でも、それじゃあまりにも単純すぎて……どなたか教えてください。
青いつなぎの若者の話は、分からないを通りこして、憤りすらおぼえました。94ページの「『魔界じゃ姿が醜いやつほど強いってことなんすかね』……遠藤はふとつぶやいた。青いつなぎの若者のことをぼんやりと思い出しながら。この世のものとは思えないほど醜く、そして強い者」とか、86ページあたりの若者をことさら英雄視した吉川の言葉とか……「もはや存在そのものがリアルの域を超えているね」なんて言われたい人間がいるんでしょうか?

カーコ:今回選書するときに、中学生が主人公になっているものを選ぼうとしたんです。今の中学生にどんな本が届いているのかが、少しでも浮かび上がればいいと思って。笹生さんは、中学生によく読まれている作家だし、話題にもなっていたのでこの本を入れました。でも、これは読後感がよくありませんでした。衝動を抑えられない感じがうまく出ているので、中学生が読んだら、ほかにもこういう子がいるのかと思うかもしれないけれど、もっと明るいものを見せてほしい。また、保護者の立場で読むと、おそろしいですよね。親の知らないところで、子どもがこんなことをしているなんて。東京都では昨年条例が出て、中学生の夜間外出は禁止になり、違反すると親は罰金を払わなければならなくなっています。だから、現在の東京都ではこの物語の設定はリアルじゃないですね。

紙魚:笹生さんのほかの作品にもいえることですが、冒頭の吉川の登場のしかたや、それぞれのキャラクター、物語の設定にきれ味があって、すっと鮮やかな印象が残ります。キャラクターのデフォルメがうまいので、多少、心情描写がうすくても、どんどん読み進めていけちゃう。ただ、その鮮やかさが切れ切れとしていて、なかなか一筋のものにつながっていかない。だから、読んでいるときはおもしろく感じられるのだけれど、吉川とか、つなぎの男とか、この物語にどう機能していたのかがつかみにくい。

すあま:同じ時期に出版された『サンネンイチゴ』(笹生陽子著 理論社)を読んだところなのですが、どちらも中学生のとんがった女の子が出てくるので、いっそのこと同じ子のちがう話(シリーズもの)でもいいような気がしました(他の参加者から「出版社がちがうから無理」という声あり)。読んでいる間はおもしろかったんだけど、読み終わってみるとそうでもなかった。吉川さんは、疎外されたのが原因で変わった行動をする子になったように描 かれていますけど、もともとの性格なのか、実はとても気持ちが弱いんだけど時々爆発するのか、わかりませんでした。見た目と行動の奇抜さだけでは、キャラクターとして弱いので、もう少ししっかり描いてほしかったな。青いつなぎの人との関わりも、ハンカチ拾うだけで終わっているのが物足りませんでした。

アカシア:私は、ハンカチ落とすなよ、と思っちゃった。月並みすぎるじゃないですか。

むう:吉川っていうのは、おそらく主人公が変化するための触媒なんでしょうね。だから、それほど主人公との関係が濃くならなくてもいい。ほどほどの関係で推移するんだけれど、それでいてまったく軽い存在ではないわけで、主人公はちょこちょこと刺激を受けていて、それがあるからこそ三上君との世界で自分の今まで知らなかったところを発見する、という流れなんじゃないかな。さらに、吉川にとっては、つなぎの男の人が触媒みたいな存在だったんじゃないかな。つなぎの男の人との深い交わりがあったからではなく、自分の抱えている問題があって、そこに男の人を外側から見ていて自分なりに受けた刺激が加わってはじめて今の吉川が生まれたと、そういう構造なんじゃないかな。だから、吉川やつなぎの男の人はあまりいろいろと書き込まれていなくて謎が多いままなんじゃないかな。つなぎの男の人の扱いにはかなり問題ありだと思うけど。

愁童:確かに触媒って言われるとわかりやすいね。でも、吉川が触媒で、青いつなぎの男が吉川の触媒っていうのは、すごく分かりにくい。吉川が触媒なら、吉川をもっと書き込んでほしかったな。

すあま:吉川は、あこがれの人を遠藤に見せたかったんですよね。

愁童:隔靴掻痒という感じがするよね。本当の触媒としての共感が生まれない。

ブラックペッパー:うー、でも、吉川は自分を見せないようにしている子だからね。

愁童:読者は、吉川への魅力に引きずられて読んでいる部分があるのに、最後は、表・裏みたいな簡単な図式で終わってしまうのは残念だったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


ルビーの谷

シャロン・クリーチ『ルビーの谷』
『ルビーの谷』
シャロン・クリーチ/著 赤尾秀子/訳
早川書房
2004.07

紙魚:いちばん馴染めなかったのは、このふたごの年齢。13歳とありますが、会話や行動からはとても13歳とは思えない。だから、この子たちの像をつくりあげられないまま読むのがしんどかったです。会話もおかしいですよね。ほかにも、いろんな疑問が残ります。後半、孤児院の院長夫婦がやっきになって買い物する描写が続くところなんかは、コミカルに見せたいのか、それぐらいひどい人なんだという深刻さを出したいのか、どちらなんでしょう? Zが最後どうなったのかも気になります。それから、老夫婦にとっての旅の意義とはなんだったのか? 前半部分でそれがちゃんと伝わらないと、夫婦の生活実感とか、二人がそれぞれ子どもをつれて旅に出る意味など、うすっぺらいものになっていまいます。文章からは伝わってこないけど、実際のところはこうなんじゃないかと思って読む感じでした。

カーコ:確かに、私もずっとちぐはぐな感じがあり、これは原作の問題なのか翻訳の問題なのかと思いながら読み進んだところがあります。ふたごの視点と老夫婦の視点を使うことで、思っているけれど言わないこと、思っているけど伝わらないことなどが、鮮明になっていて、そこはうまいと思いました。自然に年長者の思いが、読者に伝わってきますし。会話が多く、本来は読みやすい作品のはずなので、子どもの本としての目配りがもっとほしかったです。ルビーの谷の美しさなど、心にしみる部分があるだけにもったいない。また、『ホエール・トーク』(クリス クラッチャー著 金原瑞人訳 青山出版社)を読んだときも感じたことだけど、外国のもののほうが、大人が断然くっきりしています。日本の大人は、子どもたちに大人の文化を見せていないのかな、と考えさせられました。

アカシア:私も、ダラスとフロリダは、読んでいてもっと小さい子たちかと思いましたね。でも絵を見るともっと大きいのよね。老夫婦の気持ちや人柄はよくわかるんだけど、ふたごの描写は、ステレオタイプだと思いました。カーネギー賞作品なんだから本当はもっといい話なんだけど、翻訳がそれを伝えていないのかしら? 私も、孤児院の院長夫妻には全くリアリティが感じられなくて、それが作品全体のバランスを崩していると思いましたね。ここでまたトチさんの、メモを紹介します。

トチ:(メモ):原書のタイトル(Ruby Holler)を見たときに「なにこれ?」と思ったのですが、holler は hollow(窪地)の方言なんですね。大声で叫ぶ holler と窪地のhollerをかけている、なかなかしゃれたタイトルです。それはともかく、『ロラおばちゃんがやってきた』(2005年2月)のときのハマグリさんの台詞を借りれば「いい人たちがでてくる、いいお話で、感動しなければと思って読みました」(本当は、いい人ばかりではないんですけどね)。1章の「銀色の鳥」で、この子達はいずれ銀色の鳥に導かれるようにして、温かい家庭に引き取られるのだろうなと思いましたが、たちまち3章で、長い道筋の末にたどりつくのだろうと思っていた温かい家庭の持ち主があらわれたので、ちょっとびっくりしました。後はもう、そうなるだろうなと思うような道筋で進んでいき、「それからはみんな、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」で終わる……現代のフェアリーテールですね。
アマゾンのreviewを読むと、フロリダの言葉がショッキングでそれが面白いということですが、残念ながら翻訳版ではそれが感じられません。putrid とフロリダが口走るところがとってもおもしろいとアマゾンでは子どもの読者が何人か書いていますが、これを「むかむかする」と訳しているのでしょうか? フロリダの言葉もダラスのそれも、今どきの大人よりも上品で、古めかしい。140pのフロリダの言葉に「わたしのオツムがいかれたんじゃなきゃ、これはベーコンよ……」とあるけれど、この子が「オツム」なんて言うかなあ?
ルビーの谷の夫婦がなんで別々に冒険旅行にでかけるのかなと最初は思ったのですが、仲のよい夫婦なので永遠の別れのリハーサルなのかなと思い、そこはちょっとほろっとしました。深読みでしょうか? それから、フロリダとダラスを夏の間だけ引き取ったのは、旅の道連れにするのに、若くて元気がいいからということなのでしょうか? ちょっと勝手なのではと思いましたが、どうなんでしょう? 自分たちにとっても便利だし、孤児たちも喜ぶだろうしということなのかしら? そのへんのところがよく分かりませんでした。
また、トレピッド院長夫妻があまりにも漫画的に描かれていて(特に買い物のところなど)、軽すぎるかなと思いました。Zがふたごの実の父親だったというところもねえ。フェアリーテールとして読めばオーケーなのかもしれないけど。
これ、本当にカーネギーを取ったんでしょうか? 好き嫌いはあるにしても『ふたつの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ著 原田勝訳 徳間書店)などとくらべてあまりにも小粒なのでは?

愁童:3冊の中でいちばん読みやすいんだけど、主人公がもっと幼いと思って読んだものだから、孤児物語定番ものみたいな感じがしました。あちこちで似たような話を読んだなという感じ。Zの書き方にもう一工夫あれば、もっとおもしろくなったのでは?

きょん:私も主人公が13歳とは思えなかった。6歳くらいの印象ですよね。ふたごと老夫婦と、2つの視点で書かれた、それぞれのエピソードが、ばらばらに入っているのだけれど、それが、うまくかみあわさっていて、パズルのピースをはめ込んでいくように世界ができていくのはおもしろい。このストーリーの中では、老夫婦のそれぞれの旅は、あんまり意味がなかったんだと思いました。作者にとっては、老夫婦とふたごが、旅に出るまでの複雑な心の揺れや迷いを描きたかったのではないでしょうか。行かない方がいいんじゃないかとか、ふたごと老夫婦のそれぞれが離ればなれになるのは初めてだから大丈夫かとか……。はじめは、子どもたちは、旅に行くつもりなんか全然なくて、夜汽車で逃げ出そうと計画しているのに、旅に行って帰ってきてから夜汽車に乗るのでもいいか……とか。心の揺れと迷いがよく描かれていておもしろかった。そして、子どもたちが心をひらいて旅についていくというのは、よく伝わってきました。
子どもたちは、もしかしたら、愛情をかけられずに施設で育ったため、粗暴で感情が未成熟で幼く感じるのかもしれませんね。老夫婦に出会うことによって、人間的な心をとりもどして、心も人間としても成長していくのかもしれない。Zは、重要な脇役だけど、最後はどうなるのか、ちょっと中途半端な伏線だった感じがします。
最後に、フロリダが、はっきりと「行きたくないここにいたい。こんなにやさしくしてもらったの初めてだもん」っていうところが、本当に印象的だった。今までは、「いたいかもしれない」「今までとは違うかもしれない」と予感していたけど、はっきりと言葉にしていない、それは、言葉にしてしまうことで、裏切られるのが怖いからで、今まで裏切られてばかりいたから、信じてはいけないと思っていたから……という、その感じが、痛々しいほど伝わってきました。

ブラックペッパー:読み終わって、まるくおさまって、いい気分でした。私は年齢にはひっかからなかったけれど、時代はいつなのかと気になった。この状況って、現代にありうるのかと。だって、こんなお仕置きしたりする孤児院、経営者は逮捕されちゃわない? これはいつの時代の話なんですかね?

:「リモコン」って出てくるから、現代ですね。

ブラックペッパー:今なのね、やっぱり。で、あんまりリアリティを求めずに読んだから、女の子は元気がよくて、男の子はぼんやりしてて、いろいろあったけど最後は「よかったね」という感じ。Zがお父さんだったというのは、ちょっと。でも、お父さんだとは名乗ってないないので、まあ、それもいいかなと思いました。

アカシア:子どもたちを孤児院に帰すわけにはいかないし、老夫婦がひきとるわけにもいかないから、こういう結末にしたのかしら? そのためにはZが必要だったのかも。Zは近くに住んでいるから、子どもたちはまたルビーの谷にもしょっちゅう来られるわけだし。

ブラックペッパー:私は、老夫婦がひきとって、Zがちょくちょく来るという結末になるのかなと思ってました。

:この本と前後して読んだ『ダストビン・ベイビー』(ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社)も捨て子になって里親や施設を転々とし、辛い子ども時代を送ったため、大人を信用できなくなった子どもが思春期に自立していく話なんですが、そっちは過酷な状況がさほどリアルに伝わらなくて、妙にほのぼのとしていました。孤児院の院長夫妻は、奥さんがフロリダを我が子として育てようとしてうまくいかなかった挫折感がコンプレックスになっているせいで、ふたごが神経に触ってしまうんでしょうか? Z・謎の男ですが、推理小説好きとしては、ZはZでいいけれど、老夫婦にはZと呼ばせず、名前(ボブでもジョンでも)で登場して、後で同一人物だったって方がおもしろかったのに。Zに石を探させるところは、リアリティを通り越して滑稽でしたね。

ブラックペッパー:私は、最初の登場人物紹介に「謎の男」と書いてほしくなかった。

愁童:そうだよね。ふだんから老夫婦の家に出入りしているのに、老夫婦まで「Z」と呼んでいるのはリアリティないよね。

:それから、フロリダの「むかむかする」という表現が気になって数えてみたら、30ページまでに8回位使っているんです。その後、フロリダとティラーがお互いを理解し近づいていく流れの山場でティラーが「むかむかするっていうのはいい言葉だな」と言うので、これは、本当はキーワードなんでしょうね。なんかぴったりこなかったんですけど。

すあま:今の言葉でいえば、「むかつく」とか「きもい」とか、若い子がよく使う言葉に当たるのかな?

アカシア:これが、トチさんの言ってたputridなのかも。

むう:私は、ずいぶん古典的な本だなあと思いました。ほとんどみなさんがおっしゃったことで尽きているんですけれど、院長のショッピングのエピソードや、Zの扱いがまるで宙ぶらりんなところは持て余しました。途中で院長夫人がふたごをひきとろうと考えるところで、「おっと、ここですこし心の綾などが見られるのかな?」と思ったら、そうでもなく続いていってしまうし、なんだかとっても変。老夫婦の設定には好感がもてたし、ふたごの揺れる気持ちとか、何度もドジをして、そのたびにすくみ上がりながら少しずつ心を開いていくところなんかはいいなあと思いました。何かをしていくなか、何もしないでただいっしょにいるなかで絆が培われていく感じがよく出ていると思いましたし、老人二人とふたごとの心の変化だけでも十分だった気がするんです。ふたごが家出しようとするんだけれど、一方で老夫婦に見つけてほしいと思っているあたりもリアルでよかった。でも、それと院長夫妻やZの扱いのお手軽さがなんともアンバランスで……。カーネギー賞は、どちらかというと子どもが読めるのかなというくらい文学性が高かったりする本に与えられる賞だと思っていたので、この本がカーネギー賞だというのはかなり意外でしたね。

ハマグリ:この本の印象は、はっきりいって退屈。早く終わらないかなと思いながら読みました。目次を見ると、66もの章に細かく分かれている。中には1ページしかない章もあり、それぞれに最後をうまい切り口でパツンと切ったりして、しゃれた構成にしている。でも、その切り方がどういう意味なのかよくわからないものもあって、よさが十分に味わえませんでした。また、老夫婦とふたごのイメージと、実際にくりひろげられている会話やキャラクターと、この本の挿絵のイメージがばらばらで、かみあわない感じがしました。また、院長夫妻は最初は、昔からよくある意地悪な孤児院の院長のような雰囲気だったのに、途中から突然、滑稽な買い物風景が出てきたり、おもちゃの宝石にだまされたりするなど、急にマンガみたいになって、一体どうしたのかと思いました。Zが親だったというオチも、とってつけたようでいただけません。

カーコ:院長夫婦をマンガのキャラクターみたいにして、読みやすくしようとしたのかしら?

ハマグリ:文脈からいっても、院長夫妻が単なるおバカな人たちになるのは、ありえないでしょう。トチさんのいうように、現代のフェアリーテイルとして読めばいいのかしらね。

すあま:私もおもしろくなかった。カーネギー賞だからおもしろいはずなのにと思ったんだけど、どうしておもしろくないんでしょう? 話に乗っていくことができないのは、原作のせいなのか訳のせいなのか、どっちなんでしょう? とんちんかんなことをしたりするのを、もうちょっと楽しみたいんだけど、言葉づかいのせいか入り込めませんでした。原作はもっと違うものなのではという疑念がわきました。院長たちのチャチな犯罪は、リンドグレンやケストナーの昔の作品に出てくる安っぽい悪者みたいですが、かえって逆効果。話の本筋と別のところでハラハラドキドキさせようとしたのかな?

ブラックペッパー:でもあれがないと、Zが活躍できないんですよ。

すあま:老夫婦が本当の子どもたちに2人ひきとることを反対されているけれど、その先どうなるかが書いていないので、何となく腑に落ちないまま終わってし まう。シャロン・クリーチの他の作品は読んでないんだけど、ニューベリー賞も受賞している作家だし、本当はおもしろいのでは?

ハマグリ:筋も腑に落ちないとすれば、訳のせいだけではないわよね。

すあま:ふたごが、よかれと思ってやるのに老夫婦の大切なものを壊しちゃうなんていうすれ違いも、もっとおもしろく訳してほしかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


スカイラー通り19番地

カニグズバーグ『スカイラー通り19番地』
『スカイラー通り19番地』
E.L.カニグズバーグ/著 金原瑞人/訳
岩波書店
2004.11

すあま:カニグズバーグの新作ということで、ある程度、期待をもって読み始めました。前半はおもしろかったんだけど、後半の塔をめぐる争いになってから、あんまりおもしろくなくなってしまいました。主人公をキャンプでいじめていた子たちが最後に出てくるけど、そんな簡単に関係が修復されてしまうものなんでしょうかね?

ハマグリ:私も期待して読んだんですけどね。カニグズバーグはとにかく周到に考えて、最初から最後まできちんと作る人なんだなということはわかったけど、実はあまり楽しめなかった。この主人公みたいな、ちょっと大人びた女の子を書くのはうまいと思う。二人のおじさんの雰囲気も、他の作品にない感じで、ユニークでよかった。犬のタルトゥーフォも脇役としてとても効いている。でも、よくわからないところも多かったし、ピンとこないところがあった。でもカニグズバーグなんだからきっとおもしろいに違いないという思いがあって、それに邪魔されてしまったかもしれない。やっぱり、私は初期の作品のほうが好きです。

むう:私もかなり期待して読んだんですが、読み終わって、作者は何書きたかったんだろうと思っちゃいました。当然ながら、文章はうまい人だし、主人公や二人のおじさんはとても魅力的なんですけどね。そもそもカニグズバーグは繊細で自立心の強いタイプの子を書くのがとても上手で、ここでも「わたしたち」という言葉にこだわる主人公の気持ちはとてもよくわかる。でも、ずっと読み進んでいって、半分近くまでキャンプの話が続いて塔の話に入ったところで、ふと、タイトルが「スカイラー通り19番地」なんだから、これからはじまる塔の話が本番ということなのかな、と思ったのだけれど、どうもそうじゃないんですね。前半のキャンプの話はぐっと主人公に引き込まれて読み進んだのだけれど、後半の塔の話になると、印象がまるで変わってきちゃって、ひどくちぐはぐな感じを受けました。塔の話になってからの展開がずいぶんドタバタしていて、きちんと書き込まれていない感じですね。主人公やおじさん以外の人々が、ジェイクにしてもそうなんだけど、なんとなく周辺にとどまっていてあまり活躍していない印象が残ったんです。あと、最後に塔を大企業が買っちゃうという結末はひじょうに不満でした。「ステップ3のあと」の部分の書き方が、懐古調で妙にたんたんとしているせいもあるのかな、読み終わってとっても寂しい感じが残りました。ああ、さすがのカニグズバーグにも、最盛期のような輝きはなくなってしまったのか、と思いました。

:最近出てた他の作品が読みにくかったので、これはカニグズバーグを読んだなという感じが持てました。カニグズバーグの新作だと期待しすぎちゃうので、いろいろ厳しい意見が出るのでしょう。おじいさん二人が、映画『ウォルター少年の夏休み』の雰囲気に似て、うまく伝わってきました。ただ、塔がどういう形なのかイメージが持てなかった。塔をアウトサイダーアートという言葉で価値を高めて、買い取ってもらうというのも、解決の一つかなとは思いました。でも、やはり寂しさが残ってしまいました。

ブラックペッパー:私は、その寂しさは、ロレッタさんとピーターのせいではないかと思うんですけど。ジェイクならわかるけど、会ったこともない人に電話で頼んで解決しちゃうのが達成感がなくて、寂しいのでは? 私は、女の子が歌を歌うところが好き。「わたしたち」の言葉にこだわるところも。

紙魚:しかも、ジェイクはロレッタさんと結婚しちゃうんですからね。聞いてないよーと思いました。

ブラックペッパー:あと、「カピシ」はcapisciだと思いますが、「カピーシ」がナチュラル。もし、わざと変ないい方をしてるのであれば、傍点つけるとかしたほうがよいと思う。OKは「オーケー」とか「オッケー」ならいいけど「オケ」じゃダメなのと一緒。許容範囲をこえています。

きょん:寂しかったのは、塔を記念碑のようにしてしまったからだと思います。マーガレットたちは、そんなことを望んでいたわけじゃないでしょう。窓をあけて、塔が見えるというその状態が大切でしょ。自分たちの生活空間の中に自然にとけ込んでいる“塔”が大切だったのだと思うのに。

ブラックペッパー:でも、壊されちゃったら、もっと寂しい……。

きょん:どうしてスカイラー通りに残すことが無理なのかわからないですよね。あの塔の周辺の町並みは、都市計画の中で旧市街のように残そうとしていた地域なのだから、塔を残すことだって可能なのでは? 事実の記録じゃなくて“お話”なんだし。

アカシア:私は、暮らしの中に塔を残すのは今の現実社会では無理なんだ、とカニグズバーグがあきらめちゃったような気がして、それが寂しかった。

きょん:登場人物は、ユニークでおもしろかった。あと、マーガレットがなぜイギリス国歌を歌っているのかがわからなかったんです。

ブラックペッパー:ひとりで歌をうたっちゃうっていう気持ち、あると思うなあ。あと歌詞もいい! とくに2番。

きょん:最後、ピーターはどうなったんでしょう??? ちょっとラストは、バタバタととりとめもなく集結していくところが残念でした。何となく妙な感じが残る本でした。

愁童:ぼくは、ええっ、これ、カニグズバーグなの? という感想。ほかの作品のように、存在感のある印象的な人物がバーンと出てこない。書きたかったのは、ひょっとして、アウトサイダーアートだったのかな、なんて思っちゃった。スチールパイプを組んで、がらくたをぶらさげている塔を、記念碑として残すというは、説得力に乏しい。つまんなかった。ジェイクにはひかれたんだけど、いじめっ子たちをつれてきて運動をするというのはご都合主義に過ぎないんじゃないか? カニグズバーグのものとしては説得力に欠けていて、がっかりしました。唯一キャンプの女の子を問いつめる場面ではカニグズバーグらしさを感じたけど……。

アカシア:私は、カニグズバーグの作品は、人物の描写のうまさとリアリティへのこだわりが特徴だと思ってるんです。で、人物に関していうと、校長先生はただの性悪でなくて厚みのある人物としてうまく書かれていると思ったし、「わたし」「わたしたち」にこだわっている主人公の女の子の描写もうまい。おじさんたちも魅力的。ジェイクの意外性もいい。でも、リアリティという点では、あまりいただけませんでしたね。もっとリアリティにこだわる作家だと思っていたんだけど、私が読み落としているんでしょうか? たとえば塔を守るためには、そこに取り壊しの人が入ってきたら所有権を主張して無断侵入で訴えて阻止しよう、という作戦を立てるわけですよね? でも、途中から方針が変わったのか、塔に立てこもってしまい、これは危険だからと警察に保護されてしまう。最初の作戦でいけばこんなことにはならなかったんじゃないかって、疑問がわきましたね。それに、おじさんたちは、いろいろな描写から生活の質にはとてもこだわっている人だと思えるのに、ケータイの会社に塔を保存してもらう、という終わり方でいいのか、ということも気になりました。私も、この塔が地域の人々の生活の中にあるからこそ意味があるのだと思っていたので。それとも、スカイラー通りでの塔の役割はもう終わった、とカニグズバーグはみなしているのでしょうか? その辺がよくわからなくて、もどかしかったんですね。それから校長のカプラン先生ですけど、ジェイクについてスカイラー通りまでついてきてしまうなんて、少なくとも翻訳で読むかぎりリアリティがありませんよね。残されたキャンプはいったい誰が面倒を見ているんでしょう? それから、これは訳の問題ですが、ジェイクの「回顧展」ってあるけど、回顧展って、ふつう死んでからやるんじゃない? 私はこの言葉が出て来た時点で、ああジェイクは死んでしまったんだ、と思ってしまいました。そしたらまた登場してきたのでびっくり。この作品でも下訳の人が入っているのかしら? カニグズバーグは一言一言がゆるがせにできない文章を書く人だと思うので、翻訳者ご自身が最初から取り組んでいらっしゃれば、読者のもどかしさはもう少し減ったのかもしれませんね。

ハマグリ:そうだよね。もっとおもしろいはずだよね。

カーコ:筋としてはすらすら読めるのですが、登場人物が増えて、設定も作品のつくりも複雑になって、最後のおさまりがつきにくくなっている感じがしました。『ホエール・トーク』(前出)も『ホー』(カール・ハイアセン作 千葉茂樹訳 理論社)もそうでしたが、社会的な問題解決というと、弁護士や各方面の人々が登場します。私はうっとうしく感じるのですが、アメリカでは普通のことなのでしょうか。校長先生も街づくりをする自治体も、正義の旗じるしをかかげているのに、実際は個々人の幸せにはつながっていないとか、おじさん二人にとって時間は過ごすためにある、とか、おもしろいところはいろいろありました。生きることに肯定的なのがいいですね。ただ、一人称でなくてはいけなかったのかなと思った部分がありました。たとえば、131ページ後半、街のことが書かれている部分は非常に三人称的で違和感がありました。ゴシックで書いてある章タイトル(?)も、しっくりしませんでした。きらいではないけど、問題がしぼりこまれていた初期の作品のほうが、私は好きです。

紙魚:イギリスの田舎に、意味のない鉄塔を立てている人がいるという話をきいたことがあります。おそらくカニグズバーグは、その鉄塔のことが頭にあって、この物語を書いたのではないかしら。でも、それがうまく物語のなかにとけこんでいなくて、キャンプのいじめの話、塔の話、その後の結末、という固まりのまま、ぶつぶつと途切れているのが残念でした。ジェイクがいじめっ子たちを追いこむ場面は痛快だし、「わたし」「わたしたち」という概念をおりまぜたりするところなんかはさすがですが、自分たちの(主人公もわたしたち読者も)手の届かないところで、物語が動いていく寂しさが残りました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


ロラおばちゃんがやってきた

フーリア・アルバレス『ロラおばちゃんがやってきた』
『ロラおばちゃんがやってきた』
フーリア・アルバレス/著 神戸万知/訳
講談社
2004

むう:ささっと読めて、おもしろかったです。ロラおばちゃんという人に原色を思わせる魅力があって、(主人公の)ミゲルがおばちゃんの存在が「はずかしい」と思いながらも魅かれていくところがいいし、子どもたちとおばちゃんのやりとりが面白かった。パパとママの離婚があまり重たくなく扱われているあたりが、アメリカだなという感じでした。ニューヨークの3日間の最後にパパが(自分の描いた)絵をミゲルにくれようとするのに対して、ママのことを考えたミゲルが、ニューヨークに置いておいた方がいいというあたりに、主人公の優しさが出ていると思った。楽しく読める良い本という感じですね。(最後の)サンタクロースが実はおばちゃんというあたりも、クスッという感じで面白かったです。

アカシア:私はなんかちょっと物足りない話だなと思いました。むうさんは、おばちゃんに魅力があると言ったけど、私はもっとその魅力が浮き上がるように描いてほしかった。タイトルが「おばちゃん」で、会話は「おばちゃん」と地の文の「おばさん」の両方が出てくるのね。でも、地の文もミゲルの視点になっていたりするので、機械的に二種類の使い方をするとかえって趣をそこねるような気がしました。それから47pに「ミゲルが妹を『ニータ』と呼ぶのは、なにかたのみごとがあるときと決まっている」とあるけれど、それ以前の、頼み事をしていない所でも「ニータ」と呼んでいるので、あれ? と思ってしまいます。54pには「内地のやつら」とあるけれど、「内地」という言い方でいいんでしょうか? それと196pで、(ドミニカに行った主人公が)ホームレスの子どもを見て、自分の幸せを感じたと言っている場面がありますが、他人の不幸を見て自分の幸せを感じるという著者の視点に疑問を持ちました。そんなこともあって、作品全体があまり好きになれませんでした。

愁童:物足りなさと、もどかしさを感じた。陽気なロラおばちゃんの性格設定は分かるけれど、子どもたちがトップシークレット扱いにしなければならない理由がいまいち説得力に欠ける。だからロラおばちゃんが街の人々に受け入れられて、母親の誕生パーティに沢山集まってくれる結果になっても、主人公たちが、その変化にどう関わっていったのかが、読者には英語を教えたこと以外にはあまり伝わってこない。天性明るいロラおばちゃんの振る舞いを、子供達はただ眺めていただけみたいな感じで、物足りない。アメリカの子どもたちにとっては意味のある作品かもしれないけれど、日本の読者にとってはどうなのかな?

ハマグリ:私もみなさんと同じような感じで、ニューヨークからヴァーモントにやってきた子どもたちが、いろんな人種が暮らしているNYと違って白人ばかりのヴァーモントは暮らしにくいなと思っているところへ、ラテン系の明るいおばちゃんがやってきて、英語はしゃべれないのにみんなとすぐに仲良くなっていく……という暖かでさわやかなお話という設定だとはわかるんだけど、読んでいてつまずくところがたくさんあった。たとえば6pで、ママがミゲルに「おばさん」でなく、スペイン語で「おばちゃん」と呼んでくれと頼むけど、日本の子どもにとっては分かりにくい。英語とスペイン語と、たどたどしい英語を全部日本語に移し変えるわけだから、無理があるとは思うけど、もう少し工夫できないものか? 22pの空港におばさんを迎えにいくところ、「ふたりはカウンターの向こう側を見た」とあるけれど、ふたりはカウンターのどっち側にいたの? おばさんはどこにいたの? 情景が見えてこない。ほかにも情景が見えないところがたくさんありました。38ページの雪の上に歩いて字を書くところも。41pの「足跡は、文字から離れるのではなく、文字に向かっている」も??でしたね。101pの「ネコとイヌの嵐だよ」は、英語を知っている大人なら分かるけど、もうちょっと子どもにも分かるように訳さないと不親切じゃない? 103pの後ろから4行目「マジだよ……『オ』がついていることばは、なんでもだ」というところも、子どもに分かるように工夫が必要。168pには、「白文字で『ハッピーバースデー』と書いてあるたくさんの風船を飛ばした」とあるけれど、挿絵は黒文字になっている。
とにかく、情景が目に浮かばないので、楽しめるところまでいかなかった。私はぜんぜん面白くなかったわ。原書だったらもっと面白いというわけでもないんじゃない?

アカシア:翻訳や編集ももう少し工夫が必要だったと思うけど、原作自体のストーリーにもそれほどの魅力がないのかも。

カーコ:私がいいなあと思ったのは、おばちゃんが子どもたちに与えてくれるおおらかさです。白と黒だけのヴァーモントの風景のなかで、派手な服を着て、ひたすら明るいおばちゃんの姿とか、英語は不自由なくしゃべれるのに臆している子どもたちに対して、英語ができないのにどんどん友だちができるおばちゃんの好対照。「ああ、こんなこともあるのか!」と、子どもたちが思っていくところがよかったです。いろいろ指摘されていますが、もしかしたら、訳者がスペイン語もできる方なので、英語とスペイン語がまじりあった違和感を読みとばしてしまっている部分があるのかもしれまんせん。ドミニカとか中南米とか、遠い世界のことを知るという面白さはあるのでは?

アカシア:確かに子どもにとっては、知らない世界が見えてくる、というのは面白いことなんだけど、今ひとつその世界が生き生きと見えてこないんですね。おばちゃんのツケぼくろなんて、本当は面白いところなんだろうけど、その辺のユーモアがイマイチ伝わってこないのが残念です。

トチ:おばちゃんの服装と、お料理のところは面白かったけど。ドミニカ料理って、食べたことないから。ユニークなおばちゃんだ、面白い……と言葉では言っているけれど、やっていることは別に面白くないのよね。『シカゴよりこわい町』(リチャード・ベック著 東京創元社)のおばあちゃんみたいに、強烈なことをやるわけではない。アメリカに住んでいる子どもたちにとって、おばちゃんの派手な服装や身振りや、英語のできないことが面白いだけで、ドミニカにはそういう人たちはいっぱいいるでしょうし……言葉で言うだけじゃなくて、ストーリーでおばちゃんのキャラクターを語っていかなきゃ、読者には物足りない。それから、おばちゃんが子どもたちと話すときは「 」の中が平仮名で、すらすらしゃべっているでしょう? これは、スペイン語でしゃべっているのかしら? 子どもたちに習った英語で訳の分からないところを言う箇所は面白かったけど、ここはカタカナでしょう?原文はどうなっているのかしら?アメリカの読者はスペイン語もある程度分かるから面白い部分もあるかもしれないけど、日本の子はそれをさらに日本語に訳したものを読むわけだから、分かりにくいうえに面白さも半減しちゃうわね。

すあま:ロラおばちゃんのイメージが浮かべられないまま、終わってしまった。いろいろなできごとが、すべてさらっと解決してしまい、不満が残った。150pで、(がんごじじいの)シャルルボア大佐が「チャーリーズボーイ」と(野球チームの少年たちのユニフォームに)書かれているのを見ただけで、なぜ和解してしまうのかもわからなかった。原題が“How Tia Lola came to visit stay”で、visitを消してstayになっているのは、最初は主人公の子どもたちに拒絶反応があったけど、最後には大事な家族の一員になったということを意味しているということなのかと思ったが、ミゲルにもそんなに葛藤がないので、どうなのか。ミゲルの気持ちについていくと、肩透かしを食らうことが多かった。物足りなかったし、作者がなにを意図していたのかも分からなかった。

ハマグリ:良い人のでてくる、良いお話なので、感動しながら読まなければと思ったんだけどね……

トチ:ハマグリさんって、いい人なんだねえ!

(「子どもの本で言いたい放題」2005年2月の記録)


佐藤さん

片川優子『佐藤さん』
『佐藤さん』
片川優子/著 長野ともこ/絵
講談社
2004

トチ:とても面白かった。最後まですらすら読めたし、なによりいかにも今どきの子どもらしい、生きのいい会話がうまいなあと思いました。森絵都の『カラフル』(理論社)とか、朝日新聞に浅田次郎が連載していた『椿山課長の七日間』(朝日新聞社刊)のような、ユーモラスな幽霊ものですよね。でも、後半になって親による虐待とかいじめなどが出てきたところで、良くある問題をそれほど掘り下げないで取りいれて、お手軽にまとめたなあ、と少し残念でした。最後に作者紹介を見たら、なんとまだ18歳か19歳なのね。さすがに子どもたちの会話はうまいわけだと納得しました。でも、それだったらなおのこと、同世代にしか分からない心の動きなどを、もっと書いてほしかった。この作品はこれでエンターテインメントとして完成しているのでしょうけど、これくらい軽やかで読みやすい文章を書ける人なので、これからもっともっといろいろな面を見せてほしい。どんなものを書いてくれるかと、わくわくしてます。

カーコ:書き出しがとても面白くて、この二人がどう近づいていくのか、ぐっと引っ張られて読んでしまいました。佐藤さんが学校の内外でキャラクターを使い分けるところとか、優柔不断な主人公が悩むところは面白かったから、二人の変化やクラスメートの男の子との話でまとめたほうがよかったのでは? 最後に虐待がからんでくるのは不自然。同年代だからか、話し言葉がうまい。崩れすぎず、ちょうどいい書き言葉になっていて感心しました。

ハマグリ:「ぼくは佐藤さんが怖い」という出だしの一行がとてもうまい。最初がすごく面白くて、ぐっとひきつけられた。はきはきしない性格で、押しの強い有無をいわせぬ子を苦手とする主人公の気持ちがとてもよく書かれていると思った。言葉遣いも地の文もこのような性格の一人の男の子の感覚を細かく表現できている。若いのに才能のある作家が出てきたと思う。それにユーモラスなところがあっていい。幽霊の安土さんは今日はいない、だって九州に行っているからなんて、おかしい。幽霊ならどこにいたって出るときは出るのに。ところどころ笑える部分があって、このところこんなに笑った話はなく、楽しかった。でも私もカーコさんと同じく、佐藤さんが実は虐待されているというところにきて、なんだそっちへ行くか、と思ってちょっとがっかりだった。それと小学生時代にいじめられていた清水を克服するために会いに行く場面で、清水が実は自分もいじめられていたとやたらべらべらしゃべるところが嫌だった。清水はもっと清水であれよ!と思った。これじゃあ主人公がちゃんと乗り越えられないじゃないか! この世代の感じ方を言葉で表現するのはうまいけれど、一つの物語としてのまとめ方はこの人のこれからの課題じゃないかと思う。

トチ:ストーリーがないっていうこと?

ハマグリ:部分部分が面白いから最後まで読めたけれど、構成がいまいちだし、ストーリーとしてのまとまりをつける点ではこれからじゃないかと思う。

アカシア:文章が面白いと思ったし、私は幽霊の扱い方は『カラフル』よりも面白いし『ウィッシュリスト』(オーエン・コルファー著 理論社)よりは、はるかに面白かった。一番引っかかったのは、高校生の男の子の描き方。私の息子が高校生だった頃、こんなだったかなあ、と思って。主人公は、手を握ることもできなくて、佐藤さんをどんなふうに助けてあげられるのか、と聖人君子みたいなことばかり考えている。ひこ・田中の『ごめん』(偕成社)とはずいぶん違う世界。女性の作家だから、やっぱり男の子は捉えにくいのかな、と思ってしまった。まあ佐伯くんのような子もいなくはないんだろうけど、中学生という設定にしたほうが自然なんだろうと思いました。物足りなかったのは、虐待の部分と並んで、香水事件の終わり方。p97で、田川さんが急に、お父さんの浮気の話をぺらぺらしゃべる。それまでそう仲良くなかったクラスメートに? とここは、不自然。それから、p30の「安土さんは……空気椅子してるんだろうな」というとこ、私はよくわからなかったんだけど。だってベンチはそこにあって、安土さんはちゃんとすわってるんでしょ?

みんな:幽霊は、ちゃんとすわれないのよ。だから、やっぱりすわってる格好をしてるってことよ。

すあま:私は、主人公たちが高校生だと思わずに、中学生だと思って読んじゃった。それは挿絵のせいかとも思ったが、登場人物の内面の描き方からもそう感じられた。あとがきを読んだら、作者が中学生のときに書いていたことがわかったので、そのせいかもしれませんね。88pに「聖子泣き」(嘘泣きのこと)という表現が出てくるけど、これ、かなり古い表現なので、この本の時代設定や作者の年齢が気になってしまった。でも作者は若いし、現代の話だったのでびっくりした。

トチ:「どざえもん」っていう言葉だって江戸時代以来伝わってるんだから、「聖子泣き」も生き延びるかも。

すあま:こりゃあいいぞ!という感じで読み進んだんだけど、佐藤さんの虐待にからむ話の展開でがくっときてしまった。それから、もっといろんな幽霊が出てくるのかと思ったのに、ストーリーは結局普通の学園ものになってしまった。
幽霊を背中にしょってる女の子と幽霊が見える男の子という設定がユニークだったのに、あまり幽霊である意味がなくなって相談相手のお兄さんになってしまったのも残念な気がした。

むう:なかなかおもしろく読みました。でも、最後のところがだめだったな。虐待とかいじめとか、おいおいまたか!という感じ。うじうじした主人公がほんの少し変わって、恋が実って、それでいいじゃないかと思う。肝試しのところまでは楽しく読めて、156ページの「だって佐藤さんは地球と同じくらいすごい勢いでまわっていて、その佐藤さんを離したらぼくはあっという間に振り落とされてしまうだろうから」という文章が出てきたときは、これで決まりだ!よし、よし!という感じだったのに、次をめくったら「スタバの前で転んで笑おう」が出てきたので、なんだこれは?と思った。最後の一章はよけいだと思う。いじめの連鎖だとか虐待を扱うならもっとちゃんとしてほしい。いかにもステロタイプでがっかり。幽霊の安土さんがとりついたままではまずいというので、安土さんを昇天させるために作った章なのかもしれないけれど、安土さんがとりついたままで終わってもよかったんじゃないかと思う。社会性がなくて小粒だといわれたとしても、そのほうが作品としてはいい印象が残ると思った。それと、全体に中学生の物語という感じで読んでたので、高校生の話だといわれると、ちょっと幼い感じがしました。

トチ:この作家も一応取り上げているというだけで、いじめや虐待を掘り下げているわけではないでしょ。そういう意味でみると、日本の作家は全体に社会性がないですね。社会から隔離されたところで生存しているみたいです。これでいいのかなという感じがしました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年2月の記録)


ホエール・トーク

クリス・クラッチャー『ホエール・トーク』
『ホエール・トーク』
クリス・クラッチャー/著 金原瑞人・西田登/訳
青山出版社
2004

ハマグリ:ほかの2冊に比べると読み応えがある本。最初はカタカナ名前がどれが誰だかのみこめなくて、なかなか先に進めないところもあったけれど、個性的な人物ばかりで、途中から読めるようになった。面白いというより、いろんなことを考えさせられる重い話だった。単純に悪い子と良い子で分けるのでなく、どんな子もみんな根っこは同じ、育っていく過程で救いの手を差し伸べる大人にどれだけ出会ったかで決まる、ということがわかる。一人の人間の中の強さと弱さも描かれているし、加害者と被害者が単純にいい悪いでは決められないということも感じられた。主人公の性格、ものの見方がよくわかる書き方で、苦しみ悩みをかかえ、大人に反発しながら斜に構えた皮肉っぽい見方で語るのが、若い読者に共感を呼ぶと思う。最初は悲惨な状況にいたにもかかわらず、養父、養母、カウンセラーによって救われ、コーチや、ジムに住んでるおかしなおじさんとの出会いで育っていく様子がわかる。でもこの子は実はおだやかで優しい部分があるとも感じられ、ほっとする部分もある。ひねった表現もあって、しっかり読まないとどういう意味かわからないところも多かった。小鹿を殺される描写がリアルで感情がよく伝わり、お父さんが殺される時にその感覚がダブる場面がうまい。当時の歌やら、この時代の流行ものなど、わかるところもあれば、わからないところもあったが、アメリカのティーンエージャーなら、もっとわかって楽しめるところだろう。

アカシア:これは大人の本として出ているのかもしれませんね。訳も、62ページの「サハラ砂漠代表チーム」など、わからなくてもいいや、という大人の本特有の直訳調だもの。私もハマグリさんと同じで最初のうちは人物の特徴をつかむまでに時間がかかったけど、だんだん面白くなってきた。定石どおりに話を作っている所から来る快さもありますね。みんなそろってハンパものの子たちが、同じような立場の、学校から白い目で見られているコーチと一緒に努力して何かをやりとげる。おとうさんが見かけはごついけれど繊細な心を持っているなんていうのも、定石ですね。随所にメッセージが散りばめてあるのも、若い人に受ける要素かも。ただね、私は生まれてきた話というよりは、公式にあてはめて面白く作った話という感じがしてしまって、後書きに書いてあるような大傑作とは思えなかった。

すあま:読み始めたときは、暗くて重い話かと思ったが、途中からだめな子たちが集まってがんばるという、読みやすい話になった。よくあるパターンだけど、重いテーマを扱っているのに読みやすかったのは、そのせいかもしれない。最後のセリフが、「こういうものって、どこに置けばいいんだろう」っていうんだけど、「こういうもの」というのが何のことなのかわからなかった。

アカシア:ここ、たぶんすごく大事なことを言ってるんでしょうけど、今のままではわかりませんね。訳者もわからなかったのかもしれないけど、こういうところは、それこそ著者に確認するなどしてから読者に手渡してもらうといいのにね。

むう:この本には、ドメスティック・バイオレンスが大きく絡んでいるけれど、そのあたりはよく描けていると思った。アメリカのYAでは、サラ・デッセンなども含めてドメスティック・バイオレンスがよく取り上げられているけれど、この本は、ドメスティック・バイオレンスの背景や被害者の有り様などの扱いがリアルだと思った。でもドメスティック・バイオレンスだけを書いたら重くて重くて読めない感じになりかねない。それが、青春物語に絡まり、いかにも反抗的で男気もあるハイティーンという主人公の設定も手伝って、読めるものになっている。これを読んで、つくづくアメリカにはある種過剰なマッチョな男性文化が伝統としてあるんだなあと感じた。その病理みたいなものとしてドメスティック・バイオレンスが出てくるということもよくわかった。小説としては、ぐいぐい読ませて最後までひっぱっていく力があると思う。それに、結局クリスがジャケットをもらえて終わるところとか、最後のホエール・トークの章でお父さん自身も知らなかった子ども、つまり血のつながらない兄弟と主人公が出会うとか、意外性も持たせつつ、きちっと落として終わっている。それが、定石通りということでもあるのかもしれないけれど。ただ、この本はいかにもアメリカらしいスポーツ至上主義的な高校生活、チアガールやスポーツ選手が異様にもてはやされる高校生活にどっぷり浸ったところで書かれていて、それは日本とだいぶ違う気がした。おそらく、アメリカの子のほうがこの作品を自分の生活に引きつけて読めるんじゃないかな。私自身は、アメリカ的なスポーツ文化やハイスクール生活の雰囲気があまり好きでないので、ちょっと引いてしまうところがあった。

すあま:スポーツで学校のポイントが決まるというような、アメリカの高校のしくみも、わかりにくかった。

カーコ:筋がはっきりしているので、どうなるんだろうとぐいぐい読みました。アメリカの文化的なことや固有名詞やらダジャレやらが、わかりづらいですが、人物の人となりがはっきりしてきてから、面白くなりました。ばらばらなメンバーなのに、いつのまにか連帯感が生まれて、一人一人が救われていくというのがいい。救われるには、自分のほうに求める気持ちがないとダメだ、というお母さんのセリフがよかった。文化だけでなく、親子の接し方や、たたみかけるような理詰めの論理展開が、日本にはない感じ。大人の本として作ってるようなので、確信犯的に直訳調にしているのだと思いました。考えさせられるところの多い本なので、高校生に手にとって読んでほしいですね。

ハマグリ:175pの体をかいてるようなかっこうをするところで「ぼくはカニじゃないんだから」って、どういうこと? ゴリラならわかるけど。

アカシア:カニにもゴリラにも見えるのかなって思って読み飛ばしたんだけど。よく考えてみたらそうだねえ、変だねえ。

トチ:crab って毛じらみのこともいうって、リーダーズに出てましたよ。たぶんこれのことじゃないかしら。原文は読んでないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年2月の記録)


No.6

あさのあつこ『NO.6』
『No.6』
あさのあつこ/著
講談社
2003-10

愁童:子どもに活字を読ませようと言う意味では手頃な作品だと思った。ただ発想が劇画コミック風で、エリート対ノンエリートという設定でぐいぐい書き進められているけど、一歩踏み込んだ感情移入がしにくいのが残念。活字物を読み慣れた子には、やや物足りないのでは?

アカシア:#1を読んだだけでは謎が多すぎて、まだよくわからない。ずんずん読めるには読めたけど、本文中の写真は気になりましたね。とっても思わせぶりだし、私は読んでて自分が物語からイメージしているものと違うものを見せられて不愉快でした。わざと違和感をねらってるのかしら? でも、読んでて邪魔だったなあ。

ハマグリ:私も写真が気持ち悪かったわ。

アカシア:出たばかりの時に読もうと思ったんだけど、はじめの目の写真で(13p)読むのを止めちゃったんです。風景みたいなのは、まだいいんだけど。このシリーズは背表紙も愛想がないのよね。わざとねらってるのかもしれないけど、あまりうまくいってないのでは? それから4p「踏みこんでこれない場所でもあった」と「ら抜き」表現が出てきますね。地の文で。でも、それで通すってわけでもないみたい。どういうことなんでしょうね?

きょん:私も写真が気持ち悪かった。デザイナーが入っているのかなぁ? 全体に劇画調だし、書体の違う部分も馴染めなかった。思わせぶりでなところばかりで、じれったかったのですが、文章が読みやすかったので、勢いで読んでしまいました。#2を読み始めたら面白くなってきて。著者の書きたいことが何となくわかってきましたが、#3まで読むと、まだ続くのか〜って。主人公紫苑は天然と呼ばれて、純粋培養されていて、今の子どもに似ているのかな。でも、この純粋さに強さを持ち始めるところが、すごくストレートな生き方ドラマになっているように感じました。

ケロ:この本、売れてますよ。出てすぐに興味があって読みましたが、とにかく使われて いる写真が嫌でした。これは、あくまで好みの問題ですが、特に、29pの写真は紫苑なのかしら。目が一重だし、いや〜ん、という感じでした。あさのあつこさんの作品は「バッテリー」(教育画劇、角川文庫)もそうだけど、前向きで先行きに希望のある作品が多いなかで、なぜ、このようなSFを書きたかったのだろう?と、正直、思っていました。「未来都市」の設定やストーリーは、あまり新しくないと思いましたし。でも、2巻のあとがきを読んで納得するところがありました。今まで、「希望」という言葉を気安く使ってきた自分、でも、世界では、そんなことじゃすまされない、リアルな絶望がある。それに対してのあさのさんの思いをぶつける、渾身の作品なんだなと。今の日本の若者の代表「紫苑」と、戦場で生きる「ネズミ」が、どの辺で分かり合え、接点をみいだすことができるのか? あさのさんは問いかけながら作っている、ということがわかりました。2巻目以降で成功するといいのですが.

きょん:その辺は#2でクリアに打ち出していると思う。私もあとがきで納得しました。だから#3を読むと、今の子どもが無くしつつある、生きていく上での“飢餓感”や、生きている意味を訴えているのかもしれない、と思いました。

ハマグリ:私は#1しか読んでいないので何とも言えないけど。二人の少年の出会いがあり、お互いが探りあいながら、反発したり共感したりというのは「バッテリー」と同じですね。「バッテリー」ファンは気に入るのでしょう。じっくりと読む気になれず、ざっと読んでしまった。中学生くらいだと読みやすいとは思うし、好きな人は好きになると思う。設定が2013年になっているけど、50年位先の設定だと思わない? 2013年だと近未来にならないよね。ロングセラーで長く読ませる気がないのかしら。

むう:図書館のほうで3冊揃ってから連絡が来たのと、『パーフェクト・コピー』が手に入らず読めなかったこともあって、どうせだからと3冊読みました。すいすい読めましたが、特に新しいとは感じはしませんでした。劇画調というか、コミック調というか……。先ほどどなたかおっしゃっていたみたいに、読者に手にとってもらうためにそうしたのかもしれませんけれど。設定にしろストーリーにしろ、どっかで見たな、読んだなあという感じでした。みなさんも言ってらしたけれど、あの写真はもったいぶっていていただけませんね。あと、登場人物の名前がどうにもなじめなくて……。紫苑だとか、沙布とか、火藍とか、何とかしてくれ!という感じ。表現も、漢字が多かったり妙に固かったり小難しくしてあったりで、劇画的ですね。ただ、#2の「あとがき」と#3の「言い訳にかえて」を読んで、なるほどとは思いました。つまりこの作品は、9・11以降のアフガニスタンでの戦争やイラク戦争、日本人人質事件などの流れにこの作者が自分なりに反応して生みだした作品じゃないかな、と思ったんです。
#2のあとがきに、「若い人たちに向かって物語を書くことは、希望を語ることに他ならないはずだ」と思ってきたが、自分は何も知らず、知ろうとしないまま生きてきたのではないかと思わされた。個人は必ず国と繋がり、国は必ず世界と結びついていて切り離すことができないということに気づいて、どうしてもこの物語を書きたくなった、というようなことが書いてある。さらに#3の「言い訳にかえて」では、「新聞で読んだテロリストと呼び捨てられる若者の言葉が耳を離れません。」として、「どうしたら、ぼくはきみたちと友達になれるのだろう」というテロリストの言葉が引かれている。この作品は、一方に、ある種ナイーブというか、エリート育ちの人の良さを持ったガードの低い紫苑がいて、もう一方に自分以外はみんな敵という感覚でひとり生き抜いてきたネズミがいるという構造なんだけれど、それが、たとえば今の日本の若者と戦場となっている国々の若者、という対比につながる気がしたんです。紫苑は、平和で生きることに必死にならずにいられる今の日本の若者、ネズミは常に命の危険にさらされている戦火の中の若者というように。どちらも偏っていてどちらか片方だけでは通用しないと、おそらく作者はそう思っていて、ネズミでも紫苑でもない生き方や見方を模索しているんじゃないのかな。あるいはふたりが成熟していく方向を模索しているといってもいい。それで、#2はその気持ちに沿って筋が動いていったんだけど、#3になると、もともとがかなり重たいテーマだから、作者が思っていたほど外側が動かなくなっちゃった。内側の話が勝ってきて、出来事としてはあまり進行しなくなっちゃったんじゃないかな。
 とにかく、とてもまじめな作品だとは思いました。作者が言いたいことを持っていて、それをエンターテインメントという形で表現しようと四苦八苦している感じ。その意味で、この先がどうなるのかひじょうに気になります。ディストピアものは気が滅入るんであまり好きじゃないけれど、これは続きを読むかもしれない。それと、近未来にしては2013年は近すぎるという点なんですが、これは深読みのしすぎかもしれないけれど、ネズミと紫苑の対立は今もあるんだ、『No.6』のような要素は現代にもあるんだ、という意味が込められているのかなってふと思いました。

すあま:よくある設定で、崩壊、純粋培養、特権階級など『ブルータワー』(石田衣良、徳間書店)や、『セブンスタワー』(ガース・ニクス、小学館)と似ていると思いました。1巻でハチの奇病が出てくるけど、その後の巻ではどこかに行ってしまった。話が広がりすぎて収まりがつかなくなっている感じだけど、この先どうなるか知りたくて読んでしまいました。でも主人公に共感はできなかったな。「バッテリー」も、なかなか完結しない(注・6巻が1月に刊行、やっと完結)し、このシリーズも終わらないのでは。登場人物の名前だけど、今も当て字のような名前が増えてきているから、2013年頃ならこんな名前も出てくるかもしれませんね。ファンタジーと言うよりSF。子どもが読んでどんな気分になるのかな?

:私もすぐに『ブルータワー』を連想しました。タワーとドーム、選ばれた人と外に暮らす人との対立、反乱。そして登場人物の名前の漢字が当て字っぽい。あれあれって思いながら読みました。#1と#2を読んだだけなので、この先どうなるのか気にかかります。あさのさんの作品は初めて読んだのですが、どれも「なんでこんなに引っ張るのよ〜」って感じなのでしょうか? 連続物は完結して読まないと感想が述べにくいと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年1月の記録)


ブループリント

シャルロッテ・ケルナー『ブループリント』
『ブループリント』
シャルロッテ・ケルナー/著 鈴木仁子/訳
講談社
2000.09

アカシア:ドイツ人は、クローンの問題が好きなのかしら? これも、『パーフェクトコピー』もドイツの作品ですよね。設定はおもしろかったんだけど、娘と母親というだけでも思春期は大変だと思うのに、娘が母親のクローンという設定だから、なおさら大変。しかもドイツ人だから、感覚的に反応しあうというより、議論しちゃう。読んでて息苦しくなっちゃった。言葉でぐいぐいつめていこうという作者のエネルギーに感心はしましたが、やや食傷気味。あなた=わたし、わたし=あなた、わたし=彼女=わたしたち、の関係がくり返し出てくるんだけど、「もうわかったからいい」という感じ。それから、エピローグに架空のデータを出してノンフィクションっぽくしてるのも、意図がよくわからなかった。しかも、この最後のほうに「クローン人間の数はふえているが、わたしたちの数をこえて暴走するようなことはけっしてないだろう。自分を複製する許可は、ドイツでは生殖可能人口の0.32パーセント内におさめることになっている。これは、一卵性双生児の自然出生率にあたる。自然が望んだ遺伝的多様性は崩れない」って書いてあるけど、これ単純に変ですよね。だって、自然の一卵性双生児とクローンを会わせたら倍の数になって自然の摂理を崩すわけだからさ。
名前は、母親がイーリスで娘がスーリイというのは、日本語で読んでるかぎり意図は伝わるんだから、わざわざアルファベットでIRIS、 SIRIとルビを振らなくてもいいのにね。
考える材料は提供してくれるけど、楽しい本というのじゃないですね。

愁童:僕はドイツ人の作品にしては、論理に整合性がないと思った。141pに「16歳なのに32歳のイーリスの人生を丸ごと受け継いでいた」とあるが、これは変だ。クローンといっても、細胞分裂をして成長していく事をきちんと書いているのに、16歳の少女に、32歳の女性の人生経験が、そっくりコピーされているという設定にするなら、その根拠もきちんと書いて欲しい。クローン=コピーみたいな思い込みに足をすくわれているような気がした。クローンと一卵性双生児を比較するというのもよくわからない。双生児なら同じ時間を並列に成長していくわけだけど、この作品では親子として、全く異なった直列的な時間を生きているわけだから、似て非なる部分にきちんと目を向けて、そこを書き込んでくれないと、クローンだから何でもありみたいな雑な感じを受けてしまう。

:クローンとして生まれた子が、親に反発していくという設定の作品は、初めてでした。憎しみや苦しさばかりが突き刺さって物語として楽しめなかった。息苦しかった。

すあま:今回の本を読むまで、クローンというのは親子のイメージだったのですが、双子を作るという感じなんですね。この本では、親子だけど双子でもある、という新しい設定なので、最後はどうなるのかということが知りたい一心で読みました。でも、作者はクローンを肯定していないから、主人公は苦しむばかりで楽しく生きられなかったのだと思う。57p「メディクローン」「エゴクローン」は、一般的な考え方なのか知りたい。メディクローンでも、結局はエゴクローンということにならないのか。この本も、「クローンをどう考えるか」というテーマではなく、子どもの心の成長にスポットを当てた方が、もっと興味深かったと思う。出版年を考えると、まずは「クローン」という問題を読者に突きつけるだけで終わっても仕方ないとは思うけど。

ケロ:現状として、「クローンが、是か非かが問われている」中で、本の中でクローンの結末をどのように描くかというのは、とても難しいと思います。だって、「クローンを認めてしまう」と「クローンを肯定してしまう」ことになりますもんね。だから、クローンの主人公は、ハッピーエンドにさせられない。作者は、本の中で登場人物に悩ませるしかない。結末も、ここに持って行くしかないのではないでしょうか。

みんな:ストーリー自体、「クローンを認めてしまうと、こんなに大変なことになっちゃいますよ」という流れになってしまうんだよね。

むう:なんかしんどい本でした。この子、ものすごく突っ張ってるんですよね。中ほどでも、「ふつう」のみなさん、どうしてわたしを怖がるの?みたいな文章があって、いかにも自分は違うのよというとんがった感じがするし、お母さんの葬式のときには、自分を作り出した博士につばを吐きかけるし、最後の芸術作品だって、とっても攻撃的。なんかつんけん、つんけんしているのばかり見せられて、げんなりしちゃった。
最近、自分のペットが死んで、かわいがっていたペットのクローンを作ったという話がありましたよね。その延長として、自分の子どもが死んで、その死が受け入れられずに子どものクローンを作るというケースが考えられるんだろうけれど、それだって十分エゴイスティック。そもそもクローンを作ることがエゴイスティックなんだろうな。けど、このお母さんにはそれよりもっとすごいエゴを感じちゃった。自分の才能を愛して、自分を永遠にしたくてクローンを作っちゃうみたいな感じでしょ。そもそも動機がとんでもなくゆがんでるし、まあほんとうに嫌な人。そのクローンだから、この子も猛烈に自我が強い。それでもってお母さんとの関係がゆがんでるから、性格がどんどんとんがって攻撃的になる。しんどい人間同士が正面からぶつかるのにつきあわせられるから、読んでいる方はひたすら疲れる。設定からしてゆがんでいるから、楽しくなりようがないんだよね。そのうえ、どうしてもクローンでない母と娘の間にも存在する葛藤が重なってくるから、もうひたすら重い。母と娘の間の葛藤をクローンという題材をかりて語ったというわけでもなさそうだし……。あと、この子が親から離れようとして、乳母さんの息子のところに転がり込むでしょ。それはそうするしかなかったんだろうとも思う。でもね、そこから親のところへいったり来たりしてて、別に独立して自活するわけでもない。結構勝手な子なんだよね。とにかく主人公が魅力的じゃなかった。

アカシア:登場人物にもう少し感情移入できるようになってれば、もう少し違ったのにね。

むう:なにしろこの子、怒ってばかりだから。そりゃあ、つらさはよくわかる。わかるけど、もっと切ない部分も見えないと、読む方はうんざりして、ついていけなくなっちゃう。乳母さんの息子さんとの場面は感じがいいと思ったけれど……。

ハマグリ:児童文学の中では「自分とは何なのか」「自分は何になりたいのか」という自分探しをして成長していくものが多いのに、この話は、最初から「自分とは何か」がわかった上でストーリーが進んでいくのがおもしろいと思った。娘の中に自分を見る、あるいは母親の中に将来の姿を見る、というのは、普通の親子関係にもあって、ひじょうにデリケートな部分だと思うけど、クローンだから全部同じということで、そのデリケートな部分が何から何まで極端に描かれるので、読んでいて苦しくなってきた。母親も、おばあちゃんとうまくいってなくて、おばあちゃんにしてみれば、娘の育て方を間違えたわけでしょ。それを今度は娘と孫でもう一度見せつけられるところが、ぞっとするほどイヤだった。それから、音楽というものが何の助けにもなっていないのは残念。乳母とその息子の存在は、唯一人間的なものを感じさせるので、この二人とのつながりから何か見いだしたりするのかとも思ったが、そういうこともなく救いがない。最後まで化けもので終わるのが残念だった。

愁童:遺伝ですべてが決まるわけじゃないんだから、環境によって違ってくるというところをもっとふくらませて書いてくれればもっと良かった。

ケロ:「もし、クローンが存在したらどうなるのか」という部分がおもしろいのに、そこの想像力が貧困だと思った。母と子の確執のところ、母の恋人になりすますところなどは、おもしろかったので、いっそのこと、ホラーにしちゃったら、おもしろかったと思う。でも、そうはいかないまじめな作者なんでしょうね。あと、疑問だったのは、母親は、病気で死ぬ運命にある。だから、クローンを作ったはずだけれど、クローンの娘も同じ原因で死ぬ危険性は大きいはず。その部分について、実行に移す前に、母親があまり逡巡していないのがふしぎだった。

すあま:最後に、実は母親もおばあちゃんのクローンだったということになっていたら、おもしろかったかも…?

(「子どもの本で言いたい放題」2005年1月の記録)


パーフェクトコピー

アンドレアス・エシュバッハ『パーフェクトコピー』
『パーフェクトコピー』
アンドレアス・エシュバッハ/著 山崎恒裕/訳
ポプラ社
2004.11

ハマグリ:この本は近未来の話だということだけれど、いつ頃のことなのかはっきり書いてないの。クローンを作るというんだから、近未来だろうなと思うけど、それにしては古めかしい感じがした。『ブループリント』は主人公が誰のクローンか最初からはっきりわかっていたけれど、これは主人公がクローンらしい、誰のクローンだろうと思いながら読み進んでいくので、意外な展開もあるし、読みやすかった。でも、厳格な感じのお父さんが急に気が狂ったみたいになる展開が唐突で、えーっ?という感じだった。前半は、主人公の悩みや、女の子に対する気持ちなどを割と丁寧に描いていたのに、後半で急に話を収めようとして無理したのかな。お兄さんの正体が最初のひげ面の男だったのも、え?この人だったの?という感じで。いくらひげ面だって、全くわからなかったなんておかしいじゃない。どうもやり方が陳腐。最後に、ええええ?という読後感が残りました。母親についてもいろいろと疑問が残った。絵が暗いということだけで説明しようとしているのに無理があるんじゃないかな。ガールフレンドは、ただかわいいだけの子じゃなくて魅力的だし、その子への気持ちはうまく書けているけれど、古めかしい。会話の訳し方のせいもあると思う。親友のジェムの口調が子どもらしくないの。「たまげたぜ」なんて普通言わないでしょ。

アカシア: CDで聞くチェリストがパブロ・カザルスとかヨーヨーマなんだから、近未来じゃなくて今の話なんじゃないの?

ハマグリ:それに、トイレの水を紐を引っぱって流すでしょ?クローンを持ってくるんだったら、未来にしたほうがいいんじゃない?

ケロ&すあま:実は現代にもクローンはある、と言いたいんじゃないのかな。

ハマグリ:面白く読んだわりには、違和感が残ったわ。

ケロ:ばばっと読めるのは読めたけれど、後半、父親がマッドサイエンティストになって、おいおい、という感じなってしまいました。陳腐ですよね。陳腐といえば、ヴォルフガングのことが新聞にすっぱ抜かれたときの、学校での反応が、とてもおかしかったです。こうなるの?という感じ。主人公が、真相を知るためにガールフレンドと一緒に姿を消すシーンも、まず、彼の書いた伝言が風に飛ばされる、というのが笑える。また、そういう状態になったら、父親としては捜すのが当たり前だし、まわりも協力するのがふつうなのに、そのへんの反応も変。同じ街にすんでいるというだけで、簡単に巨匠と面会できちゃうのもなんだかなー。なにか、先に筋があってそれに合わせてストーリーを作っているというお手軽さを感じました。最後のほうの警察が出てくるドタバタも陳腐。お話として全然だめだと思っちゃった。お兄さんがフリーライターだというんだけど、この人の意図がよくわからないですよね。 なんで写真を集めていたのか、すべてを明らかにしたいのか、そのあたりも曖昧で。

きょん:お兄さんにとっては、父親は愛憎が絡む存在で、チェロがいやで逃げ出しはしたけれど、やっぱり父親だからというのがあるんじゃない? 父親がどうしてそんなに自分とチェロに執着するのかとか、父親のことが知りたくて、調べたんではないかしら。

ハマグリ:そういうことが丁寧に書けていればいいんだけどね。そうじゃないから。前半は主人公の心が書き込まれていていいと思ったけれど、後半はつじつま合わせのドタバタになっている感じなのよね。

ケロ:前半は自分の将来に悩むという話なんだけど、それと後半の世界観がずれているんじゃないかと思いますね。

きょん:陳腐な話でドタバタでもあるんだけれど、兄さんが父を調べ尽くしたあたりにはあまり違和感を感じませんでした。おそらく父を知りたくて調べていたんで、別に告発したいわけじゃなかったんじゃないかな。
この本のもう一つのテーマは、「才能」をどうとらえるかということだと思う。「ぼくにはチェロの才能はあるのだろうか?」と主人公は常に悩んでる。ここでも、チェロの音がクローンの主人公と兄では違うという事実を押さえて、「遺伝子だけが、才能を決めるのではない、すなわち遺伝子だけ完全にコピーしてもその音楽を奏でる人間性が大事である」とはっきり打ち出してる。いってみれば、クローン人間も感情がある普通の人間であり、人格形成には、環境や経験が大きく関係していて、遺伝子のみが人間の本質を決定するのではないということを提言しているように思った。これは、クローン以外の人間にもいえることで、クローン問題から離れて、普通の子どもたちにも、「才能」について考えるきっかけになるように思う。
はじめは、クローンの予備知識もないし、重いかなと思ったけれど、人間ドラマとしてわりとすっと入れて読めました。お母さんは、愛していたヨハネスを取り返したくて、それがクローンでもいいくらいに思い詰めて、疑いながらもヴォルフガングを生んだんですよね。でも、生んだとたんに「このクローンはヨハネスと同じじゃない、この実験は失敗だった」「この子は、ヨハネスとは全く別の誰かだ」と言っている。遺伝子が全く同じでも、同じ人間とはいえないという、クローンのことを、ちゃんと押さえていると思った。だから逆に、そこまで割り切れていてなぜ暗い絵?と不思議だった。

ハマグリ:母親の父親に対する気持ちがよくわからないのよね。

きょん:母親の気持ちもだし、そういった周辺の書き方が甘いんじゃないかなと思います。テーマはちゃんと打ち出していると思いましたけど。そうそう、それと、本の作りに関していうと、章末の注が多すぎると思いました。もっと文中に入れ込めばいいのに。読みにくかったです。

アカシア:注に関しては、ま、読みたい人は読んでちょうだい、という態度なんじゃないかな。こういうふうに章末についていると、邪魔にはならない。読みたくない子どもはすっとばすしね。
それより、リアリティの有無にいつもひっかかっちゃう私としては、この作品は読むに耐えなかったですね。ストーリーに破綻が多すぎる。『ブループリント』を先に読んで、クローンについての情報がインプットされてたせいもあるけど、基本がお粗末。たとえば、主人公のヴォルフガングは、最初自分は父親のクローンかと心配する。でも、父親に自分の若い時の写真を見せられて同じ顔はしていないとわかる。この時点で普通なら自分はクローンじゃないと安心するはずなのに、まだクローンだろうかとうじうじ心配してる。 PTA会長も、新聞にゴシップまがいの記事が出ただけで、ヴォルフガングには学校を辞めてもらおう、などと言う。写真一枚見せればすむ話なのに、この大騒ぎはなんなの? リアリティなさすぎ!それから、ジャーナリストが現れたとき、当然この人が記事にするだけのものを握っているという設定だから、普通ならヴォルフガングは、この人がどこまでどんな事実をつきとめているのかたずねるはずでしょ? でも、外国語はいくつできるのか、とか、クローンについての知識をたずねたりするだけ。このジャーナリストが実はヴォルフガングの兄だと最後でわかるのも、不自然。兄が、いまだにチェロにさわれないほど父親を毛嫌いしているのに、父親のことを調べようと思いつくのも変。
それからp18の学名として出てくるのは、ただのドイツ語名よね。それにp207には「コックス・オレンジの木はすべて、十九世紀に一本のリンゴの木からつくられたクローンである」って書いてあるけど、普通の読者はオレンジがリンゴの木のクローンだって思っちゃわない? もう少し説明しないと不親切。こんなにひどいものを、わざわざ翻訳して出版しないでほしい。

ハマグリ:お兄さんの父への気持ちが書けていないのが致命傷ね。

:『ブループリント』を先に読んで疲れきった後だったので、物語として面白く読めました。つじつまが合わず変だなぁと思うところはありましたね。例えば286pに父親がドアの外に出てドアが開かないように塞ぐけど、290pで重たい書類戸棚を一人で動かしたことになっている。どうやって動かしたの?とか疑問は残りました。245pの事実が明らかに流れや場面はまるでサスペンス劇場の残り30分みたいでした。ところでヴォルフガングを身ごもって慌てて結婚、というのって、変じゃありません?

アカシア:それまでは籍を入れてなかったんじゃない。向こうではそういう人が多いから。

:女の子絡みのところは、青春物語として楽しく読めました。

何人か:でも、有名な音楽家の教授に、こんなにすぐすぐアポが取れるかなあ? 最初からこの教授しかいないっていうのも、お手軽だよねえ。

:教授が才能について語っているところが、作者のいいたいことだったんでしょうね。まあ、「火曜サスペンス劇場」を本で読んだという感じでしたね。

すあま:私は、クローンというより天才に興味があるんですね。それでこの本も、兄のような天才をもう一度作りたいという願望があって、それを叶えるのにクローンを作ったけれど失敗した人の物語という感じがしました。天才を人為的に作れるか、という問題はおもしろいと思います。でも、主人公が数学で才能を発揮する、という展開の仕方にに納得いかない。他の楽器くらいでいいような気がします。数学、というのも、先生に言われてではなくて、好きな女の子に近づくために始めるとか、もう少し工夫があってもよかったのでは。
とにかく、すっきりしないまま終わりました。最初のほうで登場したマツモト君がその後も登場して活躍すればおもしろかったのでは、と思ったりしました。シドニー・シェルダンを意識しているようなので、こんな感じなのかな。

アカシア:クローンだって真空状態・無菌状態の環境で暮らすわけじゃないでしょ。そうするとエゴから自分をつくりだした人——『ブループリント』だったら母親だし、『パーフェクトコピー』だったら父親——を当然恨んだりするようになると思うのね。だからその人の意図を素直に汲んで素晴らしい芸術家なり科学者なりになるっていうのは考えにくいわね。
この後、クローンというテーマで書くとすると、ゴシックロマンにでもしないと難しいのではないかという話でひとしきり盛り上がりました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年1月の記録)


ママは行ってしまった

クリストフ・ハイン『ママは行ってしまった』
『ママは行ってしまった』
クリストフ・ハイン/著 松沢あさか訳
さ・え・ら書房
2004

アサギ:この作家はドイツでは純文学で有名で、ふだん児童書は書いていないのね。原作も最初は大人の本として出されて、そのあと子どもの本として出しなおしたみたい。作品自体はおもしろく読んだんだけど、ものすごく古い感じがするのは、この作家が東独出身ということと関係があると思う。西側世界からみると、数十年昔の感じがするわね。上の兄のカレルは15歳でガールフレンドができて、弟や妹が「あの二人はキスするのかどうか」を話題にしてるけど、西独では、十数年前から、生理が来たらコンドームをもたせるよう学校で女の子の親に指導しているくらいですからね。
ところどころ好きな文章がありました。たとえば、大司教がピエタを見にきて、彫刻については一言も発しなくても、はじめからおわりまでその話をしていた気がするというところなんか、印象に残りました。文学性を感じましたね。それから、作品の中でくりかえされる「悲しめることの幸せ」って真理よね。訳は、気になるところが、ちょこちょことありました。パパは大司教のことを「あんた」と呼んでるんですけど、これはduを「あんた」と訳してるんだと思うんですね。だけど、二人称のduとSieについて言うと、これは間柄の距離が近いか遠いかをを表すものなので、duを機械的に「あんた」と訳すとおかしなことになります。それから、ママもパパも10歳の主人公の女の子に対して「わたし」という一人称を使ってますけど、これも、どうなのかしら? 145ページの「宿屋兼食堂」っていうのは「旅館」のことでしょうね。

トチ:いかにもベテランらしい、手馴れた書き方で、死をどう受容していくかを書いた作品ね。幸せな仲の良い家族で、父親は腕のいい職人だし兄たちは成績優秀。世間的にも認められていて経済的にも安定していれば、こういう理想的なかたちで死を乗り越えていけるわよねと、ちょっと意地の悪い見方をしてしまったけど。安心して読めるし、子どもたちもしみじみと読むのではと思ったけれど、新鮮な驚きはない。今の世界とか、今の児童文学と少し離れたところにある作品ね。おもしろかったのは、父親が、亡くなった母親に子どもたちを会わせないところ。日本では考えられない場面で、こういう文化の違いとか、考え方の違いを知るというのも、翻訳ものを読む楽しさよね。ですます調のやさしい語り口で書いてあるけれど、ところどころ難しい言葉や、難しい考え方も出てきて、主人公の女の子の年齢や、対象とする読者の年齢をどの辺に置いているのか分からなくて、とまどってしまった。兄のパウルが主人公のウラに対して「そんなことないはずだがな」(p.45)と言ったり、ウラの友だちが「わたし、泣けてきちゃうの」(p.34)なんていうところは、子どもの会話らしくないなと思いました。

:1月にお母さんが死んでから11月くらいまでの話になっていますけど、お母さんを失った喪失感みたいなのがあまり感じられませんでした。『ミラクルズ・ボーイズ』(ジャクリーン・ウッドソン著 理論社)では、子どもたちが母親を亡くした悲しみが切ないくらい伝わってきたけど、この作品からは、ひとりひとりの悲しみが迫ってきませんでした。台詞が長くて、教会で牧師さんのお説教を聞いてるみたいに感じました。大司教のキャラクターはおもしろいとは思ったけれど、全体に淡々とした日記を読んでいる感じ。「お相伴する」とか「お対のデザイン」なんていう言葉が出てくるので、よけい古い感じがするのかもしれませんね。

紙魚:確かにリアルな生活や家族が描かれている作品ではないけれど、死をどうとらえるか、どう乗りこえていくかという問題をわかりやすく書いているという点では、作家の志のようなものを感じました。死と芸術、家族と再生の物語が、この子たちの時間を追って生活の中で描かれています。生活を読むというよりは、生活に意味をあたえるという作品だと思います。ひとつひとつの実際の死を細かに書いていくと、リアルな悲しみを感じすぎてしまい、死について思索する間をあたえてもらえない場合もありますが、ゆっくり読むことができ、それが、この家族たちのゆっくりとした一歩ととらえることもできました。それから、芸術についての記述はうなずける箇所が多かったです。ただ、本文中のカットと表紙の絵が合ってないような気がしたんですが。

アサギ:これ、カットも表紙の絵もズザンネ・ベルナーっていう、アンデルセン賞の最終候補になった人が描いてるのよね。絵本作品とは、また違う趣だけど。

ケロ:私は、このカットは父親の作る彫刻をイメージさせていると思って、しっくりきました。『タトゥーママ』とは、リアリティという点でまったくちがうけど、現実感のなさに、いやな感じは持たなかったです。それは、家族が意見交換するひと言ひと言が、じっくり読め、心に響いたからだと思います。この作品は、そのひと言ひと言を言いたいがために書かれているようで、ある意味、哲学的な本ですね。とくに、司教さんの言葉で、「あんたたちは、ママがいなくなって不しあわせだとおもっている。だが、かんがえてごらん。それはあんたたちが以前にとてもしあわせだったからだよ。わたしは妻や子をうしなうかなしみをあじわうことはない。しかし、そのかなしみを手に入れることができるものなら、わたしはあるいは、どんなに高い代償でもはらうかもしれない」と言いますけど、この言葉はこの家族にとって大きな励ましになっていると思うし、読者の心にも響くと思います。気になったのは、登場人物の年齢設定。ウラは、まだ人形遊びをしているなど、ちょっと10歳とは思えない。どういうことなんでしょう?

ハマグリ:出たばかりのときに読んだんだけど、ものすごく印象がうすい本でした。作家に言いたいことがあって物語にしたのだろうというのはわかるし、悪い感じはしないんだけど、あまりおもしろみが感じられなかったし、子どもたちににすすめたいという気も起こりませんでした。主人公はたしかに10歳の女の子にしては、幼く描かれていますね。一文一文が短い文章は原文に忠実に訳されているんでしょうが、そのせいか文章全体も幼い感じを受けました。お父さんがピエタという芸術作品をすばらしい出来に仕上げるということが最後のキーポイントになっているんだけど、芸術作品の良さを文章に表わすというのは難しいことなので、どんなにいい作品なのかがよく伝わってこなくて、残念でした。

むう:なんか古めかしいなあという印象でした。温かい家庭が悪いわけじゃないし、身近な人の死の悲しみをどう乗り越えるのかを書くのも結構だと思う。ピエタ像に微笑みを入れることで最後に宗教的なイメージに昇華していくのもなるほどなあと思うんだけれど、なにしろ心に迫ってこない。ふうん、そうなんだ、という感じ。すてきだなと思う台詞があるにはあるけれど、人間が悲しみを乗り越えるときというのは、そういう言葉のすばらしさで乗り越えるんじゃないと思う。もっとデリケートな細かいことの積み重ねがあって、やっとコトリと落ちるようなものでしょう。なんだか、さらっと読めてしまって後に残らない本だった。

愁童:ぼくもあんまりおもしろいとは思わなかった。数学の公式集を読んでいるような、ごくあたりまえのメッセージ。オリジナリティが感じられない。筆力でキャラクターを描ききると言うより、ストーリーの枠組設定で読者の中に誘発される喪失感や同情心に寄りかかって勝負しているような感じを受けた。作者の関心が、母親を失った女の子にあるのか、妻を失った職人の方にあるのか、どっちなんだ、なんて思った。どうでもいいような部分で、説明しすぎだったりして、訳文の影響もあるかもしれないけど、あまりぴんとこなかったな。

アカシア:さっきトチさんが出来すぎの家族って言ってたけど、実はそうでもない。上のお兄さんは買い物にいっても何を買うべきか忘れちゃうし、下のお兄さんもオリジナリティがありすぎて社会に適応できなさそう。お父さんのところにも、ガールフレンドがたくさんくる。どうも、そんなにパーフェクトな家族でもない。
日常の出来事が淡々と描かれているのは確かだけど、けっこう味わいが深いな、と私は思いました。お父さんが妻の死を乗り越えていく姿を見て、ウラが自分も乗り越えていこうと思うのも、ちゃんと伝わってきた。私もウラは幼いとは思ったけど、作家が東独の人だと聞いて納得しました。統合後はどうなのかわかりませんけど、以前の東独の人ってとっても純粋で、すれてなかったから。今出ている作品の多くはもっと刺激が強いから、これを読むと淡々としすぎて印象が薄いという感想につながるのかも。でも、ママの墓石には名前と生没年しか書いてないけど、「パパも子どもたちも、そういう気持ちは大きな字で書いてみんなに知らせることではない、とおもったのでした。だって、墓石はメガホンではないのですから」という表現とか、お兄さんたちの性格の描写とか、パパがウラに「おまえがなにを見つけだすか、おまえ自身とおなじように、どきどきしながら待っているよ。でも今からもうわかっていることがある。ウラはきれいで、かしこくて、勇気のあるおとなになるんだ。ママとそっくりにね。それをママは、ちゃんとおまえにプレゼントしてくれたのだから」と言うところとか、なかなか味わいがあります。大傑作とはいえなくても、ちゃんと文学を書いている作家ならではの作品だと思いました。

トチ:最初は大人向けの作品として書かれたと聞いて、なるほどと納得したわ。淡々とした日常を綴っていくうちに人生の奥底が見えてくる・・・・・・日本で言えば庄野潤三のような味わいのある作家なのかも。

愁童:司教をフレンドリーな性格として描こうというのは理解できるけど、キルスト教文化の中では、司教様と普通の職人とじゃ身分がちがうんじゃないの。そのあたりの微妙な上下感覚が感じられる訳になってないのが残念。

紙魚:お兄さんたちがそれぞれユニークなのに、会話にそのおもしろさが出ていない。

:葉巻がよく出るのには何か意味があるの?

アサギ:ドイツでは昔おみやげというと、その家のお父さんには葉巻、お母さんにはバラの花束、子どもにはチョコレートっていうのが定番だったの。いちいち考えなくていいから、楽だったのよ。

カーコ:私ははじめつまらなくて、読み進むのがすごくつらかった。でも、全体としては、女の子の心理描写が今回の3冊の中ではいちばん細かく書かれていて、いい本だと思いました。じゃあ、なんで読みづらかったのかなと考えると、それは主人公に視点が定まっていないからじゃないかと思うんですね。だから、トチさんが言ったように、誰に向けに書かれているかわからないという印象にもなってしまうのでは? 家族が言葉でお互いの気持ちを説明しあうところは、あいまいな表現を好む日本人と対照的ですよね。お母さんが亡くなったあと、だれもかれもが同情してくるのに違和感を覚えるとか、バカンスの初めにお兄さんがお母さんの決まり文句を言ってしまって気まずくなるなんていうところは、一家の心情を浮き彫りにしているエピソードですね。最近はストーリー展開ばかりで読ませる本が多くて、こういう作品は少なくなっているような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年12月の記録)


タトゥーママ

ジャクリーン・ウィルソン『タトゥーママ』
『タトゥーママ』
ジャクリーン・ウィルソン/著 小竹由美子/訳
偕成社
2004

ケロ:壊れていく母親を見ているドルの気持ちがつらいなあと思いながら読みました。子どもは親を選べないのに、こんな母親でも好きでいるという現実がきちんと書かれているだけに、つらい。こういう状況にある子どもが読んだとき、果たして助けになるのかなあと、疑問を持ちながら読んでいきました。でも、最後にカタルシスがありましたねー。客観的に母親を抱きしめるというところが、主人公本人の救いにもなっていて、これなら「子ども向け」の作品としてオッケーだ、と納得できました。全体の中では、ドルとスターの父親が両方とも見つかるのは話として出来すぎという感じがしましたが、自分の中にもお父さんはどんな人なんだろう、という興味があったので、ご都合主義な感じを受けずに楽しんで読めました。お母さんのマリゴールドは、精神的にも不安定で、かなり特殊な存在。でも、お母さんがひとりの人間として満たされず特別な存在になりたいと思っている、というのはよくあることだと思うと、ひいてしまわずに感情移入しながら読めたかな。

ハマグリ:ジャクリーン・ウィルソンの作品は、今までもたくさん読んでいますが、どれも困難な状況におかれた子どもを書いている。結末は安易なハッピーエンドではないけれども、必ずどこかに未来への道がついているのがいいですね。それからどんなにすごい状況でも、ハハハと笑える部分が必ずあって、楽しませてくれるところもすごい。この明るさは、イラストによるところも大きいでしょうね。ドルとスターという姉妹は、大好きでお互いをとっても必要としているんだけど、それゆえに許せない部分があって、ぶんなぐりたいくらいの反感ももっている。そうした関係もよく描かれています。リアリスティックな作品のなかでは、この作者のものは子どもに勧めたいわね。

むう:うまい人だなと思いました。出だしからこっちを引き込んでぐいぐい引っぱっていくあたりも、この家族のある種のチープさもよく出ていて面白かった。ただ、わたしの視点がどうしてもふりまわされる側の子どもたちに寄ってしまって、「このお母さん、なんだかなあー」と思うところもありました。だめ母さんでも好きで好きでしょうがないという子どもの気持ちはとてもよく描けているし、それが切ないんだけれど。ミッキーが見つかったり、主人公のお父さんが見つかったりで、どうなっちゃうんだろうと最後まで引っぱられたし、この子たちがそれぞれに家族とは別の世界に触れたうえでふたたびママを抱きしめるというのもいいと思ったけれど、最後の338ページのお母さんの台詞にはすごく引っかかった。病院のカウンセリングの時間の話で、「しつこくしつこく、小さなころのことをきかれたわ。で、しまいに、ひどい話をぜんぶぶちまけちゃった。お母さんのこと、お母さんがあたしにしたこと、どれだけお母さんをにくんだか。そしたら、気がついたの。あたしもおなじだって。あたしも、おなじようなことをあんたたちにしてきた。ふたりとも、きっとあたしのこと、にくんでるわよね」って言うんだけど、こんなふうに説明しちゃうのはお手軽だなあ、と思って。この台詞、いらないですよね。ここまでで、このお母さんはまるで信用できなくて、それでも子どもたちはこの人が好きでということがわかるんだから、それでいいじゃない。

アカシア:私は、この台詞がすごくきいてると思うんです。お母さんは初めて精神科病棟で治療を受けてるわけだから、この台詞がないと、これからはまともな母子関係になるのかな、と読者は思ってしまう。でも、このお母さんは、これまでも時には「自分はだめな母親だ」って言ってきたけど、状況はちっとも変わらなかったんですね。ここも、この台詞があることによって、読者に「また言ってるけど、これからも変わらないんだろうな」と思わせる。だから、娘たちは、ここで心底悔い改めたお母さんを選び取ったんじゃなくて、お母さんは変わらなくてもそれでも好きなんだ、という設定がより強く浮かび上がってくる。

むう:つまり、だめ押しみたいなものということかな。でも、そこまでする必要があるかなあ。この本を読み終わって、まず、力があるなあ、うまいなあと感じたんだけれど、同時に、「でもなんかざらざらしてる。なんだこの違和感は」と思ってその原因を考えるうちに、このお母さんの台詞に行き当たったんです。自分のなかでここだけが消化しきれない感じで。

ケロ:でも、キルトづくりをさせられて、パーツが合ってないと娘に言われ、「どんなキルトになると思う? 信じられる? クレイジー・キルトっていうのよ」って台詞、やっぱりこのお母さんならではって感じですよね。状況的な大変さは変わらないけれど、あきらかにこの子たちの心境は変わっている。

愁童:ぼくも、むうさんといっしょ。心理学ブームだからって、セラピストの定番みたいなところによっかかるのはどうかな。こういう子どもを幸せといえるのかなとは思うんだけど、原題のThe Illustrated Mumには、作者のメッセージがうまく込められているように思った。Illustrateされちゃったママで、それに振り回されるけど、それでもママはかけがえがないという、のっぴきならない母子関係。その中で、主体的に生きざるを得ない子の、母が居てこその幸せみたいなことについて考えさせられちゃった。

アカシア:この作家は、本当に子どもに寄りそって書いてますよね。現実にこういう子どもはいっぱいいるんでしょうけど、その子たちが気持ちの出口をさがしていくところが書かれている。ハマグリさんはリアリスティックな作品として子どもに勧めたいと言ってたけど、私は純粋にリアルなんじゃなくて、エンタテインメント的な要素がとても強いと思う。娘たちのお父さんがそれぞれ都合よく見つかるなんて、リアルじゃないですよ。ただ心理的な動きはリアルで、読者の気をそらさない。うまいです。子どもたちに大人気なのも、当然ですね。
これだけひどいお母さんだったら家出するのがふつうで、なかなかお母さんを受け入れるところへは行き着けない。でも、家出したスターのことが心配なあまり、スターがきらいだったタトゥーを消そうとして、お母さんは体中に白ペンキをぬりたくってしまう。その異常な行動から、最後に娘たちがお母さんを抱きしめるところまでは、下手な人が書いたら嘘臭くてとても読めない。でも、この人が書くと、ついていけるんですよね。うーん、すごい。
あとね、さっきのお母さんの台詞について、もう一言。マリゴールド自身の母親との関係がここで初めて出てくるんですよね。文学好きな読者にとっては、なくもがなと思う気持ちもわかるけど、これがないと、マリゴールド=クレイジーですませてしまう子どもの読者もいるような気がします。

カーコ:お話としてはおもしろくて読ませられたんですけど、いったい誰が読むのかなと思いました。実際にこういう状況にいる子の力になるのでしょうか。どんなに悲惨な状況に置かれていても、子どもがお母さんを好きなのは当然のこと。10歳の子がこんな目にあって、健気に母親を支え、精神的に自立していなければならないというのが、あまりにもかわいそう。わざわざ子どもに読ませたいとは思えませんでした。大人に対する理解を子どもに強制しているように感じました。

アカシア:渦中にいる子は読むだけの余裕がないかもしれないけど、まわりの子がそういう子を理解するのにはとても役立つ。それに、オリヴァーとか、ドルのお父さんとか、里親のジェインおばさんとか、味方になって支えてくれそうな人物も登場し、ドルの世界も広がって孤立無援ではなくなっている。10歳の子に「健気」を押しつけることにはなってないと思うけど。

ケロ:これほどスゴイ状況まではいかなくても、今のお母さんって少なからずこういう部分があるので、子どもとしては、少しシンクロできるのではないでしょうか? 映画『誰も知らない』(是枝裕和監督)は、救いがまったくないけれど、これはユーモアがあり救いがあると思うので、母の「こういう部分」を理解するなり判断するなりする材料になるのではないでしょうか。

愁童:下の階のおばあさんの描き方がうまいね。批判的な世間の目の代表みたいな存在なんだけど、文句を言いながら電話を取り次いだりと、結構助けたりしちゃう。このおばあさんの存在感で、主人公一家のハチャメチャな生活に立体感が出てくるよね。

アサギ:私は時間切れで、まだ半分しか読んでないんです。イギリスならともかく、翻訳して日本の子どもにこういう物語を読ませる必然性がわからない。せつない感じがしちゃってね。

トチ:それはまだ読んでる途中だからじゃない?

アサギ:日本の状況とは、ずれていると思いません?

アカシア:日本も、もうすぐこうなるんじゃない? お金もうけのために自分の子どもに売春させる親だって出てきたくらいだから。

アサギ:まあ、このお母さんの場合、憎めないところもあるけれど。

トチ:子どもには、なにがあっても親についていくという生物的な本能もあるし、親から離れられないってこともあるしね。

愁童:姉妹の母親への思いの、それぞれの年齢による微妙な差が、うまく書かれているよね。

トチ:まず、これほど暗くて悲惨な状況を、これほど明るく、ユーモアもまじえて書ける作者の力量に感心しました。書きようによっては限りなくいやらしくなる母親も、切なく、かわいらしく描けていることに、またまた感心。昔の児童文学って、『小公女』のように不幸な主人公が状況が変わることによって幸せになるというのが典型だったけど、この作者は環境が変わらなくても、主人公の内面的な変化や成長で救われるということを一貫して書きつづけている。このほうが読者である子どもにとってずっと現実的だし、救いにもなるわよね。それから、作家であれば誰でも一度は「狂気」を書いてみたいのでは、と思うんだけど、ウィルソンもそうだったのでは?そんな作家魂が垣間見えるような気がして、おもしろかった。

:はらはらしながら読みました。でも、お母さんの幼さが、わりに魅力的に書かれていて、学校にショートパンツ姿で迎えにいくシーンなんかもおもしろかった。みんなから鼻つまみにされている母親でも、娘である当人だけにわかる愛情を抱いているのは伝わってきましたよ。スターに父親が見つかり行き場が出来た時から、お母さんが崩れていくという流れはすごかったですね。そのスターが距離をおいて離れて暮らしたことで、また優しくなれるというのもわかります。このままの暮らしを続けていたら破滅するしかないですよね。

紙魚:主人公の環境があまりにもひどいので、読むのがつらかったです。アルコール依存症の親とかに読んでもらうと、子どものつらさがわかっていいかもしれないと思ったくらいです。作中ときどき顔をのぞかせる、オリヴァーのやさしさとドルフィンという美しい名前には、かなり励まされました。スターとドルの姉妹って、年齢の差や性格のちがいから、母親への接し方が全くちがうのですが、その時々どちらの気持ちにも共感できて、どちらの方によって読んでいっていいのか、かなり振りまわされました。だから最後までお母さんへの好き嫌いが決められなかったのですが、それもやっぱり、この作家のうまさなんだと思います。家族ならではの、ひとつのところにとどまらず常にぐるぐるとスパイラルして動いている感じが、とてもうまく表現されていたと思います。

トチ:大人は怖いもの見たさで悲惨な物語を読みたいということがあるけれど、子どもはどうなのかしら?

アカシア:極端な設定を使うと、はっきり見えるてくるものもあるんだけど、それをどう描くかというところが大切よね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年12月の記録)


祈祷師の娘

中脇初枝『祈祷師の娘』
『祈祷師の娘』
中脇初枝/著
福音館書店
2004.09

:タイトルから判断して、古い時代の話かと勘違いしました。祈祷師の世界を描いた児童文学は、はじめて読みました。私は九州生まれですが、小さい頃、肌が弱くて祈祷師のところにいったことがあるんですよ。治らない病気や相談事があると、みんな自然にに行ってました。

愁童:今でも、こういうことを日常生活の中に自然に織り込んでいる所ってあるよ。

トチ:文学作品としてよく書けていて、おもしろかったです。縁日で買った金魚が自分では向きが変えられないので、水槽に手をいれて変えてやるところとか、死んだ金魚に、つつんだ新聞紙の字がうつっているところとか。周りの友達の描写も実にうまい。宮部みゆきやスティーヴン・キングは超能力を持つものがこの世界で生きていくことの苦しみや悲しみを描いているけれど、この作品は家族のなかで自分だけが超能力を持たない者の悲しみを書いているところがおもしろかった。最後に超能力がなくても人を救えるということが分かって、主人公も救われるのよね。いま玄侑宗久の『リーラ:神の庭の遊戯』(新潮社)という本を読み終えたところなんだけど、ここでも同じような世界が描かれているのよね。こういう文学がいま流行なのかしら。私はあんまり子どもたちを霊的なものにのめりこませたくないほうなので、この作品を児童文学として子どもに手渡すことに一抹の不安がよぎったことも確か。こういう世界もある、ああいう世界もあると子どもたちに伝えるのはとてもいいことだと思うんだけど・・・・・・

アサギ:超能力を授かったものの悲しみといっても、私には違和感バリバリですね。『黄泉がえり』(梶尾真治著 新潮社)とか『秘密』(東野圭吾著 文春文庫)とか、このところ、こういうのって流行っているんでしょうね。この人は、こういう力を肯定して書いているんでしょうが、どれだけ信じて書いているのかしら?

カーコ:私もどうとらえていいかわからない感じでした。主人公の春永は最後に、超能力も血のつながりもないけれども、この家族の中で生きていこうと決心するわけですよね。学校での、一見仲の良い友だちとの確執とか、男の子が祈祷に興味を持ってくるところとか、うまいなと思いましたが、なぜ祈祷師という設定にしたのか、わかりませんでした。時代的にはいつごろが舞台なんでしょうね?

アカシア:ひかるちゃんが小学校で留年しているという記述があったので、昔のことだと思ったんだけど。

アサギ:でも、アンパンマンが出てくるし、義務教育の留年は今でも希望すればできるのよ。

アカシア:挿絵(卯月みゆき)が、昔なつかしい感じじゃない? 超能力に違和感を感じる人が多いみたいだけど、日本でもたとえば沖縄のユタは日常生活に浸透してますよね。アフリカのノーベル賞作家が書いた自伝なんかにも、霊能師はごく自然に出てくる。今はよくも悪くも日本の都会は近代合理主義におおいつくされてしまって、「気」のようなものを迷信と決めつけてしまう。さっき霊的なものに惹かれる危険性という話が出ましたけど、この作家はちゃんとコックリさんの危険性も書いてるし、きちんと修業しないと祈祷師にはなれないと書いて、ふわふわととびつくことに警鐘も鳴らしている。

アサギ:でも、スタンスがわからないのよ。私は、肯定するってところがそもそもわからない。それとね、総ルビはやりすぎよね。読みにくい。

アカシア:合理的な考えからはずれて切り捨てられたものを拾い上げてみるっていうスタンスなんじゃないの? それから、昔の子どものほうが漢字が読めたのは、総ルビの本が多かったからだという説もありますよ。

愁童:ぼくはおもしろかったですね。こういう力を信じているってわけではないけど、会社の優秀な技術系の同僚に、生活の中に、こういう「おがみ屋さん」との接点を大事に持ってる奴が居たんですよね。この作者は、そういうものを取り込んだ近隣の人達の日常にきちんと目配りをしていると思う。ひかるちゃんがなんでこうなっているか、なんてことも、きちんと書いている。奇異な題材を用いて、日常の中にある影の部分に光を当てているように思いましたね。

むう:冒頭で、「おかあさん」と「母親」と「お母さん」と三種ずらりと出てきたのにはちょっと戸惑いました。でも、それも後になると納得できて、今回の三冊のなかではいちばん自然にひきこまれて読むことができました。ちょっと前に理科系の顔をした超常現象がブームになって、そういうものにはアレルギーがあるのだけれど、この本には、まともらしく見せようとする嘘臭さがない。おしつけがましさがなくて、生活に溶け込んでいる様子が書かれているので、こちらもすうっと入れてしまう。それに感心しました。それと、読んでいて主人公の心のひだが手に取るようにわかる。この本の主人公は、超能力者という世間からはぐれた人々の中でさらにはぐれた普通の子なわけです。かなり特異な設定なのだけれど、人間の持っている普遍的なところがしっかり書けているなあと思いました。最後のほうで、超能力を持っていなくても人を助ける力はあるというところに収めるのもうまいですね。あと、この主人公が母親に置いていかれたにもかかわらず安定しているのは、周りの人にちゃんと尊重されて育ってきたからだと思うんですが、そういう子が主人公だからこそ読後感がいいんでしょうね。

ハマグリ:ディテールの書き方がうまいわね。主人公の目に映った情景をくっきりと切り取って描くのがうまい人だな、と思った。会話もいきいきとしている。でもこの四人の家族のつながりって、とても不自然なので理解できない。自分だけが祈祷師の力を備えていないということで主人公が悩むのはわかるけれど、そんなことに悩む前に、この家族がこうやって成り立っているというところに来るまでの悩みがあったはずじゃないの? この主人公が、このおかあさんという人をおかあさんとして受け入れなきゃならないというのがそもそもよくわからなかった。変則的な家族だけど、このような家族として成り立つまでの過程が全く書けていないので、違和感が非常にある。最後の駅の場面でも、このおかあさんをそこまで思う気持ちがよくわからない。

トチ:その部分はディテールで書けてると思うけど。『タトゥー・ママ』で主人公が終わりのほうで里親の家に行って、すぐに好きになるでしょ? あれと同じじゃない?

アカシア:現代の児童文学には、血のつながりのない者たちが血縁に頼らずに家族の関係を構築するっていう物語が多いわよね。それに、昔だって戦争とかいろんな事情で、血のつながりがない人と暮らしている人って日本にもいっぱいいたんじゃない。

ハマグリ:血のつながりにこだわっているわけではないの。

愁童:おとうさんといっしょに水をかぶったりする行為とかで、その辺は書けていると思うけど。

ハマグリ:どうしてこんな変則的な家族ができたのかってところをもっと納得させてほしいの。だって、おかあさんとおとうさんは兄妹なわけだし。こんな家族の形になぜここまで固執するのかがわからない。

愁童:冒頭の部分で、自分の母親の顔を知らない記憶の原点みたいな描写が出てくるけど、ここは文章が妙に持って回った表現で、頂けないと思ったな。

ハマグリ:結局、四人の家族ができちゃってからの話になっているので、どうしても不可解な感じがある。

ケロ:テーマが「母親」だったこともあって、そっちの切り口で読み進めました。そのせいか、超能力などの設定には違和感をもたなかったです。だから、祈祷師の血=家族の血ってこととしてすんなり入りました。主人公は、自分の出生の事から、血縁を含めて、誰かとつながりたい、といつも感じているんですね。主人公がふらふらと山中君のことを好きになっちゃうのも、結構自分勝手な友だちといつまでもつきあっちゃうのも、だからかな、と思います。春永は、いつもどこかでその答えを求めている。それが切ないですね。それにしても、「今、つきものをはらったから」という会話が出てくる家族ってすごいですよね。余計リアルに感じました。ひとつぶっとんだ設定をおくと、他が光って見えてくるんですね。おもしろかったです。

:『祈祷師の娘』というタイトルと「自立の物語」という帯の文言が、あまりにも相反していて、読む前はなんだかしっくりきませんでした。でも読んでみると、まさに自立の物語が描かれていました。どこにでもいるようなふつうの少女の生活を単純に書いたのでは、なかなか自立という部分は浮かびあがってきません。でも、「祈祷師」という普段垣間見ることのできない設定を加えたことで、逆にもっと切実なリアリティがうまれていると思います。もともと私は、非科学的なものにはクールなので、占いなんかにも全然興味がないのですが、こういった不思議な力が生活に入りこんでいるというのは、人間として余裕があって、じつは生き方の幅が広いのではないかとも思うことがあります。そんなことをも感じさせてくれる本でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年12月の記録)


マイがいた夏

マッツ・ヴォール『マイがいた夏』
『マイがいた夏』
マッツ・ヴォール/著 菱木晃子/訳
徳間書店
2004.05

アカシア:舞台となっている時代の、この年齢の男の子が、とてもうまく書けてますよね。ハッセがわざと危険な位置でダイナマイト爆破を見る冒頭の場面、プレスリーのレコードを聞きながら子どもたちが踊る場面、犬に吠えられそうになりながらイチゴを盗む場面、おばあさんがロープを渡そうとする場面など、一つ一つのエピソードが生き生きとしていて、リアルに浮かびあがってきました。訳もとても読みやすい。ただ設定からして、大人が少年時代を回想して書いているということなので、客観的にこの年齢の少年を分析する文章が随所に出てきます。それに、たとえば5ページの「片手で女の子の髪をつかもうとしながら、もう片方の手で地面の深い穴をさぐっている12、3歳の少年たち。どこにでもいる少年たち。彼らは、どちらの手がつかもうとしているものにも気づかないふりをし、無邪気に生きているように見える。だが本当は夜明けがくるたびに、自分の中にひそむあこがれを感じ、子ども時代の終わりのにおいをかぎつけている」などという文章には、ノスタルジーも感じます。そういう部分は、同年齢の子どもが読んだら、どうなんでしょうね?

ハマグリ:たしかに、突然30年経った今の自分の見方が出てきますね。子どもの気持ちに沿って読んでいける物語だけに、そこは物語世界から引き戻されてしまう感じはあったけど、とても描写が生き生きとしていて、おもしろく読めました。語り手の少年は、ちょっとおとなし目で、それに対して親友は魅力的でハチャメチャで、という設定は、少年たちの出てくる物語にはよくあると思いました。『スタンド・バイ・ミー』(スティーブン・キング著)のゴーディーとクリスもそうだし。脇役の人物描写も上手で、特にママがうまく書けていると思う。シチュエーションを目に見えるように書ける人で、冒頭の爆発を見物するところの黄色いジープの描写が、今度は黄色い蝶に転換していくあたり、うまいし、マイが手首に結んでくれた水色のリボンの色も印象的に使っています。結末は悲しいのだけれど、二人のやることはいつもどことなくユーモラスなので、楽しく読めました。子どもの世界をとてもよく知っている人だと思いました。

ケロ:単館上映の映画館で上映される映画を見ているような感じで読みました。今回のテーマが、「何かが始まって何かが終わるという、ひと夏の物語」なので、どの本も、どういう結末になるのかに引っ張られるような気持ちで読み進めました。特にこの話は、結末をにおわせる部分が多いので、非常に気になりながら読みました。でも、それだけでなく、結末までの一つ一つのエピソードの重ね方が上手で,確実に厚みになっているという気がします。主人公の劣等感や悲しみ、恋心など……。たとえば、父親が牝牛に絞め殺されてしまったということを主人公が知るところなどは、悲しいのに、ユーモラスで切ないですね。ただ、「13歳の男の子ってこうだったよね」というように、昔の自分を達観して、さらに今の読者に「そういうもんだよね」と同意を求めているように感じるところがあります。読者が大人ならまだしも、まさしく13歳くらいだったら、素直に読めるもんなのかしら?と、私も思ってしまいました。

トチ:たしかに子どもの読者にとっては遠い昔の、遠い国の物語なので、ついていけるかなあとは思いますが、ひとつの文学作品としてみると大変な傑作だと思いました。なによりも登場人物のひとりひとりを、多面的な人間としてしっかり書いてある。貧しくて、心身の発達がおくれているトッケンという男の子にしても、ただの可哀想な子どもではなく、なかなかしたたかな面も書かれていておもしろいと思いました。物語の導入部は、まるで映画を見ているように、小さな島のいろいろなできごとを語っていますが、しだいに読者の不安をそそる3つの爆弾がそのなかに埋め込まれていく。1)ダイナマイト 2)マイの心臓が悪いこと 3)主人公がそのマイに水泳を教えてやると言い出すこと。それが最後には雪崩のように悲劇に結びつく展開になっていく。悲劇が起きてからの説明を、それまでの書き方と違う主人公と警官の対話にしたあたりも、とてもうまい書き方だと感心しました。一つ一つの情景描写もすばらしく、特に教室で主人公の前の席にすわったマイの髪の毛が主人公の机にさっと広がり、通り雨のようにまたさっと消えていくという描写が、情景だけでなくそのときのかすかな音まで聞こえるようで印象に残りました。菱木さんの翻訳も、いつもながら美しくて見事な訳文だと感心しました。

ブラックペッパー:今月のテーマは「ひと夏の思い出」ということで、選ばれた本3冊のうち2冊が書名に「〜の夏」と、夏がついていますね。書名としては、いちばんキマりやすい季節なんですね。春夏秋冬のなかで、本でも映画でもタイトルの登場回数ナンバーワンなのではないかしら。そして、みんな、はかない恋をしちゃったりするのよね。これも夏という季節のなせるワザか……? と、まあそんなことはいいんですけど、私はこの本、とっても好きでした。最初、手にとったとき、400ページもあってけっこうなボリュームだわと、ちょっと敬遠したい気持ちだったのですが、私の好きなスウェーデン、それもゴットランド島が舞台だとわかって、急に興味がわいてきて、ぐんぐん読み進みました。もー、なんという乙女ゴコロあふれる、愛らしい少年たち! 初恋のとまどいといいますか、心の揺れが細やかに、とってもよく描かれてると思います。いいですねえ。大好き。ひとつ不満をあげるとすれば、マイが死んでしまったこと。死なないでほしかった……。マイがいなくなるってことは、書名からも見えるから最初からわかっていたとはいえ、〈死〉ではなくて転校してしまうとか、仲良しではなくなって遠い存在になるとか、そういうのがよかった。だって最後が〈死〉だと、おさまりはいいけど衝撃が大きすぎる。それまでの繊細さが薄らいでしまう感じ。

アカシア:乙女ゴコロって、繊細っていうこと? ある時期のことを切り取った形で書くとすると、「死」を出して区切りをつける設定になるのかも。

ケロ:髪を切ったところを読んだとき、一瞬、マイは死ぬのではなく、「憧れのマイ」という対象が消え、恋が終わるのかなと思いました。髪を切るという行為は、マイが今までの自分でない、新しい自分に脱皮したいという思いのあらわれですよね。このあたりから、マイが2人の男の子とは、違う道を行ってしまうのかしらなんて思ってしまった。

アカシア:男の子たちは、マイが髪の毛を切ったのを見て実はがっかりするのだけど、わざと知らない気づかなかったふりをする。その辺のやさしさも、うまく描けてますね。

むう:正統派文学だなと思いました。厚さがあるだけでなく、読み応えのある本でした。スウェーデン人の知人がいてそのイメージが重なるからかもしれないけれど、作者の目線がとても誠実でていねい。先日、読書週間にあわせて重松清さんのインタビューが新聞に出ているのを見たんです。重松清さんは、「若い人たちが本を読むというのは、その本の中に、読者自身にもよくわからない自分の気持ちを体現する人物や出来事があって、本を読むことでそういう自分の内面が見えてきたりわかってきたりするという意味があるのだろう。あるいは本を読むことによって、自分とは違う人生を体験できたりもするのだろう。それは大事なことだと思う」といったことを述べてたと思います。これはそういう、思春期現在進行形の人が同世代の人間の行動を見て共感するタイプの本とは違うような気がしました。どちらかというと大人の回想文学で、ノスタルジックだし、同世代の若者には理解できないような細かい分析まで入っている。その意味で、大人が読む本なのかなと思いました。古いフランス映画に、やはり2人の男の子と1人の女の子が出てくる「さすらいの青春」(アラン・フルニエ原作)という青春映画の名作があったけれど、それに似た感じですね。きらきらした青春映画。チェンバーズもこの世代を主人公にして描いていて、誠実さという点ではヴォールと似ているけれど、あちらは主人公と同世代の読者にもっと直接的にがりがりと迫ってくる点が対照的だと思いました。

ハマグリ:子どもは、大人の観点で書いているところは読み飛ばすんじゃないかしら。ストーリーがおもしろいので、子どもの読者でも引っ張っていけると思います。やっぱり中学生くらいが読むんでしょうね。

むう:この時期の男の子の危うさや、初々しさがよく書けているのには感心しました。とにかく他人の目が気になって、自信がなくて、妙に突っ張って。大人の目から見れば些細なことに右往左往しているあの時期がみごとに描写されていて、読み終わったとき、「初々しい」っていうのはこういうことだったんだなあ!と思わされました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


ホリス・ウッズの絵

パトリシア・ライリー・ギフ『ホリス・ウッズの絵』
『ホリス・ウッズの絵』
パトリシア・ライリー・ギフ/著 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2004.04

アカシア:絵を一枚ずつ見ながら物語が進んでいく構成は、おもしろいと思いました。ただ、リーガン家の人々が、拒み続けているように見えるホリスに飽くまでも執着する理由がわからないんですね。ホリスの魅力がじゅうぶんに伝わらないから、なるほどと思えないんだと思うの。それにスティーブンが冬の山荘にいろいろなものを運んでくるところなんか、リアリティがなくて、ご都合主義的な『小公女』みたいに思えてしまう。ホリスが里親をたらいまわしにされていたという設定は、キャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(偕成社)とも共通してますね。でも『ガラスの家族』には突っ張り具合が具体的に書かれていてリアルだったけど、この作品はあまり具体的な記述がないので、その後ホリスが人間を受け入れる存在に変わっていく部分が、逆にうまく伝わらない。とにかくリアリティが希薄でしたね。

ハマグリ:現在の進行と過去の回想が立体的に構成されているけれど、凝っているわりには内容が薄いですね。リーガン家との出来事の回想が間に挟まっていて、過去に一体何が起ったんだろうと思わせるけど、それが少しずつ小出しに延々と続くので、いい加減に言えよ!と思ってしまう。そこまで引っ張っておいて、ラストは何だ!と拍子抜けしてしまう。絵を一枚一枚出してくるのも洒落ているけれど、あまり効果がないように思いました。リーガン家の人たちがなぜホリスをそこまで受け入れようとしているのかも今ひとつ理解できないし、なぜホリスが彼らだけにそこまで心を開いたのかも分からなかった。ジョージーに対してこれほど優しくできるというのも、納得がいくようには描かれていません。心の動きが伝わってこないのね。もっとホリスのことが知りたいのに、回想シーンに邪魔されてしまう感じもあるし。

ケロ:そうですね、私も、引っ張りすぎだよ、とつっこみを入れながら読んでしまいました。でも、リーガン家との出会いのシーンは、なかなかいいと思いましたよ。24ページ。ゲームをしてわざと負けてあげるあたりの優しさがうまく描かれているので、斜に構えるホリスが、この家族を「かけがえのない家族」と思えることに説得力があります。また、ホリスに帽子をかぶせて鏡にうつすシーンで、ホリスがとても美しい、というところなど、あっ、そうなんだー、とホリスのイメージを少しずつ軌道修正しながら読むところがありました。

ブラックペッパー:そこは、愛情を持っている人から見ると可愛いということかな、って思ったけど。顔立ちが整っているわけではないのだろうと。

ケロ:そうか、そうですよね。だいたい、全体に「ホリスってどんな子なんだろう」と思いながら読んでいた感じがします。それだけつかみにくかったのかな、ホリス像が。読み進めていると、あっさり読んでしまうのだけれど、あとで「何で?」とひっかかってしまったり、浅い感じがしたりするところも、『ノリー・ライアンの歌』と似ている印象を受けました。あと、わざとそういう印象をあたえる設定にしてるのかもしれないけど、スティーブンは死んだんだ、と思って読んでしまいました。

トチ:『マイのいた夏』のマイが死ななくて、スティーブンが死ねばよかったってわけ? というのは冗談だけど。私も、主人公がこれだけスティーブン一家に対してしでかしたことで悩んでいるのだから、死んでるにきまっていると思って読んでいたので、最後まで読んで拍子抜けしてしまったわ。それに、ホリスという子がどうしても好きになれなくって・・・・・・スティーブン一家や彫刻家のおばあさんが気に入るような娘には、とても思えなかった。訳文のせいかしら。ホリスのモノローグでストーリーが語られていくわけだけれど、12歳の女の子が語っているようにはとても思えない。「おやじさんはスティーヴンを愛している。当然ではないか」なんて、12歳の女の子が言うと思う? 原書では、もっとみずみずしい、いかにもこの子らしい語り方をしているんじゃないかしら。それから田舎の少年であるスティーブンが自分のことを「オレ」といっているのに、なんでホリスのことを「きみ」なんて気取って呼んでるのかしら?

アカシア:原文では、セリフにもっと繊細さがあるのかもしれないわね。

トチ:自分の絵について話しているところも、原文ではもっと繊細なのかもしれない。それから彫刻家のおばあさんに「〜してあげた」ではなく「〜してやった」とずっと言っているのも気になった。尊敬している目上の人に対する言葉としては、乱暴よね。それから、これは原文のほうもそうだと思うのだけれど、ケースワーカーをこれでもかとばかり嫌らしく描写しているのが、嫌な感じ。彫刻家のおばあさんは映画スターのように美しいので、初対面のときから気に入ったけれど、ケースワーカーはいつも同じ服装で、サイズもXLだから嫌だ・・・・・・なんてねえ。
それから、里親制度も日本とアメリカでは違うと思うんだけれど。日本は里親になる人たちは本当に奇特な人だけれど、アメリカでは自分の利益のためになる人もいると聞いています。そこのところを知らないと、「せっかくうちで育ててあげるといってくれているのに、なぜいろいろな文句をいっているのか」と、日本の読者は不思議に思うんじゃないかしら。

アカシア:ホリスはこの作品の最後では、里子ではなくてリーガン家と養子縁組をするのよね。里子は一時的に預かってもらうということだけど、養子は親子という恒久的な関係を法的にも結ぶということですよね。そのあたりも、訳文の中なり後書きなりではっきりさせておかないと、最後のホリスの安心感が日本の読者には伝わりにくい。それと、さっきトチさんから「きみ」が変だという話が出ましたけど、私はスティーブンが父親を呼ぶときの「とっつぁん」にもひっかかりました。スティーブンのほかの部分の口調と合ってない。

ブラックペッパー:やっぱり不思議なのは、リーガン家の人々がなぜホリス・ウッズをこんなに好きになって、ホリス・ウッズもまたなぜリーガン家の人々をすぐに受け入れたのか、ということ。だって、ホリス・ウッズって、こんなに「悪い、悪い」って言われてて態度も悪かったのに、すぐにうち解けて相思相愛になるなんて、ちょっと変じゃない? そういうところが全体に雑な感じ。作者の中では、世界が緻密にできあがっていたのだと思うけれど、描かれていない部分が多いから読者には伝わりにくい。そして構成が凝っていることで、よけいにその描かれていない部分、すかすかしたところが目立っちゃう。骨太なストーリー展開で大きなうねりに引き込まれるような作品だったら、描かれていないところがあっても気にならなかったり、想像をふくらませて自分で補うことができたりするけど、この作品はぶつぶつと途切れながら進んでいくという構成だから、どうしても「すかすか」が気になる。
訳も気になるところがいくつかあった。たとえば73ページに「アメリカ南西部へ行く」ってありますよね。日本語では、日本の中を移動するのに「日本の〜地方へ行く」とは言いませんよね。「アメリカ南西部」と言われると、えっ、今いるのはアメリカではなかったの? と思っちゃう。こういうところ、もうちょっと工夫できるのではないかしら?

アカシア:リーガン家の人々は、何でも許してくれるやたらに優しいだけの非現実的な存在に思えてしまうわね。リーガン家の人も、ホリスも、立体的な存在として伝わってこない。

ハマグリ:ホリスが魅力的になっていないのは、この口調にもその一因があるよね。

むう:カレン・ヘスの『11の声』(理論社)やロイス・ローリーの『サイレント・ボーイ』(アンドリュース・プレス)のように何枚かの写真を使ってそこから物語を構成していくという作品もあることだし、目次を見て、この作品は絵をいくつか使って物語を構成しているらしいと思って読み始めました。話としてはけっこう波瀾万丈なのだけれど、読み終わったときには、軽いというか浅い本という印象しか残らなかった。私も途中はずっと、スティーブンが死んでしまったんだと思っていました。思わせぶりな感じがしますよね。ホリスは、自分が加わることでスティーブンの家族の平和を壊してしまったと思ったから家を出ていくわけなんでしょうけど、そのホリスにとっての重さをもっときちんと描かないと伝わらない気がする。読者にすると、「え? スティーブンが生きてたんだったらいいじゃない」みたいになる。それと、再会したスティーブンがホリスに、「きみは、まだ家族ってものを知らないんだよ」と言いますよね。ここでホリスは、実際の家族はいつも和気藹々としているわけではない、ということをはじめて知らされる。著者はこの瞬間を書きたかったのだろうけれど、一つ一つの人物や情景の書き込みが足りなくて、平板になってしまっているから、読者にすると、ただ「ああ、そうですか」となってしまう。

ハマグリ:この子がどんなに悪い子でも、よく描けていれば読者は応援したいという気持ちになるものだけど、これはそうならないのよね。

トチ:人間に対する見方も意地悪よね。ソーシャルワーカーは訳のわからない、鈍い人だときめつけている。ユーモアもないわね。ソーシャルワーカーの特大サイズトレーナーはもしかしたらユーモアを書いている部分なんでしょうか?

ブラックペッパー:私も、ここは面白いと思うべきところなのかな、と思ったけど、ユーモラスとは思えなかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


美乃里の夏

藤巻吏絵『美乃里の夏』
『美乃里の夏』
藤巻吏絵/作 長新太/画
福音館書店
2004.07

ブラックペッパー:こんなにお風呂掃除が好きなんだったら、うちのお風呂も掃除してほしい……。読んで嫌な気持ちにはならなかったけれど、よくわからなかった。このおじいさんは恐い人なのかと思ったら、すぐやさしくなってるし。最後のお手紙のせいか、美乃里ちゃんのナルシス的なものを感じた。須賀君が好きって言ってたけど、「須賀君を好きな自分」が好き、「三角関係に悩む」自分が好きって、結局自分がいちばん好きだったのでは……と思っちゃった。

トチ:「ミノリ」という名前が同じだということに何か意味があるのかと思ってずっと読んでいたけれど、けっきょく何もないのね。それから「実」のほうは、あの世から来た子だと思っていたけれど、最後のところでそうではないと知ってショックだった。だって、あまりにもリアリティがない、幽霊みたいな子なんですもの。

ブラックペッパー:小学校5年生の男の子が、知り合いでもない女の子にハンカチをさっと差し出したりするかしら?

ケロ:私は最初、実は銭湯の精なのかと思ってた。

トチ:もうひとつリアリティがないのは、片腕の不自由な老人がひとりで銭湯をやっているということ。お風呂屋さんってとてもひとりではできないでしょ。番台だけじゃなくって、火をたく係りとか人手がいる仕事なのに。それから、最後の「実」が施設の子どもだと分かったというところ、本当に腹が立った。施設の子どもだと分かったら、主人公は実に会いにもいかないでしょ?かわいそうな施設の子どもは、自分とは違う世界の人間だと思っているのかしら。施設についても、老人ホームについても、あまりにもセンチメンタルで薄っぺらい書き方をしているので、不愉快になったわ。

ブラックペッパー:なぜ木島さんが厳格だったのか知りたかったのに、それが最後までわからなかったのが不満。

ケロ:長新太さんの絵、いいですよね。なんか、新鮮な感じがしました。ぜんぜん関係ないんですけど、家の近くにすごい銭湯があるんです。とても古くからある銭湯のようで、常連さんなんでしょうね、みんなマイロッカー、マイグッズキープ状態に、まずびっくり。お風呂場はきれいなのだけど、外側の壁にびっしり生えているツタが内側の壁にまで入り込んできていて、ジャングル風呂状態なんですよー。なかなか、ファンタジックな世界です。銭湯というのは、シチュエーションとしておもしろいと思うので、もっとそのおもしろさがいかせればいいなと思いました。掃除をおもしろがるのが変、というのも、描き方なのでは? それに、昼に揚げ出し豆腐、ってアリですか? よくわかりませんが、ちゃっちゃと作れる、でもとてもおいしい、というメニューの気がしません。仕事中なんだから、そういうメニューのほうがしっくりくるでしょう? いきなり、お手伝いの子たちにまかせて、80のおじいさんが、まめにいそいそと揚げ出し豆腐作るってのもねー。
それから、これだけ男の子と仲よくなっておいて会えなくなっちゃうことってあるのかな。突然12年後の手紙ってのがねえ。その前に、捜せばいいのに、という感じ。いろんな意味で、よくわからない本でしたね。

ハマグリ:文章は下手ではないのでさらさらと読めるけれど、何か現実感がないというか、銭湯のような日本独特の場所や、揚げだし豆腐とか、旬のみょうがを薬味に、なんていう日本的なものを使っている割に、匂いや空気感が伝わってこなくて、単にこぎれいになってしまっているわね。面白いシチュエーションを作ろうとしているのに、伝わってこない。銭湯の絵の、見えない半分を見るというのは確かにわくわくするけど、ただつながっているというだけだし、それに銭湯に妖精というのもそぐわない。発想はいいけれど、不消化に終わっています。この男の子のあまりの現実味のなさに、私もてっきりこの世の者でないと思っていたから、え、なんだと思いましたね。最後の手紙の部分は、いらなかったと思う。唯一よかったのは、美乃里とお父さんが仲がいいこと。今どきこういう無邪気に仲が良くて、口うるさい母親に対してタッグを組むような父娘の関係を書いているのは珍しい。

アカシア:長さんの絵はいいですね。例えば13ページの絵の美乃里も、いかにも背が高いのを気にしている少女の感じがよく出てる。いっぽう文章となると、とにかくリアリティがなさすぎ。スポーツ少年の須賀君が女の子二人とと交換日記なんかします? それに、まだ夏休みに入ってないのに、この学校の生徒ではない実君がなんで校庭にい合わせるわけ? ここで、だれもがファンタジーだと思っちゃいますよね。銭湯の掃除だって、最初は面白いかもしれないけれど、夏中してたら、よっぽど惹きつけるものがないかぎり飽きるでしょ? だって小学校5年生なのよ! 木島さんが千代子さんと突然一緒になる、という運びにもびっくり! 私は木島さんが銭湯を休むところで、実君を引き取ろうとしてるのかな、と思ったの。それに、そもそも千代子さんは体の具合が悪いんだし、孫の実君は掃除でもなんでも一所懸命やる子なんだから、実君を施設から引き取って一緒に暮らすほうがリアリティがある。
192ページの実君の手紙も、この年齢の男の子が書いた手紙とは思えない。しかも「とつぜん、さよならしてごめんね、美乃里ちゃん。美乃里ちゃんにいうと心配すると思ったんだ。ただ、ぼくはすごく楽しかったんだ……」なんて、施設の子だから楽しかった、と作者が言わせてるみたいで、嫌な感じ。感傷的な憐れみのようなものが感じられて、すごく不愉快です。こんなものがリアリスティックフィクションとして、伝統ある出版社から出されているなんて! 最後の手紙もナルシズムの固まりだし、ディテールもちゃんと立ち上がるように書いてほしい!

トチ:多分、銭湯なんかも調べてないと思うよね。

アカシア:美乃里と実が手伝いにくるまでは、老齢の木島さんが銭湯の仕事も毎日の暮らしも何もかも一人で切り盛りしてたなんて、ファンタジーよね。この本のどこがおもしろいのかなあ。

むう:ほとんど、みなさんのおっしゃったことで尽きている気がします。私も、はじめからずっと、この少年はこの世の存在ではないように感じていました。『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス著 岩波書店)じゃないけれど、この少年がおじいさんの少年時代で、時間がぐちゃぐちゃになるファンタジーでもおもしろいかなって思ったけれど、結局は実在の子だったので、なんだあと思ってしまいました。

ハマグリ・アカシア:そういう設定だったら、おもしろい作品になったのにねえ。

むう:全体にふわふわした作品で、最後にこの手紙が来ることで、さらにべたべたに甘い印象を残して終わっていますね。全体として思わせぶりな本でした。

ハマグリ:せっかく新人が出てきたのに残念よね。

むう:木島さんの戦争で受けた傷の話とか、老いの問題とか、いろいろなことを盛り込んでいる意図はわかるんですけどね。たとえば、田舎の盆踊りで少しぼけたおばあさんが主人公の浴衣を自分のだというエピソードは、老いを取り上げたつもりなのだろうけれど、しっかり書けていなくて、ちょっと出してみましたレベルで終わっている。だから、それぞれのエピソード立体的にきちんと組み合わさってこない。ところで、この本の帯には「成長と純愛」とあるんですね。

ハマグリ:げーっ。

アカシア:オヤジ編集者のコピーですかね?

むう:強いていえば、花火をふたりで観るところがそういう感じなのだろうけれど、これは純愛じゃなくて,憧れですよね。

ハマグリ:自分の発想に酔ってるだけ。

トチ:お風呂屋さんならお風呂屋さんで徹底的に調査して書けば、おもしろかったのに。これでは単なる飾りになってしまっている。

ハマグリ:頭の中だけで書いているのね、きっと。日本の作家になかなかいい人が出なくて,困ったわねえ。福音館は、どこがいいと思って出したのかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


ぎりぎりトライアングル

花形みつる『ぎりぎりトライアングル』
『ぎりぎりトライアングル』
花形みつる/著
講談社
2001

愁童:今回の課題本では一番おもしろく読みました。子どもの「今」が書かれてるって思う。教室から疎外されているような子どもをうまく書いている。現実には、こういう関係って、たじろぐ子が多いと思うけど、主人公に感情移入することで、いろんな人間関係に子どもらしく素朴に踏みこんでいくきっかけになるといいなって思いました。

トチ:イマドキの子どもがこの作品をどれくらい身近に感じるかはわからないけれど、私はとてもおもしろく読みました。シノちゃんとアリサがが漫画的だけど生き生きと描けているし、それぞれの背景も深刻にならない程度にさらっと書いてある。人生の奥深さを感じさせる作品とまではいかないけれど軽い読み物として気持ちよく読めるんじゃないかしら。ただ、「〜なの」「〜なの」という文章が続くところ、語り手のちょっとうじうじしている性格をあらわしているのかもしれないけれど、ちょっとうるさかった。

カーコ:私は、入りこめませんでした。普段見ている小4と小6の子と比べると、この子たちは、確かに今の子が使うような言葉づかいをしているんだけど、想像しづらかったんです。暴力に訴えてくるような子って、家庭的なこととか、何かがあって乱暴するようなことがあるんだけど、この二人は素直でハチャメチャなんですよね。家では安定していて、教室に入るとむちゃくちゃなことを通しているというところに、リアリティを感じられなかった。実際に子どもが読んだら、どのくらい身近に感じられるだろうと思いました。

紙魚:子どものときって、言葉がうまく使えないから、取っ組み合いしたり、体でぶつかってコミュニケーションすることが多いんだけど、だんだん言葉を使えるようになると、言葉でなんとかしようとするじゃないですか。その中間にいる年齢の子どもたちの、体と言葉のギャップをうまく書いていると思いました。シノちゃんやアリサには、体や勢いで人とぶつかっていく力がある。それに影響されて、コタニは、自分が本来持っている力に気づくという過程が、しぜんに伝わってきました。

ハマグリ:今の子どもたちの友だちづくりの難しさ、今の子どものかかえる問題を書きたい人なんだな、ということはわかるんだけど、今の子どもたちを描いている物語って、居場所がなくて浮いている主人公という設定が多すぎて、またかという感じがしましたね。この作家は、文を書くのが好きで、思った通りに手が動いちゃう人なんでしょうけど、この文体はいかがなものかと思いましたね。26ページ「あたしってつまんないやつなの。動きはトロいしギャグもつうじないし、知らない相手だとアセッちゃってなにをしゃべっていいのか、よくわかんないし。云々」っていうけど、自分でそういう割には、この一人称の饒舌なしゃべり方は、「つまんない、トロい」子だという感じがしなくて、違和感がある。この子はこういう子なんですって書くんじゃなくて、どういう子なのかは、行動を通して読者が自然に理解していくものだと思う。

トチ:具体的なところは万引きのところだけね。

ハマグリ:会話文だけでなく、地の文にも今の子のしゃべりことばを多用して、「こーゆー」「トートツ」などと音引きで入るのは気になりますね。しゃべっている言葉と、文章として読む言葉はちがうんじゃないかな。

紙魚:この作品だけでなくて、最近、大人の文芸でも、地の文に、自分でボケて自分でツッコミを入れるという文体が目出つように思います。あと、今の子どもたちって、ふだんの会話でもしぜんとそういうことをやってる。

ハマグリ:一人称の小説って、読者が主人公に心を寄せやすいものだと思うけど、自分ひとりでどんどんしゃべっていく感じと、実際のこの子というものにギャップを感じてあまりくっついていけなかったの。

アカシア:私は、コタニノリコみたいな子っているだろうなと思ってリアルに感じましたね。実際には力を持っているのに、まわりとのつき合い方がわからなくて自分ではトロいと思ってる子って、この年頃にはたくさんいると思う。だから違和感なく入っていけて、とってもおもしろく読めました。子ども同士の会話が、テンポよく進んでいくのがいい。「こーゆー」とか「トートツ」は漫画なんかだとしょっちゅう使われているし古くなるとは思わないけど、「鈴木その子」なんていう固有名詞は古くなりそう。何年かたつともう知らない子が出てきますよね。最後、いなくなったコタニを、シノちゃんとアリサは捜しに捜しているんだろうと思ったら、実際は授業サボって遊んでただけだったというのも、この二人の特徴がくっきり浮かび上がるし、リアリティがあっていいですね。それに対してコタニが「もー、シノちゃんもアリサも、自分勝手でメチャクチャなんだからー」と、最後の最後に大声でどなります。これまでは言いたくても言えなかったのが、最後にふっきれて言えた。三人のこれからを予感させる終わり方で、すごくうまいと思いました。

:それぞれの人物がありがちではありながら、結局ふつうの子どもはありがちなわけだから、テンポよく読めました。そんなにわざとらしくなくて、しぜんに読めました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


ナタリーはひみつの作家

アンドリュー・クレメンツ『ナタリーはひみつの作家』
『ナタリーはひみつの作家』
アンドリュー・クレメンツ/著 田中奈津子/訳
講談社
2003

むう:軽くてうまい運びで、とんとんと事が運んでハッピーエンドで、同じ著者の『合い言葉はフリンドル』(講談社)を前に読んだときの印象を再確認した感じでした。でも、いい大人ばかり出てくるし、できすぎだじゃないかな。たとえば『ぼくたち、ロンリーハート・クラブ』なんかだと、子ども固有の世界があるんだなあと思わせられるけれど、これは大人の世界に子どもが従属している気がして、そのあたりもどうなんだろうと思いました。子どもが作家に憧れたり、いろいろな夢を持つ年頃というのはあって、その年頃の子は面白く読むかもしれないけれど、ぐっと引きつけられる作品とは思わなかった。それに、マンハッタンに住んでいて、タクシーで学校に通うような子という設定も苦手でした。

アカシア:これは、ほかの3冊とは趣が違う作品よね。社会についての実地の参考書みたいな位置にある作品といってもいい。クレメンツは、こういうのを書かせると、とてもうまいですね。教科書や普通の参考書だと味気ないですが、本が出版されるまでのさまざまな過程をきちんと捉えて、子どもを主人公にした具体的な物語に仕立て上げている。ペンネームについて説明するにしても、セオドア・ガイゼルをまず出して「なんだろう?」と主人公にも読者にも謎を提供する。その後で、アメリカの子どもなら誰でも知っているドクター・スースのペンネームだと種明かしをする。読者の興味をうまく引き出しながら物語を進めていってる。『こちら「ランドリー新聞編集部」』(講談社)でもそうなんですが、クレメンツの作品の中には大人へのメッセージもこめられているのね。この作品でも、子どもの思いつきにのせられて行動していいのかどうか迷うローラ・クレイトン先生に対して、「子どもを管理するだけでなく、子どもの側に立って一歩踏みだして」と励ましている。一箇所だけ気になったのは、84ページ「はね橋の上に投げ出された、グローブ」っていうところ。決闘するんだから「手袋」を投げるんじゃないですか?

:私は編集の仕事をしているんですけど、わかっているようなことでも、勉強した気になった。大人の立場もしっかり描かれていると思った。

愁童:アカシアさんみたいな読み方としては、なるほどなと思いましたが、文学作品としてはイマイチおもしろくなかった。ナタリーがどういう作品を書いたのかわからないのが残念。

トチ:これは読んでないんですけど、私は同じ作者の『こちら「ランドリー編集部」』が大好き。「新聞の精神」みたいなものをしっかり書いてあって、子どものころ新聞記者に憧れていた私は、胸を躍らせながら読みました。

アカシア:子どもが本を出そうと思うと、次から次へと障害が立ちふさがる。それを一つずつクリアしながら目標に向かって進んでいくわけですけど、それが具体的に書かれているので、読んでいてもおもしろい。

カーコ:私もアカシアさんの感想をきいて、そうだったのかと思いました。読んでいるうちに知らず知らずに知識を得ている、スポーツ漫画みたいな感じですね。だから、エージェントのように日本には馴染みがないものも、子どもは自然と読んで理解してしまえるのかも。ただ、ナタリーが、何もしなくてもうまい作品が書けたという前提のもとに、物語すべてが成り立っているのが気になりました。

愁童:編集者が修正を要求して、この子がどう対応したかが書かれているとおもしろいと思うんだけどな。

アカシア:作家魂について書いているのではなくて、出版の過程をを書いているから、それはないものねだりなんじゃない? ただ、作品の中にナタリーが書いた本『うそつき』の一部が出てきますが、これがもっと面白いと、出版しようとするエネルギーにもリアリティが出てよかったのに。

紙魚:大人を悪く書くことで成りたっている物語もあるけれど、クレメンツの場合、大人もこんなにすてきなのよという姿を見せてくれるところが好き。社会のしくみをわかりやすく見せてくれるし、大人と子どものすてきな関係も見せてくれる。こんなふうに大人と付き合うのも悪くないよと、関係性の雛型になって、読んだ子どもたちに希望をもたせてくれるのでは。

ハマグリ:12歳くらいの子どもたちは、自分の父親や母親の職業が気になる年頃なので、そういう子どもたちにはとてもおもしろいと思います。実際に会社まで行って様子を見るので興味深いと思うし、とても具体的に書いてあるんですね。たとえばエージェントの事務所を借りるところなんかも、どういう用紙に、どんなことが書いてあるか、「希望サービス」としてどの項目にチェックをつけるか、など詳しく書いてあるでしょ。こういう細かいところを子どもはとても興味をもつと思う。挿絵はこんなにマンガチックじゃなくてもいいかな。せっかくのすてきな出版社の部屋などは、もっとリアルに書いてほしかった。また文章の書き方も、子どもにわかりやすい工夫がされている。57ページ、本についての記事を読んで、出版の世界を垣間見たゾーイの頭がぐるぐるまわってしまったところ、去年農場で大きな岩をどけてみたらアリがうじゃうじゃ走り回るミクロの世界に驚いたことをひきあいにだしてきたり、87ページ、「ゾーイになにかを途中でやめてとたのむのは、バナナを食べているチンパンジーに、途中でやめろというようなものなのです」など、この作者が、つねに子どものことを念頭に置いて書いている人だなということがわかる。もっといろいろな職業ものを書いてほしい。

すあま:今、学校では職業について考える授業があるので、そこで紹介できるといい。作家になるナタリーだけじゃなくて、ゾーイみたいに「起業する」ことに興味をもつ子もいると思う。私は『こちら「ランドリー編集部」』よりも、こっちのほうがおもしろかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


菜の子先生がやってきた!

富安陽子『菜の子先生がやってきた!』
『菜の子先生がやってきた!』
富安陽子/著
福音館書店
2003

カーコ:困ったことを抱えている子のところに菜の子先生が現れて、思いがけないことをするんですよね。今の子って、「これはこうしなければいけない」というような正統派志向が強くて、人の目を気にしがちなんだけど、菜の子先生がふっと違う価値観で日常を見せてくれるところがよかったです。各章とも、開かれた終わり方をしているのも、期待感が残って、うまいなと思いました。スタルクもそうですが、他人を否定しないあたたかさがある。ただ、菜の子先生の絵は、もう少し魅力的にならないものかと思いました。

トチ:菜の子先生って、メアリー・ポピンズみたいね。でも、欧米のファンタジーの亜流という感じはまったくしない。欧米のファンタジーのすてきなところと日本的なものがうまく溶け合ってとてもいい作品になっていると思いました。学校へ忘れ物を取りにいく話なんかも、ちょっと学校の怪談みたいな怖さもあるし、菜の子先生もなにか得体の知れないところがあって、子どもたちはどきどきしながら読むんじゃないかしら。

愁童:私もうまいとは思いました。ただ、この子どもたちにとって菜の子先生はどういう存在なのか、もうちょっと書き込んでくれると厚みが出たんじゃないかな。桜の木が1本いなくなっちゃうみたいなところはイメージとしてちょっとついて行きにくかった。逢魔が時に職員室に明かりがついているのと、街灯が一つついているのを、どちらも灯るって書かれていたり、バタ足で水を「ひっかぶせる」というような表現には違和感がありました。

アカシア:愁童さんご指摘の部分ですけど、桜の木はプールに満開の自分の姿を映して見てみたいと思ったんですよね。その気持ちは、読者にもちゃんと伝わると私は思います。職員室のところも、先生がいるんじゃなくて化け物がいるのかもしれないわけだから、ぼんやり灯っているというのは違和感がなかった。ただ「ひっかぶせる」はおかしいですね。日本の童話が、どのくらい翻訳されているか調べたら、湯本さんとか角野さんのしか訳されていないんですね。イメージがくっきりしているこういう作品など、もっと翻訳されて外国にも紹介されればいいのに。たしかに、まじめくさっているけど子どもたちに楽しい経験をさせてくれるというのは、メアリー・ポピンズをうまく借りてますね。ただ表紙にあんまり魅力が感じられないし、最後に口絵がついているのもわからない。中の挿絵はあまり違和感がなかったんだけど、この口絵は、はっきりいってよくないですね。

:おもしろかった。ひょっとしたら起こるんじゃないかなという気になりました。菜の子先生のきっぱりした感じも好きでしたね。忘れ物をとりにいく話がいちばん好き。

むう:私も、読んでいて最初に連想したのがメアリー・ポピンズです。第二話に登場するうさぎの穴はちょっと『不思議の国のアリス』を思わせるし、あれこれ洋もののファンタジーに重なるところがあるけれど、それが取って付けたみたいでなく、ちゃんとこなれてひとつの世界になっているところがいいと思いました。おもしろかったです。まじめくさっていて子どもにこびず、どちらかというと威張っているような、それでいて子どもがおもしろがる経験をさせてくれる菜の子先生がとても魅力的でした。子どもって、こういう人に妙になつくんですよね。突飛なことが次々に起こるので意外性があって、どうなるのかなと思いながら楽しく読めました。突飛なのだけれど、子どもの想像力に沿った突飛さなのがいい。暗くなったときの学校というのは、なんだかいかにも不気味だという子どもの感じをうまく取り入れていると思いました。夜になって忘れものをとりにいくというのは、わたしにも経験がありますけれど、ああいうときのどきどきする感じをうまくとらえていますね。

紙魚:この作家って、その気にさせてくれるのがうまいなと思います。『学校の怪談』(常光徹著 講談社)系で、そういうこともあるかもと、その気にさせられて、この本おもしろいよと、友だちどうしで借り貸しできる本。ただ、本のつくりがかしこまっているのと、絵がとっつきにくいのが残念です。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


ぼくたち、ロンリーハート・クラブ

ウルフ・スタルク『ぼくたち、ロンリーハート・クラブ』
『ぼくたち、ロンリーハート・クラブ』
ウルフ・スタルク/著 菱木晃子/訳
小峰書店
2001

カーコ:ユーモアがあっておもしろかったです。ロンリーハート・クラブの集まりのときは、必ず何かを食べるという決まりと作るところとか。4人の計画がこんなにうまくいくわけはないんでしょうけれど、人を疑うなどではない、プラスのメッセージがあって気持ちよく読めました。

トチ:明るくて、気持ちのいい話だったけれど、いつものスタルクの作品にくらべると、少し味がうすいんじゃない? あとがきに、教科書の副読本と書かれていたので、だからか、と納得したけれど。主人公や女の子のキャラクターも、いまひとつはっきりしない感じ。

愁童:スタルクは好きなんだけど、この作品は、あまりユーモアのきれがよくない。『おじいちゃんの口笛』(ほるぷ出版)なんかのほうが、美談ではないけど感動させる。登場人物に寄せる作者の愛着みたいなものが素直に受け取れる。この作品は、その辺がぼやけている感じがして物足りなかったです。

:ちょっとわざとらしい感じがしました。このくらいの文量ではまとまってると思うけど、あんまり感動しなかったです。

アカシア:私は選書係だったので、『パーシーの魔法の運動ぐつ』(小峰書店)にしようかとも思ったんですが、シリアスではないほうにしたの。トール意外の子どものキャラはぼやけちゃってますけど、これはシリーズものだということなので、ほかの本にその辺は書かれているんだと思います。短い描写でその人らしさを的確に表現するスタルクのうまさは、この作品にもあらわれてますよね。ハリネズミをさがしたり、アルミホイルを細く切ってプラムの木を飾るスベンソンさん。「ロンリーなんとか、って、どうせ、おかしな人のあつまりでしょ。おそろいで変なぼうしをかぶってる人とかの」と言うビーストリュームさん。二人とも、自分の暮らしを大事にしながら生きていることが、短い文章の中から伝わってきます。ママにお礼を言われてほっぺたをちょっと赤らめたり、ダイエットをしているのにデザートのクリームパイをたくさん食べたりする郵便局長のルーネさんもいいですね。「こどくっていうのも、たまにはいいものよ。いすにすわって、考えごとをしたり、夢をえがいたりするの。そう、人生でいろいろあったことも、みんな思い出すわ」と語るトールのおばあちゃんもいい。挿絵も、雰囲気をうまく伝えてます。まあ、子どもが書いたラブレターで年配の大人二人が結ばれるという筋書きはできすぎだと思いますけど。私は好きな作品。

すあま:あとがきを読んで、シリーズだとわかりました。トール以外の子があまり見分けがつかないのは、シリーズのそれぞれの物語で、スポットをあてる子どもがそれぞれ違うからなのでは? 物事がすべてうまくいくけど、それはそれでおもしろく読めました。それから、お金がかかるので寄付を募る、というところに、日本との違いを感じました。

むう:スタルクの作品は、不勉強であまり読んでいないのですが、『おばかさんに乾杯』(小峰書店)を読んで、すっとぼけた感じのあたたかい作品だなあと思った覚えがあります。この作品にも、あたたかさを感じました。あと、子どもが完結した子どもの世界を持っている点は、リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』(岩波書店)などと共通していると思いました。主人公が、手紙を書きたくなったときにまず自分に宛てて書くとか、クラブのモットーの3番目に大まじめに、毎回なにかを食べることと入れるといった子どもの行動を、大人のフィルターを通さずにうまく捕らえていますね。出てくる大人が、こどもに媚びはしないけれど、かといって子どもを無視しているわけでもなく、まともに子どもと向き合っていて、子どもも子どもで自分たち独自の世界をちゃんと持っている。そのまともさがあるから、読んでいてほっとできるんだなあと思いました。あと、最後を「ちょっと休もうよ」という言葉で終わらせていることで、美談が美談で終わらずにユーモアの漂う幕切れとなっているのもいいですね。

ハマグリ:スタルクは、大人とは全く別のところにある子どもならではの物の考え方、感じ方をストンと納得できるように書く人で、大好きな作家です。リンドグレーンほど無邪気ではなくて、けなげさの中にほろ苦いペーソスがある。たしかにスタルクのほかの作品ほどは切れ味がよくないけど、3、4年生にすすめたい本が少ない今、お話としてよくまとまっているし、楽しく読めるし、読後感も良い。表紙やさし絵も感じがいい。3、4年生が繰り返し読む好きな本として残っていくものかな、と思います。

愁童:子どもが選ぶコドクな人の人物像を、何やら突飛な行動や変わった帽子みたいな味付けで、子供の好奇心を刺激する大人として描いているあたりは、スタルクらしいうまさだなって思いました。

ハマグリ:この会で取り上げる作品はどうしてもYAが多くなるけど、このあたりの本を読むのはいいと思ったし、この年代にすすめたい本をもっと見つけていかなければと思ったわ。

カーコ:今回の課題本は、どの本も地元の図書館によく入っていました。子どもの日常を描いた作品は、図書館に受け入れられやすいんですね。

アカシア:図書館にあるだけじゃなくて、もっと読まれるといいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


亀になったおばあさん

シルヴァーナ・ガンドルフィ『亀になったおばあさん』
『亀になったおばあさん』
シルヴァーナ・ガンドルフィ/著 泉典子/訳
世界文化社
2004

ハマグリ:私は、この本はものすごくおもしろいと思いました。最初は、「〜です。」という文体が鼻につく感じで、大人が無理に子どもの言葉にしてやっているという感じがしたのですが、だんだんその普通ではない文体が合っているように思えてきました。『エンジェル エンジェル エンジェル』と同様、娘と母と祖母の話なので、並行して読んだら少し混乱しました。タイトルの訳はまずいと思う。だんだん亀になっていくところがおもしろいのであって、最初から「亀になった」と言っっちゃったらどうしようもない。皮膚がごわごわしたり、しゃべり方がおかしくなったり、どうなっちゃうんだろうと思うところがおもしろいのに。原題は、「シェイクスピアを愛した亀」なんですよね。
実際にはこんなことはありえないんだけど、すごくリアリティがあった。おばあさんなにの亀、亀なのにおばあさんというところが、よく出てる。絵が好きなおばあさんは亀になっても絵を描くんですよね。メールで知り合ったマックスとのやりとりは、つくり話めいていて、マックスが正体を表わすところも期待はずれだった。でも、ひじょうにオリジナリティのある不思議な話だと思う。出版社は大人向けに出していますよね。でももともとは子ども向けに書かれていると思う。死とか老いということを、そういう言葉を使わなくても、子どもにわかる形で描いた物語だと思うので、大人が読むよりも子どもが読むほうが、真価を発揮するんじゃないかしら。

雨蛙:訳文の調子に慣れるのに時間がかかりました。ストーリーのおもしろさにひかれて、気にならなくなりましたが。子どもの視点を出すには、いまひとつ合わなかったのでは。書名を見たとき、ほんとに亀になるわけないしと思ったんですが、ほんとうになっちゃうところはおもしろかったですね。突拍子もない展開で、主人公が疑問に思う目線が読者とは違うなと思いました。そのへんのギャップもおもしろかったです。やっぱり子ども向けにしてほしいですね。シェイクスピアも、もっと読んでおけばよかったですね。マックスが出てくるのは、物語をこんがらがらせていますよね。

ケロ:マックスって、どんな人なのかなってひっぱるわりには、なんか生きてないですね。

ハマグリ:ネット上に出てくるから、不思議な存在としてうつるしね。

:私もおもしろかった。母親がおばあさんに会いに行かないっていうミステリーにもひっぱられた。私の母もそうなんだけど、だんだん腰がまがっていって、ほんとに亀になっちゃうようなのよね。いっしょうけんめい、母親に知らせないように、おばあさんを守ってあげるんだろうと思ったりして、心のひだまでよく描けてた。『シカゴよりこわい町』(リチャード・ペック著 斉藤倫子訳 東京創元社)のように、このおばあさんなりの口調があってもよかったかも。マックスが寝てるのは不自然ですよね。寝てる場合じゃない。ボートでも持ってきてつれていってほしかったのに。無理やりひっぱってきて疲れたのかしら。うさぎも唐突に感じました。母親のほうは、どんな思いがあったのかということにも興味がわきました。

ケロ:ベネツィアの地形、どういう状態で水が入ってくるのかというのが想像がつきにくかったのは、残念でした。また、おばあさんが香水を飲んでしまって精神病院に入れられちゃったという錯乱状態が、本当はどうだったのかというところも、わかりにくかった。本当のところ、おばあさんは過去の一時期ヘンだったのか(だとしたら、娘の非はあまりないように感じる)、何かの誤解でおばあさんはずっとまともなのか(とすると、娘は取り返しのつかないことをしたことになる)、もしくは今もずーっとヘンなのか?? ぼんやりとしかわからないので、そのへんが描かれていると、二人の和解の過程がもう少しわかったのかも。全体に、ベールを通して見ている感じ。どうしてかな? 最初に言った、いろいろ分からないことがあるからかな? それとも、これがイタリアだからなのかな? そうは言いつつ、おばあさんが頭に手をやる場面が印象的だったり、魅力的な本でした。表紙の絵のおばあさんの顔もいいですよね。また書名も印象的、最初に聞いたときは、「神になったおばあさん」かと勘ちがいしましたが。

:亀ふうになるのかと思ったら、ほんとに亀になっちゃうんだもんね。

カーコ:奇妙でおもしろい話を読んだなと思いました。書名については、ハマグリさんとまったく同じで、「もともとこういう題名だったのかしら」と、思わず原題を確かめてしまいました。最初から、おばあさんがそのうち亀になると思って読むのと、「亀はおばあさんだったのか」と読みながらわかっていくのとは違う。タイトルによって、物語の読み方が左右されるんですね。文体は入りにくかったです。お母さんの口調にひっかかりを感じました。場面によって口調がバラバラ。子ども向けの本だと知りつつ、大人向けに訳したために、中途半端になってしまったのでしょうか。全体に、『ヘヴン・アイズ』(デイヴィッド・アーモンド著 金原瑞人訳 河出書房新社)とはまた違う、不思議なお話でした。

ハマグリ:お母さんとおばあさんの間には深い問題がありそうに書きながら、最後にお母さんがおばあさんを見て、すぐに母とわかり、わだかまりが急になくなるのも唐突な感じがしました。

紙魚:私もおもしろかったです。亀って本当に、生と死との境、もしくは現実と物語の境にいるようなたたずまいじゃないですか。おばあさんが亀になっていく過程と、死にむかっていくさまが、すっと重なって物語になっているようでした。

愁童:ぼくは、好きになれなかった。人間の老いを、こんな形で子ども向けに書くことにどんな意味があるんだろう? おばあちゃんが亀になっていくのっておもしろいねっていうことか。ほんとだったら、見てられませんよね。しわのできかたとか老人の表情とかの描写、うまいと思うけど、人が老いると言うことを外見的な変化に着目させて亀のイメージを作り上げ、そこへ子どもの読者の関心を引っ張ってくるという手法に違和感を感じちゃった。「死をうまくかわすには変身すればいいのさ」って、そんなもんじゃないでしょ。

ハマグリ:ほんとだったら、おばあさんが亀になっていくのを見てられないっておっしゃったけど、子どもの目から見てそうなっていくのをあらわしているんじゃない?

愁童:描写力があるから亀になっていく様子に真実味があるだけ、こっちの違和感が深くなっちゃう。

ハマグリ:おばあさんが変わっているのに女の子が驚いたりするでしょ。長いあいだに起こった変化を、亀になったとあらわしているんじゃない。亀になったおばあさんは幸せそうよ。シェイクスピア読んだりね。

愁童:なんでシェイクスピアなの?! こういうことを、こういう形で書けるという作者の人間観がいやなの。確かに、年寄りと亀のある部分は似ているかもしれないけどね。魔法が使えりゃ人生なんてチョロイっていうハリポタ風メッセージと似たような印象。

すあま:私は楽しく読めなかった。おばあさんが亀になっていくのがとてもリアルに描かれていて、かなり怖かった。子どもにとっても生々しいのでは? それから、マックスは登場しなくてもよかったのではないかと思った。

愁童:おばあさんが老いていくのは自然の成り行きで仕方がないことだけど、亀に変身して目先の死はかわしたけど、先へ行って結局最後は亀として死を迎えることになるわけでしょ。人間として終わりたいんじゃないのかな。死はかわせないから死なんだよね。

ケロ:さきほど私は、魅力的な本だと言いましたが、今のお話を聞いていて、「死」や「老い」をかなり身近に感じる年配の世代の人が読んだら、どう感じるのか、知りたくなりました。単純だ、とか、甘い、とか感じるのかな? この本は、「老い」を、亀のようなしわしわの肌とかに重ね合わせてはいるけれども、老いや死を残酷に描いているとは、私は感じなかったから。おばあさん本人が解き放たれてハッピーになっていくように感じられたし。死は免れられないけど、それをそのまま描くのではなく、死を迎える方も、そのまわりの人たちも、こんなふうに受け流していけたらどんなにいいかな、という希望として読めました。

愁童:亀の寿命は400年。だからまだ2分の1っていうのもなぁ、算術じゃないでしょ人生は。

ハマグリ:でも、亀はいやなもの、汚いものとは表現していないんだから。

紙魚:私は、精神的な象徴としての亀なんだと読みました。

愁童:でも、これは実際におばあさんが亀になるんですよ!

アサギ:私は何がおもしろいんだか、さっぱりわからなかった。お母さんがミステリアスで、設定が変わっているし、イタリアの作品は少ないので、最初は読もうと思ったんですけど。あとがきで理屈がわかるという感じでしたね。話ってただ変わってりゃいいってもんじゃないですよね。この子の年齢にしては、大人っぽいし、訳が合っていないですよね。ストーリー展開の必然性も感じられなかったので、なんでこんな本出したんだろうと思いました。ぜんぜんおもしろくなかったですね。

カーコ:このあとがきは、『すべての小さきもののために』(ウォーカー・ハミルトン著 河出書房新社)と同じように、おしつけがましさを感じました。読者の読みを邪魔せずに、しかも作品に興味を持たせるというのは難しいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年7月の記録)


エンジェル エンジェル エンジェル

梨木香歩『エンジェル エンジェル エンジェル』
『エンジェル エンジェル エンジェル』
梨木香歩/著 (新潮文庫 2004)
原生林
1996

すあま:おばあさんとおかあさんと女の子が登場して、おかあさんのいないところでおばあさんと女の子が時間を共有する、というところが『亀になったおばあさん』と共通していた。さわことこうこの話をもっと交差させればよかったのではないか。この作家の作品には、おばあさんと孫がよく出てきますね。

雨蛙:タイトルどおり『エンジェル エンジェル エンジェル』づくしの本ですね。文体を変えておばあさんの出来事を語ってますが、これだけでおばあさんは極楽浄土にいけるんでしょうか? 熱帯魚に興味がないせいもあり、この作品はいちばん感情移入をしにくかった。

アカシア:梨木さんの作品の雰囲気は、大庭みな子の作品にちょっと似てますけど、私は大庭みな子のほうがうまいと思います。この作品は、おばあさんの人生がおもしろく伝わってこない。エンジェルフィッシュが共食いするのなんか自然の摂理なのに大げさなのも、いやでしたね。

愁童:図書館で借りられなくて、評判の高い本だし、知り合いの中学生にあげてもいいと思って買って読んだんだけど、期待はずれでした。同じ著者の『裏庭』(理論社)も精神医学に詳しいことにからめて評価されてたけど、どうもそう言う部分で迷路に入り込んじゃってる感じがしました。『亀になったおばあさん』と発想が同じ。はめ絵がはまるようにぴたっと決まったという納得感が得られなくて、消化不良のまま放り出された感じ。

ハマグリ:梨木さんは苦手だけど、これはなんだか食い入るように読んでしまった。でも読んだあと、いやーな感じが残った。今と昔が交錯している構成によって、次第にわかっていくことがあるのかと思って読むんですが、最終的にわからないこともあって不満が残る。エンジェルをモチーフにしているのはわかるけど、何の意味があるのかわからない。おばあさんになっても残っている悔恨を描いたの?

アカシア:心の揺れ動きみたいなものをうまく書いてるんでしょうけど、世界が狭いのが気になりますね。

紙魚:『亀になったおばあさん』は冷たいと思わなかったんですが、これはちょっと背すじが凍るようなおそろしさがありました。感覚的な表現はとってもうまくて、すごいなあとは思いましたが、なかなか愛着が持ちにくい物語ですね。オリジナル版は、おばあさんの章は文語体でなく茶色い文字で印刷されています。文庫化するときに、2色刷りができなくて、改稿したのでしょう。

カーコ:私はこの作家に苦手意識があって……。「狭い世界」というのは、そのとおりですね。小さいなら小さいなりに、細部に目をみはるような新鮮さがあればいいけれど、そういうわけではない。この女の子とおばあさんの関係も深まっていくというのでもない。つかみどころのない気持ちの悪さが残りました。

むう:『裏庭』読んだとき、なんだか未消化の心理学や洋もののファンタジーのごった煮みたいでいやだなと思って、それ以来あまり印象がよくないんです。この作品は短いし、すいすいと読めるのは読めたんですけれど、読後感がよろしくない。脂ぎったエンゼルフィッシュの印象に収斂しちゃう感じ。おばあちゃんの少女時代にしろ、主人公の現在のことにしろ、一皮めくった底意地の悪いところがじわっと出ていて、決して積極的意地悪じゃないんだけど、不作為の意地悪とでもいうのかな。一見きれいなエンゼルフィッシュもそうだし、おばあちゃんがツネに対してフォローしないで放っておくこともそうだし、「わたし」が思いつきでエンゼルフィッシュを飼い、共食いを見ているだけなのもそう。これだけ強烈な印象を残すのは、ある意味では作家の腕がいいんだろうけれど、読んでよかったという気持ちになる本ではない。人間の嫌な部分をびらびらと見せられているような気色の悪さがあります。随所に、最後のつねの木彫りの天使が飛び出してくるところとか、鮮烈なイメージを残す場面があって、うまいなあと思ったけれど、全体としては好きじゃありませんでした。

ケロ:この作品は、1回目読んでよくわからなかったので、2回読んだんです。古い、茶殻まいて掃除したりするディテイルは好きです。自分の悪魔的な部分を見て絶望するという部分と、自分のエンジェル的な部分と悪魔的な部分の折り合いがつかないあたりは、よくわかりました。でも、自分のそれと、おばあちゃんのそれが、ぴったりはまっているように感じられなかった。それに、おばあちゃんも、過去のことが解決して安心して死んだというわけではないですよね。それぞれのちょっとだぶっている部分を交互に描いた、という感じで、読後に「うまい!」とは、思えなかったです。

:私は、図書館で何人も予約が入ってて借りられなかったの。人気があるのよね。

アサギ:文庫版にするとき、なんで旧仮名遣いに変えたのかしらね。ただ書いているっていう感じで、作品の必然性を感じなかったわね。ただ、部分的に風物とか、シュークリームとか、おもしろいところがあったわね。解説のように、はめ絵がぴったり合う感じはなかったわね。それと、どこか心理の奥に死に向かうものがあったんじゃないかしら。また死んじゃった、また死んじゃったと楽しんでいるような。

ハマグリ:あとがきの人、孫娘にコウちゃんという名前をつけるわけじゃない。それはぞっとしたわ。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年7月の記録)


ウィッシュリスト

オーエン・コルファー『ウィッシュリスト』
『ウィッシュリスト』
オーエン・コルファー/著 種田紫/訳
理論社
2004

ハマグリ:あまりおもしろくなかったので、途中から斜め読みになってしまった。携帯電話を使ったりする現代的な世界と、天使と悪魔という昔ながらの世界の対比のおもしろさを出そうとしてるのかしら。コメディータッチで軽く読めそうなのに、あまり入っていけなかった。他の2冊のようなおばあさんと孫娘の話はよくあるのに、おじいさんと女の子の取り合わせは珍しいわね。最近は見た目はおもしろそうに作っているけれど、読むとそうでもないのが多いのよね。

アカシア:こういうドタバタ的なものを、日本語でも笑えるように訳すのは難しいですね。3分の2ぐらいまで読んだんですけど、おもしろくなくて途中でやめました。編集が荒っぽいですね。もっと工夫すれば、日本の子どもでも笑えるようにできるのでは? 翻訳の記述の矛盾もあちこちで気になったし、34ページは「おまえ」なのに、次のページは「きみ」。その辺も読みにくい原因かもしれません。43ページは聖ペトロですよね。英語ならおもしろいのだろうけれど、普通に訳したのではおもしろくない。

アサギ:そういう工夫がないからおもしろくないの? それともストーリーが?

アカシア:おじいさんの人生が透けて見えないといけないのに、見えてこないから、物語としてもおもしろいとは言えないかも。でも、キリスト教圏の人は細部でおもしろいと思うかもしれませんね。

雨蛙:帯の「めちゃくちゃ笑えて」で楽しいのかと思って読み始めた。今の子は、これでもクスクス笑いながら読み進めてしまうかもしれませんね。この内容にしては、ボリュームがありすぎますね。メグという子は、年からいっても深めてほしかった。作者がどのくらいの内容で何を目指しているかが見えてこなかった。

すあま:同じ著者の『アルテミス・ファウル』(角川書店)は、妖精がコンピューターを操っていましたが、今回のは、それを天国と地獄におきかえたんですね。これを読んで、森絵都の『カラフル』(理論社)を思い出しましたが、こちらは盗みに入ったおじいさんのところでボランティアをする、という設定で比較的おもしろく読めました。死んじゃった女の子と、死にそうな老人とののロードムービーみたいな物語で、テレビの連続ドラマにしたらおもしろいかな。でも、帯にあるような「めちゃくちゃ笑えてハートウォーミングな話」ではないですよね。最後どうなるんだろうかとひっぱられて読まされる話。

アサギ:日本人には、聖書にかかわる基本的な知識がないから、こういうの訳すの難しいのよね。それから、もともと笑わせるのって難しいのよね。人間の脳って、サバイバルを目的にしているので、もともとネガティブなことに対してのみ敏感にできているんですって。暗闇を歩いているときライオンに襲われたりしたらどうしようと心配するふうにできているんですって。だから愉快なことには鈍感なんですって。だから、やっぱり笑わせるのって至難の業なのよね。

ケロ:確かにスピード感があって、おもしろかったんだけど、キリスト教関連のギャグや、アメリカの人気番組に関するギャグなど、細かいところがよくわからないので、ふうん、とさびしい思いをしました。きっと、こういうことなんだろうな、と想像しながら読むしかなくて。翻訳もので現代の設定だと、ほかの本でもそういう部分があるんですが、この本には特に一抹の寂しさを感じました。あと、犬と人間がまじっちゃったり、実体のないコンピューターのキャラ、なんていうのは、日本ではあまり見ないものですね。イメージの新しさを感じました。

むう:『アルテミス・ファウル』を読んだときは、そんな大ヒットするような本かなあと思ったので、それに比べてこれはどうかなと思いながら読みました。結論としてはやはり今ひとつ。言ってみれば、ぺらぺらの色つきセロファンで飾り立てているような安っぽいところがありますね。スピード感があって、子どもを引きつけるだろうなって思うし、ドタバタしたところとハイテクが売りなのもわかりますが、それ以上のものは感じられない。この人のアイデアには、けっこうやるなあ!というものもいろいろあって、たとえば途中で、悪を働こうとしている者たちが、ふたりの人間のあいだに愛という100%の善が生まれたとたんに、その余波で吹っ飛ばされるという顛末や、死期が近い人には幽霊が見えるけれども、そうでない人には見えないといった設定など、なるほどと思わせるのだけれど、それらが全体としてひとつにまとまってどうというところまではいっていない。勢いが命のような面のある作品だから、訳文で意味のわからないところが出てきてスピードが止まるのは苦しいですね。

紙魚:あんまりおもしろい本ではなかったけれど、この軽めの装丁がいいですね。ひとりよがりな世界を作るのではなく、読者を喜ばせようとしている作者の姿勢はよく伝わってきますが。帯の文章は、ちょっと内容と違うかなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年7月の記録)


すべての小さきもののために

ウォーカー・ハミルトン『すべての小さきもののために』
『すべての小さきもののために』
ウォーカー・ハミルトン/著 北代美和子/訳
河出書房新社
2004

トチ:おもしろく読みました。わたしは、けっこうこういう奇妙な味の本は好きなので。ところが、訳者あとがきを読んで、自分の読み方が間違っていたのかなと思いました。今日、ぜひぜひ優れた読み手のみなさまにご意見をうかがいたかったところです。この本は訳者が言っているように、現代文明に毒された人間たちと、小さな生き物を思いやる心をもっていたがために社会からはじきだされた、孤独な魂との対決というような、ヒューマンな作品なのでしょうか? 確かに小男の老人が言うように、小さな命は大切にしなければいけないのだけれど、この人はそのために自分の奥さんを殺し、大金をたぶん持ち逃げした人なんですよ。そして、終わりの方では「デブ」を殺せと男の子に言う。この老人にいわせれば、きっと『夜中に犬に起こった奇妙な事件』のお父さんも、殺して当然な人物ということになるでしょうね!
この作品は、ある考えにとりつかれた偏屈な老人とピュアな心をもった青年、そして残酷で野蛮な男の3者がめぐりあったときにおきた事件を描いたもの、それ以上でも以下でもないのでは? といっても、だからこの作品がつまらないと言っているのではなく、だからこそ、その奇妙な味のすばらしさゆえに、変わり者のダールも感動したのでは? 環境破壊、西洋文明への反発、反戦運動というような言葉が連なった、あっけらかんとした後書きと、作品のあいだにギャップがあるような気がするのですが、どうでしょうか?
それから、原文を読んでいないのではっきりしたことはいえませんが、73ページの「白い黄水仙」という訳語に違和感をおぼえました。ひょっとしてこの「黄水仙」は「ラッパ水仙(daffodil)」なのでは?

アカシア:主人公もハンディキャップをもっている人なんでしょうが、リアリティがあるというよりは、寓話的ですよね。「デブ」が「悪いやつ」という役割を負わされているのが気になりますね。最近は、細かいところまで目配りをする編集者が少なくなっているのか、この本にもひっかかる日本語がたくさんありました。たとえば44ページに「うとうと」とありますが、これはうとうとではなく、頭の働きが鈍くなるという意味では? 135ページの「すてきな〜」は、晴れた一日になりそうだったという意味では? 「デブ」は効率万能主義の象徴として書かれてるんでしょうけど、私はそんなにおもしろいとは思いませんでした。

:かなりかわった話。最後を先に読むと安心して読めました。あとがきを読んで、こういう象徴として書かれていたのかと思いました。私は違う読み方をしていたので。

むう:妙な味の本でした。障害をもっている人を書くという視点ではなく、むしろ障害をもっている人の視点を利用して書いている感じ。ちょっと視線がずれたことで、作品に非現実的ななんともいえない味が出て、寓話的な雰囲気が漂っている。冒頭でトラックの運転手は事故を起こすし、最後には「デブ」が死ぬし、かなり不気味な本だと思います。ダールが絶賛したということですが、この不気味さというか、奇妙な味をほめたのかなと思ったりしました。しかも、死んだり傷ついたりする部分をこれでもかというくらい鮮明かつ執拗に書いている。小さいものをいとおしむ姿勢よりも、サマーズさんも含めて、ある種の狂気を感じました。主人公の障害によってフォーカスがぼけたようになることで、そのおどろおどろしさがワンクッション置かれた形で伝わって、独特の味わいを生み出している。最後にこの主人公が第二のサマーズさんになってしまうあたりが、時代を反映していると思います。この本が発表された時代の「障害者」のリアリティがこういうものだったのでしょうね。ところどころで、31歳なんだけど発達がとまっているという主人公の設定にそぐわない口調を感じました。

カーコ:グロテスクな描写が多く、苦手でした。障害者のおかれている社会的状況が違う時代に書かれたのでしょうか。あとがきの主人公の説明はぴんとこず、自分の読みが浅いのかと思いました。ヤングアダルトものとして読むのはつらい。

アカシア:子どもは入っていきにくいわね。登場人物に一体感をもちにくい。

むう:デイヴィッド・アーモンドの感じに通じるのかな。

紙魚:魚眼レンズの世界をのぞきこむような、不思議な感覚でした。とはいえ、単なる雰囲気で描かれたものではなく、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』とはちがった、厳密さがありました。決して、博愛の物語ではないですよね。

ハマグリ:登場人物が3人しかいないのがまず珍しい。しかも、その3人がみんな変な人。いったいこの3人の人は何なんだろうと思いながら読みすすむところが、おもしろい。140ページの「そのあと、ぼくは考えた。小鳥や動物のつぎには魚がいて、魚のつぎには虫がいて、虫のつぎにはなんとよぶのかは知らないけれど、なおもっと小さいものがいる。それから木や植物や草があって、みんな生きている、みんな大切なものだ。そのあと 少し気もちが楽になった。」この本は、このことが言いたかったのだと思う。でも、その後なぜ「デブ」を殺すのか。「デブ」だって生きているのに。そこが納得できないよね。でも、他の作品にはない一種独特な奇妙な感じが楽しめる本だった。

:アンチヒーローの系譜があって、頭の弱い人とか、せまい視野をかさねていって、イノセンスであることを描ける。シリアスに伝えたいことがあって書いてるのではなく、デフォルメの実験をしているのでは、と思いましたね。決定的にそう思ったのが、サマーズさんの死なんですね。「デブ」に殺される描写がグロテスクですよね。書き方がイロジカルなの。意識的に、奇妙な人を登場させることによって、ヒューマンなものではなくて、クールな遊びのような作品なのでは。

アカシア:この作品は60年代に書かれてますよね。この頃は、体制側も暴力的だったけど、反体制側にも暴力に訴える人たちがいましたよね。どちらも暴力的な社会だと子どもとか感受性の鋭い存在は大きく影響を受けてしまって、自分も暴力的になっていくことがあるんじゃないかな。

むう:時代的なことはあるにしても、狂気をクールに書くところは、ロアルド・ダールと共通していると思う。

アカシア:ダールは笑えるけど、これは笑えないんじゃない?

むう:でも、ダールの大人向けの作品は、どこか背すじがぞっとするようなところがあり、そうかんたんには笑えないと思います。『チョコレート工場の秘密』(評論社)だって、楽しそうでいて、よく考えるとずいぶん残酷だったりしますよ。

アカシア:おとなが考えると残酷だけど、ダールの作品を子どもは笑って読んでますよね。これは、それとはちょっと違う趣。

むう:私は、やはりダールに共通するものを感じます。

:テクニックには興味をもちましたが、ポジティブな評価はあたえられない。

アカシア:同じようなテーマだったら、スタインベックの『二十日鼠と人間』のほうが、よくできている。

ハマグリ:この作品も映画になっていて、この人たちが旅をしていく風景の美しさを見せ、孤独な人間と少年の結びつきをきれいな絵として描いているようね。

:訳者のあとがきがとんちんかん。こういう解釈で訳しているとしたら、大失敗では?

アカシア:今の時代だったら、こういう主人公を出す必要がなくて、子どもがそのまま出てきちゃうかもね。

:スティーブン・キングの『ゴールデンボーイ』(新潮文庫)とか。

:どんなふうに読んでいいのか、読みながら気分のバランスがとれなかった。

ケロ:『夜中に犬に起こった奇妙な事件』と比べて、この作品は、どんな視点を持てばいいかわからなかったです。主人公の思考能力がどのくらいなのかがよく分からないからか、たとえば、主人公がいじめられるようなシーンも、「主人公の目が見てるからひどい」のか、「本当にひどい」のか判断がつかず、とても疲れたんですね。不条理劇でも見るように読んでいくしかないのかな、と。船酔いしそうな気持ち悪さがつきまといました。主人公の障害について、おおざっぱな表現をしているために、荒い印象を受けた。古いということが影響しているのかな。作者はどういう人なのかな、自殺しちゃったのかなとか考えさせらた。

ブラックペッパー:主人公は体が弱かったのかなと思いました。

ケロ:あとがきに書かれているような風光明媚というよりは、排気ガスくさい感じを受けました。

アカシア:主人公は「障害」を持ってるとは書いてないよね。

ケロ:ああ、そうですね。33ページ「ちっちゃいとき〜事故にあって、具合が悪い」 としか書かれていないですね。

きょん:みなさんと、気持ち悪い感じだったのは共通しているのかな。何が言いたいのかわからなかった。はじきだされた存在として森の中で、自分たちの価値観のもと、暮すようになったのだと思う。サマーズさんが死ぬところも、「ボビーを助けることで、自分の行き方がそこで終わる」というのもすらっと読んだ。なぜかしっくりこなかったところは、「デブ」を殺して何事もなかったように生活し始めること。心の病とか障害を明確に定義していないし、心の動きが心象風景として描かれているのは理解できたが、最終的には、何が言いたいのかわからないのかが気持ち悪かった。

ブラックペッパー:読んでくらくらっとして、今この会に出てまた、くらくらくらっ。主人公の語り口は31歳の口調ではないけど、31歳なのよね。この人の主観の世界なので、どこを信じていいのか、わからなくなっちゃった。そうなると、何もかもが遠い遠いところで行われているようで、血なまぐさいところもグロテスクには感じなかった。論理的ではない、ふつうの感覚で辻褄が合わないところも、「ぼく」には辻褄が合っているんだろうなあと考えながら、こういう受けとり方をする人のモードになって読んだという感じ。こういう人もいるのかと。文体がおもしろい。血なまぐさいところも、思考回路が拙い感じで書いてあって、そのモードでしか受けとれない。「デブ」だって、もしかしたらそんなに悪い人じゃないかもよ。分析はなかなか難しい本だなと思いました。

きょん:サマーズさんは、あそこで殺されて本望だと思う。

ケロ:時代的背景などはわからないですが、読んでいるうち、この男の子が殺して埋めちゃうほうにいっちゃうんじゃないかな、と感じてどきどきしました。

アカシア:「デブ」は殺されるんじゃなくて、作者のスタンスとしては自分で死ぬという設定よね。

ハマグリ:この本はこうだという一致した意見は出ない本ね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年6月の記録)


夜中に犬に起こった奇妙な事件

マーク・ハッドン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』
『夜中に犬に起こった奇妙な事件』
マーク・ハッドン/著 小尾芙佐/訳
早川書房
2003

トチ:評判の本なので、読んでみたいと思っていたところでした。でも、青山および武蔵野地区の本屋はどこも品切れだし(PARCOも)、図書館は予約者多数ということで原書を買いました(といっても、洋販発行のもの)。おもしろくて、一気に読みました。一気に読めた牽引力となったのは、犬を殺したのは?というミステリーと主人公のミステリアスな心の動きだと思います。犬を殺したのは?というミステリーが、次第に両親と隣家の夫婦の関係は?というミステリーに変わっていくところなども見事だと思います。アスペルガー症候群というのは自閉症で知的レベルが高い人たちの症状をいうのだそうですが、主人公のモノローグが時にはユーモラスで、時にはあまりにもピュアで感動しました。個人的な体験ですが、以前に住んでいた家の隣の男の子が自閉症でした。お母さんがその子を連れてせっせと武蔵野日赤病院に通っていたのですが、「お母さんの育て方が問題だって言われるんですけど……」と、いつも困惑した顔で言っていたのをおぼえています。2,30年前までは、子育ての失敗によるものだと言われていたんですね。

:産経の賞をもらったときに、絶賛の評がのっていたでしょ。あれには、『すべての小さき者のために』のあとがきみたいに違和感を覚えたんですね。著者はヒューマンなものを伝達しようとしているわけではなく、ずれのおもしろさ、おかしさ、数学的な工夫で読者をひっぱっていこうとしている。私自身はもっと全体の構想をクールに距離をおいて読んでしまったので、絶賛している書評に、違和感をもちました。訳は、もっと若い訳者がしたほうがいい。誤訳も見つけてしまったし、お父さんの粗野な言葉遣いもちがう。ヒューマンな方向にもっていくのであれば、親子の関係をテーマにしていくしかない。ただし親子関係については書けてない。とくに父親の造型が弱くて、統一したイメージを持てなかった。また大人の世界の勝手さで犬が死んじゃうのは、いただけなかった。この本だって、障害をもつ人にとっては、不愉快な部分があるんじゃないかな。辻褄があわないことは、「障害」に逃げているように思いました。

ハマグリ:アスペルガー症候群が認知されてきたのは最近だから、そういう人たちがどういうものの見方をするのかについては勉強になった。人の顔色から感情を読み取ることができず、表面に見える服装やしぐさから、何を意味するかを、過去にインプットされた情報にあてはめて推理するとか、そういうことはよくわかったんですけど、私にとってはそういう見方で描写されてもどういう人物か把握しにくかった。ほかの文学の人物描写と違うので、登場人物がつかみにくいと思ったんですね。それから、すべての物事を論理的に考えることに途中で疲れてしまいましたね。『すべての小さき者のために』もそうですが、ひじょうに特徴ある作品だけど、あまりおもしろいとは思えなかった。書名がすごくおもしろそうだったから心ひかれたんだけど、肝心の犬に何が起こったのかがわかると、あとは違う方向に行っちゃってはぐらかされた。お父さんもお母さんもとんちんかんなんだけど、彼らなりに子どもを愛しているところは伝わってきた。

紙魚:いちいちくどいけれど、けっこうこういう文体って好きなんです。カート・ヴォネガットみたいで、途中からはまりながら読みました。「障害者」ってくくったうえで書いているのではなくて、障害者にも変な人がいて、その個人の個性を書いています。だから、どんどん主人公が愛らしくなりました。それにしても、『博士の愛した数式』(小川洋子著 新潮社)もそうですが、数学と物語って相性がいいんですね。それから、箇条書きがふんだんに出てきても、ユーモアがあって、楽しませ方がうまい。

カーコ:「光とともに」というテレビドラマを見て一番印象に残ったのが、自閉症児の親の辛さ。子どもが反応を返してくる喜びがなかなか得られないんですね。「『自閉症』という名のトンネル」(日向佑子著 福音館書店)にも、抱きかかえられたり触られたりがだめというのが出てきました。だから、主人公のお母さんがよその男に走り、お父さんが少し離れるようにして子どもを見守るというのがリアルでした。言語治療士の友だちが、「自閉症という語は、自閉的という意味と混同して誤解されることが多いが、自閉症は一種のコミュニケーション発達障害」と説明していました。たとえば、赤はいいけど黄色はだめという主人公の男の子の感性や、独特の現実のとらえ方は、今まで知らなかった世界を読者に見せてくれるのではないでしょうか。

きょん:私は苦痛で、152ページまでしか読めなかった。ただ、この障害については具体的に書かれているので、なるほどとは思いました。先生が具体的に指示を出すくだりからも、この障害の子どもの思考回路がどうなっているのかがよくわかりました。

むう:去年の今ごろイギリスに行ったときには、書店のエントランスロビーはこの本一色でしたね。私はとてもおもしろく読みました。アスペルガー症候群の人たちがどういうふうにものを見て、考えているのかを見せてくれる気がして、どきどきしながら読みました。主人公がロンドンの地下鉄の表示を見るときの感じとか、いろいろなこだわりが、なるほどそうなんだろうなあと納得できた。確かに犬のミステリーなどで引っぱっているのだろうけれど、わたしにとってはミステリーは二の次、三の次で、ともかく主人公の心の動きや行動のしかたに目が行っていました。ただ、帯には『アルジャーノンに花束を』を越える感動みたいに書いてあるけれど、『アルジャーノンに花束を』とはまるで違う。あの本は感動させるために作られた本だけど、この本はそういう本ではない。感動を期待していると、最後なんか拍子抜けする。でも、こういう子の目から見たら、この結末のほうがずっとリアルなわけで、そこがこの本のいいところだと思います。この子の場合、親子の情感や交流だってほとんど表に出せないわけで、そのあたりもとてもリアルだと思います。向こうでは大人向けに出ていたようですが、大人はどういう読み方をしたのか興味ありますね。

ハマグリ:子ども向けと大人向け、両方出たんじゃない?

むう:子どもの棚と大人の棚の両方に、同じ本がありましたよ。私は原書も読んだんですけれど、訳では両親の言葉遣いが乱暴すぎるように思った。原文は、主人公の言葉づかいは文法的にそれほど変ではないと思います。訳では、障害が際だつように変な日本語にしたのかな、でもそこまでしない方がいいんじゃないかと思いました。

ブラックペッパー:ふつうなら「。」で終わるべきところが、「、」になっていたりするのは?

むう:原書では、「,」でずっと続く文が多いですね。わたしは訳書はちょっと読みにくいな、と思いました。わざわざ読みにくくしなくても、この子の障害についてはきちんと心の動き方でわかるんじゃないかな。読みにくくしたことが逆に読者にとってはハードルになるんじゃないか、障害者のステロタイプ化につながるんじゃないかと思いました。

ハマグリ:それが疲れちゃった原因かな。本来「〜で、〜」というところを、わざわざ「〜です、〜」としちゃったってことね。

:アスペルガー症候群を理解するうえではよかったんですが、どんどん読みたいという作品ではなかった。さっき話に出た『自閉症という名のトンネル』だと読者が狭くなるので、物語としてこういう本があるのはいいと思う。

:障害をもった子どもの親はどう読むんでしょう?

紙魚:でも、障害を持った人ひとりひとりにも、ストーリーがある。それを書いたり読んだりするのは、すてきなんじゃないかな。

アカシア:私はとってもおもしろく読みました。障害者としてくくるのではなく、こういう個性をもったひとりの人を書いているというところがポイントじゃないかしら。お父さんがせっぱつまって犬を殺すところもリアリティがありますよね。お母さんだって、自分の時間がほしいと思ったときに駆け落ちぐらいはするだろうと思ったし。そういう意味でも、父親も母親も「障害者の親」ではなくひとりの個性をもった人間としてリアルに描かれている。さっき、むうさんが文体について触れたけど、いま原書を見てみると、主人公の言い方は文法的には普通の文章ではないですよね。だから、この訳もうまく日本語に移し替えているのではないかしら。「です」「だ」が交じっているのも逆にリズムが出ていて、慣れると抵抗なく読めます。私はすらすら読み進むことができました。『すべての小さき者のために』はリアリティがなくて入り込めなかったけど、これは、入り込めた。

:子どもの読者には、どうなの?

アカシア:YAですよね。中学生以上だったらおもしろく読めると思う。「アスペルガー症候群の」というよりは「別の視点をもった人」から見ると世の中どう見えるかということでしょ。読むほうがその視点に立てれば、興味深く読めると思います。

紙魚:先入観があっても、この子がいとおしくなる作品なのでは。

ケロ:主人公と同じ気持ちにさせてくれるくらい具体的に状況が描かれているから、私はおもしろかった。一人称で書く話というのは、下手な人が書くと主人公がわからないことは書けない、という限界を感じることがあります。でも、この本は、主人公の特徴から、見たことを写真のように切りとって書いてくれるので、読者なりに判断しやすい。大きなストレスを背負っているお母さんの気持ちも、状況説明からひしひしと感じることができるし。一人称なのに、なんて上手に書かれているのだろうと思いました。

ブラックペッパー:この本は、「くらくらっ」とはしないで、3分の2くらいまで読みました。「レインマン」みたいですよね。障害なんでしょうけど、ぜんぶ合わせて個性だと思って楽しく読める。ストーリー展開もよくできてますよね。これはおもしろく読んでるところ。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年6月の記録)


なおこになる日

岡田なおこ『なおこになる日』
『なおこになる日』
岡田なおこ/著
小学館
1998

トチ:この作品の前半、小説仕立ての部分は読むのが辛かった。後半のエッセイを読んで、なぜ辛かったか分かりました。作者は、エッセイでは書きにくいところを小説にしたんですね。その中途半端感が、読んでいて居心地が悪かったんです。けっきょく、小説部分を、文学を期待して読んだ私が悪かったのかもしれないけど。でも、エッセイにしろ小説にしろ、読者に読んでもらいたいと思ったら(特に子どもの読者には)もうひと工夫も、ふた工夫もいると思うのですけど。

紙魚:選書のときから、前の2冊に合わせて日本の作品を選ぶのが難しかったんです。日本の創作では、やはり、まずは障害のことから始めましょうとなっているものが多いんですね。その点、岡田なおこさんは、その先にある自分自身の物語を語ろうとしているので、選びました。しゃべるのが自由ではないからか、書くとけたたましいくらいに饒舌ですね。こんなふうに、小説のなかでおしゃべりになれるというのは、作家としても、とても幸せなのではないでしょうか。

カーコ:「へー」と思うところがたくさんあって、著者のたくましさを感じました。YAというより、大人の本のよう。エッセイの部分のほうが印象深かったですね。

きょん:出たときに読んだので、細かいことはおぼえていないんですけど、そのときの印象は、障害が爽やかにさらっと描かれていて好感を持ちました。作者はノーマライゼーションを書きたかったんだなと思いました。

むう:ほかの2冊と違って、文学を読むという感じではなかったです。小説ということになっているけれど、前半もエッセイという感じに近かった。知らないことがいろいろあって、そういう意味では面白かったし勉強になった。この人が前向きで、内にこもっていかないから読めるんだと思います。たとえばエッセイの1を読んで、本当はたいへんなことなんだなあと思ったりしました。どこまでも前向きだから、障害を持っている人の親だって聖人ではないというようなことも書ける。そこがいいと思いました。ともかく明るい家族ですよね。今の日本では、大人も子どもも障害者と接することが少なすぎる。学校も別学になっていて、障害者の実際を知らない人がほとんどですよね。障害者を囲いこんでいる現実があるから、そこをつなぐというか、啓蒙する本としてはいいと思いました。

:生活の中の工夫が面白かった。さらっと書いているけど、とてもたいへんなんだろうな。手が硬くなってしまうというのが一番ショッキングだった。小説とエッセイを分けたというのは? 日本の場合、障害者がものを言うことについては寛容ですよね。でも、障害者でない人が障害者を書いた本は出にくいのでは?『夜中に犬に起こった奇妙な事件』のようなものが日本でも出るといいけど、受け入れられないかもしれませんね。

紙魚:障害者ではない書き手だと、障害に対して想像力を働かせるのが難しい。

ケロ:『夜中に犬に起こった奇妙な事件』には、手法がある。障害者について理解させようとして書いているわけではないし。

紙魚:「障害」について書かれたものの中には、読んで反省させられる本があるんです。『なおこになる日』はどっちかというとそっちで、読んで自分の理解がまだまだだなあと思いました。『夜中に犬に起こった奇妙な事件』のほうは、主人公を好きになる本という感じです。

:当事者が書いたものについては、批判してはいけないと思ってしまうからでは?

紙魚:反省は、厳密には感動とちがうんですが、一瞬混同するカタルシスがあるような。

アカシア:二次障害などについては、そんなことがあるのかとびっくりしました。それに、自立していく過程が書かれていたのがよかった。さっきもエディターシップについて言ったけど、この本についても、エディターが助けてあげてほしかった。50ページの藤崎の記述は、ふつうに読んでいたら流れが伝わらない。どんなつきあいだったのかを言うべきところ。いろいろなところで言葉はひっかかった。たとえば143ページ「ギシギシとひしめきながら子育て」とは言わないでしょう。148ページ「私が電話しそこなって」というのは、電話をしそびれたように勘違いしそう。166ページ「バーチリ」は誤植? おもしろかったのは、姉妹とのやりとり。妹も屈折した思いを持ちながら、三人が対等に向き合ってる。言葉で伝わらない部分をイラストが代弁しているのもよかった。

ケロ:小説「なずな」って始まるのに、結局内容は、作者の「なおこ」とイコールなのかな、というくらいの感じを持って読んでしまいました。そう思わせるところが、小説としては甘い。だからエッセイをつけたのかな? とか、意地悪な見方をしてしまう。もっと、大胆な小説を読みたいなーと思いました。

きょん:ちょっときれいごと?

:戦争・差別・障害のことって、ケチつけちゃいけないように感じて私は苦手なんです。単純にはおもしろがれない。すごくがんばっているのは伝わるけど、「がんばってないよ」とがんばっている感じは否めなかった。

アカシア:「かんばってないよ」と言いながらがんばっていても、それはそれでいいと思うけど。嫌味に感じるの?

:重いのかな?

カーコ:フィクションとしては達成できていないということかしら。丘修三さんの作品なら、そういうふうには思わないのでは。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年6月の記録)


見習い物語

レオン・ガーフィールド『見習い物語』
『見習い物語』
レオン・ガーフィールド/著 斉藤健一/訳
岩波少年文庫(全2巻)
2002 (福武書店 1992)

アカシア:文庫の表紙絵、新たに出したにしては何だか古めかしい。内容は、今回の3点の中では一番おもしろかった。それぞれ独立した短編だけど、同じ人物が所々で顔を出す。よく工夫されているし、短い中に人を惹きつけるものがあります。訳もよかった。『ブレーメンバス』(柏葉幸子/著 講談社)を取り上げた時に、短編らしい切れ味がないという欠点が挙がったけど、これはそういった欠点がなく短編集として安心して読めました。ただ、今の子どもたちにどうか、という点はありますね。見習いという立場の子どものことが、日本の子にわかるかどうか。徒弟制度についての説明は一応冒頭でしてあるけれど。点灯夫、煙突掃除など、イギリス文学にはよく出てくるので、イギリスの子どもにとってはなじみがあるんでしょうね。

愁童:今の日本の子たちは、こういう世界にまるで無縁でしょう。どういう仕事に就くかより、まず偏差値。だから、この作品のように、生きていくということの原点がすごくよくわかるものを今の子どもたちに読ませたい。短編としてうまくできているし、1つの章の登場人物が、別の章にさりげなく出てきたりして、見習いの子供達が当時の社会の中に組み込まれて生きていく様子に目配りが効いているように思った。、産婆見習いの章で、難産にならないように窓や箱やびんのふたなど、ありったけのものを開けるというのが出てくる。そんなの、今の子は、一体何言ってんの、と思うかもしれないが、生まれてくる命に対して、周囲がそういった配慮までして一生懸命かかわっていたんだということを知らせたいね。生きるということに対する意味が熱く語られている作品だと思った。

ハマグリ:18世紀のロンドンで、親方の所に修業に出された子どもたちの話、ということで、暗く、辛い話になりがちだけど、苦労しながらも子どもらしい知恵を発揮してたくましく生きていく様子が描かれているところがよいと思った。ユーモアがあり、パワフルな感じを受ける。子どもの力を信じるという観点に立っているところに好感がもてるのね。ディケンズの雰囲気に似てるといわれるけど、子どもの純真さが人の心に灯をともす、っていう描き方が似ているんじゃないかしら。短編集としては、12の月に合わせた物語が構成されている上に、1つ1つがバラバラでなく、関連付けられていていて見事。

きょん:クラシックな、正統派の作品で、安心して読める。たしかに今の子どもたちがわかるかどうか、とは思う。同時代的に存在するのはちょっと難しいのかな。『アリスの見習い物語』にも魔術的なものが出てきたけど、十分に描ききれていなかった。その点、こちらは満足できた。

すあま:だいぶ前に読んだ。今回あらためて読み直したのだが、やっぱりおもしろかった。こういうおもしろい短編を書ける人が日本にもいるといいのに。日本ならさしずめ江戸の町人もの、ってところでしょうか。暮しの中で起きるちょっとした出来事に光をあてる感じが、宮部みゆきの作品に似ていると思った。それぞれ短編として独立してはいるけれど、登場人物が重なっているのも楽しい。でも、この本は長編物語に見えるので、短いおもしろい話だ、ということを子どもに紹介してあげる必要がありますね。文庫化されて読む子が増えるならいいけれど。

:自分から手に取ろうとはしないだろう作品だったので、読めてよかったと思う。汗や臭いといった、普段使ってない五感に訴えるところが印象的。描写力があって、とにかく読み応えがあった。

ハマグリ:昔読んだ本なのに、今でもシーンを思い出せるところがすごい。

アカシア:これぞ読書の楽しみってところがあるよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年5月の記録)


アリスの見習い物語

カレン・クシュマン『アリスの見習い物語』
『アリスの見習い物語』
カレン・クシュマン/著 柳井薫/訳
あすなろ書房
1997

きょん:あまりおもしろくなかった。話の進み方が淡々としていて、何が言いたいのかよくわからないままに進むでしょ。迷信やハーブなどを使った仕事の不思議さも、あまり描ききれていなかったと思う。アリスの成長物語なのだけど、ジェーンが「失敗してあきらめるやつじゃなくて、失敗してももう一度やってみるやつなんだ」と言うところで、ああこれがメッセージなのね、と思った。要約するとそういうことね、って、それで終わってしまう。泣けなかったアリスがはじめて泣くことを体験できたところも、すんなりと入れなかった。

アカシア:パーっと読めるけど、大きく感動するほどでもない。佳作といったところ。自分を高めていく手段を全くもっていなかった子が、自分を高めていく姿を描いている、と書いてあるけど、日本の今の子どもとはあまりにも生活環境が違うので、それがすごく大変なことと思えなくて、それほど感動するところまでいかないで終わってしまうんじゃないかな。こういう物語では、人間が浮かび上がってくるように描くことが大切な要素だけど、その点ではガーフィールドのほうがずっとうまい。

きょん:名前もなかったアリスが成長する物語、と考えるとああそうか、と思うけど、何かぴんとこなかったのはなぜかしら。やっぱり人間が浮かび上がってこなかったということなのかな。

愁童:時代に対する作者の洞察力の違いじゃないかな。ガーフィールドは、一本立ちするために遮二無二という世界でしょう。アリスのように、名前を取りかえっこしたほうがかっこいい、というようなところには居ないんじゃないかな。作家の力量っていうか、短編で一部分しか切り取っていないのに、それで全部を見せることができるガーフィールドのほうがずっと印象深い。

すあま:同じ作者の『金鉱町のルーシー』(あすなろ書房)のほうを先に読み、おもしろかったのでこれも続けて読みました。最後までおもしろく読めた作品。ただ、7章の「悪魔」で、いじわるをした人を悪魔のふりをして懲らしめるところがあるけど、アリスはそんなことをやるような人物に思えないので、どうもしっくりこなかった。アリスという名前を名乗るようになったので、そういった勇気をもてるようになった、ということを表わすエピソードなのかな? それから、産婆のジェーンの代わりに呼ばれ、うまくやってのけてみんなにほめられる、という、よくありがちな展開にならなかったのはよかった。

ハマグリ:この作者は時代の中で自立していく女の子を描いた作品が多いけど、女の子の職業モノは少ないから、主人公を応援するような気持ちで読める。14世紀の話で、ずいぶんと混沌とした時代だけれど、あまり時代の雰囲気はしなかった。それに挿し絵(中村悦子絵)のせいで、この子がちょっと幼すぎる印象になってしまっている。

すあま:そんなに古い時代の物語という感じはしないね。

アカシア:自分を見出していくところが、現代風なのかしらね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年5月の記録)


龍使いのキアス

浜たかや『龍使いのキアス』
『龍使いのキアス』
浜たかや/著
偕成社
1997

すあま:本を選ぶ係だったので、「見習い」をキーワードにして探していたら、これが出てきた。ところが、「見習いの立場だが出生はわからない」というよくあるパターンの話で、いわゆる「見習い」を描いた物語ではなかった! 何も努力しないのに、血筋のお蔭で何でもできてしまう。ハリー・ポッターも、何で魔法使いの血を引いてるだけで空を飛べるのかって不満に思ったけど、これも同じ。「ゲド戦記」(アーシュラ・K・ル=グウィン著 清水真砂子訳 岩波書店)のように、失敗を重ねながら目覚めていくというのならよかったのに。一生懸命に読んだんだけど、何だかよくわからないうちにどんどん話が進んじゃう。もっとじっくり読めばわかるのか、それとも単に書ききれていないのか? 謎や、登場人物たちの悩みなど、おもしろそうな設定は出てくるんだけど、どれも花が咲かないうちに終わってしまって残念。物語の世界が構築しきれていない。書き方によってはもっとおもしろくなるのだから、もうちょっと頑張ってほしかったな。

愁童:冗長なんだよね。やたら細かい所にこだわりすぎ。誰が誰やらわからなくなってしまう。キアスの状況説明が長々と続くので、ハラハラドキドキおもしろい、というふうには読めなかった。

きょん:いろいろな人が出てくるから、混乱してしまうのよね。細かいところがよく書けていないせいなのか、どういう意味なのかわからない部分がいくつかあった。『デルトラクエスト』(エミリー・ロッダ著 岩崎書店)や「守人」シリーズ(上橋菜穂子著 偕成社)に似た所がちょっとずつある。でも、龍の登場はあっけなくて、ちょっとショボい! 名前を教えてくれるだけで終わってしまうんだもの。それに、落ちこぼれのキアスが成長していくのかと思って読んでいくのに、ちっとも成長しないのよね。

すあま:最後まで読めばわかるだろうと思って頑張って読んだのに、結局わからなかった! しかもこんなに長いのに、終わってみれば1年しか経ってない。

きょん:竪琴も消えてなくなってしまって、中途半端よねえ。

すあま:イリットにだけ「さん」がついてるのはなぜかな。

きょん:途中で急にカタカナになるのも変ね。

アカシア:キアスに感情移入できないところが不満。キャラクター作りがしっかりしていなくて、表面的に描かれている。フル(道化役)だけは、他の人とは違ってユニークな存在としてとらえられたけど、あとは紙人形がぱっぱっとかわっているだけって感じで。これがいわゆるネオファンタジーなのかしら。つまり、雰囲気だけで、キャラクターがしっかりしてない、プロットとアイディアだけのファンタジーってこと。でも図書館では結構借りられてるみたいだから、読まれているのかな。

:最初の詩の部分がとても入っていけなくて、129ページで自ら読むのをやめました。いくら読んでも世界が見えてこないし、プロローグで解説をして、そこから展開するのもちょっと違うんじゃないかな、と思った。構成もよくわからないし、人物も区別がつかなくて前を読み直したりしなければならなかった。

ハマグリ:表紙の絵(佐竹美保絵)の感じでは、すごく魅力的でおもしろそうなのにね。

アカシア:書名もおもしろそうなのにね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年5月の記録)


バッドボーイ

ウォルター・ディーン マイヤーズ『バッドボーイ』
『バッドボーイ』
ウォルター・ディーン・マイヤーズ/著 金原瑞人/訳
小峰書店
2003

カーコ:自伝であることで、主観的なリアリティがありますね。真ん中までぐいぐいと、主人公の強い個性にひっぱられていきましたが、途中、本の記述が続くあたりから、息切れがしてしまいました。全体におもしろく読みはしましたが。苦しくなったのは、私がフィクションというスタンスで、この本を手にとってしまったせいかもしれません。フィクションとして見ると、構成が直線的でしょう。自伝ならあたりまえなんですけど。自分がいかに普段、構成のおもしろさを物語に求めているかがわかりました。

むう:おもしろかったんだけど、けっこう読みにくかった。ドキュメンタリーというか、完全にノンフィクションの手法ですね。そのこと自体は、読みにくい原因ではないと思うのだけれど。それにしても、この作家は誠実だなと思いました。自伝って、なかなかスタンスがとりにくくて、ついつい自分に甘くなったりするんだけれど、この人は誠実に事実を積み重ねて、その結果こういう人間になったんだということがよく書けている。ただ、ところどころに、えっ、これってなあに?という説明不足なところがあって、引っかかったし印象が散漫になった。過剰に意味をつけまい、よけいな説明をすまい、自分に甘くすまいとした結果、そういう印象になってしまったのかな。訳注でなんとかなる部分もかなりあるような気がします。作品としてはもう一歩という感じだった。世の中がぜんぜん平等じゃないというという気持ちは、よくわかりました。それと、前半の能天気な部分と後半のつながりがうまくいっていないように感じました。でも、アメリカの中でのマイノリティである黒人だというだけでなく、その中からもはずれてしまった人間の苦しみはとてもよく伝わってきて、おもしろかったです。なんとなく書き切れてないなあという印象を持ってしまったのは、まだ作者自身にとってこれが過去形になっていなくて、整理しきれていない部分があったからじゃないかと思います。

紙魚:すべては、「ぼくは、いままでに33冊の本を出版した。そして、いまもタイプしている……。」という最後の一文のためにある本だなと思います。作者が、本当に本が好きな気持ちが伝わってきて、ところどころの描写に胸打たれました。本好きの少年が、作家としての道を歩んでいく過程は、共感しながら読むことができましたが、すでに作家となった今、回顧して書いているので、どこか、距離も感じました。ただ、作家としての自負のようなものが、ずっと根底に流れていたのは、とてもよかったです。

:自伝がもつ意味というのは難しい。大人の文学でも自伝のプラスとマイナスがありますね。自伝文学の魅力は、その作家を知ってこそ成り立つ。ベイブ・ルースとかキュリー夫人であれば、子どもも読めるけど、物語としてのおもしろさがないと、子どもにはちょっとよくわからない。この作品は、読者に語りたいというメッセージが先行して、物語としてのおもしろさは感じられない。最後の文にたどりついても、作家になって何を書きたかったのが欠落している。文学が彼にあたえた力は書かれている。タイトルも『バッドボーイ』だとわからないですよね。自伝であるからこそいいところは、お父さんが文盲であることを受け止めるところとか、お母さんから旅立つところ。実体験だからこそきらきらと輝いている。

アカシア:育ての親の家庭にすっと入っていて、悩むところもないとか、黒人であることをある時点で意識しはじめるとか、スピーチに障害があるのもある時点までは気づかないとか、そういうところから作家の実像が浮かび上がって、私はおもしろかった。それに、本の力を受け止めていって、自分の中で醸成していく過程はよく書かれている。でも、翻訳はもう少していねいにやってほしかったな。矛盾している記述もあるし、意味が通りにくいところも多々ある。後書きにしても、「この本の中心には、愛があるのだと思う。最後は身を持ち崩していくお母さんへの愛、〜」とあるけれど、お母さんは身を持ち崩しているわけではないですよね。アフリカ系アメリカ人の子どもたちには当たり前のことでも、日本の子どもにはわからないこともあるんだから、もう少し親切に目をかけたり手をかけたりすることによって、橋を架けてほしかったな。

すあま:この作家は、『ニューヨーク145番通り』(小峰書店)がおもしろかったので、どういう人なんだろうと思いながら興味深く読んだけれど、もし知らない作家だったら興味がわかなかったかも。作家って、学校に行ったりしてなるものではなくて、書かずにはいられない人がなる、と聞いたことがあるけど、この人もそうなんだな、と感じました。黒人として生まれたことはどういうことか、というところも興味深い。ただ、日本の子どもたちで、作者が読んだような本を読んでるって子はいないと思うんですね。日本では大人の本として位置づけたほうがいい。いずれにせよ、この作家のほかの作品といっしょに読まれるといいんじゃないかな。

きょん:半分くらいまでしか読んでないのでわからなかったけど、これって自伝だったんですね。自伝だからなのか「いきなり」バラバラつながっているところが、とらえどころがない感じで、読みづらかった。しかし、ところどころ、ぐっと引き込まれるエピソードがあるのが印象的でした。「文学とのふれあい」や「出会い」「詩の世界に入る心の動き」など、興味深いところもありました。「ハーレムの風景」もおもしろかった。しかし、全体としては、ばらばらした落ち着かなさ、気持ち悪さがありました。

むう:アミスタッド号の原書を読んだときに思ったのですが、ノンフィクションを書くときのこの人の文章って、とてもストイックなんですよね。情緒に流さずに。この本でもそういうところがあって、そっけないくらいに乾いていると思います。

カーコ:前半は、フィクションとして読んでいけるんだけど、後半は、本好きでないと読み進めにくいかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年4月の記録)


難民少年

ベンジャミン・ゼファニア『難民少年』
『難民少年』
ベンジャミン・ゼファニア/著 金原瑞人/訳
講談社
2002

アカシア:最初この書名は愛想がないな、と思ったんですけど、読んでみると合ってるのかもしれないと思いました。日本って、難民政策がひどいんですよね。だから、これを読んで日本の難民政策とくらべてほしいと思った。ボランティアの人たちがアレムに対して手厚く支えるじゃないですか。アレムは、清く美しく真面目で健気でという主人公だし、周囲の人もそうですよね。こういうストーリーが自ずと生まれてきたというより、こういう構成でつくろうとして書いたという印象ですね。躍動感、ダイナミズムがあると、もっといいかなと思いました。気になったところは、16ページでtribeを「部族」と訳しているけど、差別表現と言われそう。34ページの「肉と二種類の野菜」は、食堂のお品書きのことだとわかるように書いてあった方が親切。84ページ「あんたにきくんじゃないって思ったんだけどね」もわかりにくい。87ページの「何度も着て過ごした」は、「何度も着たり脱いだりして」とした方が。160ページ「帰る!」だと断定のようにとれるので「帰る?」の方がいいのでは。204ページの「アフリカ合衆国」も気になる。この本の主人公のような人がいて、それについて考えてほしいという気持ちは伝わってきたけど、物語としてもっとおもしろいとよかった。

きょん:前半は、おもしろく引き込まれて読みました。が、3分の1を過ぎたあたりから、解説的で、愛想がなくなってきて、物語としてつまらなくなってきた。アカシアさんの言い方で言うと、「ダイナミズムがなくなってきたからかな」と思った。いろいろな世界情勢を知るとか、歴史を知る上では、よくできている教科書的な本なのかもしれない。

:この本は、「平和学」という授業でとりあげました。難民の問題は、学問として学んでも遠く感じると思ったので、学生が学ぶ手段としては、この本はいいと思ったんですね。ただし、作品としてみると、イデオロギーが先行していて、あまりおもしろくない。文学としては、キャラクターの構築がイデオロギーの陰にかくれている。絶版になっていて、先ごろ復刊された『わたしの船長さん』(和田英昭/著 講談社)などは、基本的に子どもの成長ということが先にあるんですね。それにくらべて、アレムのキャラクターがステレオタイプ。視点にしても、彼の内側から見た目線が少ない。241ページに「ぼくが望んでいるのは、平和を育む文化なのです」というアレムの言葉がありますが、こういうことを14歳の子がい言うかしら? プロットはよくできている。お父さんが撃たれるとか、予期しないことがよく起こる。14章のタイトル「死後の生」は誤訳だと思う。「死後の暮らし」とか「生活」にすべきでは。

紙魚:この作品でいちばん好きなところは、10〜11ページの、エチオピア・エリトリアのそれぞれの国の側から、ひとつの事件を簡潔に書いている部分。結局、あるひとつの事象でも、立場がちがえば全くちがった見方になるということを端的に現していて、その温度差が難民を生んでいるというのが、わかりやすく伝わるし、迫力もあります。確かに、主人公が素直で、まわりの人たちも親切で、できすぎの物語かもしれませんが、難民の問題を考えるモデルになるような本だとは思います。

むう:私は前に『フェイス』(ベンジャミン・ゼファニア/著 金原瑞人/訳 講談社)を読んだときに、着想がいいというか、タイムリーなテーマを取り上げる作家だなと思ったんです。でも、『フェイス』は物語の終わり方が今ひとつ迫力不足だったので、この本はどうだろうって思って読みました。出だしの親の出身地が互いに敵対していて、どちらに帰っても排除されるというのは、なるほどと思って、とてもおもしろいなあと思って読みはじめたのですが、結局、読後感としてはいまひとつ迫力に欠けていて、ちょっとがっかりしました。お父さんが都合よく死んじゃったり、うまく運びすぎている感じなんですね。言いたいことが先にあるって感じて、なんかしらっとしてしまう。それと、主人公がいい子すぎるような感じはしました。でも、いい子だからこそ読者はシンパシーを感じやすいわけで、それはそれでいいのかも。はちゃめちゃだったりいわゆる悪い子が難民だという設定にして、しかも読者が主人公に心を寄り添わせられるように説得力を持たせようとすると、この長さではおそらく収まらない。おそらく話がもっと複雑になるでしょう。少し前に、フィリピン人と結婚しているミャンマー人の難民申請が却下され、入国管理局に収容されて家族がバラバラになりそうになった、というニュースがありましたよね。あのとき私も、どうしてこんなことが起こるんだ、と憤慨していたんですが、そうやって怒っている自分をちょっと引いてみたときに、ミャンマー人の男性がとてもまじめで家族思いな人だからこそ、いわば楽に心を沿わせられる自分にあらためて気づいたんです。さらにいえば、だからこそ、「なんであんなにいい人が、難民申請も認められずに収容されなくてはならないのか」という思いが多くの人に共有され得たのではないか、と。この作品でも、こんなにいい子がどうして送り返されなくてはいけないのか、という関心の持たれ方が可能で、つまり、主人公が優等生であるがゆえに、難民に強いられる苦労の理不尽さがよくわかるという面があるように思いました。それはそれでいいんだと思いますけど。

アカシア:主人公がいい子すぎるという意見が多いようですけど、家族内の秩序がはっきりしているアフリカなら、こういう子はいそうですよね。

むう:この子もお父さんも、とても控え目に動いている。それは、難民という身分では自由に振る舞うことができず、受け入れてもらうために必死でいい人、いい子であろうとしているわけだから、それ自体にリアリティがないとはいえませんよね。そのいい人、いい子にして、裁判という形で国に迫られることのつらさは、よく書けていると思いました。

アカシア:いい子すぎるから、嘘っぽいという捉え方をされてしまうと残念。

トチ:この作者は、明らかに自分の周囲にいるイギリスの子どもに向けて、この本を書いていますね。とても大雑把な分け方だけど、私は子どもの本って2種類あると思うの。ひとつは「ああ、そうなのか!」または、「そうだったのか!」と、読者の目を開かせるような本。『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/著 原田勝/訳 徳間書店)や『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ/著 原田勝/訳 徳間書店)みたいに。もうひとつは、「うんうん、そうだよね!その気持ち分かるわ」と、読者の共感を誘うような本。私は勝手に「なのか本」と「だよね本」って呼んでいるんだけど、日本はいま「だよね本」の花盛りじゃない? そのせいか、このごろ私は「なのか本」だというだけで、多少の欠点はあっても感動しちゃうのね。これだけはぜひとも子どもたちに伝えておきたいという、作者の熱い心が感じられて。この本もまさに「なのか本」。自分の周囲にいるイギリスの子どもたちに「君のそばにも主人公みたいな子どもがいるでしょう? それはこういう子どもたちなんだよ」と訴えている作者の声が聞こえてくるような気がしました。
最後に子どもたちがアレムを救う運動を起こすところなどは、〈イギリスでも夢物語に近いのでは? まして日本では、ほとんどファンタジー〉と、少し悲しくなりました。お父さんが死ぬところでは、ここまで書かなくてもと思ったけど、これが現実なのかもしれないわね。あと、最初は三人称であっても全てアレムの目を通して書かれているのだけれど、お母さんが死んだという知らせが来るところで、とつぜん第三者の目になるので、つきはなされたような感じがしました。最初からある程度アレムに距離を置いた書き方(訳し方)にすれば、少し感じが違ったのかな? 会話の部分はとても達者だったけど。

:みなさんの意見で出つくした感じです。

すあま:私も、このエチオピア・エリトリアのあたりのことは知らなかった。戦争の話は、知識がないといつの時代に起こっているのかわかりにくいけど、コン ピュータゲームなどが出てくるので、今の話だということがわかる。アレムは英語もしゃべれるし、そのまま暮らしていけそうだけど、お父さんが現れたのでどうなるんだろうと思っていた。そしたら、お父さんを死なすことで解決しちゃったような感じだったので、もう一工夫ほしかった。関心がなかった友だちがキャンペーンを始め、それが一気にもりあがっていくところが、あまりぴんとこなかった。

カーコ:13章までしか読めませんでした。確かにイデオロギーが先行している感じがしましたが、ここまで読んできて、最後まで読みたいなという気になっているのは、ストーリーに力があるからだと思います。肉付けの部分があると、もっとおもしろいのでは。たとえば、イギリスに行ってから、アレムの目からすると不思議なことがいっぱいあったはずですよね。そういうことの具体的な描写があると実感としてもっと迫ってくる気がしました。また文章で、104ページ、「三人にとって、これほど心を閉ざしたアレムを見るのは」と、急に視点がかわるところがひっかかりました。

トチ:1990年だったと思いますが、BBCでアフリカの難民を扱ったドラマを放送して話題になったことがあったの。難民の大群が徒歩でじりじりとヨーロッパ大陸に向かってきて、ヨーロッパじゅうが大騒ぎになるのね。テレビは毎日どこまで難民が達しているか放送するし、いろいろな国の首脳が連日会議を開き、論争する。難民のリーダーの主張は簡単なもので「あなたたちは猫や犬などペットを飼っているでしょう? そのペットにやるミルクをわたしたちにも分けてくれればいいのです。そのかわりに、わたしたちだって、手をなめろと言われればなめてあげますよ」というの。難民たちがジブラルタル海峡を渡って上陸しはじめたとき、軍とにらみあいになるの。そのとき、ひとりの難民の子どもが拾った銃をいたずらしていて空砲を撃ってしまい、とたんに軍の兵士に撃ち殺され、そこで終わりと言う衝撃的な結末。ヨーロッパの人たちにとっては、難民の問題って本当に切実で身近なものなんだなと思ったわ。

カーコ:難民って、ヨーロッパでは大きな問題ですよね。どの国も、国外の政治・経済の変動で、常に外国人を受けいれざるを得ない現実があるので、子どもでも、日本の読者よりずっと身近なこととして、こういうテーマを感じるのではないでしょうか。

トチ:日本の子どもは、難民も移民も区別がつかないのでは?

:日本の政府は、なかなか難民として認定しないしね。

すあま:子どもたちの感想も、難民の話なのにいつのまにか戦争についての話になっていたりする。

愁童:壁紙にしているところはいいなと思った。両親なんか好きじゃないっていうけど、あの描写はうまいなと思った。また、こういう難民認定みたいな問題では、お父さんの手紙を出しなさいと言われて、出しちゃったら認められないっていう変な現実ってあるんだろうね。ただルーツとか、アレムを書き込んでいる割には、裁判についての論理的な去就がいまいち分かり難い感じがした。でも、こういった問題を子供達にきちんと伝えようとする作者の熱意は伝わってくるよね。

すあま:イデオロギーは出てるけど、臭くはないですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年4月の記録)


ペーターという名のオオカミ〜Tagebuch von Ryo

那須田淳『ペーターという名のオオカミ』
『ペーターという名のオオカミ〜Tagebuch von Ryo』
那須田淳/著
小峰書店
2003

むう:オオカミと環境問題、ドイツを分断してきた壁が個人に及ぼした影響を絡めながら男の子の成長物語を作るという意図は、なるほどと思いました。それに、ドイツの田舎の風景描写は、ドイツに行ったことがないものだから、へえ、こんななのか、とおもしろかったです。ただ、切迫感がないというんでしょうか。たとえばオオカミなんですが、大人向けの作品だから同列に並べるのは無理があるかも知れないけれど、乃南アサの『凍える牙』(新潮社)を読んでみると、オオカミ犬の持つ魅力が生き生きと伝わってくるんですよね。でも、この本にはそういうのがないんです。オオカミは大事にしなきゃみたいに書かれてはいても、読者は心の底からほんとうにすばらしいと感じ、大事にしなきゃと思うことができないのではないかと。頭の中で作った、という感じがしました。

紙魚:お父さんの転勤から家出を決行するまでの気持ちの流れが、今ひとつわかりませんでした。しかも、両親は自分の子どもが家出して、こんなに平気でいられるものでしょうか。家族像がつかめなかったです。ペーターやオオカミの群れの描写があまりにも足りないし、オオカミを何としてでも帰さないといけないという危機感も持ちにくかったです。オオカミへのつのる愛しさのようなものを、もっと感じたかった。全体としては読みやすいし、ベルリンの様子などは、とてもおもしろかったです。

アカシア:まだ読んでいる途中なんですけど。疑問がひとつ。表紙のこれは、犬じゃなくてオオカミなんですか? それと、ドイツとかベルリンを紹介したいという気持ちがあるせいか、うるさいほど説明してありますけど、本筋からすると邪魔にならないのでしょうか。

カーコ:私はおもしろく読みました。拾ってきた子オオカミをどうするのかというストーリーで、最後まで引っぱっていってくれますよね。さまざまな問題意識を呼び覚まさせる、日本の児童文学のなかでは意欲的な作品だと思いました。第二次世界大戦を扱った名作の多くは、実際にその戦争を体験した書き手の作品ですが、これからは、間接的な体験で、風化しつつある大切な事実をとらえなおして、現代につなげていく、こういった書き方が、試みられていくのではないかと思います。ベルリンの壁について、世界史では表れない部分を見られて新鮮でした。

すあま:ビデオにとったことが、後々影響するわけでもなかったのね。説明が長くて、とばして読みたいところがたくさんあった。「あかずきん」の全文なんて、必要ないですよね。ベルリンの壁のあたりは、最近、映画『グッバイレーニン』を観たので思い出しながら読みました。表紙の子犬は、オオカミに は見えない。それから、Tagebuch von Ryo、つまり「Ryoの日記」という副題は必要でしょうか?

:それなりに読めたのですが、読み終わったとき、ハーハーしちゃったんです。盛り込みすぎ。この作者が何を伝えたかったのかはわからなかったです。『難民少年』は、対照的で、伝えたいことがはっきりわかりましたが。オオカミを帰すということで、いったい少年たちは変わったのかな? そもそも、この少年たちに問題があったんでしょうか。描写はいろいろあるんだけど、マックスの昔の恋人に木を届けるところなど、必要とは思えません。あと、オオカミの気持ちで書いている章がありましたが、あそこはわからなかったです。視点をかえるという実験的な試みなんでしょうが、効果があったとは思えません。

トチ:読み出したらおもしろくて、これはひょっとして大傑作なのではと思ったくらい。それが最後のところで、主人公が日本に帰って、帰国子女枠で大学の付属校に入れたから、受験勉強もしなくてすむようになった・・・・・というところを読んで、興ざめしちゃった。この少年は、オオカミと自分を重ねあわせて、自由に伸び伸びと生きたいと思っていたのでは? それがこんなにケチくさい根性でいいの? そしたら、なんだかこの少年のごっこ遊びにつきあわされたような気分になったわ。だいたい、せっぱつまっているときに、木を届けたり、お父さんを頼ったりなんて余裕があるのもおかしい。読者は、けっきょく新聞の特派員とか高名な音楽家とか、恵まれた家庭に育った子どもたちが、冒険めいたおもしろいことができて、帰国したら受験で苦しむこともなくて、いい気なもんだと思うんじゃない? 今の日本の子どもたちって、能天気に見えてもみんな受験の重圧を感じているんじゃないかしら。

愁童:今の子どもたちには、受験がぜったいにプレッシャーになってるよね。

カーコ:最後の結びはつけないほうが、余韻を楽しめてよかったと思います。帰国子女枠で私立校に行って、幸せにやっていると聞かされると、結局は特権階級のお話みたいで、せっかくよりそってきた読者は、突き放された感じがしそう。

すあま:リアリティーを持たせようとしずぎて、失敗したんじゃないですか。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年4月の記録)


ケンスケの王国

マイケル・モーパーゴ『ケンスケの王国』
『ケンスケの王国』
マイケル・モーパーゴ/著 佐藤見果夢/訳
評論社
2002

愁童:おもしろく読みました。読みましたが、訳者が出しゃばっているのがとても気になりました。あとがきに小野田さんや横井さんのことを書いているので、読者はどうしてもそれに引きずられてしまう。つまり読者の想像力を限定してしまうわけで、読者に対して失礼だと思う。もちろん作者にも。でも、今の子はロビンソン・クルーソーなんか読まないだろうから、こういう冒険物語があっていいんだろうなと思います。

アカシア:まず情景や状況の描写がきちんとしてあるのがいいと思いました。冒頭で犬が手紙を運んでくる場面にしても、つばで手紙がべとべとになっているなんて書いてある。ヨットを操縦する様子なども、面白かったです。でも、細かいところが気になりました。たとえば、ケンスケは日本人のおじいさんという設定ですが、125ページでは「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」と言っている。カタカナで書いてある部分は原書でも日本語が入っているんだと思いますが、この時代のこの年齢の男性が少年に対してこういう言い方はしないと思うんです。せめて「すまんな」とか、「悪いな」くらいかなと。ここでがくっとリアリティーが下がってしまう。128ページでケンスケが主人公を抱きしめて子守唄を歌うところも、「抱きしめて」ではなく「抱きかかえて」と訳した方がケンスケのリアリティが出たと思います。137ページではケンスケが洗濯物を岩にたたきつけて洗っていますが、日本人はこういうやり方で洗濯はしない。143ページでは、ケンスケが子どもの頃にサッカーをしたと言ってますが、当時の子どもはサッカーしてたんでしょうか? そのままにしておくとリアリティがなくなる部分は、訳者が原著者に相談してでも表現を変えたほうがいいと思いました。
それから小野田さんや横井さんは、モデルではなくてヒントになったんだと思います。というのは、小野田さんや横井さんは、天皇の兵士として敵の捕虜になって恥をさらすことがないように隠れていたわけですが、ケンスケは自然を壊す現代の人間に不信感を持っているせいで隠れている。動機が違います。モーパーゴは環境や野生動物の保護について問題意識が強い人で、ケンスケにはその一つの理想が投影されているのに、実在の人物をモデルといって引っ張り出すと、作者のいいたいことが伝わらなくなる。

むう:冒険物語なんだなあというので、すっと読めました。ただ、今回の課題の相手がペイトンだったからか、迫力が足りないと思った。わくわく、どきどきがないんですよね。さらっと読めるけれど。それと、読み始めたとき、この主人公っていくつなんだろうととまどいました。12歳で冒険して、それから10年経ってということからすると若い人なはずなのに、やたら難しい言葉が出てくるので、なんだかぎくしゃくした感じで。原書が向こうで出版されたときに、へえっ、おもしろそうと思いはしたけれど、日本人を扱ったものを日本語に訳すのは難しいだろうなあとも思ってました。この本はただの冒険物語で終わらせず、そこに環境問題や戦争の問題というふうに今ホットな問題や学ぶべき歴史を絡めていて、そこはなるほどと思いました。でも、なんか教育的というか、おとなしいというか、枠をはみだすようなエネルギーが感じられなくて物足りなかった。

ハマグリ:モーパーゴのものは、大作ではないけれど、ちょっと心に残るよくできた小品、佳作という感じのが多いですね。そしてちょっと変わった人を書くのが上手だと思う。私も海に落ちるまでは家族の様子など細かく書かれていてよくわかっておもしろかったのだけど、その後はあまりおもしろくありませんでした。ケンスケという人物が今ひとつピンとこないのは、この人のしゃべる言葉に原因があると思う。つまりケンスケはたどたどしい英語をしゃべる人なんだけど、それを翻訳するとたどたどしい日本語になってしまうので、とても違和感がある。日本語に翻訳するわけだからどうしようもないことなのかもしれないけれど、これではケンスケの人物像があまりうまく伝わってこないと思います。なにかもっとやりようがはあったのでは? たとえば、全部片仮名で書くとか。これは日本人であるが故の違和感だから、島にいたのが日本人でなかったら、もっとすんなりと読めたかもしれません。そういう意味のハンディはありますね。それと主人公のセリフも違和感を感じるところが何カ所かありました。たとえば、ケンスケから蚊避けのシーツをもらって、「すてきなシーツをありがとう」というところなんか、男の子がこういうふうにいうかなあと。

トチ:モーパーゴって作家は、児童文学にとっていちばん大切な年齢層でありながら、なかなか良い作品がでない小学校高学年から中学生を対象にたくさん作品を発表している、それから動物とか異国の話とか子どもの興味のありどころを良く知っているという点で、とても良心的な、良い作家だと思います。感じのいい作品を書くし、本人もとっても感じのいい人。でも、どれを読んでもなんか物足りないのよねえ。スーザン・プライスの迫力、アン・ファインのうまさ、フィリップ・プルマンの知的な構築力、どれも足りない。8割の作品というか・・・・・・・

ハマグリ:で、印象が薄くて、読み終わるとすぐ忘れちゃうのよね。

トチ:そうなの。読んでいるときはおもしろいんだけど。この作家の本を読むときはいつも「なんか物足りない」と、「こういう感じのいい本を、子どもがどっさり読むのは、とてもいいことだ」と、このふたつの思いの間を針がいったりきたりするんだけど、この本の場合は、「ちょっとだめ」のほうにふれた。後書きの解説は、愁童がおっしゃったとおり余計だったけど、もしかしてモーパーゴ自身も、日本兵発見をこの程度のものと見ていたのかなあと思って・・・・・・・

アカシア:ケンスケと日本兵を密接なものとして結びつけているのは、原著者より訳者の考えなのでは?

愁童:モーパーゴは単に、現代でもロビンソンはありうるんだなあ、東洋人ってすごいなあと思っただけなんじゃないかな。

アカシア:それに、子どもの読者は、あとがきは読まないかもしれない。わたしは、モーパーゴの作品は大人が読んだらイマイチかもしれないけど、子どもが読んだらおもしろいと思うけどな。

トチ:でもねえ……。原書が出たときに読んだけど、翻訳は出さないだろうと思ったの。よく出したという感じだけど、ことさらこれを訳す意味があるのかなあ。

アカシア:訳をしっかりすればおもしろいと思うよ。現代を舞台にした冒険物語なんだから。

カーコ:印象はみなさんと同じです。中学校の図書室と市立図書館の司書の人に、おもしろかったと薦められて。でも、最初は訳文につまずきました。主人公が20歳くらいで書いたという設定の文章なのに、それにしては難しい言葉が出てくる。航海日誌になると、12歳の子が書いたはずなのに「我々」とか出てきて、普段読んでいる小学生の作文と比べて、ずいぶん印象が違う。また、船に乗るに到る過程が、私には現実味に乏しく感じられました。失業して、ヨットを買って、家族で航海に出てしまうなんて、こんなふうになるかなあと。舟のことや海のことは、知らないことが多くておもしろかったけれど。

トチ:作者としては、後半が先に出来ちゃって、どうそこに持っていくかで苦労したんじゃないかな。一家で船に乗ることになるまでの部分は説明的よね。

カーコ:全体の印象も、なにか物足りない。最初のうちケンスケが、無口でわけのわからないという、西洋人の持つ日本人のイメージかなあと思ったし。強い精神力や自己犠牲のイメージって、よくも悪くも日本人の登場人物につきまといがちな気がします。

ハマグリ:無口でよくわからないのは、英語が話せないからでしょ。でも、英語が話せない人間なら、別に日本人でなくてもいいんじゃないかという気はするわね。

トチ:原書の表紙は北斎で、英国人は北斎がとっても好きなのね。

カーコ:それから、ミカサンという呼び方って、変じゃありませんか? マイクと言えなくて言ったのなら、マイカサンくらいじゃないでしょうか?

アカシア:モーパーゴはマイカサンと読ませるつもりたったんじゃないかしら。それを訳者がミカサンとしたのかも。

:ペイトンを読んだ後だったんで、迫力の物足りなさはありました。おもしろいと思ったのは、日本人が30年孤島に一人で住んでいた。というニュースからヒントを得て書いたという創作の経緯です。外国人が日本人を書くのは難しいと思います。外国映画に登場する日本人って、やっぱり違和感があるし、東洋人に対する固定観念があるのでしょうね。たどたどしい口調については、孤島に一人でいたから人とのしゃべり方を忘れたのかなと思っちゃいました。子どもが読んだら、父親のリストラから世界一周に行くところが、なんともわくわくして楽しく読めるだろうと思った。犬が一緒なのも子どもには安心出来ると思う。この年齢でこういう冒険ができてドキドキして楽しんで読むんじゃないでしょうか。おもしろいと思って読むんだけれど、終わった後はあまり残らないのが残念。

すあま:最初は少年のサバイバルものかと思ったけれど、ケンスケが手取り足取り助けてくれてちっとも苦労しないじゃないですか。望郷の念のみで、苦労がないところが物足りなかったですね。やはり無人島でサバイバルする少年の物語、『孤島の冒険』(N.ヴヌーコフ/作、フォア文庫)と比べるとずいぶん違う感じ。もうちょっとわくわくしたかったです。これが日本兵のニュースから作られた作品だとすると、日本の作家が書いてもいい話題じゃないのかと思います。

アカシア:日本人の作家だと、天皇の兵士として恥をかきたくないといった意識をどう描くかが、逆に難しい。むしろ作者が外国人だから、冒険と孤独の部分だけをすくい取るというやり方ができたんじゃないかな。

すあま:最後のミチヤさんの部分はあった方がよかったのか、どうなんでしょう? これがあることで、マイケルではなくてケンスケの物語として終わっているんだろうけれど。

トチ:わたしは、ここは、さすがに子どものことがよく分かっている作者だと思ったわ。子どもが気にしそうなところはちゃんと腑に落ちるようにしてあげている。ケンスケの子どもはどうなったんだろうって、子どもの読者は気にすると思うもの。

アカシア:ロビンソン物は、ふつう時代をさかのぼって書かないと無理なんだけど、この作品は現代の自分にも可能性がある冒険として書かれている。そういう意味では、ケンスケの息子を登場させて現代とのつながりを強めてるんじゃないかな。それにしても、日本人が読むと違和感があるんだなあ。

トチ:欧米の読者とちがって、日本人なら子どもだってその年齢の人の仕草や、言葉遣いを知っているから、違和感を感じてしまうのでは?

アカシア:あとがきでは、小野田さんたちのことをさらっと書いておいて、作者はこのニュースをヒントにしたのかもしれません、くらいにとどめておけばよかったのかも。いつでもロビンソンになる可能性があるんだよ、というので、ニュースを紹介することは構わないと思うけど。

トチ:日本の作家なら当然「小野田さんや横井さんのような人もいたけれど、ケンスケみたいな人もいたんですよ」って、書くと思う。

すあま&アカシア:それにしても、挿絵が古い! これだと、日本の子どもは、よけい現代の物語とは感じられないと思う。

愁童:さっきの、アカシアさんの疑問について言うと、サッカーはア式蹴球なんて呼ばれて戦前からやっていたから、そんなにおかしなことではないかもしれない。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年3月の記録)


ブレーメンバス

柏葉幸子『ブレーメンバス』
『ブレーメンバス』
柏葉幸子/著
講談社

トチ:感想が言いにくいなあ、んー・・・・・・言いにくいときは、まず好きなところと嫌いなところを探すことから始めるんだけど、この本は好きなところがないの。いちばん感じたのはリアリティの無さね。たとえば「桃から生まれた」の主人公の女性は、お店で信玄袋を買って、うちに帰って袋をのぞいたら赤ちゃんがいたというのだけれど、「最初はぺちゃんこで軽かった袋が、途中でだんだん重くなった」とか、「畳の上に置いたとたんに、妙に重くなっていてむくりと動いた」とか、「袋の中をのぞいたら、もわっとしたものがあって、それがだんだん赤ちゃんの形になった」とか、そういうことがなんにも書いてなくて、とつぜん赤ちゃんが出てきたと言われてもねえ。「金色ホーキちゃん」だって、妻が昔ぐうぜん出会った女の子だってことに、つきあって、結婚して、子どもが生まれても気づかないなんて、不自然じゃない?

アカシア:女の子は変わるから、まあ黙ってればわからないにしても、お父さんはそんなに変わらないから、どこかでわかるよねえ。

トチ:この中でいちばん良くできてると思ったのは「ピグマリオン」だけど、なんだか後味の悪い話ねえ。救いが無いというか。「ハメルンのおねえさん」も、若い女性が不倫相手の家に放火して、子どもがふたり死んでしまった事件を思い出してしまって。ねえ、最後の1行の「最後の葉書(註:父親の不倫相手のお姉さんの結婚通知)がなければ、父を軽蔑していた」って、どういう意味?いくら考えても、分からなかった。この本はストーリーの怖さ以上に、作者と意思疎通できない怖さ、薄気味悪さを感じたわ。最後の「ブレーメンバス」では、出てくる女性が老いも若きも、みんな逃げの姿勢。他の話も、結婚を女性の最上の生き方と思っている女の人ばかりでしょう? これって、児童文学なのかなあ。モーパーゴは、しっかりと子どもに向き合って書いているのに、この作者はいったいどこに目を向けて書いているのかしら。

ハマグリ:なんとなく嫌な感じだった理由が、トチさんのお話しで納得できました。これまではこの人の作品は割といいと思っていたけど、同じような作品をちょっと出しすぎかも。うまいのはうまい人なんだから、未熟なものを出さないでほしい。短編って、やっぱりピリッと小気味良くないとだめだと思うの。でもこの作品はどれも、なにこれ、で終わっちゃう。こどもの読者には感情移入できない作品ばかり。例えば「つづら」のように、中年のオバサンの心理で書かれているものが多いから、子どもにはおもしろくないでしょう。大人向きの短編集としては、小気味よさが足りないし、どっちつかずですね。もうちょっと自分の中で完成させてから発表してほしかった。会話や文体はうまい人だからすらすらと読めたけど、作品としてやっぱり完成されてないと思う。細かいところでは、「つづら」の「アイアン」なんていうあだ名も子どもには分かりにくいと思う。「うん、順子さんはやっぱりアイアンだった」って、どういう意味かわからなかった。

むう:ホーキのところで、あらまっ、へえっ、と思ったたけれど、ともかくさらさらと読みました。それで、一番強く感じたのは、これって子ども向けなのかなあということ。なんか、生活にくたびれた寂しい感じの中年女性の話ばかりでしょ。そこがどうもねえ……。「ピグマリオン」だって、設定はメニムみたいでおもしろいと思ったけれど、なんかやたらおどろおどろしいのがいただけない。「ブレーメンバス」の最後の挿絵を見て、この本を象徴してるなあと思いました。全員幽霊みたいで影が薄いんですよね。

アカシア:読んでいくうちに、どんどん腹が立ってきちゃった。「金色ホーキちゃん」は、最初に「ホーキ頭にかためた髪が、ぐったりたれてきていた」と書いてあるから、見た目ホーキには見えないんでしょ。でも、ホーキのイメージをまわりの人が持っていてこそ成立する話。「桃から生まれた」では、信玄袋の中から赤ちゃんを抱き上げるって書いてあるんだけど、つまみあげるくらいのイメージしか読者は持てない。とにかく、疑問や不可解な点やイメージのギャップが多くて、すとんと落ちてこない。この作家って、こんな作品ばかりなの?

ハマグリ:柏葉さんの作品は『ミラクル・ファミリー』(講談社)のほうがいいと思うよ。

アカシア:ハメルンは、49ページで終わってると思って、いい作品だねえと思ってたら、次のページに続いてたうえに、ハガキが来たらどうして父への軽蔑がなくなるのかわからない。「オオカミ少年」は何度も同じ嘘をつく少年というのが定義で、一回嘘を言っただけでオオカミ少年とは言わないでしょ。「つづら」は、「アイアンをよべ」「かなづちはやめてください」の部分がリアリティのない寒いオヤジギャグでしらける。「十三支」の最後の意味、分かった人いる? あああ、今年はほめるという誓いを立てたのに、こんな作品出してこられると、守れないじゃないですか! 力を持っている作者だったら、編集ももっとしっかりしろい!と言いたい。

すあま:それぞれの話の中に意味不明なところがあって、短編なのにいちいち確認しながら読まなくちゃいけなかった。昔話をうまく使うというのは悪くないんだけど、使い方がいいかげんだから、そこに引っかかってしまう。「金色ホーキ」の土台になってる3匹の熊の話は、よそからきた女の子が家の中をめちゃめちゃにして去るのに、これは助けてくれる話だし。もう「十三支」のあたりまでくると、意味を深く考えるのをやめてましたね。「シンデレラ坂」も、坂の下にコンビニがあるのに、なんでわざわざ坂を駆け上るの?

トチ:ええっ? そうなの? 坂の上にコンビニがあるのかと思ってた。

すあま:元ネタにしている物語との接点がないから、よくわからないんですよね。元ネタのキーポイントが落ちにつながるということもないし。ただ出てくるだけという扱いだから、読んでいると混乱する。

:読みながらどうしてこんなに気が滅入るのかなって思ったら、出てくる女性がみんな好きになれない。考え方もしゃべり方も、みんな嫌いなのね。 今日の課題図書でなかったら途中で止めていたと思う。「オオカミ少年」の終わり方など、安っぽい世界に引き戻されたみたいでイライラして、もう本を放り投げてやろうかと思ったくらい。これは子どもの本なの? 若い女性向けの本にもなっていないよ。標題になっている「ブレーメンバス」なんてもう脱力。もう3人とも2度と帰ってくるな!って叫びたい気分。女の人たちに、みごとに共感できなかったなあ。

愁童:期待して読んだけど、誰に向かってこのお話を書いたのかがわからない。大人向けにしては短編としての切れがないし、子ども対象というには大人の心境みたいな物が主体になってるし。印象に残る作品はありませんでした。「すとんと納得」という短編の醍醐味が希薄。

ハマグリ:表紙とか、本の作りは子ども向きなのにね。

愁童:これが児童書だとすると、日本の児童図書の衰退の象徴のような気がする。この作品には、ハートが感じられないんだよね。

カーコ:中学校の司書がこの本を中3の教室で読んだら、借りていった子がいたって言っていたので読んでみたんです。違和感をおぼえたけど、大きな出版社から出ているものだし、知名度のある書き手だし、みなさんならどう読むのかなあという気持ちで選んだんですけど……。中学生がこの本を読んで、次に本を読もうとは思うかどうか。中学生の読書の入り口にするのなら、もっと別の本があるのではないかと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年3月の記録)


駆けぬけて、テッサ!

ペイトン『駆けぬけて、テッサ!』
『駆けぬけて、テッサ!』
K.M.ペイトン/著 山内智恵子/訳
徳間書店
2003

愁童:おもしろかったです。でも、『運命の馬ダークリング』(掛川恭子/訳 岩波書店)とよく似た設定で、ちょっと同工異曲かなって感じも……。テッサが良くかけていて、共感して読みました。ただ、他の人にあまり筆を割いていないので、義父は悪い人、テッサの周りはいい人、みたいな単純な図式になってしまって、水戸黄門的安心感で読めるんだけど、やや物足りない感じもありました。

:おもしろくて、ノンストップでした。最近「シービスケット」という競馬馬の映画を観たし、ハルウララの人気のこともあったせいか、、競馬界の物語としてもおもしろく読めました。日本とイギリスでは競馬に対する思い入れが違うんだなあと思いました。テッサは手におえない女の子だけど、そこに至るまでのところがあまり伝わってこなかったのは、愁童さんがいわれたように親の書き方が弱かったからからなのかな。物語の真ん中でテッサが義父を刺すという展開はショックだった。義父が最後まで嫌われ者の嫌な奴に描かれているのは、作者が馬をとっても愛していて、こういう人はよほど許せないのでしょうね。テッサとピエロの関係がとても良いし、ピエロが魅力的でした。

すあま:ペイトンの本は好きで一通り読んでいます。どれも馬と気性の激しい女の子が出てくる成長物語なんですね。楽しく読みましたが、同工異曲という感がなくもない。馬の世界とそこで生きる人々の魅力なんでしょうね。これまでの本と比べると、テッサがあまり成長したとは感じられなかった。この作家の作品の主人公はエゴが強い場合が多いのだけれど、テッサにはあまり共感ができなかった。ペイトンはドラマ作りがとてもうまくて波乱万丈なのだけれど、この作品ではテッサの気持ちの変化があまり感じられなくて。

アカシア:私はすごくおもしろかった。登場人物も、テッサの義父を除けば、それほどステレオタイプだとは思わなかった。わたしが何に気持ちを寄せて読んだかというと、ピエロになんです。相棒のポニーがいなくなったり、独り放置されたりというときのピエロの気持ちが、ひしひしと伝わってくる。人間と同じような感じ方ではないということも、ちゃんと書かれている。『運命の馬ダークリング』より馬の気持ちが良くかけていて、作者の馬への深い思いもよくわかった。原題のBlind Beautyも、Black Beautyを下敷きにしてるわけだから、馬が主人公の物語なんでしょうね。

愁童:前の作品では主人公が時代に風穴をあけるように積極的に社会に挑んでいく女性として描かれていて、そのきっかけが馬だったんだけど、これは、歪んじゃった女の子が立ち直っていくきっかけが馬なんだよね。その違いが出てくるのかもしれませんね。ピエロを、見てくれの悪い馬として描きながら、読者の共感をこれだけ誘う作者の筆力はすごいなって思いました。

むう:ペイトンは、「フランバース屋敷の人々」のシリーズ(岩波書店)も愛読していましたし、今回の宿題の3冊の中ではいちばんおもしろくて、駆り立てられるような気分で読みました。すごい迫力でしたね。でも、袖の内容紹介に「刃物を手に」とあるのを読んじゃったせいで、ずうっと、「ええ、いつ刃物が出てくるんだろう。どうなっちゃうんだろう」ってはらはらして、息苦しくて……。児童文学だからひどい終わり方はしないだろうなあ、というのだけが頼みの綱という感じでした。でも、テッサが自分で周りの人たちにはじかれるようにはじかれるように、嫌われるように嫌われるように動いていくあたりはとてもよくわかったし、説得力があると思いました。夢中にさせるだけのうまさがあって、迫力があって、堪能した!という感じです。
でも、読み終わってちょっと引いて見てみると、最後のレースに勝つところは出来すぎかな?とも思う。ラブストーリーがあるあたりを見ても、ペイトンって実はかなり古典的なのかな、と思いました。馬に関することがたくさん出てくるんだけれど、それが説明に終わっていない。読者に読ませちゃうところがすごい。まあ、強いていえば夢物語という気がしなくもない。だって、かなりお金のかかる目の手術もうまくいって、グランドナショナルにも勝っちゃうんだから、ちょっとやりすぎかな。でも、ほんとうに力のある作者で、ピエロの目から見た書き方もよかったです。

カーコ:ぐいぐいと読ませる力がすごいですね。圧倒されました。テッサとピエロの二つの筋で、ひっぱっていくんですね。競馬のシーンも、息づかいや匂いまで伝わってくる感じ。迫力があって読み応えがありました。日本の作家も頑張ってほしいなあ。テッサが両親を、そのような人としてそれぞれに認めていくところも、成長がうまく描かれていますね。

むう:テッサはかなり小さいときから、家庭が安定していなくて無理やり自立せざるを得なくなっているんですよね。夫婦げんかから逃げるようにして馬屋で過ごしたり。だから、途中で出てくる母との突き放したような付き合い方も、十分納得がいきますね。

愁童:厩舎の中の人たちを、もうちょっと膨らませればいいのにねえ。出てくる人たちは十分に魅力的なはずなんだけど。でもテッサとピエロが良くかけているからいいのかな。

むう:最後のレース後のピエロの描写がとてもうまい。ピエロは自分が大レースに勝ったこともわかってないし、何がどうなっているのかもわかっていない。でも、自分にひどいことをしたためしのない人たちに囲まれているから、これで大丈夫なんだろうと感じているっていうのが、なんかすとんとこっちの心に落ちました。人間は大騒ぎしているけれど、実は馬ってこうなんだろうなって。途中のピエロが一頭だけ野ざらしで牧場に放置されるところもですが、こういうのを読むと、人間と関わる動物のある種の無力さとか、動物を飼う側の人間の責任なんかも考えさせられますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年3月の記録)


ナム・フォンの風

ダイアナ・キッド『ナム・フォンの風』
『ナム・フォンの風』
ダイアナ・キッド/著 もりうちすみこ/訳
あかね書房
2003

ペガサス:オーストラリアに住むベトナムの難民の子の話なんだけど、親ではない人に育てられる子の話だというところに他の2冊との共通点があると思って課題本に選びました。子どもの気持ちがまっすぐで健気な感じが、気持ちよく読める。ナムフォンはつらいことが多すぎてなかなか言葉を発することができないのだけど、「黄色いカナリアさん」とか動物たちを心の友だちにして、自分の気持ちを伝えていくのが印象的。事態は好転するわけではないけれど、少しずつ前を向いて歩いていくという印象が残る。短いながらも、子どもの気持ちが出ている。

むう:作者や訳者の善意がとてもよく伝わってくる本ですね。ただ、低学年向けの短い本だからというのもあるかもしれないけれど、細かい表現がほとんどなくて、読んでいてすっとすべっちゃう感じ。共感するところまでいかなかった。たとえば自転車を家に入れるところも、2階まで上げるんだからとても大変なはずなのに、大変さが伝わってこないんですね。「大変でした」と言われて、「はあ、そうですか」と言うしかない。細かいところの描写がもうちょっとあれば全体が起きあがってくるのかなと思いました。『モギ』もそうなのだけど、自分と文化の違うこういう人たちがいるんだよ、ということを子どもたちに紹介するという姿勢はいいと思いますが……。それと、これはあくまでも好みの問題ということでなんだけれど、あまりに女の子っぽいっていうんですかね。この子は木登りが好きという活発な女の子なのに、こんなべたべたの一人称になるかなあと思います。手紙の語尾もそうだし。苦手だなあという感じでした。

愁童:ぼくもむうさんとほぼ同じ。はっきりいって、つまんなかった。外国人によりそうのではなく、かわいそうだなあと冷たく書いている感じ。親に別れ祖父の死を目撃して、本当にひとりになった子が、「カナリアさん」なんて呼びかけるけど、親や祖父には直接呼びかけないのはなぜ? この子、この国でこれからどう生きていくのかなというところが見えてこない。

カーコ:私はあんまり批判的には読まなかったんです。オーストラリア方面に流れていったベトナムのボートピープルの話を児童書で見るのは初めてだったので、こういうテーマを伝えていくということは大事かなと。ストーリーに起伏はないけれど、ナム・フォンという名前の意味の謎にひかれて、最後まで読めました。オーストラリアの子だったら、ナム・フォンと聞いたら、自分たちの名前じゃないと思うのでしょうね。でも、日本の子が読むとほかのオーストラリア人の子の名前との違いがはっきりわからないかも。それに、オーストラリア社会の中で、ベトナム人がどんなふうにとらえられているか、どんなふうに暮らしているかなど、イメージがはっきりしませんでした。

紙魚:この本を読んでいちばん感じたのは、異文化の人間同士が結びつくには、やっぱり食べ物の力が大きいなってこと。私が小さい頃には、ベトナム料理なんてどんなものだか想像もつかなかったけれど、この頃はいろんな国のお料理が味わえて、とても身近に感じられるようになりました。私も、ナム・フォンが動物や自然宛てに手紙を書くのはちょっと気になりましたが、故郷を思い出すときに、しぜんとそういうものが浮かぶほどベトナムは自然が豊かなのかととらえて読みました。

ケロ:私も食べ物がおもしろかったです。この子が、まわりの人たちに強烈に傷つけられることがなく、色々な助けを借りながら心を癒していく様子がきちんと書かれているなと感じました。確かに物足りない感じもあったけれど、たとえば難民問題への入り口にはなっていくのかと思います。果物の味がじゅるじゅるっと濃かったりして、自分が見たことのない国を知るうえで、味覚はすごいですね。

Toot:私は快く読みましたね。この子は、家族や自然を愛していたんだなというところがうかがえるし、状況は違うかもしれないけれど、ひきこもりの子たちは、ナム・フォンに重ねて読むのかな。私の印象に残ったのは、鳥。鳥を使って、気持ちなどもよく表現されている。12ページの「おじいちゃんが木の小鳥を彫って」なんかも。タイトルがいまいち強くないのが、もったいないですね。

トチ:原題の“ONION TEARS”というのは、最後に主人公が流したのは、タマネギを切ったときの涙ではなくて本物の涙だった……ということでしょうね。でも、邦訳のタイトルからは、そういう原作者の思いが汲み取れないのでは?

アカシア:ナム・フォンがどうして話さないのか、オーストラリアの子どもたちはふしぎに思うけど、それにはちゃんと理由があるんだよ、ということをこの作者は書いているんですね。できれば日本の子どもにも読んでもらいたい。でも、こういうテーマ性のある作品ほど、敬遠されないためにはきちんと書いてほしいと私は思ってるんですね。気になったのは、人物描写が少ないことで、子どもの読者にはイメージがとらえにくいと思う。それに、お祖父さんのことは書いてあるけど、お父さんやお母さんやほかの兄弟とはどうして別れてしまったのかという肝腎なことが書かれていない。私たち大人は、なんとなく状況が想像できますけど、子どもはわからない。それから、ずっと口をきかなかったナム・フォンがついに心を開いて先生に「何から何までしゃべりだす」(p89)場面がありますけど、ここは英語でぺらぺらしゃべれたのかしら? ナム・フォンはオーストラリアに来てから何年くらいになるんでしょうね? 必要なリアリティがきっちり押さえられていないように思いました。このままでは、学校の先生は読むように薦めるかもしれないけど、子どもには理解しにくい本で終わってしまう。それが残念。

トチ:善意あふれる本ですね。自国の子どもたちに、なんとかベトナム難民の子どもたちを理解してもらいたいという作者の気持ちは感じられるけど、もうワンクッション置いて日本の子どもに読ませるとなると、いろいろ難しい点が出てくる。本当にすばらしい作品だと、自国の子どもに向けて書いたものでも、その他の国の子どもにもじゅうぶんに理解できるのだけれど。登場人物がベトナム語で話しているのか、それとも英語なのかとか、分からない点が多々ありますね。たびたび出てくるゴックさん夫妻とはいかなる人物かとか……。

アカシア:この本の冒頭でおばさんが「ナム・フォン! ゴックさん夫婦が見える前に、早く部屋を片づけておしまい! これじゃ野ザルのすみかだよ」と言ってますね。ゴックさん夫婦はどうもレストランのお客らしいとなると、どうして「部屋」を片づけなければならないのか、それもわからない。

トチ:いちばんひっかかったのが、主人公のベトナムにいたころの回想で「兵隊が来て、こわかった」というところがあるでしょ? この兵隊って、アメリカ兵かしら、それともベトコンかしら? それがわからないと、作者がどういう姿勢で書いているかもわからない。もし、この本を授業であつかって、そのことを子どもに質問されたら、教師はどう答えればいいのかしら?

アカシア:子どもにとっては、どっちでも同じなんじゃないかしら? どっちにしても子どもは被害者なのよ。

トチ:たしかに、戦時の子どもはいつも絶対的な被害者なんだけれど、戦争を自然災害やなにかと同じとらえかたをして、「かわいそうなんだよ、ひどいめにあったんだよ」とだけ書いていていいのかしらね。少し前の日本の児童文学にもよく見られる書き方だけど。それから、白人である作者が難民の子どもを優しい眼差しではあっても上から見ている、パトロン的な目で見ているという感じがどうしてもしちゃうのよね。
もうひとつ、しゃべることができない子どもにモノローグで語らせるという手法も、気になった。モノローグというのは、読者にたいしては饒舌に物語っているわけでしょ。だから、この子がしゃべれない子だということを、読んでいるときにすぐに忘れて、混乱しちゃうのよね。そのうえ、手紙は「カナリアさん」宛てだったりするけど、本当は自分宛ての手紙もはさみこまれているし。地の文を三人称で書くとか工夫すれば、手紙の部分ももっと引き立ってくるんじゃないかしら。

ペガサス:この子の言葉で書いているから状況がわかりにくい、っていうのはあるね。別の人、たとえばおばさんから見て書いた章があるとかすると、もっとわかりやすいのにね。

アカシア:地の文と手紙の部分の文体が、ほとんど同じだから、よけいにメリハリが出ない。

トチ:だから、手紙は感傷的にするしかなかったんでしょうね。あと、細かいことだけれど、「サフランのようなオレンジ色の太陽」ってあるけど、サフランの花はオレンジ色じゃないわよね。紫だもの。たしかに英語ではサフランといえば雌しべで染める黄色のことを指すけれど、日本の子どもには分からない。このへんのところ、翻訳にもうひと工夫ほしいわね。あと、主人公がベトナム料理をみんなに配って「お気に召すといいけど」と言う。この言い方にも違和感を持ちました。

アカシア:日本の子どもは、こんな言い方はしないわね。

愁童:それから日本人だったら、花に「目がない」とは言わないよね。「バラに目がない」とか具体的に言うよね。人物をうまく描きだせるところなのに。花に目がないなんて言われても、人物が立ちあがってこないよね。

トチ:花の名前なんて、小さな子にだってちっとも難しくないのに。作者の頭の中に実際の花が浮かんでなかったのかしら?

アカシア:ナム・フォンの手紙が「黄色いカナリアさん」「雲のように白い羽根のアヒルさん」と始まるから、よけい甘ったるい感傷的な印象になる。

カーコ:「カナリアさん」とするか、「カナリアさんへ」とか「カナリアへ」とするかでも、目線やイメージが変わってきますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年2月の記録)


モギ〜ちいさな焼きもの師

リンダ・スー・パーク『モギ:ちいさな焼きもの師』
『モギ〜ちいさな焼きもの師』
リンダ・スー・パーク/著 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2003

むう:おもしろかったです。もう、1行目の「おーい、モギぼう! たーんと腹ぁへらしとるか?」で、あちゃあ、つかまっちゃった!という感じでしたね。前半はわりとほんわかと人と人との交流や何かで読ませて、後半は旅に出るところから畳みかけるように次々といろいろなことが起こるので、ぐいぐい引っぱられて転がるようにラストに行き着きました。これも、アメリカにいる人が韓国という異文化を書いているんだけれど、お話自体がきちっとできていて人物にも共感できておもしろい。だからこそ、お話を楽しむなかで、へえ、こうなんだとか、どうしてこうなのかなあというふうに疑問が広がっていくし、よく書けてると思います。訳もとても読みやすかった。みごとです。ここに書かれている生活はとてもハードなんだけど、ユーモアがあるから決して重たくなく、気持ちよく読めました。よく考えると、追いはぎをのぞくと悪人も出てこないんですよね。これは青磁の話ですが、今までけっこう好きで自分でも見ていた青磁の器にこういう秘密があるってはじめて知りました。象嵌っていうのはすごい技法で、それが作り出された時に舞台を設定するというのもとてもドラマチック。思わずインターネットで青磁の写真を見直してしまいました。物語の筋や表現が特に新しいというわけではないのだけれど、いわば定番の安定感がプラスに働いていると思います。個人的には橋の下のおじいさんがとても好きです。

愁童:ぼくも、同じような感想です。韓国の文化に着いての描写も違和感なく読めた。焼きもの師夫妻の主人公に対する気持ちの近寄り方も、すぐハグハグするんじゃなくてね。少々、通俗的だけど、子どもの本て、こういうわかりやすさとハッピーエンドって大事だと思うので、『ナム・フォンの風』に比べれば、ずっといいと思った。

カーコ:人物がくっきりしていて、筋もドキドキしてとてもよかったです。弟子入りしたモギが、だんだんに焼き物のことがわかってくる過程がとてもうまく書かれていて、すごいなあと思いました。特に、99ページの、粘土の漉しのことがわかる場面。修行を積むうちに、ふっと上に行けた感じが伝わってきて、とても印象的でした。名人の師匠なのに、焼成だけは思うようにいかないというのも、人生の一面が出ていますね。モギがわからなくても考えるのが好きと言って、あれこれ考えるのがおもしろかったですね。ひとつ難を言うなら、絵がきれいすぎるかなと思いました。表紙の絵も中の絵も、貧しい感じが私はあまり感じられなかったので。

紙魚:私も、モギが粘土を漉していて、ふっと指先が全てを感じた部分では、かなり興奮しました。まるで私の指も何かに触れたかのように感じたくらい。私は、好きなことを懸命に志し、手に職つけていく話って大好きなんですよね。今、『13歳のハローワーク』(村上龍著 幻冬社)が話題になっていますが、あの本の考え方はとても大切だと思うんです。ついこの前までは、日本には、学校に行って企業に勤めることが幸せにつながるという幻想がありましたが、「好きなことを仕事にする」ことこそが、個人にとって幸せだし、国家の経済や未来のためにもなるという考え方は、大人こそが身につけるべきです。「好きなこと」を手がかりに自分の生き方を選んでいくという考え方は、モギの姿にも重なり、フィクションでもノンフィクションでも、そういうことを伝えていくって、すばらしいと思いました。

ケロ:翻訳ものだとは思わず読んでましたね。日本的だと感じたのは、おじいちゃんの教えを身にしみこませていくような感覚のせいでしょうか。何かができるようになる、修練をつんでうまくなっていく話というのは、ある意味、カタルシスになるというか、読んでいて気持ちいい。ゲームをクリアしていくのと根はいっしょなのかもしれないけれど、現実の地に足がついているところが違う。このような話は、小さい頃から好きでした。これまで青磁ってあまり変化が無く、魅力を感じなかったんですよね。すみません、という感じです。韓国で書かれたものって触感が違うかと思っていたんですけど、アメリカを経由しているからか、さらりとした触感に変わっていて読みやすいのかな。

Toot:小さな希望と絶望がくりかえされていく。それぞれの人物が、ひがんだりせず凛として書かれている。トゥルミじいさんの言葉が、作者のメッセージなのかな。おかみさんにしても、だらだらと語ってはいないのだけど、1行であらわすのがうまい。確かに、絵はきれいすぎますね。あと、タイトルは、手にとって読みたいという気持ちになりにくい。

アカシア:ストーリーの進め方は、児童文学の定石どおりで、貧乏だけど気立てのいい少年が精一杯努力をした結果幸せをつかむ。でもリアリティが感じられて、気持ちよく読めました。作者は、親の世代がアメリカに移住してきたコリアン・アメリカンですよね。扉に「青磁象嵌雲鶴文梅瓶」の写真(イラストかな?)がありますけど、きっと作者はこれを韓国の美術館で見てイメージをふくらませていったんじゃないかしら。いったん物語が終わったあとで、「韓国の国宝のひとつに、高麗時代に作られた青磁の梅瓶がある。象嵌で仕上げたその美しさはほかに類がない。意匠の主役は鶴(トゥルミ)である。四十六個の丸文のひとつひとつに、のびやかに翼を広げて鶴が飛ぶ。(中略)その名を『青磁象嵌雲鶴文梅瓶』という。作り手については、なにもわかっていない。」と、作者は書いて、モギがこの作品を作ったのではないかという可能性を読者に想像させる。うまいですよね。この作品を書くにあたって作者はいろいろと調べたんでしょうけど、翻訳者も実際に韓国を訪れて細かく取材している。だから作品が嘘っぽくないし、しっかりしたリアリティに支えられている。とても好きな作品です。

トチ:翻訳がすばらしい! アカシアさんの話を聞いて、ずっと前に聞いたアラン・ガーナーの講演を思い出したの。ロシア語の翻訳者がガーナーのイギリスの自宅に来たとき、「〜〜という木はどんな木ですか?」ってきいたんですって。ガーナーが、近くの森に連れていって、その木を教えてあげると、翻訳者はその木に抱きついて手触りを確かめ、葉っぱの匂いをかぎ、五感でその木を知ろうとしていた。ガーナーはそれを見て、翻訳者ってこういうものなんだ、翻訳ってこんなにすごいことなんだって感激したっていうのね。ガーナーがそんな風に感激したって話を聞いて、私もまた感激しました。作品の魅力はみなさんがおっしゃったとおりすばらしいものだけど、その魅力を十二分に引き出しているのは、片岡さんの翻訳の力だとつくづく思いました。
それから、こういう職人話って私も大好きなんだけれど、児童文学にとってはとっても大切なことよね。指揮者の大町陽一郎が音楽を志したのは、子どものときに『未完成交響曲』っていう映画を見たからだっていう話を聞いたことがあるけれど、1冊の本、1本の映画が子どもにとっては未来につながる力を持っているのよね。
紙魚さんと同じように、わたしも「日本の児童文学者はなにをしてるんだ。こんなに書くことはたくさんあるのに」と思ったわ。

アカシア:日本の児童文学作家も書いてはいるけど、これだけ力のあるものは出てきてないんじゃない。

紙魚:日本の作品は、社会問題と物語が、なかなか溶けこんでいかないんですよね。物語の中で、急に「はい。ここからが問題です」という感じになり、問題提起する部分が浮いてしまう。

ペガサス:極貧の生活をしていながら、人間として豊かな生活をしていたというところが、それこそ今の日本児童文学にはない点ですね。そうそう、疑問に思ったのは、「モギ」って何語?

一同:韓国語でしょ。「きくらげ」っていう意味の。11ページにそう書いてある。

ペガサス:原書だと、”tree ear”ってなってるので。じゃあ、訳す時に日本語でなく、韓国語にしたのね。トゥルミじいさんも原書では"crane man"だけど、日本語の「鶴」ではなく韓国語のトゥルミにしている。主人公の名前が「きくらげ」だと変だからかしら。あとね、青磁とか象嵌とかって、子どもにはよくわからないと思うので、絵を扉だけでなく他にも入れたほうがいいと思う。それから韓国と日本の位置関係がわかる地図も入れたほうが子どもにはわかりやすい。

トチ:コリアン・ジャパニーズの子にとっても、力になる本よね。

ペガサス:私ね、サブタイトルに「ちいさな焼きもの師」ってあるから、いつモギが焼くのか、焼くのかと思ってたのね。だから、あ、ここで終わってしまうのかという感じだった。焼きもの師になる前の話だからこのサブタイトルは少し違うよね。それからキムチの入ったお弁当がとてもおいしそうだった。白いご飯と赤いキムチと干物、それに箸がわたしてあって。このお弁当は印象的だった。

紙魚:モギが半分残しておいたお弁当を、おかみさんが毎日いっぱいにしてあげますよね。あそこの部分を読んだとき、ふと、今の我々の日常に、相手に見返りを望まないで何かをするという気持ちが、薄れてきているのではと感じました。すっかりギブ&テイクが当然という風潮になっているような。

アカシア:サブタイトルだけど、日本語の「焼きもの師」っていうのは陶工のことだから、必ずしも焼かなくてもいいのよ。それから、表紙の絵の服装が貧乏な子に見えないという意見が出たけど、私はこれでいいと思うの。だって、親方の代理で偉い人に会いにいくんだから、いい服を着てて当然なのよ。


狐笛のかなた

上橋菜穂子『狐笛のかなた』
『狐笛のかなた』
上橋菜穂子/著 白井弓子/画
理論社
2003

愁童:すごくおもしろかったです。上橋さんってすごくうまいと思うんだけど、「守り人」シリーズだと、主人公が人間で、その生き方や苦悩がしっかり書き込まれているのに、この作品はそういう要素が希薄になってきている。お話としてはとても面白いだけに、なんかもどかしさを感じた。こういう方向に行っちゃうのかなって、ちょっと寂しい思いもしました。

カーコ:一気に読みたくなる作品でした。構成もストーリーもうまいですね。「守り人」シリーズの中の1冊を前にこの会で読んだときは、どこか物足りなさがあったのですが、こっちの方が、ひとつの作品として緻密に組まれている気がしました。それと、独特の表現が随所にあるでしょう。作者の文体が匂ってくるようで、翻訳ものにない味わいがありました。上橋さんが「日本児童文学」2003年11月号に、遥かな神話的過去を思うこと、遠くを見やることが、「時」と「世界」を見ること、「何か大きなもの」の中で生きている、小さな自分に気づくことにつながる、というようなことを書いていらっしゃって、なるほどなあと思いました。この物語には、女性的な強さを感じました。運命を変えていこうというよりは、運命を受け入れながらたくましく生き抜いていく。ひとつ気になったのは、「桜の花の香りがして」ってあったんですけど、桜の花って香るものですか。

トチ:匂い桜っていうのがあるのよね。

カーコ:あと、イラストの使い方がよかったですね。作品のイメージを限定せず、じょうずにふくらませてくれて。

ケロ:ファンタジーで、もともと力を持っている者がそれを自覚していく物語ってありますよね。これも小夜がそうなんだけど、持っているものに対して自分がどうしていくかというところは、獲得していく『モギ』とは対照的ですね。作者独特の語り口は、古典的な中に新しさを感じます。ドキドキハラハラしながら読んでいたら、途中からラブストーリーになりましたね。小夜のお母さんの話を含めて、女が生きていくという話になり、色が変わっていった印象を持ちました。軸がぶれたという感じではなく、楽しませてもらいましたが。最初、序章があってから地図が出てくるのは、自然でうまいなと感じました。

Toot:ふしぎな世界につれていってもらったようでした。最後は、愛するってことは命がけなんだなという感想をもちました。まず、装丁にひかれますよね。カバーと表紙の絵がちがうんですよ。タイトル文字も凝っている。もうこういう造本しかないという本ですね。人物がたくさんいるにもかかわらず、あまり途中でごちゃごちゃしないですね。上橋さんの異空間って、すごくおもしろい。

アカシア:2度目に読んだら、さらに、ああそうなのかという部分がありました。1度目は、プロットのおもしろさで読ませる部分も感じたんだけど、やっぱりそれだけじゃなくて、リアリティの厚みがすごいんですよね。みんなで楽しくお花見をする場面に「ぶよが、ぷうんぷうんと、かぼそく鳴きながら目によってくる」(127ページ)とか、「蝿が現れて飛び交いはじめた」(129ページ)なんて入れてくる。竹の灯しの作り方、市の雰囲気、呪いのやり方、あわいの様子、闇の戸の繕い方なんて、いかにも目に浮かぶように書かれているし、霊的な結界が張られたところを通ると小夜の耳がぴいんと痛むところなんかも、とてもリアル。読む人も五感で感じられるように書いてある。「聞き耳」「使い魔」「葉陰」のような不思議な響きをもつ言葉と、「昼餉」「廚」「出作り小屋」「蔀戸」などの昔の暮らしの言葉があいまって、世界をつくりだしている。「霊狐」など、日本の伝説に出てくる存在もうまく登場させている。渡来人の子どもである「大朗」と「鈴」は、呪いの技ではなく魔物から身を守るオギという技しか使えないという設定もおもしろい。それから単純な善玉悪玉の図式でないのもいい。いちばんの悪役である「久那」にしても、人を殺さなければいけない定めに縛られていることが書かれている。ラブストーリーも、2度読んでみると、その過程がものすごくうまく書かれているんですよ。やっぱり9年かけて書かれたっていう重みがありますね。これまでの上橋さんは、運命は甘んじて受けるというところで終わっているんだけど、これはそれにとどまらず、定められた運命を断ち切って、自分で選び取った自由を獲得する。アニミズムの復権みたいなものも感じますね。

ペガサス:私もおもしろく読みました。作者の中に、大事にしたいシーンがいくつかあって、それをうまく物語に仕立てていったという感じ。登場人物のネーミングもうまくて、野火、影矢など、日本語のニュアンスをよく生かしている。「闇の戸」なんていう言葉にも雰囲気がある。木縄坊がとてもおもしろいキャラクターだと思ったので、最後にもう一度出てきて野火ともっとかかわってもよかったのにと残念だった。全体としては、呪者と守護者という役割に分かれているんだけど、どちらの側にも心の揺れがあって、それを描いているので共感をもって読める。たとえ霊狐であっても、あやつられているだけではないというのが、玉緒などにも表れている。2つの一族の攻防は、かなり入り組んでいるわりには、途中でわからなくなったりせずに読める。それから、私は野火は主を裏切ったからには死ぬより他ないと思って、悲しい結末になるんだなあ、と思いながら読んでいたので、こんな手があったのか、とほっとした。

むう:これも第1行目というか、最初の野火のシーンでつかまった!という感じ。とても躍動感のある風の匂いまでかげそうなシーンで、一気に引き込まれてあとはぐいぐいと筋の展開と世界のおもしろさに引っぱられて読みました。発想がおもしろいなあと思いました。「あわい」という場所や小夜が光を織るシーンや「闇の戸」とか。著者が文化人類学者でもあるから、きっとそういう蓄積がこういったイメージを裏打ちしているんだろうなあと思いながら読みました。それに、こういったおもしろい発想が、ぷつぷつと孤立して途切れているのではなく、全体としてまとまった世界になっているところに著者の力量を感じました。ちょっとしか出てこない脇役もおもしろかったです。半分天狗の木縄坊の存在なんかとってもおもしろくて、逆にあれだけしか出てこないのはずいぶん贅沢だと思いました。小夜が光を織るところでも千の眼が出てきますよね。すごく怖いイメージで、ええこれってどうなっちゃうんだろうと思ったら、小夜は呪者にならないから、あれでおしまいになっちゃう。これも贅沢というか、みごとに期待を裏切っている。それと、宮部みゆきの書いている超能力者は能力が突出していなくて等身大の人間という感じがするけれど、この本も、小夜の聞き耳の能力が突出していないのがいい。最後にどちらかが死ぬしかないと思わせておいて第3の道が出てくるあたりにも感心しました。愁童さんがおっしゃった、こういう力のある人がリアルなものを書いてほしいということも確かにあるけれど、力のある日本のファンタジーも大事だと思いました。

紙魚:『ナム・フォンの風』は、具体的な描写が少なくて、どちらかというとイメージ先行というように感じましたが、この本を読んでイメージというのは、丹念な描写の積み重ねがあってこそ浮かぶんだと改めて感じました。『ナム・フォン〜』は、イメージというより気分なんですね。ある像やイメージを読者に伝えるためには、やはり具体的な情景描写が大切で、この本はそれがとても行き届いている。だから、単なる物語舞台の箱の中で物語が動いているのではなく、この物語の外側にも地平が続いているように世界が広く感じられる。それに、物理的に説明できないことを、納得させちゃう強さがあるんですよね。映画『千と千尋の物語』以降、日本の神話的な物語世界は、外国の人にとって神秘的で、注目を集めていますが、きっとこの作品などもおもしろがられると思う。日本の創作は、このところずっと海外ファンタジーにおされてきたけれど、こんなに力がある作品もあるんですよね。

愁童:小説としては「守り人」シリーズ(上橋菜穂子著 偕成社)よりこっちの方が面白いかもしれないけれど、小夜は結局、読者とはちがった存在で、その能力は母親から受けついだという設定でしょ。ゲームのキャラ作りと同じような発想に思えて、ちょっと残念。

アカシア:でもそこは、『ホビットの冒険』や『指輪物語』(J.R.R.トールキン著 瀬田貞二訳)といっしょなのね。ビルボは、たまたま魔力をもつ指輪を手に入れるんだけど、それを捨てることによって自由になる。小夜も自分の力を捨てて狐になることによって自由になる。あとね、霊狐なんていうのは、お稲荷さんの伝説なんかにも出てくる存在。単なる思いつきではなくて、伝承を踏まえているから、ちゃちな他の物語よりぐっと深みがある。

トチ:そういうのを伝えていくのって大事よね。私は、なにしろ「りょうりょうと風が吹き渡る夕暮れの野を、まるで火が走るように赤い毛なみを光らせて、一匹の子狐が駆けていた」っていう冒頭の一文がすばらしいと思った。日本の児童文学には、朝起きて、台所からお母さんが大根切る音が聞こえるなんていうのが多いけど、そういうのはやめてほしいですからね。先日、文楽「義経千本桜」を観たんだけど、狐の動きがすばらしかった。やっぱり日本人のDNAに入っているのかしらね。外国の人から見れば、映画『千と千尋の物語』で千が河だったというのはショックだったんでしょうけど、この物語の結末にも、きっとショックを受けると思います。キリスト教では、動物は人間より下等な存在としか見てないからね。日本人は、ラブストーリーの結末として狐になっちゃうなんていうのも、すばらしい世界にたどりついたと思うところだけど、西洋の人は現実から逃げたと思うかもね。朝日新聞の書評に、主人公がこういう社会からどう逃げたかが書かれていると説明されていたらしいけど、本当にそうなのかどうかという見方をしてもおもしろい。

アカシア:最後狐になって野を走るところも「桜の花びらが舞い散る野を、三匹の狐が春の陽に背を光らせながら、心地よげに駆けていった。」と書かれていて、小夜が狐の存在を選んだところを含めて、すごく肯定的なイメージですよね。キリスト教世界だったら、人間が身を落として狐になるのが幸せだとはて考えられないかもしれないけど。

トチ:いえ、最近では違う考え方も出てきていると思いますよ。

アカシア:そうか、プルマンの「ライラの冒険」シリーズも、足に木の実の車輪をつけた馬なんていう不思議な存在に高い位置をあたえてましたね。

トチ:『ナム・フォンの風』は残念ながら他の文化の紹介にとどまってましたが、児童文学も、それにとどまらず、別の価値観を提示するという時代になってきたんですね。


麦ふみクーツェ

いしいしんじ『麦ふみクーツェ』
『麦ふみクーツェ』
いしいしんじ/作
理論社
2002

トチ:今回読んだ本は、どちらも大きな賞の受賞作でヤングアダルト。でも、『ふたつの旅のおわりに』のほうは作者がはっきりと言っているように、明らかに十代の子どもに向けて書いている。『麦ふみクーツェ』も十代の少年が主人公だけれど、こちらのほうはどうかな?……というわけで、本を選ぶ係になった私とむうさんは、子どもに向けて書いたものと、子どもをテーマにして書いた(らしき?)ものを選びました。
 さて『麦ふみクーツェ』ですが、前に同じ作者の『ぶらんこ乗り』を読んだときに、どうもわけがわからなかったんですね。はっきり言えば、嫌いだった。この読書会でも、あまり評価は高くなかったような記憶があるんですが、読書会の外ではけっこう評価が高かった。それで、自分自身の読書力(?)がにわかに心配になり、いわば敗者復活戦といった気持ちで読みはじめました。まあ、身構えて読んだってわけ。
数ページ読んだところで、どうしてこの作者はこうも日本的なものを必死になって排除しているのかと腹が立ってきたのね。最初の舞台は漁港だけれど、漁師とか船乗りは出てこないで、水夫。縄のれんも、焼酎も、演歌も、ニシンの匂いもなし。だいたい私は、欧米ファンタジー風の事物を次々に登場させて、そういうものが好きな読者をくすぐっていくような作品が大嫌いなので、これもそうかなと思いました。それから、最初のほうではクーツェのほかには、登場人物の名前が出てこないのよね。「郵便局長さん」とかになっている。『クレーン男』(ライナー・チムニク文・絵 矢川澄子訳 パロル舎)の真似してる!なんて思っちゃって……。
 ところがところが、半分くらい読んだところから、この世界にはまっちゃったのよね(笑)。いしいしんじの作った世界にからめとられてしまった。なぜ『ぶらんこ乗り』がだめでこっちは良かったのか考えたんですけど、ひとつには『ぶらんこ〜』のイメージは寒色系で冷たい、死とか負のイメージが強かった。ところが『麦ふみクーツェ』は、海やネズミといった、暗い、ネズミ色っぽいイメージが、作者の成長につれて、麦畑や、冬の日差しを思わせる暖かいものに変わっていく、そこが良かったんだと思うの。明るい、生命力を感じさせるもので、最後をまとめている。これは主人公のアイデンティティ探しの物語ですよね。最初は自分がこの世に生まれたことに、後ろめたい、暗いものを感じていた主人公が、物語の終わりでは自分の音楽や、おじいちゃんを通じて脈々と流れている暖かい血を発見する遍歴の寓話。そう考えると、日本的なものを排除しているところも、ちょっと変てこなところも気にならなくなりました。作者は子ども向けにと意識して書いたのではないかもしれないけれど、児童文学と言えるんじゃないかな。ひとりの子どもが生きていくときには、様々な人の人生がモザイクみたいになった中を進んでいくんだなと、気障な言い方をすれば、ひとりが生きていくってことは、自分がめぐりあう様々な人の人生をも生きていくってことなんだなと思わせるような作品でした。

カーコ:この2冊は対照的でした。気づいたことは2つあって、1つは、固有名詞というのは、読者をいかに作品によりそわせるものかということ。一般名詞の名前だと、読者がその身になりきりにくいですよね。作者が、意図的に読者をつきはなし、フィクションだということを意識させて物語が進んでいく感じ。もう1つは、感覚に訴える表現の多さ。見えないこととか、音とか、匂いとかの生々しいイメージが押し寄せてくる。物語全体としては、よくまとまっているけれど、私は作品としては好きになれませんでした。いちばん気にいらなかったのは、音楽の扱い。音楽ってこんなにかんたんに身につくものじゃないだろうとか、楽器(チェロ)をこんなに粗末にしないだろうとか。音楽関係の身内がいるせいかもしれませんが。

ブラックペッパー:私、みんなが突然音痴になるというのは、ちょっとおかしいと思いました。だって音痴って歌を正しく歌えないっていうことでしょ。楽器の演奏がうまくいかないのは、一般的には音痴とは言わないのでは? それと音痴はもともとのもので、急になったりしないと思う。

トチ:変だと言い出したら、なにもかも変だよね。

カーコ:変な世界にとりこまれていきますよね。この本の奇妙さにひたりきれなければ、読み進めるのはたいへん。フィクションのおもしろさを感じたら、読み進められるのかしら。『海辺のカフカ』(村上春樹著 新潮社)を思い出しました。

Toot:タイトルからして変てこで、中身もいい意味でひきつけるものがある。でも、読みながら違和感があって地に足がついてない感じ。第三者として観劇しているようで、入りこめなかった。セールスマンのあたりからは、そそられて読んでいったのですが、それも一瞬。作品との距離感があって、ストーリーを受け入れられなかった。創作するというよりは、自分のなかの感性で書いている印象。用務員さんとか、「みどりいろ」とか、生まれかわり男とか、何を意図しているかつかめなかった。

紙魚:私はね、なんととてもよかったのです。読むと知識が増えるとか、ためになるとかではなくて、ただ読書のためだけにある本だと思って、感動しました。機知に富んでいて、ところどころで自分の目線がふっとかわる喜びを味わいました。微視的に見ていたものが、急に巨視的につかめたり。例えば、144ページの「スクラップブックのページをながめていると、そのことばどおり、独立した特殊な事件など、この世にはなにも起きていないような気がしてくる。すべての事故が、どこか遠いなにかと関連もっている。」なんて文章につきあたると、それまでバラバラだったいろいろな小さな物事が、急に列をなすように感じられるんですね。この物語では、いくつかそういう場面に遭遇し、物事の本質を一瞬垣間見るような興奮を覚えました。これって、教養小説ですよね。この、いしいさんがつくりだした世界の中では、クーツェはこうやって自分を見つけていくのだと思います。それから、音楽について、なんて気持ちよく書かれているのだろうと思いました。体が楽器だとか、コンサートホールが楽器だとか、そのつど共感しながら読みました 。読後、1つの曲を聴き終えたような静かな興奮がありました。

ブラックペッパー:今回の2冊をくらべると、印象がとってもちがっていて、『二つの旅の終わりに』は、きゅっきゅっとかたい四角の中にまた小さい四角がすきまなくぎっちりつまっているような感じ。『麦ふみクーツェ』は、形の定まらないものの中に羽のようなものがふわふわふわーっと漂っているような感じ。こちらは、私はちょっとつきあいきれないと思っちゃった。『ぶらんこ乗り』もそうだったのですが読みにくくて。出来事もオリジナリティがあるし、表現もオリジナリティがある。一般的な法則と違っているところが、私の小うるさ心を刺激するんですね。たとえば38ページの「ゆきだるま」。「ゆきだるま式におおきくなっていった」と言われたら、横に大きくなったのかとパッと思っちゃうんですけど、ここは縦に伸びているという……。こういうところで、こつんこつんとつまずいちゃってね。ふつう法則のようになっていることって一字一字読まないでするーっと行けるけど、これはその法則にぴったりこないの。予想が裏切られることになるから、読むのに時間がかかっちゃうのかなと思いました。主人公がすごく大きいのに、オーケストラに入ってから「劇団員のだれよりも背が高い」ことに気づくのもおかしい。この本の世界の法則についていけなかった。

紙魚:『二つの旅の終わりに』は、何か問題を出したら必ずおさめるという感じ。『麦ふみクーツェ』は出しっぱなしという感じ。

アカシア:私は、この本を悪い条件で読んだんですね。時間がとれなくて、寝る前に読んだの。それで、ちょっと読んでは眠ってしまったので、なかなか世界に入っていけなかった。もっと集中して読めたら、違ったかもしれないけど。波長が合えばとてもおもしろいし、波長が合わなければ最後まで入っていけない作品。ありえない話だし、登場人物の固有名詞もほとんど出てこないという意味では、『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)を思い出しました。でも、『穴』のほうがおもしろかった。セールスマンが村の人々を騙すところだけ、なぜかリアリティがありましたね。それに、おじいさんが実は大工だったということに、主人公がショックを受けるのは意外だった。

トチ:そうね。主人公が尊敬していたのはおじいちゃんの音楽の才能であって、ティンパニ奏者であったことではないものね。作者と波長の合う読者は、しっかりと書けているように思えるセールスマンの物語の部分にかえって違和感を感じるんじゃないかしら。ここは、前に聞いたことあるような、よくある話って感じだった。

むう:私は『ぶらんこ乗り』はまるでだめだったんだけど、これはよかった。かなりおもしろかったです。読んでよかったと思えた。最初の麦をふんでいるあたりが暖色系だというのもあるし、私にとって大きかったのは、異形の人ばかり登場するんだけれど、彼らがつまはじきになることなくそれぞれに居場所を見つけて生きているということ。355ページで「へんてこで、よわいやつはさ。けっきょくんとこ、ひとりなんだ。ひとりで生きていくためにさ、へんてこは、それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない」という先生のせりふがあるけれど、こんなに露骨に言うかどうかは別として、この世界全体がそういう視線で描かれている。生きてていいんだよ、というのかな。取っつきは妙な話だなと思ったけれど、ああそういう話なんだと思ったので、細かい箇所はあまり気にしないようにして読み進みました。最初は主人公の生活の真ん中にすごく大きな穴がぽっかりと開いていて、その周りで三人がそれぞれに生きていた。主人公がルーツをたどっていくことで、その大きな穴が最後はちゃんと埋まってすべてがかちゃっと収まるところに収まる。そういう意味では大団円で、読者も安心できる。それにしてもチェンバーズとは対照的で、とん たたん とん という心臓の音からして孤独で寂しい感じ。寂しいよう、寂しいよう、でも一生懸命生きてるんだよう、ということを、ひりつくようでありながら暖かい目線で書いていて、それはそれで気持ちいいのだけれど、それだけでいいんだろうかと思わなくもない。この人は、社会というか大状況をすべて捨て去ったところで人間存在を書いている。だから逆にセールスマンのところが気になったんです。その前後は社会とまるで無縁な、地に足がついていない世界で完結していたのに、そこだけ地上に降りかけたみたいだったから。あと、数学の取り上げ方はちょっと気になりました。でも、『ぶらんこ乗り』にくらべるとずっとよかったです。

すあま:最初は読みづらく、進まなくて大変でした。ただ、だんだん整理されてきて、最後にはクーツェが名前ではなくて、「ずいぶんな変わり者」っていうことがわかる。クーツェな人がたくさん出てきて、スクラップブックに貼られるのもクーツェな人で、でもその人自身は一人しかいないんだ、というようなところに落ちつくと、それはよくあるような話にも思える。わかんないままにそのまま終わるかと思っていたら、最後、けっこういろいろと説明してくれるんですね。冒頭の部分で入院していた理由も知りたくて読み進んだのですけど、想像したよりも普通に入院していたことがわかって拍子抜けした感じですね。出てくる人たちにあまりいやな人がいないから、読んでいていやな気持ちがしない。おもしろかったのか、自分が好きなのかは、いまひとつ整理できません。吹奏楽の部分で、イギリスの映画『ブラス!』を思い出しました。それから、ちょうちょおじさんの盲学校の話がおもしろかった。

カーコ:いっぷう変わった人たちのことを、差別語をつかわずに書くって、たいへんなことですよね。

むう:この本には葛藤がないですよね。人間と人間が生でぶつかり合うと時には互いに傷つけあうこともあるのだけれど、ここにはまったくといっていいほどそういう場面がない。さっきのセールスマンの挿話の違和感もそこにあるのかもしれない。あそこは本当ならその後いろいろな葛藤が起こっていいくらいのエピソードなのに、その葛藤がないから肩すかしを食らったような嘘っぽい気分になってしまう。他のところは周到に葛藤が避けられているからそういう違和感が起こらないんだけど。

ケロ:この本は、ずいぶん前に買って、そのままにしていて、夜眠れないときに出してきて読むというのを繰り返していたのですが、読むたびに拒絶される、というか、作品世界にはいっていけないものを感じていました。最初の「とん、たたん、とん」という音も、状況がよく把握できないので、よけいに入りづらかったのだと思います。一つ一つのエピソードはおもしろく読めるのですが、のめり込むという感じにはならない。なのに、最後まで読んで、涙が出てくるほどの感動があったんです。でも、その感動の正体がわからなかった。今回、『二つの旅の終わりに』と一緒にもう一度読んだら、なにか謎がとけたような気がしました。私は、この主人公が「いろいろあるけど生きていっている」ということに感動していたんだとわかったんです。

愁童:実際の「麦ふみ」って、「とん たたん とん」って音がしないけどな……。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年1月の記録)


二つの旅の終わりに

エイダン・チェンバーズ『二つの旅の終わりに』
『二つの旅の終わりに』
エイダン・チェンバーズ/作 原田勝/訳
徳間書店
2003

:久しぶりにページが減っていくのが寂しくなる本でした。おもしろいので、もっとゆっくり読まないともったいない気分になりました。主人公のジェイコブのオランダでの日々と、ヘールトラウの手記が交互に出てきて、これがどんなふうに繋がっていくのか、楽しみでした。物語の最初からジェイコブの不安、苛立ちや不快感が伝わってきて、どんなお話になるのかと思ったけど、ヘールトラウの手記に惹きこまれ、156Pのディルクの農場に移るあたりから、手記だけを読んでしまった。手記だけでも、ひとつの物語として読むことができましたね。戦争から開放されると喜んだ矢先に戦争の実態を思い知る場面や、一家が巻き込まれていく様子が、映像のように浮かんできて。トンとか、助けてくるおばさんとか、出会った人たちの存在感があって、心の通い合いが伝わってきました。ジェイコブとダーンの会話の引用文のとらえかたも、おもしろかった。

すあま:去年読んだ本のなかでは、とても印象に残っています。一昨年オランダに旅行に行ったので、ジェイコブと一緒に、追体験しました。以前友人がちょうどこの作品に出てくる記念式典の時にアルネムを訪れていて、ホテルに勲章をつけた人たちがいた、と言っていたのを思い出して、その友だちにこの本をすぐに紹介しました。そんなこともあって、私にとっては個人的に興味深かった。物語が二重構造になっていて、いったいこれからどうなっていくんだろうという謎の部分があり、どんどん読んでいった。昨年末にチェンバーズが来日した時、講演会に行ったんですけど、北欧やオランダの人たちに人気があるという話がありました。

むう:私ははっきりいって苦手でした。なんかてんこ盛りで、げっぷが出そうだった。作者の思いを受け止めきれないという感じ。それと、出てくる人がともかく饒舌でしょ。恋人候補とでもしゃべるしゃべる。彼我の差を感じちゃった。ヨーロッパの人は言葉で言わなくてはわからないという思いが強いんですよね。その通りだと頭ではわかるんだけど、こっちの体力がないときに読んだせいか、すごくしんどかった。それに、ジェイコブの言葉が著者の言葉に聞こえて来ちゃって。あんまり好きじゃないんですよね、ジェイコブが。この人の本を読んで若い人がいろいろなことを考えさせられるという感想を持つのは納得できます。たしかにいろいろな問題が扱われていて、それもオープンエンドになっているから、いろいろなことを考えるきっかけになる。この本は構造がダブルになっていて、しかも現代のほうにはホットな問題が山盛り。「人間には過去もけっして無縁でないし、今生きていくこと自体じつに大変なんだ」というのはよくわかる。でもあまりに問題が多いから印象が拡散している。たいへん誠実な本だとは思うんですが。ところで、日本には、こういうふうに社会的な存在としての人間を書いた本は何があるのかな。それと、原題は「緩衝地帯からのハガキ」じゃないですか。それが訳書では『二つの旅の終わりに』となっている。それと、訳書で章タイトルが「ジェイコブ」となっているところは、原書では「ハガキ」となっている。このあたりはどうなんだろうなあと思いました。チェンバースさんの講演会に行って、作者のすごさ、誠実さを感じて、この本が今回課題になったのをきっかけに著書を3冊も読んだんですけど、たとえば『おれの墓で踊れ』と比べても、これが最高峰という感じは受けませんでした。

カーコ:「ハガキ」とか「ポストカード」となっていたら、もう少しジェイコブのほうに、読者の目線がいったかもしれませんね。

:でも、あんまりジェイコブって魅力的じゃないのよね。

アカシア:すごい本なんだけど、ふつうの中学生とか高校生に読ませるのは難しいんじゃないかしら。確かに緻密で骨が太いんだけど、ユーモアがないと思ったの。子どもの本だったらユーモアがほしい。原書は、もっと文体に変化があるし、緩急があるんじゃないかな。オランダ人のしゃべる英語も、いかにも文法に忠実な外国人の英語という感じで、そこはかとないユーモアがある。イギリス人の子どもが読んだほうが、おもしろいのかもしれない。

トチ:最初の章で、ジェイコブがアムステルダムのカフェに入っていくところなど、原文で読むともっと軽い感じがしたんだけど。

ブラックペッパー:タイトルから真面目な本なんだと思って読み始めたら、イケイケ青春ものっぽくなってきて、「よしっ」と思ったら戦争の話で、やっぱりそうよね……と思った。ヘールトラウと祖父の間に子どもが生まれてたことも、やっぱりとは思うものの、それもよしよしという感じで、満足感がありました。ぎっちり中身がつまってるけど、重たすぎるということはなくて、いやではなかった。ただちょっと、これはどうなのかなと思ったのは、17歳の男の子が、アンネ・フランクを恋人のように思ってること。それから、おじいさんのジェイコブの死が突然すぎる。まあ、戦場で死んでは遺品が残らないけど。あと、ダーンは両刀で、そうか、両刀はやっぱりカッコいいのかとか。でもね、全体としては、満足。

紙魚:『麦ふみクーツェ』が「生きる」ことを書いた作品ならば、『二つの旅の終わりに』は「よく生きる」ことを書いた作品。少し長く生きた人が、次の世代や、次の世界に対して持つ「願い」のようなものがこめられていて、それがいいなと思いました。児童文学って、やはりそういうものがあってほしい。しかも、とてもこの作家はきちんとした人なので、尊厳死とか、同性愛だとか、生きるうえで考えるべきことを、ちゃんと物語の中に組み込んでいる。ただ、それがなんだか「はい、ここで問題です」と言われているような感じもしなくはありません。先に読んだ『麦ふみクーツェ』に、あまりにも人が生きる熱を感じてしまったので特に、この本にそういった空気を感じましたね。しかも、とっても配慮がゆきとどいているんですね。たとえば、165ページの「オランダにもナチスがあったという事実」なんていうのは、非常に配慮を感じます。お手本のような作品です。それから、17歳という年齢設定は違和感を覚えますが。自分が何を好きなのか、自分が何者であるかまだわからない少年の心の動きは、よく書けていると思いました。

アカシア:「オランダのナチス」の部分は原書と少し違って、日本の読者のためにわかりやすくしたんだと思う。

Toot:『麦ふみクーツェ』は、今生きている人。『二つの旅の終わりに』は、生きることを振りかえった人。やっぱり、ヘールトラウが胸にしまっておけないところが小説になっていると思う。途中からは、手記の方に興味が出てきて、ジェイコブの方は軽く斜め読みしてしまった。これは、児童文学にあてはめないほうがいいんじゃないかな。

カーコ:私は生真面目な性格なので(笑)、好きでした。読み応えがある作品。夫婦のあり方の問題、戦争の問題、性の問題、安楽死の問題など、たくさんの問題を投げかけますよね。ダーンのおばあさんが戦争中にこういう体験をしていることを提示しているのも、モラルどおりにならない、生きることの複雑さが見えて、いいなあと思った。あと、会話がうまいですね。会話をしながら、話題が変化していくでしょう。例えばジェイコブとアルマとの会話。どこに行きつくんだろうという感じがあって、確かに会話ってそうだなと感心しました。高校生くらいで読んでほしい、手渡したい本ですね。どうでもいいばかりじゃない、人生には大事なことがあるんだよと、考えさせられる。それにしては、装丁が子どもっぽいかな。高校生が自分で買うようなつくりにしてほしかったですね。

アカシア:チェンバーズさんとしては、中学生くらいから読んでほしいのよね。

カーコ:でも、日本の中学生にはどうでしょう。長いけれど、最後に物語がどこに行きつくのか気になって、読めました。これぞリアリティって本。

トチ:チェンバーズは、書く前の下調べにとても時間をかけるという話を聞いたことがあるのね。だから、ヘールトラウの話を書くにあたっても、オランダの女性からどっさり話を聞いたんじゃないかしら。その事実の重みも感じられて、ヘールトラウの告白のほうは、ぐいぐい引き込まれて読みました。女性の生理的な衝動や感じ方がよく書けていると世界各国の読者から言われるということだけど、私もそう思いました。407ページの「人は、なぜこうも、告白せずにはいられないのでしょうか・・・・」という下りも——作者自身日本での講演で引用したところを見ると、とても気に入っているんでしょうけど——とても美しい個所だと思ったし。ところが、ジェイコブの章になると、あまりにも盛りだくさんで、どうも人物も物語も立ち上がってこないのよね。混沌としていて。
でも、この作品で私がいちばん感動したのは、「どうしても自分はこれを子どもたちに語りたい」という、作者の志の高さ。これはロバート・ウェストールの『弟の戦争』(徳間書店)でも感じたことですけど。作者は自分の語りたいことを子どもに伝えるにはどういう手法が良いか考えぬいたすえに、現代と過去をつなぐためにこういう語り口を使ったのよね。内容ももちろんだけど、手法そのものに作者の熱い気持ちを感じる。『麦ふみクーツェ』もすばらしいけれど、社会的な存在としての人間を描く、こういった大きな作品も児童文学には無くてはならないものだとつくづく思いました。

ケロ:『二つの旅の終わりに』の中で、『過去』の話の方にみなさんどうしてもひかれるのは、戦時下という状況はある意味とてもわかりやすい価値観があるからでしょう。いつまで生きられるかわからない、という中で巡り会った二人は、他の状況に左右されない強さを持つし、説得力もある。それに対して、現代にはいろいろな問題があって、混沌としている。その中で、若者はどれを選ぶか、どう生きるか、つねに選択を迫られている。『現代』の方の描き方が盛りだくさんすぎるという意見がありましたが、それだけ混沌として「おまえはどうなの?」と問いつめられる脅迫観念があることが伝わるので、対照的で良いのではないかと思いました。それから、一度も出てこなかった「おばあちゃん」に、会ってみたかったですね。読んでいてもはっとしましたが、たしかにこのおばあちゃんは知っていたのではないかな? などと思ったので、(おそらくカッコいいであろう)本人に登場して一語りしてほしかったです。
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笑わっしょんなあ

廣畑澄人『笑わっしょんなあ』
『笑わっしょんなあ』
廣畑澄人/作 佐藤真紀子/絵
国土社
2003

アサギ:私ね、作品をいいとか悪いとかいうまえに、こういうお笑いの世界が理解できないの。お笑いは「きらい」だというと、うちの子どもたちは、「それは、わからないってことだよ」って言うの。だから、テーマが非常に遠くて公正に評価できなかったような気がする。さーっと読めちゃうけど、感銘を受けたわけではない。私は関西とまったく接点がないしね。それにしても、こんなにルビが必要なのかしらね。

紙魚:まず、笑いって、文章で表現するのって難しいですよね。おもしろい! というところまでは、残念ながら行きませんでした。ちょっと時代的に古い気がします。今の子どもたちにとっては、漫才ってもう古典に近い感覚だと思うんです。子どもたちを振り向かせるには、今のバラエティ番組の笑いを、書くか書かないかは別として、もうちょっと研究してほしいなと思いました。それから、高砂が、主人公のコネを使ってオーディションに受かろうとするところは、あまり好きになれませんでした。私、好きなものや好きなことに向かって進んでいくのって、すてきなことだし、実際の子どもたちもそうしてほしいなと思うのですが、できれば、自分の力で好きなことをつかみとっていくという姿勢を見せたいと思う。

カーコ:図書館司書の人に薦められて手にとりました。『笑わっしょんなあ』は「笑わせるなー」という意味ですよね。今の子どもたちが自分の将来を考えていくために、どんな物語があるかなって考えることがあるんですが、この本はそういうきっかけになる本の1つかなと思います。簡単すぎるかもしれないけれど、何かのきっかけで1つのことにうち込んでいくというのがよかった。お母さんとお父さんの関係、兄姉の関係が、昔風だけどやわらかというか、ゆるやかにつながっている家族像があって、両親が見守っている感じもいい。こういう日常の物語は、読む子はけっこう読んで日々の栄養にしていくと思うので、書き手の方にがんばってほしいですね。私は関西育ちだから、ぱっと読めますが、関東の人はどうでしょうね?

むう:私はずっと関西にいたので、違和感なかったです。ごくふつうの人が笑いをとりにいくという感じは、とてもよくわかる。ありそうだなと思いながら読んでいました。ただ、なんとなくお行儀がいいというのかな、おさまっている感じがしました。作者の意図とかそういう枠を超えてあふれ出すものが感じられない。児童文学としておさまりかえっているような。あちこちに、日本語として変だな、という違和感がありました。それにしても、『ビート・キッズ』(風野潮作 講談社)もそうだけど、関西弁というのは独特のノリがあって、それだけで感じががらっと変わってしまうんですね。

:私は、けっこうすいすいとおもしろく読みました。大阪ってボケとツッコミの世界。こんなしゃべり方は普段からしてるんだろうし、物語の流れも自然で、お父さんとの距離もよかった。「コネを使わないほうが」っていう意見もあったけど、夢のためなら、のしあがるためなら、手段を選ばずというのはよくわかった。コンビ別れするときも、コーンさんと組むためにあっさりバイバイするのも、この二人の熱の違いがわかって、その後の二人の近づき方を楽しめながら読めた。それから、学校の先生がおもしろかった。

トチ:昔だったら映画俳優に憧れていたところを、いまの子どもたちは「お笑い芸人」に憧れる。そこをテーマにしているところはおもしろいと思いました。ただ、お笑いがテーマなのに文体が生真面目で、重苦しくって、ちっとも笑えないのよね。「児文協的」っていうか。物語って最初の1行がとっても大切だと思うのに、主人公が朝起きたときからじわじわっと始まっていく。エイダン・チェンバーズは、いかに書くかということはテーマと同じくらい大切だから、この内容をどういう書き方で書くか、1つの作品について5年くらい考え、それぞれ違う文体や構成で書くって言ってる。そういうことって、とっても大事だと思うのよね。お笑いの世界を書くなら、それなりの文体や、手法があるんじゃないかな。
もう1つひっかかったのは、主人公が2世議員みたいにお笑いの世界に強力なコネのある子だってこと。なんかフェアじゃない気がする。もうひとりの、コネなんか何もない、ハングリーな子のほうを主人公にしてもらいたかった。
関西のお笑いの世界って独特の歴史があると思うんだけど、そこのところを書き込んでいってくれれば、もっと深いものになったんじゃないかしら。そこは残念。1つの職業についての話って、大人にも子どもにも興味のあることだし、特に子どもの本には大切な要素だと思うのよね。後書きの「横山やすし」だけじゃ物足りない。関西弁については、特に気になりませんでした。

アカシア:けっこう軽快に読んだんですけど、いちばん気になったのは、充がどうして漫才をやりたいのか動機や理由が書いてなかったこと。そこが原動力になって、まわりが動いていくんだろうのに。私は、望のコネは気にならなかった。『笑わっしょんなあ』っていうタイトル、東京人にはアクセントわからないから言いにくいし覚えにくかったけど、関西の人はそうでもないの? 図書館で借りようとしても、正確なタイトル思い出せなくて。あと、挿絵描いてる佐藤真紀子さんは、『バッテリー』(あさのあつこ作  教育画劇)にも描いてた人ですよね。違う人のほうが、この作品には合ってるんじゃないかな、と思いました。

ケロ:漫才とかお笑いとかのコンビを組んで友情をあたためあうって、パターンとしてあると思うんですね。書きやすいモチーフでいろんな人が書いているけど、そのなかで、この本がどういうふうにいいのかはわからなかった。ただ主人公がまじめでいい子だなという感じはするんだけど、お笑いがもつ力が出てなくて、平坦な印象でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年11月の記録)


HOOT

カール・ハイアセン『HOOT』
『HOOT』
カール・ハイアセン/作 千葉茂樹/訳
理論社
2003

トチ:前から読みたいなと思ってた本で、読んだらおもしろかったです。「週刊朝日」でミステリーって紹介されてたから、その印象が災いして、誰かが殺されるのかなーなんて思いながら読んだんだけど、フクロウがどうなるかというスリルと、女子プロみたいな女の子がどうなるのかなんて、ミステリータッチでおもしろかったです。あと、こういうフクロウがいるんだなってわかっただけでも、得した気分。ただし、これは途中までの感想。謎の少年の正体がわかってからは、もういかにもアメリカ的っていうか、荒っぽい展開で、「こうなるんだろうな」と思ったとおりの結末でした。

アサギ:ストーリーが次々と展開するので、どんどん読めたんだけど、好きじゃないの。アメリカの作品のなかで、好かないタイプのグループに入っているの。風土がわかっていないというのもあるんだろうけれど。なんだかざらりとした感覚があった。理屈じゃなくて生理的に好きじゃないな、こういうの。主人公のロイは150センチでアメリカならとても小さい。小さい者が活躍するっていうステレオタイプみたいで、好感がもてない。まず、「主な登場人物」欄がよくない。ダナ・マザーソンの紹介に「頭がよくない」って書いてある。「勉強がきらい」とか「劣等生」とかって、もっと書きようがあるじゃない。

ペガサス:アメリカ的にすごく大げさにしているんじゃない? おもしろかったのはおもしろかったんだけど、この本、すごい前宣伝だったでしょ。JRの吊広告まであったのよ。『トラベリングパンツ』『セカンドサマー』(アン・ブラッシェアーズ作 大嶌双恵訳 理論社)といっしょにね。子どもの本でここまでするんだなーとびっくりした。だからとても期待して読んだんだけど、「アメリカからすごい本がやってきた」というほどすごいとは思わなかった。おもしろいと思ったのは、とにかく対比の妙を強調するところ。主人公はとにかく目立ちたくないと思ってるのに、まわりの人物がどれも強烈な個性の持主だというところがユニーク。主人公の家庭、ダナの家庭、マレットとベアトリスの家庭と、3つの家庭と親子関係が見えてきて、いろいろ考えさせる。巡査と上司、チャック・マックルの怒ってる場面とか、極端なところがおもしろい。エディ・マーフィーの映画みたいなノリよね。「走る少年」を何だろうと思わせるところもうまい。結局「走る少年」が何だったのかは、今ひとつ腑に落ちないけれどね。

トチ:これぐらいの本だったら『穴』を読める子どもにもすらすら読めるのに、近所の図書館には大人の本の棚に置いてあったわ。

アカシア:中学生になると、子どもの本のコーナーには行かないから、大人の棚でいいんじゃないの。

紙魚:装丁の魅力ほどには、おもしろくなかったです。登場人物はみんなデフォルメされていて、いまひとつ体温がないし、物語ものれなかった。でも、なんだか売れていそう。どういう人たちが、読んでいるんでしょう?

カーコ:構成も筋運びもうまいなあと思ったけれど、心に残りませんでした。ひとりひとり人物に特徴があって興味深いし、主人公の物語と、ドジな巡査の物語など、いくつかの旋律で物語をひっぱっていくのもうまいし、フクロウや環境アセスメントといった話題性もあり、次々読まされるけれど、おもしろいエンターテイメント映画を見ているみたいな感じ。それと、私は主人公と両親の関係がずっとつかみきれなくて、両者の距離に違和感をおぼえてしまいました。268ページの「両親がおやすみをいいにきたとき〜かたい絆で結ばれている」みたいな内向的な家族が、アメリカの家族像なのかなと疑問でした。フィクションとしては、マレットもおもしろいし、うまい。でも、ダナをおとしいれるところは、好きになれませんでしたね。

ケロ:この厚さでソフトカバーというのが、本の内容そのまま。ひとつの事件が解決するんだけど、それによって主人公が変わったかな。そういうのを期待しちゃいけない本なのかな。大人向けのミステリー作家だからなのか、あんまりいい子ども像がなくて、むしろ大人の描き方がおもしろい。最後の方で出てくるキンバリー・ルー・ディクソンも売名行為をしたり、端役がおもしろかった。あと、この出版社のヤングアダルト作品への力の入れようはすごいですね。ヤングアダルトというのは、子どもも大人も読んでくれるという意味で、市場があるのでしょうか? それとも中途半端になってしまうのでしょうか?

アサギ:大人の読書力が落ちてるってことかしら?

:最近、大人の小説書いてる人が子どもを書いた作品も多いですよね。

ケロ:子どもがおもしろいからなのかな? 子どもが生きにくいからなのかな?

むう:海外の本屋さんで山積みになっていて、装丁がすごく目立っていたので、一度は素通りしたんだけど、やっぱり気になって思わず原書を買ってしまったんです。作者のHPを見ても、すごい人気だと書かれていました。ハリウッドの映画にありますよね、すごくおもしろくてすごくドキドキさせるんだけど、見終わってしまったらそれでおしまいという映画。そういう感じですね。この人は職人的にとてもうまい人だから、綿密に構成されているし、いろいろとゆきとどいている。だからすらすらと読めちゃうんだけど、別に後に何かが残るわけではない。それと、この話には、ネイティブとか黒人とかが出てこなくて、話が白人の中で終始している。一昔前のぴかぴか冷蔵庫にカラーテレビ、お母さんは朝ご飯のときから小さな真珠の首飾りをして……という型にはまった憧れのアメリカを連想させる雰囲気がある。環境の話も特に深まっているわけでなく、トレンドなので使ってみましたというレベルを出ていない。全体として軽いエンターテイメントだと思います。職人芸としてのうまさがある人だから、たとえばアン・ファインみたいにこれに中身がしっかり入ったらすごいものになるんじゃないかと思います。残念。

アサギ:原書と翻訳の感じは違うの?

むう:わりと同じ感じでしたよ。軽くて。受けた印象はきちっと重なってます。カーコさんが言ってた「家族」像も同じイメージです。これで、作者にちゃんと言いたいことがあれば、おもしろかったと思うんだけど。やっぱり大人向けのミステリー作家の作品ということなんでしょうね。この本に出会って、子どもの何かが変わるという本ではない。

アカシア:私も期待して読んだんだけど、あんまりおもしろくなかった。ロイが親に心配かけないでいたいというような人物造形はおもしろかったけど。最後のところなんかも、イメージとしてはいいんだけど、環境問題でこんなに簡単に村の人たちが勝利するわけないじゃないですか。その辺は、こんなの読んで感動してちゃいけないよな、と思ったわね。でも「走る男の子」ってリアルじゃないわけだし、作者は環境問題にしてもわざとリアリティから距離をおいているのかしら? それと、ダナは最初から最後までデブの悪役として書かれてて、しかも無実の罪で少年院に入ってるわけでしょ。児童文学の作家だったら、この子を見捨てたままでは終わらないでしょうね。後味悪い。やっぱり、この人は大人の本の作家なんですね。本好きな人は読まないだろうなと思ってたら、ある図書館司書が推薦していたので、認識をあらたにしました。

きょん:私も、アメリカンな感じは苦手です。全体的には、文章がテンポよくてスムーズに読み進めましたが、この「テンポよくスムーズ」な文章が、軽すぎて苦手です。ワニが出てきたり蛇が出てきたり、仕掛けがあって、おもしろいのかもしれませんが、主人公がなかなか生き生きと動き出さなかったのが、物足りなかった。ベアトリスが出てきてやっと動き出したところで、タイムリミットとなってしまい、まだ読むのが途中です。


影の王

スーザン・クーパー『影の王』
『影の王』
スーザン・クーパー/作 井辻朱美/訳 小西英子/絵
偕成社

トチ:これは、私の大好きな作品。今回、読み直してみても、やっぱりおもしろかった。スーザン・クーパーの夫って俳優だし、本人もすごくお芝居が好きなんでしょうね。作者の芝居に対する熱い気持ちが行間から感じ取れるような作品でした。ストーリー自体もおもしろいんだけど、シェイクスピアの時代のロンドンの描写とか、お芝居の演技のしかたとか、細かく書き込んであって、少しづつどこをかじっても美味しい。本当に好きなことを物語に書くって、素晴らしいことよね。それに比べると、『笑わっしょんなあ』の作者は、本当に漫才が好きなのかな?

きょん:タイムトラベルファンタジーなのに、ナットが過去に行ったとき、あまりもすんなり入ってしまったのが気になりました。突然過去に飛んでしまったら、もっととまどったり、びっくりしたりすると思うのですが、その辺のリアリティがなかった。時代や街の描写などは、ちゃんと書きこまれていたので、目にうかぶようで心地よく、シェイクスピアのところに下宿してからは、より生き生きし始める。また、ナットの気持ちが、とても良く伝わってきて、この時代にいつまでいられるかわからないという不安感や、切なさが良く描けていて、おもしろかったです。

アカシア:私も2度読んだんですが、2度ともおもしろかった。でも日本の中学生くらいだと、バーベッジの存在もあまり知らないし、時代背景にもなじみがないので、どうなんでしょうね? 『夏の夜の夢』も出てくるし、シェイピクスピアを知ってる大学生が読んだら、とってもおもしろい。最後にアービーがナットに話をするところで、なるほどそういうことが言いたかったんだな、って納得できるし。ただ、シェイクスピアゆかりの地名の日本語表記がところどころ違ってるのは気になりましたね。

:『夏の夜の夢』のストーリーを知らずに読むのはつまらないだろうなと思いました。ナットより未来に来ちゃった子のほうが驚くんじゃないかと思うけど、それは書かれてなかったわね。

トチ:でも、頭を洗うのはいやがってたわよ。

ペガサス:ペストで面会謝絶だったから、驚いてたとしても誰も気づかないのよ。

むう:今回の本なかでいちばん心に残った作品です。原書の表紙はずいぶん不気味だったんですけれど、翻訳はずいぶん感じが違いますね。それにしても、向こうの人ってこの時代が好きなのかなあ。けっこうこの時代を書いた作品が多い。最近もフリークショーを扱った本が出たみたいですし。でもそれって、日本だと大人が読んですごくおもしろいという部分だと思うんです。向こうの子どもなら、今のロンドンを知っていて、それとの対比でおもしろいと思ったりするのかもしれない。だけど、日本ではシェイクスピアにもロンドンにもそれほどなじんでいない子が多いから、今を知ってるから昔もおもしろいという読み方ができないでしょ。そこはちょっと心配です。それにしても、主人公の受けてきた傷がきちんと書かれているし、アービーやシェイクスピアといったさまざまな「父親」と出会うことでその傷を乗り越えていく過程がきちんと書かれていて説得力があるし、それでいてアービーがいったい誰だったのか、タイムスリップがどうして起こったのかというあたりを説明しきらずに最後まで謎を残しておくあたりは、じつにみごと。思わずじーんと来てしまいました。
もうひとつ、最初の入りがとても気に入りました。演劇の世界へさっと読者をさらっていく手際の良さ。演出家であるアービーが絶対的な存在としてひっぱっていくというあたりも最初にちゃんと書かれていて、物語の入り口がしっかりしている。ここですっと入れたから、あとはほとんど一気で、最後の謎めいた終わり方に、あらためて「やるなあ!」と感心して本を閉じたといったところです。結末がわかっていても、もう一度読みたくなる本ですね。

ケロ:構成がみごと。最後にかちっとはまる感じもみごと。最初読んだときは、とっつきにくかったんですね。劇団がファミリーだとか、ふたりの先輩が劇団のなかでどういう位置付けなのかとか、つかみづらかった。むしろ大人が読むものなのかな? 男の子が内面にいろいろ感じながらパックを演じているのも伝わってくる。『影の王』という書名はわかりにくくないですか? シェイピクスピア的な存在って、日本では何でしょうね。

カーコ:古典なら、たとえば光源氏がさまざまな形で書かれていますよね。私も今回読むのは2回目でしたが、とてもよかったです。前に児童文学の研究をしている人が、「子どもの本には、人類の文化的遺産に、若い読者を導く役割がある」と言っていたのですが、この本は確かにそうですね。英語を習いはじめると、シェイクスピアって必ず出てくる題材でしょう。でも、すぐに戯曲には行けない。この本は、シェイクスピアがとても魅力的に描かれているから、へえって思うじゃないですか。芝居の部分が実によくて、客席から「その人じゃないよ。」とアドリブが出るシーンなんて最高。タイムスリップ後に平然としすぎという意見が出ましたが、私はそうは思いませんでした。みんなにばれないだろうか、このあとこの子はどうなってしまうのだろうと、サスペンスでひっぱられました。表紙は、中学生の息子の例でいえば、『HOOT』がいいって。この絵は、具体的すぎるのかも。高校生でも自然に手をのばすような装丁にしてほしかったです。

紙魚:あらすじばかりが先走る物語とちがって、じっくりと読ませてくれる本でした。単なる作家としての才能だけではなく、人間的な厚みみたいなものを感じます。というより、やはり作品って、作る人のすみずみまでの力が反映されるものなんですね。だけど、実際、子どもたちが読むかとなると、かなり難しいと思います。児童書の体裁をとっていますが、どういう人が手にとるのかな。私も絵の印象があまりよくないように思いました。

ペガサス:私も2回読んだんですが、この本って、お芝居の魅力がたっぷり描かれているのよね。400年前のセリフと今のセリフが出てくるのは、長いことロングランになっているセリフの魅力をいっているのかなと思いました。過去へのタイムファンタジーはたくさん書かれているけど、それにお芝居の魅力が加わっている。ここに出てくるセリフは、イギリスの子どもたちならみんな知っているわけよね。日本では、大学生とか、少しでもシェイクスピアをかじった人とかが読者対象なのかな。その点、イギリスの子どものほうがもっと楽しめるのは確かでしょうね。それから、気になったところがいくつかありました。27ページの「アメリカのスクールでの講習をライス・プディングとすれば、ここのはチョコレートケーキみたいなものだった」っていうのは、どういう意味かわかりにくいと思う。47ページの「シェパード・パイ」の注「羊飼いがお弁当にしたパイ」っていうのもひどいわよね。どんなパイなのか知りたいのに、これじゃちっともわからないでしょ。わざわざ注をつける意味がない。175ページの「レヴィアタン」も、リヴァイアサンだったら、そう注釈をつけるべきじゃない。あと、205ページに「かたじけのう見せてもろうたぞ」って、女王が言うところがあるんだけど、女王は「かたじけない」という言い方はしないんじゃないかしら。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年11月の記録)


GO

金城一紀『GO』
『GO』
金城一紀/作
講談社 

むう:おもしろかったです。すごい勢いで読んでしまったので、うまく感想がまとまらないけれど。この作家がコリアン・ジャパニーズだからこそ書けたと言うか、読み終わってまず、まいったなあと思いました。同じようなことでも、日本人が書いたら違っちゃうだろうし。差別される側に生まれついた人の作品だからこそ、存在自体で差別されるということが実感として読み手に迫ってくる。私はわりと社会問題には関心があるつもりなのだけれど、英語の本を読む関係もあって、黒人の差別のほうが目配りしやすく、在日の問題などは逆に知らないんですよね。でもその差別の重たさをぐいっとはねかえしていく力強さが気持ちよくて、そこが他の作品と違うように思いました。ドラマというのはどうしても矛盾のあるところに発生しやすいわけだけれど、そのドラマを、怨念とかによりかからず書いているところが、とても気持ちよかった。主人公が桜井と知り合ってから後は、「在日」であることをどうするんだろうというのに引っぱられて一気に読めたというのもあります。在日の人って韓国人としても認められない部分があるんですよね。アイデンティティの問題はほんとうに大変なんだろうなと思うけれど、この本にはそういう安易な同情をスカッとはね返すパワーがある。後味のいい作品だからこそ、逆に読者も読んだ後でそういう社会的なことまで考える気持ちになれそうな気がする。ともかく、「国家権力」という言葉が浮かずに日常におさまってしまう状況というのはすごいと思った。

:私は、この作品が直木賞とる前に、なんかのきっかけで読んだのね。これは情景描写がなくて、この男の子の感情のうねりだけで進んでいくのに、重くない。濃い内容なのに気分よく読めた作品。だから、直木賞をとったときはうれしかった。

トチ:本を読む前に映画の批評をどっさり読んでいたので、いまさら読んでも新鮮味がないかなと思ったのですが、どうしてどうしてとても面白かった。第一に主人公の両親をはじめ、登場人物のキャラが立ってるっていうのかしら、おもしろかった。実際に「在日」の友だちもいるし、「在日」の人と結婚した友だちもいるので、なんとなくわかったつもりになっていたけれど、知らないことがどっさりあってショックでした。ただ、私の好みとしては、最後に桜井とまた仲良くならなくてもよかったのに、と思いました。なんとなく、ここらへんが直木賞的。よりをもどさないほうが、すがすがしかったのでは?

紙魚:もうずいぶん前に出た本だし、映画化されたりして、読んでいなくてもあらすじをご存知の方もいると思うのですが、今回わざわざこの本を選んだのは、「これがカッコいい」という新しいイメージを強烈に打ち出した作品だからです。刊行時読んだとき、おもしろかったし衝撃的でしたが、今回読み直してみても、やっぱりよかったです。差別について考えましょうという姿勢じゃなくて、がつんと若者に伝わる文体、物語だったことが、よかったんだと思います。今、何をしたいのかとか、どういう大人になりたいのかっていう像が見えにくいと思うのですが、こういう新しい感じ方とか考え方が「カッコいい」んだというのが伝わってくるのって、すばらしい。若者には重要なポイントだと思う。なんだか小説に世界を変える力があるんじゃないかと感じられる。

むう:この主人公のように「在日朝鮮人」として民族学校で育つと、ときには20歳くらいでも日本語が拙いままといった人も出てくるんですよね。実際知り合いにそういう人がいたんですが。それってすごく堅い殻に閉じこもっている姿勢にも取れるけれど、そうさせるだけの差別が日本にはある。ところがこの本では厳しく差別されているという被害者意識をふりかざしてない。あくまでポジティブだから、在日ではない人、それほど社会問題に対する意識の強くない人の心にも迫ってくるんだと思う。

ペガサス:装丁の感じや映画の宣伝などから、もっとずっと熱い話だと思ってたのね。でも、ものすごく真面目で、第一印象とは違った。おもしろかったんだけど、青春小説としては、もっとユーモアがあってもいいかなと思った。リアルなところとしては、はじめて会った人と、会話をかわすわけでもないのに、空気感を感じる様子がうまく伝わってくると思った。どのシーンも印象に残るので、映画になるのもわかる。ジョンイルが死んでしまうところなんかも、三人称を使ってうまい書き方だと思った。

アカシア:私は、おもしろかった。何年か前に、アフリカ人や韓国人の文学者と「在日」の文学者が集まってシンポジウムがあったのを聞きにいったんです。アフリカの作家たちは、多くの場合母語で作品を発表することができなくて、英語やフランス語など旧宗主国の言葉で書いてるんですね。だから不自由は不自由なんだけど、自分たちの英語、自分たちのフランス語で書けば、そこら辺のへなちょこイギリス人作家やフランス人作家が書いたものよりもっと面白いものができるっていう、いわば開き直りの誇りみたいなのがある。でも「在日」の人はなかなかそういうふうに思い切ることはできないらしいし、そこに来ていた韓国の作家たちも、まず「怨」を語っていた。差別されてきた歴史を初めに言う。日本人があまりにも無知だから、そこを言わないと共通の基盤で理解しあえないからなんでしょうけど。学校で昭和史をちゃんと教えないと、日本人は国際人になんてなれっこないな、と思いましたね。でも、今の日本の若い人たちが「怨」の文学をつきつけられても、何のことやらわからないでしょうから、『GO』のような作品はありがたいな、と思いました。でも、もしかしたら、そのシンポジウムに出てた作家たちからは、金城さんも「差別への闘い」がないって批判されたりするんでしょうか?
気がついたんですけど、金城さんは、〈在日〉〈韓国人〉〈在日朝鮮人〉〈在日韓国人〉〈韓国系アメリカ人〉っていうふうに、全部カッコをつけてますね。普通の言い方では人間の本質は語れないっていう意識があるんでしょうね。日本人の女の子である桜井は、「在日」だろうとなんだろうと杉原の「その目」に惹かれているっていう設定がリアル。それから、今の日本の男の子って、どう生きたらいいかわからなくて大変だと思うんですけど、『池袋ウエスト・ゲートパーク』(石田衣良著 文芸春秋)や『GO』は、一つのロール・モデルを提供してるような気がします。ただね、どちらもちょっとマッチョ系のかっこよさだけど。
もう一つ、私は文章にユーモアがあると思いましたね。タワケ先輩のあだ名の由来とか、「ノルウェイ人になることにした」とか、「マルクスの悪口は言うな。あいつはいい奴なんだよ」とか、フフフって笑っちゃった。

ペガサス:まじめに書いてるところが逆におもしろいという感じはあったけど、私は表現におもしろいところが少ないと思ったの。お父さんのおもしろさが、映画の山崎努とは全然ちがうと思った。

トチ:窪塚もこの本の主人公とはイメージが違うわね。

アカシア:どうして『GO』という書名なんだろうと最初は思ったんですけど、読んでいるうちにわかってきました。作品のなかに「行く」という言葉が大きな意味をもつ箇所が4つくらいあった。最初は暴走族とにらみ合ったとき、タワケ先輩に「行け」と言われて独りでつっこみ、ボコボコにされるところ。そしたらタワケ先輩には「本当に行く奴があるかよ。おまえ、クルパーだな」って言われるんだけどね。二つ目はタワケ先輩との別れの場面で、タワケ先輩が姿を消す前に僕の背中に向かって「行け」と言う。三つ目は元秀(ウォンス)が「行けよ。ぶん殴るぞ。俺はおまえの生き方が気に入らねえんだ」と言うので見ると、元秀は泣き笑いのような顔をしてた、というところ。そして最後は、桜井がこれまで見たこともないような微笑みを浮かべて、僕に「行きましょう」というところ。"GO"っていうのは、作者が自分にも仲間にも向けた言葉なのかもしれませんね。

トチ:私の「在日」の友だちとか、その子どもたちはけっこう海外へ行って暮らしたりしているけど・・・・・・

アカシア:でも国籍変えれば違うんでしょうけど、日本の法律にはいろいろ制約があって入国出国ともに大変みたいですよ。

ケロ:この本は、出たころに一度読んでいたのですが、主人公と「桜井」とのことだけがイメージに残っていて、今回読んで、それ以外のところが結構重かったので、ちょっとびっくりしました。この小説が、「差別」ということを大上段に振りかざした小説でなく、若者のドラマとして読めたからでしょう。読み返してみて、あらためて私は、桜井がきらいだなと思いました。自分の名前を言わないとか、思わせぶりな態度がハナにつくし、あげく、「名前が椿? えっ、だからー?」という感じでした。こんなに桜井を嫌わなくても良いようなものだけれど、もしかしたら、杉原がカッコよすぎて、嫉妬していたのかも…(とかいって、よく考えたらわたしゃ、杉原の母親と同じくらいの年齢だぞ〜)。そのくらい、杉原はカッコよかった。カッコよすぎてこんなやついるか!というくらい。この小説の全体に流れる「カッコよく生きる」というか、「カッコいいもんさがし」っていうのは、いいですね。

ペガサス:男の子って、とにかくカッコいい男になりたい、っていうことしか考えてないのよね。

ケロ:若いときにいくつカッコいいものに触れられるかって、とても大きいですね。自分がどう生きていくかを考えるとき、とても大事なことだと思う。

ペガサス:あと、携帯電話がない恋愛小説っていいわね。新聞とペンを買って電話番号を交換するじゃない。

アカシア:連絡したくても、しないで我慢してるなんて、今はないものね。

:直接言いたくないことは携帯メールで伝えればいいしね。

アカシア:手軽にメールですませてると、結晶する恋愛なんてできないと思うけどな。

紙魚:会えない時間が愛を育てるというのに……

(「子どもの本で言いたい放題」2003年10月の記録)


11の声

カレン・ヘス『11の声』
『11の声』
カレン・ヘス/作 伊藤比呂美/訳
理論社
2003

トチ:内容はとても良いし感動したけれど、決して読みやすいとは言えないですね。11人という数はかなり多くて、すぐに誰が誰だかわからなくなる。ヴァージニア・ユーワー・ウルフの「バット6」(未訳)という作品も、ふたつのソフトボール・チームのメンバーの手記で構成されていて、内容はとても素晴らしいんだけど、ともかくわかりにくかった。アメリカではこういう書き方の小説が流行っているのかしら。読者がそれぞれの登場人物の語りを想像力でつないで物語を作っていくわけだから、相当の読書力がないと、なかなか理解できないでしょうね。クークラックスクランに入っていた男の子が、だんだんに変わっていくさまが、ひとつの大きな物語になっているわけよね。でも、大人の男の人たちの違いが特にはっきりしなくて、ごっちゃになってしまう。

ペガサス:写真も古いし小さいから、はっきりしないのよね。

トチ:帯には、ヘレン・ケラーとの文通なんてうたわれてるけど、手紙を受け取っただけだわよね。志は高いけれど、それに読者がついていけないという感じ。内容的には、文学的な志にしても、伝えたいことの志にしても、私みたいによき読者じゃないと、意が通じない。詩人が訳したものにはどうしても遠慮があって、訳語がどうこうとこっちも言いにくいけれど、エステルの言葉遣いに違和感があったわ。セアラも「妙な話し方」と言っているけれど。

ケロ:「いったです」とか。

アカシア:セアラは少しネジがゆるんでるっていう設定だから、わざとそういう言い方になってるんじゃないかな。

ブラックペッパー:私は、ユダヤ系だから英語が上手じゃないのかと思った。

アカシア:小さな子はすぐに上達するから、それが理由ではないんじゃない?

ペガサス:ピュアな存在には思えるけど。全体に、ちょっと芝居を見てる感じよね。最近見た新劇で、1つの場面に入れ替わり立ちかわり人が出てきて、それぞれに全然違うことを言うので最初は意味がわからないんだけど、だんだんそれが1つの事件に関係してるとわかってくるっていうのがあったの。これも、そういう感じなのよね。題名が『11の声』っていうから、ドキュメンタリー風なものを予想していたんだけど、原題はWitness。だったら、もっと初めに事件があったほうが、よかったんじゃないかな。なんなんだかよくわからなくて、行きつ戻りつ、読むのが難しかった。この時代のアメリカに興味はもったんだけど、そういう興味がなければ、子どもにおもしろいから読んでごらんとは言いにくい。子どもはおもしろいと思うかな? 英語で読むのと、翻訳書として日本の若い子が読むのでは、ずいぶん隔たりがあるように思う。試みとしてはおもしろいけど、それも作者が思っているほど日本人の私たちには届きにくいのではないかしら。

アカシア:私はすごくおもしろかった。アメリカの社会にいろんな立場の人がいるっていうのが、よくわかった。この作者は、まあいわば性善説ですよね。そして、いろんな人が1つの社会をつくらなければならない状況で、どうしていったらいいのかを複合的な視点で描いている。ひとりひとりをもう1度見ていくと、それぞれにドラマを抱えているのもわかってくる。ただ原文は口調や言い回しにそれぞれ特徴があるのかもしれないけど、日本語だけだとそれがあまり浮かび上がらないので、いちいち人物紹介と引き合わせながら読まなくちゃいけない。やっぱりそれは大変でしたね。

ペガサス:芝居ならもっとわかりやすいけど、これは浮かびあがるまでに時間がかかるじゃない。

トチ:ひとりづつ、もう一度たどって読み直してみればわかるだろうけど、通して読んでいると間違えちゃうのよ。

アカシア:たしかに子どもが読むにはしんどいかもね。高校生くらいでアメリカに興味がある子だったらおもしろいと思うけどな。

ペガサス:この写真も、アメリカの子が見ればもうちょっと特徴がわかるかもしれない。日本の子どもだって日本の大正時代の風俗だったらわかるけど、これ見せられても一人一人の特徴はわからない。そういうところがハンディだよね。

トチ:時代背景だってわかりにくいからね。あと、タイトルを変えちゃったのも問題よね。

ペガサス:いろんな声が聞こえてくるってだけじゃないのよね。

ケロ:一つのドラマとしてみたとき、もうちょっと盛り上がりがほしい気がしました。また、みなさんのおっしゃるとおり、登場人物が一人一人浮き立ってこない。写真があるのに、ジョニーはあまりいい男じゃないとか、そのくらいしかわからない。わざとわかりにくくしているのかな? でも、会話だけというのは、少し距離を置いて読めるところがあるなと思います。夫婦のボケとつっこみもおもしろいし、エステルを預かるセアラが、差別について意識していく過程もわかりやすいですね。わたしは、レアノラとフィールズさんの関係で、フィールズさんが分かっていてくれているのが感じられるところが、とても好きでした。あと、202ページで、死んだはずのジョニー・リーヴスが生き返っているかのようになっているのは、どうしたわけなのでしょう?

ブラックペッパー:「念」みたいなものかしら。

むう:この本には、KKKで実際に人を吊したり殺したりする極悪人は出てこないですよね。出てくるのはちょっと気の弱いところもあるジョニー・リーブスくらいで。

アカシア:北部が舞台なので、KKKも南部ほどしっかりした拠点がなかったんでしょうか。

ケロ:「差別する人」に特定性はなく、ごく一般の、尻馬に乗っちゃう人の集まりだってことですよね。

むう:それを書くのがうまいよね。

ケロ:だから、わざと登場人物が、わかりにくく描かれているのかな? 「一般人」ということで。

トチ:帯には「アメリカの良心」ってあるけど、ちょっときれいごとすぎるんじゃない?

アカシア:ふつうのアメリカ人のなかには、今のイラク戦争についても疑問視してる人はたくさんいると思うのね。アメリカの良心はどこにいったかと憂えてる人にとっては、こういう本にも存在価値があるんじゃない?

ブラックペッパー:最初は、この人はええっとだれだっけ、とやっていたのですが、途中から細かいのを見るのはやめて、自分のインスピレーションで読んでしまいました。全体の雰囲気とか空気がそのおかげでわかったような気がする。『GO』と共通して思うのは、「人間ってやつ……」はほんとにもう、ってことです。どうしてこんなに生きにくくしてしまうんだろう。KKKもよく知らないのだけど、その辺共通の印象を受けるってことは、パワーがあるからかな。ただ、ぐぐっと中まで入って何かもわかるというタイプの本ではないですね。

むう:ロイス・ローリーにも古い写真をもとにつくった話(『サイレントボーイ』中村浩美訳 アンドリュース・プレス)がありますね。古い写真は作家の創作意欲を刺激するのかもしれないけれど、子どもが読むとなるとちょっとしんどいかな。

ブラックペッパー:あんまりつきつめなければ、読めちゃうかも。理解度は低いかもしれないけど。

むう:なんといったらいいのか、この本には自信満々の悪という人間がほとんど出てこなくて、それでいて悪いほうにぐっとうねっていき、すれすれの所まで行くかと思うと、そこから立ち直る。その流れをきちんと描けている点が、すばらしい。別に全員が個性的だったりするわけではなく、ごく普通の人たちなのだけれど、ひとりひとりがリアリティを持った個人としての声で語っていて、そういう声がいくつも集まって大恐慌時代の小さな町の差別がらみの事件を語るから説得力がある。それと、この構成力に感心しました。翻って今のアメリカを考えたとき、ブッシュを支持してない人がたくさんいるとはいっても、マスコミを通して伝わっていることと、ここに書かれているようなアメリカの良心とはどうつながるのかなあ、と考えてしまう。もうひとつ、エステルの言葉などを見て、いったい原文はどういうふうに書かれているのだろうと、とっても気になりました。

紙魚:部分的な地図をわたされて、それをつなぎあわせて1枚の地図にしていくのがしんどい読み物ですね。バスの中で読みながら、めんどくさいながらも何度も人物紹介ページをめくっていたのですが、途中であきらめて、あまり厳密さを求めない読み方にきりかえたところ、なんだかそれぞれの差別の認識のちがいがうかびあがりました。バスの揺れも影響したんでしょうか、それがまた乗り合わせたバスの乗客たちと重なって、不思議な心地になりました。エステル・ハーシュがかわいらしくて、彼女の言葉に導かれて最後まで読んだようなものです。

アカシア:あとがきを読んでわかったんですけど、伊藤さんが最初から訳しているんじゃなくて、ほかの人が全体の下訳をしてるんですね。

トチ:翻訳って仕事は、原文を読むところから始まっていくのに……。

アカシア:下訳者がまず最初に解釈をして……

むう:いったん他の人が解釈したものをもう一度解釈することになるから、いわば重訳になってしまいますよね。
『11人の声』では、町のほとんどの人は、KKKみたいな大上段に振りかざした信念でなく、結局は自分の日常の感覚にこだわって動いていますよね。だからどうっと雪崩を打ってリンチ!とならない。雑貨屋の夫婦の場合でも、おじいさんは簡単にKKKにかぶれるけれど、おばあさんはそれまでの周囲の人との関係の中で培ってきた感覚を大事にしようとして、結局はおばあさんの路線に落ち着く。『GO』の中でも、主人公は頭でっかちにイデオロギーや運動に絡め取られるのではなく、日常を生きている個人としての実感に立脚して動いている。あのたくましさや明るさはそこから出てきてると思うんです。この2冊に共通して、社会というのは高邁な思想やなにかで動いていくのではなく、日常に根を張って地べたを這いずるように生きている人々が集まって動かしていくんだ、という視点があるような気がします。
*『11の声』の翻訳については、理論社編集部から以下のようなご指摘をいただきました。「言いたい放題」だけをお読みになって誤解なさるといけないので、こちらもお読みください。
 前回、同じカレン・ヘスのOut of the Dustを伊藤比呂美さんが訳したときにも、主人公のビリージョーと同年代ということで娘さんに下訳を(アルバイトとして)やってもらったそうです。もちろん英文読み自体は訳者本人もやっているのですが、その下訳文が日本語として青臭くてすごくおもしろく刺戟になったということがありました(といってもそこから詩人の語感でどんどん手をいれていくのですが)。そういったいきさつは、前作『ビリージョーの大地』の「あとがき」には少しくわしく書かれています。その流れがあって今回も娘さんに下訳をたのんだわけです(理論社編集部)。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年10月の記録)