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4TEEN

石田衣良『4TEEN』
『4TEEN』
石田衣良/作
新潮社
2003

トチ:今回は私とカーコさんが選書の係です。『4TEEN』と『永遠の出口』は「本の雑誌」で、たしか今年上半期のベストテンの中に入ってました。この会ではいつも一般書と児童書の境目が話題になるので、そのことを考えるには最適の2冊だと思ったのね。特に『4TEEN』は作者がテレビのインタビューで「私はいつも子どもを応援したい気持ちで作品を書いている」と言っていたことと、本について語る語り口が私の考える児童文学者の語り口そのものだったことから、今回選んでみました。さて、この『4TEEN』は、文章に透明感があるし、特に過食症の少女を書いた章など、ティーンエイジャーの恋愛を描いたもののなかでも最も美しいもののひとつではないかと思いました。ただ、一篇ずつ書いたものを後で本としてまとめたせいか、最後のほうは作者の生の声が出すぎていて、いただけなかったですが……「月島」という舞台も魅力的に、よく描けていた。好きな作品ですね。

:文章がすごくうまい。エイダン・チェンバーの対談相手に石田さんと交渉中らしいんだけど、何を話させるつもりなのかしら。そんなことを考えながら、私は読者に何を期待しているのかという視点で読みました。お父さんが過失致死になっちゃうでしょ。あの辺で、読者は子どもじゃなくて大人だなと思ったんですね。だから、チェンバーズと石田さんの読者は重ならないなあと思いました。子どもたちも読める文章ではあるけれど、石田さん自身が、むちゃくちゃな青春時代を過ごしてきた人だろうから、もっともっと書けるはず。でもきちんとしすぎてる。整合性がありすぎる。心の闇みたいなものが出ていないところが物足りない。整理してしまったなかの青年記という感じがしました。自転車が届いちゃうところなんかも、日本の作家のウェットさを感じました。

カーコ:スッとおもしろく読みました。それぞれ家庭環境も性格を違うけれど、4人がどこまで行っても文句なく友達だというところに、『トラベリングパンツ』(アン・ブラッシェアーズ作 大嶌双恵訳 理論社)との類似性を感じました。いいとか悪いとかではなくて、現実の子どもたちを温かく見つめて描いている感じ。でも、友達の病気とか、癌のおじさんのエピソードとか、あまりにたくさんのことが起こりすぎて、おとぎ話みたいな印象がありました。このあたり、同世代の読者はどう感じるのかなと思って、中2の息子に読ませたら、「おもしろかった。現実味がある。キャラ設定がうまい。こういうやつはいそうという気がした。自分はナオトがよかった」と言うんですね。

ペガサス:おもしろかったです。表紙もいい感じ。映画の「ウォーターボーイズ」もそうだけど、男の子の世界っておもしろくて。こんな子いそうって男の子がいて、章ごとにまとまっていて、一瞬一瞬切りとった感じはうまいんだけど、全体としての方向性は弱いかなと思いました。中学生が読めば、その世代の言葉とかが描かれているので共感をよぶと思う。いちばん成功しているのは、月島の空気感がすごくよく書かれてること。

紙魚:私は、おとぎ話でいいと思います。本を読んで、多少「こんなことってないよなあ」と思っても、少しでも「生きていくのって、悪いもんじゃない。なかなかいいもんだなあ」と思えることができれば、それがいちばん大切。この本は、まさにそういう本でした。私はもともと石田衣良さんの熱狂的なファンですが、これまでの著作のなかでも、圧倒的に好きです。石田さんの小説の登場人物には、しぜんと愛着を持ってしまうのですが、その愛着が本のなかだけにとどまらず、実生活のまわりの人たちへの愛情にひろがっていくような感じになるんです。

せいうち:かつて14歳の男の子だったぼくは、単純におもしろいというよりは身につまされて辛かったです。今となっては、なんてばかばかしいことにとらわれていたんだ、と思いますけど。子どもの世界の狭さというものが書かれていたような気がします。大人は簡単に夢をもてと言うんだけど、子どもは身の丈をわかってるんですよね。子どものとき、若いときって辛かったんだということを思い出しました。俯瞰でみると、おもしろいかもしれないけど。ぼくは単純に14歳に戻った気分で読んでしまったので、本を読んでいた電車を降りるとき、不思議な感じがしましたね。今の子に向けて書いているんだろうけど、20数年前の中学生が読んでも、普遍的にわかる部分がありました。自分が14歳のときに読んでいた本と違うのは、軽みを感じたこと。昔の本は、もっと現実から遠かったですよね。その子の将来の基本、あったらいいよねという基盤をつくる本が多かったと思います。書き手が歩み寄ったんでしょうか。これで、これからは今までとは少しずつ違う人間ができていくんだろうなあ、という寂しさもありますね。

愁童:たしかに文章はいいし、読後感はさわやかだし、印象は悪くないんですけど、直木賞と言われると、ちょと物足りない感じ。地元の読書会では、『永遠の出口』は微妙な年代差を理由に共感しない女性が多かったんだけど、『4 TEEN』は好感度が高かったですね。これは、ある意味で、女性からみた理想の少年像じゃないのかな。

紙魚:たしかに、石田衣良さんって、ホストになったらすごくもてそう。女性の感情の機微をとらえてますよね。

愁童:これって、様式美みたいな感じ。実際の男の子って、もっとどろどろしたところがあったり、理由無き反抗みたいなイライラ感の中で生きてると思うんだよね。そういうの、もてあまし気味で苦労してる母親って結構いるから、これだけさわやかにぴたりと決まった少年像を提示されると、ほっとして作品への好感度は高くなるだろうね。

紙魚:直木賞受賞後の記者会見で、記者たちが、最近多発している少年犯罪についての質問を浴びせたんですが、石田さんは、「子どもたちの力を信じたい」というようなことを言ったんですね。このところ、そういうまっとうなことを言う大人がいなかったので、とても気持ちよかったです。

せいうち:ぼくは男だからか、カッコつけようとしてもカッコわるい情けなさみたいなものはわかった。

アカシア:「月の草」の章なんかはあまりリアルだとは思わなかったんだけど、敢えてカッコつけて書いたと考えれば、これもリアルなのかもしれませんね。少年たちの若い世界観や正義感、それに今いる場所からどこにもいけない不自由さなんかはよく出てる。『スタンド・バイ・ミー』(スティーヴン・キング作 山田順子訳 新潮文庫)を思い出しましたが、4人のキャラがくっきり描かれていておもしろい。

愁童:まあ、そうだけどね。ぼくは、「歌舞伎町」っていう既成のイメージによっかかって書いてるなって感じがしてね。ちょっと…。

トチ:私は子どものころ親に黙って中野から新宿のけっこうディープな界隈に冒険に行ってたから、ここで作者が「歌舞伎町」って書いた感じ、よくわかるわ。

せいうち:ぼくの場合は、奈良市から郡山市でした。

むう:『永遠の出口』より子どもの目線に近い作品だと思う。とてもおもしろく読めました。確かにおとぎ話だし、いたって好都合にできているけれど、それでいいんじゃないかと思う。今の子どもたちの思いをすくい取っているとも思うし。最初の章で重力のことをGとか、ヒットエンドランみたいな笑顔とか、私にすればとても今風の言葉がどんどん出てきて、時代に置いてきぼりを食らったようなショックを受けたけれど、読み終わってみればそういう恐れは杞憂だった。今回の3冊のなかでは、いちばんぐちゃぐちゃと考えながら読みました。4人を主人公にして章ごとに時代を象徴するトピックが盛りこまれているのに気づいて、今度はどんなトピックだろうと考えるのも楽しみでした。もともと、ひこ・田中さんの『ごめん』(偕成社)みたいに、この年代の男の子が描かれているものが好きなんです。たしかに大人にも受け入れられるきれいなところだけを集めたからこういうかたちになっているんだろうし、「十四歳の情事」なんかいかにもカッコよすぎ。でもそれはそれでいいんじゃないかと思う。必ずしも大人が子どもの全部を理解していなければいけないとは思わないし、大人が誤解していても、それはそれで幸福な誤解というのもあって、そのなかで子どもがちゃんと育つのならいいと思うから。「ぼくたちがセックスについて話すこと」の章で、同性愛者のカズヤに対して、「だってカズヤが誰を好きになるかなんて、考えたらどうでもいいことだからね」と突き放したような優しい物言いがあって、さらに最後でカズヤがバレンタインにたくさんチョコレートをもらうという落ちも気に入った。ただし、最後の「十五歳の旅」の章はいただけない。特に最後の数ページは蛇足。こういう時代があったことをいつまでも忘れないでいようなんて、今を生きている少年たちがそんなこと言うかよ、という感じ。これでそれまでのいいイメージががらがらと崩れちゃった。なんだ、大人目線の懐古趣味じゃないかって。残念です。

:私は住んでいるところが月島に近いので、それがきちんと書かれていて雰囲気がよく伝わってきた。高校生だとやめて働くような出口があるけど、中学生くらいでは、そこでしか暮らせない感じはよくわかる。さわやかすぎるかもしれないけど、それでもいいかなと気持ちよく読める。この子たちには大人との接点があまりないけど、中学生くらいって、親ってそう身近に存在してなかった。友だちと「昨日、親と何回話した?」っていう話が出て、「おはよう」しか言わなかったのを思い出したこともある。さっき、歌舞伎町が意味があるかって話になったけど、同じ本を買うのでもある街に行って買うことが大事だった時代を思い出す。

ブラックペッパー:今回の3冊はどれも読みやすかったのですが、『4TEEN』は遠くから見てる感じで、あんまりひりひりするようなものは伝わってこなかった。上手すぎて、すーっといっちゃう。たまたま、テレビの「真夜中の王国」に石田衣良氏が出ていて、司会の鴻上尚史が、「この本、事実関係でちょっとまちがってるとこがありますよね」って言ったんです。「ストリップの場面で『誰も見てない』って言ってるけど、『ひとりは見てる』でしょ」って。実際はふたり見てるんですけど、石田氏は「いいんですよ。小説は生きものですから」って答えたのが、すごくよかったんですよ。不遜な感じもなく、力が抜けてて……。ゆとりある風情でした。修行時代には、1日に3冊読むことを決めていたとか、励んでいたらしいんですけど、なんだか新しい人だなあと思いました。ところで、石田衣良の名前の由来って誰か知ってますか? 本名なの? 大島弓子の『バナナブレッドのプディング』(白泉社)に「いらいらのいら」っていうのがあって、それからとったのかと。

紙魚:たしか、本名が石平(いしだいら)さんっていうんですよね。

アサギ:朝日新聞の書評で、川上弘美がほめてたでしょう。こんな文章を書く人がいるなんて信じられないというような書き方をしていたのね。私、川上弘美が好きだから、すぐにこの本読んだんです。私ね、これは大人の書いた14歳の少年像だと思ったの。だから子どもは共感するかどうか疑問だったのね。綿矢りさの『インストール』(河出書房新社)は、17歳が17歳を書いているでしょ。あれは、私には全くわからなかった。でも、この『4TEEN』の14歳は、ずっとわかりやすかった。その違いはなんだろうと考えたんだけど。たとえば『4TEEN』は、ページを開いたときの字面だけで大人が書いたと思う。あと、さっき話題になった歌舞伎町については、私にはリアリティがあったわ。子どもの行動半径は狭いからね。ブラックペッパーさんがおっしゃった「いいんですよ」っていう話について言うと、ドイツの本も細かいところは間違いだらけなのよね。紅茶と珈琲が話の途中で入れ替わっていたりね。でも編集者は、「そんなこと本質的じゃないから」っていうのね。ドイツの読者も気にしないらしいのよ。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)


ヘヴンアイズ

デイヴィッド・アーモンド『ヘヴンアイズ』
『ヘヴンアイズ』
デイヴィッド・アーモンド/作 金原瑞人/訳
河出書房新社
2002

:フライトニング・フィクションという、読者にエモーショナルなリアクションを起こさせるジャンルでは、デイヴィッド・アーモンドは非常に評価が高いのね。ポジティブなフライトニングをもってきてるんですよね。『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド作 山田順子訳 東京創元社)でもそうでしたが、この作品の中でも水かきのある少女とかグランパとか、ゴシック的な要素を読者が美しいものとして捉えられるポジティブな方向にもっていっている。心のなかにハッとさせる、現実とはちがう領域をつくっている。現実の中の非現実にリアリティがある。金原さんの訳もうまい。でもいっぱい難点はあって、たとえば親から遺棄された子どもたちの施設で働くモーリーが子どもの世界をわかっていないというあたり、単純な図式ですよね。子どもの世界を美化したロマン派の児童像を踏襲している。でも、難点はあっても、私は好きな作家です。

カーコ:ふしぎな読後感のあるお話。出てくる人もふしぎだし、お話もふしぎだし。おもしろいなと思ったのは、視点の置き方。一般の人々の中で生き難くて、筏にのって冒険に出る子どもたちは、最初、自分達対大人という世界で苦しんでいるのだけれど、グランパと出会って、グランパの目で、一般の人間や世界を見ることを迫られますよね。さらに、ヘヴンアイズの独特の視線が交錯する。自分だけじゃ気づかなかった視点で、ものを見ていくでしょう。ただ、誰にでも薦められる本ではありませんね。出会うべき子が出会ったら、印象に残る作品でしょう。

ペガサス:ひとことで言えば奇妙な読後感。なんで奇妙かっていうのは、カーコさんの話を聞いてわかった。『肩胛骨は翼のなごり』もそうだけど、ほかのどの作家にもない奇妙さにオリジナリティがある。子どもだけが体験することのできる、現実なのか非現実なのかわからない状況を描くのがうまいと思う。優しくてせつないというか……。文体も奇妙で、1文が短く、一見関連性のない文が次に来ることがある。はかない雰囲気を出しているのだろうか。意図的につくられているのかな。静かな心にしみる描写がところどころにあって、どんどん読む作品というよりは、合間合間に何かを見せてくれる物語。

紙魚:感想が言いにくい物語です。ともに筏で川をくだり、へヴンアイズと時間をともに過ごした感覚が残っているような不思議な体験でした。泥がまとわりつく感じとか、非常に体感的なんですよね。その筆力がすごいなと思いました。行間にとじこめられている匂いとか空気が、とても濃厚に感じられ、読後、その世界に包まれている感触が残りました。

せいうち:ぼくは、途中までしか読めなかったので、本質をつかめていなかったのが残念。

愁童:ちょっと方向は違うけど、宮沢賢治の作品の作り方に重なる部分があるような気がした。個性的な風景描写で、その中に登場人物の内面をさりげなく投影しちゃう。泥炭地の描写もいいね。

トチ:情景描写っていうより心象風景よね。

アカシア:このへヴンアイズは、『肩胛骨は翼のなごり』のスケリッグと同じような存在として書かれているのよね。でも、隔靴掻痒観というか、しっくりこない感じがあった。たとえばこの女の子の「だねだね」っていう口調が、すごく気になったの。スケリッグと同じイメージだとしたら、「だねだね」じゃなくて、もっと透明な存在を思わせる口調じゃないのかな? 奇妙な感覚ってしっくりくれば楽しめるけど、そうじゃないと読者の気持ちを遠ざけちゃうでしょ。原書で読んだらその奇妙な部分がもっと楽しめるのかな?

むう:原書を持っていたので、照らし合わせながら読みました。ひとつにはやはり「だねだね」口調に違和感を持ったのでそれを調べたり、あと何カ所か意味がよく掴めなくてそれを原書に当たったり。「だねだね」は、原書で言葉を重ねているところをそう訳しているみたいだけれど、ちょっと甘ったれた感じになってしまっている。出来事がどんどん起こってその勢いで読ませるタイプの本なら多少の不鮮明さがあっても大丈夫だけれど、イメージでつなぐタイプの本だと、一カ所不鮮明に訳したがために全体のイメージが不鮮明になることがある。この作品はぷつぷつと切れていながらつながっていくところに味があるタイプの作品。それがアーモンドの持ち味なんだと思うけれど。これを訳すのは大変だったと思う。
 それにしても、あとがきの「ハンカチの用意を!」というのはちょっと違うと思います。『肩胛骨〜』もそうだけれど、これもひゅうひゅうと寒い感じや、汚いものが書かれているにもかかわらず透明感を感じさせる作品であって、そこが、アーモンドらしい。ハンカチが必要になるような熱いものじゃない。この人が異形の者を使うのは、この世界、つまり現実とは違うという印なのかな。『肩胛骨〜』もそうだったけれど、聖人の書き方なんかもデリケートで、現実と非現実の間をたゆたうように行ったり来たりするところがほんとうにうまい。それと、いつも縁のところにいる者に目線があっているのがいい。ただし、最後の施設に帰ってからのところはどうなのか、よくわからなかった。あくまでもあくの強い主人公の目線で書かれているということからすると、ジャニュアリーの話よりも、モーリーンがヘヴンに慰められるところなんかがよかったと思う。ともかくすごい作家だと思う分、訳のことは気になった。

ペガサス:じゃ、ヘヴンのしゃべりかたは、舌ったらずなわけじゃないのね。

むう:うん。違うと思いますよ。

:よく考えてみれば、家出して向こう側に日常の世界が見えているわけですよね。ひょっとしたら違う世界に入っていくお話かと思ったら現実になったり、妙な世界にひきこまれたり、落ち着かない気分だった。泥のべたつく感じは、読んでいてすごく伝わってきた。グランパとヘヴンアイズの関係はどうなってるの? 痴呆症っぽいおじいさんが、ヘヴンアイズを拾ったってことなのよね?

一同:うんうんうん。

:妙な空気ばかりが残ってしまったわ。

ブラックペッパー:私はこの訳はひっかからずに読めました。ヘヴンの言葉もおかしいなとは思ったけど、読めちゃった。最後はどうなるかなんてことは気にせず読む物語。強く思ったことが2つあって、コンビーフとチョコレーはもうしばらく食べなくていいな(彼らがコンビーフとチョコばかり食べてるから)っていうことと、謎を解明したくなる気持ちが強いってこと。グランパとヘヴンアイズの正体はいかに?

すあま:夢に出てきてしまいました。最初、ジャニュアリーは「いまここにはいない」と書いてあるので、死んでしまうのかとずっと気になっていました。ジャニュアリーだけは馴染めないようなので心配してたのに、最後お母さんが迎えにきたので、なんとなく拍子抜けしてしまった。ヘヴンアイズは、カッパの女の子を思い描いてしまった。魚っぽい感じかな。でも、意外ときれいに収束してしまったのが、気になりました。ふしぎな世界の話って、もやもやとしたものが残るのに、水かき以外のことはきれいに片付いちゃった。超現実のようでリアリティがある話になってしまった。

トチ:アーモンドが書いているのは、『肩胛骨は翼のなごり』(ああ、なんて変な邦訳タイトル!)にしても、この作品にしても「奇跡の物語」なんじゃないかしら。普通だったら嫌悪感をもよおす人物や物体が奇跡を起こす。『肩胛骨〜』では、それが納屋にいるホームレスのような男だし、この作品では泥の中から出た死体というわけ。だから、最後にお母さんが現れるという個所も、私は「奇跡」と考えて感動しました。未訳の『カウンティング・スターズ』なんかも素晴らしいし、どの作品も文学的価値が高く、私は大ファンなんですけれど、ファンとしてはもう少し違うテーマのものも読みたいな。あと、この作品は一人称で、女の子の目から書かれているんだけど、心象風景の部分は高度に文学的な、大人の目で書かれているのね。女の子の子どもっぽい言葉と、心象風景の大人っぽい語り口のギャップが、訳すうえでとても難しいんじゃないかな。原文を読んでないからなんとも言えないけれど、そのギャップが訳を読んでいて少しひっかかりました。冒頭の女の子の言葉なんか、そんなに子どもっぽく訳さなくてもよかったのでは? ところで、「ヘヴンアイズ」ってなんなんでしょうね? 感動しながら読んだんだけど、非キリスト教国に生まれた私には、根っこの根っこまでしっかり理解できていないのかも。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)


永遠の出口

森絵都『永遠の出口』
『永遠の出口』
森絵都/作
集英社
2003

せいうち:ぼくは森絵都さんのファンなんですけど、これは最初のほうからかなり嫌悪感があったんですね。嫌なんだけどやめられない、という……。自分の爪の臭いをかぐような感じ、というか。『4TEEN』の男の子たちと対比して、女の子たちにはこんなものすごく恐ろしい世界が拡がっていたのかと、空恐ろしくなってしまいました。男の子だっていろいろと考えてはいるんだけど、友だちの数が奇数だとか偶数だとかなんて考えたこともなかった。恋愛みたいなものも、ここまでの比重はなかったし。ある種ホラーに近いショックを受けました。日本の女の子の文化を勉強するより、イギリスの文化を勉強しているほうが違和感がないくらいです。あんな童話を書く人がこれを書いているのかと思うと……。でも、結局はいいものを読んだような気もします。

愁童:『4TEEN』はうまい演出家のお芝居を観たという感じだけど、これは作者の骨格が見えてくるような作品ですね。ある意味、ユーモア小説で、笑っちゃう。誕生日会で優位に立とうとしたら、かえって……とかね。大人が読むと笑っちゃうけど、本人たちはまじめ。その辺の人生の機微みたいなものがうまく出ていて好感を持って読みました。

アカシア:図書館で借りられなかったんで買ったんですよ。なのに、読めないほど嫌だった。私、中・高は女子校だったんですけど、いっしょに連れ立ってトイレに行くとか、誕生日にプレゼント何あげるとか、お互いに遠慮しあったり牽制しあったりとか、そういうちまちましたことにいつもうんざりしてたのね。だから、せっかく遠ざかった世界をまたつきつけられるのかと思って嫌だったんです。最後まで読めなくて途中でやめました。まあ逆に言うと、それだけリアルに思い出させるうまさ、ってことかもしれないけど。私、森絵都のほかの作品は好きなんだけどね。

むう:私もこの本は嫌でした。理由は、児童文学じゃなくて大人のノスタルジーだから。たしかに「永遠」で子どもをくくるあたりは目のつけどころがとてもいいしうまいんだけど、郷愁だというのが致命的。『樹上のゆりかご』(荻原規子著 理論社)と一緒で、きちんと功なり名遂げた大人がぐちゃぐちゃだった子どものことを、あああのころはたいへんだったなあ、とばかりにふりかえって書くというスタンスが嫌だった。もう、最後のエピローグで爆発しちゃいました。

アカシア:私はね、この作品は文章も巧くないと思ったの。陳腐な表現もいっぱい出てきてね。わざとなのかな。それに比べれば、石田衣良のほうがずっとうまい。たとえば『池袋ウエストゲートパーク』(文春文庫)には、体言止めがじゃんじゃん出てくる。体言止めの文章って、へたな人が書くと読めないんだけど、石田衣良はうまいんですよね。

むう:これ、書かなくていいところまで書きすぎてますよね。

:私はおもしろく読んだんですよ。たしか、森絵都さんは、今いる私が知っている子どもなら書けると言ってたんですよ。講演会で、万引きをしたことなども話されてたので、自分が体験したエピソードだと思って笑いながら読みました。お父さんとお母さんが微妙にすれちがっている顛末も素直に笑えた。

ブラックペッパー:私はそんなに嫌じゃなかったんです。陳腐な表現もあるんだけど、「永遠の出口」なんて、キャッチーな言葉をつくるのがうまい。そういうきらめきがあった。小学校くらいの話は自分のことを笑いすぎで、それは嫌だった。お姉さんのいやらしさは、私だったら許せん! 中学生からはよくなった。

すあま:中学生のころって、先生を絶対視してたんだけど、同窓会でクラスの人たちに会ってみると、実はみんなはそうでもなかったりすることがわかる。この本は、読みながら自分の回想ばかりをしてしまい、本がおもしろいのか、思い出すことがおもしろいのか、わからなくなってしまいました。主人公に同化するのではなく、そのときどきで気持ちが重なるところに、カチッとスイッチが入るような感じ。でも、物語としては、読んだ後に残るものがなかった。結局、この作品じゃなくて自分の物語を読んでいたんですね。佐藤多佳子とかもそうだけど、世代が近いとそれだけで読んじゃいますね。

ブラックペッパー:体験がないと身近に感じられないものばかりなんですよね。

アサギ:私はおもしろくてうまい人だなと感心したわね。私、小学生のとき、はずれていて、教師のせいもあって「クラス八分」になったのね。だからなのか、新鮮でおもしろかった。『4TEEN』では、不良は向こうの別の世界にいるって感じだったけど、この本では、ふつうに暮らしていても「枝道」に入ることがあるというリアリティを感じた。ふっと向こうへ行ってしまう境界線が印象的。ただ、ぐれた生活のなかで、性的なことが何も起こらないのは、きれいごと。「恋」のデートなんて楽しいもんじゃないというのも新鮮だった。ただ、最後の「エピローグ」はよくなかったわね。連作ものって、最後をうまく行かせようと思うので無理が生じるのよね。あと、手垢のついた表現でも、ぴたっとはまればいいんじゃないかしら?

トチ:森絵都さんは、本当に「児童文学作家」なんだなと思いました。言葉をかえれば、児童文学を書くときほど、この作品は真剣に書いてないみたい。小説版「ちびまる子ちゃん」みたいでね。すらすら読めるけど、決して傑作ではない。友達同士で、本当に辛いことは隠して、楽しいことばかり言い合うような関係みたい。わたし、今は世に名を知られるようになった人が「昔、万引きしたことあるんですよね」って懐かしそうに話するの、大嫌いなのよね。タイトルには「永遠」ってあるけれど、あんまり「永遠」がのぞけるような作品じゃない。『ヘヴンアイズ』には永遠を感じたけど。

カーコ:私もだめでした。一般の読者向けにしては、展開も文章も、やや物足りない感じもするし。こういう世界自体、わかるからよけい嫌だというのがあるのかも。私は、小中学校時代、転校を何度も経験して、地縁の壁や集団の暴力を感じて育ったから。この子の場合、最後は救いがあるけれど、ずっと苦しいじゃないですか。また、連作短編という作りから、『黄色い目の魚』(佐藤多佳子著 新潮社)を思いだしたんですが、比べると、『黄色い〜』のほうが、読み応えがある。この本の場合、章が変わると、主人公が別人のように見えることもあって、全体にばらけた感じがしました。

すあま:同じ子には思えないですよね。違う子だといわれても納得しちゃう。

ペガサス:私は、『樹上のゆりかご』の方がおもしろかったな。大人の醒めた目で子ども時代をふりかえる話だけど、自分が思い出したくないようなことを如実に思い出させるから嫌なのよね。これを読むと、ますます男の子の世界のほうがいいなと思う。中途半端な年頃の、はっきり言葉では説明しにくいような微妙な気持ちや感覚をいちいち丁寧に説明してくれてるの。そんなこと別に事をわけて説明しなくてもいいですよ、って思う。「例えば、ここに一本の木があるとしよう。」なんてふうにね。ユーモアのタイプが児童文学と違うのね。

トチ:大人の読者には新鮮に映ったのかもね。大人の文学と子どもの文学のボーダーにあるかのような作品だから。

紙魚:そうですね。今、児童文学は、一般の文芸からすごい注目を集めていますよね。子どもの本をふだん読まない人にとっては、きっと児童文学には「新しい世界」を感じられると思うんです。だた、この本は、やっぱり連載ものだからか、ぷつぷつ途切れる感じが気になりました。もっとぐっとひきこまれる物語が読みたかったかな。ただ、感覚を言いあてるのがとってもうまいし、きらめく言葉がちりばめられているので、すらすらと軽く読めました。いやーな感じを、これだけいやーに表現できるのって、やっぱりすごいと思います。忘れていた嫌な気持ちを、これでもかこれでもかと、わざわざ掘り起こされました。

すあま:子どものときって、些細なことが特に気になったりするじゃないですか。思えば、嫌なことの連続でしたよね。

カーコ:大人が懐かしむには、よくできているってことじゃないですか。

アカシア:森絵都さんにとっては、一時期の少女特有の世界が嫌なことじゃなかったのかもね。

せいうち:もっと血みどろだったら、気持ち悪くなかったかもしれませんね。

トチ:同窓会に行ったらあんまりしゃべりすぎる人がいて、「あなたばかり話してないでよ」って感じだわ。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)


伝説の日々

ジェマーク・ハイウォーター『伝説の日々』
『伝説の日々』
ジュマーク・ハイウォーター/著 金原瑞人/訳
福武書店
1989

アカシア:アマナが女になったり男になったりするというのはアイディアとしておもしろいんですけど、ジェンダー的には、新しい女性像を打ち出すのではなく、従来の価値観どおりの男と女を行き来するだけ。特に目新しさがないんですね。先住民と白人の相克で言うと、白人の食べているものをまずそうと書いているのがおもしろかった。

愁童:ハイウォーターはわりに好きだが、これは印象に残らなかった。切り口に新味がない。アカシアさんが言ったように、男が入りこんできたと言っても、そこで新しい価値観を提示していない。馬を駆る高揚感を描いているが、わざわざ出してくることはない。

カーコ:私は、アマナの成長物語として、北米先住民の世界観を描いた物語として、結構おもしろく読みました。慣習的な女性のあるべき姿にあてはめられるのを拒否する奔放な精神は、いろいろな作品で語られてきたテーマだと思います。新しい女性像が提示されていないと言われて、今、そうかなあとふりかえっているのですが。
それから、先住民の文化ということで言うと、訳者あとがきで、作者の希望によって、あえてあまり説明をしなかったと書いてあるように、わかりにくいところもあるのですが、それが逆にひっかかりにもなっている。名前のつけかたや、自然との向きあい方など、白人とぜんぜん違う世界を持っているのに、保留地に追いやられて、白人の世界にとりこまれていく時代のようすが興味深かったです。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


神の守り人 帰還編

上橋菜穂子『神の守り人』
『神の守り人 帰還編』
上橋菜穂子/著
偕成社
2003.01

:来訪編がおもしろかったので、バルサのこれまでの話も読みたくなって、1から読み始めました。おもしろいと思ったのは、バルサが30くらいの女性で、恋人がいて、師がおばあさんで……そういう人々の中にいろいろな子どもたちが関わりをもってくるところ。バルサは、悲しいものを背負っているのだが、カッコいい。

カーコ:シリーズを全部読まないといけないと思いながら、結局これしか読めなかったんですよね。第一印象として、読者を選ばないファンタジーなのかな、と思った。『アースシーの風』に比べると、こちらは格調高そうでいて、それほど深くない感じがしました。テンポがよく、文も短く、情景が次々に描かれていく。最低限のイメージを与えて、物語をつなげていくのがうまい。だから、それほど読書に慣れていない子どもたちにも読めるのかなと。私は、いろいろな物が独特な名前で呼ばれているのになじめませんでしたが。バルサとアスラについては、女でなければいけない必然性をあまり感じなかったんですよね。だから、女の物語という印象はなかった。女の子が読んだときに、女主人公のほうが身を寄せて読めるのかな? 全体として、栗本薫の『グインサーガ』シリーズ(早川書房)とイメージが重なって、私としては、それほど評価が高くなかった。

アカシア:バルサがなぜ用心棒になっているのか、そこのところを知らなければ、この作品はわからないかも。苦しみを乗り越えてきているから、バルサはアスラに心を寄せる。やはりシリーズの最初から読んでいくと、それが理解できる。文の一つ一つが、文学的に際だってすぐれているわけではないかもしれないけど、お話を作っていく構成力はすばらしいと思う。絶対的な力が目の前にあって手に入りそうなのに、人は意志の力で拒否することができるのか、というテーマは、『指輪物語』と同じですね。それを日本人作家が、エンタテイメントとして書いた作品だと思う。ハリポタのように、何でも魔法を使ってしまえ、というのではないところがいい。タンダとバルサの関係は、思わせぶりに書いていて、ちらっちらっと出てくるので、これからどうなるのかな、と読者をひっぱっていく。ハイウォーターの作品では、敵を殺すことに高揚感を感じているけれど、バルサは殺し続けることに対して、うしろめたさをいつも感じている。その辺は、新しい人物像かもしれませんね。

愁童:自分の力を維持するための努力や、他人に対する恩義といったものが、うまく書けている。人間臭さがちゃんとあるところがいいね。

アカシア:単にエンタテイメントではなくて、深い「ゆれ」のようなものが描けている。

愁童:女用心棒としての、バルサの大変さがよく書けている。説得力があるね。

アカシア:体力のない女ならではの戦い方もするのよね。

:養父との関係に折り合いをつけなければならない、というところに、せつない厳しさを感じた。アスラに接するうちに、父とのことも理解していく。とても傷つき、重いものを背負っているんだけれど、生きなければならない。そこがとっても悲しいのね。

カーコ:バルサが谷から落ちて、冷たい川に落ちても生きているところ、私はちょっと気になりましたね。

アカシア:この場面だけ見ると、ご都合主義の筋立てように思えるかもしれないけど、バルサに心を寄せていれば、生きていてよかった、と思うんじゃない?

:終わり方ですけど、アスラが死んでしまうのでなく、まだ目がさめない状態で終わらせている。このおさめかたは、よかった。

アカシア:意識を消さなければ、生きられないからだと思う。このシリーズは、文が短くて読みやすいし、本の嫌いな子にも読めるのでは?

ペガサス:友人が、20代の社会人の娘と一緒に、このシリーズを熱心に読んでいるんだって。児童文学に関係ない主婦の人なんだけど、続編が出るたびに娘が買って来て、争って読むとか。とにかく、バルサがカッコいいって。

愁童:カッコよくはないんじゃないの? いろいろと悩んでいるし、チャーリーズ・エンジェルみたいなカッコよさは、ちっともないじゃない。カッコいい女性を描こうという意識は、作者にはないのでは?

カーコ:何て強い人だ、と他の登場人物が評する場面はありますよね。

アカシア:アスラが呼び出してしまったものを、バルサだけはよけることができたりするんだから、カッコいいと思うよ。ところで、この表紙の絵は、バルサなのかな? 神がのりうつったアスラなのかな? わかりにくい。

愁童:挿し絵が多すぎると思うな。もっと、読者の自由なイメージで読ませてほしかった。

ペガサス:でも、挿し絵がないと、子どもには読みにくいんじゃない?

アカシア:いろんな人が登場するしね。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


アースシーの風 ゲド戦記V

ル・グウィン『アースシーの風』
『アースシーの風 ゲド戦記V』
アーシュラ K. ル/グィン著 清水真砂子訳
岩波書店
2003.03

アカシア:この巻では、英雄ゲドは魔法を使う力をなくして普通の人になってます。でも、4巻目の時ようにただ力を失っただけではなく、日常生活をしているがゆえの知恵をしっかり身につけているのね。ハンノキが市の国に呼ばれることから始まって、レバンネンなど、たくさんの登場人物が出てくるけど、最後にはみんなが解放されて、それぞれ自分の道を選び取るのがおもしろかった。

ペガサス:これは、1冊だけ読むのではなく、最初からのつながりで考えないといけない作品。4巻目が最後の書と言われながら、読者を混乱に陥れて終わっていたのが、この巻で希望をもって進んでいけるというので、やっと納得できたと思う。作者が最初の巻を書いてから何十年もたち、主人公も年老いるわけだが、全巻を通してみると、一人の人間が人生をどう生きるかという物語とも読めるし、人類全体の変遷の物語とも読めると思う。また、作者の世界観の変遷が見られる。魔法使いとしてこれほどまでに修行して力を獲得していくのに、結局その魔法はよほどのことがないと使えないわけね。使えば宇宙の均衡を崩してしまうから。河合隼雄さんが『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日新聞社)のなかで、魔法使いになる修業をナバホのメディスンマンの修業と結び付けて、「結局のところ大魔法使いになればなるほど何もしなくなるのだ」と述べている。確かにこの物語には、人類が築き上げてきた文化的な価値でなく、アニミズム的なものや、動物の本能的行動など、もっと違うところから学んでいくという態度も描かれていて、おもしろいと思った。力を獲得するために奮闘して、目的を達成して終わり、というのではない。

愁童:アカシアさんみたいな読み方があったのか。「ゲド戦記」の大切な部分は3巻までに書かれていて、これはキャンディーズのさよならコンサートみたいなもんだと思ったんだよ。文章でいくつか気になるところがあって、編集者も翻訳者ももう少し気遣いをしてほしかったな。

アカシア:4巻目は、作者がジェンダー的に全体を考え直して書かずにいられなかったんだと思うのね。だけど思想が前面に出すぎてた。だから作者についての研究をするには面白いけど、物語としてはあまりおもしろくなかった。でも、この5巻はおもしろい。

愁童:作家が若い頃書いた作品と、いろいろ考えて年を経て書いた作品では、迫力も違う。2巻目でテナーが、自分で自分の道を選び取っているときに、すでにジェンダーの意識はあったと思うんだ。それが、4巻目で薄汚いおばさんに書き直されなければならなかったのか。

アカシア:私はテナーが薄汚いとは思わなかったな。ル・グィン独自の視点は、影をどう扱うかにあらわれてますよね。今のネオ・ファンタジーは「主人公は善であり正義であって、悪は外にいる」という、ブッシュみたいな単純図式が多いけど、この作者は、闇や悪は自分の分身という認識ですよね。3巻目までは、頭で考える知識(男の領域)と、日常の暮らしの中から学ぶ知恵(女の領域)とが分離していた。それが、4巻からあとは違うのね。

愁童:でも、3巻めまでの輝きが4巻、5巻にはないじゃない。

アカシア:その輝きって何? ヒロイズム?

ペガサス:4巻、5巻がなければ、3巻までで輝いているけれど、5巻まで読んだときに感じるおもしろさは違ってくる。5巻まで読んで、もう一度前をふりかえりたくなる。

愁童:4巻で一番納得がいかなかったのは、最後に竜が出てくるところ。

アカシア:竜は5巻につながるカギなんです。この巻では、幼いときに虐待されひどい火傷を負って生きてきたテハヌーが竜になって空にのぼっていく。そこのイメージがいいんですよ。「テハヌーは両手を高くあげた。炎が手を走り、腕を走り、髪の毛に入り、顔に入り、その胴体に入り、大きな翼となってその頭上に燃え上がると、テハヌーのからだが宙に浮いた。全身火と化した生き物は、今、空中に美しく光り輝いていた。テハヌーはことばにならない、澄んだ叫び声をあげると、首をのばして、高い空へと、まっしぐらに飛んでいった」っていうんだけど、テハヌーが自分らしさを回復し、解放されるのがよく出てると思った。

ペガサス:4巻、5巻を読んで意見が分かれるところも、この本の価値なのでは。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


楽園のつくりかた

笹生陽子『楽園のつくりかた』
『楽園のつくりかた』
笹生陽子/著
講談社
2002.07

愁童:傷ついた都会の子どもが田舎にいって癒されるという、よくあるパターンなんだけど、この本では、田舎といっても、学校にいる子どもは山村留学している都会の子どもが多いという設定。自然豊かな田舎の環境だけに寄りかかってないところに工夫があるし、うまいと思います。ただ、父親が死んでいることを隠して読み進めさせて、あとでばらすというのは読者に対してフェアじゃない気がするな。かなり作りすぎの感じがするけど、今の子にはこのぐらいでちょうどいいのかな。

ケロ:登場人物がいろいろとおもしろおかしくて、結構楽しく読みました。あとで父親の死がわかるどんでん返しのところも、始めの印象とは見方がぐるっと変わって読めてきて、そこがおもしろかったな。特に、母親の印象は変わりましたね。最初は、田舎を楽しむお気楽なイメージで読み進んだけど、どんでん返しのあとは、いろんな辛いことがあっても、表には出さないで健気にがんばっている人だということになる。この母親は、このどんでん返しがあるために最初の設定がちょっとぶれていておかしい。はじめはブランド志向で偏差値志向なのかと思っていたら、途中から物事の真価が大切と言い始めて、どんな人だろうと興味を引かれ、さらに最後のどんでん返しで、そういう人だったんだと納得する感じ。テーマ的には、重たいけど、キャラクターが魅力的に描けていたので、読めたし、映像が目に浮かぶようで楽しかった。

むう:前にこの会で取り上げた『きのう、火星に行った。』がおもしろかったんですよね。同じ作者だから、やっぱり読ませる迫力があって、おもしろいおもしろいと思いながら読んでいったんです。全体としては、いい印象でした。でも、『きのう、火星にいった。』のほうがいいと思いました。というのは、父親のマブダチなる松島さんが出てくるところで、ゲッとなったんです。なんじゃこりゃ、安直すぎるじゃないかって。父親が死んで、それを認めたくないがために自分だけの虚構の世界を作り出してという、この設定にはそれほど抵抗ありませんでした。むしろ、おっと、そういうことか!と感心したくらい。おじいちゃんが梨園を再生させるのにつきあって、挿し木が根付くあたりで主人公が田舎に根を生やすという将来を予感させだぶらせるあたりも、なるほどなあと思いました。ともかく松島さんが、私はだめでした。最初登場したところで、いったいなんだこの人は、と思ったのですが、特に最後でからまれてるところに助けに入って、しかもそれが父親の親友だなんて、これはやりすぎじゃないかな。

すあま:私はどんでん返しがおもしろかった。だまされるタイプなので、しっかりとだまされてしまいましたが、よくできたお話だと思いす。最後は、終わらせるために主人公に無理に語らせていたり、決めの一言もちょっとクサイのが、気になりました。読み終えてから初めて、そもそも父親とひねくれた子どもがメールのやりとりなどするのかなど、主人公の自作自演だったとはいえ、疑問に思う点がいろいろと出てきましたね。

アカシア:どんでん返しも、一人称だからありかなと思いますね。メールの使い方も上手。本来黙っている子はコミュニケーションをとれないけど、メールを使えばコミュニケーションをとることもできるし、しゃべらすこともできるんじゃないかな。だから、設定はよくできてると思いました。松島さんはやはりふしぎな存在。それと、4人クラスで1人だけ土地の子がいるんだけど、その子が方言を使ってないのが不自然に感じてしまいました。外見的にも田舎の子として描かれているのに、と。松島さんも言葉使いが標準語。方言にすれば、もう少しリアリティが出るんじゃないのかな。

:私は、この作品には評価できるポイントがあげられません。読むのにはおもしろく読めるかもしれないけど、それだけでした。登場人物が4人しかいなくて、小さな学校で、お話を作るのは簡単だと思うんですけど、話の筋は決まりきっていて安易だし、小説としては安易なんじゃないかしら。先ほど映像がうかぶという意見がありましたけど、その通りで、ドラマ仕立てなら良いけど小説はまた違いますからね。老人と子どもの心の通い合いとか、父の死をどうとらえるかとか、深めていくべきテーマはいっぱいあるのに、残念です。

トチ:日本の創作児童文学というと、「○○山の頂に、黒い雲が広がっていた。いまにも一雨きそうだ。○○は・・・」といった情景描写に始まる、まじめくさった、陰気くさい文体のものが多いような気がして、読みたくないなという気持ちが先に立つのですが、この本は文章が短くて、リズミカルで、すらすらおもしろく読みました。お父さんが送ったとされるメールの部分だけ、なんでこんなにおもしろくないのかと思ったけれど、最後の種明かしを読んで、なるほどと感心しました。裕さんのいうように、たしかに深みはないかもしれないけれど、この本のように、子どもが気楽に手に取ることができて楽しく読める本があってもいいのでは・・・と私は思います。こんな風に文章も、構成もうまく書けている本を、山のように読んで楽しむというのも、子どもの読書法のひとつとして認めてもいいのでは。私自身も、子どものときにそういう読み方をしてきたような気がするし。おじいちゃんが農園の仕事をしているときに、接木の方法を語るところもおもしろかった。こういう職業的な薀蓄って、子どもの本のひとつの要素として大切なんじゃないかしら。

せいうち:今日読んだばかりです。読む人によっては、そんなに評価されないと思いますが、個人的には結構気に入っています。この主人公には、個人的に感情移入できて読めました。自分も子どものころに、この子に近いところがあったので。男の子の中には、おとなしくて快活ではないけど、自分の意志ははっきりしていて、そんな自分を社会の中でうまく出せず、他人から見れば自分勝手だとかわがままだとか言われてしまう子がいるんです。この子は、そういう子だと思いますが、好きですね。確かに利己的で自分勝手なところはありますが、それでも自分を正直に出せるところは、とてもいいと思います。
私は、都会がとても好きなのですが、どうも世の中には田舎を美化する傾向があって、都会派が不当に悪く言われてしまうことが多いような気がします。この本は、田舎に行ったら田舎に同化した方がいいとか、はじめは、そういうことが書かれた話なのかと思いましたが、単純にそれだけの話ではないのでよかったです。はじめのうちは「やっぱり、都会の子は負けてしまうのか」と思って読んでいたんです。僕としては、都会の子がただ田舎の子と仲良くなってしまってもつまらないし、仲良くならなくて、とけ込めなくても、話としてつまらないと思いますね。それから、この話の主人公は成績のいい優等生タイプの子ですが、この種の子は、普通、あまり主人公にはされないんです。それを不満に感じていたので、よかったと思います。ただ、やはり、もっと都会の良さも書いてほしかった。田舎で癒されるということもあるかもしれないけど、都会で癒されることもあるわけで、都会ばかり悪く言われるのは心外です。
松島さんの登場は、たしかにとってつけたようですね。でも待ってましたという感じがしてけっこう嬉しかったのも事実です。何といってもバイクに乗って現れるヒーローですから。仮面ライダー世代はこういうのに弱いです。最後に、松島さんが送っていってくれるというのもイヤではないです。「この話を読んでも何も残らない」という意見もあるでしょうが、残らなくてもいいような気もします。一点、残念だったのは言葉づかいですね。現代風、ということなのかもしれないですが、今の子どもが読む本がこういう話し言葉的な軽い文体になっているのかと思うと、ちょっと寂しいです。

きょん:最初に、お父さんとのメールのやりとりで始まるんですが、子ども側のメールも、お父さんのメールもすごく不自然で、なんだこれは?という感じでした。要するにどちらも嘘のメールということなんですが、私にはあんまり効果的には感じられませんでした。おじいちゃんのところに行かなければいけないのは決定事項だから、そのことを自分なりに説得するためにお父さんからのメールもそのようにサジェスチョンしたということなんでしょうか。自分の息子と勘違いしているおじいちゃんに誘われて、半ば無理矢理に農園に出かけていって、なにかを感じ始める優の姿は、よく書けていると思いました。はじめ、父親の名前「博史」と呼ばれて返事もしなくて拒絶していたのが、まあ仕方ないかとあきらめ、適当にあわせていく。先ほど、深めていくべきテーマはいっぱいあるという意見が出ましたが、ここでのメインテーマは「突然死んでしまった父親の死を、子どもなりに受け入れていくまでの心の葛藤」なのではないか? おじいちゃんに合わせて農園に出かけ、何となく受け入れていく過程が、父の死を受け入れていく心の準備なのかもしれません。『楽園のつくりかた』というタイトルは、あまりそぐわないような気がします。ここでいう楽園は、自分の居場所という意味でしょうけど、自分の居場所を作るということと、父の死を受け入れるということがイコールになるはずなのに、学校生活のこと友達のごたごたなど、エピソードがあまり効果的でないので、かえってテーマが散漫になってしまった感があります。松島さんの存在も、とってつけたようでしっくりきませんでした。

トチ:せいうちさんの意見をきいて、私がこの作品に好感を持てたのは、書き方によっては嫌らしくなる主人公を、うまく書いているからだということが分かったわ。

むう:『きのう、火星に行った。』の主人公もそうだったけれど、この人、鼻持ちならない子どもをうまく書くんですよね。親が教育パパとか教育ママでなくても、こういうタイプの子って、けっこう多いと思うんです。少子化で大人に対する子どもの数が減ってきているので、大人の目が行き届きすぎる。だから大人と子どもの力関係が昔とかなり変わってきて、子どもはどうしても自意識過剰になる。その結果、勝手に(ありもしない)期待に応えちゃったりするんだと思うんです。

アカシア:成績がいい子だって、ゲーム感覚で良い点を取りにいってるのかも。

せいうち:成績とか偏差値にものすごく執着する子もいます。ぼくは子どものころ、偏差値ってすごく好きでしたね。努力したことが反映されるというところが。報われた気がして快感でした。

愁童:でもこの人は作家なんだから、その偏差値とかばかりで、人間の人格に触れてないところでお話を書こうとしているところが嫌だな。ウケねらいのドラマつくりのようでさ。うまく書けば、それでいいのかな。

アカシア:でも、こういうエンターテイメント性が、ほかの創作児童文学には足りないんじゃないかな。

カーコ:母子だけでいきなり父親の田舎に引っ越すというのも、メールの親子関係も不自然で、「なんだこれは」と思って最初読んでいたけれど、どんでん返しのところで納得しました。わがままな子どもとして父親にメールを書く視点と、父になりすましてたしなめるメールを書くという二重の視点に、この年齢の男の子の心の揺れがよく出ていて、私はおもしろかった。新しい学校のクラスメートとのつきあい方は、キャラ設定をして友達関係をつくる、今の子どもの様相を反映していますよね。この人はおもしろキャラ、この人はいじめられキャラというふうに、分類して固定してしまう。でも、この作品では、キャラの印象が途中で破られて、柔軟な人間関係への作家のメッセージが感じられました。全体に悪い人があんまり出てこないので、子どもは安心して読めるのかもしれません。軽くて、物足らない感じもありましたが、メールという小道具をうまく使った、感じのいい作品だと思いました。

愁童:この子が、死んだ父親にメールを書き、自分で返事を書いているっていう設定は、ちょっと気持ちが悪い。母親の言うことは聞くけど、父親には反発するものだと思う。

カーコ:父親は死んでいるから、こんなふうに書けるのでは?

せいうち:子どもが想像で書いていたから、こんな変なメールになったのだなと思います。

トチ:そこのところがうまいんじゃない? 実在感がないから。こんな、紋切り型のことばっかり言ってる「もんきり父さん」が物語の中に本当に登場していたら、それだけで物語はつまらなくなっちゃうもの。けっこう、そういう本もあるけどね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


ノリー・ライアンの歌

パトリシア・ライリー・ギフ『ノリー・ライアンの歌』
『ノリー・ライアンの歌』
パトリシア・ライリー・ギフ/著 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2003

カーコ:状況が厳しくて、ほんとうに辛いお話なんですけど、こういう本は好きです。妖精が息づいているアイルランドという舞台も興味深かった。こういう世界があるんだなあと。ただ、『ホワイト・ピーク・ファーム』(パトリシア・ライリー・ギフ著 もりうちすみこ訳 さ・え・ら書房)では家族一人一人の像がとてもはっきりしていたのに対して、こちらは、姉妹の年齢の違いやそれぞれの性格などがすっきりと頭に入ってこなかったのが残念でした。原文の問題なのか、翻訳の問題なのかわかりませんが。

アカシア:『サンザシの木の下に』(マリータ・コンロン・マケーナ著 こだまともこ訳 講談社)や『アンジェラの灰』(フランク・マコート著 土屋政雄訳 新潮社)のような似た設定の本をおもしろく読んで時代背景が頭に入っていたので、情景がありありと浮かんできました。それと、さ・え・らの今までとは違った路線のこの表紙からは、工夫の跡がうかがえて評価できると思いました。主人公が大変な状況のなかで積極的に生き抜こうとするリアリティがあって、ほかの、深刻な問題を深刻に取り上げただけの、ありがちな本とはひと味違う。主人公がしょっちゅう歌を歌っていたりして、辛さに溺れていないところがいいですね。

ケロ:あまり読んだことのないタイプの本で、ひたすら辛くて、飢えにつきあっておなかがすいてしまったり。主人公がなんとか生き延びられてよかったよかったという感じです。でも、アメリカでのアイルランド系移民の貧しさの背景を知ることができたような気がします。後書きにある、作者の思い入れにも納得しました。タイトルが『ノリ—・ライアンの歌』となっていて、妖精の話も出てくるので、本文中にもっとそれらしい歌詞がいろいろ出てくれば楽しめたし深みが出たのではないかと思います。それと、アンナという老婆から主人公へのさまざまな知識の伝達が、たとえば誰々を助けたとか、もっと具体的に書かれていると良かった。それがあれば、文化が確実に継承されていくという感じがもっとしっかり出たと思います。表紙を描いた画家さんは、アイルランドに惚れ込んで絵そのものが変わったような人なので、なるほどなあとしみじみと表紙を眺めました。中のイラストは息子さんだそうです。

アカシア:アンナの一人称が「わし」というので、相当な年齢かと思ってしまいましたが、老婆ではないのでは? なぜ「わし」にしたんでしょう?

愁童:いい作品だけど、冒頭の描写で気勢をそがれた感じ。訳の問題かなと思うけど、霧雨なのに、さっと晴れて海が見えるから、霧なのかなと思うと、その割には髪が濡れて水滴がたれるほどだったり、雨だか霧だかイメージが混乱しちゃう。似たような部分が散見されて、素直に作品世界に入れなかった。

すあま:この訳者の方は、アフガニスタンの少女の話(『生きのびるために』デボラ・エリス著 さ・え・ら書房)など、社会派の作品を手がけているのが、いいと思います。ただ、大人ならそういう時事的な関心があって本を手に取り、理解を深めるということもあるだろうけれど、子どもの場合はまた違うと思うんです。イギリスの子やアイルランドの子など、アイルランド問題を知っている子が読むのと、日本の子どもが読むのとでは違ってくる。もちろん、知識がなくて読んでも魅力のある本はありますが、この本は、日本の子が読むにはちょっと難しいのでは。それから、p82の「フォアファー」というアイルランド語の意味が、ダッシュ(−)の後に書かれているのですが、最初は言葉の意味なのかどうかよくわかりませんでした。他にも、カサガイなど、イメージできないものが出てきて、作品世界に入りにくかったですね。また、登場人物の印象があまりはっきりしていないので、それも読みづらかった。主人公は次々と失敗して困難な状況が続いていくので、読んでいて辛くなる本でした。

むう:私は時事的なものに非常に関心があるもんですから、アイルランド問題とかアイルランドの歴史とかもある程度知っていて、そういう目でこれを読みました。じっさいアイルランドに行ってみると、不自然なくらいイギリスにそっぽを向いて、大西洋を越えたアメリカに目を向けているんですね。それに、アメリカ人が故郷詣でのように大挙してアイルランドに来てる。そういうのを目にすると、どうしてもその背景や歴史に考えが及ぶわけです。で、アメリカにはアイルランドからたくさんの人が移民として渡っているわけですから、アイルランドの人やアイルランド系アメリカ人にとって、ここに書かれていることはとても身近なことだと思うんです。イギリスのアイルランド支配といった歴史的知識もあるわけだし。アイルランド系アメリカ人にとっては、この本は自分たちのルーツの物語、祖先の苦労話として大変興味深いんだと思います。でも、日本人にとってはあまりに遠いと思うんです。今の日本の子どもたちの置かれている状況から、かけ離れすぎていて、とても取っつきにくい。そういう歴史や時事から離れたところで、なおかつぐっとくる普遍的なものがあれば、それはそれでいいと思うんですが、この本にはそういう魅力があまり感じられない。そういう意味で、日本で出す必要があるのかなあと思いました。

:たしかに渋い本だし渋いテーマだけれど、こういう本があってもいいのではないかしら。イギリスの歴史を教える立場にいる人間としてそう思います。地味だけれど、出版されていい本だと思うんです。こういうふうにある時代設定で展開する人間の物語があるのとないのとでは、歴史理解が全然違ってくるから。それと、これは時代を描いた物語ではなく、ファミリー・サーガだと思います。前面には出てこないけれど連綿と伝えられていく女の歴史を描いたという側面があります。文化がどう受け継がれていくか、その様子が、たとえばお姉さんから届いた小包の包装についてのエピソードなどで表現されているわけです。時代を時代としてではなく家族の伝統として扱うこのような本の存在によって、歴史観が深まると思います。ほかの方もおっしゃっていたように、翻訳は少し気になりました。それと、日本の読者がどう受け取るのかということ、つまり本の普及の度合いについては、難しいものを感じます。

トチ:アイルランドの作家が、同じジャガイモ飢饉のことを書いた児童文学があって、欧米ではとても評判がよくてテレビドラマにもなったりしたけれど、日本ではさほど評判にならなかったんです。そのへんが、子ども向けの歴史読み物の難しいところでしょうね。まだ、世界史を勉強していないし、アイルランドって大人にとっても遠い国ですものね。

せいうち:この本は、やっと図書館で見つけて読みました。学生時代の先生がアイルランド専門家でしたから、アイルランド問題のことはいろいろと学んで、イギリスの悪辣さに悲憤慷慨していたんですが、当時の気持ちを思い出しました。まず、後書きを読んで、感動したんです。ファミリー・サーガという色合いを強く感じました。私は壮大な物語に弱いところがあるもんですから。家族からは自分のルーツについて十分な話が聞けずに、自らアイルランドに渡って尋ね歩いたということ、そのときに現地の人に、飢饉がなければあなたもアメリカ人ではなく、アイルランドの少女だったんだね、と言われるくだりは感動的でした。アイルランド系は今でもアメリカで地位が低く、主流になれずにいます。今でもどこにも居場所がないという感じの国民で、しかも、「祖国」と言われる場所でも、厳しい自然と闘ってきたわけです。ただ、アイルランドの歴史に関心があって後書きで感動したわりに、実は作品そのものにはあまり感動しませんでした。まず、表紙の絵からイメージした話と違っていた点で、がっかりしてしまいましたね。読むのも辛かったし、翻訳文体も気になりました。雰囲気を伝えようとしてこうなったのかもしれませんが、たとえば、人を呼ぶのにフルネームでばかりというのもどうかなあと思います。日本語としてぎこちない。それと、これだけの違和感を持たせてでも、アイルランド語を日本語訳の中に出す必要があったのかどうか、そこも疑問です。

カーコ:アイルランド語の発音をルビにして処理すると、すっきりするような気がします。(一同うなずく)

せいうち:今のアイルランド人やアメリカ人なら、アイルランド語が出ていることに感激するんでしょうが、日本人だとそういうこともないし。時代背景が分からなくても感動できる本は実際にあるわけで、そういうふうに書けなかったのかと思います。ひどい目に会った人の気持ちに沿いきれないからか、どうしてアイルランド人が書くとこう(悲惨なテーマばかりに)なるんだろうと思ってしまう。作者はこのテーマで書きたかったんだろうけれど、もうさんざん書かれているわけだし、もう少し何とかならなかったのかなあ。あってもいい本だし、なければならないとは思うけれど、自分が読みたいかというと・・・。

アカシア:売れるか売れないか、という点だけで判断すると出せなくなってしまう本かも。ファミリー・サーガという見方もあるけど、サバイバル物として見ることもできる。そう考えると、アイルランドのことは日本の子はほとんど知らないからこそ、こういう本も出したほうがいいと思います。アイルランドに行ってみると、羊ばかり、ジャガイモばかりで、そこにケルトの遺跡などが散在している。飢饉になれば生きていくのは大変だったろうなあ、とアイルランドに行ってみて実感しました。いまや、イギリスやアメリカの本ばかり紹介していてもしょうがないという状況でもあるし、出せれば出したほうがいい。でも、海鳥の卵を取りに行くところの状況がわかりにくいのは事実ですね。

:情景描写が分かりにくいというのは翻訳の問題じゃないかしら。

アカシア:でも、私は全体がリアルでないとは思いませんでしたね。ジャガイモがどんどん腐るあたりの描写なんかは、この本を読んでリアルに理解できました。今までイメージできていなかった飢饉の状況がこれでわかった。

愁童:部分的な齟齬が気になるんですよ。よく書けているところ(たとえば男の子が手にけがしているのを押して、女の子の命綱を引き受けるというところなどは、信頼関係が良く書けている)があるのに、その直後に大事なところでいいかげんな書き方をされると、実にもったいないと思っちゃう。ジャガイモの腐れの描写もすごいと思いますよ。だからこそ、肝心のところが軽くなっているというのはまずいと思う。
(この後、ひとしきり海鳥の卵を取りに行く崖の場面の解析が続く。)

きょん:最初は、アイルランドとか時代ということをあまり意識せずに読みはじめてしまって、途中で分からなくなってしまったんです。それで、あとがきを読んでから、もう一度読みはじめたんですが、あちこち小さいこと(みなさんが指摘されたようなこと)が気になってなかなか作品に入り込めませんでした。3分の1くらいのところ、姉が結婚してアメリカに渡ったあたりからぐいぐい引き込まれて、あとは順調に読み進めました。私は歴史的な知識がまったくなかったので、裕さんがおっしゃったように、歴史の副読本のようにこの本で知識を得たという感じです。気になったのは、ノリーがよく歌をうたっているはずなのに、その描写が出てこないこと。だから、歌が生きてこないんですね。唯一p46では歌詞が出てきていますが、こういうふうにして受け継がれていったものが、どういう風に生きる支えになったのかが具体的に散りばめられていればよかったと思います。そこが物足りないしもったいない。じゃあどうして歌なの?と思ったら、たしかにアンナの知識を受け継ぐに必要な記憶力というふうにつながっているんだけれど、それだけじゃあもったいない。この訳者さんの選ぶ本は、テーマに強く引きつけられて読み進めることができるけれど、アイルランド語のこともそうですし、訳の細かいところは粗いと思います。

カーコ:ダッシュの使い方など、整理されるともっと読みやすいかも。

せいうち:原文で使っているからなんでしょうが、やっぱりうるさいですね。

きょん:セリフがしっくりこなかったりして、そういうのが多いのが気になります。

せいうち:日本語の姿をした英語なんですね。

きょん:アンナとノリーの関係が深まっていくのはいいし、未来に向かうエンディングもいいと思ったんです。悲惨な状況だから訳す必要がないということではないと思います。これもひとつの現実なんですから。ただ、アイルランドの悲惨な歴史やアメリカに向かった移民の気持ちはわかったけれど、領主の描写が一辺倒なのが気になりました。このあたりももっと多角的に書いたほうがよかった。

すあま:前書きで一言状況を説明してあればいいんですよ。そうすれば背景がわかるから。私の場合、読み取れたのはジャガイモ飢饉のことだけで、イギリスとアイルランドの関係まではわかりませんでした。裕さんがおっしゃるように、副読本や教材として、他の本と合わせて使うといいのかもしれない。

せいうち:訳文を読んでいると、気合いが入ってるなあと思うんですが、その割に、訳者後書きがないのは意外でした。自分で時代背景などの解説を書きそうな勢いを感じたんですが。

トチ:歴史的背景の解説はたしかに必要だと思うけれど、最初にあると物語世界にすっと入れないし、かといって最後に入れると物語自体が理解できないかもしれないし・・・難しいわよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


ホワイト・ピーク・ファーム

バーリー・ドハーティ『ホワイト・ピーク・ファーム』
『ホワイト・ピーク・ファーム』
バーリー・ドハーティ/著 斎藤倫子/訳
あすなろ書房
2002.12

トチ:ドハーティは大好きな作家だから、わくわくしながら読みました。登場人物がひとりひとり、くっきりと描けているし、人生の奥深さを感じさせる。訳者の斎藤さんは、とても優れた翻訳者ですね。ドハーティは詩集も何冊か出しているし、もともとの文章も美しいけれど、訳文もその美しさを損ねていない。

:『アンモナイトの谷』(バーリー・ドハティ著 中川千尋訳 新潮社 のちに『蛇の石 秘密の谷』に改題)もポイント高かったけれど、これもいいですね。「少女の気持ち」という視点から読みました。そういう意味では、成功してる。

むう:うまいなあ、と思いました。最初の、インドに行くといってホスピスに入るおばあちゃんのエピソードはへええ、と、どんでん返しに感心してしまった。おばあちゃんの元気の良さもいいし。とてもきれいな訳文ですしね。全体の印象としては、すごく強烈に何か動くとかひとつのドラマをぐっと掘り下げるというのではなく、穏やかで抑えた感じでした。この女の子の成長物語というよりは、家族というか、ひとつの農場が否応なく変わっていく歴史を書いた作品なんだろうと思いました。

すあま:印象としては、連作短編集という感じ。特に最初の話がインパクトがあります。短い中で、ストンと落ちて終わる。児童文学として出ているけれど、大人の短編集という感じがしました。読んでいて思い出したのは、モンゴメリの『赤毛のアン』シリーズにある短編集(『アンをめぐる人々』など)です。ただ、この表紙の絵は、物語から受ける印象と違ってちょっと子どもっぽいような気がします。

トチ:でも、この表紙なら小学生も手にとるかもしれない。読書力のある小学生だったら読めるかもしれない。

愁童:いい本ですね。でも、この手の本はたくさんあって、新しい感動はなかった。これを今子どもたちに渡そうとする側の思いはなんだろう。ただ今回の3冊の中でこれがいちばん好きです。本を読んだという感動がありますからね。はっきりとした実在感を与えてくれる本で、説得力もありました。

ケロ:16歳くらいの女の子が主人公です。人間の根っこになるようなものを訴えかけている作品だと感じました。家族というのは、時を経るとともに変わっていくものです。今が絶望的でも、未来永劫その状態が続くわけではない。読者となる思春期の子は、今が変わらないかのように思いつめて絶望してしまう傾向があると思うけど、家族のそれぞれが成長しながらその関係も時とともに変わっていくものだということを、読者が感じてホッとできるといいなあ。最初の章の祖母ですけど、みんなが演じていたお芝居だったというのが、ちょっとしっくりきませんでした。どこでみんなが知ったのか? お芝居をする必要があるのか?「インドへ行く」といったとき、カッコいいじゃんと思ったのに・・・。また、「復活祭の嵐」の章で、お父さんとお母さんが踊るシーンですが、それを見た主人公にとっては裏切りのような複雑な気持ちになるのかも知れないけど、以降の父母の仲へつながる重要なシーンだと思いました。

アカシア:2回読んだんです。最初読んだときはとってもいいなと思ったんだけど、2回目読んだら情緒的に流れるところが目についてしまって、どうなのか、と考えてしまいました。インドへ行くと言ってホスピスに入るおばあちゃんですけど、家族の者たちはそれがわかっているのに、その後おばあちゃんの存在は忘れられてしまう。それに家族観が古いのも、ちょっと気になりました。みんながお父さんに気兼ねしてて、崩れかけた家父長制をどう支えていくか、みたいなところもある。ドハーティなので当然文章はうまいし、翻訳もうまい。「このホワイト・ピーク・ファームはいつだって、あなたの帰ってくる場所よ」という最後のしめくくりも泣かせる。うーん、だけどね。

すあま:私も、さっきモンゴメリを例に出したのは、同じような時代の話なのかと思っていたからです。

トチ:私は、もともと家族って理屈じゃ割り切れない、ぐじゃぐじゃで、どうしようもないものだと思ってるから、違和感はなかったわ。でも、課題図書になっているって聞いて「えっ、どうして?」と思った。この本を子どもに読ませて、どういう感想を期待しているのか、選んだ大人たちのおなかの中が見えるような気がして、白けちゃう。

:ノスタルジーの物語ですね。

カーコ:私はいいお話だと思いました。等身大の主人公の女の子が、迷いながら、自分の道をさがしていく話なので、中・高校生の読者がすっと入っていけそう。人物が多面的に、一つの型にはめこまずに描かれていて魅力的でした。文学として質の高いこういう作品が、課題図書として読まれるのはいいことでは? 主人公の家族が古典的なので、その辺をみなさんはどう読まれるかなあと思っていたのですが。現代の日本のリアリズム作品って、大人も子どもといっしょになっておろおろしていたり、気分ばかりが重視されるようなものが多いから、こういう一見あたりまえの家族の機微を描きこんだ作品は安定感があっていいなあ、と私は思いました。

きょん:ずいぶん前におもしろくさらっと読みました。おもしろく読めるけれど、あとに残らない。お話としては質がいいけど、インパクトは弱い。『若草物語』(オルコット著)とか、『大草原の小さな家』(ローラ・インガルス・ワイルダー著)とかは、一人一人家族が描かれているけれど、インパクトは弱くない。どうしてかなと思いました。

せいうち:途中までしか読んでいないのですが。非常にいい小説だと思います。小説としてちゃんとしたものを久しぶりに読んだなあと。すごく感じたのは、家族のことを描いているのだけれど、複数の人間がいると何かが思い通りにいかないということ。おばあちゃんが、いったん大学に行って、やむを得ず戻ってきたことを、一切口にしなかった、というところで、非常に無念だった思いが伝わってきましたね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


バドの扉がひらくとき

クリストファー・ポール・カーティス『バドの扉がひらくとき』
『バドの扉がひらくとき』
クリストファー・ポール・カーティス/作 前沢明枝/訳
徳間書店
2003.03

トチ:ニューベリー賞をとったときから、おもしろそうな本だなと思っていました。『穴』(ルイス・サッカー作 幸田敦子訳 講談社)や『シカゴより怖い町』(リチャード・ペック作 斎藤倫子訳 東京創元社)と同じような、ストーリーと歯切れのよい文章で読ませる本。トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンのころから脈々と続いている、アメリカ文学の伝統のようなものを感じました。深刻な内容なのに、ほら話のノリで、読者をじめじめさせない。いまのアメリカの児童文学は元気がいいと思います。「バドというのは、つぼみという意味なのよ」と主人公の母親が語るところで、ジーンときました。

カーコ:とても楽しく読みました。まず、どこまでも子どもの視点で書かれていることが目をひきました。「バドの知恵」で、大人の世界のたてまえと本音をユーモラスに指摘しているのもおもしろかった。それから、大人の人物がとても魅力的ですよね。バドを車に乗せてくれるおじさんもすてきだし、ジャズバンドの人たちもいい。訳も、歯切れがよくてよかった。作品のおもしろさを、よく引き出していると思いました。

ケロ:『穴』に似てたんですね。鉛筆を鼻につっこまれたり、蜂にさされたり、辛い状況にいるのだけれど、運を自分の味方につけちゃう。励ましてもらえる。どんどん辛いまま落ちこんでいく作品もあるけれど、こういうふうに元気づけられるのもいい。

:施設からいろんな家に送られたりすると、「バドの知恵」というようなのが身に付くようになるんですね。おもしろかった。

ブラックペッパー:私はあまりのれなかった。10歳というのはどういう年齢なんだろうとか思ってしまった。自分突っ込み型の一人よがり。『はいけい女王様 弟を助けてください』(モーリス・グライツマン作 唐沢則幸訳 徳間書店)のときと同じように、のれなかった。6歳で母親は死んでしまったのに、こんなにおぼえているのも不思議でした。

きょん:私はすっきりとおもしろく読めた。「バドの楽しく生きる知恵」は、サイコーだと思う。うまくごまかしながら、適当に合わせて、でも自分の価値観やプライドを失わずに、自分なりにユーモアで大波をのりこえていく。マーク・トウェインの『ハックルベリーフィン』と似てるといわれて、そうだな、と思った。そういうのがアメリカンスタイルなのですか? また、バドが、純粋に誠実に生きている姿は好感が持てます。全体に流れる「臨機応変に困難を乗り越え、まわりの人々ともうまくやりながら、大波を乗り越えて生きる」という思想にとてもひかれました。今の子どもたちには、いいメッセージだなあと思って。どこにいても、「潔癖にいい子」を求められて、過剰に干渉され、管理されているのが今の子どもたち。そんな子どもたちも、「適当に」「臨機応変に」でも「誠実に」生きていってほしいというメッセージが感じられますね。でも、「ママの持っていたチラシから、バンドマンがおとうさんだと確信して、遠路旅に出る」ところとか「バンドマンがおじいちゃんだったところ」「家出した娘を思って悲嘆にくれるおじいちゃん」などは、ちょっと安易だなあと思いました。その後、ハーマンがどうなったのかもちょっと気になりました。

ねむりねずみ:魚の頭と出くわすところなんか、かなり大げさに書いているんだけれど、それがいかにも子どもの早とちりのドタバタらしくていい。いろいろ苦労していて、それなりに抜け目がなかったりたくましかったりするのに、それでいて純情だったり言葉づかいがていねいだったりと、この主人公の作り方がおもしろいですね。ぎっちょさんとのやりとりで、労働組合のことを知って危ないところに近寄るまいとなんとか逃げようとがんばるあたりも、リアリティがあります。人がよくしてくれると、うまくそれに乗っていつもその場に居場所を確保する。とてもじょうずにその場にとけこむのに、その一方で決してかばんを手放さずいつも放り出されることを覚悟しているあたりも、主人公の苦労がしのばれます。だから、最後にかばんの中身を広げるところで、ぐっと胸に迫るものがあるんですね。同じ作家の『ワトソン一家に天使がやってくるとき』(唐沢則幸訳 くもん出版)も読んだけれど、たいへんなことをおもしろく書いてしまう人だなあと、好感を持ちました。作者のあとがきでモデルがあると知ってびっくり。大変な時代のリアルなモデルを土台にして、明るい雰囲気のフィクションを作り上げたところにひたすら感心しました。

アカシア:『ワトソン一家〜』は英語で読んで、新しい作家だと感じました。文体がとても軽快でユーモアたっぷりなのだけど、歴史とか家族とか人種などのこともまじめに考えているのがわかる。アフリカ系アメリカ人の作家ですけど、差別とか抑圧を声高に言ったりはしない。『ワトソン一家〜』では、黒人の教会が爆破される事件が登場しますけど、エピソードとして出していて、糾弾したりはしない。この作家は、むしろ誰もがかかえる日常を書いていくのだけれど、文体のリズムだとか、生活の描写に、アフリカンアメリカンらしさが強く出ています。それに、この作家は、しかつめらしい顔をして書くのじゃなくて、自分も笑いながら書いているんじゃないかってところがありますね。こういう作品は、ユーモアにしても文体のリズムにしても、翻訳でその雰囲気を出すのは難しいですよね。この日本語訳も、最初だけ重いなあと思いましたが、だんだんに軽くなって読みやすくなりました。

ペガサス:久しぶりに、子どもらしい楽しい本を読んだなあと感じました。子どもらしい感覚をもとにした記述が随所にあるところがいいですね。p102の4行目、ママが持っていたチラシが気になってどうしようもなくなるというのを、カエデの大木にたとえているが、どのくらい高い大木になっていくかを子どもらしい表現で書いています。p154の後ろから4行目、お父さんに会いに行って、いよいよ扉をあけたと思ったら、「なんだ、中にまた扉がある」なんて、とてもユーモラス。そういうところも楽しかった。最後は、単におじいちゃんとバドの感動の対面という形で終わるらせるのではなく、素敵なバンドの仲間たちに一人前に扱ってもらって、仲間にしてもらうという形にしたのがよかったです。このように扱われるのは子どもにとってとても満足のいくことだし、読者には、ここで終わりではなく、この子のこれからの人生までが目の前にぱーっと見えてくる感じがします。訳は、名前で「ネボスケ・ラ・ホーネ」とか、うまく日本語にしているなと思いました。

愁童:すごく微妙な感じ。いいお話だなと思う反面、「ユーモア」って感じはぜんぜんしなかった。苛酷な環境を生きてきたということが、どんな場面でもきちんと読者に感じられるように書かれているのは、すごいなって思った。最後、いい大人ばかり出てきて、調子いいなって感じもあるけど、そこに到るまでのパドの描写に説得力があるので、素直にほっとしちゃうね。ほっとして読み終われる本て、今、必要なのかもな、って思いました。

トチ:孤児院にいても、プライドを失わない主人公の生き方とか、歴史的な背景は知らなくても、日本の子どもにじゅうぶん伝わるところがあるのでは?

愁童:一人称で書かれているのに、客観描写のようにジャズマンや運転手の人物像がはっきりとイメージ出来る。うまいなって思いました。

アカシア:アフリカ系の作家だと、ミルドレッド・テーラーが『とどろく雷よ、私の叫びをきけ』(小野和子訳 評論社)のシリーズで、同じ時代を舞台にしてますよね。そっちは深刻な差別を、まなじりを決してえぐり出すように書いています。でも、カーティスは若い世代ということもあって、差別は随所の記述から推し量れるけど、それを正面から糾弾するわけではない。原文はもっとユーモアがあるのかも。でも、同じ質のユーモアを日本語で表現するのは無理ですよね。

すあま:気持ちよく読めたし、読んでいて楽しかった。安心して終わるしね。「何かが閉じても新しい扉が開く」と信じて進んでいくから、ロードムービーのように、どこに行きつくかなと思いながら読み進めていきました。現代の本だと、大人も不安定で自信がなく描かれていますが、時代が前のものだと、大人がしっかりしていて、子どもたちにきちっと接しています。バンドの人たちの子どもとの距離感がいいですね。最後は、うまくいきすぎかもしれないけれど、謎解きのようになっていて、すっきりとして読み終えられました。装丁の絵もいいな。

(2003年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


父のようにはなりたくない

阿部夏丸『父のようにはなりたくない』
『父のようにはなりたくない』
阿部夏丸/作
ブロンズ新社
2002.06

トチ:子どもの本かな、大人の本かなと首をかしげながら読んでいたのですが、後書きをみて納得。子どもと親の両方が対象だったんですね。対象にあわせてうまく書くという、職人技のようなものは感じたけれど、内容はねえ・・・作者の言いたいことがまず先にあるようで、物語よりもエッセイにしたほうが良かったのでは。それと、なんでこんなにつまらない母親ばかり書くのかしら。ナイフを子どもに持たせるとキャアキャア騒いだり。それに、周囲にはいろいろな事件が起こっても主人公の家庭にはさほど影響がないという物語の展開も、フェアではないような気がしました。だから、エッセイみたいな感じがするのかも。

ケロ:私はちょっとだめでした。軽いという意味では、「バド」と似ているかもしれないけど、一緒にしないでって感じ。父親は釣りからいろんな人生訓を学んじゃって、息子に教えたがるんだろうな。その言いたいことが地で出てる感じ。浅田次郎みたいだけど、そこまでいってない。ちょっといいシーンもあるんだけどね。子どもは、「うちも、こんなこと、あるある」みたいに読むのでしょうか。

:みなさんおっしゃったとおり。タイトルと表紙で期待して、いいところを探そうとしたんですけど、お父さんが出てきて「これかよ!」と、がっかり。お母さんは、みんな同じふうで。

:私も、これは困ったな、と思いましたね。タイトルは普遍的な命題なのに、この本の中のどの話にも問題提起がない。なぜかというと、一つ一つの家族にリアリティがない。大人の側の言い訳と押しつけがある。小説なら小説を世界をきっちり構築しなければならないのに、言い訳が勝っている。同じ世代のお父さんたちを代弁しているんでしょうね。気弱というか、意地もなく、言葉も持たないお父さんたちね。

きょん:同じ作者の『ライギョのきゅうしょく』(講談社)や『見えない敵』(ブロンズ新社)がなかなかよかったので、今回この作品を読んでみようと思いました。まじめな作家なんだと思うけど、お父さんのエッセイみたいな内容でしたね。

ねむりねずみ:みなさんのおっしゃったとおり。読んでいて、前にこの会で取り上げられた『ハッピーバースデー』(青木和雄作 金の星社)を思い出しました。著者のメッセージがベタでぶわーっと出ている。作品世界になっていないし、フィクションになっていない。こんな事が言いたいんだろうなあというのが見え見え。作品を書く動機はとてもいいのだけれど、ちゃんとした作品世界を作り上げられなければ、せっかくの善意も空回りになってしまうのでは?「泣き虫のままでいい」だけがお母さんの立場なんだけど、それだからといってたいした工夫があるとは感じられませんでした。

ペガサス:これは1編だけしか読んでいないんですが、ほかの2冊が構成などとても工夫されていて、新しい児童文学だという気がしていたのに、これはなんの工夫もない。この第一話の父と息子の会話からして、こんなこと言うかしらと思いました。

愁童:少し前なら、「こんな甘いお話!」って切り捨ててしまったかもしれないけど、まわりを見ると、この本読ませたい親がいっぱいいるんだよね。短編の作り方としてはうまい。ちょっと読み手の虚をついておいて、最後ぽんと落とす。説得力あると、ぼくは思うけどな。野球の話の、コーチと子ども達の関係なんか、いいとこついてると思う。

きょん:野球の試合で、三振しても「ドンマイ」「がんばったね」っていうのが、今の子どもたちを取り巻く現状だけれど、やっぱり試合には勝たなければ意味はないし・・・とか、メッセージには共感をおぼえました。言ってることは、とってもシンプルでわかりやすい。そこのところが優等生的なんだと思います。

(2003年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


うそつき

マロリー・ブラックマン『うそつき』
『うそつき』
マロリー・ブラックマン/作 冨永星/訳
ポプラ社
2002.12

トチ:おもしろく読みました。ジェンマとマイクが交互に出てくる構成がうまいし、坂道をころげおちていくようなスリリングな展開が楽しめる。ただ、どんな風にまとめるのか、読んでいる最中から気になっていましたが、結末がちょっと苦しい感じがしました。この本でいちばん迫力があって、光っているのは冒頭の部分ね。バドといい、この本といい、子どもの本の翻訳者はいい仕事をしていると思う。

カーコ:最近英米で賞をとるものは、たいがい構成がしっかりしているというか、どこか「おっ」と思わせるような構成の工夫があると常日ごろ感じているのですけど、これも、しっかりとした構成がある作品。2人の主人公が、どんどん追いつめられていく感じがうまく出ていておもしろかったですね。

ケロ:追いつめられていく側や追いつめる側を一方的に書いているものはよくあるけれど、これは両側から、ある一つの言葉がどうして出てきたかまでが書かれていますね。バドと対照的で、マイクっていうのがどういう子なのか、最初はつかみにくかった。お母さんと子どもとの関係が、オーバーラップしながら見えてきます。母親から捨てられたんではないかとか、母親から離れるという体験は今は多いから、読者が自分にひきよせて読めるかな。

:今回のテーマは男の子の気持ちでしたよね。マイクに感情移入して読みました。「ありがたいって思ってるんだろうな」とおじいちゃんに言われるシーンでは、どんなに傷ついたかと思って、読んでいてズキリときました。大人にとってちょっとした誤解でも、子どもにとっては全世界になってしまうんですね。いろんな現象があって、子どもがかかえている問題の重さはなかなかはかれない。カバー袖に「互いに好感を持ちながらも」とあるけど、この子たちはどこでひかれあったのか疑問でした。マイクもジェンマにひかれてたんですか?

ブラックペッパー:私はジェンマにひかれた。たくさんのお母さんの記事をスクラップをするところから、ひかれて。構成が細切れなので、途切れたところでどうなってしまうのかと心配になってしまう。みんなたいへんで、痛々しい。最後、ジェンマがみんなに告白するところは、ちょっと人間が変わりすぎかなと思ったし、マイクのおじいちゃんが最初すごいことを言っていたのに、どの辺からこんないいおじいさんになったのかと疑問に思いました。

ペガサス:マイクの側から書いているからじゃない? マイクの心の動きで、変わって見えてきている。

愁童:老人夫婦はとてもうまく書けていると思う。マイクに対して、きついことを言ったりするおじいさんの後で、おばあさんがマイクをやさしくフォローしたりして、長年連れ添った老夫婦が、ごく自然に書かれているね。

すあま:急いで読んでしまったのですが、お母さんを失った男の子と女の子の話で、それぞれに傷の深さは違います。特に、ジェンマはぼろぼろという感じで始まって、その後お互いに傷つけあうのがなまなましくて、読んでいて辛かったです。最後のハッピーエンドを求めて読んでいくという感じでした。楽しい本ではないから、好き嫌いはあるでしょうね。最後、ジェンマの解決が簡単すぎると思ったけど、傷ついている子どもが、ちょっとしたことで立ち直ることもあるので、安易とも言いきれないですね。二人の両方の立場で書かれているので、場面がぱっぱっと切り替わる感じがよかったです。

:この本は、大人の小説でも扱えるくらいテーマがありますね。大人の本だともっと書き込めるだろうけど、子どもの本だから難しかったんでしょう。大人の本だと、言葉に限定して表現できないことは、メタファーを使って表現する手法を使えますが、子どもの作品だとそれが難しい。作者は、構成が見えて書いているから、途中、加減をしながらほのめかしていく。両方の側から見ていけば読者は受け入れられるけれど、マイクの立場だけで見ていくと、ジェンマにされていることは理不尽。えぐいですよね。不自然なところが出てくる。チャレンジングな作品だけれど、そういうところに疑問が残りますね。

きょん:いじめる側といじめられる側の心理が描かれていて、対話のように交互に入っていく構成がおもしろかった。早く解決を見たくて読み進みました。マイクとジェンマの心のすれ違いが、なんともいえずイライラしました。子どもの心の描写、移り変わりが、しつこいくらい細かく書かれています。ジェンマの心のゆがみは、あまりにひどくて救いようがないし、こんな子っているのかもしれないけど、あまり好きになれませんでした。ジェンマは、マイクを脅迫したある日、「誰のせいでもない自分のせいなんだ」って気づきますが、何が自分のせいなのかがはっきりしてこないのが気になります。また、子どもの気持ちと、ちょっとずれがあると思いました。高学年の子なのに、お母さんの手紙を読んだときお母さんは会いたくないと思っていると考えてしまうところとか。ジェンマとマイクの関係が深みにはまっていく姿は、説得力があって、すごくいやでした。最後、川のほとりで話すとき、「お互いが安全弁になってくれた」というのは、すっきりきませんでした。また、ジェンマは「自分のせい」だから、自分を変えようと行動するけど、最後にあまりにもガラッと積極的に変わりすぎるので、それもどうなんだろう、と・・・。

アカシア:ちょっと前に読んだので、細かいことを忘れてしまっているのですが、翻訳は会話のところが特に、いきいきしていていいなと思いました。でも、作品の中で作者の視点がずれるんじゃないかな。おじいちゃんが嫌みを言って、その後いいおじいちゃんに変わるように取れるというところも、このおじいちゃんが最初にどうしてこんな言い方をしたのか、作者はきちんと考えているのかどうか気になります。考えているのなら、ちゃんと書いておいたほうが読者も納得します。山場の、マイクがジェンマにそそのかされて盗みを犯すところも、ジェンマは自分の心の内を探っているだけで、マイクに対してはどう思ったのかきちんと描かれていません。母親が祖父にあてた手紙をマイクが読んでしまったところも、手紙そのものは誤解される余地なく愛情あふれるものとして書いているのに、読んだマイクの方は「会いたくないんだから、ぼくを責めてるんだ」と思ってしまう。母親の手紙がどちらにもとれるようなものであれば、マイクの誤解もわかりますが、そうでないので読者はとまどうでしょうね。ジェンマとマイクの関係も、ひかれあうというなら、もう少し読者に納得できるようにそこも書き込んでほしいと思いました。

ペガサス:構成がすごい。ちょっとずつちょっとずつしかわからないから、どんどん先を読みたくなります。ただ、2人がとことんすれ違って、とことん傷つけあうところはひじょうにうまく書けているのに比べて、回復していくところが弱いかも。だから、これほどまで痛めつけられたマイクが、最後にジェンマとここまで急に好意的に話ができるというのはどうかと思っちゃう。話なんてしたくもないだろうと思うのに。またp165で、ジェンマがガラスに映る自分の顔を見て、急に、こうなったのは自分のせいだと気づくところは唐突に感じました。書名の『うそつき』というのは、ジェンマがマイクに言っていることなんでしょうか? 途中でわからなくなりました。ジェンマが、クラスの子の前でマイクをかばうために勇気をもって発言しますが、自分がゆすっていたことは言わなかったし、本当のことを言っていないのですっきりしません。ジェンマもうそつきなわけだから、書名の意味は両方のこと?

愁童:父親もうそをつき、母親もうそをつき、みんながうそをついている中で四苦八苦し、結果として自分たちもうそをつかざるを得ないところへ追い込まれる子ども達の真実を書きたくて『うそつき』という題名になったのでは? ジェンマとマイクを交互に書いているから、女性はマイクに肩入れし、男性はジェンマに肩入れする傾向があるかな?

複数:男性だからどっち、女性だからどっちとは言えないのでは。

アカシア:終わり方はどう?

愁童:何も解決はしていないよね。でもそれでいいんだと思う。

ペガサス:どちらかに肩入れするというより、どちらも読んでいくところにおもしろさがある。

ウェンディ:マイクが、父親を殺したのは自分だということを隠している(したがって読者にも明かされない)とわかった時点で、マイクの気持ちや言動をふりかえると、しっくりしません。それに、ラストで2人があそこまであっけなく考え方や行動を改められる点も、みなさんがおっしゃるように、できすぎのようにも思います。けれど、ふとしたすれ違いが積もり積もって、思いもよらない事態に発展してしまったり、逆に、ひょんなことがきっかけでわだかまりが解けたりとなんていうことは、現実には意外とあるのかもしれませんね。それにしても、結末を知ってから読み返しても、2人がどんどんすれ違っていってしまうあたり、もどかしくてたまらなかったんです。でも、いろいろ粗削りのところはあるけれど、一人一人の心の動きみたいなものをここまで丁寧にリアルに書けていて、書ける作家だなあ、価値のある作品だなあと思いました。

ねむりねずみ:特に中学ではいじめは日常茶飯事で、学校では一番の問題なんだけど、いじめを扱うのは非常に難しくて、児童文学でいじめを正面から扱って成功しているものにはほとんどお目にかかったことがありません。いじめの本質をついていなかったり、単なる舞台背景になっていることが多くて。実際のいじめでは、半分は自分自身の思いこみから子どもが勝手に追いつめられ、極端な行動に走ることで状況が突然悪化するというケースが多いわけだけど、この作品はそのあたりがよく描けていると思いました。いじめる側からといじめられる側からの二つの視線が平行して進んでいくことで、両者のすれ違いがはっきり見えるのは、着想の勝利だと思います。結末も、実は何も解決していないというところがリアルじゃないですか。ひょっとしたら、ジェンマは自分の行動を変えようとがんばりすぎて破綻するのかもしれないけど、ジェンマが何とかしようと思ったという一点が救いになって、読後感が暗くならずにすんでいます。細かく見ていくといろいろと不自然なところもありますが、正面からいじめを取り上げつつ、暗いままで終わらせず、リアリティを保っているところは評価できるんじゃないかな。

(2003年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ〜友だちになれる亀の飼い方

中村陽吉文 アトリエ・モレリ絵『カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ』
『カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ〜友だちになれる亀の飼い方』
中村陽吉/文 アトリエ・モレリ/絵
講談社
2002.12

カーコ:カメを飼っている子や、カメを飼おうと思っている子が喜んで読みそうな本だと思いました。へえーと思うことがたくさんありました。でも、すっきりとした絵が入っていてとっつきやすい一方で、全体に漢字が多いのが気になりました。

ブラックペッパー:私、カメって、甲羅の中のことを考えるといやだったの。図書館から借りてきて、しばらく読まずにいたんだけど、おもいきって読んだらおもしろかった。カメと友だちになれるよという姿勢がよかった。笑ったところは、「煮えてしまう」ところ。これを読んだ子は買いたくなるだろうなと思った。ただ、タイトルはいいのか悪いのか。ほかに思いつかないからいいのかな。

愁童:今、カメを飼っている子って多いですよね。これ1冊あれば、カメ飼育のエキスパートになれるというような本だと思いました。

ペガサス:同じ著者が大人向きに以前書いた『呼べば来る亀』(誠信書房)もおもしろかった。この人のほのぼの路線が出てる。こちらは、カメを飼おうとしている子どもに読ませる本として作られている。この人とカメの付き合い方みたいなのが、本文に書かれて、下段には豆知識が書かれている。子ども向けに書いている作家ではないから、編集の人が手を入れているんだろうけど、「和室」なんて言葉の注釈もある。親切な編集の人だなあと思いました。この先生って、自分ではそうは思っていないだろうけれど、ユーモラスなところがある人。51ページのコメント「知らないカメの鼻は、押さないようにしましょう」なんていうのも、おもしろい。このあいだ、あるタレントがカメを数匹飼っているが見分けはつかないと言っていたけど、この本を読むと、こんなに親密につきあえることがわかって興味深かった。カメが人間を見分けるというのも意外だったし、まちがえて他人のところに行っちゃうと恥ずかしそうな顔をするというのも、おもしろかった。

アカシア:私は前にカメを飼っていたことがあるんですけど、その頃この本を読んでいればもっとうまく飼えたのにって思いました。でも、どのカメも犬みたいに馴れるっていうわけじゃなくて、この「カメちゃん」っていうのが特別なのよね。「ガマちゃん」と「シンちゃん」は「カメちゃん」ほど馴れなくて、それでも一生懸命やっているこの先生がほほえましい。近所のカメがいっぱいいる池から一匹もらってきたくなりましたね。ただ、冬眠用の水槽の用意のしかたがちょっとわかりにくかった。落ち葉と水を入れると最初にあるけど、「あたたかいベッド」って書いてあるし、27ページには「落ち葉の中から」って書いてある。水は途中で蒸発してなくなるの? カメの観察記録なんだけど、書き方はおもしろかった。「ときどきシンちゃんが、ガマちゃんの前に出て、鼻を押しつける。まるで『姫、しばしおとどまりを。』と、家来が言っても、『そちはうるさいのう、わらわは先に行くぞえ。』というように、ガマちゃんはドンドン行ってしまう。」なんていうの。

ブラックペッパー:この冬眠用水槽の「水を同じくらい入れ」って、何と同じくらいなんでしょうね。落ち葉と同じくらいということ?

アカシア:カメ飼育の実用書として見ると、絵に出てくる敷居とカメの大きさの比率がページによって違ったりもして、??と思ってしまう。

紙魚:私は動物のなかでも、カメはかなり上位に入るほど好きなんです。だから期待して読みました。動物もののおもしろさって、もちろん作者のその動物に対する愛情の度合いとかもあるのだけど、やっぱり生態がきちっと興味深く書かれていることが、私にとっては大切なんですね。この本は、カメを飼う人のための本なのか、カメに興味をもたせるための本なのか、焦点にちょっと揺れがあるように思いました。ただ、作者の人柄や、カメの気持ちの読み取り方がおもしろいので、楽しく読みきってしまいます。あと、イラストレーションがちょっとわかりにくいところがありました。カメちゃん、ガマちゃん、シンちゃんの顔のちがいとかって、もっとちゃんと見たいし、75・99ページのイラストなどはわかりにくかったです。

アカシア:この本はノンフィクションというよりは、読み物なんでしょうか。

すあま:『呼べば来る亀』は、大人向けで、大の大人の心理学者がカメを飼うっていうおもしろい本だった。こっちも、カメの飼い方の本というよりは、ノンフィクションの読み物にすればよかったのかも。

:うちの近所に、リクガメを散歩させてる人がいるのよ。『どろぼうの神さま』(コルネーリア・フンケ著 細井直子訳 WAVE出版)にも、くしゃみするカメが出てるじゃない。あれって、本当だったのね。生きものを飼う人って、こんな気持ちで飼うんだなということがわかりました。

カーコ:これはノウハウの本じゃないんじゃないかしら。これを読んだだけでは、カメを飼うのは難しそう。私も小学生のときミドリガメを飼ったことがあるんですけど、世話がすごくたいへんだったの。掃除をさぼるとすぐ臭くなるし、病気にもなるし。でも、この本からは苦労は伝わってこない。実際には、なかなかこんなにおおらかには飼えませんよね。おふとんをよごされたなんて、さらっと書いてあるけれど。

:カメってもっと獰猛じゃなかったっけ。かつて、うちのベランダに上の階からカメが落ちてきたことがあるんだけど、けっこう獰猛でしたよ。

(2003年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館

ヨースタイン・ゴルデル『ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館』
『ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館』
ヨースタイン・ゴルデル&クラウス・ハ−ゲルップ/作 猪苗代英徳/訳
NHK出版
2002.11

すあま:おもしろく読めたので読み物といえば読み物だけど、教育目的で作られた本でもありますよね。現実の本づくりともシンクロしてる。ただ、ビッビさんは、怪しい存在だったのが、実はいいお姉さんだったのも気になるし、最後の種明かしもなーんだという感じ。図書館の分類でも、日本には日本十進分類法というのがあって、この本に出てくるデューイ分類法とはちがうのよね。その辺の説明が、日本の子どもたち向けにほしかったと思いました。最後にわざわざ日本の読者に向けて加筆してるんだから、そのことにもふれてほしかった。

ペガサス:ノルウェーの6年生に配る本としてはよく考えられているなあとは思うけど、日本の子どもたちが読むにはどうかな。手紙のやりとりで構成するところは工夫されているけど、文面があまりにも饒舌な感じで、こんなこと書くかなあ、と思うところも多かった。最初は不思議な要素をとりこんでいるので、どんどん次を読みたくなるんだけど、ビッビがあまりにも良い人になっちゃうのは物足りないし、最後に自分でべらべらしゃべってしまうのもね。翻訳では、図書館の目録のところを、カード式索引と書いてあるんだけど、それは、カード式目録とかカード目録といったほうがいいんじゃないかな。203ページの「システム分類がされていない」というのは、よくわからない。分類法が整っていない、ということか?

アカシア:これはノンフィクションじゃなくて、教育的ファンタジーっていうやつかな。ノルウェーの子どもだったらおもしろいかもしれないけど、日本だと、図書館もコンピューター化されているところが多いし、レターブックのやりとりも、今ならメールでしょうね。なじみがなさすぎて、日本の子どもはなかなか入っていけないんじゃないかな。それに、ファンタジー物語としては、あんまりおもしろくない。図書館の仕組みを知るにはいいのかもしれないけど、それにしてもこんなに長々と読まされなくちゃいけないのかという感じ。挿絵に不思議な雰囲気があって、それに引っぱられて最後まで読めましたけど。NHK出版は、『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル著 池田香代子訳 NHK出版)を契約するとき、ヨースタイン・ゴルデルの本を全部契約しちゃって、出さなきゃいけないのかな。

紙魚:先日ある講座で、スプートニクショック後、アメリカが科学技術教育に力を入れるために、何冊かの本を子どもたちのために選定したという話を聞いたんですけど、その本というのは、3歳児向けがルース・クラウスの『はなをくんくん』(邦訳は福音館書店)、4歳児向けがエッツの『わたしとあそんで』(邦訳は福音館書店)だったというんですね。日本であれば、直球の科学絵本が選ばれそうだと思いませんか。これは、図書館学の本だけど、もし日本でそれを学ばせたいと思ったら、いきなり十進分類法が入ると思うんですね。だから、ここまでまわり道をしながら図書館の全貌をつかんでいこうとする姿勢には、どこか豊かなものを感じました。でも、ちょっとこれはまわり道しすぎです。結局、物語としての広がりが感じられないので、おもしろく読めなくて残念でした。

カーコ:本についての本を書いてくれるように依頼されて書いたとあったので、そう思いながら読んだんですね。ミステリー仕立てで読者をひっぱって、本の世界を紹介していこうというのが作者の意図なのでしょうけれど、私は、ミステリーのキーとなる「ビッビ・ボッケンの図書館」に魅力を感じられず、苦しいかなと思いました。気になったのは、主人公の二人の言葉遣い。12、3歳の子が書く手紙って、こんなふうかしら。とくに女の子の言葉遣いが、昔のお姉さんみたいで入りにくかった。原書で読むと、もっと軽い感じなのかも。それに、中でいろんな本が紹介されるわけだけれど、唐突さが目につきました。とくに、この子たちが、詩や戯曲まで話題にするというのは無理がないかしら。作為が見えて興をそがれました。それから、161ページのリンドグレンの本について語っている部分で、当の男の子が、こういう本は大人になってから読み返してもおもしろいだろうというようなことを言うのは、大人の視点じゃないかしら。260ページの「ぼくは、生まれてはじめて、本とはどういうものなのかを知った。本は、過去の人たちを生き返らせて、いま生きている人たちを永遠に生かす、小さな記号で満たされた魔法の世界なんだ。」ってところを読んだとき、これが作者の言いたかったことかな、と思いました。

アカシア:私はへそ曲がりだから、本に作者の「教えてやろう」とか「面白がらせてやろう」という作為が見えるのはいやなんですね。『はなをくんくん』とか『わたしとあそんで』には、そういう作為は見えませんよね。私がノルウェーの子どもでも、こういう「教えてやろう」式の本はいやだったかも。

(20031年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


エンデュアランス号大漂流

エリザベス・コーディー・キメル『エンデュアランス号大漂流』
『エンデュアランス号大漂流』
エリザベス・コーディー・キメル/作 千葉茂樹/訳
あすなろ書房
2000.10

紙魚:釘付けになったのは、写真です。どの写真も一枚一枚、非常に興味深かった。こういう物語って、私は細部が知りたくなります。だから、本文はちょっとあっさりしすぎているように感じました。食べ物がないといっても、どんな食べ物を食べていたか、味付けはどんな感じだったのかとか、どんな服を何枚着て、どんな状態になっていったかとか……。すでに回想録となってしまっているので、そういう細かいところが出てこないところ、それから最初の方に航路の図が出ていて、読み終わる前にどうなるかわかってしまうところが、ちょっと残念でした。でも、おもしろかった。写真を撮りつづけて、それをきちんと所持し保管していたことだけでも、本当にすごいと思います。

アカシア:私は、おもしろく読みました。漂流そのものよりも、失敗しつづけて家族を省みず、それでも探検がやめられないという、影の部分ももあるシャクルトンの人物像がおもしろかった。千葉さんの訳も読みやすかった。この時期、評論社からもエンデュアランス号についての本が出たわよね。どうしてそんなにシャクルトンが出てきたの?

ブラックペッパー:シャクルトンの映画が来たからだと思いますよ。

ペガサス:子ども向きの冒険物語で薦められるものは何かと考えた時、『ロビンソン・クルーソー』などの古典的冒険ものか、そうでなければ今はファンタジーになってしまうのよね。でもファンタジーの冒険と、現実の冒険とはちがう。だからといって、昔の冒険小説って、つまるところ強者が弱者を征服する話でしょ。そういうものを今の子どもたちにそのまま薦めていいものか、という思いがある。そうなると、今、子どもたちに現実の冒険として手渡せるのは、ノンフィクションなのかな、と思う。この本には本当にすごい冒険があって、魅力的な人物にも出会える。子どもが読めるこういうノンフィクションがもっと出てもいいと思う。

:去年の夏に息子が読書感想文を書かなくちゃいけないとき、親としてお薦めの本を選んだんだけど、その中にこれも入れておいたの。結局、息子は「教科書みたいでつまんないから」と言って読まなかったのね。どういうものがアピールしたかというと、チベットを旅する高僧の話(井上靖だったと思う)なのね。ヒューマンドキュメントなんですよ。いわゆる、ノンフィクションのドキュメントと歴史小説はどうちがうんだろう。たとえばサトクリフは、英雄のそばにいる人がどう生きたかを書いてるし、『ジョコンダ夫人の肖像』(E・L・カニグズバーグ作 松永ふみ子訳 岩波書店)のベアトリーチェなんかも面白いですよね。ノンフィクションであっても、物語性のあるなしに面白さの鍵があるのかなと思いました。

アカシア:歴史小説はフィクションよね。でも、この本はノンフィクション。ノンフィクションは事実しか書けないから、それなりの重みもあるのでは? 本当にこんなことがあったのだ、というのはやっぱり強いわよね。

カーコ:そうそう。沢木耕太郎が、ノンフィクションには実際に起こらなかったことはつけ加えられないって、どこかで書いていましたよね。

:塩野七生とかは、フィクションだものね。

アカシア:これが教科書的と思われたのは、レイアウトのせいじゃないかしら。ちょっと見では古くさい硬い感じがするけど、読んでみると最初の印象よりは、ずっとおもしろかった。

すあま:私はエンデュアランス号について知らなかったんですけど、食料に困ったりすることもなく、波がきても、奇跡的に助かって、と事実が淡々と述べられているので、そのまま淡々と読んでしまった。全員が生還するのはすごいことだし、実際に困っているんだけれど困った感じがあまり伝わってこない。そして、シャクルトン以外の人たちの見分けがつかなかった。もうちょっとエピソードで、ひっぱってほしかった。へたにイラストを入れないで写真だけにしたのはよかったと思います。冒頭、「南極大陸は」というよりは、「アーネスト・シャクルトンは」というように人物の紹介から始まっていれば、入りやすいかもしれない。

アカシア:私は淡々としているとは思わなかった。アウトドアが好きなせいもあるかもしれないけど、けっこうドラマティックだと思って読んだな。

すあま:自分が死んでも記録を残そうとしたのはすごいですよね。もうちょっと読みたいと思うところが、さらっと終わっているので、物足りなく感じたのかもしれない。ノンフィクションが好きという子には、いいよね。うまく紹介すれば、ちゃんと読まれる本だと思います。

ブラックペッパー:作為の反対側にあるんですよね。私はそれがいいと思いました。

ペガサス:ノンフィクションの場合は、自分の経験とか、これまでに読んできた本で、読者の受け取り方がちがうのよね。

ブラックペッパー:私は「人間って!」と思ったんですよね。シャクルトンのリーダーとしての人柄がいいと思ったんです。隊員がこの人についていけば助かるんだと信じていた、そこがいい。シャクルトンは、食べ物がなくなったときに隠していた食べ物をふるまうとか、たいへんなところは自分が引き受けるぞという精神にあふれていて、そこを読んでほしいんですよね。お話としては、はらはらどきどきを求める人には、だめだったかもしれないけど。

カーコ:おもしろかったです。我慢ができない読者なので、最後どうなるんだろうって、読み始めてすぐ、後のほうの写真などを見ちゃったんですけど。文章は、作者がわざとおさえて書いているという印象を受けました。びっくりさせるような書き方をしていない。ゲーム的なすばやい展開に慣れた人には、あっさりしているかもしれませんね。人生の不思議さ、自然と人間の不思議さを感じさせられました。嵐が突然やむところなんか、フィクションだったら、逆にリアリティがないって言われてしまうでしょう? でも、本当にあったこと。歴史の表舞台には出てこないけれど、すごい人がいるんですね。写真がすごくよかった。1914年から1916年でしょ、明治の終わりですよね。28人もの野郎どもが、こんなに長い間、閉鎖的な状況でサバイバルするなんて、すごいですよね。

ブラックペッパー:そうですよ。それなのに、お楽しみとかしながら、過ごしていくんですよね。

カーコ:時系列的な図がどこかに入っていても、よかったのかな。そのほうが、一年半という時が流れていたすごさが、もっと感じられたかも。人間ってこういうこともできるんだなって。

紙魚:楽器をとりに帰るところ、いいですよね。こんな極限の状態でも、人間って音楽を聞くんだって、じわりときました。

すあま:この本、ビジネスマンに売ってもいいんじゃない。雑誌『プレジデント』なんか読んでる人のために「家族に顧みられないあなたへ」とかの帯つけて。

ペガサス:「リーダーになるための条件」とか「この春部長になったあなたへ」とかね。失敗を極度に恐れる傾向があるから、失敗するということを言わずに「負け組を勝ち組にかえる」とか。そういう言葉に弱いんだから。

(2003年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ハッピーバースデー〜命かがやく瞬間

青木和夫『ハッピーバースデー』
『ハッピーバースデー〜命かがやく瞬間』
青木和雄/作 加藤美紀/画
金の星社
1997.01

もぷしー:じつは私、この本読むの3度目なんです。いいかげん飽きてもいい頃ですけど、こういう話は好きなんですね。心の問題を抱えている主人公あすかが、最後に元気になるという変化が植物のように無理なく書いてある。けっして劇的ではなく、ゆっくり変化していくのが、すごく好き。ただ、お決まりだなあと思うのは、最後の大団円。それから、何度読んでも、副題が邪魔に感じますね。古臭いです。

ペガサス:私はあまり好きじゃなかった。どの人のセリフも著者に言わされている感じでうそくさい。『葉っぱのフレディ』(レオ・バスカーリア著 童話屋)とか『一杯のかけそば』(栗良平著 角川書店)と同じようなものを感じてしまって。物語自体がうわすべりしていて、母親のことが言いたいのか、それともあすかのことが言いたいのか、はっきりしていないのもやっぱり評価できないな。今って、「泣ける本」みたいなのがもてはやされる風潮があるけど、そういう意図が見え見えで、反発を感じちゃった。

紙魚:私も好きになれない本です。道徳の教科書を読んでいるみたいで、アンダーラインがひかれて、ここで主人公はどう思ったのかなんて設問がうかんできそう。ただ、何が言いたいのかとてもわかりやすいので、というより、作者がそれをわざわざ言ってくるような本なので、きっと読者は読みやすいんだと思います。このところ、書店に並んでいる本が、これはこういう本ですって、帯やポップで、あらすじまで書いてあったりするんだけど、ひとつひとつ小さな扉をひらきながら読み進めていくような本が好きな私にとっては、もうちょっと読書の不思議を感じられる物語が読みたいな。

愁童:まあ読みやすいし、実際にこういうことってあるなとは思いながら読みました。『うそつき』(マロリー・ブラックマン作 冨永星訳 ポプラ社)と似た設定なんだけど、較べると、こっちはやっぱりカウンセラーが書いた本って感じ。それにしても、「おまえなんか生まれてこなければ……」と冒頭から書ける神経って、すごいね。

アカシア:私は、子どものころ、こういうタイプの本、けっこう読んでましたよ。その後いろいろな本を読んできて今読むと、なんだか困ってしまうのだけど。困るっていうのは、実体験に基づいているんだろうと思うから嘘っぽいとは言えないし切ないんだけど、作者がまじめに書いてる分、微妙な部分が逆に抜け落ちて紋切り型になってしまったりする。そうすると、文学とは言えないからね。

トチ:私は、最初から文学としては読まなかったわ。前に、関口宏の「本パラ」で紹介されていたのをテレビで見たけれど、そういうところからわっと火がついたのかしら。これは文学というより、カウンセラーとしての事例研究を読み物風にまとめたものね。どうしてここまで売れてるのか分からないけど。

もぷしー:読者にとっては、文学かということより、わかりやすいというところがいいんだと思います。相田みつをのストーリーバージョンという感じ。

ねむりねずみ:なんか読者に説明しすぎていて、それが一面的なので、作品としてつまらない。いかにもカウンセラー経験者が書きましたという感じ。精神分析の事例報告っていうのは、読みようによってはワイドショー的というのか、興味本位に半端なドラマを見るように読めるのだけれど、それに通じるところがあるように思う。作者の善意は認めるけれど……。最近、なんとなくすべてわかるようにしなくちゃだめという傾向を感じるのだけれど、なにかわからない部分もありつつ読み進め、何年も後になって、ああ、あれはこういうことだったんだ!というような読み方はできなくなっているのかな。もしそうなら、かなり深刻だと思う。

すあま:まあ、読書感想文を書きやすい、楽しくない本ですね。ユーモアのセンスがまるでない。いろんなことをつめこみすぎです。娘を愛せない母、というテーマでは、萩尾望都の『イグアナの娘』(小学館)というマンガを思い出しました。前半と後半は、シリーズの別の本にしてもよかったのかも。

紙魚:いやいや一冊にしてあるからこそ売れるんだと思います。すべて味わえるもの。

(2003年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


エルフギフト(上)復讐のちかい/エルフギフト(下)裏切りの剣

スーザン・プライス『エルフギフト』
『エルフギフト(上)復讐のちかい/エルフギフト(下)裏切りの剣』
スーザン・プライス/作 金原瑞人/訳
ポプラ社
2002.07

ねむりねずみ:もともと、スーザン・プライスは好きなんです。『500年のトンネル』(創元推理文庫)なんかもすごく好きだし。これもキリスト教が入ってくる前の世界が、匂いまで込めてよく書かれているなあと思います。そういう意味では力量に感心しちゃう。でも、突き放しすぎている気もして、それにすごく肉食的というかこれでもかこれでもかというところがあって、うむむむむ、これを子ども向けで出すというのはどういうことなんだろうと思いましたね。子どもの本として売るのは難しそう。

:今回のテーマは、子どもに支持されている本ということですけど、『エルフギフト』は、子どもに支持されるかどうかの可能性を考えるってことですよね。ほかの本は、支持されてることがはっきりしてますけど。

すあま:胃もたれしましたよね。こういう血なまぐさいのって、日本ではあまり好かれないんじゃないかな。楽しい話でもないし。

ねむりねずみ:登場人物がいっぱいなので、上巻の巻頭にもリストがあればなあと思いました。ときどき、ごちゃごちゃになっちゃって。あと、時代がそうだったからしょうがないんだけれど、男尊女卑がすごくてちょっといやな気分になったなあ。

ペガサス:人間と妖精のあいだに生まれたエルフギフトという存在にまず非常に興味をそそられるけれど、どうも彼のことがよくわからない。心で理解しても好きになれない。妖精だから仕方がないのか? 生と死が隣り合わせで、すぐに死んだり生き返ったりするのは神話の世界のおもしろさだけど、勧善懲悪というわかりやすい図式じゃないので、よくわからないところがあった。神話なんだからと割り切ってしまえばいいのだろうけど。だんだんエルフギフトについていけなくなるので、エバ、アンウィン、その妻ケンドリータ、ウルフウィアードなどについていこうとするんだけど、どの人にも途中で裏切られる感じがある。私は、人間ドラマを楽しみたいと思うほうなので、親子、夫婦、兄弟の関係が今ひとつ納得できなかった。

もぷしー:私も生理的に厳しかったです。そこまで人体を壊さないと語れないものでしょうか。サトクリフを読んでいるときは、きびしい現実を描いたお話でも自然に受け止められるのですが、『エルフギフト』では、キャラクターの理解をこえた行動に共感できなかったです。ずっと不安定感がつきまといますよね。全員がクールなキャラクターのなかで、エバだけが生身のキャラだということをかなり強く感じさせる。どちらも、そこまでクールでなくても……、そこまでグロテスクでなくても……と思ってしまって、消化不良な感じです。

アカシア:私はきっと少数派ね。これ、とても好きな作品なんです。スーザン・プライスは全体に好きなの。さっき感情移入しにくいっていわれたけど、主人公のエルフギフトは、半分しか人間じゃないんだから、当然人知では計り知れない行動をとるのよね。キリスト教の力と、それ以前のゲルマンの神々への信仰がぶつかり合う時代を、こういうかたちで描くなんてすごい才能ですよ。血なまぐさいという声も当然あると思うけど、こういう描写でしか伝えられない不思議なエネルギーが伝わってきますね。ほかの作品を見るときと同じ目線で見ると、わかりにくいと思うけど、この作家の作品はそういう尺度では計れないのでは? 私はわかりにくいとはちっとも思わなかった。エルフギフトは、キリスト教的近代の価値観につぶされていった原初的な価値観や素朴なエネルギーを象徴しているともとれますよね。でも、そう考えると、表紙の絵はちょっと違うという気もしました。

カーコ:上巻の最初の方は、次はどうなるんだろうと先の展開にひかれて読み進んでいったんだけど、下巻を読みはじめたくらいで、この世界はもういいやって、挫折してしまいました。なぜかといえば、残酷な場面を、これでもか、これでもかと克明に書きこんであるでしょう。うまいだけに、生々しいんですよね。血なまぐさいことをそこまでたたみかけて書く意味ってなんだろうと、途中から拒否感をおぼえてしまいました。それと、この物語の世界観についていけなくなってしまったんですね。王位継承の争いの中に、宗教の違いや、妖精と人間との関係がからんでくる。最後まで読めば、エルフギフトの特別な意味がわかっておもしろかったのかもしれないんですが。
文学としては上等だと思いながらも、ついていけませんでした。

ペガサス:人間関係がすごく冷たいのよね。背中から誰かが襲ってきても不思議はない世界。

きょん:予想していたのとちがって、なかなか入っていけなかったですね。なにしろ血なまぐさい。下巻に入ってやっとおもしろくなって、3人の関係がどうなるかという興味から、人の気持ちの揺れをたどっていけた。予測がつかないところが、おもしろかった。

トチ:私はとってもおもしろかった。特に上巻が。残虐だという話だけれど、残虐な話もこれだけ筆力のある作家が書くと、その残虐さがストーリーや表現の力強さを後押しする力になって、ますます圧倒されてしまう。キャラクターやイメージもくっきりしているし、背景になっている神話を知らなくても人間のドラマとして読んでいける、素晴らしい作品だと思います。人間の裏表がはっきり書けているので、登場人物の誰かに感情移入して読むのは難しいかもしれないけれど、私はスーザン・プライスという語り手を信頼して、ぴったりくっついて読み進んでいったのね。訳者の金原さんも、かなり力をいれて訳していると思います。例のプルマンの3部作(「ライラの冒険」シリーズ)もこれくらいの訳で出してもらえれば、日本でも欧米と同じくらいの話題作として取り上げられたのに・・・・

紙魚:私は、上巻読むのがやっとで、これから下巻を読む気にはとてもなれません。読みながらずっと、何か読み落としているんじゃないかと不安でした。最後まで、エルフギフトが何なのかくっきりとイメージを持てなくて、つらかったです。これって、子どもが読むのかな。

愁童:上巻はおもしろく読めたんだけど、下巻になると、どうもかったるかったな。でも、描写に勢いがあるんで読まされちゃうね。

(2003年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


デルトラ・クエスト(1)沈黙の森/デルトラ・クエスト(2)嘆きの湖

エミリー・ロッダ「デルトラ・クエスト」
『デルトラ・クエスト(1)沈黙の森/デルトラ・クエスト(2)嘆きの湖』
エミリー・ロッダ/作 岡田好惠/訳
岩崎書店
2002.09

トチ:読者の年齢が低くてもわかりやすい本ね。主人公の男の子が出てくるまでは、なかなか話に入っていけないけど、途中からは、作者もなかなかやるなと思わせられる筋立てでした。エミリー・ロッダの本は、主人公が素直よね。

きょん:わかりやすい話ですよね。エピソードがいろいろあるので飽きさせないし、主人公がよい子なので安心して読める。次はどんな怪物が出てくるんだろうと、男の子なんかは興味を持って読むと思う。

カーコ:すごく話題になって、売れていると聞いていただけに、かえって私は期待せずに読んだんですよね。でも、予想がいい方に裏切られて、「えっ、意外とおもしろいじゃない」と思いました。キャラクターが魅力的だし、宝さがしのストーリーにひっぱられながら、1冊1冊達成感を持って読めるでしょう。おもしろいと思ったのは、キャラクターにしてもしかけにしても、お話というもののさまざまな要素があちこちにちりばめているところ。作者が、昔話やお話の世界をよく知っていて、それをうまくとりこんでいるんだなあと感心しました。エンターテイメントとして、気持ちよく子どもたちに手渡したくなります。それと、言葉がらみの謎解きやパズルって、翻訳の場合むずかしいですよね。それが、ここでは自然に仕上がって、よく生かされているところに、編集の人のがんばりを感じました。

きょん:読者を裏切るおもしろさがあるのが『エルフギフト』。予測がつくおもしろさが『デルトラクエスト』。

ペガサス:中学年くらいの子が楽しく読める本よね。最初から、主人公にぴったりついていけるし、悪人が出てきたとたん、悪人だとすぐわかる。それを倒すためには何をすればいいかもはっきりしている。昔話の構造をそなえていて、とてもわかりやすい。なぞなぞも、ちょうど子どもが解きやすいように作られている。7巻一気に読むのはたいへんだけど、1巻分がちょうどいい分量で、アイテムを一つ一つゲットして次へ進んでいくうちに、全部読んでしまうというわけ。子どもは、キラキラのカードを集めたりするのが本当に好きなので、これはそういう気持ちを満足させるものがあると思う。7つの宝石は、絶対に全部ゲットしたいもの。大人としては全部読むのはちょっと苦労だけど、子どもはこれを全部読んだら、長い物語を読破した気分も味わえるし、とても満足できると思う。

すあま:小2の男の子も読んでいるんですよ。低学年でも本が好きな子なら、1冊1冊が短くて読みやすいと思う。何よりあの光る表紙が気に入っているみたいです。

ねむりねずみ:今回は途中までしか読めなかったんです。対象年齢が低いからだと思うんですが、今ひとつぴんとこなくて。でも、女性の書き方が、ロッダさんらしいなあと思ったのと、逆に対象年齢に合わせた本を書ける人なんだなあ、すごいなあと思いました。

紙魚:おもしろかったです。本当に飽きさせない。ところどころで暗号やらクイズが出てきたりするのも、小学生の時分だったら夢中になって読んだと思います。読者をぐんぐんひっぱっていく力があって、なにしろ子どもに読ませたいという作者の意志が伝わってくるようでした。それから、この装丁にするのは勇気がいるでしょうけど、やはり意志を感じました。これって、男の子にストライクなデザインだと思います。男の子が夢中になる幼児誌とか学年誌って、まさしくこれなんですよね。男の子に読ませたいという作り手のなせる技だと思います。
もぷしー(じつは担当編集者):読書経験がゼロの子でもおもしろさが味わえる本になればいいなと思って。私は、ずっと「本が好きでない子の、本を読むきっかけをつくりたい」と思っていたんですけど、このテキストに会ったとき、これなら! と思ったんですね。1巻ずつ少しずつ読んでいくうちに、結果として全8巻の長編を読めるようになっています。この装丁にしたのは、もともと男の子には、キラカードが人気があるということもあって、まず男の子に「面白そうだな」と感じてもらいたいと思って。書店に8巻並ぶと、男の子が見に来てくれているようです。どんな装丁がいいか、対象読者層にいろいろ聞き取りをしたりもしました。この本は、女の子より男の子の読者が多いのが特徴的。編集的には、作者のロッダさんとこまめに連絡をとりながら、日本の読者にもわかりやすく読んでもらえるよう、クイズやパズルの部分など、できるだけ工夫をしました。愛読者カードから、「クラスで競って読んでいる」とか「本を読むようになった。他におもしろい本があったら教えて」など、本を中心に遊ぶようになってくれた子どもたちの様子を知って、うれしく思っています。

(2003年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


真実の裏側

ビヴァリー・ナイドゥー『真実の裏側』
『真実の裏側』
ビヴァリー・ナイドゥー/著 もりうちすみこ/訳
めるくまーる
2002

もぷしー:ずいぶん前に読んだので印象論ですが、一気に読めました。最近、もりあげよう、あきさせないようにしようと演出したファンタジー系の本ばかり読んでいたので、久しぶりに現実に基づいてしっかりかけているこの作品を、夢中になって読みました。主人公シャデーの感覚を通して物事が描かれていたのが臨場感があっていい。外から描写しようとすると、お母さんのことなどは感傷的な描写になると思う。でもこの作品では、シャデーが困ったときなどにお母さんの言葉を思い出す形でしか、お母さんは登場しない。そこが、めそめそしている暇もなく生き抜くことだけを考えているシャデーの心情を表す、すばらしい方法だと思いました。あとがきには、大人だけでなく本離れしている若者にも読んでほしいとありましたが、本離れしている若者には簡単には読めないかもしれませんね。ただ、自分の今持っているものを最大限に活用して生き抜こうとする強さと姿勢は、日本の子どもが読んでも共感できると思います。ナイジェリアの言葉がカタカナで書いてあって、意味がかっこに入っている。そこが、ちょっと作品のリズムを乱すようで気になりました。すべて日本語にしてしまってはいけないのでしょうか? 個人的に、152ページのお母さんの言葉「悲しみは貴重な宝物と同じ。本当の友人以外には見せないものよ」というのが、すごくいい言葉だと思いました。

ウォンバット:題材に圧倒されましたが、あんまりのめりこむことはできず、ちょっと……。イマ一つでした。よく知らない国のことだし題材は衝撃的だけど、物語としては『少女パレアナ』的な「私はこんなにいい子なのにどうして?! どうして?!」みたいなのが鼻についちゃって。ニュースキャスターに会えてしまったのも、ちょっとできすぎで、つくられた感じ。すぐ夢を見ちゃうのも、なんだかなあ……という感じで、お話の中に入れなかった。母の言葉も、いいなと思うのもありましたが、ゴチック体で出てくると教訓ぽくて。訳のことですけど、私はちょっと気が合わない感じ。堅いというのかな。『アルテミス・ファウル』の訳にも同じような傾向を感じたんですけれど、原文に忠実に一語一語きちんと対応させて訳してる感じ。私はそういうタイプの訳を、心の中で「置き換え派」と呼んでいるのですが、このお二人は「正統的置き換え派」かなと思いました。正確を期そうという誠実さは感じますが、たとえば原文に強調の言葉があるとき、それを「とても」とか「すごく」とかにしてしまうと不自然な感じになってしまうことがある。日本語では必ずしも「とても」や「すごく」を使わなくても、強調することはできるんじゃないかと思うんですね。

きょん:3冊の中では非常に興味深く読めたし、2人の子どもの心情表現が対照的で理解しやすかった。困難に立ち向かうときの子どもの態度や反応については、母親が目の前で殺されたといった異常事態だからというより、もっと普遍的なように感じました。まわりの人がずいぶん親切だったり、都合よくストーリーが運ぶな、と思うところはありましたが、現状を切り開くのは自分の力しかないんだというメッセージが感じられたのでよかった。お母さんの言葉は少し教訓的なところもありますが、一つ一つが心にひびいてくるいい言葉だったので、ぐっときました。シャデーがいい子すぎるんだけど、最後に爆発するところでほっとします。「出てって」と叫ぶところですね。この「いい子」というのは、長女にありがちな側面のように思います。弟が全然だめな分イライラしながらも、よけいにがんばっちゃうところは、いかにもそうだろうなあという感じ。お母さんが作ってくれた思い出の品物をなくしちゃうところでは少し悲しくなったけど、お父さんがオコとイヤオを持ってきてホッとしました。この作家のほかの作品も読みたくなりました。非常に好きでした。

アカシア:この本でゴチック体になっている部分は、とても強い印象で目にとびこんでくるけど、原書ではイタリック体で、そんなに強くない。

トチ:ゴチック体だと、看板みたいだものね。

アカシア:区別をつけつつ、ゴチックほど強くない書体があればいいんだけど、この辺が日本ではなかなかむずかしい。

ペガサス:まず筋立てがドラマチック。お母さんが殺害されるという、これ以上ないような悲劇がおこり、それを受け入れることもできないうちに事態はどんどん先へと進む。一難去ってまた一難で、自分ではどうしようもない運命に翻弄される子どもたちの行く末が心配で、先を読まずにいられない。筋立てで読者をひっぱっていく強さがあると思いました。そのような状況下で、自分を見失わない主人公の強さが感じられ、それを描くのに、テクニックとして夢や記憶の断片を織りまぜて、しっかりと心理描写をしている。また、子ども対大人の図式がはっきりしていて、子どもの子どもらしいところがよく書けている。次々知らない人に会っていくんだけど、自分なりのあだ名をつけたり、自分の敵なのか味方なのかを本能的に察知するなど、子どもらしい目が感じられました。また、常に自分が悪いんじゃないかと思って自分を責めたり、反省したりするところも、子どもらしい。12歳にしては子どもっぽくは感じられるんだけどね。
新鮮だったのは、西欧的ではない視点でロンドンの町の暮らしが描かれていたことですね。緑がない、汚い町の様子、非人間的な人々、学校で出会う女の子たちも醜悪に描かれている。それと対照的にナイジェリアの人々の豊かさを感じさせています。アフリカの人たちが、言葉や、お話を大切にする心も描かれている。主人公の中でも、自然や色が、大きなものとして存在している。また家族の強い結びつき、大家族の中の幸せが感じられ、それに対してイギリスの家庭は、グラハム婦人の家庭もどこかゆがんでいるようだし、子どもが出ていって二人だけになったロイおじさん夫婦もアフリカの家族とは対照的に描かれているように感じられましたね。
日本語版の装丁は、子どもにとっては手にとりやすい感じではない。もっと子ども向けに出してもいい本なのに。中学生くらいの子どもに読んでほしい。

トチ:出版社はどういう読者を想定して作っているのかしら。

アカシア:読者対象をしぼりきれてないのかな。題名も直訳風でかたい。これでは、大人にも子どもにも手に取ってもらえないんじゃないかと思うと、もったいないな。

カーコ:今回の3冊の中では、いちばんおもしろかった。視点を子どもに持ってくる手法が成功していると思いました。日本の子どもの現実とはかけはなれた題材を扱っていて、残酷な事件で始まるけれど、主人公の視点にひきつけることで、読者は世界に入っていける。フェミが心を閉ざしてしまうのにイライラしたけれど、それもこの年の姉弟の関係としてはリアルだと思った。シャデーがいい子すぎるという意見があったけれど、最後のほうに、自分のせいでお母さんは死んでしまったのではないかと思ったというところが出てくるじゃないですか。そこでストンと納得できた。伏線がきちんと引かれているんですね。子どもにわかるように書かれているのだから、子ども向けに出してほしかったです。
訳は気になるところがいろいろありました。たとえば、289ページのお父さんの手紙の中、「永い永い時をへだてて、言葉は剣よりも強いのだから」の「へだてて」は原文はどうなっているのだろうと思いましたね。

ねむりねずみ:acrossとなってるから、「超えて」って感じ?

アカシア:アマゾンなんかで見ると、原書は小学校高学年向きとか中学生向きなんて書いてあるけど、日本語版は読者をもっと上に想定してますよね。ルビも少ないし、訳も子ども向けならもっとしなやかにしてもいいと思いました。171ページに「ナイジェリア語」とあり、284ページに「ナイジェリア語の新聞」というのが出てきますが、ナイジェリア語というのはないから、ここはナイジェリアの言葉、ナイジェリアの新聞と訳してほしかった。
まわりの人が親切すぎるという意見が出てたたけど、イギリスは難民を保護するいろいろな手段があるので、そこはリアルなんじゃないのかな。子どもが子どもっぽいというのも、ナイジェリアの階層が上の人は親が権威を持っていて、保護されている状態の子ども時代が長いんだと思う。
イギリスには今外国から入ってきている子どもも多いから、そういうのがリアルタイムでどんどん作品に取り込まれてきているんですね。イギリス児童文学のダイナミズムは伝わってきますね。

ねむりねずみ:私は、うーんという感じ。一つは訳にひっかかって読みにくかったのと、話ができすぎていて、都合よく行き過ぎる。なんかきちんと始末がついていないのがいやでイライラした。お母さんが自分のせいで死んでしまったのでは、という罪悪感にしても、ちゃんと解決したのかどうかわからない。いじめにしても、現実はもっとエスカレートしていくものだと思うのだけれど、なんとなく消えてしまっている。こういう題材で書くのはたしかに大事なことだけど、これならアフリカの少年兵の話(Little Soldier)のほうがリアリティがあったと思う。

アカシア:バーナード・アシュリーの作品ですよね。慈善団体に保護された少年兵が、イギリスの家庭に引き取られるという設定で、その子が、イギリスの若いギャング同士の抗争に巻き込まれていく。

愁童:ぼくは、ウォンバットさんと同じ印象でのれなかった。お話の枠組みが、ああ、またかと言う感じ。飛行機で外国に亡命できる子どもを通じての体制批判。日本の子どもに通じるのかなぁ? この10歳の弟は、幼く書かれ過ぎている。目の前で母親が殺されたのに、同じ条件にある、たった3つしか年上でない姉のお荷物になるばかり。反骨のジャーナリストである父親の子にしてはリアリテイが感じられない。けなげな姉の引き立て役としてしか機能してない男の子。やだね。戦後は日本にも孤児がいっぱいいたけど、もっとたくましく生きてたよ。

アカシア:でも、まわりにもいっぱい同じような運命の子どもがいる時代ではないのに、突然目の前で自分の親が殺されるのだから、パニック状態で自閉的になるのはリアルなのでは? ナイジェリアの、賄賂が横行する社会を書くだけでジャーナリストが殺されるという状況は、日本では文化的なギャップがあるから理解しにくいかもしれませんね。イギリスでは、ナイジェリア政府に楯突いて死刑になったケン・サロウィワのことは大きく報道されたので、読者もそれとだぶらせて読むことができると思うんだけど、日本では難しいね。あとがきでもう少し詳しく説明してもよかったかもしれない。


ガラスのうま

征矢清作 林明子絵『ガラスのうま』
『ガラスのうま』
征矢清/作 林明子/絵
偕成社
2001.10

ねむりねずみ:すごく安心して読めた。冒頭の「すぐりがうまれたとき……」の運び方はなるほどなあと思わされたし、日本語もいいし、とても気持ちよかった。ガラスのうまを走らせたくなって壊しちゃうとか、そういう大人とは違った子どもの世界、日常と不思議の世界が入り交じっているような子どもの世界が、なつかしい感じでした。すぐに手を出してつまみぐいするところなんかも、いかにも子どもだなって思ったし。表現としても、「じゅうじゅういうねぼけ声」とか、面白いところがいっぱいあった。ただ一つ気になったのは、ガラス山で、すぐりの体が半分ガラスから全部ガラスになったでしょう、あれに特別な意味があるのかと思ったんだけど、ちょっと肩すかしだった。火の玉がおどりまわるところも日常を別の観点から見てるんだなって思って面白かったし、最後に「どうして、ぼくがここにくるってわかったの?」「それは、すぐりのおかあさんだもの」というのが、幼年期にぴったりなんだなあと思いました。

アカシア:『卵と小麦粉、そしてマドレーヌ』と争ってこっちが賞をとったのは、なるほどなと思った。でも、ずいぶん前に読んだせいか、イメージが弱くなっちゃってる。ガラスの馬を追っていくというのが縦糸なんだろうけど、あっちの話、こっちの話とばらけてしまう感じがして。久しぶりに林さんの絵を見て、また、いいなあと思いました。

カーコ:ほかの2冊を読んでからこの作品を読んだから、美しい日本語だなとホッとした。言葉が形づくっていくイメージが美しくて。特に、かめに12杯水を汲むところで、星がかめの中にたまるというのが好きでした。異界に入って、いろんな試練をこなしていくところは、『千と千尋の神隠し』を思いださせました。勇気を持ってがんばったら、目的を果たせるというところが。ただ、美しいのだけれど、どこか印象が弱い感じがして、それはどうしてだろうと考えたけれど、理由はわからなかったんですよね。

ペガサス:この作品は、林さんのカットに助けられているなあ。本当に子どものしぐさをよくとらえていると思う。だからとても良さげな感じがするんだけれど、どうも物足りない。なぜかというと、この子のガラスの馬への思い入れが、最初にしっかりと書かれていないから。ここまですごい冒険をするんなら、もっとこの子と馬とのエピソードを書くなりして、馬に対する思い入れが納得できないといけないと思う。足を折るというのも、ただ落ちただけで、そこにドラマがないのが弱い。それから、疑問が一つ。ガラスやまのかあさんは、結局おかあさんだったのか。

きょん:強烈な印象があるわけではないけど、美しい文体と、その世界にひかれた。正統派の児童文学って感じですね。ガラスの馬が突然走り始めたりするのが唐突で、すこし不満だし、ねむりどり、ガラスやまというのが、ちょっと古いかな。でも、読み進めていきやすい。ガラスやまのかあさんが出てくるあたりから引き込まれる。ひかれたところは、文体が読者の想像力を刺激するようなところとか、擬音の使い方。「ぎしぎしきしんで、戸はあきました」とか「火にあぶられて、じりじりぶつぶついっていました」など、うまく表現していくのが魅力的。でも、こういう文体だと、体験も想像力も乏しい子には、かえって難しいのかなあ? すぐりが、ガラスやまで跡継ぎになってくれないかと言われたとき、すぐにお母さんの顔が浮かびますよね。子どもの心の中にある支えがお母さんなんだということは強く表現されているけど、ちょっと正統派(素直)すぎて、気恥ずかしい感じがした。こういう作品を読むとあらためて、子どもが感じる世界は、そんなに変わっていないのかなあと思いますね。

ウォンバット:すっと読めた。ガラスって美しいイメージなので、美しいイメージの物語世界がひろがっているけれど、よくも悪くもゴールデンパターンかな。会う人会う人が、すぐりに課題を与えて、「あれやれ」「これやれ」と上から言うのが、ちょっと嫌でした。あんまり楽しい気分になれなくて。最後のところは、「それは、すぐりのおかあさんだもの」よりも、「ガラスのうまは、うれしそうにすぐりをみました」に、ぐっときましたね。

もぷしー:最初に読んだときは、急いで読んだせいもあって、イメージだけしか残りませんでした。でも、気になっていて、2度目を読み返す前に『もりのへなそうる』(渡辺茂男/作 福音館書店)を読みました。『もりのへなそうる』も、本来存在するはずのないものが、子どもの想像力を通して、あたかも存在するかのように描かれている世界。そう思って読み返すと、『ガラスのうま』の馬が突然動きだすというところについても、「子どもにはこう見えた」というのをシンプルに追っていくと、こうなるのかなと思えました。お母さんと子どもの結びつきが強いから、お母さんが読みたくなるお話。お母さんが幸せな気持ちで読めるから、子どもに読んであげたときに、いいお話になる。内容的に弱いようなところは、私も感じました。これは、子どもが「悪いこと(失敗)をしちゃった」と認識したとき、初めて自力で問題を解決しようとする、というお話でしょう。自分で問題を解決する中に、こわいこともあるし、やめたくなっちゃうときもあるんだけど、一つ一つ自分に課題を与えては、こなしていく。達成できたとき、最後に報告したい人、戻りたいところはお母さん。無理やり考えると、そんなところでしょうか。イメージとしてはきれいに読めたけれど、つっこんで考え出すと、火の玉はどうして二つだったんだろう(何を表しているのか)とかわからないことがあって、気持ちいいところには落ちつけませんでした。

愁童:今回の3冊の中では、これが一番透明感があって安心して読めた。ただ、ちょっと線が細い感じ。べつに目新しい作品ではないと思うけど、でもほっとする。若い人はどう読むのか、すごく関心があります。今の子が、どこまで読んでくれるか、この日本語として上品な、響きの良い文章を読んでくれるといいんだけど……。

紙魚:オーソドックスな幼年童話なんですよね。それも、自分の力で読み始めたばかりの、年齢の低い子どもたちへの物語。目の前の数珠を一粒ずつ追っていくと、いつのまにか、ぐるりとつながっていて、安定したまま、しぜんと物語を読み進めていくことができる。物語の先から、おいで、おいでと呼ばれるような、ていねいな物語はこびだと思いました。いきなり何か衝撃的な事件が起きて、物語が動いていくというような本が多いなかで、この本は、次の世界に行くまでの距離が短いので、本を読むことに慣れていない子どもでも、読みやすいのではないかしら。日本語も美しい。こういう本って、新作では案外出にくいので、野間賞の選考でも、幼年童話への評価という声があったようです。主人公のすぐりが、ガラスの馬を追って、ふしぎな世界へ入っていくのと同時に、読者も物語世界へすっと入っていくという、まさに物語の入口といった本でした。

愁童:『One Piece』(尾田栄一郎/作 集英社)や『クレヨンしんちゃん』(臼井儀人/作 双葉社)が大好きな子どもにも、作者の世界が通じてくれるといいんだけど……。文章はいいし、行間からにおい出てくるものもある。若い編集者はこういう本をどう考えているのでしょう。

紙魚:姪っ子(小一)に読ませても、さくさく読んでいましたね。

トチ:私もペガサスさんと同じように「なぜ、山のおかあさんがおかあさんになるのかな?」って思ったけれど、これは「ごっこ遊びの世界なんだ」と思ったら納得がいきました。「ごっこ遊び」ってこんな風にすうっと現実に戻ることがあるものね。たしかに完成度は高いし、美しい物語だと思うけれど、印象が薄いのは、善意にあふれていて、ワサビがきいていないから? 幼年童話にはワサビはいらないのかしら?「はかせ」が出てくるところあたりから、話の運びがちょっと苦しいかなと思いました。私の考える理想の幼年童話というのは、幼いころ読んだときは「楽しいな、面白いな」とだけ思って読んだ(あるいは聞いた)けれど、大人になって思い返したとき「ああ、こういうことだったのか」と感じられるようなものだと思うのだけれど、違うかしら?

アカシア:児童文学の向日性ってよく言われるけど、私は幼年童話には向日性やハッピーエンドが必要だと思ってるのね。年齢の高い子どもの作品は、また違うけど。小さい子どもにとっては、「ここはすてきなところだよ」「生きてていいんだよ」と、まわりの世界から言ってもらうことが、とても大事。小さいときにそういうメッセージを受け取ってないと、年齢が高くなったときに自分の足で外に向かって踏み出せない。だから、さっき気恥ずかしいという意見も出てきたし、ワサビが必要という意見もあったけど、私は「それは、すぐりのおかあさんだもの」と臆面もなく出てくるところが、いいんだと思う。これが必要なんだと思う。

トチ:フェアリーテールとかは、もっとこわいんじゃない?

アカシア:でも、昔話は象徴的なイメージを伝える語り口になっていて、怖いことも、具体的に描写してるわけじゃないですよね。

ウェンディ:遅れて来たので、まとめて感想を言います。『ガラスのうま』は、すらすら読めました。確かに完成度は高いし、こういうお母さんの書き方もあるなあと思いました。『アルテミス・ファウル』は、ぜんぜん子どもの作品とは思えなかった。中途半端というか、子どもにはわからない言葉や、大人しかわからないブラックユーモアがぽんと投げ出されていて、気になるところがたくさんあった。訴えたいことがたくさんあるんだと思うけど、羅列しても言いたいことは伝わらないのでは?

(2003年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


アルテミス・ファウル〜妖精の身代金

オーウェン・コルファー『アルテミス・ファウル』
『アルテミス・ファウル〜妖精の身代金』
オーエン・コルファー/著 大久保寛/訳
角川書店
2002.08

愁童:これも、のれなかった。ゲーム本を読んでいるよう。主人公も最初の設定のまま何も変わらない。まさにゲームのキャラクター。一番感じたのは、あちらでも妖精がこんな形で書かれるようになっちゃったのかということ。でも、『真実の裏側』よりは、今の日本の子どもには受けるかもね。

もぷしー:ぜんぜんのれなかったです。装丁は好き。『はてしない物語』もそうだけど、本の表紙に本を再現しているのは、けっこうワクワクする。けれど、せっかく表紙に妖精の「ブック」を使っておきながら、物語の中でそのブックに立ち返るところがほとんどないので残念。キー・アイテムなのだから、ブックを読み解く興奮をもっと書いてくれるほうがいい。それに、読んでいても、どうしてもキャラクターの顔が見えてきませんでした。文章や行動から像がうかびあがってこない。だから、本が長く感じました。映画になると聞いたけど、文字で読むより、映画で見るほうがおもしろいものなのかな、と。あと、妖精の本というのは日本ではどういう受け止め方をされるのでしょう? この作品は、妖精が意外にもハイテクだったという設定に面白さがあると思うんですけど、妖精がこういうものだという既成概念がない日本の子どもが、それを楽しめるのかどうかが疑問だと思いました。

ウォンバット:私は古いタイプの人間なので、こういうのを味わうことが難しくてですね……。読むのも、苦しい戦いでした。読むことは読んだんですが、この場面がよかったというのはなくて、訳も「置き換え派」で読みにくかった。こういうお話って、「大人の干渉を受けない自由な子どもの気持ちよさ」があるんだろうけど、それがおもしろくてどんどん読めるというほどではなくって……。29ページ「きらめくマスカラ」は、マスカラをたっぷりつけた瞳がきらめいたんじゃないかと思うんですが。もしかして、ラメたぷりのマスカラなのかもしれないけど。そういうの、パーティでもなければつけないような気がするし、それともブロンドの睫毛に赤とかピンクとかのマスカラつけたりすると、きらめくのかな?

きょん:私も古い人間で、ぜんぜんおもしろくなかった。魅力を感じなかった。「悪のハリーポッター」と宣伝されても、主人公アルテミスがぜんぜん魅力的じゃない。有能とか、賢いとか、天才的とか書いてあるけど、言葉だけで、行動などで実証されていない。妖精が妖精なのに疑似人間社会みたいなのを作っているところも、魅力を感じない。これなら、なにも妖精である必要はないのではないでしょうか。それ以外のキャラクターも理解できない。トロールくらいかな、すんなり入ってきたの。納得いかなかった。訳が、テンポよく入ってくるけれど、だれが何を言っているのか、何をさしているのかがはっきりしなくてわかりにくい。妖精の書だって、アイテムとしては魅力なのに、どうなっちゃったのかよくわからない。このブックをめぐって事件が展開するのかと思ったのに、残念だった。

ペガサス:これだけ批判が出ると、私はすごく面白かったわと言いたい衝動にかられるけれど……。でも半分くらいまでは、ハリーポッターよりも面白いかなと思って読んだ。ハイテク化された妖精というのも面白いじゃないですか。半分くらいからは、雰囲気に飽きてしまって流し読み。やはり日本では妖精のイメージ自体が確立してないから、面白味も半減するということはあるでしょうね。でも、ところどころユーモアのある描写がよかった。満月の夜に何千人もの妖精が地上に出たがるから入国管理局は大忙しとか、秘密工作員をユーロディズニーの白雪姫と小人のところに送りこんでいるとかね。「紙に印刷した」ではなく、「A4の紙に印刷した」とか、「4倍に拡大した」とか具体的に書いてあるのは、思い描きやすいと思った。ハリーポッターの映画を思い浮かべつつ、これも映画になったらどうなるかとつい考えながら読んでいった。アルテミスは、最初は謎めいていたが、弱点が母親だとは陳腐。アルテミスの魅力が中途半端で、子どもの読者は、この主人公についていっていいのかどうか迷ってしまうと思う。また、ページの両側の妖精文字が、読むときにいつも目の隅にちらついて邪魔だった。

アカシア:この妖精文字は、解読しようとする読者にとっては面白いんだと思うな。

カーコ:私ってファンタジーは苦手なんだなあ。入っていけませんでした。妖精のイメージがないから、パロディになっていても、きっとアイルランドの読者のように楽しめないのかと。また、主人公のアルテミスが、これだけの事件を経てもいっこうに成長していないので、充実感がありませんでした。ピカレスク小説って、主人公の成長はあまり問題にしないのかしら? 成長への期待って、いつも読者は持っていると思うのだけれど。

アカシア:私も面白くなかった。アルテミスが、妖精のお金を奪って何をしたいのかがわからない。たとえば宇宙を支配したいとかのモチーフがあるなら、もっと「悪のハリー・ポッター」らしくなるんでしょうけど、今のままでは中途半端。それに主人公は12歳の少年なのに、「時間が停止しているあいだは、やらんよ」(180ページ)なんて言うの。「やらんよ」なんて、おじさんしか使わない言葉でしょ? だからよけい魅力が感じられないのかも。妖精についてだけど、『指輪物語』などは、ちゃんとその妖精ごとの特徴だとか歴史だとかを踏まえて物語に登場させているでしょ。その下敷きがあってハイテクにするなら面白いと思うけど、ここでは、たとえばケンタウロスもケンタウロスである必要性がない。だからイメージが重層的にならなくて、つまんない。

ねむりねずみ:表紙でプルマンと同じ訳者だと知って憂鬱になり、読みはじめてもっと憂鬱になった。最初のところだって、大風呂敷を広げてもったいつけて、どんな面白い話が展開するのかと思うんだけど、肩すかしをくらわされる。ハリポタと同じで、ディテールでくすくすと笑わせるやり方がうまく使われているとは思ったし、ハイテクファンタジーもありだと思うんだけど、何しろ中身がなかった。

トチ:主人公の苗字のファウル(Fowl)は鳥という意味だけれど、発音の同じfoul(汚い、不正な、ゆがんだ)という意味をほのめかしているし、バトラーは執事という意味だし、原書にはそういった言葉の面白さも存分に盛り込んであるんでしょうね。そういう面白さを翻訳で伝えようとするのは、非常に難しいことだとは思うんだけど……でも、登場人物の口調の統一がとれてないので、読みにくくなかったですか? たとえば、13ページでベトナム人のグエンが「……あっしは知ってますぜ」って言うでしょう。その2,3行あとで「そ、そんなことするもんですか。ほら、見てくださいな」とやけにかわいらしい口調になっている。「あれ、これは誰が言っているんだっけ?」と、もう一度読み直してしまった。

ウォンバット:ずっと気になっていたことが一つあるんですけど、ホリーのことを助けようとする上司ルートには、ホリーへの愛があったんでしょうか?

一同:???

ウォンバット:ならず者っぽい上司なのに、どうしてあそこまでして助けてやろうとするのか、わからなくて。そうだ、これは愛よ、愛にちがいないと思ってたんですけど。

アカシア:それはともかくとして、プロットだけで物語を構築していくと、キャラクターは破綻をきたしかねないのかも。

(2003年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


サンサン

曹文軒『サンサン』
『サンサン』
曹 文軒/作 中 由美子/訳 和歌山静子/絵
てらいんく
2002.06

もぶしー:これは、『草ぶきの学校』っていう映画になって、日本でも上映されてますよね。私は、これまでアジアの文学をあまり読んでこなかったのですが、湿度を感じました。皮膚感が日本人に近いのかな。いろんなエピソードがあるけれど、人間が生きていく正直さがそのまま書かれていて、それがおもしろかった。キャラクターが書き分けられている児童文学が多い中で、いろんな人がたくさん描かれているのが印象的だった。あとがきにも「今の子どもをいかに感動させるか」と書いてあって、確かに文化がちがうのに、すとんと落ちてくるものも多く感じられたので、それが時代とか、国のちがいにもいえると思う。そこがうまく表現されている作品だった。

カーコ:私も中国の児童文学を読むのは初めてで、興味深々だったけど、ストーリーの太い流れがないからか、読み進みづらかった。よかったのは、風景の描写や動植物の記述。中国ってこんなふうなのかとおもしろかった。でも、途中でひと昔前の話だと気づいて、じゃあ、これが今の中国だなんて勘違いしたらいけないんだと考えさせられました。人物はそれぞれおもしろくて、人のとらえ方が、西欧の個人主義より日本に近い感じがしました。でも、このプロットの妙と無縁の淡々と書かれた世界を、日本の子どもが興味を持って読むかというと、ちょっと苦しいかもしれないと思いましたが。

紙魚:私も途中まで読みにくかったんですね。なかなか、物語を読み進める視点がつかめなくて。章ごとに、焦点のあたる人物がちがうので、サンサンの気持ちで読んでいく感じでもなかった。本のつくりも、物語の導入も、もうちょっと親切だったらよかったのになと思います。チンばばの話なんかは、とってもよかったです。それから、よくわからなかったのが、作者のあとがき。「永遠なるものを求めよ」「今の子どもをいかに感動させるか」って、前置きもなくいきなり書かれていて、さっぱり意味がわかりませんでした。中国の児童文学について何も知らないので、物語の背景などを書いてほしかったな。中国の児童書に詳しいウェンディさん、これってどういうことなんでしょう?

ウェンディ:私、中国ものは結構背景がわかってしまうので、背景がわからない日本人が読むとどうなんだろう、っていうのが、わからなくなっちゃってるんですけど……。この作家は、中国ではかなり評価されているんです。あとがきについては、私にとっては、ああなるほど、っていう感じなんですね。中国はこの1世代で時代がまるっきり変わったので、ひと世代前の苦労話を書いても、今の子にはわからないという議論に対して、時代を越えて共感できる普遍的なものを書いていこうという立場なんだと思います。中国の作品としてはヒットといっていいと思います。子どもが大人の恋愛を垣間見てしまうとか、家が没落しているいくさまだとか、そういう負の部分って、今でもタブー視されるところがあるんですよ。そういうものを子どもなりに垣間見て、受け止めながら、笑ったり悲しんだり恥をかいたり、そんな子ども像がリアリティをもって描かれることはなかなかないんです。作者の自伝的作品といわれてますが、そういうものを、肩に力を入れず書いているところは、画期的だと思います。

紙魚:この本、中国では、子どもたちに好まれて読まれてるんですか?

ウェンディ:大人が評価する児童文学という側面が強いかな。中国では賞を総ナメにしましたね。

アカシア:このあとがきも、原書そのままじゃなくて、日本人向けに、今のウェンディさんの説明のようなことを入れてくれたほうが親切でしたね。

ウェンディ:あと、気になったのは、中国の作品では、人名の漢字にそれぞれ意味があるので、その漢字を出すかカタカナにしちゃうかは、よく議論になるんですけど、この作品では漢字だったりカタカナだったり混在していて、どうしてかなあって。そういったところ、もう少し編集の手が入れば、もっとよくなると思うのに、ちょっと残念ですね。

もぶしー:こういう作品が出てから、中国の児童文学って変わってきてるんですか?

ウェンディ:むしろ、ファンタジーとか、「ハリー・ポッター」の世界的フィーバーの影響のほうが目立つかな。中国では児童文学を童話と小説とに分けていて、一言でいうと、非現実が描かれるのは童話で、童話はいかに荒唐無稽でもOK。小説はリアリズムでこれっぽっちも非現実があってはいけない——という伝統があったんですね。でもこのところ、ファンタジーを幻想小説と訳して、小説的な技法で書かれる非現実的な物語も試みられるようになってきました。あと、これまでの児童文学の「子どもを正しく導く」作品と違って、思春期からまだそれほど隔たっていない年代の作家による、子どもの心の葛藤だとかを描く作品も書かれて、評判になっていますね。

きょん:じつは途中までしか読んでないんですけど、まず、読み始めてすごく中国的だなと思いました。原文の二重否定とか反語表現などをそのまま訳しているので読みにくいんじゃないでしょうか。読み進めていく視点がつかめなかったという話がありましたが、心情的なものを入れず物事をたんたんと描写していくので、つかみづらいと思うんですね。でも、その続いていく描写からにじみ出るあたたかさのようなものが、この本のよいところなのでしょうね。描写が細かいという点で映画的なので、映画の方がわかりやすいかもしれない。あと、もう一つ中国的だと思う点が、人と人とのかかわり方です。子ども対大人、子ども対先生など、極端に言えば、権力者VS服従者という構図が、とても中国的だと思います。ただ、今の中国もそうなのかどうかちょっとわかりませんが……。絶対的権力を持つ先生というのを、今の子どもたちが読んだときに、お話の世界に入っていけるのかな、と疑問を持ちます。現代社会とのギャップがどうしてもありますよね。

アカシア:私も途中までなんだけど、最初『サンサン』ていう題なのに、ハゲツルという強いキャラクターが出てくるので、とまどいました。でも、途中から短編集として読めばいいのだということがわかってきた。日本や欧米とは、感情の書き方がちがうんだということがわかって、作者のペースにのってからは、割合すいすい読めますよね。せっかく志があるように思える出版社から出ているのだから、日本の子どもに手渡そうとする編集者の目も入れて本づくりをしてほしいなと思いました。クレジットに原題が入ってないのは、ミスかしら?

紙魚:この本て、私が小学生のときに手にとっていたら、中国の作家が書いたってことも、わからなかったかもしれない。作者の名前も漢字だから、「難しい漢字の名前だなあ」と思うくらいで。オビには説明があるけど図書館などでは取ってしまうので、カバー袖にちょっとでも物語を読むまえのヒントというかガイドみたいなものを書いてあげれば、もう少し親切だったんじゃないかしら。

アカシア:図書館で借りた子は、中国が舞台だってこともわからないかもしれないね。

ペガサス:不可解よね。

カーコ:私も、あとがきに戸惑いましたね。たとえば、「生存環境」って言葉が使ってあるのは「生活環境」かなとか、言葉もわかりにくくて。

きょん:直訳なのかしら?

アカシア:中国では、このままでも後書きとして成立するんでしょうけど、日本版は、もう少し工夫してほしかった。

ペガサス:一つ一つの文章がぷつんぷつんとして短いというのは、中国の特徴なのかしら。

ウェンディ:うーん、そういうわけでもないと思うんですけど、それは、あえて区切って訳しているからかもしれない。

ペガサス:かなりしっかりと読まないと入ってこない感じよね。おもしろいところだけ読もうと思ったけど、これ、斜め読みできない本ですね。最初の出だしは、ハゲツルの話でおもしろくて、引きこまれる。自分の大事な消しゴムなどを差し出してまで、ハゲツルの頭に触りたくて触りたくてたまらない、なんていうところは、今の日本の子どもたちになくなってしまった子どもらしさが出ているし、大人も怒るときには怒るというストレートな感情表現をしていて新鮮でした。それから、比喩が変わっているわよね。22ページの「サンサンは一個のナツメみたいだった。おいしいおいしいと食べられ、いまは役立たずの種になって地面にはきすてられている」なんていうのは、なかなか珍しい表現よね。

愁童:ぼくは、『第八森の子どもたち』(エルス・ぺルフロム/作 野坂悦子/訳 福音館書店)を読んだときと同じような歯がゆさを感じた。読者に伝えたいのは、過酷な生活の中にある今なのか、そういう時代を生き抜いて、遠い過去を振り返っている作者の感傷を込めた思いなのか。どちらの作品も、作中や後書きで、その場所を懐かしんでいるけど、そういう立場に立てなかった登場人物もたくさん書かれてるよね。そういう時代を今に繋ぐメッセージは何なんだろうって思った。子どもの読者は作者のように振り返る立場にないわけだし……。

:読みにくいところもあったけど、私はおもしろかったです。途中、一つずつ短編のように、サンサンの6年間を読んでいけばいいとわかってから、それぞれのキャラクターもおもしろく読めた。人と人との関わりは、淡々と書かれているからこそ伝わってくる作品。校長先生にしても、妙にけちけちしていたりするけど、自分がのしあがってきたときのことを大事にしてきたり、解放されていく様もよかった。チンばばもよかった。大地に足をつけてたくましく生きていく母の姿に重なった。さっき、過酷な状況が書かれてないって感想があったけど、子どもがどういう状況の中でも楽しいことを見つけ出す楽天性、力強さが感じられてよかったです。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


魔女の血をひく娘

セリア・リーズ『魔女の血をひく娘』
『魔女の血をひく娘』
セリア・リーズ/作 亀井よし子/訳
理論社
2002.10

きょん:最初読むのがつらかったけど、途中からすーっと話の中に入って、つられて最後まで読んでしまった。

アカシア:歴史の中の庶民を時系列で書いていった本ですね。くじらが出てくるところとか、ところどころ描写がおもしろい。でも、114〜115ページに「私にはその力がある。それを疑う人はいないかもしれない。わたしがこれまでに何を望んできたとしても、運命を逃れることは不可能なのだ。きょう起きたことは、それを証明するできごとだった」って書いてあるけど、この女の子にどの程度の魔力があるのかはっきりしなくて、もどかしかった。中途半端な設定だと思いました。歴史的には魔女として糾弾されてきた人がいて、もう片方にはキャラとしての魔女がいるわけですけど、その両者の間のギャップを考えるにはいい本かも。

ペガサス:私はね、おもしろくないわけじゃないんだけど、おもしろかったわけでもない。

きょん:そうそう!

ペガサス:歴史として大人として興味があるから、おもしろくないわけじゃない。最初のうちひきつけられておもしろいんですよ。本当にこの子は魔女なの?と思いながら読むから。いちばん知りたいのは、この子の出生の秘密なのに、最初のうちで、もうお母さんとは会えないこともわかっちゃったりして、謎解きが中途半端になってしまうのが物足りない。これって、本当に出てきた日記なんでしょ。

カーコ:ええっ、フィクションでしょ。

:371ページのあとがき見て。「この日記が発見されて以来、メアリー・ニューベリーをはじめ、ここに登場する人々の足跡をたどる作業がつづけられています」って書いてあるじゃない。情報があったら教えてくれって、メールアドレスも書いてあるわよ。フィクションだとしたら、ええっ! 私、だまされたわよ。

カーコ:物語に枠があるのよね。本当っぽく見せるための。

:なんだよー。

アカシア:紙切れの1枚くらいは本当に見つかったことがあるかもしれないけど、物語自体はフィクションでしょ。メールアドレスも、巧みな宣伝よね。

:(がっくりしながら)日記と史実をもとに書かれていると思って読んだのにな。

ペガサス:これって、もう続編が出てるのよ。それ読むと、もうちょっとわかるかもね。

:(まだがっくり。立ち直れないでいる…)

ペガサス:私は、本当の話だから、多少はおもしろくなくてもしょうがないと思ったのよね。

:(……脱力)

カーコ:そういうふうに読ませようと思って書かれてるんだからいいじゃない。

アカシア:中学生や高校生だったら、真に受けて読むと思うな。羊さんは読者として正しい読み方をしてるのよ。

カーコ:昔、喫茶店で隣に座った高校生が『キッチン』(吉本ばなな/作 角川文庫)の話をしていて、「これって実話かなー」って言ってたの。そういうふうに読ませているのよね。

:(まだ立ち直れず)創作なの……? ショック。

もぷしー:私、途中までしか読んでないんだけど、その辺気になってきちゃった。

カーコ:私はけっこうおもしろく読みました。ところどころきれいな描写があって楽しめたし、最後、この女の子がどうなるんだろうっていう興味も続いたし。最初99章もあるのを見て何なんだろうと思ったのだけれど、日記という設定だからなんですね。構成が凝ってますよね。今は異文化を理解しようって流れが主流だけれど、西洋の歴史の中で異なるものを排除していた時代は長いんですよね。異なるものを忌み嫌う世界のこわさが伝わってくる話でした。確かに、この女の子が本当に魔女だったかどうかは、はっきりしませんよね。殺されたおばあさんが本当に魔女だったかどうかもわからなかったし、この子がどこまで不思議な力を持っているかもわからないままだった。森に入ってから、この子は何もしていないのに、邪悪な気があるとか言われるけれど、マーサも魔女なのかと思ったら、そうでもないみたいで、最後にマーサは当たり前の人になるし。ジョーナは、宗教に対して科学の象徴で魔法ではないし。

アカシア:もし未来が見えるんだたら、ジャック以外の人の未来も見えるはずよね。シーアーとか言われている人って。

カーコ:そうそう、目で見てのろいをかけたってとがめられるシーンでも、実際はそんな力は使ってないんですよね。

きょん:昔は、何か不都合なことがあると「おまえのせいだ」と言われて魔女扱いされ、迫害された人たちがいましたよね。この少女も、それと同じように魔女扱いされていたのだから、プロット的には本当に魔法を使う必要はないのでは?

紙魚:私は、最初のほうでこれはフィクションなんだろうなと思ってしまって、それもあってか、あんまりおもしろくは読めなかった。キャラクターとしての魔女じゃなくて、糾弾される対象の魔女の話って、もっとどきどきする物語だと思うんですよ。中学生のころ『魔女狩り』(森島恒雄/著 岩波新書)を読んだとき、すごく恐ろしくって、しかも、魔女という存在をつくる社会のシステムについてもぐっと考えさせられたんですね。それにくらべると、この物語、装丁ほどは恐ろしくない!

アカシア:ふつう、魔女としての嫌疑がかけられる要素があるはずなんだけど、この子が不思議な力を発するのは1回。だから、本当に魔力があるから魔女とされたのか、そうじゃないのにあらぬ嫌疑をかけられたのか、中途半端な描き方ですよね。

:でも、これだけフィクションかノンフィクションか、魔女なのか魔女じゃないかで、これだけ話がもりあがるんだから、みんなで読んでみて、よかったですよね。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


黄色い目の魚

佐藤多佳子『黄色い目の魚』
『黄色い目の魚』
佐藤多佳子/作
新潮社
2002.10

ウェンディ:人物には感情移入できないのに、1行目からストーリーに入りこめて、不思議に夢中で読めて、おもしろかった。みのりには感情移入できなかったな。誰でもかんたんに嫌いになれちゃうところなんか、私は逆だから。こういう絵の話ができる叔父さんや友だちがいていいなあ、っていう気持ちはありましたね。絵は好きだけど描けないっていう部分とか。感情移入できたわけではないのに、モチーフにひかれて読んだという感じかな。本としての作りは、児童書じゃないんだけど、あとがきを読むと、作家自身は児童文学として書いているんですよね。高校生くらいを想定しているのかな。そういう年代の人が読むと、みのりの感覚とかも、すうっと伝わるのかも、とも思うけれど、むしろトレンディドラマじゃないけど、こんなふうになれたらいいなというような、あこがれの部分をくすぐる要素が強い気がしてしまいます。

紙魚:わたしは佐藤多佳子さんの大ファンなので、「小説新潮」に連載していたときから、この作品群を読んでたんですね。各回、登場人物が共通してはいるものの、立場が作品によってかわるので、1冊の単行本になるときは、どうやってまとめるんだろうと思ってました。読者層をどのあたりに設定するのかも気になったところ。ウェンディさんが言うように、人物に感情移入はしにくいかもしれない。どっぷり入りこむんじゃなくて、心地よい距離をたもちながらで並んで走るという感じ。にもかかわらず、佐藤さんが書く登場人物って、かならず好きになっちゃいます。『しゃべれどもしゃべれども』(新潮社)や、『神様がくれた指』(新潮社)でもそうですけど、登場人物に「恥じらい」みたいなものがあるんです。いい人だから好きになるんじゃなくて、恥じらいがちらっと見えたときに、つい好きになってしまう感覚がいいんですよね。恥じらいって、書きすぎるとあざとくなったり、こちらが恥ずかしくなっちゃったりもするけれど、彼女の作品は、好きになってしまう頃合なんです。おそらく、佐藤さん自身が、そうした恥じらいを持ちあわせている人なんだろうなと思います。

カーコ:夢中で読んでしまいました。2番目の話まで読んで、普通の短編集かと思いきや、次々話がつながっていくので引きこまれて。全体的に人物が魅力的。もっとこの人のことを知りたいという気持ちにさせられるんですよね。その一方で、なぜみのりがそこまで家族から疎外されていると感じているのかとか、みのりの絵が描けないと木島に言わしめるほどの強いこの子の個性って何だろうとか、なぜ通ちゃんがそこまで魅力的なのかとか、描かれていなくて、物足りない気もしました。あえてそこを描かないようにしているのかもしれないけれど。高校生くらいが読むとリアルに感じるのかな。54ページで、家族が「通ちゃんのところに通うのをひどくきらう」というのは、通ちゃんではなく、みのりが疎外されているということなのかな。ただ、私は通ちゃんのことは、よくわからなかった。この人のどこがそんなに魅力的なのか、とか。自分の家族とちがうとか、悩んでいるときにアドバイスをくれるとかはわかるんだけど、あまり魅力的とは思えなかった。

もぷしー:家族が描かれてないですよね。通ちゃんの魅力も、想像しながら読んでいました。もしかして、あえてそこを描かないようにしているのかな。そこを描いちゃうと、読者が想像できる範囲が限定されてしまうから。あるいは、年代的にそこをストレートに書くことをしないのか。実は家族はもっと思いや伝えていることがあるのに、みのりの気持ちがストップしているということで、あえてそう書いているのかとも。でも、それぞれのエピソードが、肌感覚でわかる気がして、すらーっと楽しく読めました。本の作りとしては、むしろおとなのノスタルジー。あえてみずみずしさを表現しようと狙っているのかと思いました。高校生を対象にしていたら、こういうふうに書かないのでは。でも、若い世代にも読んでもらえるように作ってあったらよかったんじゃないかな。もし自分がこの原稿を受け取ったら、どういう本作りをするだろう。もう少しだけライトテイストな感じにするんじゃないかな。と思うので、皆さんの感想が聞きたいと思いました。

:佐藤多佳子の作品は、白百合のシンポジウムで話を聞いたのがきっかけで、文庫を読んだんですが、興味深く読んで、気に入ってました。スリや落語を題材にしてたりと、視点のもっていき方がいいなと思ってました。この作品では、木島とみのりの出会い、みのりが木島の絵の才能に惹かれていく、そしてお互いに惹かれあっていく、この関係もいいな、うまいなと思いました。あと、おじいちゃんの一言一言がきいていると思いました。

愁童:前に一度読んだんですが、今回はすごい人気で図書館で借りられなかったので、印象が薄くなってるんだけど……。才能のある方だなあと思った。でも、紙魚さんと同じで、大人向けなのか、子ども向けなのか、わからなかった。ときどき、視点が動いて、中年女性的感性が生で出てくるような感じがあるね。新潮社の売りとしては、児童文学的スパイスも入れておけば、大人の小説としても、児童文学としても売れるという狙いなのかな。その分、大人の小説として読むと、弱いところもあるよね。おじいちゃんのセリフなんか、児童文学としてはOKかもしれないけど、大人の小説として読んだら、ダサイよね。どちらかに割り切った方が、読み応えのある本になったんじゃないかな。木島がサッカーチームの少年達のあこがれである年上の女性と寝てしまうっていうところも、大人の視点でも、子どもの視点でも中途半端だよね。子どもの視点ならば、もう少し書きようがあると思うけど。

紙魚:確かに、「小説新潮」で読んでいたとき、他の作品に比べると、これだけすごく異質な感じでした。新潮に限らず、最近の文芸誌って、新しい風を吹かせたいという気持ちが強いように感じます。そして新しい風を求める先が今、児童文学に来ていると思うんです。少し前までは児童文学と大人の文学はちがうぞ!っていう意識が強かったんですけど、それが変わってきて、児童文学の中にもおもしろい作家がいる、どうして今まで気づかなかったんだろうというふうになってきている。これは、文芸の方から意識が変わっていったというより、児童文学の読者の力がそうさせたんじゃないかと思います。

:佐藤さんは、子どもの本を書くときと大人の本を書くときで、意識を変えているそうなんです。『ハンサム・ガール』(理論社)などは、子どもに楽しんでほしいと思って書いているのがわかるんだけれど、大人の作品になると、自分が楽しめる作品を書いている。で、この作品では新潮社にしても、中間を狙っている感じですね

愁童:絵についての薀蓄なんかは、子どもの本としてはいいんだけど、大人が読むとある種のうるささがあるよね。

紙魚:他の作品で、調べながら詳細を書いていくのがうまいなあといつも感心していましたが、スリや落語とちがって絵の場合、表現するのがなんて難しいんだろうとは思いましたね。

:でも、絵を文章にしていくところ、わたしは、面白かったですけどね。

ペガサス:絵の描写についていえば、どういう絵を描いているのか、私はピンと来なかったですね。絵を言葉で表すのは難しいんだなあと思いました。愁童さんのお話ですっきりしたんですけど、私も最初の2篇くらい読んで、ああ、これは短篇集なんだ、すごくうまい人だなと思ったんだけど、やっぱり「私ってうまいでしょ」という感じがあって、全部読む気にならずに放っておいたんですね。で、今日の読書会が迫ってきて、もう1篇くらい読んでおこうかなあと思って読んだら、同じ人物が出てきたんで、あわてて全篇読んだんです。全篇通して読んでみると、二人を交互に描く構成は面白いと思いました。みのりの部分を読んだ限りでは、みのりが誰かをどう思っているかは書かれているけれど、相手がみのりをどう見ているかは全くわからなくて、みのりの「まっすぐな気持ち」だけが感覚的にわかるように書かれている。みのりが人からどう思われているのか、唯一わかるのが木島の部分だけ、という作りが面白かったです。わたしも、みのりが通を好きでありながら、木島をいいと思う気持ちはわかるんだけど、どうして通から木島に移っていくのかがあまりよくわからなかった。そんなの理屈じゃないといわれればそれまでですが、移っていくところが、いまいちピンとこなかったですね。もっと二人の気持ちを深く掘り下げた方がいいかな、と思いました。妹のエピソードは、ちょっと余計だったのでは? YA向けで、普通とはちょっと違うところのある高校生男女が接点をもつ、という話は最近多いような気がするけれど、「絵を描く」というモチーフでつなげたところは、うまいな、他と一味違うな、と思いました。

:みのりが通ちゃんのところから出ていかなければ、という思いは、私はよくわかる気がしました。文化祭の頃になると、最初の嫌味な子ではなくて可愛い女の子になる。友達にも話しやすくなったと言われるようになり、外に出ていけるようになるということがわかる気がします。通ちゃんのところにしか居場所がなかったみのりが、やっと自分の居場所を見つけたから出ていけたのだっていうことだと思います。

ペガサス:図式としてそう解釈すべきなんだろうなって、わかるんだけれど、感情としてわからないのよ。

愁童:そこが親切じゃないよね。通の描写はたくさんあるのに、どういう人なのかよくわからない。

ペガサス:一方通行な感じは書けているのかな?

愁童:通のところがなぜみのりの居場所なのか、そこがかなり弱いよね。それでも、こういう女の子っているなって納得して読んじゃう。時代の雰囲気を味方につけるっていうか、作者のうまいところだと思った。

:『しゃべれどもしゃべれども』は、完全に大人の小説よね。

紙魚:大人向けの小説では、人物がもっとくっきり描かれていますよね。この、ぼんやりとしている感じは『サマータイム』(偕成社)なんかにちょっと似てる。

もぷしー:一種『スターガール』(ジェリー・スピネッリ/作 千葉茂樹/訳 理論社)を読んだときの感じに似ていますね。あえて語らない部分を残したかったのかな、と自分では帰結させていた。ファッションと括ってはいけないんでしょうが、16〜17歳くらいに向けて描かれる場合、本当にそれが心地よいのか、どう意図されていたのかが気になりますね。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ミラクルズ ボーイズ

ジャクリーン・ウッドソン著 さくまゆみこ訳 『ミラクルズボーイズ』
『ミラクルズ ボーイズ』
ジャクリーン・ウッドソン/作 さくまゆみこ/訳
理論社
2002.09

ねむりねずみ:ウッドソンの作品は『レーナ』(さくまゆみこ/訳 理論社)も読んだんだけど、すごく好き。黒人作家で、受賞歴もあるんだけど、黒人だというところがぎらぎらと表に出ていなくて、普通に等身大で生きている人たちが出てきて、それぞれにバックがある。やわらかいけど、シビアというのがいいと思う。今くらいになって、やっと書かれるようになったタイプの本なのかな。もっと前の公民権運動の頃は、シビアさが先にたって書けなかったのかな。ほぼ1日か2日間のことを取り上げていて、間に家族のことなどをはさみこみながら今に戻ってというリズムもいい。読み終わって、ずしっと充実感があったんだけど、後から感想をまとめようと思ってめくっていて、あれ、たった2日間のことだったんだ、とびっくりした。すごくさわやか。他の黒人作家でもそうなんだけど、社会状況がシビアな分家族があたたかい感じがするのは、ある種、伝統なのかな。

カーコ:翻訳者冥利につきるようないい作品ですね。ラファイエットの一人称の語りで成功していると思いました。12歳の少年の心理がうかびあがってくる。中に挿入されたお兄さんのエピソードも効果的。ラファイエットの視点に共感を持って読める。男兄弟って、大きくなるほど疎遠になったりするけど、このくらいの年代の兄弟のコンプレックスとかライバル心が、あたたかくえがかれていましたね。いつも子どもたちを見守っているお母さんもいい。エピソードのひとつひとつがリアルで、とてもすてきでした。

きょん:たんたんと書かれているけれど、印象としてはつらいなと思いながら読み始めた。最後、チャーリーは戻ってくるんだけど、もう少し救いがあるハッピーエンドでもよかったかな。いろいろなエピソードが入ってくるが、ディテールだけで、エピソードが入ってこない感じもした。さりげなさがよかった。

紙魚:私は、そんなにシビアだとか、つらいだとかいう感触をもたずに、普遍的な家族の物語として読めました。どんな社会状況にしろ、兄弟間のこと、親子のことって、共通していると思うんですね。すごくいい物語だなあと思ったので、たくさんの子どもたちに読んでほしいなあと思うんだけど、全体を見まわして、「物語のへそ」みたいなものがないので、本好きの子だったらともかく、読書に慣れていない人だとどうなんだろうとは思います。

ペガサス:静かな作品だと思いました。『どろぼうの神さま』が、場面が次々に入れ替わって映画を見ているようだったのに比べて、『ミラクルズボーイズ』のほうは、芝居の舞台の上に3人兄弟だけがいて、それぞれの長いセリフを聞いている感じ。言葉の重みを感じさせられた。男の子の兄弟っていうのは、おたがいにどこか一つでも認める部分を発見したときにはじめて、年上でも年下でも対等につきあえるようになると思うんだけど、それがよく出ていた。末っ子のラファイエットも、最終的にはお兄さんに認められる。この子を主人公にした意味がそこにあったんじゃないかな。

愁童:ぼくは、マイノリティみたいなものを全然感じなかったんだよね。いちばん感心したのは、作者が家族というものを信じていて、それを今の時代に書くっていくこと。今の時代の日本では、見かけは幸せな家庭はたくさんあるけどね。この本は、人間としてハッピーなことが書かれてる。だから、もっと前に書いてほしかったと思うね。大阪の池田小学校の殺人事件にしても、学校にカウンセリングを入れたりしてるけど、これだけ、母親、父親を子どもの目から書いたっていうのはすごいよね。あとさ、『どろぼうの神さま』とくらべても、子どもの年齢差がよく出てるよね。すばらしい。

:ラファイエットの視点で読み進めながら、「お母さん、目を覚ましてよ」なんてところで、涙腺がゆるんでしまった。チャーリーとの関わりで何か変わっていくのかなと思っていたら、少年院なんていうショッキングな事件があったりして。兄弟それぞれがそれぞれの重さを抱えていて、お兄さんはお兄さんでつらいし、いちばん下の子はその子なりにつらい。お兄さんも、単なる優等生じゃないし。ただ、お兄さんとラファイエットは、共通に話せることを持っている。最後、チャーリーが補導されて、物事が動く。語れなかったことを語っていけるようになる流れも、いいと思った。表現が情緒的で、落ち着いているんだけど、迫るものがあった。最後の写真の場面が好き。

アサギ:愁童さんの意見に似ているかしら。マイノリティというよりは、貧しい階層の家族の話。ところどころに、プエルトリコとかを感じるところもあるんだけど、全体としては静かでしみじみした物語。一人称小説で視点が「ぼく」になってるから、自分が生まれる前の話はお兄さんが語っているんだけど、ここだけは気になって、もう少しうまく処理できればよかったんじゃないかしら。ここが地の文で語り手がかわったのが、ういた感じになった。作者の工夫がほしかったな。それから、この子の12歳という目線で見て、タイレーの問題とか、子どもなりの感じ方が書かれていて、それがリアリティにつながっていた。最後、お話は静かで、大きなアクセントはないけれど、チャーリーのしこりがお母さんとお父さんの死にあったというのは、納得させられた。どちらの死にも立ちあえなかったというのは、疎外感を抱く、かなりのしこりだと思うのね。

ウェンディ:最初のうちは、チャーリーがもう1度悪さをしたら、3人で暮らせなくなってしまうというので、はらはらしながら読んでたんだけど、両親の死にたちあえなかったという事実があったことがわかて、とてもそれがかわいそうだった。それって、そういう材料をもっていない人にもきっと伝わる、伝わってほしいと思いました。『マーガレットとメイソン』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 ポプラ社)のシリーズは何度も読みました。確かにたんたんとしているんだけど、ああ、このセリフってこういう意味だったんだとわかるところがあって、きっとこの本も、くりかえし読んだら、たくさんの意味がつめこまれているにちがいないと思った。

愁童:ウッドソンって目線が深いよね。両親の死に立ちあえなかったことだけでなく、父親が公園に連れていくのはいつもタイレーで自分は連れてってもらえなかったりと、チャーリーがアウトローになりかけてるのを細かいことの集大成として書かれているのがすごいよね。家族のなかでも疎外感を味わっている。それをしぜんに書いてるのは、いいよね。

ねむりねずみ:チャーリーが金をとったのは、お母さんのいっていた楽園にみんなを連れていきたかったからでしょ。いってみれば、いつも何となく疎外感を感じていた人間が一発逆転を狙ったら、それが完全に裏目に出ちゃった。しかも結果として、お母さんの目にうつった自分の最後の姿が手錠をかけられた姿になったというあたり、すごく切なくて、すごくきいていると思う。

:お母さんと最後に何を話したかなんてところもね。

愁童:たださ、親父さんが死んだ原因っていうのは、ちょっとつくりすぎっていう感じもあるよね。違和感なく読めたけど。

ペガサス:なんで『ミラクルズボーイズ』っていうタイトルなの?

アカシア:お母さんのミラグロっていう名前が、英語だとミラクルとなって、その子どもたちっていう意味なんだと思うけど。

愁童:お父さんが犬を助けて、長男が「あの犬はだいじょうぶかな」ときいて、お父さんが「だいじょうぶだよ、ティー。おれは、もうあったかくなった」って答えるじゃない。長男は、犬のことをたずねたのに、お父さんは自分のことをきかれてるんだと勘ちがいする。そのすれちがいが、うまいよね。

アカシア:物語のへそみたいなのも大事だと思うけど、この作家って、プロットで読ませるのではなく、人間を描いていく作家だと思うのね。おさえた書き方をしている。チャーリーの側から、あるいはタイリーの側から書けば、もっとドラマティックになったのかもしれないけど。

愁童:いやいや、ラファイエットを主人公にしたのがよかったと思うよ。

カーコ:本のつくりもすてきよね。

すあま:最近、新しい本を読んでいて、筋はおもしろいんだけど、読後感が残る本は少ないと思ってたんですよね。でも、これは久しぶりに、それぞれの兄弟の実在感が残った。長編でもないのに、本を読んだという気持ちになった。友人が、兄弟の別の人から見るとおもしろいって言っていて、「ヒルクレストの娘たち」シリーズ(R.E.ハリス作 脇明子訳 岩波書店)みたいに、続編でそういうのがあるとおもしろいかも。

(2002年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


卵と小麦粉それからマドレーヌ

『卵と小麦粉それからマドレーヌ』
石井睦美/作
BL出版
2001

:読みながら肩透かしをくっている気分。この子と出会って、友だちになりたくないって言いながら、あっさり友だちになっていくのも、ええっ?って感じ。「ママ」を連発するのもおかしい。32ページの「だって、ママとふたり遊び暮らしていた時期は終わって、たったひとりで社会に出向いていくのよ。幼稚園にはいったのが……」なんていうセリフにも、脱力。聞き飽きたセリフの行列もむかつく! だけど、今どきってこういう感じなのかしらね。最後に、写真部の話が出てくるけど、この子が部活をしていた話なんて、それまでどこにも出てこない! 日常の描写などは細かくて、そんなところは細かくなくてもいいから、もっと感情を細かく書いてほしかった。

すあま:読み終わった感じが、まさに「マドレーヌ」のタイトルどおり。この題名は、カリスマ料理家の料理本のタイトルみたい。結局、品よくできたお菓子。マドレーヌのように、くせもなく、甘かったみたいな。21ページの挿絵は、これはマドレーヌじゃないよね。

愁童:あんまりおもしろくなかったですね。いちばんひっかかったのは、不登校になった友だちの父親が、いじめっ子のことを「やつら」と言ってくれたから救われたっていうところ。物書きとしては、雑すぎやしないかと思った。つくりがヤワで、あまい。お菓子つくるのに、フランスに行くというのも、情けない。もうちょっとがんばってほしいな。

アカシア:いつもやさしい羊さんがむかついているのは、初めて見ました(笑)。この作家は、子どもたちにどういう世界をもたらそうとしているのかが疑問。106ページなんかも、ぞぞっとしてしまった。子どもの誕生日が、パリの革命記念日っていうんだけど、この作家には革命なんてことは全然わかってなくて、スパイスがわりに使ってるんだろうな。半世紀前ならともかく、今の時代に、お菓子を習いに半年フランスに行く程度で、なぜこんなに家族が大騒ぎするのかがわからない。今だってこういう親や子どもがいるのはわかるけど、子どもの本の作家なんだから、どういう未来像を子どもに手渡したいのかをちゃんと考えたうえで書いてほしい。自己陶酔とか自己憐憫的なところも、不愉快だった。なんで長さんの絵なんだろうね。

紙魚:このシリーズはみんな長さんが絵を描いてるんじゃないかな。長さんのイラストじゃなかったら、もっとあまくなっちゃったと思う。

愁童:この物語って、「殴るのはいけない」みたいな短絡的な考え方に通じていると思うな。もっと複雑な人間関係に目を向けないとな。

アカシア:いじめにしても、いじめられっ子だけでなく、いじめっ子の側も見てみるっていうのが、少なくとも文学だよね。

ペガサス:おもしろい本っていうのは、必ずどこかしらに、こういうものの見方っていいなとか、こういうふうに考えられたらいいな、と思う部分があると思うんだけど、この本はそういう新しい発見がひとつもなかった。出だしは、インパクトのあるセリフをもってきて、おもしろいのかなと思わせるんだけど、読んでいくと、亜矢はこういうセリフを言うようなタイプの子じゃないから違和感を感じる。作者はこの時期の女の子特有の感情とか、母親に対する気持ちなどを書きたかったんだと思うけど、それを3人の女の子と3人のママたちにただ適当に振り分けて書いている感じ。人物の造形が浅いので、紙を切り抜いて作った人形を動かしてるような印象。「捨てられた子どもは、捨てられたからこそじぶんを獲得していくんだよ」とか、気のきいたセリフを言わせてるつもりだろうけど、どれも特に新鮮じゃないし、作家の自己満足のように思える。確かに、女の子同士で、新しい魅力をもつ友だちに夢中になったり、口調を真似たり、その子の薦める本を読んでみたりという感情があるのはわかるけど、「それで、あらためて亜矢を好きになっていたところだった」なんて言うかな? お母さんが、「亜矢と仲良くしてくださってありがとう」なんて、言わないでしょ。家庭の中の、パパやママの描き方も、いまどき何なんだろうと思った。子どもの親に対する思いは、『ミラクルズボーイズ』みたいには伝わってこない。

紙魚:私は、この物語って、リアリズムではなく、ファンタジーだと思う。非日常の物語を読んで夢を見るのではなくて、日常の物語を読んで日々のことに彩りをそえるというような本。確かに、くすぐったいようなところはあるんだけど、ある時期の、それも、この読書会のメンバーのように骨っぽくないような女の子だったら、この本を好きな子もいるんじゃないかなとは思う。この会は、骨っぽさ100%ですから!

ウェンディ:お母さんの立場で読んでしまったのは、娘に感情移入できなかったからだと思うんだけど、私が夫をおいて留学したときも、家族を犠牲にしたように言われましたよ。

アカシア:でも作家って、世間の古い部分をただ書けばいいってもんじゃないんじゃない?

ウェンディ:ただ、平均像からすると、留学するっていうのは、あとがきにあるように、「赤い靴」かもしれないですよね。

ペガサス:主婦のエッセイだったら、そういうのを書いてもそれはそれで読めるかもしれないけど……。

愁童:夫婦関係はそれでいいかもしれないけど、子どもはたまらないよ。なんで行くのかわかんないよ。

カーコ:家中がテレビドラマのセットみたい。でも、確かにこういうお母さんっていますよね。子どもを囲いこんでしまっているような人たち。

きょん:安っぽいテレビドラマみたい。エピソードがほどよく構成されている感じ。

カーコ:最初から最後まで、私はこの物語の世界になじめなかった。今の一般的な中学生がこれを読んで、こういう世界をすてきだと思うのかどうか疑問でした。こんなお父さんって、ほんとにいるのかな、いてほしいと思うのかな。この作者は、主人公の女の子よりも、むしろこの「赤い靴をはく」お母さんを書きたかったのかなと思いました。日本人の作家の描くリアリズムの児童文学って、こんなふうになるのでしょうか。

ねむりねずみ:なんなんだろうな。ぬくぬくと生きている社会を反映しているのかな。致命的なのは、この女の子に魅力が感じられないこと。駄々をこねている子どもをシラッと見ているようなスタンスになっちゃった。セリフに入ってくる言葉も、本人の肉声になっていない。設定もバブリーで、専業主婦で目覚めてパリに留学っていうのもいただけない。日本の社会っていうのは、創作を書きにくい状況なんだろうな。これを読んで絶望しなくてもいいんだろうとは思うけれど。

ウェンディ:自分が母親の立場に似たところがあるので、母親寄りで読んでしまうのかなと思っていたけれど、みなさんも同じだったんですね。そこには葛藤とか成長とかはきちんと描かれない。なんとなくふわっとしていて、なんとなくいいというのは、まさにトレンディドラマ。日本の親子はこういうのが現実的なのかな。

紙魚:経済的にはちがうと思うけど、精神的には、今の日本って、こういう家庭像なんじゃないかな。

:まあ、親もいっしょにプチ整形したり、ダイエットをすすめたりするんだっていうんだからね。

ペガサス:いいところを挙げるとすると、本文の組みが、下の空きが広くて読みやすかった。

アカシア:そうね、杉浦さんの装丁がいいよね。


どろぼうの神さま

『どろぼうの神さま』
コルネーリア・フンケ/作 細井直子/訳
WAVE出版
2002

ねむりねずみ:ちょうど英訳も出ていて、書評誌などでも好意的に扱われているようです。「大人はよく子どものころはよかった、という」という惹句にひかれて読んでいったんだけど、読み始めると、話がぽんぽん展開していくのでおもしろく読めた。リッチオは「カール」、モスカは「蚊」、ロベルトの相棒は「愛人」、バルバロッサは「赤いひげ」なんて、名前にもそれぞれ意味があって、知っている人はおもしろいんだろうな。スキピオだけが適度に大人になって終わるというあたりは、なるほどなって思いました。なんでかなあ、子どもたちが悪者を追いつめていく『エーミールと探偵たち』(ケストナー作 高橋健二訳 岩波書店)を連想してしまった。バルバロッサが小さくなった後で、子どもたちがうまいこと辻褄を合わせようとするあたりで、子どもってほんとうに冷たくはなれないんだなあと思ったりした。ひとつだけわからなかったんだけど、メリーゴーラウンドの翼がとれたのは、直せばいいのになと思った。

カーコ:粉々になったから直せなかったんですよ。この本は、ヨーロッパのほかの国でも翻訳が出て、わりと話題になっているみたいですね。ファンタジーですよね。読者をひっぱっていくストーリー性とベネツィアという舞台設定がすべてだと思いました。人物の深さは感じられないし、孤児の子どもたちの結束も現実ばなれしている。プロスパーの弟ボーに対する思いも唐突だし、大人たちが都合よく助けてくれる。でも、お話として、子どもたちが安心して読み進められるかなと思いました。作者のこだわりは、不思議なメリーゴーランドというモチーフとベネツィアという街にあったのかな。メリーゴーランドが壊れるシーンのあと、物語の緊張が途切れる感じがしました。

紙魚:私は、筋はおもしろいとは思うけど、ちょっと物足りなかったです。大人になったり、子どもになったりできるメリーゴーラウンドが出てきて、わー、これからおもしろくなりそうって思ったのもつかのま、それによって起こる、彼らの心の動きがぜんぜん出てこない。子どもの心をもったまま、体だけ大きくなったら、いろんな困ることや、葛藤があるはずでしょう。バルバロッサの方は、ちょっとおもしろおかしく書かれていたけど、肝心のスキピオについては、ほとんどなし。帯や巻頭の文句に、あれだけ、大人と子ども、どっちがいいのかなんてことが書かれているのに、単なる体の大きさしか伝わってこなかったのが残念。そここそ、書いてほしかった。

アサギ:この本ね、ドイツの雑誌で「なぜイギリスで好まれたのか」という特集を組まれたから、前から知ってはいたんです。ドイツで軽いエンターテインメント的なものを書こうとすると、ドイツを離れなくちゃいけないのよね。外国にいくと、想像の翼がはたらくんでしょうね。

ねむりねずみ:べネツィアだから描けたっていうところ、ありますよね。ベネツィアって、巨大テーマパークですもの。

ペガサス:短い章がいっぱいあって、連載ものを読んでいるような印象。『エーミールと探偵たち』を思わせるという感想もあったけど、大人対子どもという図式がはっきりした物語でしたね。描写も具体的。どういうものを持っていて、それがどこに置いてあってという、具体的な描写がきちんとしているので、情景を目に浮かべやすい。読者対象は、この本の造りでは、どんなに読書力があっても、小学校上級から中学生以上だけど、読みやすさや物語の内容からいって、もっと下の子どもたちにも楽しめるようにしてもよかったのに。

アカシア:最初入りにくかったけど、三分の一くらい進んでからは、電車を乗り過ごすほど夢中で読んでしまった。ただ、ゲームのノベライゼーションみたいなプロット重視の作品ではありますね。最後、どたばたで終わっちゃったのは、残念。

愁童:ゲームの骨子ってだいたい決まってるんですよね。強い人は最後まで強い。スキピオが大人になってどうするかっていうと、親父の威光で生きてるわけですよね。映画館を追われてどうするかったって、お金持ちの女の人に救われるわけだから、底が浅い。これだったらゲームにすればいいし、この内容だったら長すぎ。大人のぼくが読んでもかったるいので、子どもは読めないと思う。ゲームを経験しているような30代は、読むんじゃないかな。

すあま:最後、落ち着くところに落ち着いて、読後感もよしって感じの本ですよね。でも、あそこまで大きな話なのに、あっさりしている。まとまってはいるんだけど、シュッと終わっちゃう。メリーゴーラウンドまで広げなくてもよかったんじゃないかな。先に不思議なメリーゴーラウンドというのが作者の頭にあったのかもしれないけど。1冊ではあるんだけど、前半後半でまったくちがう話という感じがする。それから、人物の印象が薄いという話があったけど、最後、誰が主人公かと考えると、わからない。大人になってからの話もないし。いろんな子の顔は浮かぶんだけど、強烈な印象がない。しばらくたつと思い出せない。

:私は、兄弟2人を主人公にして読みました。弟を守ろうとしている姿とかね。子どもたちがそれぞれに事情をかかえているけど、そこにある危うさとか脆さは、あまり感じられなかった。プロスパーとボーが、2人きりでべネツィアまで逃げてくるっていうのは無理じゃないかしら。あとの3人も、どういうことがあって独りで生きなくてはいけないのかを書いてくれれば、もっと力強さが加わったのに。メリーゴーラウンドに乗るところあたりから、失速した感じ。私は、体だけじゃなくて心も子どもに戻るのかなと思っていたから、ここで、ずっこけました。べネツィアの風景は楽しめた。でも、子どもだけの生活が楽しいとは思えかったな。

ペガサス:みんなの感想をきいてても思ったけど、やっぱりちょっと長すぎるのよね。

ねむりねずみ:スキピオの謎がとけちゃったら、次はメリーゴーラウンドの謎というように、ちょっといきあたりばったりの感もありますね。

アカシア:けっこう読まれてるのよ。図書館でも貸出が順番待ちで、結局間に合わないから私は買ったの。

ペガサス:ジュンク堂では、寓話のジャンルに置いてあった。これこそ、児童書として認知されてほしいけど。

ウェンディ:私は初め、なかなか読み進められなくて、一昨日の夜、メリーゴーラウンドまで読んで、だから一昨日の夜がいちばん楽しかったかな。要するに、エンターテインメントですよね。「大人はわすれてしまっている 子どもでいるというのが、どういうことなのか」と書かれているので、きっとそれが言いたいんだろうけど、途中で、大人よりも子ども時代のほうがいいと言いすぎている気がした。大人は悪いヤツというステレオタイプが気になります。私は、兄弟のお兄ちゃんにくっついて読んだけど、印象的な子どもがあまりいなかったし、いい大人が出てこなかったのが残念。似たような話に『赤毛のゾラ』(クルト・ヘルト/作 渡辺芳子/訳 福武書店)があるけど、これは40年代のクロアチアが舞台なんですよね。現代にもこういうことってあるのかなと、ふと疑問に思いました。探偵や、骨董屋が出てきて、時代をぼかしているのかと思いきや、携帯電話が出てきて、いったい時代はいつなんでしょう?

カーコ:リアルであることを求めちゃいけない作品なのかも。

ペガサス:あとさあ、くしゃみをする亀っておもしろいわよね。『どろぼうの神さま』ってタイトルも子どもにとって魅力的だと思う。

:探偵と子どもの関係もおもしろかったわ。

愁童:終わりの方でえんえんと続く、バルバロッサの養子の話はおもしろくないよ。子どもが読んだら、なにこれって感じ。大人向けなのかな。

ウェンディ:日本だと、海外を舞台にした話は、どうしても作者の知識不足のせいで破綻があったりするけど、ヨーロッパの国どうしだと、どうなんでしょう?

アサギ:まあ、ドイツとイタリアは、近いからね。このあいだ、友人が平野啓一郎の『葬送』(新潮社)を読んだのね。フランスが舞台で、ドラクロアとショパンの物語なんだけど、会話がどうしても日本人の会話にしか思えないんだって。日本人作家が外国人を主人公にするのは、やっぱり難しいのね。


それぞれのかいだん

『それぞれのかいだん』
アン・ファイン/作 灰島かり/訳
評論社
2000

ねむりねずみ:私は、アン・ファイン自体が好きなの。いい人ばかりとか、悪い人ばかりじゃないし、親の都合で離婚という事態になっても、子どもたちがそれぞれに自分なりの位置をつかもうとしていくのがいい。『ぎょろ目のジェラルド』(岡本浜江/訳 講談社)もそうだったけど、リアルでそれでいてユーモラスだし、元気が出る作品だから好き。前々からアン・ファインの作品に限らず、英米の児童文学には離婚とか片親などの家庭を扱ったものが多いなあ、やっぱり、深刻な問題が日本より早くきてたんだなあと思っていたけれど、これもそういう本ですね。それにしても、お手軽な解決がないところも、作者の力だと思った。とくによかったのはコリンの話。コリンの踏ん切れない感じがずっと続いていて、最後にコリンが「話すことなんか何もない」というのを忘れて終わるあたりがいいなあ。内容だけでなく、全体の雰囲気でその子の個性を表していると思いました。でも、漫画の延長線みたいな表紙と挿絵には、猛烈に違和感を抱いた。ひとつひとつのお話が類型的じゃなくて、それぞれが悩んで、解決することもしないこともあるっていうあたり、深刻な話なのに基本的に暗くなくて、読後感がさわやかだというあたりも好き。

アカシア:私もアン・ファインは好き。本来だったら出会わない人たちが、あるきっかけで出会う、という設定もうまい。シリアスな題材を扱っていながら、ユーモアもたっぷり。そういうのができるのって、イギリスではアン・ファインとジャクリーン・ウィルソンくらいじゃないかな。子どもの歴史の中で見ると、かつては親の庇護のもとで安心していた子どもたちは、今や親には頼れない。それどころか親の不始末に寛容に対処し、自分で居場所を探さなければいけないというところまで来ている。それぞれの家庭環境が複雑なので、関係図があるのは、わかりやすくて助かったな。

きょん:こういうテーマなので、こういう装丁にしたのかもしれないけど、ちょっと……。辛辣な感じで、真実を語るのがおもしろい。子どもは真実をわかっていながら、それを表現することができないから、おとなは子どもにはわからないと思っているんですよね。ちょっと説教くさいところもあるんだけど、心にずんときた。でも、こういうふうに、つらい話でまとめられているのって、子どもが読みたいと思うのかな、という疑問はある。

カーコ:このあいだ『トラベリングパンツ』(アン・ブラッシェアーズ/作 大嶌双恵/訳 理論社)を読んだとき、アカシアさんが「同じように数人の子を描いているけれど、こっちのほうが人物がたっている」とおっしゃっていたので、そういう頭で読みました。いつもとちがう状況におかれた中学生が、見つけた手記をきっかけに、素直になって、心がやわらかくなって語りだすというのがうまいなと思います。いろいろな家族をうつしだしていておもしろく読めた。子どもたちがこれをどういうふうに受け止めるのかなとは思うんだけど、素直に深く語る子ども自身の声を読んで、人はそれぞれいろんなことを考えているんだな、背景があるんだなということを感じとれるんじゃないかな。複雑な家族の物語なのに誘い込み方がうまい。中学生が合宿に行って、幽霊屋敷で嵐、こわい話かなってひきつけておいて、本題に入っていく。
本作りは気になった。文字の大きさとか装丁とか、しっくりきませんでした。文字が大きければ読みやすいわけではないのに。これだと、内容が安っぽく見えてしまうのでは?

紙魚:みなさんからも出てますが、やはり装丁はしっくりこないです。私、注文してて届いたとき、あれ、まちがった本がきたのかなって思っちゃいました。

:期待して読んだら、ちょっと裏切られた感じ。3点あげられるんですが、ひとつは、導入としては成功しているが、導入にすぎない。何かしら生かされたかたちで円環が閉じるようなところがほしかった。自分のうまさに寄りかかっているのでは? ふたつめは、親子の関係を書くには、大人どうしの関係を書けなければならない。リアリティを感じられなかった。三つめは、短編として散漫。共通のモチーフも弱い。でも、辛口になっちゃったのは、期待しすぎたから。アン・ファインの今までの作品よりいいとは思えなかった。この装丁は、日本で売りたいという意識が強すぎるのかも。

トチ:私も訳書が出るのを期待していたんだけど、書店で装丁を見てぎょっとしたわ。あまりにも子どもにおもねっているような感じがしていやでした。物語の作り方はさすがアン・ファインだと思ったけれど、実はこのごろあまりうまい作品は好きじゃなくなってきたの。技巧が透けて見えるっていうのかな。それから、この社はアン・ファインの作品の版権をたくさん取っているらしいけれど、なかなか出版されない。歴史物語やファンタジーなら話は別だけれど、アン・ファインの作品のように現代の子どもを主人公に置いたものは、早く出版してもらいたいと思う。版権を取るというのは、翻訳出版する権利を得るだけでなく、それだけの義務も負うってことだと思うんだけれど。

愁童:ぼくも、冒頭の誘い込みがうまいとは思ったんだけど、個人の話になっていくと、がっかりした。策におぼれたという感じ。継母、継父だから不幸っていう悩みのサンプルを並べたみたいで、それで?って言いたくなる。今や実の親だって似たような悩みはあるわけで、親の組み合わせ方をいろいろ並べてみても、あまり意味ないんじゃないか。ここからなにを子供に読みとってほしいんだろ。半ば話すことを強要してて、話せば楽になるよってカウンセリングの事例研究みたい。話して救われたみたいな書き方って好きになれない。

アカシア:たとえば、アメリカだと、単親家庭を経験したことがある子どもは、全体の半分いるんですって。日本の環境でこれを読むと特別に思えるかもしれないけど、アメリカやイギリスの子が読むともっと普通で切実なんじゃないかな。リアルだと思う。カウンセリングらしいところもあるのはたしかだけど、読んで一歩進める気持ちになれる。そっか、やっぱりカウンセリングの効用もあるのかもしれない。

愁童:そうかもしれない。でも、日本の子どもに、この作品の何をどう読んでほしいんだろ?

トチ:出版社はそこまで意識してこの作品を出したんじゃないと思うけれど……

アカシア:アン・ファインだったら、賞を取った他の作品を先に出してもいいのにね。

愁童:今、児童書業界、不況でしょ。ぼくは最近、どうしても、出す側と受け取る側のギャップを感じるね。

トチ:本当のところ、アン・ファインの版権をすべて取って、出せるのから出していっているんじゃない? それから、こういう後書きって好き? なんか物語りの余韻を壊してしまうような気がするんだけど。

ペガサス:私なんか、後書きがないとほっとしちゃうこともある。

アカシア:さっき、うまさが鼻につくって話が出たけど、私は、うまさって子どもの本には必要なんじゃないかと思う。今ってね、『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店)がわからないっていう文学部の学生がいる時代なのよ。文学を読みなれた人はともかく、子どもの本にはプロットのおもしろさって、欠くべかざるものだと思うな。

愁童:「ハリー・ポッター」が子どもの読書の起爆剤になるかって話が出てたけど、つぎの1冊に何を読むかが大切なのに、ちゃんと考えてない送り手の側に問題があると思うな。

アカシア:文学は、プロットとキャラクターとポイント・オブ・ビューの3点が必要と裕さんが前に言ってたけど、今はプロットだけの本が多すぎる。

紙魚:ただ、「ハリー・ポッター」を読んだ子どもたちには、1冊読み通した満足感とか達成感がかならずあると思うんですよ。それがかならず次の1冊につながっていくと私は思う。私も子どものときって、純文学とエンターテイメントに分けることなく、どんな本でも、本は本でしかなかったし。

アカシア:そうはいってもね、人と人のつながりが描かれているのが文学なのに、そういうものが少なすぎる。きちんと書き込まれているものも子どもに読ませたい。

愁童:児童文学を読んで育った親の世代が、わりあい保守的なんだよね。森絵都とかぜんぜん読んでないんだよ。そうすると、出版社がせっかく出しても広がらないよね。それで今の子たちって、漫画のノベライズとか読んでるんだよ。学校の先生も、どういう本が出ているか知らないよね。

きょん:それって、絵本の世界にもあると思うんです。どんなに新刊を出しても、すすめる側の先生方は、古いものしか出してこない。

愁童:新しいものを探していこうとしない。権威とかにも弱いしね。

ペガサス:でも絵本は、実際クラシックなロングセラーの方がいいのが多いわよ。

カーコ:中学生は、お金を持って「ハリー・ポッター」を自分で買いにいくだけの財力がある。口コミが発達していて、おもしろいと思えばお金をかけられる。だから、司書さんにもっと他の本も手渡してほしいですよね。うちの近所の図書館は、ヤングアダルトの棚がないんです。中高生は利用が少ないとか、一般の本と線引きができないとか、難しい点はあるけれど、働きかけてほしいですよね、プロとして。図書館員の職自体が自治体に尊重されていないという問題もあるんでしょうけど。さっき出た森絵都も、司書が知っていれば学校図書館に置くんでしょうし。

ペガサス:図書館員の集まりに行ったりすると、親に「うちの子は『ハリー・ポッター』を楽しそうに読んでた」って言われて図書館員はだまっちゃうのよ。言葉を持たないの。本を扱う仕事の人がそういう意識だと残念ね。


おき去りにされた猫

『おき去りにされた猫』
C・アドラー/作 足沢良子/訳
金の星社
1985

:この夏、知り合いのお母さんが、行方不明になって、しばらくその子どもたちをあずかっていたの。彼らひとりひとりの毎日は、こんなもんじゃなかった。この本には、リアリティがまったく感じられなかったわ。こんなに静かに受け止められないはず。私は、あずかった子どもたちの感情の起伏の凄まじさにたじろいだんです。こんなふうに大人の世界を受け止めるはずはない。その子たちに、この本は読ませられない。

:私は子どもの本を読み始めて間もない頃、読んだんです。これ、課題図書だったのよね。子どもが里子に出され、転々としている姿に、感動してしまって……。子どもがこんなふうに猫と自分を重ね合わせて生きていて、家族に入れたり入れなかったり、だんだん気持ちがかわっていく様子に、泣けてきた。だから、「変則的な家族」というテーマがあがったとき、この本だ! と推薦したのね。主人公が自分の力を出していけることになって、本当によかった。つぎに生きていく場所が見つかってほっとした。

ねむりねずみ:淡々としてましたね。訳も物語も。それはそれで、おもしろく読んだんだけど、なんか里親家族がいい人過ぎて、かえってへそ曲がりに、主人公を働かせるせこいおばさんがほんとうはどんな人だったのかと、そっちのほうが気になりました。ちょっとできすぎかなって思う。まったく駄目だとは思わないし、お母さんと一緒になることをただただ祈るところからは一歩抜け出すから、そういう意味では成長の物語なんだろうけれど、どうもいい人ばっかりというのがねえ。猫に自分の思いを重ねることもとてもよくわかるんだけど。なんかなあ、こういうのが古いっていう感じなのかと思った。

愁童:ぼくも、たしかに古いと思うけど、3冊の中ではいちばん安心して読めた。これで幸せになれるかどうかは関係ないと思うんだよね。一つの虚構の世界が気持ちよく終わったなってことでいいんじゃないか。猫の勝手な習性をきちんとおさえていて、ラストの連れて行こうとして逃げられるシーンなど、少年の生き方に重ねた暗喩じゃないかな、なんて思った。

アカシア:この当時(81年)だと、こういう書き方もあるのかな。でも、70年代の『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン作 岡本浜江訳 偕成社)ではもうすでに、「いい子」を離れた子ども像が書かれていたんだけどな。これは、とってもいい子で、とってもいい家族にめぐり合えたという、稀に見る幸運な話で、ひとつの作品としては完成されているかもしれないけど、実際にこういう状況にある子が読んだら、ばかにされていると感じるんじゃないかしら。『メイおばちゃんの庭』(C・ライラント作 斎藤倫子訳 あかね書房)の主人公は、同じような境遇で里親をたらいまわしにされるんだけど、こっちはお母さんにあったかく育てられた記憶があるのよね。その記憶がないと、児童心理学的にも、こんなにいい子にはなれないはず。リアリティは確かにないわね。

愁童:書き手はさ、こういうおとぎ話風なメッセージにしてもいいんじゃないかな。子どもが楽しんでくれれば。

アカシア:おとぎ話ふうに読めばいいってこと? でも、実際に大変な境遇におかれた子は増えているわけだし、社会もそういう子どもを理解する必要が増してるわけだから、リアリティのない「いい子」が書かれるっていうのは問題だと思うな。やっぱりこういう物語でリアリティのあるものって、何らかのかたちで自分が関わった人しか書けないと思う。そうじゃないと嘘くさい。

:実際に子どもがこういう状況だったら、なかなかこういう本は読まないでしょうね。

トチ:幸せな子どもが読む本よね。『銀の馬車』(C・アドラー/作 足沢良子/訳 金の星社)なんかも。ストーリーのもっていきかたはうまいから。

きょん:私はこの本、好きでした。たまたま置き去りにされていなくても、心理的に置き去りされている子どももいるじゃないですか。この子は、ひとりぼっちになった自分を、最終的に肯定的に受け入れることによって、これから生きていく姿勢を手に入れる。それがハッピーエンドだと思う。自立するということがハッピーエンド。里親がいい人たちだというのも、甘いかもしれないけど、読んでいて安心感を抱かせる。リアルではないかもしれないけど、作家が書きたかったのは、少年の心の自立だったんじゃないかな。

ねむりねずみ:でも、自立するにしても、あんまり葛藤がなかった。こんなに簡単に心がひらいていくかな? そこが腑におちない。

愁童:それは、読み手の想像力の問題じゃないかな。

ねむりねずみ:内面の、という意味じゃなくて、外部の人との葛藤という意味なんですけどね。里親に心を開くのに、こんなに衝突なしに開けるのか、という。

きょん:淡々と書かれていても、私は葛藤を感じましたが。

カーコ:アイディアがいいとか構成がいいとか、最近は技巧的なお話に注目が集まる傾向にあると思うんですけど、その中で正攻法でまっすぐに描かれていて、古いのかもしれないけど私は好きでした。昔の『小公女』とか『フランダースの犬』みたいに、筋がはっきりして完結した終わり方、幸せな終わり方はほっとするじゃないですか。私は、リアリティがないとは思いませんでした。まわりの人間とのかかわりで少年の心が変化していくようすがよく描かれていると思った。どなりあう言葉をそのまま書くのがリアリティというわけではないし。会話の部分に、英米の作品だということを感じましたね。ここまで、日本人ははっきりと言葉であらわさないから。いいなあと思う文章がはしばしばあった。たとえば38ページの、チャドがポリーに「どうしてあんなに本を読むんだい?」ときくと、「本の中の人は現実の人よりもっと、本当のことがわかると思うのよ」と答えるところとか、201ページの「だれかを愛するように教え、そのあとおき去りにしてしまうなんて、ひどいことだ。」などの一文は、じーんときました。翻訳では、作品全体の雰囲気の作り方がうまいなあと思いました。

紙魚:この物語は、冒頭から、少年の気持ちを映し出したような湿りけのある陰鬱な空気におされたんですけど、森に入っていくにしても、その情景描写が、少年の心とすごく重なるんですよね。そのていねいな積み重ねが、物語をいっそう奥深いものにさせていたと思います。おもしろく読めました。


おばあちゃんはハーレーにのって

『おばあちゃんはハーレーにのって』
ニーナ・ボーデン/作 こだまともこ/訳
偕成社
2002

:「プタ」とか、言葉あそびをうまく訳してるなと思った。自分自身の体験からかもしれないけど、ニーナ・ボーデンって、最後のところで、陰影を書くのを避けちゃうのね。お父さんもお母さんも狂言回しのように、やけにさらっと書いている。ただ、おばあちゃんは、素敵にかっこよく書けていて成功している。現代的なおばあちゃんで、精神的な病気につきあう様もリアリティがあって、パターン化してない。それから、子どもどうしの関係で、サブのプロットがあるのは、うまかった。でも、いちばん感動したのは、訳者の後書き。

紙魚:家族って、距離も近いし、時間も長くいるのに、一日一日のことを話したりはしても、自分のことを紹介するように話したりはしないじゃないですか。たとえば、初めて会った人には、趣味は何だとか、好きな食べ物は何だとか、自分のことをてっとりばやく、かいつまんで話しますよね。でも、家族の場合は、共に生活するうちに、お互いのことをつかんでいく。だから意外に知らないことがあったり、勘違いしてたりするんだけど、この物語のなかで、実の両親の家から帰る時のプレゼントの中に図書券が入っていたところ、とても主人公の気持ちが伝わりました。やっぱり、家族は合コンのように(!)てっとりばやく、相手を知るという関係ではないんですよね。

カーコ:この女の子は育ての親と実の親との間で揺れるんですけど、結局きちんと向き合ってくれるほうを選ぶんですよね。これって、現代の日本の子どもに通じるテーマだなと思いました。親がいつも子どものことを見ていることはとても大事なのに、今って、子どもが中学生くらいになると、「この子はもう大きいから」ってすっかり子どもから離れてしまう親が多いような気がします。だから、このおばあちゃんとこの子の関係は、テーマとしてすごくおもしろかった。

きょん:途中までしか読んでないので印象だけなんですけど、テンポがよくて現代的。

アカシア:私は小さいときに、かわいそうで健気な主人公が出てくる本をいっぱい読んで、なんてかわいそうなのと感動してたことがあるんですね。そんな自分が今は嫌なので、そういう本は眉唾と思っているんです。この本はそういうのと違って、最初から、読者の同情をひくように書かれていない。女の子が、変なおばあちゃんの人間性に気づいていく関係をきちっと書いている。実際の両親がカリカチュアライズされているところは、ちょっとやりすぎな印象を受けましたけど。訳は、うまい。

愁童:ぼくはね、日本語のタイトルで勝手にイメージが出来上がっちゃって、違った方向に期待しすぎちゃった。だから、ちょっとがっかりした。だってハーレーに乗るって、すごくマニアックなことで、それもおばあちゃんでしょ。その人物像の方に想像が膨らみすぎちゃった。その時点で、本筋を読み損なっているんだね。で、おばあちゃんは、あんまりよく書けてないなって、もどかしい思いをしながら読むハメになっちゃった。3冊の中では、いちばんこの子が不幸だよね。実の親が健在なのに、その存在になじめないんだから。それから翻訳って難しいね。「プタ」って、日本人からすると、おばあちゃんを鮮明にイメージしづらいような気がした。

アカシア:原題はGRANNY THE PAGで、pagにはpig との関連もあるし、hagからの連想もあるかもしれない。46ページには「プタたちは特別な人たち」っていう表現があるけど、ここはKGBとかCIAみたいな秘密諜報機関とか、それに類するような秘密の団体をにおわせているんだと思うのね。そういう得体の知れない胡散臭さみたいなものは「プタ」だと伝わらないかもね。でも、ここは翻訳不可能な部分だと思う。

愁童:あとさ、親権を有利な展開に感じさせる伏線として精神を病んでるフリスバーさんの描写が出てくるんだけど、そこはちょっとひっかかった。ストーリー展開の上であまり必然性が感じられない。最後の、おばあちゃんが溺れそうになった後、たばこをやめてくれたという一行で、すとんと終わらせる所なんかは、うまいですね。

トチ:私は、訪ねてきた精神病患者のおじいさんと主人公の少女のやりとりの部分を読んで、感動したんだけど。後書きを読むと、作者の家族にも精神をわずらった人がいるというから、それでこれだけ深く書けているんだと思ったのね。『ぼくの心の闇の声』(ロバート・コーミア/作 原田勝/訳 徳間書店)なんかは、原作にある精神病院に関する一文をカットしているのよ。あえてそういうことを出さないようにしている。差別になるかならないか、あまり神経を使いすぎてもいけないし、ハリポタの事件のように無神経なのももちろん困る。でも、この作品ではあまり気にならなかったけど。

ねむりねずみ:主人公がいい子すぎず、悪い子でもなく、ちょうどその年齢の子どもという感じでいきいきしていて好きでした。一人称の語り口がぴったりだと思う。おばあちゃんもすてきな人だし。両親はたしかにステレオタイプに書かれているけれど、この子から見れば、そういう感じに見えるんだろうと思った。最後に裁判所の決定がおりて一緒に住み続けた後の、海の場面が好きです。あの場面では力関係の逆転が示唆されている。それまでのかなり自立しているとはいえ女の子が面倒を見てもらう、頼る関係での「いっしょにいたい」から、やがては自分が「めんどうをみるんだ」という対等な関係が感じ取れて、それがぐっときた。さっきのリアリティの話に戻れば、この子が、心を病んだおじさんに対して見事に対処できたのは、日頃おばあちゃんを見てそう育ってきたからなわけで、あの場面はふたりの関係をあらわすための重要な描写だと思う。それと、この本を爽快感を持って読み終えることができたのは、この子がからっとしていて、誰かの力を頼ることなく、自分で精一杯動いているからだと思う。

:私も好きな作品でした。いきがいい女の子、かっこいいおばあちゃんが出てきて、おもしろく読めた。私も、祖母のもとで暮らしてたことがあるんです。中2くらいのときに、両親のところに戻らなくちゃいけなくて、親の財布からお金をくすねて、おばあちゃんの家へ行ったりした。納得できない時期だったんですね。この子の気持ちと重なりました。おばあちゃんと少女の関係がとってもいい。

ペガサス:私ね、途中まで、おばあちゃんを「ブタ」って読んでたの。でも、原題を見て「プタ」なんだって気づいたもんだから、おばあちゃんの印象がちょっと違ってしまったかもしれない。おばあちゃんがすてきというよりは、主人公に好感をもてた。「あたしが」っていう一人称で書かれているけれど、実際には子どもがここまで表現できるわけはなく、著者が影のナレーターとなっているのだけど、気持ちにそって読めるのがいいと思いました。両親がカリカチュアライズされているのも、この子から見ればそうなんだから、私はうまいと思ったんですね。193ページの「その晩は、いつもよりおそくベッドにはいった。プタは、ずっとあたしの部屋にいてくれた。ねむくなったので、あたしはもうだいじょうぶだからねむったらといったけれど、ほんとうはプタがそのまま部屋にいてくれたので、うれしかった。プタがベッドのすぐそばにすわって、やわらかいあかりで本を読んでいるけはいを感じていると、なんだか気持ちがおちついて、ほっとした。」という部分が、子どもって本当にこういうふうに感じるんじゃないかなと思って好きでした。会話の訳し方も今の子どものことばづかいで、効果的でしたね。ちょっと古いものだと女の子のセリフには「〜だわ」ばかり使われていたりするけど、これはうまく訳されていると思いました。

トチ:この本の魅力って、ひとつのストーリーの芯でひっぱっていくのではなく、エピソードなんですよね。ほんのちょっと出てくる人物でも、ものすごくよく書けてるでしょ。弁護士とか、児童福祉士とか。

愁童:ぼく感心したのは、おばあちゃんがこの子の母親をこれまでは「あの人」と言っていたのに「娘」と言うのを聞いて、主人公がショックを受けるところ。

トチ:軽いところもあるんですよね。校長先生の名前とか、ちょっとね。

ペガサス:描写が具体的だから、わかりやすいのよね。

愁童:うん、『おき去りにされた猫』は状況描写がうまいけど、『おばあちゃんはハーレーにのって』は人物描写がうまいよね。


ブルーイッシュ

『ブルーイッシュ』
ヴァージニア・ハミルトン/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2002

ねむりねずみ:いい本でしたね。絵も含めて、かわいらしい感じ。ブルーイッシュという言葉がキーになってますよね。ドリーニーが青いからブルーイッシュなんだ、という場面があって、そのあとお母さんのせりふで「ブラックとジューイッシュを合わせた言葉」がというのがわかるという順番に、ちょっとだまされたような気がした。そんなに読みごたえがあるとか、感心してしまうというほどの本ではないけれど、主人公の女の子がかわいくて、何かやりたいけれど、戸惑ったりもするところが、いかにもその年頃。全体にこじんまりしたイメージだったけど。あと、いろんな子が出てくるじゃないですか。いろいろな民族の人がいて、多様ななかで育っていく感じがアメリカだな、ニューヨークだな、いいな、と感じました。
最後の終わり方も、いろいろ書いたノートを本人にあげるのが、ほんわかしていい。場面としてはみんなで帽子をかぶるところが一番よかった。似合わないと思う子もいたりするんだけれど、みんないっせいに帽子をぱっとかぶるとお花畑のようにはなやぐというのがいい。

きょん:まず文体があまり自分としては好きになれなかった。多民族の世界があって、自分の生い立ちや背景があって作られた話だろうと思うのだけれど、それが淡々と語られていて、すべてを言いきれていない感じがした。よかったのは、最後、帽子をかぶるところだけ。なんか物足りなかった。

アカシア:私は一番最初に原書の表紙を見て、読んでみたいと思った本です。アメリカ版の表紙絵はディロン夫妻が書いていて、3人の肌の色の違う女の子が、みんな帽子をかぶっている。この話は3人の肌の色の違いが一つの意味をもってるんじゃないかしら。日本版にもこの絵を使ってほしかった。日本語版の絵も絵としてはいいと思うけど、物語としての意味を考えると原著の表紙のほうがいい。ブルーイッシュという、ブラック(黒人)とジューイッシュ(ユダヤ人)の混血っていう、それ自体が差別的な言葉を敢えて使ってますけど、それを超えたところに成立する人間の関係が、日本語版の表紙だと見えてこないのが、残念。

きょん:そう、私が物足りなかったのは、そういうテーマ性が埋もれてしまっているところ。

カーコ:好きなお話でした。ハミルトンは『雪あらしの町』(掛川恭子/訳、岩波書店)しか読んだことがないのだけれど、あれも肌の色や路上生活者をめぐる問題がでてきたから、人種やそういった社会のマージンにいる人々の問題をこの作家は追いかけているのかなと思って読みました。でも、日本の読者には、こういうユダヤ人に対する微妙な感情は推測できなくて、わからないかもしれませんね。この主人公って11歳ですよね。だけど、文章を読むと主人公たちがもっとおとなっぽい感じがしました。なのに、この表紙のイラスト。私には文章とイラストのイメージがしっくりきませんでした。特にヒスパニックのトゥリなんて違うかなって。装丁が大人っぽいのは、本としては大人向けに作ってあるから?

何人か:子ども向けでしょう?

カーコ:文章でもう一つ気がついたのは、三人称だけどすごく一人称っぽいですよね。ときどき混乱してしまった。地の文の中に、主人公の思ったことが、いきなり入ってくるところが多くて。

アサギ:このごろそんな書き方は多いわよ。視点を変えていくっていうのかしら。そんなに新しい手法っていうのでもないけど、最近多いみたい。

:どんな作品も好きになろうと思って読む努力をしているんですけど、今回の本の中ではこの作品がいちばん印象がうすかった。すっと読んじゃうと、ただ病気の子と、最後友情で仲良くなりましたというだけになってしまいそう。翻訳ものを大人になって読むと、子どもの生活を描きながら、むこうの生活がほの見えてきますよね。たとえば、アパートの入り口のドアにも鍵があって、ドアマンのおじさんがそれをあけてくれて、子どもが一人でアパートの外に出ると父親がとても心配するような環境があるとか、ドリーニーたちは、学区で区切られているんじゃなくて、こんなふうな自由な学校に通えるんだなとか、そういう場所があるのを知るのっておもしろいですね。あと、やっぱり表紙のこと。こないだみなさんがのれなかった『ハルーンとお話の海』も原書と表紙を変えていて、原書の表紙のほうがずっとよかったというのがありましたが、これもそうでしょうか。プルマンの作品もそうだけど、宗教が身近にある人だとすっと読めるのでしょうか。このお話のように多民族や宗教が混じった中で暮らしている子どもなら、ずっと違和感がなく読めるのでは。

アサギ:そう、日本の子どもにとって宗教は大きな壁ね。

:宗教がテーマになってくると難しくて、脳天気に読めないですよね。


トラベリングパンツ

『トラベリングパンツ』
アン・ブラッシェアーズ/作 大嶌双恵/訳
理論社
2002

アサギ:これは結構おもしろく読んだんですけど、19カ国に訳されていると聞くと、逆にそれほどかな、と思った。

アカシア:映画化の話があって、あちこちで翻訳されたのかも。

アサギ:思いつきというか、アイデアがいいというか、次々といろんな話が出てきて、人間の書き分けもできているけど、先が読めてしまうところがある。たとえば、ティビーとベイリー。知り合ったところで、敵対してつっぱねるけど、嫌い嫌いと言いながらきっとあとでお友達になるパターンなんだろうなと思ったし、カルメンがお父さんに会いに行くところも、きっとお父さんには新しい女の人がいるなと思ったら、そのとおり。それとレーナとコストスの出会いもやっぱりで、予定調和というか、意外性がなくて物足りなかった。お手軽なストーリー展開だれど、それでも飽きずに読めたというのは、作品として感じがいいってことなのかしら。構成力もすぐれてますよね。母親同士は友情がうすれていくけれど、娘たちは魔法のパンツで結ばれている、だれがはいてもぴったりはけてしまうパンツ。

ねむりねずみ:3冊の中では一番すらすらと読めた。いきのいい女の子が4人出てきてて明るい。最初のところで、ジーンズをはいたらみんなにぴったりきちゃうというのが、「これは物語なんですよ、フィクションの世界なんですよ」という約束ごとのようで、仕掛けとしてうまいなと思った。誓いの言葉をいうところも、いかにもこの年頃の子が好きそうだし。4人がそれぞれいろんな問題を持ち、それぞれ違ったキャラクターで、そのあいだをジーンズがつなぎながら夏休みが展開していく。ころころ変わっていくのを、「ふんふんふん。なるほど、なるほど、おもしろいねえ」と読み進んだ。
確かに予定調和的な話だけど、後ろのほうになってくると、ティビーが友達の死という喪失を受け入れる場面が強く印象に残りました。ビデオで映画を作るというのもおもしろい。なにしろおもしろさですらすら読めちゃった。よくできてるな、カルメンが自分の内面をお父さんにやっとぶちまけるとか、ティビーが喪失をうけいれたりするところも、ちゃんとうまくできているな、よかったよかったと読み終わった。最後のところで、レーナがブリジッドを心配してとんでいくんだけど、ブリジッドのほうは話すことがなくなるというのも、なるほどそういうことはある、と納得。ともかく、これはこの年代の女の子のお伽噺だと思う。予定調和的な軽さだけど、同世代の子にすれば、「そうだよね。そう、そう」と入れ込んで読める。

きょん:理論社のこのタイプの本はおもしろいから、すごく期待して手に取ったんですよね。表紙もお金がかかってて。

アカシア:そうそう、透明のジーンズが印刷してあるすてきなしおりがついてるでしょ? これもお金かけてるよね。

一同:ええーっ、そんなの入ってた?

アカシア:わたしのには入ってたよ。当たり外れがあるのかな?

きょん:トラベリングパンツという名まえもいいじゃないですか。主人公の女の子みんなにぴったりする御守りみたいなパンツでしょ。でも読み始めたらつまんなくて、途中でやめてしまいました。でも、同世代の子だったら、面白く読めるのかな。コバルトブックスみたいに。アイデアも面白いし、設定も面白いから、ストーリー自体ももうちょっとわくわくさせてくれたらよかったのにな。

アカシア:私は、けっこうおもしろかった。学生なんかと本を読んでると、とにかく『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス/著 高杉一郎/訳 岩波書店)よりハリポタの方が面白いという子が多いんですからね。そういう子たちには、この手の作品も受けるだろうな、と思いました。「文学」だと思って読むと、いかにもお手軽なストーリー展開だと批判も出るけど、子どもにとっては、自分が結末を想像できるっていうのも読書の楽しみの一つなんじゃない? 文学っていうことを考えると、たとえば一つのきっかけでいろいろな子どもが物語を語っていくという設定でも、アン・ファインの『それぞれのかいだん』(灰島かり/訳 評論社)のほうがずっとよくできているとは思うけど。

ねむりねずみ:この本は作りもおしゃれだよね。題名がカタカナだし。

アカシア:前は、書名をカタカナにすると地方ではあんまり売れないよ、なんて言われたけど、今は違うのね。

きょん:ネットでみると、この本にはダーッとコメントがはいっているんですよね。同世代の子たちの書き込みがすごく多い。4人の主人公に自分を投影して読んでるなという感じ。

アサギ:でも、あの爪の長い女店員がベイリーのことを話すエピソードなんか、ベタすぎると思うけどなあ。

アカシア:イギリスで読書運動をやってるマーガレット・ミークは、「ハリーポッター」を読んだ子が次にプルマンにいくと行ってハリポタも評価してるそうですけど、一般的にいって、お手軽なエンタテイメント読書が、次には文学を読むようになるんでしょうか?

きょん:本を好きになるっていうのは、小さい頃からたくさん本を読んだりしてきた積み重ねがあってのことでしょう?

:「ハリーポッター」を読んだ子が、ほかの本にいくというのはあるみたい。

アカシア:でも、「ダレンシャン」どまりってことはないの?

カーコ:私は4人の女の子が魔法のパンツで結ばれて、バトンタッチしながら話が進んでいくという構成がおもしろいなと思いました。人物がかわるところに顔のイラストが入っていたり、手紙で次につないであったり。それに、この世代の女の子を応援しているような書き方ですよね。読んでいると、この4人のうちのだれかに親近感をおぼえたりする。私の場合は、ティビーがおもしろかった。

:本屋さんで見て、まず「わー、きれいだ」と思いました。この年頃の子は、わくわくして読むんじゃないかな。でも、小道具としてジーンズをはくっていうのが、女の子のベタベタした友情っていうのか、一部始終手紙で伝えて「友達よね」って確認するみたいなのが、個人的には受け入れにくかった。4人が親友っていうお話は少ないですよね。2人っていうのはあるけど。でも、儀式とか、それぞれに「私の気持ちよー」みたいに手紙を書くっていうところは、もういいっていう感じ。手紙の場面にくるといらいらした。

アカシア:こんなふうに友だちをつくることができる人は、文学なんか読まないかも。でも、私はそんなにベタベタした関係とも思わなかったのね。お互いの個性は認めているし、それぞれ違うし。

:でも、「はじめて夏休みをばらばらにすごすなんて」ってことは、いつも夏休みはいっしょに過ごすってこと? こういうのが私はいやだった。でもまあ、そんなふうなことを感じながらも最後まですらすらすらすらと読めた。だから、15歳くらいの子は、どの子にもなって、それぞれの持っている感じを自分の中に感じながら読めるんじゃないかなって思いました。

アカシア:予定調和的なのも、大衆路線的なおもしろさなんじゃない? 橋田寿賀子のドラマみたいに。

:これは文学じゃなくて読みものですね。子どもの本のなかにも、文学、読みものとかいろいろあっていいのではないでしょうか。


樹上のゆりかご

『樹上のゆりかご』
荻原規子/作
理論社
2002

アサギ:私ね、これだめだったの。半分も読めなかった。だめと思ったら、最後まで我慢して読むのは時間がもったいない。でもね、こないだも『インストール』(綿矢りさ/著、河出書房新社)っていうのを読んだんだけど、この作品が作品としてだめなのか、書いてる世界が自分の嗜好に合わないのか、どっちだろう、って思うわけ。『インストール』はひきこもりの話で、普通の高校の風景を描いているんだけど、私こういうタイプのはだめなのかも。とにかく、好きでないっていうのか。

ねむりねずみ:すあまさんが、この本を選んだとき、「私は都立高校だったからおもしろかったけど」って言ってたでしょ。私、おそらくこの高校の卒業生なので、クラス分けから、行事から、先生の名前までわかる。私自身もこの学校に入ったときに、なんだこりゃって思った覚えがあるから、この人がその感じを書きたかった気持ちはすごくわかる。これって、30年くらい前でしょ?

アサギ:設定は今よね。現実の高校生とどこまでダブるのかわからないけど。

ねむりねずみ:でも、回想ものですよね。だから、「樹上のゆりかご」っていう感じもよくわかる。

アサギ:この題名、どうなのかしら。図書館で、「じゅじょうの」っていっても、「えっ」て何度も聞き返された。

ねむりねずみ:ともかく、私は、そうそう、こうだったなあ、と「卒業生の同窓会」的に読んじゃったところがあって、あまり突き放して判断できてない。で、作者が何を書きたかったかというと、「名前のない顔のないもの」について書きたかったんだろうと思うのね。そのために、有理を登場させ、事件を起こし……。でも、無理があるんですよ。有理の登場も、木に竹をついだような妙なことになっていて。この人は今の子を描くとかそういうんじゃなくて、自分の高校時代を書きたかったんでしょうね。ミステリーとからめて。

アサギ:私も都立高校だったけど、女子が多かったから全然違う。

きょん:私も都立高校で、むかし女子校だったところだけど、学風としては立川ととても似ている。そうした実体験とは別に、私は学園ものが好きだから、これもおもしろかった。でも作者は、違和感のある「名前のない顔のないもの」を書きたかったのだろうけれど、それは失敗している。その正体を作品の中で具現化できなかったので、読者も消化不良になってしまう。でもね、3冊比べて、お話の筆力という点を考えると、私はこの本がいちばん質が高いという気がしました。今の高校生だって、こんなふうじゃないんでしょうか? 私が高校のときは、学園祭とかもりあがって、結局みんな浪人しないと大学に行けなくなってしまうっていう、そんな世界だったけど。

アカシア:私はね、荻原さんのファンタジー3部作(『空色勾玉』『白鳥異伝』『薄紅天女』)は好きなんですけど、『これは王国のかぎ』やこの作品はだめだったんです。文章がうまいとは思えないの。でも、その辺は、読者の私との相性の問題かもしれませんね。だけど、『トラベリングパンツ』と同じ読者層がこれを読めるのかしら? 荻原さんにはファンの固定層がいるから売れてはいるんでしょうけど。

きょん:違和感の正体が具現化されていたら、読めたんじゃないかな。

カーコ:作品としての質が高いというのは、私も思った。だけど、どれだけの高校生がこれをおもしろいと思って読むのかは疑問だった。確かに高校生くらいのときは背伸びをして知ったかぶりをしたがるというのもあるけど、オスカー・ワイルドのサロメときいて、「あの、ビアズレーの悪魔っぽい挿し絵のつく」なんてすぐ答えるような高校生っているかしら、って思ってしまった。それに、「名前のない顔のないもの」というのが、結局最後までよくわからなかったし、有理さんはすごく病的で、高校生がここまでするかって感じだったし。

ねむりねずみ:作者が「名前のない顔のないもの」を描ききれていないから、有理さんを登場させないといけなくなったんじゃないかな? 顔のないものが何なのかが立体的にいろんな側面から伝わってこないから、しょうがない、有理さんを出した。でも、有理さんの行動のモチベーションはあくまでも私的なものでしょう。だから無理が出ちゃう。

きょん:きっと、「名前のない顔のないもの」の正体をはっきりさせてくれれば、男社会の中の女の人とか、共感する人はもっといるんじゃないかな。

:私は地方の県立高校だったけど、この空気はとても似てるんですよね。中学まではそこそこだったのに、高校になったら、こんな順位とったことないやというような成績をとって、高校の世界からちょっと身を引いて傍観者的になっているっていう子ですよね、この子は。でも、忙しいんですね、都立高校って。こんな次から次に行事があるんですね。みなさんもおっしゃってたように、「名前のない顔のないもの」というのが、ぜんぜん前に出てこなくて、この女の子の恋愛というかストーカーみたいなので終わってしまって、なんなんだろうって思いました。パンにかみそりを入れるのも、キャンバスを燃やすのも、みんなこの女の子がやったんでしょ? でも、この女の子が壊したくてやったんですか? 最後まで、今一つ納得がいかない本でしたね。ほんとこれ、今の子じゃないよ、携帯電話とっちゃったら。私、この最初の「中村夢乃、鳴海…」って名前が並んでいるのを見ただけでもうだめ。わざとらしいっていうか。

アカシア:今はこれが普通の名前なんじゃない? もっとも私はこの作品の文章全体に違和感があるんだけど。

カーコ:でも、それってこの作家の文章がそれだけはっきりあるってことですよね。

アカシア:ここに書かれてるのって、もしかしてすごいエリート意識じゃない?

全員:そうそう。

アカシア:それも、ちょうど高校生くらいのエリート意識よね? 普通だったら思い出したも恥ずかしいようなものだけど、どうしてわざわざ書くのかな?

ねむりねずみ:それで、作者はそのエリート意識をつきはなしきれていないんじゃないかな? それにしても、自分にとってすごく思い入れのあることを書くっていうのは、難しいですね。中にいた人間の雰囲気はすごく再現されているんだけど、それで終わっちゃってる。


未来のたね〜これからの科学、これからの人間

『未来のたね〜これからの科学、これからの人間』
アイリック・ニュート/作 猪苗代英徳/訳
NHK出版
2001

トチ:『世界のたね』の続編ね。厚い本でたいへんと思ったのだけど、読み出すとおもしろかったわ。考え方のバランスがとれている本でしたね。現在と未来、いいことと悪いことのバランスが取れてる。入門書としては、よい本だと思います。この中でおもしろいと思った事柄については、また別の方面につながっていくだろうし、子どものための知識本としては優れていると思う。大人が読んでも知らない知識もあったりして、1冊私もほしいなと思ったくらい。たとえば、昆虫ロボットが夜中にシーツを集めにくるなんてところは、ユーモアがあったわね。私が子どものころは、お正月の特大号の子ども欄に必ず未来の予想図なるものがあって、ビルの上に縦横に高速道路がはりめぐらされて、ロボットが大活躍している漫画が出ていたの。今の子どもたちはどんな未来予想図を描いているのかしらと、この本を読んで考えさせられました。それから、「農業イコール健全なもの」と漠然と思っていたけれど、農業とは自然との戦い、いってみれば反自然だという個所を読んで、目がさめたような気がしました。

ペガサス:この著者が、子どもに向けて語るという姿勢をきちっと持っているということがいいと思いました。問いかけてくるので、読者の子どもに考えさせていく。論の展開もわかりやすくて、「○○というのは簡単にいえば、〜ことだ」とまず言ってから入っていくので、とらえやすい。関心がもてるテーマを見つけられれば、テレビや新聞を読んで、またひろがっていく機会になると思う。こういうものは、その後同時多発テロが起こったりして、どんどん内容が古くなっていくんだけど、最後に作者からのメッセージがあって、自分で自分の本の価値を言っているのがおもしろかった。この時点に生きた人間がどういう未来を描いたのかというところが、いいのだってね。

紙魚:ふだん、自分の知識を体系づける機会はないのだけど、こういう本を読むと、ぱらぱらとした知識が折りたたまれていいものだなと思った。こういう本って、日本のものはなかなか見当たらないですよね。作家の世界観がそのまま出るし。なかなか自分からは読まない本なんだけど、読んでみるとおもしろい。

アサギ:ただ、本のつくりが読みづらい印象をうけました。

すあま:注を読むリズムがつかめないんですよね。かといって、割注でも難しいだろうし。前半は、警告するような内容で、後半はSFっぽい夢のある話へとつながっていく。私の知識がないこともあり、この人が考えたことなのか、他の科学者が考えたものなのか、区別できないところがありました。

トチ:けっこう子どもの方が、こういう科学ものを読みなれているのかもね。

すあま:いずれ内容が古くなるというのを作者はわかっていて、この本に書かれている作者の予測が実際はどうだったのかを後から読むほうがおもしろいんだよ、と言っているところが、うまいなあと感心しました。また、SFを書くなら、『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク/著 伊藤典夫/訳 ハヤカワ文庫)みたいに年号を入れないほうがいいというのにも、なるほどと思いました。副題の「これからの科学、これからの人間」というのは、ちょっとカタイので、手にとりにくいですよね。

アカシア:『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル/著 池田香代子/訳 日本放送出版協会)と同じように、これは原著がノルウェーですよね。ノルウェーの人って、こういうふうに世界を読み解くのがうまいのかしらね。日本人には子ども向けのこういうのは、なかなか書けないのかも。私が子どもの頃は、科学はすばらしくて未来は夢のようだと信じていたけれど、今はそういう時代ではない。で、子どもにどういう未来像を渡すことができるのかわからないでいたんだけど、そうか、こういうふうに書けばいいんだなって感心しました。「ウイルスは生命体ではなく、メカニックな生き物」なんていうことは、全然知らなくて、えっそうなのと驚いたり。ただね、「ナノマシン」なんかは、わずかなマイナス面しか書かれていないんだけど、本当はもっと問題があるんだろうな、と思ったりもしました。宇宙ステーションだって、作るといろんなところにいろんな影響が出ていくんだろうな、と。未来のシナリオが、3バーション用意されているのは、おもしろかった。

ねむりねずみ:表紙見て中を開いて、教科書みたいだなと思いました。文章は読みやすいんだけど。科学技術の発達とか暗い面とか未来について萎縮せずに書かれているのはなるほどと思いました。これからの人類のシナリオのどれを選ぶかは一人一人の主体性にかかっているというあたりは、賢者クラブといわれていたローマクラブを引き継いでいろいろな警鐘を鳴らしているブダペストクラブの人と同じ姿勢。ただ、最近その手の物を続けて読んだので、またか、という感じもしちゃった。物語という感じでもないし、どういう場面でどういう人たちに読まれるのかわからない。あんまり魅力を感じなかったです。

すあま:おとなが紹介しながら子どもに渡さないといけない本ですよね。

ねむりねずみ:たしかに、おとなは今までの歴史などについての知識の重みで悲観的になってしまいがちだけれど、子どもはそのマイナスがないぶん元気がある。だから、未来は君たちにまかされているんだよと提示するのは大事ですよね。

すあま:「NHKスペシャル」とかでとりあげて、番組がつくれそうですよね。やっぱり、ノルウェーって冬は夜が長いから、こういうことをじっくりと考えるんでしょうね。

トチ:科学においても、文学をはじめ文化芸術においても、北欧って日本にはまだまだ紹介しつくされていないものがどっさりある宝庫かもしれないわね。


こっちみんなよ!

『こっちみんなよ!』
千石正一/文・写真
集英社
2000

:私はこういうの、ページを開けないくらい苦手なんです……。よっぽど好きな人でないと、こういう表情の写真は撮れないのはわかるのだけど、気持ちがしっかりしてる時でないと、気味悪くて……。

アサギ:私も爬虫類が好きじゃないのだけど、おもしろかった。また、写真がセリフと合っているのよねー。特にタイトルの「こっちみんなよ!」というのが秀逸。きっと、子どもは好きよね。犬や猫は哺乳類だから表情があるのはわかるけど、爬虫類もこんなに表情が豊かなのね。それほど写真が優れているってことでしょうね。

アカシア:千石さんて、ほんとに詳しくて、この本は千石さんじゃなければ作れない本だったと思います。爬虫類って好きじゃない人が多いんだろうけど、この本は気持ち悪いと思わせないで、親しみを感じさせる。

トチ:でも、どんなにかわいいカエルでも、体のねばねばしているのは毒なんだって。だから、カエルに触ったら必ず手を洗わなくちゃいけないって、別の研究者が言ってたわよ。

すあま:最初タイトルだけ見たとき、「こっち みんな(皆)よ!」だと思っちゃったんです。こういう本は、下手をすると作者の意図がみえみえでつまらなくなる場合があるけど、これはうまくいっていると思います。解説も特になく、図鑑じゃないとはっきり言っているところがいいのかな。研究者ということですが、写真家としても腕がいい。職場でみんなに見せたら、人によっておもしろがるところが違った。一人で見ていてもおもしろいけど、みんなで一緒に眺めてもおもしろい。素直に楽しめました。

アサギ:爬虫類ってこんなにおもしろいって思わせるきっかけを作ってるっていう点では、かなり意義あるわよね。

ペガサス:これだけたくさん撮っている専門家だからこそ、遊んでみたかったのかもね。言葉は、ちょっと人間が勝手につけたと思えなくもないところもあったんだけど。まあ、おもしろかったことはおもしろかった。写真をつかった本で、たとえば、この『猫の手』(坂東寛司/写真 ネスコ)っていう本は、猫の手だけを写した写真集なんだけど、私はむしろ勝手なセリフがつかないこっちのほうが好き。これだって、猫の好きな人しか見ないけどね。『こっちみんなよ!』は、『ふゆめがっしょうだん』(冨成忠夫・茂木透/写真 長新太/文 福音館書店)なんかと似てるけど、セリフはちょっと大人っぽいわよね。

トチ: 私は小さいときは「虫めずる姫君」というあだながついていたほどの虫好きで(姫君の部分は?でしたけど)、もちろんカエル、イモリ、ヤモリの類も大好き。だからかもしれないけれど、このセリフはもちろん本人(本動物)が言っているわけじゃないし、本人の気持ちとはまるで逆かもしれない・・・そこがちょっとひっかかったし、なんだかかわいそうな気がした。

ペガサス:私もけっこう虫とか好きだったわ。私は中学のころ生物クラブに入っていて、実験材料とかを大学にもらいにいくと、研究室の箱の中にいっぱいヒキガエルが入っていて、それを手づかみで取ったりした。カエルは全然平気。だから私もトチさんと同じように、勝手なことを書いて、という気もした。

アカシア:でも、虫が好きなんていうのは、ペガサスさんの世代で終わりだと思うな。今の人たちは、もう犬とか猫とかペットじゃない動物は駄目な人がほとんどよ。そういう子たちには、この辺から入ってもらうのがいいんじゃない?

紙魚:そうですか。私は、小さい頃も今も、動物とか昆虫ものとかけっこう好きなんですけど、この本はちょっと物足りない感じでした。わーおもしろいなあっていう気分だけじゃなくて、もっと生態とかを深く知りたくなる本のほうが好きです。セリフひとことだけでは、満足できませんでした。

ねむりねずみ:私は買いたい派です。確かにセリフは後付けなんだけど、ほんとうに虫が好きな人は虫を虫とも思っていないだろうから。これをいっしょに読んで笑いたい人の顔がすぐに浮かびました。
(この後、各人の幼少時代の昆虫話が続く、続く、続く……)


ネモの不思議な教科書

『ネモの不思議な教科書』
ニコル・バシャラン&ドミニク・シモネ/作 永田千奈/訳
角川春樹事務所
2000

ねむりねずみ:うまい設定だなって感心しました。学問体系をそっくり丸ごと提示するのに、何もかも忘れちゃって感情すら忘れちゃった子どもという設定を考えついたのはうまい。お説教にもなってないし。これは、学者と雑誌の編集者の二人で書いているけど、物語としてへーそうなんだと納得できるのもよかった。最後、音楽で記憶が戻りますよね。物語としても読ませるけど、歴史とか人間の営みを作者がどうとらえているかがもろに出てるところが面白かった。音楽を、人間の言葉にならないところに訴えものと捉えているんだなと納得しました。最初の設定がきいて、議会でこの子が変なことをやっちゃうのも自然にうつるし、かなり感心して読みました。「夏休み中の子どもたちに大評判の一冊」というのもうなずけますね。あちらのノンフィクションを翻訳で出すのって、結構難しいと思うんですが、その点でも、フランスの本を訳すときの配慮を感じました。

:染色家で実際に記憶をなくされた方がいらっしゃいますよね。ごはんの食べ方も言葉も家族の顔も忘れちゃっているの。その方のことを思い出しました。気に入らなかったのは、テレビの取材という設定。この子が全部なくしてしまって、それをとり戻す話なんだけど、だからこそ浮かんでくる質問があったりして、その純粋さにうたれました。ネモがいとおしく思えた。

紙魚:記憶をなくすというというのにはリアリティは持てなかったです。もしも本当に記憶をなくしたら、こんなあっさりではすまされないはず。ただ、物語としては読みやすかったので、これは世界を読み解くための設定だと割り切れました。今回、『未来のたね』と『ネモの不思議な教科書』の2冊を読んで、巨視的な視野を持つということの大切さを感じました。なかなか日本では、歴史でも数学でも大枠で見る訓練をしないので、こういう本は生まれにくいですよね。

ペガサス:私も設定はうまいなとは思ったんだけど、途中の大人と子どもの会話が作為的でつまらなかったのね。こう続くと辟易しちゃう。さっき、羊さんはこのネモがピュアとおっしゃっていたけど、私には大人にとっての純粋な子ども像を押しつけられたように感じた。

アカシア:私は両方読む時間がなかったので、少しずつ最初の方を読んで『未来のたね』の方を読もうと決めたのね。こっちを読まなかったのは、ネモと女の子が出てくるあたりが、中途半端な作り事に思えたから。もう少し物語としてもきちんと書かれていれば、違っていたかも。

ねむりねずみ:私はともかく努力を買っちゃう。こういうのって味気ない知識ものになりがちで、物語にまとめるのはかなり難しいから。

トチ:ヨーロッパの歴史を調べるのなら、『ヨーロッパの歴史—欧州共通教科書』(フレレデリック・ドルーシュ/総合編集、木村尚三郎/監修、花上克己/訳、東京書籍)がいちばん便利。ヨーロッパの青少年のためにドイツ、イギリス、デンマークなど12カ国の歴史家が共同執筆したもので、1992年にEU加盟国で同時出版された分厚い本だけれど。それはともかく、この本には、よく言われる「子どもは未完成な大人」というフランス人の子ども観があらわれているのかしら?

ねむりねずみ:でも、そんなには教え込む姿勢が強いわけでもないですよ。おじさんもそう大人じゃないし。

トチ:日本には『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎/著 岩波文庫・ポプラ社)っていうのがあるわよね。

すあま:日本でこの手のもの、といったときに未だに『君たちはどう生きるか』が出るっていうことは、その後すぐれた新しい本が出ていないということなんでしょうか?


人食い〜クラウス・コルドン短編集

クラウス・コルドン『人食い』
『人食い〜クラウス・コルドン短編集』
クラウス・コルドン/作 松沢あさか/訳 いよりあきこ/絵
さ・え・ら書房
2002.01

アカシア:短いのも長いのも、書きこんだのもそうでないのも、いろんな話があるわね。子どもの人生の場面を切りとっていくという意味では、鋭い短編集。個別に言うと、「クラゲ」で、マヌエルがいじめられていて、インゴがそばからみていて悩むんだけど、最後ちょっと臭い台詞を言って仲良くなるところは、紋切り型のような気がしたな。「一輪車のピエロ」は、とってもよくできた、好きな話でしたね。最後の「クラスのできごと」は、「ひとのことは<みにくいアヒルの子>なんていうけどさ、子どものうちはみんなアヒルかもね」という言葉が、どういうニュアンスかわかりにくかった。訳は、全体として今の子どもの会話風にしたほうが面白くなったように思います。

紙魚:装丁からして、ちょっと入りにくい本でした。タイトルも、センセーショナルな『人食い』なんていうものだし。こうして読む機会がなければ、なかなか手にとらない本です。読んでみれと、どの話も暗い影がありながら、ふーむと心をゆらされる部分があったりして、なかなかよかったです。ただ、本のつくりが、こうも突き放した感じなので、もったいないと思いました。作家と読者がもっと近づく装丁だとよかったのに。タイトル、ハシラの入り方なんかも、かなり気になりました。

ペガサス:短編集としては好きな本。全体として共通カラーがあって、まとまった印象をうける。主人公の子どもたちが、親をなくしていたり、障害のある妹をかかえていたり、貧しかったり、彼らの日常は胸を痛めるのだけど、別の方向から光があたって、ささやかな幸せがもたらされるというのが描かれている。希望がもてるといったことを描いているのがよくて、それが全体のトーンにつながっているのかなと思った。

アカシア:ただ、ピアスとはちがって、コルドンは、かなりつきはなしていると思うのよね。ピアスの短篇では、人間と人間の関係があったかく描かれているんだけど、「人食い」に登場する人間たちはどこかさみしいし、喪失感を訴えてくるような印象。

ペガサス:コルドンは、あったかいというよりは、別の方向から光があたるという感じ。児童文学のありきたりな子ども像というのではなく、あるところでは大人よりさめている。「飛んでみたいか?」なんて、お父さんのうえをいっちゃってるじゃない。大人より大人びているよね。「窓をあけて」も、今までよくあるパターンは、受け入れられなくて反発するというのがあるんだけど、あの子は、自分でのりこえて窓をあけたわけじゃない。

アカシア:アン・ファインなんかには、そういう子がよく出てくる。大人より一段上に立って状況を判断できるような子どもがね。今の社会って、大人が子どもっぽくなるのに比べて、子どもは早くから大人になることを強いられてるのかも。子どもは受難の時代だね。

カーコ:好きな作品じゃないんだけど、問題を投げかけてくれるタイプの作品だなと思いました。さまざまな切りとり方で、いろんな人生を見せてくれる。出てくる家族も、移民であったり孤児であったり、両親と子どもというような古典的な家族像にはあてはまらなくて、どこか社会から疎外されがちな人々が描かれていて。それぞれの短編の終わり方も、希望を持たせるような終わり方と救いのないものが半々。
ひとつ気づかされたのは名前のむずかしさ。ドイツ語の名前はなじみがないから、男か女かわからないまま途中まで読んで混乱してしまうことがあった。訳すときに、男の子か女の子かを最初にさりげなく示唆するようなことが必要かも。それに、ここに出てくる名前の中には、ドイツ人の読者が読めばパッとドイツ人じゃないなとか、ギリシャ系だなとかわかるのかもしれないけど、日本人にはわからないものも多い。そういう見えない意味や文化っていうのは、どうやって出せばいいんでしょうね。
訳のことをいえば、10歳の子が「父が」って言うのは違和感をおぼえました。全体として子どもが大人びている印象だった。それと文体についてですけど、現在形が続くのは意図的なのかな。原文で、過去のことを現在形で書いてあるからなのかもしれませんけど、この本では少しひっかかりました。

アカシア:原文が現在形で書かれているとすれば、そこには作者の意図があるんだろうから、やっぱりできるだけ現在形で訳したほうがいいんじゃないかな。

ももたろう:そもそも装丁から手に取りたくない感じ。子どもは、この『人食い』ってタイトルで読みたくなるのかな。きっと子どもが持つタイトルからの本への期待と、書かれているものは違ってしまうと思う。内容的には、子どもの不安定な気持ちの状態が細かく書かれている感じで、いろんな意味でばらばらっとした感触。イメージがつかみにくいですね。まるでモザイクみたいな印象でした。それに私たちの生活と匂いが違う。私は最初からとまどいがあった、これを子どもが読んだら、どこから入っていくのか読み込めないうちに終わってしまうのでは。表面的ではなくて内面的な子どもの姿が描かれていて、胸につんとくるようだった。そうそう、前から思ってたんですけど、短編って訳す時は訳者はどんな感じなんですか。

アカシア:短いから簡単ってわけじゃなくて、長編以上にちゃんと理解していないと訳せないんじゃない? 表面的に読んだだけじゃだめだしね。それから『人食い』っていう書名は、原書どおりなんだろうけど、ドイツ語ではもっとイメージがはっきりしてる言葉なんじゃないのかな。日本で「人さらい」って言えば、一定のイメージがあるみたいに。

ももたろう:そういえば、短編は出版社に売り込むのが、難しいですよね。

アカシア:でも今は朝の十分間読書なんかに使うのに便利だからって、需要があるんじゃない?

ペガサス:さ・え・ら書房といえば、『ミイラになったブタ』っていうとてもいいノンフィクションがあるけど、内容的には本当におもしろいのに装丁が硬い。さ・え・らは、装丁で損してる本が多いね。

ももたろう:装丁は大事ですよね。だいたいそこが最初の決め手だし。さ・え・らの「やさしい科学の本」のシリ−ズ、『カルメヤキはなぜふくらむ』の本とかは、おもしろかったんですけど……。やはり、さ・え・らは見た目が硬い本が多いですよね。

ペガサス:もうちょっと中学生が手にとるような装丁にすればよいのにね。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


8つの物語〜思い出の子どもたち

フィリッパ・ピアス『8つの物語』
『8つの物語〜思い出の子どもたち』
フィリッパ・ピアス/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2002.05

ペガサス:さすがピアスだけあって、情景もよくうかぶ。これば子どもを描いているんだけど、まわりの老人の方がとても印象的に残る。「ロープ」は入りにくかったし、描写によくわからないところがあった。部分的にうまいところもあるんだけど、3冊の中でいちばん印象がうすかった。

紙魚:ピアスの他の作品もそうですが、とってもていねいな印象をうけました。情景や感情の描写がたんねんに重ねられているので、物語のイメージがきちんと浮かびあがります。どの物語も、読み終わったあとに、ふしぎとあったかい心持ちになるというのも、すごい。きっと、ピアス自身が、子どもにも大人にも、そういう目線を持っているからなのでしょう。

ももたろう:子どもの頃の記憶を、大人になってもう一度堀り起こして書いた作品という感じがしました。書き方は子どもの視点なんだけど、何だか上から見下ろしている感じ。「チェンバレン夫人の里帰り」は、個人的に面白かったです、意外性もあったし。こういう作品を子どもはどういうふうに読むのかな。どちらかというと成長した人が、「あの時はこうだったよねえ」というイメージをもちながら読む作品なんじゃないかなあ。

アカシア:私は「ロープ」の子どもの気持ちもよくもわかって最初からひきこまれた。子どもの頃まわりの世界に対してもっていた感触がよみがえる短篇集。私は、けっこう生きづらい子ども時代を送ったんだけど、その頃こんな本があれば、もっと心を寄せて読むことができたのになあ、と思う。小学校の4年生とか5年生とかで、こういう本を読みたかったな。

カーコ:私も小さい頃読んだ日本の作家の作品は、出てくる子が妙に優等生的な気がして、だめだった。それで海外の作品にとびつくというところがあったかな。

アカシア:ピアスの短篇は、読み直すと、そのたびに味わいが深くなる。たぶんそれは、人間に対する作者のあったかさから来てるんだと思う。「夏の朝」なんかも、人生のある瞬間の感覚がちゃんと伝わってくる。おばあさんと子どものつながりも、ピアスのテーマの一つだと思うけど、彼女の書くおばあさんっていいよね。

カーコ:ひとりひとりの、その人だけが大切にしているものを描き出している気がしました。「まつぼっくり」のまつぼっくりも、「巣守りたまご」のネックレスも、ほかの人にはわからないけれど、その子にとっては特別な意味を持つとてもだいじなもの。「ナツメグ」の名前もそう。物とか物事がもつ個人的な意味が浮かび上がっていて、おもしろかった。「スポット」のおばあさんは、この話ばかりしてるんだろうなとか。

アカシア:「夏の朝」で、ニッキーがスモモの木の根元においたクレヨンを、難民の女の子が持ってってくれるでしょ。これがピアスなのよね。コルドンだったら、女の子はクレヨンを持っていかない。持っていかないってことで見えてくるものを書く。でも、ピアスは、人と人とがいろんな形でつながっていくということを書いてるんだよね。

ペガサス:そうね。主人公は、最初おじいちゃんちにいるのは気が進まないけど、3日間だけだから、つきあってやろうと思うわけじゃない。でも、物事がわかってくると、おじいちゃん、おばあちゃんへの態度がかわっていく。二人の会話とか物音が聞こえてくるというのをきちんと書いてて、伝わってくるよね。おばあちゃんが誕生日に何か買ってくれるといったから、とりあえず無難なクレヨンって言っておくわけじゃない。でも、それが最後ああいう形になってきいてくる。うまいよね。

アカシア:最後は、あのクレヨンだったらきっとすごい絵がかけるから、「そしたら『楽しいな』って思ってね!」って、ニッキーが女の子に心の中で呼びかけるのね。そこも、いいんだな。

ペガサス:この話の冒頭だったら、そうならなかったのよね。3日間を過ごしたからこそ、というのが、うまいよね。

カーコ:短編って、起承転結の妙で読ませる感じで、人物の描写については長編のようには深く切りこんでこないように思うんだけど、ピアスはそのへんが細かく描かれているなと思いました。コルドンは、はぐらかされてしまう感じだった。

ペガサス:コルドンは、読者に投げかけているとは思うけど。

ももたろう:ピアスのほうが、作者の中でテ−マや素材を消化して作品を書いてるのかなあ。

アカシア:というより、ピアスとコルドンでは、アプローチの仕方とか現実の切り取り方が違うんだと思う。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


声が聞こえたで始まる七つのミステリー

小森香折『声が聞こえたで始まる七つのミステリー』
『声が聞こえたで始まる七つのミステリー』
小森香折/作
アリス館
2002.04

ももたろう:割合、面白かったです。作者の工夫が見えるし、最後のどんでんがえしなんか、「やるなっ!」という感じでした。日本の子どもたちには、こういう作品が身近でいいのかな。でもそれなりに面白くは読めるけど、深い印象とか、とんと響くものはなかった。

ペガサス:最初、これはなんてアリス館ぽくない本だろうと思ったのね。装丁もそうだし、タイトルもおもしろそうだなと思わせる。短編集としてうまく作ってる。「声が聞こえた」でまとめているのがいい。たとえば、時間を変化させているものもあるし、空間をいかしているのもある。じつは犬だったとか、座敷わらしだとか、逆転が生じるものもある。それぞれちがう手法をとっているのは、変化があっておもしろい。文章が短いのも印象が残っていい。さっと読めるし、読み終わったあと、しゃれたものを読んだ感じがする。

紙魚:『人食い』とは対象的に、本づくりのイメージがきちんと伝わってくる本でした。だから、手にとって、とても気持ちよかった。なんだか新しい本づくりに挑戦しているという感じもして、編集者の意気ごみみたいなものが、熱く感じられました。テキストも、非常にていねい。迷子になることもないし、ちょっとわかりにくくなりそうな部分も、きちんと舵取りしてくれて、安心して、でもちょっとどきどきさせて、巧みにおもしろがらせてくれた本です。

アカシア:ぴっしりきまって、まとまって、しかもよくわかるという短編ばかり。読んで気持ちがいいわね。この作者の前の作品より、ずっといい。編集者の適切なアドバイスも、きっとあったんでしょうね。

カーコ:3冊のなかでは、いちばん本づくりというのを感じさせられる1冊でした。「七つのミステリー」という枠の中で、今の子どもの身近な状況で展開しながら、昔の日本の児童文学のようなべたべたした感じがなく、それぞれにおもしろく読めました。小学生のときに『学校の怪談』を読んでいた、こわい話が好きな子どもたちには、こういうちょっとこわそうな話っていいきっかけになるかも。題名にも、それぞれひとひねりあるんですよね。

ペガサス:編集者のアドバイスもあるんだろうけど、作者も読者を楽しませようとしているのが感じられたわ。いい本よね。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ハルーンとお話の海

サルマン・ラシュディ『ハルーンとお話の海』
『ハルーンとお話の海』
サルマン・ラシュディ/作 青山南/訳
国書刊行会
2002.01

愁童:一応全部読みましたが、全く我が世界に関係ないというか、共感がわかなかった。縁なき衆生という感じ。作者の思いはわかるんだけれども……。日本の子どもにダジャレめいた言葉づかいでダラダラ書かれても、しょうがないんじゃないか、という感じ。

:太字で書いてある部分は、原書ではどうなっているのかしら?

ねむりねずみ:原書ではイタリック体になっています。

アカシア:私は、この本は、イメージはおもしろいと思うけれど、こういう言葉遊びの文章は、日本の子どもには伝わらないと思う。翻訳もむずかしい。訳者が工夫してダジャレ風に訳しているところも、私はあんまり面白くなかった。ルイス・キャロルのアリスだって、日本の子どもにはわかりにくいじゃない? もともとは著者が自分の息子という特定の読者のために書いているものだとすると、よけい日本の子どもには難しいと思うんだけど。

:私は、最初から最後までおもしろく読みました。最初は淡々としてるけれども、水の精が出てくるところ、2932をフクザツーというのや、ブスでどうしようもないお姫様とか、馬鹿馬鹿しいところもおもしろかった。名前もおもしろいし、最後まで笑いながら読めた。だんだんお話の海がにごってくるというのは、文学の衰退を感じさせた。また、子どもも親に対して幸せであることを願っている、というところもよかった。

:私は1800円出して買って、損した。雰囲気的には、スティーヴン・キングの『ドラゴンの眼』に似ているけれど、また少し違って、『フィネガンス・ウェイク』的なところもある。「語る」こととは何か、ということを語っているわけで、子どもには無理だし、第一、この翻訳で読ませるのも無理があるわね。原作にはそれなりの意味があるとは思うけど、子どもに読ませる物語としては、翻訳の路線が間違っていると思う。子どもにむかって、行きつ戻りつしながら、「語る」ということを語っているんだけれど、ひとつの物語としては、飛んでしまっているわけです。

トチ:「飛んでいる」という意味が、よくわからないのだけれど……

アカシア:飛んでいるというより、ゴチャゴチャしていて、ラシュディの他の作品と違う。

:しっかりとプロットの構築がされていない、ということでしょ?

トチ:私はすごくおもしろかった。54ページまでは、たしかになかなか話に入っていけなかったけれど、主人公の男の子がバスルームでとんでもないものに出会う場面から、俄然おもしろくなりました。夜中に、自分の慣れ親しんでいるはずのバスルームや台所でとんでもないことが起こるというのは、子どもにとって本当にわくわくする物語で、私もタイトルは忘れたけれど、こういう場面が出てくる物語を子どものころ読んで、楽しかったのを覚えているわ。この物語は、いくつもの層が重なり合ってできていて、子どもの目でストーリーを追って読めばそれはそれで楽しいし、大人の目で読むと、あんなにアンハッピーな境遇にいたラシュディがこんなにハッピーな話を書いたということに感動する。小さいころにこの話を読んで楽しんだ子どもが大人になって読み返すと、昔は気づかなかった深い意味に気づく、そういう本だと思います。私自身も、また読み返してみたいと思いました。
訳については、みなさんのおっしゃるとおり、おそらく原文で字体を変えている部分をそのままゴチックにしているのでしょうが、字面が汚くて読みにくかった。作者が字体を変えている意味を訳者が汲みとって、それを訳文に生かすべきだと思うのだけれど。でも、訳者はさぞ楽しんで訳したことでしょうね。人名や地名も苦しみつつ、楽しみつつ訳している様子がうかがえました。ハリポタのロシア語訳が出たときに「人名や地名のおもしろさも魅力のひとつなのに、露語訳は英語をそのままロシア語の綴りに置き換えただけで、原作の魅力が半減している」と批評されたけれど、邦訳もそうですよね。少なくともハリポタの訳者より青山南さんのほうが何倍も丁寧に訳しているし、努力していると思う。不発に終わっているところもあるけれどね。

ねむりねずみ:原作が出た時に読んだけど、半分まででパスしてしまった。構造がわかって、それで満足、という感じだったみたい。雑誌 Books for Keeps (2000年3月号) に著者のインタビュー記事が出ていて、そこに2000年にイギリスで出版された愛蔵版の表紙と挿し絵が出ていた。これを見ると、楽しいイラストがたくさんあって、日本語版より魅力的。この本は、ドタバタがおもしろいと思う。イメージが、コラージュを見ているみたいに非現実的で、そういう世界が持つおもしろさがあると思う。表には出てきていないけれど、物語に対する作者の価値観がわかるのもおもしろかった。荒唐無稽な感じは、ロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』がイギリスで映画化されたときの、やたらぴかぴかきらきらしていて、すべてが非現実的なおもちゃみたいに感じたのとよく似ている。

すあま:私はあまりおもしろくなかった。途中で挫折して、また読み始めたけれど、結局最後まで読めなかった。音楽でいえば現代音楽といった感じかな。だいたい言葉遊びで生きている話っていうのは、翻訳されておもしろいものにはあまり出会ったことがないですね。それにゴチック体がうるさくて、一生懸命はいりこもうとして読んでいる時に気が散ってしまい、だんだん頭が混乱して、ついていけなくなった。イラストがあるともっとよかったかも。

ももたろう:私も最後まで読めなかった。すごくテンポが早く、登場人物が次々に出てきて、ついていけなかった。気持ちがはぐらかされてしまう、というか、お話が上滑りしている感じで、自分の心にストンと落ちてこない。やはりゴチック体には邪魔されてしまった。3分の1くらいゴチックで、すごくうるさいページもある。旅に出るところまではスローなのでまだついていけるが、そのあとはどうも……。今の子どもたちは、エキサイティングに感じて読むのかしら?

ねむりねずみ:漫画のなかでも、ラフな描き方というのがあるでしょう? 走っている足を描かずに、砂煙だけを描くとか。そういうドタバタの面白さだと思うけれど。

アサギ:私も愁童さんと全く同じ感想で、途中でわからなくなって、しょっちゅう前に戻ったり……。翻訳としては訳しにくいものだと思ったけど、ゴチックにする意味は私も全く理解できないわね。アルファベットの字体を変えるのと、日本語をゴチックにするのとでは全く意味が違うので、危険だと思う。一応最後まで読んだけど、最後まで読んだ本当の理由は、最後まで読めばこのゴチックの意味がわかるのかと思ったからなの! たとえばゴチックの部分だけつなげたら、別の文章ができるとか……。

一同:あー、それだったらおもしろいのにねー!

アサギ:でも、結局最後まで読んでもわからなかったわ。お話もおもしろくなかった。「語る」ということについての哲学はあると思ったけど。カタカナがたくさん出てくるのも、字づらとして汚くなりがちよね。視覚的にディスターブされて、はいっていけなかった。でも、とてもおもしろかった、と言う人がいるってことは、本の読み方って本当に人それぞれってことよね。子どもは何歳くらいから読むのかしら?

トチ:著者も、いろいろなレベルで読んでほしい、と言っているわね。

:大人向きに解説してくれている部分はあるけど、子どもにはわからないと思う。

愁童:この本には、送り手側の熱意の欠如をものすごく感じるな。これを本当に今の子どもに読ませたいと思うのだったら、もっとわかるように努力すべきだよ。作者のネームバリューに乗っかって出してるだけみたいな気がする。

トチ:たしかに、編集者と訳者には子どもに読ませたいという熱意は欠如しているかもしれないわね。でも、作者には絶対にあったと思う。作者のその熱意を編集者と訳者は汲み取れなかったのか、それとも無視したのか……

アカシア:物語について語っている部分も確かにあるけれど、余計な部分もたくさんあって、その部分がおもしろいと思えるかどうかは、読み手の感性に会うかどうか、ということだよね。作者というより、訳者の感性と合わないとだめっていうことかも。

ねむりねずみ:原文では、冒頭がもっと物語る人の語り口調になっているんだけど、訳文はその感じが出ていないというのはあるかもしれない。民話などによくある荒唐無稽なものでも、語り手の口を経ることによって、すっと聞き手にはいってくることがあるけど、これは訳文がそこまで達していないのかな。冒頭の部分なんか、日本語としてはやるなあ、うまいなあって思ったんだけど。

トチ:そういわれてみれば、青山さんの得意のニューヨークものみたいな感じね。

:インドの子どもたちにとっては、魚とか鳥とか、いろんなメタファーがもっと身近なのかもしれないわね。

アサギ:荒唐無稽な話でも、その中に整合性があるものは、本来私は好きなんだけどな。

アカシア:アリスだって、原文で読まなければ絶対に伝わらないものがあるじゃない、これもそういう類の話なんじゃない?

:こういうジャンルの翻訳ものの難しさなのかしらね。

愁童:お父さんがお話できなくなるのは、結局お話の海が汚れているからだ、みたいなこと言われても日本の子どもは困っちゃう。

トチ:んー……もっと重層的意味を持っているんじゃないかしら?

:もっと深いところが侵されてきているからで、原因はいろいろあって、だからおもしろかった。

アサギ:読み手の感性に合えば、本当におもしろいでしょうね。

ももたろう:もともと子どもに語ったものなので、楽しみながら語ったものに後から思想がついてきたのかな?

:いやもっとシリアスで、お父さんどうして語ることをやめないの? という問いかけに答えたものでしょ。

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


愛のひだりがわ

筒井康隆『愛のひだりがわ』
『愛のひだりがわ』
筒井康隆/作
岩波書店
2002.01

ペガサス:かなり期待して読み始めました。最初のうちはリアリズムの話かと思っていたら、次々に変なことがおこって、だんだんウソっぽくなってきた。あとでこの本に関する作者のコメントを読んだら、「近未来」が舞台、と書いてあったけど、あまり近未来という感じもしないのよね。妙に昔っぽい情景などもあって。各章に、登場人物の名前をつけて、次々にいろいろな人が出てくるという構成はおもしろいと思うけど、物語全体としてはちっともうまくまとまっていない。犬姫さまになって、野犬を引き連れていくところなんかはおもしろいから、もっとそれを中心にするとかしたらよかったのに。それからすごく嫌だったのは、いとも簡単に人や犬を殺すシーンが全編を通してたくさん出てくること。しかもみんな、殺すということにさほど罪悪感をもっていないでしょ。こういうものは、どうしても子どもに薦める気になれないわね。

トチ:筒井康隆の作品は好きで片っぱしから読んだので、期待して読んだんだけど……。本というものは、作者の声が聞こえてくるものなのに、この作品からは全然聞こえてこなかった。近未来ということにつながるかもしれないけど、J文学風の香りがしたわね。

アサギ:たとえばどんな?

トチ:藤野千夜とか、『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作)とか。実感がしない世界というのかな。それから、女の子の言葉づかいが、おじいさんみたいだと思った。

一同:そうそう、古臭いよねー。

トチ:いちばんびっくりしたのはね、次郎が死ぬ時、歌子さんと一緒に主人公も泣きながら、「次郎が死んだだけでこんなに悲しいのだから、もっと親しいひとが死んだらどんなに悲しいことだろう……」なんて書いてるところ。だって、この子、前にお母さんが死んでるじゃない。作者はそのことを忘れちゃったとしか思えない。もうびっくりしたわ、ずいぶんいい加減よねえ。

:タイトルには何か抽象的な意味があるのかと思ったら、何のことはない、単に愛ちゃんの左側。たまたまこの著者のドタバタの短編集『近所迷惑』と同時に読んだので、『愛のひだりがわ』もショートショートのおもしろさとして読めば、すごくおかしいんじゃないかと思った。ショートショートのドタバタこそがこの人の持ち味だから。作者は、子どものJ文学というジャンルに挑戦したんじゃないかな。まじめな人だから、何かテーマを設定しなければいけないと考えて、「大人の世界への反逆」をテーマにしたのでは? そのテーマと、読者へのサービス精神で書いたものじゃないかと思う。だから筒井ファンにとっては、新しい試みをしたというところでおもしろいわけね。

:おもしろく読みました。前半は近未来みたいなのに、えらくやぼったい横丁が出てきたりするのもおもしろかった。皆がエゴに走って、自分たちのことは自分たちで守ろうという社会が絶対に興らないとはいえない、と感じた。主人公は、殴られたら殴ればいいわ、というように妙に淡々としているところがあるが、志津恵さんが男を捨てて出るときのセリフを聞いて、なんてやさしい人だと思うところなどに、主人公が少しずつ成長していることがわかる。

アカシア:そこはちょっと苦しくない?

:作者は志津恵さんや愛ちゃんみたいな女性が好みなんだな、と思う。

ペガサス:それは確かにあるね。

:野犬の女王になるところあたりまではおもしろいんだけど、3年たったところからは急速にまとまらなくなった感じはした。書き急いでいるみたいで。だいたいサトルが、何で新興宗教の教祖を支える子になってしまうのか、納得できないわ。

:髪が水色で、普通じゃないから、そこへ行かせなければ収拾がつかなかったんじゃない?

アカシア:筒井康隆はもっとおもしろいはずなのに、って思った。ショートショートだったら、もっと考えて書くか、短いから破綻が来ないということがあると思うけど。これはただ書いただけで、何も推敲してないんじゃないかと思う。おもしろいタネはたくさんあるのに、つながっていないから、ちっともおもしろくないのよ。それに、女の子の古臭い言葉づかいはやっぱり気になった。

トチ:昔の作品より、質は明らかに落ちているよねー。

:『わたしのグランパ』なんか、スーパー老人が出てきておもしろい作品だったな。

アカシア:ドタバタで読ませようとするのなら、もっとエネルギーが感じられてもいいはずよ。これも、いっそスーパー老人の話にすればよかったのにね。

ペガサス:これはドタバタで読ませようとしているとは思えないね。

アカシア:だから中途半端なんじゃない?

愁童:さすがに手だれの職業作家だと思うよ。今の子にどう書けば受けるかということを、きちんと押さえて書いてる。文章もしっかりしているし、スイスイと、それなりにおもしろく読めるじゃない、あとには残らないけどね。以前とりあげた『海に帰る日』をおもしろく読んだという子に出会ったけど、暴走族の出し方なんか、『海に帰る日』とよく似てる。

アカシア:暴走族が必ずしも若者に受けるとは思わないけど、ストーリー展開が早いとか、人物をあまり深く描かないということは今風かもしれない。

愁童:若者に受ける要素をしっかりつかんでいるということはあると思う。

トチ:そこがすごく嫌だったな。

アカシア:筒井ファンはこれをおもしろいと思うのかな?

トチ:思わないわよ。

ももたろう:この本はどういうコンセプトで出したんでしょうね? 帯に「マジック・リアリズム」と書いた意味は?

:マジック・リアリズムとは、現実をマジックで敢えてゆがめる作風で、アンジェラ・カーターが自分の書くジャンルのコンセプトとして初めて使った言葉ですね。

アカシア:ラテン・アメリカにはもっと前からあったんじゃない?

:帯に書いてあるのを見て、日本でもこれをやろうとしたのかと思ったら、全然違った。

アカシア:現実に不思議な要素が入ってくるものは、何でもマジック・リアリズムと称するみたいなところがあるね。

ももたろう:最後までツルツルと読めたけど、残るものがなかった。妙に古臭いところを出して、あえて時間を下げて、テクニックを使って新しいところを出すようにしたのかな? リアリズムかなと思って読んだら違って、はぐらかされた。それに長編のわりには愛ちゃんの人物像が薄っぺらいと思った。ある意味では、クールさを出したのかもしれないけれど。どういう読者にどういう思いをぶつけたいのか、中途半端。子どもの本棚には並べられないと思う。

アカシア:本の最後のページに、『トムは真夜中の庭で』『モモ』『ホビットの冒険』などの広告が載っているけど、編集部ではこれらの本と同じと思って作ったのかな?

ペガサス:それはね、最後に「あっそうか、これは岩波の本だったんだ」って気付かせるためよ。

すあま:筒井康隆は好きだったけど、この本はこの装丁がどうしてもダメで、買う気になれなかった。子どもの本には見えなくて、どちらかというと連城三紀彦とか渡辺淳一って感じ。

ねむりねずみ:作品のなかにはいりこんで感動するということはなかった。デストピアを通り過ぎていく少女のロードムービーみたい。お父さんとの再会の場面など、愛ちゃんが一方的にしゃべるだけで、やりとりになっていないし。本当に人と人とがぶつかりあう場面は出てこないみたい。ただ通り過ぎていき、横に寄り添うだけ、といった感じ。愛ちゃんが唯一ウェットな関係をもっている相手が犬なんでしょうね。それから、女の子の一人称であることを、作者が完全に忘れているところがあって、シェイクスピアがどうとか、女の子の言葉ではあり得ない部分があった。「独特のお色気があり・・・」なんて、女の子の言葉ではないでしょう? 今の時代のゆがんでいる部分をうまく配置しているとは思うけど、それ以上にはなっていない。すべてが透けて見えてしまう。上手に書いているけれど、気持ちがはいってないという感じ。

もぷしー:最後まで、これが児童ものと認識しないで読んでしまったが、認識しないときのほうが、受け入れられた気がします。ひとつひとつを作者が思いをこめて書いたにしては、伝わってこないな、と思った。過ぎ去っていく出来事の中に自分が置かれている、という今の子らしいものを書いたということなんでしょうか?

アサギ:近ごろこれほどバカバカしい本は読んだことがなかったわ。何でこんだくだらない本を書いたのか、と作者に聞きたい。

アカシア:バカバカしい、と、くだらない、は違うよ。

アサギ:両方ってこと。こんなつまんないもの! 全部が気に入らないわ。たとえば「知的な」という言葉の使い方。大学を出ているから知的だ、という表現が二箇所もあるのよ。本気で書いているのかしら。まさか、と思ったわ。信じられない!

トチ:それはね、この本を出した知的な出版社を筒井康隆が皮肉っているのかも……

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


四十一番の少年

井上ひさし『四十一番の少年』
『四十一番の少年』 (井上ひさしジュニア文学館11)

井上ひさし/作
汐文社 (文藝春秋社)
1998

ねむりねずみ:私の数々の引越しの中で処分されなかった、数少ない文庫本の一冊。井上ひさしでは『ブンとフン』など、ユーモラスなものを中心に一時期のめり込んで読んでいたけど、こんなものも書くのか、と一目置くきっかけになった一冊でした。淡々とした語り口だから、逆に起こっている事のすごさがこっちに迫ってきて、すごく強く印象に残る。作者の意図や作品の構造がどうとか読者に考える隙を与えない。読者が自然に入ってゆけるところが、やっぱりうまいと思いました。文学作品を読んだ、という手応えがあった。終戦後の状況を描いた話だけれど、必死に這い上がってゆくハングリーさとか、今の子が読んだらどうとらえるのかなっていうのが興味あります。これは、子ども向けに書かれたわけじゃないんでしょ?

アカシア:でも、汐文社のは「井上ひさしジュニア文学館」シリーズとして出てるのよ。

すあま:私は、J文学の無い時代に育ったから、文庫本の中から自分が読めそうなものをさがして『ブンとフン』などを読んでいたのですが、養護施設でボランティアをしていた頃に読んだ思い出深い一冊がこれです。時代は違っても共感して読めた。今の養護施設は、児童虐待の保護施設のようになっていて、本の中の養護施設とは、子どもたちのバックグラウンドがずいぶん違ってきましたよね。みなさんは、バックグラウンドが古いという印象を持ちました?

ももたろう:養護施設の状況は違うかも……でも、いじめは今でもあって、子どもの世界にも力関係がある。恐怖を感じながらも、何とか取り入って生きていこうとする姿勢なんかは、今にも通じると思う。だから、主人公利雄の気持ちに従って読めました。子ども時代の気持ちを、大人になっても体が震えるほど怖い、という形で、さかのぼって表現しているところが面白い。こういう作品から、主人公の気持ちを読み取れる読書力のある子ども読者がどこまでいるかな? 読ませてみたいな。

愁童:今回の3冊の課題の中で、いちばん文学を読んだという感じがした。時代背景が違っても、いじめの本質は昔と今で変わらないから、今の子にも結構読まれるのではないか? 子どもたちに日本語で小説を読ませるなら、こういう文章を読んで欲しいなってしみじみ思った。

アカシア:『ハルーンとお話の海』『愛のひだりがわ』vs『四十一番の少年』という構図で考えると、登場人物の内面を描くか描かないかという点で、対極的な作品だと思いました。もし、登場人物の内面を描かないで、外側のおもしろさだけで引っ張っていくのなら、それはゲームでもいいんだから、本なんか無くてもいいことになってしまう。本の未来はないでしょうね。この本の「解説」で、「ユーモア作家井上ひさしには珍しい、笑いの無いシリアス作品」というようなコメントがあったけど、それは的外れだと思った。私は、この作品に井上ひさしのユーモアの部分が随所に見られると思った。不謹慎だとは思うけど、ナザレトホームの歌とか、昌吉の未来の履歴書とかは、哀しいなかにも笑える要素がずいぶんあると思う。『愛のひだりがわ』の場合は、「作者はプロなのに子どものだからといってこんなの書いていいのか!」と思ったけど、これは逆だった。いじめについても、良いとも悪いともいわないで、今も昔も同じようにあるんだよと言うふうに扱っていて、井上ひさしはやっぱりプロだなと思った。

愁童:それを排除しようとするのが今の教育体制だけど、そんなことしても状況は変わらないよね。こんな本読んで、人間理解を深めることが先決。

アカシア:いじめは、仲良くするように努力すれば止むんだと思っているほうが悲惨。

:これを読んだ感想は、一言でいうと、面白かった。安心して読むことができました。いじめなんかも必ずあることだし、昌吉の人をうらやんでちょっと意地悪しちゃう気持ちも、切ないくらいわかる。良し悪しは別として、人の心の動きを書いているのがいいと思う。利雄が舟に乗って冒険に行くところも、本当は誘拐の手助けになっちゃうところで、良いことではないんだけど、妙におかしい。少しずらした視点で考えると、もっと大きなものが見える。これが文学なんだな、と思って読めた。

:『ハルーンとお話の海』は、何か読み取れるはずなのに読み取れなくて、肩透かしな感じだった。井上ひさしを読んで、やっと前の2作で感じたフラストレーションがおさまりました。この作品は、登場人物の内面を自分自身の内的体験をコアにして書いているところに強みがあると思う。子どもの主人公を、大人になってから自嘲的に自己省察させるという、その距離がユーモアを生んでおり、シリアスな中にも救いがある。子どもの主人公を、大人になってから自己省察させることによって、子どもというものを使った大人の小説家の手法を見た。テーマ性をしっかりもった作品で、他の二作と違って、純文学が子どもを使ってとして成功した例だと思う。ただ、母親に書いた手紙など、古臭さが感じられ、どこまで今の子の読書に耐えうるかは疑問。今の大学生でもどうかしらねえ……。

もぷしー:「作者の新しい試み」や「新しい文体」など、一種のファッション性を追求する最近のJ文学を読んでいるさなかにこれを読んで、久々に、読者が作者の意図に振り回されずに、内容だけを味わえる作品だな、と思いました。話のバックグラウンドが古いのでは?ということも、いじめなど現代に通じるテーマもあるし、それはそれで受け入れられるんじゃないかな。この本は私が生まれた年に書かれたものですが、自分が体験していないことでも、描かれている感情が今もリアルに生きていることなので、のみこめました。ただ、現代は人と人との距離がかなり離れているけれど、この作品の時代は、係わり合いになりたくない人の生活や内面まで知ってるような感じだから、人間との距離のとり方はずいぶん違っているなという感じを受けましたが。子ども時代にはかなり深刻であったろう出来事を、消化してから描かれているところに作品の余裕を感じ、子どもたちに読んで欲しいなと思いました。

トチ:みなさんと同じで、とにかくうまい、文章といいプロットといい、まさしくプロの作品だと思いました。冒頭部分など、地理的にも描写が難しいところを主人公の目の位置で描いているから、ありありと読み手の目にうつってくる。構成も、牧歌的な雰囲気ではじまり、ところどころちくっと刺のようなものはあるけれど、ユーモアもあり、ぐいぐいひきつけられていく。丸木舟の冒険で、主人公の気分も晴れ晴れとしてくるところで、一気にどん底まで落ちていく。そこの展開は、すごいと思いました。でも、子羊のように純真無垢な男の子が死んでいく場面はとてもショックで、ああ読まなければよかったと思うくらい、落ち込んでしまいました。ストーリーの上では無くてはならない場面だけれど。
もぷしーさんは、子ども時代に深刻だった事件を大人になって消化して書いているところに余裕を感じたということだけれど、私は少し違った感じを持ちました。昌吉は救えなかったのに自分はいまこうして生きているということに、主人公は子どものころには感じなかった罪の意識を覚えているのではないかしら。カソリックのことはよく知らないけれど、悪とか罪というものに対するカソリック的な考え方(感じ方)がうかがえたような気がする。曽野綾子の『天上の青』も悪と許しを書いた文学だと思うけれど、悪の描き方や感じ方が少し違っていて、そこのところも興味深かった。

ペガサス:さっき、笑いのポイントとして挙がっていた未来の履歴書のシーンでは、私は涙が出て、とても笑えなかった。胸が痛くなった。昌吉は確かにひどい子だけど、子どもの純真さと冷酷さの両方をを併せ持った子として描かれている。だから読者に「憎い」という気持ちを起こさせない。それは作者が人間愛(人間を良い悪いの2つの尺度だけで測らない)をもって昌吉像を描いてるからだと思う。大人になってから書いているからそれができたのではないか。いじめられてるさなかでは、主人公利雄は昌吉をあんなふうには温かく見られなかっただろうし。そういう点で、このお話は、人間の両面性を理解できる大人になってから読む本じゃないかと思った。

トチ:でも、人間の両面性を気にしないでいられる年齢って、今どんどん下がってきてるんじゃない?

一同:うんうん。

アサギ:井上ひさしはやっぱりうまい!って、私も思いました。でも、このお話読んでると、どんどん辛くなってくるのね。確かにユーモアは、対象との間に一定の距離が無ければ生まれないんだけれど、このお話には、かえって距離をとってユーモアにしなければ語れなかったっていう、切実な感じがある。それがこの作品に深みを与えているのね。未来の履歴書も、読んでて胸がいっぱいになった。井上ひさしのユーモア作品と演劇の作品は知ってたけど、これを読んで新たな発見をしました。ただ、いい作品だけど、読んでいてかなり辛かった。若いうちはショックを受けても跳ね返せるけど、だんだん、こういう作品は辛すぎて読みたくないって思ってしまった。

トチ:そういうショックには、子どもの方が強いんじゃないの?

アサギ:絶対強いと思う。でも子どもには、この作品の切実さは、わからなくてもいいんじゃないかしら。

アカシア:切実とはいっても、ユーモアの中にある切実さは、子どもにも通じるものがあるのでは? 「子ども」の年齢によると思うけど、中学生より上には、こういう作品も読んで欲しいと思う。ハッピーエンドでない作品もね。

トチ:私は、本を読んで落ちこんだって、ショックを受けたっていいと思うのよ。じゃなければ、本を読む意味なんてないもの。

アサギ:これは、作品が優れている分、よけい辛かったの。

アカシア:今の子は、本を読んでも、落ち込むまで感じ取れないみたい。

愁童:昔は、中学生といえばもう大人扱い。純文学でも古典でも、難しいものをたくさん読まされた。わからない文学も背伸びして読んでいたものだったけど、今の子は、等身大のものばかり読んで育っている。そもそもあまり読んでいないから、フィクションに共感して、疑似体験をするという経験が少ないし、本を読んで落ち込むこともできない。第一落ち込むような本は読まないよね。

トチ:級友の女の子の家の運転手など、ほんの少ししか出てこない人でも、描き方が非常にうまい。全ての登場人物を温かく、まあるく描いている。それだからこそ、ストーリーの切実さがよけいに増してくるのよね。

アサギ:心に残るんだけど、辛さのほうがたくさん残ってしまうのよ。それを跳ね返せるのは、若さのパワーなの。

愁童:映像ばかり見て育つと、出来上がった他人の既製イメージばかり蓄積されるわけで疑似体験には成りにくいよね。活字でそれを読んでいる子は、自分でイメージを構築しなければならないから、しんどいけど、そのプロセスが体験につながるもんね。

:いや、子どもにはもっと正常なポテンシャリティがあると思うわ。

アカシア:でも、映像だけで育ってきた子は、人間と人間の関係性がうまく結べなくなっているように思う。親子関係だけじゃなくて、他人との間にどれだけ深い関係が結べるか、っていうことが大事なのよ。そして人と人との関係って、文学から吸収できるところがたくさんある。映像文化だけでは、育ってこない力だと思う。ハリポタみたいなのばかりを読んでいると、内面を描いた文学に出会ったとき、暗いだけで面白くありませんでした、っていうことになっちゃう。本は、自分で世界を構築しなければいけないから、ある程度その力がないと楽しめない。結局、力がなくても読めるハリポタみたいな作品ばかりがもてはやされるようになってしまう。

もぷしー:出版社のほうも、たとえ本当は『四十一番の少年』のような本を出していきたくても、そういう本はなかなか読んでもらえないから、どうしてもハリポタのようなものを多く出版する傾向があると思う。映像的な本ばかり出版していたら、読書の楽しみが子どもに育たないのを助長しているようなものなのだけど……ジレンマ。

ももたろう:読書経験の少ない読者に、いきなり『四十一番の少年』を読みなさいといってもそれは無理。やはり、絵本や幼年文学からはじめて、幼い頃からの読書体験を積み重ねていかないと。

:ずっと映像だけで育ってきた子どもでも、大学に入ってから文学に開眼することもある。それからでも遅すぎるわけじゃないと思う。ポテンシャリティはあるわよ。

愁童:最近、学校での10分間読書がきちんと行われてきていて、それでだいぶ変わってきていると思う。この間見学したけれど、その10分は、大人も含めて、学校中全員しーんとして本を読んで、音が全くしない。そういうふうに一日10分何かに集中するということだけでも、何かが変わると思う。問題のある子は、その10分も耐えられないんだけどもね。でもとにかく活字に触れて、考えることが大切だと思う。それから、昔にくらべて、生徒に立って声をだして教科書を読ませるとことが減ってきているようだ。先生が、区切りのいいところで、はい次、と言うことができなくなっているんだよ。文脈と全然違うところでぶちっと切ったりする。あれじゃあ、子どもの読解力は育たないよ。先生が、本が読めなくなってきているわけだ。

ももたろう:究極的に言うと、大人が本を読むべき、ということかな。

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


月の影 影の海

小野不由美『月の影 影の海』
『月の影 影の海』 (十二国記) 

小野不由美/作
講談社
1992.06

トチ:私は面白く読みました。オリジナリティーがあって、生き生きと描かれている。フィリップ・プルマンの〈ライラの冒険シリーズ〉はパラレルワールドから入るけど、〈十二国記〉は高校生の日常から、現実からスタートするので、中高生にも読みやすいのではないかと思いました。目新しいことが次々に出てきて、ストーリーにひかれて読みました。一国の統治者の選ばれ方が、選挙でも血筋でもなく、なんとなくダライラマの選び方に似ているところも面白かった。ただ、シリーズをずっと読んでいくと、『風の万里 黎明の空』あたりで、急につまらなくなる。同じ作者が書いたものだろうかと思うぐらい、文章に勢いが無くなるし、どういうわけかお説教くさくなる。ついに沈没してしまい、『図南の翼』は買ったけれど読んでいません。

アカシア:私も、このシリーズを次々に買ってずんずん読んでいったのだけど、途中の巻で読み続けられなくなった。文章も、なんだか急に下手になったなぁ、と思ったし。

カーコ:久しぶりに日本語の本を読みました。ハイファンタジーが苦手で、説明の細かいところは飛ばしてしまいましたが、筋としてはおもしろく、早く先が読みたいと一気に読みました。十二国の構成や階級などの詳しい説明に私は入りこめず、このように書きこんであるからおもしろいと一般の読者は感じるのか、ここまで書かなければおもしろ味がでないのだろうか、というのがよくわからず苦しかった。あと、陽子の父母が出てくる場面での二人のやり取りがステレオタイプに思え、陽子と学校の友達の会話にもひっかかりました。たとえば、宿題のプリントを友達に見せるシーン。「中嶋さんってまじめなんだねぇ」をうけて、「ホント、まじめ。あたし宿題なんてきらいだから、すぐ忘れちゃう」というの。十二国以外の部分、現実の世界の表現がこんなに直接的でよいのだろうかとおどろきました。

ペガサス:先入観なく読んだせいか、結構おもしろく読めました。BSでアニメになっているのを観たけど想像したとおりの感じ。主人公が陽子のほかにクラスメイトの男の子と女の子を加えた3人になっていた。普通の生活をしている子どもが異界へ行くファンタジーは、主人公が何か不満をかかえているといった必然性があるものが多いけど、この主人公の必然性はそれほど強くない。いい子に見られているということが不満といえば不満かもしれないけど、特に望まないのに選ばれてしまい、いやだいやだと思いながら引き返せないというところがおもしろい。「なぜ」ということがわからないまま、どんどん進んでいくし、つれてきたケイキという人物が消えてしまうので、ますます何がなんだかわからなくなる、それが読者を引っ張ってくれて、先へ先へと読ませるのでしょう。描写がわかりやすいから想像しやすいし読みやすかった。でも、12国全部読むのはちょっと辛いなあ。異界もの、という意味で、プルマンと一緒に取り上げたのはよかったかも。

アカシア:12の国があるから「十二国記」で、これは12の国のうちの一つの国の物語なのね。

ペガサス:すごくファンは多いみたいだけど、ストーリーが想像しやすいからかしら。

アカシア:プルマンとは質的には正反対だと思う。〈十二国記〉には新しい価値観は無いし、エンターテイメントだと思うけど、私はハリー・ポッターよりはおもしろいと思う。ハリー・ポッターを読むくらいなら、日本のファンタジーにもこんなにおもしろいものがあるのだから読んでほしい。全体に荒削りのところもあるし、文章のばらつきもあるけれど、小野さんにはストリーテラーとしての力もあるし、王様と麒麟の関係に興味がもてるし、必然性が無く選ばれると言うところも私はおもしろいと思った。インターネットで見ると、小野さんのファンのHPってたくさんあるのね。版元の講談社も〈十二国記〉のサイトを開いてるし、関連のイベントもいろいろあるみたいだし、熱烈なファンがたくさんいるのがよくわかる。

愁童:困ったなぁー。トチさんがハマってるっていうから期待して読んだのだけど、大人用(講談社文庫版)は文章がむずかしくて……。X文庫はやさしくしてあるらしいので、そっちで読めば良かったかな。ハリー・ポッター好きな人は同質なおもしろさで読めると思うけど、こっちは翻訳じゃないんだから、もうちょっと気持ちいい文章で読みたいな。劇画だと思えばOKなのだけれど。例えば、「どうしようもない」が「どうしようもできない」といった具合……。そんなにおもねなくてもと思っちゃう。ひょっとしたらハリ・ポタの方が日本語としてまともかな、なんて思ったりして。

ペガサス:「麒麟」なんて漢字で書くと格調高く見えるじゃない?

愁童:わざわざ使う必要があるのか?

アカシア:私は「麒麟」を出してきたのは、おもしろいと思ったな。ただし、全編において伝説や神話を下敷きにして考証を重ねて書いているのかというと、そうでもないみたい。何巻目かの後書きで、作者も不備がバレないか不安って書いていた。でも、アイデアを借りてきて、自由につくっちゃっても、こういうのはそれでいいんじゃないかな?

愁童:月の影が、沸き立つ海面に映ってるみたいな描写は、随分乱暴だなって思うけど……。モチーフは「千と千尋の神隠し」とよく似てる。きっかりした現実に向かい合えば、自立して行動できるというメッセージはそれなりに伝わってくるよね。今の子供達の教室の交友関係をうまく捉えていると思うし、そこを出発点にして、ファンタジーの中でしっかり成長していく女の子像は説得力はあると思う。

トチ:〈ハリー・ポッター〉より、人間の裏表が表現されているよね。主人公が出会う人物でも、動物でも、最初は敵か味方か、悪者かそうでないか、まったく分からない。親切そうにみえた小母さんが、実は主人公を売春宿に売りとばそうとしていたり……。

アカシア:〈ハリー・ポッター〉は、登場人物が紙人形みたいで裏から見るとのっぺらぼうだから、リアリティが感じられない。その点、〈十二国記〉にはリアリティがあるよね。

ペガサス:会話のやり取りにリアリティがあってうまい。〈ハリー・ポッター〉と比べても、実際にありそうな会話が多くて、こっちはおもしろい。表現の不備とか気になるところはあっても、こういうものはあまり考えずにどんどん読める。

愁童:憑依するときのヒヤッとする感じはリアリティがあっておもしろかった。でもこの世界、ファンタジーなの?

アカシア:しいていえばファンタジー的エンターテイメントじゃない? 今並んでいるネオファンタジーの範疇に入るのかな?

ねむりねずみ:最初から文章にひっかかりっぱなしで、すごい日本語だと思いました。時代がかった表現で書こうとしているのは分かるけれど、まず3ページの「目に強い酸味を感じた」というのに、え?こんな言い方したっけと思ったのが運の尽きで、それからは気になって気になって、例えば上巻の42ページの「ヒヒは〜」ではじまる文章にある「乱暴な運送」(講談社文庫版では「運搬」と変更)という言葉、こんなところで運送かあ、といった調子で、片っ端から引っかかった。あと、下巻の26ページに「ダイニングキッチン」という言葉が出てきて、このほうが今の若い人にはわかりいいのかもしれないけれど、中国風の粗末な家にダイニングキッチンはないんじゃないの?と思ったり。小難しい文章で、しかも若い人にわかるようにと考えた結果、こうなっちゃったのかなあ。

愁童:「とらまえる」なんて、平気で出てくるし……。

ねむりねずみ:私も上巻59pの「真っ暗な海で……」のところのイメージが今ひとつわからなかった。でも引っかかりながらも、先はどうなるかと気になって、そういう意味では一気に読めました。一言で言えば女の子の成長物語。箱入り娘だった主人公が、生きて行くだけでも大変な世界に行って、今まで気付かなかった自分に気付くと、そういうことなんだ、なるほど、なるほど、と思って読みました。異界に連れてこられてしまって、訳が分からないまま必死にがんばって生き延びようとする主人公の心の動きはうまくかけていると思いました。箱入りの生活から異界に入るという設定からして、随所に面白いところがあるし、ゲーム的な面白さもある。作品に勢いがあって、日本語を気にするのをやめたらすごい勢いで読めました。でも、イラストは安っぽくていやだった。大人の文庫には挿し絵がないみたいだから、そっちでで読めば良かったかな。

すあま:これはずっと以前に読んでいたのですが、読み直す時間が無くて忘れている部分もありました。図書館では、評価が高かったと記憶しています。〈十二国記〉の中ではこれが一番おもしろいと思う。王様に麒麟がついているという設定が面白かった。他の日本のファンタジーは古代に舞台を求めることが多かったけど、これは中国風なところが珍しい。作者が主人公をいじめていると言うか、女の子チックな話ではなくてハードボイルドなところが変わっていると思う。友人の中には何度も読み直す人もいるし、ホームページサイトもあってファンは多いみたい。大人版の文庫も出ているけど、私はx文庫のイラスト付で読みました。巻が進むにつれてコミカル系になっているのは、最初に力が入りすぎたのかしら。

愁童:陽子が思い迷う描写が冗長で、読むリズムが乱された。

トチ・中高生の読者は、主人公と一緒に悩んだり迷ったりしながら読むんでしょうね。中高生のそういう心の動きを、作者はよくわかって書いていると思いました。

(2002年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


琥珀の望遠鏡

フィリップ・プルマン『琥珀の望遠鏡』
『琥珀の望遠鏡』 (ライラの冒険シリーズ3)

フィリップ・プルマン/作 大久保寛/訳
新潮社
2002.01

すあま:1巻、2巻を読んでから時間がたっていて内容を忘れているせいもあり、3巻は200pくらいまでしか読めていないが、ここまでだとあまり面白くなかった。3巻に至るまでの道筋を忘れているせいかな。主人公に共感できないし、この子たちが面白くないです。1巻、2巻を読んでいる時も好きになれなかったし、世界が交錯しすぎていてパンクしそうになってしまう。1巻から2巻では世界がガラッと変わっているが、キリスト教の話に至ってからは、作者の狙いが大きすぎるためか、宗教的根元にまで持って行かれるとついて行けない。登場人物も良い人か悪い人か良く分からない。私はキャラクターを好きにならないとついて行けないし、評判になっていることに驚いているくらい。図書館では、一般書とするか児童書とするか、置き場所にも迷う本ですね。

アカシア:このシリーズは最後まで読まないと、作者が言いたいことや構築した世界が見えてこないわね。私も1巻と2巻は主人公に感情移入できなかったの。構築している物語世界には興味があったんだけど、おもしろいと思って読めなかった。でも、3巻の後半になっておもしろくなってきた。
「ホーンブック」の2001年11/12月号にプルマンが「天の共和国」というエッセイを載せているの。そこでは、プルマンはまず、「神の死」によって現代人は生きる意味や、自分と宇宙のつながりを宗教に求めるわけにはいかなくなったと言うのね。そして、宗教のかわりに「天の共和国」という概念をもちだしてきて、どこか別のところに理想の世界があるのだと考えるのではなく、今、この現実界にその共和国をつくるということが重要なのだと言うの。そして、グノーシス派やC.S.ルイスやトールキンのファンタジーなどは、どれも現実界に意味や喜びを見出すという考え方を否定することにつながるから駄目だと、批判するわけね。この「天の共和国」というのは、個々の人間がそれぞれ孤立して生きるのではなく、他の人々や自然や宇宙をかかわりを持ちながら生きる場所ってことらしいんだけど、このエッセイを読んで、私は、「ああ、プルマンはこの『天の共和国』の一つのかたちを書きたかったんだなあ」と思ったんですね。「そうか、そういうことが言いたかったのか」と。
ただね、プルマンは、「ファンタジーに書かれる登場人物は、現実界の人間の特徴を映し出していなきゃいけない」って言ってるんだけど、〈ライラの冒険〉シリーズの登場人物は、私にはあまり現実界の人間というふうには感じられなかった。とくにライラのお父さんとお母さん。ライラやウィルは、終わりの頃になって生き生きと動き出したんだけど、お父さんとお母さんは最後にライラを生かすために犠牲的になって死ぬってところだけしか実体がない。だから私は、ストーリーとしてはあんまり成功してないんじゃないかな、と思ってしまった。訳の問題もあるのかな? リアルに生き生きと浮かび上がってこない点、不満が残った。

ペガサス:1巻を読んだ時は、〈ハリー・ポッター〉よりずっとおもしろいと思いました。長い物語を丹念に書いてあるので、映画を見ているように想像することができ、全くはじめての世界を楽しめました。2巻、3巻と進むにつれて、だんだん多くのことが盛り込まれてくるし、1巻よりも登場人物も増え、場面もくるくる変わるので、ゆっくりと味わうよりも、とにかく先へ進まなきゃ、って感じになる。訳者の解説に書いてあるように、まさにジェットコースターなみの展開ですね。全巻を通して感じたこの作品の特徴は、とにかく異界・不思議世界の構築に独自性があるということ。ダイモンの存在もユニークでひきつけられる。3巻目になるとちょっと飽きてきたけどね。鎧を着たクマ、トンボを乗り回す戦士、ダイアモンド形の足を持つ生き物など、キャラクターにもオリジナリティがある。けれども、これだけ大部で評判も高い作品なので、作者プルマンはこのなかできっと何かを言おうとしているんだぞ、それがわからなきゃあ、だめなんだぞ、ってちょっとプレッシャーを感じてしまう。
それが少しわかったかな、と思ったのは、3巻の464p死の国でウィルが父親と会った場面で、父親の言う「われわれは、地上の共和国—楽園を自分の世界にきずかねばならない。われわれにはほかの場所はないからだ。」というところや、572pでライラに「神を信じるのをやめたとき、善悪を信じるのをやめたの?」と問われたメアリーが「いいえ。ただ、わたしたちの外に善の力と悪の力があると思うのをやめたのよ。そして、善と悪は、人間のおこないについていえることで、善人と悪人がいるんじゃないと信じるようになったの。」という部分で、ああこういうことが言いたいわけなんだな、ってわかってきた。善悪の区別のできないキャラクターを登場させるわけもわかった。でも、何か意味をみつけなきゃ、と思いながら読んでいくってしんどいから、あまり考えずにお話を楽しもうとしたほうがいいけどね。とにかく、たくさんの世界を体験し、果ては死の国まで連れて行かれてしまう。またいろんな切り口で人間をみせてくれる。結果的には、人間って何だろう?この世界は一体この先どうなってしまうのか?というようなことまで、考えさせられた。それは漠然としたものだったけれど、あとがきを読んで、また今紹介してもらったプルマン自身の考えを聞いて頭が整理できました。大きな作品だと思う。
不満な点は、ライラって最初は元気で魅力的だと思ったけど、だんだんそれが鼻についてきて、自己中心的で嘘つきでいやな子どもに感じられてきたのね。それは彼女のせりふの訳し方にも影響されてると思う。「〜〜だわ。」を多発しているのがすごくうるさい。

トチ:訳者は今時の女の子の話し方をよく知らないのでは? 「〜〜だわ」という話し方をするのは、おばさん世代。いまは、男の子と女の子の口調がどんどん近づいてきている。でも、微妙に違うんだわよね。

ペガサス:男の子と女の子の口調の違いがはっきりしていなし、口調のせいもあってすごく子どもじみている。3巻の最後で大人に成長するでしょ。でも成長の途中の過程があまり感じられなかったから、突然ライラがウィルに愛を告白して、なんだか唐突だと思った。こんなに長いことライラに付き合ったのにその成長がいまいち納得できないのは残念でした。ライラとウィルをアダムとイヴになぞらえているんだけれど、キリスト教を知っていないと日本の子どもたちには分からないんじゃないかしら。アダムとイヴのパロディのおもしろさが分からないんじゃないかしら。

トチ:口に赤い実をふくませるところなど「あっ、知恵の木の実!」と創世記の記述を思い浮かべ、その色の鮮やかさにこめたプルマンの心に感動もしたけれど、聖書に親しんでいない日本の子どもは分からないかもしれないわね。

ペガサス:3巻の各章にウィリアム・ブレイクやジョン・ミルトンの言葉が書かれているけど、それぞれに意味を持たせているはずで、そういうところももっと理解できれば良いのかもしれない。

アカシア:ダイヤモンド形の骨格の生き物が出てくるでしょ。こういう姿のものをプルマンが敢えて創造したところに、何か意味があるわけ? 私はその辺もよくわからなかった。

ねむりねずみ:プルマンは、パラレルワールドの作り方がすごくうまいと思う。ダイヤモンド型の骨格の生き物にしても、エデンの園を思わせるのどかさと機械的な部分がない交ぜになっていてオリジナリティがある。どこかで見たようでいて、プルマン独自の世界になっている。

トチ:ダイモンは、中近東の昔話によくでてくる守り神によく似ているわね。たとえば、魔物が悪いことばかりしているので滅ぼそうとするけれど、絶対に滅ぼせない。ところが、海のむこうの小島に魔物の守り神である鹿が住んでいることがわかる。その鹿を殺せば、魔物も滅ぼすことができる。

:私は、1巻の表紙のライラと熊の絵が気に入って期待して読み始めたのですが、ライラがいたずらっ子で『モモ』(ミヒャエル・エンデ著/大島かおり訳/岩波書店)みたいな女の子かなって思ってワクワクして読んでいったら、なんとも複雑で。登場人物も多いし。ダイモンは魂のようなものかな? ダストは何? 気配の事? 深いものがありそうだ、などと考えていると訳わからなくなってきたけど、「?」を考えない事にして読めば、今までになかった世界を面白く読めた。2巻の中くらいでウィルとグラマン博士と出会うあたりから、「?」が分かってきて面白くなってきました。キリスト教の事や聖書の事が生活の一部のようであれば、すんなりと読めるのでしょうね。急ぎ足で読んでしまったけど、もっとじっくり読むべきだと思ったし、細切れで読まずに腰を落ち着けて読まないと大切な事が読み取れないと思った。深い意味のあることがたくさんちりばめられていて、息つく間が無い感じで。もう一度読みなおしたいし、読みなおせる本だとと思います。

トチ:この作品は〈十二国記〉以上にオリジナリティあふれる世界を創造している。そのうえ、テーマが誰にも共感できるものであり、1巻から3巻までしっかり筋が通っている。オリジナリティあふれるファンタジーというだけだったら、他の作者も書いているかもしれない。テーマにしたって、たとえば評論という形だったら他の人も書いているかもしれない。でも、作者が心から言いたいこと、子ども達に伝えたいことを、こういうファンタジーを作ることで成し遂げたというのが、この作品のすごい点だと思う。死者の国から死者が別の世界へ出て、粒子となって世界に溶け込んでいくところに私は感動したけれど、これは宇宙の星の終焉の有様と似ているわよね。ひとつの星が爆発して、人も、石もなにもかも、ばらばらになって、暗い宇宙のなかでタンポポの綿毛みたいになる。やがて、それがまた結びついて、もとの星の粒子が違う結びつきをして、新しい星になる。
それから「万物に神が宿る」という日本人の考え方……というか感性にも近いものがあるわね。養老孟司さんが、「海外で『千と千尋の神隠し』が評価されたのも、唯一神の信仰が文化の土台にある国々の人にはこういう物の見方が新鮮だったからではないか」と言っていたけれど、プルマンの作品も同じような意味で新鮮だったんじゃないかしら。
以上が評価できる点だけれど、翻訳もふくめて本づくりには大いに不満があります。英語にかぎらないと思うけれど、外国語にはたとえば「お母さん」を次の文章では「ミセス・スミス」と言ってみたり、いろいろに言い換えることがあるでしょう? それをそのまま訳してしまうと、文化のギャップなどでただでさえ読みにくい翻訳物がますます読みにくくなる。翻訳者は誰でもそういうところを原作の味を損なわない程度に工夫していると思うけれど、この本ではそういう配慮がみられない。「あー、大変だったろうな」とは思うけれど、楽しんで翻訳しているとは思えないわね。もう一度、じっくり訳しなおしたものを読みたい。それから、訳者後書きで、「ハリー・ポッターを読んだ子どもがこの本を手にとってくれたら……」というようなことを書いているけれど、それはちょっと違うのでは?

アカシア:小谷真理さんもハリー・ポッターとこれを同じところで読んでいるけれど(4/6付けの読売新聞(夕刊)本よみうり堂ジュニア館)、私はこの二つの作品は異質だと思う。

:私は前の作品もまだ読んでなかったので、1巻はじっくりと読んだけど、時間がなかったせいで2巻、3巻は駆け足になりました。テーマが壮大で、構築力のある作家だと思う。まだ私のレベルでは読み切れないところがたくさんあると思うので、時間がたってから読み直せば、新しい発見や、「ああ、そうだったのか」とわかることもあると思う。マルチな文化にいた人かしら? 博学で宗教、物理、文学、中国の易、詩、と、それらを自分流に構築していてすごいと思った。作品全体を通しての印象は、以前『黄金の羅針盤』の読書会で出てきた「頭では面白いのに、心では面白くない」というのが、とてもうなずけるコメントですね。かなり難解なのに、何か読ませる力がある。何がここまで読ませるのか?と考えましたが、それは、誰もがもっている真理を求める心なのではないかと思う。普遍的な何か、真理を求める心があればこそ、神を信じる人もいれば、宇宙の神秘を探ろうとする人もいる。普段は、そんなに考えないことであっても、誰でももっている心のあり方なんだと思う。深い部分を探るような作業になるから、疲れるけれど、もっと先を知りたいという気持ちになる。この人は何が言いたいのか、この先には何があるのか、どんな宇宙観を持っているのか、そんな気持ちが強くなる。宗教的知識も体験もないけど、人を超えた存在はあると信じているし、物理学でいう「揺らぎ」とか「フラクタル現象」のようなものにも興味はある(よくはわかりませんが……)。宇宙に意思というものがあるようにも思う。でも、自分のこの作品の読み方は、頭で読む大人の読み方だなあと思う。子どもだったらどういうふうに読むんだろう。よくありがちだが、羅針盤や剣や望遠鏡などの道具を巧みに使うところは、子どもたちも楽しく読めるところだと思う。ライラが羅針盤を読むときのトランス状態の感じはおもしろい。そんな風に、宇宙の意志のようなものを感じてみたい。

ねむりねずみ:2巻目がここで取り上げられたときに、「おもしろいのは原作のおかげ、わからないのは訳のせいじゃない?」という声もあったので、かなり前に原文を読んでいたこともあり、訳を意識して読みました。原文はともかく先が楽しみで、じっくりと楽しみながら読もうと思っていたのに、ついついどうなる、どうなると、どんどん読んでしまった記憶があります。スターウォーズみたいな活劇場面が出てきたり。でも、なるほど、なるほど、とオリジナリティに感心する一方で、大風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなって無理矢理終わらせたんじゃない?っていう感じがしたし、コールター夫人の行動はやはり理解できなくて、そのあたりは、訳書を読んでも変わりませんでした。
それはそれとして、今回訳書を読んでみて一番印象深かったのは、「児童文学の古典」と帯に銘打ってあるわけだけど、それをこんな訳で出したらかわいそうだ、ということでした。こんな生意気をいうのは気が引けるけれど、ほとんど直訳かと思わせるところがあるし、訳のせいでよくわからないところも多々ある。せりふもなんかしっくりこなくて、訳書の204ページで、コールター夫人が「ウィル坊っちゃま、どうするべきだと思う?」というところなんか、とてもコールター夫人の言葉とは思えない。ダイモンの言葉やウィルの言葉にも不自然なところがある。わかりにくいという点でいえば、たとえば544ページの「その道は風景の一部で、税の負担もないのだ」っていう文ですが、こんなところに唐突に税が出てくるはずがない。ここは、自然を破壊したりして作ったのではない、「ごく自然で風景にとけ込んでいる道路」の意味だと思うんです。それに、最後のライラのせりふでも、「だけどどんなにがんばたって、自分のことをまず第一にしていたのでは、絶対にできないの。」という意味だと思われるところが、「自分のことをまず第一にしていたのでは、」の部分がそっくり欠落しているので、まるで無意味な文章になってしまっている。こんなふうに訳が足を引っ張って物語世界がくっきりと浮き上がってこないので、読みにくさが倍増している。ただでさえ、厚い本なのに。でも元々の作品はやっぱりすごいと思うんです。オリジナリティーの点でも、目指すところについても。だからますます残念で……。わたしは前からキリスト教に興味があったので、なるほどなるほどという感じのところが随所にありました。逆にこの本からプルマンのキリスト教への強いこだわりを感じ、それを鏡像のようにして、ヨーロッパでいかにキリスト教が強いのかを実感させられたというところもあります。キリスト教が強いからこそこういう本が書かれるんでしょうね。死者が解放されて自然に帰るいわば輪廻のような感じも、キリスト教文化からすると新鮮なんでしょうね。ライラの両親についてですが、お父さんはあんなものだろうと思うんですが、お母さんの造形はやっぱり物足りない。プルマンって女性を書くのが苦手なのかな。母性とか、いわゆる女性的なものになると、うまく書けていないような気がします。男の人はそれなりに男っぽく書けているのに。それにしても、ダイヤモンド形の生き物はイメージしにくい。確かに原作にもそう書いてあるけれど、訳の段階で読者にもっと親切にしてもいいんじゃないかな。

ペガサス:115pのメアリーのそばにすさまじい音で落ちてきた物体のことだけど、直径1メートルほどの丸い物体で、「……地面をころがりづづけ、とまり、横ざまに倒れた。」と書いてあるから、巨大な円盤状のものを想像するけど、これを見たメアリーが「これってなんなの?種子のさや?」って言うの。どうしても「さや」っていうイメージではないと思うけど?

アカシア:訳者は、3巻まで読んで全体像をつかんでから訳しているわけではないから、きっと大変だったと思うのね。途中の段階では、きっと頭の中にいろいろな疑問がわいてたんじゃないかな?

トチ:汗をかきながらやっている気がする。プルマンは「この本は賢い人に読んでほしい。愚かな人でなく。こんなことを私がいうと、また誤解されるけれど、世の中には賢い人と愚かな人がいるといっているわけではないのです。人間の頭の中には賢い部分と愚かな部分があるけれど、その賢い部分で読んでもらいたいという意味です」とAchuka のインタビューで言っているけれど、脳に賢い部分が少なくなった私には、妙に納得できる言葉でした。分かりやすい本だけでなく、格闘するような本が読みたい。子どもたちにもそういう本を読んでもらいたい。賢い部分で読む本を読みたいと思っている子どもも、世の中にはけっこういるんじゃないかしら。
*なお〈ライラの冒険シリーズ〉については、『黄金の羅針盤』を2000年2月、『神秘の短剣』を2000年10月の「言いたい放題」で取り上げています。

(2002年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ルート225

藤野千夜『ルート225』
『ルート225』
藤野千夜/作
理論社
2002.01

ねむりねずみ:『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作 理論社)と似てるなあって思いました。最初の一人称のしゃべり方で、ガガガってひっかかっちゃった。今風というのはこういうのかもしれないけれど、好きじゃない。とりとめがなくて、宙に放り投げられたような感じで。今を生きていくっていうのはこういう感じなんだろう、うまくそれが出てるな、とは思うけれど、書いてどうなるんだろうとも思った。両親がいなくても何となく生きていけちゃうという感じが今風なんだろうな。弟がいじめられているとか問題はあるのに、なんだか迫ってくるところがない。物書きとしてはすごく力があるのだろうけれど・・・。

ペガサス:はーっ(ため息)。3分の2くらいまではおもしろく読んだのね。現代に生きる子どもたちが、実態のない生活観というのをもっているというのを書きたかったのかなと思う。猫の死体を車がひいたんだけど両親に問いただしても答えは得られない、吉牛(牛丼の「吉野家」)の前に戻ろうとするんだけど戻れないというあたり、今の暮らしの中には、なんかへんだぞと思う瞬間があって、そういう雰囲気を書きたかったのかな。自分が本当に感じたことと、実際に起こったことのずれを書くために、最初のエピソードを出したのかも。ただ、そうなのかなと思うことはあっても、そうなんだよねと思うところはなかった。今の子の、何をしてもうざったいという感じはよく書けてる。小道具も今のもので、固有名詞をちりばめているから、今の子たちにはすっと読めるようになっている。切れ切れの感覚はよく書けてるけど、羅列にとどまっている。途中でABA´と3つの世界が出てきて、どう差があるのかなと考えて読むんだけど、クマノイさんみたいに差がある人もいれば、塾の先生みたいに差がない人物像もある。だから、混乱してしまうときもあった。結局3つの世界をどうやって決着をつけるのかな、ということになるけど、はたして辻褄の合う決着が得られたのか? でも、わけがわからなくてもいいのかな、というふうには思いました。今の子の追体験をした物語だと思います。

アカシア:作者は、性同一性障害を抱えた人ですよね。世間のスタンダードと自分のスタンダードのずれを、ふつうの人より感じていて、それを書きたかったんじゃないかな? 全編を通じて、不安定な感じが読者にも伝わってくる。それに、3つの世界の差があるのは、お父さんとお母さんとクマノイさんだけなんですよね。お父さんとお母さんが死んでいるんだ、と解釈すると、この作品の構造はすっきりわかるような気がしました。両親が亡くなっていると考えると、主人公の頭の中でだんだん想像の世界が薄れていって現実を受け入れる方向に進んでいくんだってことが、わかるでしょ。

ペガサス:そっか、だから写真にうすく写るんだ。

トチ:最後の1行を読んだら、それがわかって悲しくなったけれど、たしかにわかりにくいよね。

アカシア:会話は、今の中学生の会話になっているんだと思うんだけど、p117のダイゴの「失敬だなァ」っていうのは使わないよなと思いました。あと、この子たちが通っている私立の学校は、学生帽をかぶらなければならないくらい校則が厳しいとすれば、ナイキのスニーカーなんか通学に履けないんじゃないのかな? リアリティということでは、そのあたりひっかかったんだけど。題名の『ルート225』って、どういう意味? 国道は出てくるけど。

:私はね、うそー、なんでこれで終わるのかよー、と思いました。でも、子どもの本を読むのは能力がいるんじゃないか、もう私は読めない体質になったんじゃないかとも感じました。会話にいちいちひっかかったりして、読みづらかった。両親が死んだとは思っていなかったので、それを聞いたらストンときちゃった。でも、気持ちがおさまらないので、芥川賞をとった『夏の約束』(藤野千夜作 講談社)を読んだら、そっちは現実逃避の話ではなくて、私たちはこっち側しか見えてないんだけど、向こう側も見えるっていう中間の感覚を書いてるのかなと思いました。p280の「この世界の東京じゃなくてもとの世界の東京のことだけど、どちらにしろ離れてしまうと、その境界はじょじょにあいまいになって、今ではどっちも同じように、ぼんやりとなつかしい場所のような気もする。」という部分を読んだときは、その感覚がわかるような気がした。

もぷしー:この本は、理屈や常識でわかろうとして読んじゃいけないんだなと思いました。最後には元の世界に戻ってくるんだろうと思いながら読んだら、肩すかしをくらいました。そもそも、二人の姉弟に、現実に戻りたいという切迫した気持ちがないような気がする。基本的には、現実に戻ろうとしていると思うんだけど、なんで戻りたいのかは書かれてない。テレカがなくなれば、それはそれであって、本当に戻らなくちゃいけない切迫感はない。今の現実を本当は受け入れたくなくて、考えないようにしていたら、ほかの世界に行ってしまった話なのかなと思いました。弟のダイゴも、自分と世間とのずれを感じてるんだけど、いじめでもなんでも、なかったことにしようとバリアをはっているうちに、現実とか本当のことへのこだわりがなくなってきてしまったんじゃないかな。この話の、パラレルワールドの世界は、二人が現実のところからずれてしまって、でも真実の世界もうっすらと見えているようすを描いているのかと思いました。

紙魚:私は、なにしろ会話がうまいなあと惚れ惚れしました。先月『海に帰る日』(小池潤作 理論社)を読んだときは、こんな言い方するかな? なんてところが、ところどころあったけど、この人の会話には、そういうところがひとつもない。単に語尾なんかの問題ではなくて、ディテールはもちろん、やり取りや間合いが小気味いい。実際の会話って、説明とかどんどんとばして、お互いがわかっていれば飛躍していきますよね。でも、小説ってついつい説明過多になっちゃう。でも、これほんとに、そうそう、そうなのよーって、リズムが心地よかったです。物語としては、これまでの藤野さんの作品の方がおもしろかったけど、『ぶらんこ乗り』みたいに、筋を追うだけが必ずしも本じゃないとも思います。そういった意味では、成功していると思う。

すあま:『ルート225』のタイトルは、数学の√(ルート)だということに読んだ後で気づいた。章タイトルにある「ルート169」、13歳からはじまっていて、最後は「ルート225」で15歳、という意味がわかったら、この本についてはもう気がすんだ。会話の感じは、テンポもいいし、ちょっと前でいうと、吉本ばななというところかな。最後どうなるかを知りたくて読んでいったけど、女の子の気持ちに深みがなくて、気持ちにそえなかった。悩みもさらっとしているし、違う世界に行っても解決するわけでもない。必死さも今一つ伝わってこない。

:テーマは「ずれ」だなと思ったんですよね。現実とのずれ、両親とのずれ、ずれのモチーフをいろいろなところにもってきていて、究極的なずれは、あの世とこの世だったんだなと気づいたんですね。ただ、私はリアリティが感じられなかった。不安定さにリアリティがなくて、感覚的な部分と構成が合致しなくて、外枠と内容物がうまくかみあっていない。ふりまわされて疲れました。会話が物語をつくっているようには見えるけど、物語がおもしろくない。タイトルは、すあまさんの説明をきいて納得しました。

ブラックペッパー:不思議感あふれる作品でした。「理解されること」を重要視していないのかな。わからない人にはわかってもらわなくてもいいというのも、それはそれで好きになることはあるけど、この物語の場合は、どういう仕掛けだったのか知りたくて読んでたのに、私は両親が死んでしまったとは思わなかったので、結局どういうことだったのかわからなくてザンネン。でも、全体の空気は、とってもよかった。たいへんな事態なのにさめさめだったり、会話なんかも今の時代の人はまさにこういう感じ。このあいだの『海に帰る日』は無理してる感じがあったけど、これはナチュラル。藤野さんは、こういうの上手だなあ。このユルーイ感じ、好き。

トチ:わたしも会話はうまいなあと思いました。こういう会話が書ける人って、耳がいい作家だと思う。ただ、これだけのページを費やして書く内容かなあという気もしました。それに、たとえば『吉牛』とか今時の言葉をたくさん使っているけれど、こういう言葉って、あっという間に古くなってしまうのよね。子どもの本はベストセラーよりロングセラーってよくいわれるでしょ。作者は別に子どもの本って意識して書いていない、読みつがれていってほしいなんて思っていないのかもしれないけれど。『ぶらんこ乗り』もそうだったけれど、このごろの理論社の創作ものには、「別に分からなければ分からなくてもいいですよ。好きな人だけ読んでくれればいいですよ」って言われているような気になってしまうんだけど……。

アカシア:以前理論社を創立した小宮山量平さんのお話をうかがったことがあるんだけど、彼は、理論社は必ずしも完璧に仕上がった作品ばかりでなく、これは見所があるとか、この作家は将来性があるっていう視点で本を出版するんだって、おっしゃってましたよ。

ねむりねずみ:すみません、さっき開口一番さんざん批判しておいて寝返るみたいで気が引けるんですが、さっきの、この作品は両親が死んじゃったことを受け入れようとしている子どもの話だというご意見で、目から鱗が落ちました。そう思って見直すと、すべてがあるべきところに見事にはまるんですね。見事にはまるし、作品としての迫力もすごい。非常に近しい人の死を受け入れられずに、すべての事柄を薄い膜を通してしか感じられないでいる人間から見たこの世という感じがよく書けている。この長さがあって、しかも構造もなんだかがたがたしているからこそ、そういう人間の気持ちがきちっと表現できている。そういう意味で必然的。短編ではこういう風には表現できないと思います。野心的だし、なかなかない作品。もっとも、読むほうは疲れるけれど。

ペガサス:ビニール傘を広げるときの感覚とか、ありきたりの日常の描写が、すごくうまいよね。ただね、男の子っていうものを、手にびっしり毛がはえてくるとかって表現するところは、ちょっとげっとなっちゃった。

:私も、性同一性障害を抱えた作家だというのを聞いて、描こうとしていることがわかったような気がしました。

紙魚:いやいや。そういうところを知らなかったとしても、この作品世界はわかると思いますよ。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


辺境のオオカミ

ローズマリ・サトクリフ『辺境のオオカミ』
『辺境のオオカミ』
ローズマリ・サトクリフ/作 猪熊葉子/訳
岩波書店
2002.01

:これまでの猪熊先生の訳は非常に読みにくかったけれど、ずいぶんこなれてきたように感じましたね。3部作の続きだからと4作目も出したんだろうけど、やはり古いですね。訳文だけじゃなくて、アル—ジョン、暗喩、象徴性を使って、読者を成長させようとしているんだろうけど、今の読者にはこのスタイルはもう無理だと思う。サトクリフは、運命の不条理に立ち向かっていかなければならないという重いテーマを掲げてる。主人公をとりまく登場人物も不条理を抱いている。だから、啓示の瞬間をあたえるんですね。欲しても自分の力で得られないときに、啓示の瞬間をあたえて、道がひらけるという展開なんだけれども、物語からいくと、単に唐突にうつるんじゃないかな。ある人生観をもっていない読者にとっては、納得がいき辻褄が合うという運びになっていないんじゃないかと思いました。男の世界を書きながらも女を入れていくんだけど、今の中高生には、この男の世界は響かないと思うし、サトクリフが手渡したい読者とつながっていないんじゃないかと思いました。

紙魚:なにしろ読みにくかった。私はこれは修行だと思って読んだくらいです。おもしろいのはどこなんだろう?って考えながら読んで、なかなか見つからないので、不安になったくらい。長老に会いに行くところはちょっとわくわくしたんだけど、あとは読み進むのがつらかったです。もう、自分は、こういうものが読めない新しい世代なのかも、と思ってしまった。でも、読者が子どもっていうことを考えると、とくに子どもの頃って、本を理解できないと本が悪いのではなく自分が悪いと思ってしまう。そういう気持ちにさせてしまったら悲しいな。

もぷしー:私も、難しいというのと、全体の重い印象で、入っていけなかった。

:私は、こういう物語は割合好きなんですよ。だけどね、私が知っている限りの子どものなかでは、この本を薦めたい子はいないなと思って、これは私が読む本だな、と決めました。私はおもしろく読んだんですよ。長老にあいさつに行くところとか、クーノリンクスとの付き合いが深まって砦を守っていくところなんか、おもしろく読んだ。映画を観るように、情景を頭の中でつくりだしていくのは、おもしろかった。映画『ベンハ—』を観たときの感じで。まあ、これはひいき目もあるんですけどね。

アカシア:歴史小説って、日本の子どもに手渡すのが難しいな、といつも思うのね。これは4世紀くらいの話で、私たち日本人は、ローマ帝国については習うけど、そのとき辺境がどんなだったかは世界史でも習わない。だから舞台を思い浮かべるのが難しくて、日本の子どもたちには状況がよくわからないと思うんです。ストーリーの中心は、主人公がローマ帝国からつかわされて、族長の息子と仲良くなるんだけど、仲良くなった人を殺さなければならない運命になってしまう、というところかと思うんだけど、それがうまく浮かび上がらない。ストーリーそのものがドラマティックじゃないのかもしれないけど、日本語版の作り方にも問題があるかもしれない。編集者の手が全然入っていないように思える。翻訳者は物語の世界に入りこんでいるから客観的な目で見れば不足だったり、おかしかったりという点も当然出てきます。それを指摘して読みやすくしていったり、ある場合には日本の読者にもわかるように補足したりするのが、編集者の役目でしょ。
たとえばp57「わしは軍団をあげて怒りを示したんだ。おしまいな」って、「おしまいな」というのはどういう意味? 誤植? p98「族長は入り日の向こうに行くらしいな」ってあるけど、この表現で死をほのめかしているのは、今の子どもにはわからないと思う。「フィナンは正しかった」「そしてクーノリクスはそれを知っていたのだ」っていうところも、よくわからない。しかも、「『おれたちのおやじさんだ!』足が地面につくかつかないうちに彼は喘ぎながらいった」ってあるけど、「死んだのはおれたちの親父だ」っていうことがちゃんとわかるように訳してほしかった。原文でも、状況がとんでいたり、説明的な部分は省いてあったりするんでしょうけど、そのままだと日本の読者には物語の流れがわかりにくくなっちゃう。p156の「ご指摘になりましたように、カステッルムの砦と第三部隊とはわたくしの指揮下にございます。司令長官殿がわたくしを解任なさろうと思われるのでしたら、ここで、司令官としての決断を下さねばなりません。それが誤っていたということが証拠だてられましたら、その後でご処分ください。」っていう部分も、p238「『〜後方から襲いかかる。もしも奴らの馬を逃すことができればもっといい.』森林地帯での戦闘は馬上では不可能だったから、敵にとっても味方にとっても好都合なのだった」という部分も、状況がつかみにくかった。p239の、兵士が矢を放つ状況もわかりにくい。p250には、「隠れ家」という言葉がはじめて出てくるんだけど、これが何を示しているのかとまどってしまう。最後の方は、もうわからなくてもいいや、と思って読んでました。裕さんは、ほかのサトクリフの作品より訳がいいとおっしゃってましたが、私はサトクリフの本の中では、いちばんわかりにくいと思いました。

ウガ:ぼくも、こんなに読みにくい本はたぶん初めてだと思う。しかも斜めに読んでも、筋がわかってしまう。これは小学生上級と書かれているのに、注釈もないのでびっくりした。『ルート225』を読んだときと、まったく別の方向の違和感を感じました。

すあま:私は、サトクリフの作品の中で自分が好きだったのはローマンブリテンものではなくて、『太陽の戦士』(猪熊葉子訳 岩波書店) とかその他のものだったことにあらためて気づいた。図書館員の友だちに聞いても、この作品は評判がいまひとつ。原書で読んだ人は、原書の方がおもしろかったと言っていた。急いで読んだので、わかりにくいところはすっとばして読んだんだけど、私は伏線をはっていたものが後で出てきたりするのが好きなので、そういう部分はおもしろかった。最後の読後感もよく、救いがあるのがいいんですよね。でも、主人公が、自分で復讐するわけでもないし、少年から大人へ成長する物語でもない。作者が書こうと思っているものが、もともとおもしろいものではないのでは? 本人の葛藤も、他の本ほど描かれていないし、友情が生まれるところも、目と目が合うぐらいで、あまり物語がないですよね。あまりにも絆が簡単にできすぎる。主人公の大変さや悩みが感じられないのが物足りなかった。

ペガサス:私はサトクリフはものすごく好きだったんですね。『運命の騎士』(猪熊葉子訳 岩波書店)や『太陽の戦士』とかおもしろくて、訳も気にならずに読んでました。歴史的舞台はわからなくても、物語がおもしろければ読める。これまでのものがおもしろかったのは、初めから主人公に同化して読めるし、これまでの作品の主人公は、何かハンディや劣等感があったりして、それを克服して自分のアイデンティティを確立するという成長物語というところが読者にもついて行きやすかったんだけど、この『辺境のオオカミ』は、主人公がどうしたいのかがわからない。たとえば、『運命の騎士』の冒頭は「名前はランダル〜」と始まって、すぐにランダルのことがわかって、ひきずられていく。だけど、この作品は、主人公のことがなかなかわからない。かなり読まないと、頭がいいのか悪いのか、前向きなのか後ろ向きなのか、わからない。唯一この主人公の人間性を感じたのは、若い兵士が内緒で猫を飼っていて、その猫にミルクを与える方法を教えるところ、あそこはすごく人間的で、この主人公に心を寄せることができる。でもそれ以外には、そういうところが少ない。挿絵もないし注釈もない。ひじょうに難しい。この本は、難しいけど、サトクリフがお好きな人だけお読みなさい、と言っている気がする。

ブラックペッパー:1か月くらいたったドイツパンのような本でした。持ったときずっしり重くて、かたくて、キャラウェイシードなんかが入ってていい匂いがするから食べたいなと思うんだけど、食べてみたら堅すぎてあごが痛くなっちゃったという感じ。読み始めて、すぐわかんなくなっちゃって、あら、と思ってまた最初から読みはじめても、ちょっと中断すると、またすぐわからなくなって、最初の方結局4回くらい読んだんだけど、p76までしか読めなかった。ふつう、わからなくても力技で読んじゃうんだけど、軽薄なのに慣れた読者にとってこの本はムズカシイ。藤野さんのは空気だけでおいしいという感じなんだけど、こちらはしっかり噛まないとわからないという本。

トチ:文体が問題なのかしら?

ペガサス:感覚的にわかるっていうろところが一切ないもの。

トチ:ストーリーがおもしろくないっていうことかしらね。

ねむりねずみ:私はすごく懐かしい感じで読みました。このところ、一人称で感覚的なものばかり読んでいたから、こういう情景描写を積み重ねていくのは久しぶりでクラシックな印象。でも、最初のページで日本語にひっかかって、p30くらいまで行って、しょうがない、もう引っかかるのはやめようと決めてからですね、どんどん読み進めたのは。情景描写自体はすごいなって思うんだけど、いかんせん日本語に引っかかったものだから・・・。前半はほとんど事件らしい事件もなくてちょっとだれたけれど、撤退しなくちゃというあたりからスリリングになり、後半は懐かしの時代物という感じ、映画を見ているような感じで読めました。たぶん、生きていくこと自体が大変で、うろうろと悩んでいられない人間達の活劇の爽快さみたいなものなんだろうけれど。でも一方で、後半に出てくる「自分の命を犠牲にしてでも全体のために奉仕する」なんていう動きは、今の私たちにはぴんとこないなあと思ったり。それと、ハドリアヌスの城壁(イングランド北部にローマ教皇ハドリアヌスが設けた城壁)や舞台となったあたりを知っていると、今の風景とここに書かれている風景をダブらせてタイムトリップする楽しさがあるけれど、日本の子どもにはそういう楽しみ方はできない。そういう意味で、読者となるのはどういう人たちなんだろう? 今の社会状況の中で、活劇のおもしろさを出すにはどういうドラマ作りをすればいいんだろう? と、ふと考えちゃった。カニグズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)なんかはすかっとしているけれど。

アカシア:この作品にあらわれている価値観って、男性支配社会の価値観そのままだと思うんだけど。

ねむりねずみ:そうなんですよね。このドラマだって、要するに勝手に侵略してきた連中が撤退しているというだけの話だし。

アカシア:男の潔さだとか、決断とか、昔ながらのものを持ってきているという気もしましたね。

:サトクリフの帝国主義的な価値観も古いですよね。

トチ:過去の物語を書くと、嘘になりやすいし、今の人たちに受けいられないというのもあるし。

ねむりねずみ:地元民を主人公にすれば、そのあたりは変わるのかな。

トチ:やっぱり1ページ目の「膝に頬杖をついて頭を抱えている」っていう描写でつまづいた。「色の浅黒い若者」がアレクシオス・フラビウス・アクイラと同一人物だとわかりにくかったし、物語にも入り込めない。歴史ものを日本で出すときには、登場人物の紹介くらいはあってもよかったと思う。ほかにも百人隊長とかいろいろ混乱してきちゃって、おとなでも難しいのに子どもにはもっとわからないんじゃない。

アカシア:後書きでもローマンブリテン4部作はこれで完結と言っているんだけど、オビ以外その4部作が何をさすのか書いてないのも不親切ね。オビはなくなったり、図書館ではとっちゃったりするでしょ。それに、できればシリーズの他の巻のあらすじくらいは書いておいてほしかった。

:たしかに、そこはほんとに不親切ね。

トチ:初めてローマンブリテンものを手に取る人は、きっと読者として想定されていなかったのね。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ラモーナ、八歳になる

ベバリイ・クリアリー『ラモーナ、八歳になる』
『ラモーナ、八歳になる』
ベバリイ・クリアリー/作 アラン・ティーグリーン/絵 松岡享子/訳
学研
2001-12

すあま:この作者はこんなに時間をかけてシリーズを書いていたのだと驚きました。主人公も、ヘンリー君からラモーナに変わっていき、時代に合わせて書いているんですよね。お父さんが失業しているとか。ラモーナにくっついて読めたので、おもしろかった。8歳の子どもの失敗とか、ひとつひとつのエピソードが、なつかしいような、自分の当時の気持ちがよみがえるような思いで読めました。今の子が読んでもおもしろいんじゃないかな。ラモーナがいらいらしたり、悲しかったりしている気持ちもよくわかった。ラモーナが預けられている先で、どうしようもない子ウィラジーンの相手をするけれど、ラモーナ自身もそうだったことが読者にわかるとおもしろい。ラモーナがはちゃめちゃだった小さい頃がなつかしい気がする。

ペガサス:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きで、子どもの気持ちをよく書いているって毎回感心する。『ビーザスといたずらラモ—ナ』(ベバリイ・クリアリー作 松岡享子訳 学研)では、ラモ—ナがはちゃめちゃで、極端に書かれていて、すごくおもしろかった。それに比べるとラモーナも少し小粒になってしまったのかな。昔は、『ビーザスといたずらラモ—ナ』は3、4年生によく読まれたけど、今の子どもたちには、これでも字が小さくて、読めないのかな。でも、絵も昔のほうがいいのよね。今回は、ビーザスの気持ちが出てこなかったのも物足りなかったし、これだけ読んで、ラモ—ナが魅力的にうつるかどうかは心配。それから、お母さんの言葉づかいで、「帰ってらしたわ」「車なしではやっていけませんもの」などの言い方は、今は言わないことばだよね。

ブラックペッパー:私は「ヘンリーくん」シリーズは、ぽつぽつとしか読んでこなかったんですけど、この本はとってもよかったです。トラブルはあっても幸せな感じが底にずっと流れていて、安心感がある。p7の「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」というフレーズが好き。アメリカンテイストもいいし、ラモ—ナのそのときどきの気持ちもわかるので、「そうそう、こういうのが好きなのよね」と思いながら読みました。でも、これ、小粒になったという感じなんですか?

すあま:日常生活をていねいに書いてはいるんだけど、前の作品ではもっとはちゃめちゃな事件が起こってたよね。

ねむりねずみ:悲しいことも嬉しいことも全部、ああ、あったあったと思いながら読みました。根底に、子どもらしく育っている子の安心感ていうのか、安定感がある。そのほんわりした感じが心地いいんですね。最後に、家族が喧嘩した後に見ず知らずのおじいさんがご馳走してくれるなんていうのも、あり得ない話ではあるけれど、やっぱりなんとなく心和んでいいよね、という感じ。今時の子どもを描いた本って、シリアスな社会問題の暗い影が覆いかぶさっていたりするんだけど、読者を元気にしてくれるこういう本っていいなあ。これからを生きていく子どもたちにとって、こういう本がほんとうに大事だと思う。今回の3冊の中では、文章もいちばんぴったり来て、楽しく読めました。

アサギ:ラモ—ナと同じ年頃の子が読んでも、共感すると思うほのぼのとしたいい本ね。現実よりも美化されているとは思うけど、こういうのはいいと思う。全体のトーンはいいのだけれど、ただ訳語はイージーだと思ったわ。たとえば、p6の「お姉さんは実際以上に年上であるかのように」って、8歳の子が読む文章かなと思うし、p7の「正確さを要求する年齢」っていうのも、8歳の子がぜったいに言わない言い回し。

ブラックペッパー:8歳の子が自分で言う言葉ににそういうボキャブラリーはないと思うけど、小さいときってそんな気持ちがたしかにあった。それを言語化して代弁してもらったという喜びがあるんじゃない。

トチ:しかも、わざわざかたい言葉を使ったユーモアなのよね。

すあま:私も、わざわざ大げさに書いているんだと思った。訳が下手で直訳にしているのではなく、雰囲気を伝えるために、わざとこういう表現にしているのでは。

アカシア:私は、この本の読者対象は8歳よりも、もうちょっと上なんだと思う。松岡さんは、小さい子どもたちとしょっちゅう接しているから、そのへんのことはよくわかって訳していると思うな。

アサギ:私はね、p57の「片目のすみから」っていう表現も気になったんだけど、そんなことできるかしら。

アカシア:松岡さんの訳は、全部子どもにわかるようにするっていうより、わからないところは飛ばして読んで、後で「これどういうこと」って大人にきいてもいい、っていうスタンスなんじゃないかしら。ちょっと難しい言葉がわざと入っている。でも、それがユーモアにもつながっている。

紙魚:私もとっても気分よく読みました。さっきブラックペッパーさんが指摘した「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」っていうところが、私もいちばん好き。たとえば、小さいときって年齢きかれたりして、隣の姉が「もうすぐ5歳です」とか勝手に答えちゃったりすると、「ちがう! まだ4歳だもん!」なんて、へんなところに妙にこだわったりして、逐一そんな感じだった。大人になると、まーだいたいそんな感じって、許容量が大きくなるけど、子どものときの、あの正確さを忘れないでいる作者はいいなあと思いました。p12の新しい消しゴムの描写とか、p24のその消しゴムがなくなっちゃったときのラモ—ナの気分、p161の「ラモ—ナはもう章のついた本が読めるのですから」なんていうところもいいですよね。なんといっても、p74のホェーリー先生の「見せびらかし屋」「やっかいな子」という言葉に傷つくラモ—ナの気持ちなんて、本当にこちらまで痛くなるくらい。子どものときの感覚をきっちりと持っているか、子どもをじっくりと見ている人だと思いました。

もぷしー:大人になると、問題を解決をしないことに慣れていきますよね。でも、小さいラモ—ナは、ひとつひとつ確認しながらクリアしていく。ラモ—ナが成長しているというのがわかって、気持ちいい作品だと思いました。吐いちゃったりして、先生に悪く言われたのを、大きくとらえているのもいい。子どものときに持つ感覚がきちんと再現されていて、子ども読者も共感しやすいと思う。

トチ:ここはいかにもアメリカ的ね。

:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きだったんですが、今回も、この8歳の子の気持ちになれました。「見せびらかし屋」で「やっかいな子」と言われて、つらくなる気持ちがよくわかって、しかも病気になって、ただ、お母さんがやさしくしてくれるのはうれしくて。どの場面にも、気持ちをよせて読むことができました。たいへんなことがあっても、安心できる、子どもに向いた物語はいいなあと思いましたね。物語がおもしろいから、訳は気にならなかったです。前にね、図書館で乱丁本をみつけて貸し出し記録を見てみたら、ずらーりと名前が書かれてあって、何人もの子が読んだ本だったんですね。そのとき、ああ、子どもの力ってすごいなと思ったんだけど、そのときの原点にたちかえったような気分です。

アカシア:これまでのラモ—ナ・シリーズは、ああ自分もそうだったなあと思えて、ラモーナに同化しながら読んでたんですけど、今回は、ラモ—ナはなんて自己中心的なんだ、と思っちゃった。以前の作品でビーザスがラモ—ナにあんなに我慢してたのに、この作品でビーザスと同じ立場になったラモ—ナは、ウィラジーンにとってもいらいらしてる。先生の言葉だって、よく考えればわかることなのにね。子どもって、とっても自己中心的な存在なのよね。そこが、とってもうまく書けてるし、だからこそ、その自己中心的なラモ—ナを包みこんでいるお父さんとお母さんの偉さに、今回は感動しちゃった。親たるものこうでなくちゃ、と遅まきながら思いました。それからクリアリーという人は、3年生くらいまで文字が読めなかったらしいのね。学校でつまらない本ばかり読まされてたのが、風邪で休んでいたときに、おもしろいと思える本に出会って、突然読めるようになったんだって。この本の中にも、つまらない本への言及があって、なるほどと思った。つまらない本を子どもにあたえても、読めるようにも、本好きにもならないのよね。

アサギ:作者が子どもの気持ちをわかっているってみなさん言ったけど、ほんとうにそうね。私はこれを読んで親として反省するところがあったわ。下の子が3年生のときに、誕生日会に呼ばれたことがあるのよ。20人以上招待されてたの。そのときの招待状に、「プレゼントは持ってこないように」とはっきり書いてあったもんだから、私、うのみにして子どもに何も持たせなかったのね。そしたら、うちの子以外、全員がプレゼント持ってきたんですって。それを聞いたとき、私は「呆れた! 20人からプレゼントをもらうなんて、第一その子にとってよくないのに」と思ったのだけど、これを読んで、うちの子はやはり傷ついただろうなって、今さらのようにかわいそうに思いました。

ウガ:ぼくも傷つきやすい子だったので、子どものとき読んでたら、ショックでたちなおれないっていうのが、よくわかったと思います。卵が割れちゃうところなんかきっと。つまらない本への言及もありましたが、子どものときって、読まなければいけないっている義務感もあったんですよね。

アカシア:私なんて、子どもに生卵持たせちゃう可能性あるなー。

ペガサス:ラモ—ナは、大人は理不尽なことをするってこと、わかってるのよね。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


家なき鳥

グロリア・ウィーラン『家なき鳥』
『家なき鳥』
グロリア・ウィーラン/作 代田亜香子/訳
白水社
2001

トチ:なによりテーマがおもしろいし、明るく、さわやかな感じがして、気持ちよく読めました。この明るさが『家なき鳥』のなによりの特徴だと思ったし、訳者後書きにもそう書いてある。角田光代さんが朝日新聞の書評で、この本の明るさは主人公の自尊心から来るものだといっていましたが、なるほどと思った。ただ、その明るさにある種の違和感を覚えたのも確か。時々、『大草原の小さな家』のローラが、インドに放り込まれたような感じさえして・・・インドの大地から立ち上ってくる匂いとか、湿気とか、熱気のようなものが、さわやかな風で吹き飛ばされてしまったような感じ。原文は、明るい散文詩のように書かれているのかしら。この本も、『炎の秘密』も、違う国の人が書いた異国の話。そういうものって、読むときにどうしても猜疑心を持ってしまうのよね。本当にその国のことが書けているの? なにかバイアスがかかっているんじゃないの? って。この本の場合、明るさがかえってマイナスになっているんじゃないのかな・・・っていう気がちょっとしました。

アカシア:明るさがマイナスっていうのは?

トチ:こんなに明るくていいの、ちょっと能天気なんじゃないの・・・と、ついつい疑ってしまうということ。

紙魚:私はその明るいのがいいなあと思いました。どんな厳しい状況でも、子どもは楽しいこと、幸せなこと、遊びをみつけていく。その希望があって、先へ読み進められました。それにしても、この『家なき鳥』と『炎の秘密』って、似てますよね。内容も重なるし、装丁の感じも共通するところがある。どちらも地味なつくりだけど、物語を読み進めさせる力がありました。あと、『家なき鳥』は刺繍だし、『炎の秘密』は服づくり。「手に職」って、人が自立していくにはとっても大切だなあと、しみじみ思いました。

:インドの貧しい物語って、『女盗賊プーラン』(プーラン・デヴィ作 武者圭子訳 草思社)などを読んでいたので、その印象が強かったの。この本では、お嫁にいった義理の父親がコンピュータのせいで仕事を失うという場面になって、やっと現在の話なのかと気づいて、びっくり。明るさについていえば、はぐらかされたような気もしたけれど、この子のもっている楽天的なところは愉快。2冊を比べれば『家なき鳥』のほうが好き。

アカシア:大地の匂いや温度、湿度など、わっとたちのぼってくるところはあったと思うの。ただ、たとえばp14「熱風にふかれて竹林がさらさら音をたてる」という部分があるんだけど、「さらさら」っていう日本語だとなんだかさわやかな感じがしちゃうのよね。この本は、インターネットの書評など見ると、リリカルな作品として評価されているんだけど、そのリリカルな部分が、翻訳でももう少し伝わってくるとよかったな。ところで、カースト制の中で上の階級のブラフマンは掃除も自分ではしちゃいけないなんて聞いてたけど、この子はなんでもやってますね。能天気ということでいえば、フィリピンのごみの山で生きているる子どもの映画を見ても思ったけど、逆に楽天的にしてないと生き抜いていけないんじゃないかな。ただ、けなげな少女が懸命に努力するとそのうちに報われて幸せになるという、昔ながらの「小公女」的な話というふうにもとれるわね。

:どちらかというと、私は『炎の秘密』の方が好きでした。私はキルトなど好きで、『家なき鳥』で、主人公の刺繍の描写が出てくると、わあ見てみたいなあと思いました。とても生き生きしたすてきな絵柄が刺繍されているんでしょうね。この少女、手に職があって、本当によかったですね。話は、悲惨な状況がずっと続きますが、少女の明るさとしたたかさには救われました。前に『ぼくら20世紀の子どもたち』というロシアのドキュメンタリー映画で、ホームレスの子どもたちにインタビューしてるのを見たんですが、少年たちは、明るくて元気なんですね。盗みなんかも平気でやるししたたかさも持ってて。何を支えに生きているのか、と考えたことを思い出しましたね。だから、このあっけらかんとした明るさは、違和感なく読めたんですが、義理のお母さんのいじめの場面や、ラージと結婚するところとか、女の人が意地悪なのに男の人がよく描かれていたりするのは、どっかで聞いたことがある物語だなあと思い、少し気になりました。

ペガサス:昔の名作ものとパターンが一緒なのよね。貧しくて、継母にいじめられて辛い境遇、でも助けてくれる人もいて、最後はお金持ちのご婦人の援助を得て幸せになるという話。場所が違うから感じにくいけど、昔からのよくある話。でも、そういう物語っておもしろいから、スタイルとして確立されているのよね。私も、この子が明るくて、意地悪をされたお母さんに対しても、本当に憎むというのではなく、ちょっとでも親切な言葉をかけてもらえるとうれしいと思ったりする、子どもの素朴で健気なところがよく出ているところがいいと思った。今の日本の子どもたちは、逆恨みしたり、キレたりという部分が描かれることが多いじゃない! 表現については、マーカマラの描写で、枕をいくつもあわせたみたいにまるまるしていたというのが、子どもらしくてよかったな。

ブラックペッパー:私も、おもしろいことはおもしろかったんですけど、あんまり言うことはないっていう感じ・・・。ハッピーエンドでよかったねー、でも最後再婚するのは、つまるところ幸せとはそういうことかー、なんて思っちゃった。明るいし、能天気で、あっけらかんとしているところは、たしかに心地よいんだけど、実際は、初めて会った死にそうなだんなさんに、あんなふうにさっとやさしくできるのかな。私にはちょっと無理そう。

アカシア:それは環境が違うからじゃない。初めて会おうが病気だろうが、新しい家庭環境の中で生きていくしかないんだろうし、そう教えられてきてるんだろうからさ。

愁童:初めて会っても、相手に関心をもったりすることはあるんだと思うけどな。ぼくは自然に感じた。今回の3冊の中ではいちばんよかったですね。ホッとする読後感があった。最近の日本のものって、心のひだを掻き分けて顕微鏡で覗くみたいな、ややこしいのが多いじゃないですか。そういうのに比べるとホッとする。子どもに読ませる本て、波瀾万丈でハッピーエンドで単純なのが案外大事な要素じゃないかって、これ読んで改めて思いました。生きがいとかいうようなことじゃなくて、母親から教わった刺繍が生きていくバネになってるのも、ああ、いいなぁ、なんて思っちゃった。

:どうして女の人をしばる制度を男の人はつくるんだろうね。

アサギ:私はこの本、とっても好きでした。インドのことってあんまり知らないけど、まず、カルチャーショックという意味で、すごくおもしろかった。13歳で顔を知らずに結婚して、持参金がどうのこうのっていうのも、てっきり昔のことだと思ってたのね。途中で、現代のことだとわかって興味深かった。作品としても、明るさがいいなあと勇気づけられた。明るくて前向きに生きていく話って楽しい。翻訳も私は気にならなかったわ。結局『炎の秘密』もそうだけど、主人公が知的な要素に目覚めるっていう定石が昔からありますよね。『若草物語』とか『赤毛のアン』にしてもそう。女性の地位が低い国においては、そういう方向に向くのは自然。しかも、手に職、芸は身を助けるというのもリアリティがある。子どもが読んでも得るところがあると思う。文化が違えば、結婚というのも違ってくるはず。最後はハッピーエンドとはいっても、自分で愛した人との結婚だから、「なんだ結婚か」というお定まりとは違うと思う。p136でも、ラージが結婚を申し込んでも、仕事を続けたいからと主人公が迷う。「家がぴかぴかじゃなくても〜」っていうところも、新しいインドの行き方じゃないかしら。ただね、ラージが登場したとき、あまりにも描写がていねいだから、あっ、この人と結婚するんだって、私わかっちゃったのよ。それと、いじめるお義母さん。彼女に対して、弟のところにいってもうまくいっていないに違いないって思うところなんかもいい。彼女もひどいっていうより、気の毒って感じよね。

すあま:こういうのって、かわいそうな女の子として描くやり方もあるんだろうけど、主人公の描き方がからっとしているところが救われている。終わり方もハッピーエンド。本としては、図書館などでは、児童書としてではなく一般書として置くことを勧めているみたい。異文化だけれど、難しくないし、とても読みやすいのに。ヤングアダルトっぽい感じなのかな。

トチ:表紙の感じが大人っぽいからかしら。

ペガサス:小学校高学年くらいに向くものが少なくて、ヤングアダルトばかりになってしまうなかで、一見大人向きだけど、子どもも読めるっていうのはいいわよね。出版社が白水社だからということもあると思うけど、図書館で機械的に大人のほうに置かれるのは残念。

すあま:こういう本って、本屋さんとか図書館ではすぐに手にとりにくいから、書評とか紹介とかがないとね。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


炎の秘密

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『炎の秘密』
ヘニング・マンケル/作 オスターグレン晴子/訳
講談社
2001.11

:実話なので覚悟して読んだんですけど、ときどき文章にひっかかりました。『家なき鳥』と違って、宗教色がなかったのが意外。あんまり新鮮さはなかったけど、内容より、地雷とか社会的なことばかり気になってしまいました。『家なき鳥』ほど気持ちが入らなくて・・・。

ねむりねずみ:帯に実話とあって、本文の最初にもノンフィクションと書いてあるので、それに妙に足をひっぱられて、物語に入っていけませんでした。それにすごく邪魔されちゃって。アフリカのことはあまり知らないけれど、ピーター・ディッキンソンの人類創世の物語を読んだときのイメージと重なって、おもしろかった。鳥をいっぱい飼っているとか、イメージとしてとてもすてきなシーンがいろいろあるけど、それがひとつになってぐっと迫ってくるという感じにはならなかったな。

紙魚:冒頭、わりとイメージで押されてくるじゃないですか。なかなか、状況がつかめなくて、物語に入りにくかったんですね。たしかに、帯でノンフィクションという言葉が強く印象づけられるから、ちょっと動揺しちゃったのかな。それでもすぐに、わりとぐいぐいひっぱられて読みました。筋も気になるし、知らないこともいっぱい出てくるし。もちろん、少女の明るさとたくましさがいちばんでしたけど。驚いたのは、主人公と母親の関係があっさりしている点。一生懸命、義足で家までたどりついたのに。あー、きっと母娘で泣きながら抱き合うんだろうななんて思っていたら、わりとあっけない。その妙にクールなところが気になりました。

トチ:私はノンフィクションということを、全然意識せずに物語として読みました。『弟の戦争』(ロバート・ウェストール作 原田勝訳 徳間書店)もそうでしたけれど、これを書かなければという作者の熱い思いが痛いほど感じられて、胸を打ちました。登場人物のそれぞれの立場から書かれている点も、なかなかうまい手法だと思いました。

すあま:『家なき鳥』が読みやすいのは、話がうまくいくからじゃないかな。『炎の秘密』は、これでもかという状況が起きてくる。最初は、いつ地雷を踏むんだろうと気になります。踏んでからの足がなくなってしまった感じとか、お姉さんを亡くしたことへの罪悪感もうまく書けていました。たしかにノンフィクションだと、作品として悪いとは言えないということもある。でも女の子の心理描写を追って読めたし、読後感もよかったな。

アサギ:ヘニング・マンケルは、ドイツでもすごく人気のある推理作家。エンターテイメントの作家というイメージがあったんだけど、モザンビークの地雷の話なんで驚いちゃった。最近つらい話は苦手なので、最初いやだったんだけど、不思議と最後まで読んでしまいました。ソフィアは厳しい状況でもたくましく生きる子で、あとがき読んで、ああ他の子とはちがうオーラがある子だろうなと思いました。ただ、一気に読めたけれど、楽しい気分にはならなかったわね。でも、日本の子どもたちに読ませたい。『炎の秘密』っていうタイトルどおり、人間が原始的な生活をしていればしているほど、火って神秘的でよりどころとなると思うのね。モチーフとしてリアリティがあるじゃない! 『洞窟の女王』(ヘンリー・ライダー・ハガード作 大久保康雄訳 東京創元社)を読んだとき、アフリカの奥地に絶えない炎があってという冒険物語で、それは私にとって強烈なイメージだったのね。このモチーフは納得という感じだった。まあ、どっちかといえば『家なき鳥』のほうが好きだけど。

愁童:ぼくは、地雷の話かよっていう思いがあったんだけど、こういうのを子どもに読ませることにどれほどの意味があるのかな。ただこの作家は頭がいいし、うまいとは思ったね。段落を短く切って、いろいろな場面を簡潔に描いていく。メッセージが押しつけがましくない。最後、女の子が『家なき鳥』と同じような展開で、しっかり生きていく。ただ、『炎の秘密』には、「痛みにたえるときに黒い顔でも青白く見える」というような表現が所々にあって、作者が白人だからこういう書き方をするのかなと、ちょっと引っかかった。『家なき鳥』は作者が女の子の中にいるっていうのがわかるんだけど、『炎の秘密』の方は、アフリカはたいへんだなあ、地雷なんか踏んじゃってたいへんだって、外から書いてるような感じがしたんだけど。

ブラックペッパー:今って、長野オリンピックの聖火ランナー、クリス・ムーン以来、坂本龍一も地雷ゼロキャンペーンみたいなことしたりして、ちょっとした地雷ブームだと思うんですよ。この本、なんて美しい表紙だろうと思いつつ手にとったんだけど、ああ地雷ブームもこんなところまで・・・と、ちらっと思っちゃった。でも、よく見たら作者はここの住民だったりして、とおーいとおーいところから理想だけを語っているのではないということがわかって、よこしまなこと考えてスマンって気持ちになりました。これを読むことは意義があるし、それでいてつらすぎないところもいいとは思うんですけど、今月の落ち込み気味の私の気分には合わなかったんです。

ペガサス:地雷の話とか、本当にあった話という先入観とかもたずに読んだんですね。そうしたらいきなりお父さんが死んじゃって、なんてかわいそうなんだろうと思っていたら、もっとすごいことがつぎつぎに起こって、まあなんてかわいそうなんだろうと思って読んだんですね。なんとかこの子に幸あれと、どんどん先を読まずにはいられない。次がどうなるのかなと。一人称でないのに、こんなに主人公に心をよせて読める本も珍しいわね。周りの人がソフィアをどう見ているかというふうに書かれていくので、ソフィアに心を寄せられたのかもしれない。先入観なく読むと、冒頭部分は何がなんだかわからなくて、2章から様子がわかってきた。1章は途中まで行ってから、もう1度読み直してやっと意味がわかりました。

:ソフィアが好きになったし、本も好きになった。地雷の話については、先入観もあったんですが、テロがあったり、イランの映画監督のインタビューを見たりして、自分は何も知らなすぎたなと思っていたので、興味をもって読めました。NHKのドキュメンタリーでアフリカの黒人の人たちの複雑な状況を知って、ショックを受けたことがあるんですが、私は、そのとき、日本とアフリカでは、あまりにも環境が違いすぎて、自分の身をそこに置いてみても、どういうふうに考えていいいかわからなかったんです。どこか外から見ているようで。この本を読んで、この少女の体験を通して、内から見ることができたような気がします。ソフィアの明るさ、前向きさ、内なる声に耳をすましながら一歩一歩歩いていく確かさとか、彼女の生きざまに心動かされた。自分がこういう状況だったらとても耐えられないだろうと思う。でも、現実のアフリカの状況は、もっと厳しいのだと思います。作者がアフリカ人ではないので、この話にどのくらいリアリティがあるのかは、本当のところはわからないとも思いますが。つくづく出会いが人生を救ってくれるんだなあと実感しました。学校に行きたいとか、家があったらいいなとか、今の日本では考えられないけど、憧れとか、ほしいという気持ちが達成されると、ものすごい健全な喜びが表現されているように思える。だからこそいろいろなことが当たり前になっている日本の子どもたちにも読んでほしい。外側から見てるより感じるところが多いんじゃないかな。白いドレスをシーツで作るところとか、部屋の中に鳥がいて、という場面もいいなあと思ったし。ファティマの家に泊めてもらった日の夜のシーンはたまらなくいいですね。縫い目の中に人生のすべてがあるというファティマの話、私も忘れない! と思ってしまいました。と、かなり入れ込んで私は読みました。

アカシア:ナチとか、地雷の話って、何度も聞くと、あ、またかと思ってしまいがちだけど、この間、それについて学者の話を聞いたんですね。それによると、人間は嫌な情報はなるべく排除しようとする心理が無意識に働くんですって。だから、きちんと社会のこととか世界情勢のこととかを裏面まで含めて見ようとすれば、単なるイメージではなくて、きちんとした知の体系にして頭の中にインプットしていかなければならないって、その人は言ってたんですね。だからってわけでもないけど、私は、またか、と思わないで、敢えていろいろ考えてみようって思うことにしたの。この作品は、作者が舞台となっているモザンビークに住んでいるので、人々の心の動きもふくめて、かなり実像に近いかたちで書かれているんじゃないかしら。ただ北側の人が南側の人たちとまったく同じように暮らすというのは無理があると思うんですね。複雑な垣根がある。それから、挿絵なんだけど、現実が厳しいから夢のような絵にしたんだろうけど、たとえばp64の絵、ドレスっていっても、もう少しアフリカの文化を反映させてもよかったんじゃないかな。白いドレスなのに水色なのも気になる。私は、さっきアサギさんの話を聞くまでこの作家のこと何も知らなかったんだけど、エンタテイメント作家が書いた文章とは思えなかった。導入部も最初はわかりにくかったし、ごつごつしたイメージ。オビには「現実の物語」というところにノンフィクションとルビがふってあるけど、まったくの事実を書いているというよりは、実際に地雷の被害にあった少女をモデルとして書いてるってことよね。
子どもが地雷で足を失って義足をつける場合、成長に伴って義足も替えていかなければならないから、お金がないと大変なんですよね。主人公のソフィアは、13歳で一日中働くわけだから、ユニセフなんかで非難している「児童労働」の範疇に入るんだけど、自分で稼がないと新しい義足も買えない境遇。ソフィアが明るいのは救いだけど、これほど力のない子どもたちは、どうすればいいんでしょうね。

ねむりねずみ:フィクションなのに、これはノンフィクションって押されるのは、私はいやなのよね。

アカシア:現実をもとにしたフィクションだもんね。最初はソフィアの心象風景から入っていくわけだし。あとね、主人公がこの若さで仕立て屋さんになって自立するっていうところを考えても、ほんとにこの子はまれな一人なのよね。そこまでできない子もいっぱいいるんだってことも、考えていったほうがいいよね。

愁童:たとえば、ソフィアがシーツを盗んできて、すごく悩むじゃない。でも、シーツ盗まれたほうは気づいてもいないよね。この作者には、どっちかっていうと後者の目線を感じちゃう。『家なき鳥』は、肌の色の描写もないし、インド人の気分で読めたんだよね。でも『炎の秘密』は、どうしても白人の目線を感じちゃう。

アカシア:この作家はもともとスウェーデンの子どもたちに向けて書いているんだろうから、肌の色なんかまでイメージできるように意図的に表現してるんじゃないかな。私がかかわった本でも、黒人と白人が出てくる話があって、話の内容や名前から白人だとわかるはずと私が思っていた登場人物を、黒人だと思って読んでた読者がいたの。だから、少し詳しく説明しとかないと、わかりにくいってことも、あるのかも。

ペガサス:それは、日本人は、肌の色とか髪の色とか意識せずに読む癖がついているから。いちいち肌の色の描写など、ヒントが書いてないと、イメージを思い描くのは難しいと思う。

愁童:でも、だったら「黒い顔でも青白くなる」って書かなくちゃいけないの? ただ「青白くなる」じゃいけないの?

アカシア:これは「でも」っていう言い方がまずいのかも。翻訳の問題かもしれませんね。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


海へ帰る日

小池潤『海へ帰る日』
『海へ帰る日』
小池潤/作
理論社
2001.08

すあま:これはSFですが、アイディアがおもしろいという本。最後がどうなるのかが気になって読んで、最後いろいろ納得がいかなくなる。続編でも作ってくれなきゃ気がすまない。海に帰るってことについても、周囲の人の理解がありすぎる。ともかく不条理に思える部分が多すぎるんだけど、なぜか最後まで読んでしまった。

トチ:その最後が、なんとも苦しい。ずいぶん前に某社のベテラン編集者に、「君、作品がまとまらないからといって、警官を出しちゃいけないねえ」と、きつーく叱られたことがあったけど、そのときのことを思い出した。まだ作品として完成してないのでは?

紙魚:アイディアはおもしろかったんだけど、これこそ能天気な物語。細かいところがすべて、えーっそんな軽々しくていいのかな、と思うんだけど、最後まですらーっと読めてしまった。だいたい、いきなり海で生活しなくちゃいけないって言われて、これだけの不思議なことが起こったら、相当悩むと思うんだけど、あっさり家族も理解しちゃうし、最後には、なんとしてでも海に帰そう! なんてみんなで力を合わせちゃう。えっいいの? と思わずにはいられない。昔NHKでやっていた、SFのテレビドラマになんとなく似ていました。

ねむりねずみ:ぱーっと読めちゃうけど、それは最後が気になるから。途中で生まれた謎や、これってどうなっちゃうんだと思ったことにケリが付かないままのことがたくさんあって、それが気になった。研究所の正体とか、超能力を持った子たちが悪のりして大騒ぎになるところとかね。地球温暖化っていう大きな問題がテーマみたいな顔をしているけれど、なんかただの道具立てっていう感じで、ぐっとくるわけじゃない。全員が、どんと投げ出された運命にひたすら馴化していくっていう感じですね。

アカシア:私は変なドリンク1本で人間の体質が変わっちゃったっていいし、テレパシーが出てきたって、未来研究所が出てきたっていいじゃん、いいじゃん、エンターテイメントなんだもん、と読んでいったんだけど、最後はやっぱりお手軽すぎましたね。あと、アイデアがおもしろいんだから、もう少し細部のリアリティを大事にすればよかったのにね。

紙魚:それに、装丁がわかりにくかったな。物語のイメージが、装丁に着地してないと思う。

:この本、何かに似てるなって思ったんだけど、私も眉村卓さんの『なぞの転校生』のテレビドラマを思い出しました。あれ、大好きだったんですよね。

ペガサス:私は、この本こそノンフィクションかと思って読んでしまったので、変なことが起こりはじめるとき、ちょっとぞわぞわ感を味わえました。子どもたちの描写も細かく書いてあるのでらくに読んでいけたけど、途中から、なんなのこれ、なんでみんな止めないの? ねえなんとかしたら? っていう感じになってきた。あと、主人公の家族がいい家族で、お父さんや弟が理解をしてくれていいなと思っていたのに、なんで止めないのぉって感じ。

アカシア:でも、止めたらこの子は死んじゃうじゃない。

ペガサス:そうね。その設定自体が変なんだから、そのなかでやっていくしかないのね。写真家のお父さんから写真を教えてもらって、写真に興味をもっていくところなんかよかったんだけど、写真が結局なにも生きてこなかったのは残念。写真というのは現実を映すものなので、非現実的なできごとに反して、何か小道具としてもっと生かされるのかと期待したのに。

ブラックペッパー:いろいろと不思議が残る作品ですが、私は文体について、ちょっとひとこと。なんかオヤジ度の高い文体だなあと思ってしまって・・・。今ふうの言葉をたくさん使っているところが、ハナにつくというか、「がんばって使ってます」という空気を感じてしまった。しみや皺を隠そうとしてたくさんファンデーションを塗ったら、よけいに弱点が目立っちゃったというべきか。今ふうの言葉を使うのはいいんだけど、その一方で、同級生のことを「遠山少年」といったり、あとたぶん中学校では、代数っていわないと思うんだけど、「苦手の代数で」とか、今ふうでない言い回しがするっと出てくるから、そのギャップに「若ぶってるの?」と、だんだん疑いの眼差しが生まれてきちゃってね。たぶん作者は、独自の言語感覚をもってる人だと思うの。そこここにこだわりが感じられて、それはとてもよいことだと思うんだけど、私とはちょっと合わなかったみたい。たとえば「ワンショットグラス」は「ショットグラス」だと思うし、「高層アパート」もちょっと変。「マンション」って言葉、使いたくなかったのなと思ったけど、「高層」だったら、ふつう「アパート」とはいわないのでは・・・。「マンション」って言葉、私も好きではないから気持ちはわかるけど。
それから、雷太が超能力を使って、見知らぬおばさんにアイスを買わせる場面。まず、p80の14行目「おばさんはラウンジのまわりにある店の1つに、ゆっくりと進んでいった」とあるので、ふむ、ここはきっと対面方式で売っているソフトクリームかアイスクリームね、と思ったの。私のイメージとしては、ソフトクリーム。でも、p81の1行目「おばさんは両手に二本のアイスクリームを持ち、佑也たちのすわっている席のほうへ進んできた」とくるでしょ。2本のアイスクリーム? ということは、棒アイスだったの? と、私はちょっと迷う。私のなかでは、アイスの仲間で1本2本と数えるのは、棒アイスだけだから。棒アイスというのは対面方式で売っているのではなくて、まあ、対面方式で売っているところもなくはないけれど、その多くは、包装された状態でコンビニなどで売っているもののことね。コーンに、あっカップでもいいんだけど、その場でかぱっと入れて手渡される、対面方式売りのアイスの仲間だったら、ソフトクリームにしてもサーティワンにしても、私だったら「1こ2こ」とか「1つ2つ」と数える。1本2本とは数えない。そしてたぶん、ここは棒アイスではないはずなのね。この「アイスクリーム」は、p81の12行目「アイスの一本を佑也に渡し、自分のクリームをペロリとなめた」というところから推測すると、むきだしだったと思うし、それにp82の11行目に「アイスのコーン」とあって、コーンの上にのってるアイスということがはっきりするから。となると、棒アイスではなくて、ソフトクリームかアイスクリームだと思うんだけど、ソフトクリームだとしたら「アイス」とはあんまり言わないような気がするし、アイスクリームだとしたら「クリーム」とはあんまり言わないと思う。結局ソフトクリームなのかアイスクリームなのか、私にはわからない。もどかしい気持ち・・・。
まあ、ほんっとにささいなことなんだけど、こういうようなことって案外大事なのではないかと思うのね。こういうことの積み重ねで物語の雰囲気ってできていくと思うから。あと、超能力をもつ子どもたちが力を合わせて物体移動させたりするあたり、『アキラ』(大友克洋作 講談社)とイメージが重なりましたね。

アカシア:私はやっぱりリアリティの希薄さが気になりましたね。防犯カメラをつぶすところがあるけど、透視できるならカメラそのものを躍起になってつぶさなくても、後ろの線を切るとか、どっかのスイッチをオフにするとかでいいんじゃないか、とか。異常な現象について会ったこともない人に説明するのに、電話じゃ無理にきまってるじゃん、とか。近眼の人が眼鏡をかけていて、その目が他人が見て大きく見えるとかね。これ逆じゃないですか?

愁童:これを読んでね、コミックの世界にいる子どもたちに児童文学を広げていこうとする編集者の意欲を改めて感じました。着想は、すごくおもしろかった。でも文章でやる以上は、編集者がしっかりチェックしてほしいと思いましたね。たとえば、「地球温暖化の現象が顕著に始まって」とか「なにをいいはじまった」とか。「花火は極彩色」のルビを「ごくさいしょく」とつけているとか。『家なき鳥』の訳文とくらべて見劣りしちゃ悔しいじゃない。作家なんだから。

アカシア:会話も月並みだし、だらだら続いていくしね。

愁童:翻訳ものの文章にひっかかるのは、ある意味当然だけど、作家の文章が翻訳家に負けちゃあシャクじゃない。昔は、『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝作 草思社)みたいな文章は、たくさんあったよね。もうちょっといい日本語で書いてほしかったな。せっかくのおもしろいストーリーなんだから・・・。

アサギ:私は整合性って気になるんだけど、エンターテイメントはね、たとえば『旗本退屈男』なんか、洞窟に押し込められたときとは違う絢爛豪華な衣装を出てきたりするんだけど、気にならないのね。昔の映画っていい加減だったわよね。

トチ:いい加減さなんて気にならないほどのおもしろさっていうか、かえっていい加減さを楽しむってこともあるしね。

アカシア:そこまでおもしろがらせてくれれば、まあいいかってことになるんでしょうけど。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)